名のない季節に咲く桜を見たことがある。冬と春の境界線。あの日、目の前に一瞬だけ訪れた、透明な季節に。
それは何よりも綺麗で、儚くて、美しかった。
長い、長い旅を始める。
桜の樹の幹に体を預けて、一冊のノートを開く。彼女の祈りが込められた、四季の証だ。そこに綴られた無数の願いに、心を通す。
頭上には満開の桜が咲き誇っている。甘やかな香りと、白い輝きをたたえて。
瞳を閉じて、記憶をたどる。春、夏、秋、冬。四季のようにくるくると魅せ方を変える彼女の表情がよみがえり、笑みがこぼれた。
柔らかな風が、枝葉を揺らした。春の風はとても心地が良くて、瞳を開く。
――もう、大丈夫だよ。
ノートに視線を落とすと、桜の花びらが一枚だけ挟まっていた。それを丁寧に手のひらに乗せて眺める。自分より、大切な人のことばかり考えていた彼女に届けと、空へ手を伸ばした。
波のさざめきのような風が吹き、花びらは舞う。
この色付けられた季節で、深く、深く息を吸い込む。
そして遠くへ運ばれていく花びらを目で追いながら、希望と祈りに満ちた言葉を紡いだ。
「――四季折々」
1
「四季折々!」
夏の陽射しを浴びながら高校への道を歩いていると、突き抜けるような声が聞こえた。
まるで意味のない言葉だ。それに、こんな暑いのに気にしている余裕もない。僕はそう解釈して、少し前まで歩けなかった足で歩みを進める。
「湊!」
僕の名前と共に、背後から両頬に冷たい何かが触れた。思わず手で振り払うと、その先には小さくて細い手。それを見て、ぞっとした。
「あっ、やっとこっち見た。無視はだめだよー無視は」
「心臓に悪いからやめてよ、水瀬」
「でも私の手、冷たくて気持ちいいでしょ? あ、もっかいどう?」
「どういう神経してるんだ、本当に」
両手を向けて迫ってくる水瀬に、僕は逃げるように背を向けて歩き出した。バタバタと走って僕の目の前に立ち塞がった水瀬は、まっすぐに微笑む。
「みんなには無神経ってたまに言われるー」
「入院してるときも言ったけど、僕に関わらないでくれよ。頼むから」
少し声が大きくなる。でも仕方がない。そうしないと、過去の記憶がよみがえってしまいそうだったから。
棘を纏った言葉に水瀬は笑う。生気が迸るその表情に、僕は怯んだ。
「関わるよ。そう決めたの。――よしっ! 行こっ!」
水瀬は大きな声でそう言って、僕の手を引く。
走り出す水瀬の手のひらは冷たくて、でも確かな温もりがあった。艶やかな黒髪がなびく。
景色がスローモーションに見えて、僕の呼吸音だけが大きく聴こえた。深いところまで連れて行かれそうな恐怖感。それでも僕は、走り出す脚を止めることができなかった。
「ほら早く走って!」
陽光に照らされた水瀬は笑う。無邪気に未来を信じているみたいに。僕は繋いだ手から、始まりの日のことを思い出していた。
すべては、終わりと始まりの季節。春に始まる。
*
中学の卒業式の日、僕は屋上から飛び降りた。死にたいとは思っていなかったし、高尚な理由もなかった。ただ、向こう側に行ける予感だけはあった。
僕の逃避行は結局、両脚を骨折しただけに終わった。飛び降りてから一か月。リハビリをしているときだけは、その疲労から色々なことを忘れられた。
開け放たれた窓から、ふわりと桜の花びらが迷い込んでくる。僕は布団に落ちた花びらを乱暴に手で払った。
不意に、病室の扉をリズミカルにノックする音が聞こえる。扉の前の主は、僕の了承を得る前に部屋へと入ってきた。
「こんにちは! 篠宮湊くんいますか? あっ、いた! 返事くらいしてよー」
「……誰?」
「一人部屋すごーっ。へっ、金持ちめ」
質問を無視するその女の子を、僕は無遠慮に眺める。
僕の視線を飲み込むほどの好奇心を秘めた大きな瞳。自然に上がった口角や堂々とした立ち振る舞いから、きっと人に好かれるんだろうなと思った。
彼女はようやく僕の質問に答える。
