「そのことやけどな。おまえに言っとくことがあるんや」
「なに」
「あの部屋に来るんは、ほんまにわしだけか」
「どういうこと」
「鈍いやっちゃな」勝也は苛立ち、人差し指でカウンターを叩く。だがそう言われても、翔太にはとんと意味が解らない。
「うちには、めったに人は来ないよ。知ってると思うけど」
「ほんまやな」
なぜ勝也がこんなことを疑うのかもわからない。「ほんとだけど」と呟いて、翔太は湯呑をちびちびとすする。
「嘘ついとったらおまえ、承知せえへんぞ」
「嘘じゃないってば」
「それは前からやろな。わしが来る前からそんなんやったか」
「前は……」
考えながら、勝手に喋っていいものかと翔太は迷った。だがそうして言い淀む姿に対し、勝也は「なんや」と低い声で威圧する。「前は、なんや」と繰り返す。こんな場所で勝也が大声を出し始めるのは堪らないので、翔太は渋々思い出す。
「美沙子さんの付き合ってた人が、時々来てただけ」
「どんなやつや」
「背が高い、四十歳くらいの人。たまにうちに来てた」
美沙子の連れてくる男に、翔太はいい思い出がなかった。男がいれば美沙子は翔太を更にいじめたし、男は翔太を邪魔者扱いした。彼女はころころと付き合う男を変えていたが、誰も彼もそんな特徴は変わらなかった。
「そいつはどこいった」
「知らない。転勤だって言って、急に来なくなった。美沙子さん、騙されたってずっと怒ってた。いくらかお金貸してたんだって」
話しながら、翔太は薄々勘付いてきた。勝也は、美沙子の浮気を疑っているのだ。自分がこれから本格的に寄生しようとする相手が、他の男に逃げたりしないか心配しているのだ。
なんて嫌なやつだろう。促されるままに美沙子の男性遍歴を思い出す翔太は、逃げ出したくなる。だが、この卑怯で狡猾な小心者を選んだのも美沙子なのだ。盲目的に惚れ込み、キープするためなら実の甥も喜んで差し出す女。どっちもどっち。お互い様だろう。
「わしはな、おまえのためにも言うとんやぞ」
「俺のためって、なにが」
勝也は赤だしをすすり、翔太はかっぱ巻きを口にする。
「他の男が現れりゃあ、おまえも高校どころじゃないなるぞ。とっとと辞めて働けっつって中退させられるかもしれん。せっかく入ったっちゅうのにそんなん嫌やろが」
「そりゃあ……そうだけど」
しかし何と言われようと、三年後に勝也たちの分も働かされることを考えると明るい気分にはなれない。
「しけたガキやな。まあええわ。とにかく、今はそんなんおらんちゅうことでええんやな」
「少なくとも、俺は知らない」
「よっしゃ。もしそんなん出て来よったらな、さっさとわしに言えよ」
「言ったらどうなるの」
「それはまあ、そん時やな」
美沙子が浮気をしていれば、もしくは間に男が入ってきたら。勝也はどういう手を取るのだろう。
乱暴な男のことだ、最悪の場合、殺傷沙汰になりかねない。想像するだけで食欲がなくなる。もったいないので、無理矢理次の皿を手にする。サーモンの鮮やかな橙。
勝也は言いたいことを言って満足したらしい。しばらく二人は会話もせずにただ寿司を食べた。相変わらず混雑している店内は、店員の威勢の良い掛け声や、不機嫌な赤ん坊の泣き声、多くの笑い声や話し声でざわついている。
「翔太、おまえ部活は入るんか」
退屈したのか、先に沈黙を破ったのは勝也だった。
「多分入らない」
「ほんまにつまらんやつやのう」
「だって」金がないと言いかけて、虚しいだけなのでやめた。「興味あるところ、ないし」
「野球はやらへんのか」
「野球?」唐突な台詞に戸惑いながらも、「無理だよ」と首を振った。
「ボールが見えないから、球技自体苦手だし」