「初めまして。同じクラスの水瀬詠です! よろしくね、篠宮くん」
「ああ、そう」
「元気ないなぁ。でも元気出るもの持ってきたよ、じゃーん!」
そう言って彼女は、リュックからリンゴと一枚の色紙を取り出した。
「頑張れ色紙、クラスのみんなで書いたんだよ。ほらこれ、私の字。けっこう良いこと書いてると思う」
「知らない奴にこんなことしなくても良かったのに」
「ふふ、喜んでくれたみたいで良かった」
「いやそういう意味じゃ……」
言いかけて、口をつぐむ。何を言ってもポジティブ変換されるだけのような気がした。僕は彼女から色紙とリンゴを受け取る。
「わざわざ遠いところまで悪かった。それじゃあ、さようなら」
「え、まだ帰らないよ? リンゴ食べてから帰るから。それ貸してっ」
手からリンゴをひったくり、彼女は「ナイフはどこかなぁ」と戸棚を物色し始める。
そんな危険なもの、ここにあるはずがない。僕は辺りの引き出しを開け始めた彼女に言う。
「ナイフなんてここにはないよ。リンゴもいらないから、もう帰ってよ」
「えー? 一緒に食べようよ。ほんとはナイフも持って来てるし」
まるで意図が読めない彼女の言動に、僕は不快感を覚える。
「……じゃあ、どうして引き出し漁ったの?」
「だって、男の子の病室に来たら、引き出し漁るのがマナーでしょ?」
「タブーって言うんだよ、それは」
無神経な発言に半ば引き気味に答えると、彼女は手を叩いて笑う。何が面白いんだ。
「はーおっかしー。リンゴ剥く握力なくなるからやめてよ」
返答するのも面倒くさくなって、僕は風の吹き込む窓の外を眺める。
「お見舞いと言えばやっぱリンゴだよね~。まだ春だけど」
彼女はその瑞々しいリンゴを綺麗に剥いて、美味しそうに食べ始めた。
「空でも飛びたかったの?」
突然の核心を抉る言葉に、僕は驚いて振り向く。動揺を悟られないように渇いた唇を強く結んだ。しかしそんな僕とは裏腹に、彼女は何でもないようにリンゴを咀嚼していた。
その様子がなぜか癇に障った僕は、変な意地を張って何でもないように答えた。
「別に。少し、死にたくなっただけ」
「そっかぁ。落ちる瞬間は、怖かった?」
「いいや。失敗したなって思った」
すると彼女は、真面目な表情で僕の顔を覗き込んできた。
「篠宮くんが死んじゃったら、大切な人たちみんな悲しむよ?」
「……いないよ、そんなの。僕自身生きるのが億劫なんだ。こんな命、消えてなくなっても別に誰も困らない」
それに、僕にとって大切な人は、すでに喪われてしまった。もう、どうでもいい。
「っていうか、君には関係な――」
乾いた音が、病室に響いた。
僕は振り向きざまに、弾くように頬を叩かれた。微かに、左の頬が痛む。彼女を見ると、笑顔で手首のスナップを利かせて素振りをしていた。目は笑っていない。
「ごめーん。なーんか、つい、思わず?」
「だって、明日の約束もされてない命なんかに、意味はな――むぐっ」
食べかけのリンゴを無理やり口に突っ込まれる。禁断の甘味が口の中に広がった。
「もう、暗すぎだよ。ね、脚の怪我、まだ痛い?」
リンゴを咀嚼しながら、僕は包帯が巻かれた両脚を見つめる。
「リンゴ、美味しい?」
時間をかけて飲み込んで、僕は小さくつぶやく。
「……甘すぎるよ」
「私のことって、どう思う?」
「かなりウザい同級生」
突き放すように言うと、彼女は「それは間違いない。みんなにも言われるー」と笑った。
「ねぇ、こんな何でもない話で笑うだけで十分だと思わない? 生きる意味なんてさ」
「……そう、幸せなんだね」
「うん、幸せだよ。幸せ。まあもうすぐ死んじゃうけどねー」
何を言っているのかわからず、眉をひそめる。彼女も僕と同じことをする、というわけではないだろう。
「死季病って、知ってる? 私その病気でさ、もうすぐ死ぬの。見えないでしょー」
頭が、真っ白になる。視界がぐらつく。息が、心が、苦しい。
――死季病……死季病、だって?