「そういえば、おまえ目見えへんのやったな」早くもビールを口にして赤ら顔の勝也は続ける。「野球やったら教えられたんやけどな」
「教えるって、どういうこと」
「わし、野球部やったんやで」
目を見開く翔太は、勝也が学生時代に野球をやっていたことを初めて知った。やがて中退した高校も、そもそもは野球部の推薦で入ったという。こんな自堕落な生活を送っている大人も、自分と同じ年頃には推薦されるほど熱心にスポーツに励んでいたのだ。驚くのも無理はない。
「野球部って、厳しくないの」
「そりゃあ厳しいわ。わしが入ったとこは甲子園の常連やったしな。どうや、意外やろ」
「びっくりした」
この男も、クラスメイトのように寒そうな坊主頭で走り込みをしていたのだろうか。先輩に命じられて球拾いをしたり、チームメイトと戦略を練ったり、そんな日常を送っていたというのか。
「どうして辞めたの」
「喧嘩や。部長の顔面ぶん殴ってな」
そこからの転落はあっという間だったと勝也は語った。退部だけではなく退学せざるを得なかったらしい。
「わしの気がもうちいと長けりゃあ、全部ちごうとったかもな」
返す言葉を見つけられないまま、知りたくなかったと翔太は思った。勝也には憎むべき嫌な人間のままでいて欲しかった。下手に同情できる余地を与えられたくなかった。だが、そんな嫌な人間にも後悔する心があることに、不思議と少しだけ安堵する。
「ルールぐらい覚えとけ」
そうしてろくにルールさえ知らない自分に語る口調が得意げで、そのくせ男の目がどこか遠くを見ているのを、翔太は黙って眺めた。
店を出た後コンビニに入ると、勝也はアイスを買ってくれた。翔太は食べたことのない、ハーゲンダッツのアイスを四つ。
「金返せないよ」翔太は言ったが、「かまへん」と勝也は手を振った。
「羽振りのええ仕事見つけたんや。ガキはんなもん気にすんなや」
曖昧に頷いて、翔太はレジ袋を受け取った。美沙子が喜ぶな。そう思った。
「なに」
「あの部屋に来るんは、ほんまにわしだけか」
「どういうこと」
「鈍いやっちゃな」勝也は苛立ち、人差し指でカウンターを叩く。だがそう言われても、翔太にはとんと意味が解らない。
「うちには、めったに人は来ないよ。知ってると思うけど」
「ほんまやな」
なぜ勝也がこんなことを疑うのかもわからない。「ほんとだけど」と呟いて、翔太は湯呑をちびちびとすする。
「嘘ついとったらおまえ、承知せえへんぞ」
「嘘じゃないってば」
「それは前からやろな。わしが来る前からそんなんやったか」
「前は……」
考えながら、勝手に喋っていいものかと翔太は迷った。だがそうして言い淀む姿に対し、勝也は「なんや」と低い声で威圧する。「前は、なんや」と繰り返す。こんな場所で勝也が大声を出し始めるのは堪らないので、翔太は渋々思い出す。
「美沙子さんの付き合ってた人が、時々来てただけ」
「どんなやつや」
「背が高い、四十歳くらいの人。たまにうちに来てた」
美沙子の連れてくる男に、翔太はいい思い出がなかった。男がいれば美沙子は翔太を更にいじめたし、男は翔太を邪魔者扱いした。彼女はころころと付き合う男を変えていたが、誰も彼もそんな特徴は変わらなかった。
「そいつはどこいった」
「知らない。転勤だって言って、急に来なくなった。美沙子さん、騙されたってずっと怒ってた。いくらかお金貸してたんだって」
話しながら、翔太は薄々勘付いてきた。勝也は、美沙子の浮気を疑っているのだ。自分がこれから本格的に寄生しようとする相手が、他の男に逃げたりしないか心配しているのだ。
なんて嫌なやつだろう。促されるままに美沙子の男性遍歴を思い出す翔太は、逃げ出したくなる。だが、この卑怯で狡猾な小心者を選んだのも美沙子なのだ。盲目的に惚れ込み、キープするためなら実の甥も喜んで差し出す女。どっちもどっち。お互い様だろう。