それは、僕からすべてを奪ったものだ。勇気も、自信も、大切な人も、何もかも。
暢気な声で、彼女は続ける。
「明日の約束もされてない命に意味はない、かぁ。でもさ――」
彼女は息を吸い込み、変わらず明るい声で。
「余命を聞いたときに思ったんだ。私は余命っていう明日の命が約束されたから、未来がぐっと限られる。でもあなたは違う。約束されてない命の先には、無数の未来が広がってる。その未来の中に、命の意味はあるんだよ」
僕は暴れる心臓をやっとの思いで押さえつけ、口を開く。
「それなら、その限られた命を、思うように使えばいい。もう僕に関わらないでくれ」
「お、言ったね?」
嬉しそうに彼女がリュックの中から取り出したのは、B5サイズの一冊のノート。表紙には日本の綺麗な四季が描かれていた。
「四季折々」
「四季、折々?」
「うん。このノート、死ぬまでにやりたいことが書いてるんだ。篠宮くん……湊って呼んでいい? ――湊。私の願いを叶えるのを、手伝ってほしい」
「……無理だ」
そんなこと、やりたくもない。過去の映像がノイズのように頭に流れては消える。
僕の拒絶に、彼女は慌てて言葉を付け足す。
「もちろん手伝ってもらうだけじゃなくてさ。私の願いを湊に手伝ってもらう代わりに、湊も四季折々に願いを書いて、私が手伝うの。そうしたら――」
「――頼むからっ! 僕を巻き込まないでくれ……もう、帰れよ」
突き放すように僕は叫ぶ。彼女は驚いた顔で黙ったあと、唇を尖らせて「楽しそうだと思ったのになぁ。ざーんねん」とつぶやいた。
リンゴのひとかけらを口に放り込んだ彼女は、帰り支度を始めた。そして思い出したように僕の顔を覗き、頬に触れてくる。
「叩いちゃってごめんね」
「……いや」
まだ温かくて、柔らかい手のひら。関係ないはずの温もりに、僕は安堵してしまう。
病室の扉へ手を掛けた彼女に、僕は呼びかけた。
「なぁ、水瀬。君は今……どの季節にいるんだ?」
「――秋だから、今は元気。でも七月には、冬が来る」
その現実に僕は何も言えず、うつむくことしかできなかった。
「また来るね」
言い残して、彼女は病室から出て行く。テーブルに残されたリンゴは腐ったように茶色く変色していた。
僕はまだ残る彼女の手のひらの温もりを過去へ重ねて、つぶやく。
「――文月」
2
死季病は、四季を巡るように緩やかに進行していき、最期は必ず死に至る病だ。指定難病に認められていて、有効な治療法はない。
発症から死に至るまでは患者によって異なり、最短で一年。最長で五年。患者は【春期】、【夏期】、【秋期】、【冬期】の四つのフェーズで病が進行していく。
春期は主に倦怠感や頭痛、貧血、嘔吐などの体調不良が長期間続く。これで精神を病んでしまう患者もいて、春期の長さ次第で大体の余命が決まる。
夏期は初期から後期、末期症状へ進行していくにつれて体温が上昇していき、最終的には四〇度以上になる。末期には意識障害、幻覚や幻聴。循環器系の病気が併発して、最悪の場合、多臓器不全を引き起こして死に至る。
秋期は、春期と夏期に体を蝕んでいた症状が寛解し、健常者と同じ状態になる。でもそれは喜ばしくなんてない。死季病の中では最も期間が短いフェーズで、死までもう時間が残されていないことを知らせる合図でもある。
忘れようと努めていた死季病の詳細は、今でも克明に思い出せる。だから僕は、秋を終えた水瀬がこれから辿る冬を、知っている。
冬期は――。
「湊ー! 生きてるかー?」
記憶の檻から僕を連れ戻したのは、少しハスキーな声の男子生徒。顔を上げると、茶髪をセットした猫目の少年が、犬のような人懐っこい笑顔で僕を見ていた。
「湊くん、体調悪いの? 大丈夫?」
彼の隣に視線を移すと、垂れ目で柔らかな雰囲気の少女が心配そうに僕を見ていた。
七草颯斗と佐伯なずな。水瀬が僕の病室に何度も連れて来たクラスメイトだ。水瀬とは中学からの友達らしい。訊いてもいないのにそう教えられた。
僕の隣では水瀬が大口を開けて白米を頬張っている。昼休みになった途端、まるでこの形が当たり前かのように机をセッティングされた。
広げた弁当を食べながらすでにグループが明確に分かれた教室内を眺めていると、知らない女子生徒に手を振られた。居心地が悪くなった僕はうつむく。
七月。今日は高校生になって初めての登校日だ。水瀬が何を言ったのか知らないけど、なぜか僕は会ったこともないクラスメイトから友好的に接された。本当に余計なことをしてくれた。
僕は佐伯に「大丈夫」とだけ答える。
「さては授業わかんなくて焦ってたんでしょー。そんな湊には頭が良くなるお魚をあげよう」
「いらんよ」
弁当箱に入れられた鮭の切り身を返す。その不毛なやり取りの間にも、七草と佐伯は僕に話題を振った。様々な問いから、一言の答えを返す。それ以上に会話を続ける意味もない。そうやってこの三人に出会ってからの三か月を乗り切ってきた。
でもそんな僕に嫌な顔一つしてくれない二人は、やがて担任に呼ばれて席を立った。
「どうして独りになろうとするの?」
不意に放たれた水瀬の言葉に責めるような気配はなく、不思議なことを純粋に尋ねる子供のようだった。僕は不純に答える。
「ただ人と話すのが苦手なんだよ」
「ふぅん、私とはいっぱい話すくせに。あ、もしかして心開いてくれた?」
「まさか。それは絶対にありえない」
どうやったらそんな結論に行き着くんだ。水瀬は頬を膨らませて不満を漏らした。
「三か月も経つのに強情だなぁ」
「三か月も経つから、そろそろ僕が嫌になってきただろ?」
「まさか。それは絶対にありえない」
僕の真似をして笑った水瀬はリュックから四季折々を取り出し、秘密の作戦をするみたいなひそひそ声で訊いてきた。
「ねぇ。それより四季折々に書く願い事、考えた?」
「何度も言ってるけどやらないよ。それを僕がやる意味も理由もない」
「はーぁ、相変わらず青春不足だなー」
聞き慣れない言葉が引っかかり、僕は「青春不足?」と尋ねる。
「後悔しないために行動したすべてが青春の本質だって、私は思うんだ。湊みたいに行動の意味を考えるのは良いことだけど、それだけだと動けないまま後悔しちゃうよ」
完全に否定しきれない言葉だ。二年前のあの日までは僕もそう信じていた。意味なんて考えずに、後悔しないようにただひたすら突っ走っていた。
今でも、もう少し何かできることがあったんじゃないかと後悔している。二年前に終わったはずのあの四季を、もう一度巡りたいと願ってしまうくらいに。
僕は水瀬の言葉に、曖昧にうなずいた。
「……確かに、そうなのかもしれないね」
「そうだよ。行動の意味なんて、私が後から一緒に考えてあげる」
机上の四季折々を、僕は見つめる。
これで僕の後悔は消えるだろうか。きっと消えはしないし、過去の四季は取り戻せない。でも、あの日々が僕にとっての青春だったと言うのなら――。
僕の手は四季折々に伸びていた。水瀬が「やった!」と嬉しそうにバタバタしていたけど、僕は罪悪感からその顔を直視できなかった。
「じゃあ放課後、早速行動しよう!」
そうして僕たちは小指を絡ませる。水瀬は未来で後悔をしないように。僕は過去の後悔を少しでも消せるように。ゆっくりと、小指を上下させた。
「四季折々」
青春不足を解消するために僕たちが訪れたのは、駅直結のショッピングモール。入院していた三か月の間に、前にあった店は読み方が難しい雑貨屋に変わっていた。けど不思議なことに今までどんな店があったかは思い出せない。
軽い浦島状態を味わっていると、水瀬はショップの店頭で足を止めてシャツを手に取った。
「このシャツ可愛い~! どう、似合う?」
「水瀬より地味な僕に訊かれても」
「あ、そういうのいいから」
「ああ、うん。似合うよ。いや、さすが」
水瀬は本当に不愉快そうな顔をした。ゴミを見るような目だ。僕は乱暴に手を引かれてショップ内に連行される。
服を数着持って水瀬は試着室に入った。僕は試着室の前に立たされて、店員さんや他のお客さんから生温かい視線を浴びる。僕が何をしたというんだろう。
数分後、試着室のカーテンが開く。チェックのワイドパンツと白のTシャツというカジュアルな格好だ。
「これなんか、どう?」
「いいね。すごく良いと思う」
「はい次ー!」
どうしてだよ、褒めただろ。
何かが気に入らなかったようで、水瀬は試着室に戻る。その後も手を替え品を替え店を変え、ファッションショーは続いた。僕はその度に褒めて、最終的には手まで叩いた。
「次はほんと、ほんとに自信あるから!」
ムキになって試着室に入った水瀬にうんざりする。僕はまざまざと思い知らされていた。こんなことをしても決して後悔は消えない。水瀬への罪悪感が募っていくだけだ。
こんなことはこれっきりにしようと考えたところで、カーテンが開かれた。
「……湊、似合う?」
――湊、似合う?