「わしはな、おまえのためにも言うとんやぞ」
「俺のためって、なにが」
勝也は赤だしをすすり、翔太はかっぱ巻きを口にする。
「他の男が現れりゃあ、おまえも高校どころじゃないなるぞ。とっとと辞めて働けっつって中退させられるかもしれん。せっかく入ったっちゅうのにそんなん嫌やろが」
「そりゃあ……そうだけど」
しかし何と言われようと、三年後に勝也たちの分も働かされることを考えると明るい気分にはなれない。
「しけたガキやな。まあええわ。とにかく、今はそんなんおらんちゅうことでええんやな」
「少なくとも、俺は知らない」
「よっしゃ。もしそんなん出て来よったらな、さっさとわしに言えよ」
「言ったらどうなるの」
「それはまあ、そん時やな」
美沙子が浮気をしていれば、もしくは間に男が入ってきたら。勝也はどういう手を取るのだろう。
乱暴な男のことだ、最悪の場合、殺傷沙汰になりかねない。想像するだけで食欲がなくなる。もったいないので、無理矢理次の皿を手にする。サーモンの鮮やかな橙。
勝也は言いたいことを言って満足したらしい。しばらく二人は会話もせずにただ寿司を食べた。相変わらず混雑している店内は、店員の威勢の良い掛け声や、不機嫌な赤ん坊の泣き声、多くの笑い声や話し声でざわついている。
「翔太、おまえ部活は入るんか」
退屈したのか、先に沈黙を破ったのは勝也だった。
「多分入らない」
「ほんまにつまらんやつやのう」
「だって」金がないと言いかけて、虚しいだけなのでやめた。「興味あるところ、ないし」
「野球はやらへんのか」
「野球?」唐突な台詞に戸惑いながらも、「無理だよ」と首を振った。
「ボールが見えないから、球技自体苦手だし」
「そういえば、おまえ目見えへんのやったな」早くもビールを口にして赤ら顔の勝也は続ける。「野球やったら教えられたんやけどな」
「教えるって、どういうこと」
「わし、野球部やったんやで」
目を見開く翔太は、勝也が学生時代に野球をやっていたことを初めて知った。やがて中退した高校も、そもそもは野球部の推薦で入ったという。こんな自堕落な生活を送っている大人も、自分と同じ年頃には推薦されるほど熱心にスポーツに励んでいたのだ。驚くのも無理はない。
「野球部って、厳しくないの」
「そりゃあ厳しいわ。わしが入ったとこは甲子園の常連やったしな。どうや、意外やろ」
「びっくりした」
この男も、クラスメイトのように寒そうな坊主頭で走り込みをしていたのだろうか。先輩に命じられて球拾いをしたり、チームメイトと戦略を練ったり、そんな日常を送っていたというのか。
「どうして辞めたの」
「喧嘩や。部長の顔面ぶん殴ってな」
そこからの転落はあっという間だったと勝也は語った。退部だけではなく退学せざるを得なかったらしい。
「わしの気がもうちいと長けりゃあ、全部ちごうとったかもな」
返す言葉を見つけられないまま、知りたくなかったと翔太は思った。勝也には憎むべき嫌な人間のままでいて欲しかった。下手に同情できる余地を与えられたくなかった。だが、そんな嫌な人間にも後悔する心があることに、不思議と少しだけ安堵する。
「ルールぐらい覚えとけ」
そうしてろくにルールさえ知らない自分に語る口調が得意げで、そのくせ男の目がどこか遠くを見ているのを、翔太は黙って眺めた。
店を出た後コンビニに入ると、勝也はアイスを買ってくれた。翔太は食べたことのない、ハーゲンダッツのアイスを四つ。
「金返せないよ」翔太は言ったが、「かまへん」と勝也は手を振った。
「羽振りのええ仕事見つけたんや。ガキはんなもん気にすんなや」
曖昧に頷いて、翔太はレジ袋を受け取った。美沙子が喜ぶな。そう思った。