過去の声と重なる。いつか恥ずかしくて素直に言えなかった言葉は、自然と口から出た。
「うん、とても」
「……そっか。ふふ、じゃあ買ってこよっかなぁ」
水瀬は恥ずかしそうにしながら、その服を買いに行った。僕は嬉しげな後ろ姿を見送ってから店外へ出る。胸に手を当てて、さっき確かに甦った情景に想いを馳せた。
後悔は少しだけ軽くなっていた。でも水瀬に抱いた罪悪感は、僕の心に重く圧し掛かった。
ショップを後にした僕たちは、書店へ足を運んだ。水瀬の好きな小説家の新刊が発売したらしい。積まれていた小説をめくると、ふわっと紙とインクの香りが漂う。入院してから本の類は読む気にならなかったから、こうして本に囲まれるのは久しぶりだ。
僕の隣では、新刊を両手で抱きしめた水瀬が饒舌に喋り続けている。
「でね、綴真桔先生はすごいんだよ! 希望と絶望の間を儚く踊ってるみたいなストーリーラインに、一瞬で心を絡め取る綺麗な文章! ってあれ、聞いてる?」
「聞いてるよ。人気らしいね、その人」
「そうなの! あ、でもミーハーってわけじゃないからね。ずっとファンなんだぁ……どんな人なんだろー」
うっとりしている水瀬を無視して、僕はワゴンの中の安く売り出された小説を漁る。手に取った小説をパラパラとめくり、戻す。同じことを繰り返しても、やっぱり見つからなかった。
「誰の小説探してるの?」
「わからない。タイトルもペンネームも知らない。知ってるのは物語の内容と――きっとその小説は売れていないってことだけ」
水瀬も僕と同じくワゴンの中の小説をめくり「何か、わかるなぁ」とつぶやいた。
「私も小学生の時に読んだ、あれ児童書だったのかな? その内容とかフレーズとか、ドキドキしたことはちゃんと憶えてるのにタイトルも作者も憶えてない本、あったもん」
「小学生のときなんて、みんなそんなもんだよ」
「かもね。……湊もそんな感じ?」
「僕は二年前からずっと、本屋に来るときは探してるかな」
「へーぇ! 大好きなんだね、その小説家さんのこと」
水瀬への返答に窮する。別に大好きだから探しているわけじゃない。僕は水瀬とは違い、その作者自身を知っているから。考えをまとめるためにワゴンの小説を漁る。何もかもを喪ったあの日。僕を暗闇から掬い上げてくれたあの人に対する適切な言葉は、すぐに出た。
「恩人なのかもしれない。だから探してる」
「そうなんだ……とても素敵だね。でも私の綴先生愛も負けないよ! 湊も読んでみない?」
綴真桔の新刊を顔面に押し付けられて、思わず受け取ってしまう。前から思っていたけど、水瀬は色々な距離感がおかしい。
すると水瀬は妙案が浮かんだのか、人差し指を立てた。本当にそんなポーズをするやつ、初めて見た。
「そうだ! 湊が書く最初の四季折々、『恩人の小説家さんの作品を探し当てる』でいいんじゃない? 私も一緒に探したい!」
キラキラした瞳でそう言ってくる水瀬。でも未来への希望である四季折々に僕が書ける願い事なんてないし、書きたくもなかった。その瞳から目を逸らして手渡された小説を開く。
瞬間、僕は水瀬の提案を断る口実を得た。
「いいや、もうその必要はなくなったよ」
そうして僕は、すでに読み終えていたその新刊を閉じた。
その後も色々な店に行った。水瀬は生活雑貨店で高額なビーズクッションを買うか一〇分くらい本気で悩んでいたが、結局手が出ずに三〇〇〇ピースのジグソーパズルを買った。
歩き疲れた僕らはおしゃれなフローズンドリンクを買って、モール内の中庭にある休憩スペースに移動した。屋外ではあるけれど、庇とミストが設置されていて涼しい。
水瀬がベンチに深く背を預けてしゃがれ声を出す。
「ああぁぁ、生き返るぅぅ」
「およそ女子から出た声とは思えないけど、わかる」
「ふふん。女の子が可愛い声を出すときなんて限られているのだよ、湊くん」
「なぜイケボ?」
何かまだテンションが高いな。扱いにくいから早く普通に戻ってほしい。そう願ってドリンクを口に運ぶと、水瀬はリュックから四季折々を取り出して線を引き始めた。
願いの中身が目に入る。【湊を放課後に連れ回す】【湊に褒めてもらった服を買う】【綴先生の新刊を買う(楽しみ!)】【ビーズクッションを買う(高っ! また今度買う!)】【ジグソーパズルを買う】。
「そんなに気になるなら、もっと見る?」
水瀬はベンチの上をスライドして、僕の隣にぴったりとくっついてきた。
素肌が触れて、心臓が跳ねる。水瀬の肌は夏とは思えないほど冷たい。それは僕の心の温度を根こそぎ奪い、さっき昼休みに結んだ小指を解かせるには十分すぎる冷たさがあった。
水瀬はそんな不安定な僕の隣で嬉しそうに話し始める。
「願いは春夏秋冬の季節ごとに分かれてて。春は叶え終わったから、今は夏。それで、ほら。私の願いは右ページに書いてるから、湊の願いは左ページに書いてね! 私も手伝うからさ」
「……僕以外にも、叶えてくれるやつはいるだろ」
自分で四季折々を利用しておいて、僕は怖くなっていた。このまま時が進めば水瀬は死ぬ。死んでしまうんだ。解っていたはずだ。過去を取り戻せないことなんて。
水瀬は僕の目を覗き込んで微笑んだ。
「ダメなんだよ、湊じゃなきゃ」
「どうして?」
「湊にはきっと、四季折々が必要だから」
「……意味がわからないよ」
そう言いつつも、僕は何となく理解できていた。四季折々は未来への希望で。自殺未遂をした僕がそこに願いを書くということは、それだけで大きな意味がある。
水瀬はすくっと立ち上がり僕の方へと体を向けた。
「それに、ここまで来て細かいこと言わない! この青春不足者めっ!」
「痛ッ!」
閉じた四季折々で僕は頭を刺された。おい平面で叩け。今の角だぞ。
「あっははっ、痛そう」
「怖……」
「行こっ、湊! もう時間ないよ!」
ベンチから立ち上がって後を追うと、買い物袋をガサガサ揺らして歩いていた水瀬が漫画みたいに派手に転んだ。散らばった袋の中身を拾い集めた僕は、水瀬に駆け寄る。
「おい大丈夫か、水瀬?」
「うぅ、綴先生の小説が……」
「ちゃんと拾ったよ。立てるか?」
僕は水瀬を支え起こしてベンチに座らせた。そして、ふと気付く。
「水瀬、膝から血が出てる」
「え? あ、ほんとだー。あはは」
「……笑い話で済まないのは、君が一番よく知ってるだろ。絆創膏とか買ってくる」
死季病患者にとっては少しの出血でも命を脅かすくらい危険だ。しかし水瀬はそれでもへらへらと「大げさすぎだよー」と笑う。心配させまいとしているのが目に見えてわかって、余計に痛々しく思えた。
僕は水瀬の顔を真剣に見つめる。いや、もしかすると、その影にいる彼女のことを見つめていたのかもしれない。
「……そんな顔しないでよ」
初めて気まずそうな表情で水瀬はつぶやく。僕はため息をついて立ちあがった。
近くのドラッグストアで絆創膏と消毒液を買い、患部を診る。出血は止まっていて、僕は胸を撫で下ろした。水瀬はなぜかにやにやしていて、さっきまでのしおらしい態度が嘘みたいだ。
「何だよ」
「いいや~? 優しいなぁ~って思っただけだよ。うふふ――って痛っだぁ!」
僕は消毒液を水瀬の患部に噴射した。いい加減、その顔に腹が立っていた。
「う、うぅ……ひどい」
「よし、これで終わり、っと」
絆創膏を貼った患部を叩いて治療を終えると、水瀬は痛みに叫びながら僕の頭を叩いた。「人のすることじゃない!」と怒られたけど、僕もいま頭を思い切り叩かれたのでお互い様だ。
中庭に、涼やかな風が吹く。水瀬は急に静かになり、風の流れる先を見つめていた。
遠くから、ゆったりとしたメロディーを響かせ、町が帰る時間を告げてくる。そのメロディーに隠れて黙り込む僕に、水瀬は微笑んだ。
「じゃあ、今日はもう帰ろっか」
陽は沈みかけてもじりじりと肌を灼いてきたけれど、何でもない話をしていたらいつの間にか分かれ道に差し掛かっていた。僕は別れを告げて、逃げるように歩き出す。
「ちょっと待って湊。手、出して」
その要求に恐る恐る手を伸ばすと、水瀬は突然、握手をしてきた。手のひらに何か固いものを感じる。
「えっと。これは、何?」
「今日のお礼だよ!」
お金かな、と邪な考えを浮かべて握手を解く。僕の手のひらに残ったのはもちろんお金ではなく、一つのUSBメモリ。
「――四季折々」
その言葉で空気が変わる。一種の神聖な儀式のようだ、と僕は思う。
「私ね、小説家になりたいんだ。だから死ぬ前にすべてを籠めた一冊を書き上げて世に送り出すのが、私の夢」
僕は渡されたUSBメモリを見つめて、これは水瀬の夢の結晶なんだと理解する。
「もし湊の四季折々がまだ見つからないなら、そこに入ってる私の小説を読んで欲しいの」
「僕が?」
「うん。それでね、できたら感想ももらえたら嬉しいな。それが、私の次の四季折々」
水瀬はリュックの中から、四季折々を僕に手渡してくる。
「とりあえず四季折々も湊が持ってて。あれ欲しいとか。どんなに些細なことでも書いていいからね」
僕は改めて思う。この二つは僕にはとてつもなく重い。到底、背負える物じゃない。
小説を読むことも、死に行く水瀬を突き放すことも、四季折々を突っ返すことだって、僕にはできる。選択できるんだ。それでも僕は水瀬詠のことを完全に拒絶できなかった。
理由は、最初からわかっていた。
僕が過去に巡った四季から抜け出せないからだ。あの幸せな四季を求めてなぞってしまうからだ。そして僕自身それを望んでいる。どうしても水瀬と文月の境遇が重なってしまうから、僕は彼女を拒絶することができない。
僕が過去に巡った文月との四季を守るために、水瀬がこれから巡る四季を利用する。
ひどい話だ、と僕は心の中で笑う。泣いても罪は赦されないのだから、笑うしかない。
「まーた青春不足が顔に出てるぞー?」
僕の顔を楽しそうに覗き込んで、水瀬は笑う。だからせめて、今の僕にできるだけの誠意を示そうと思った。
「読むよ、水瀬の小説。それと僕の四季折々も、難しいけど考えておく」
「えっ! ほ、ほんとに!? やったっ!」
水瀬の屈託のない喜びように、僕の胸がひどく軋んだ。
「なるべく早く読んで、感想聞かせてね! 待ってる!」
「うん、わかったよ」
「じゃあ、私こっちだから。また学校でね! バイバイ、湊!」
走り去って行く水瀬を見送る。途中で子どもみたいに大きく手を振ってくるその姿は、夕景に照らされて、淡く輝いて見えた。
*
それは決して、劇的な出会いではなかった。
中学に入学して二週間が経った日の帰り道。僕は文月莉奈と出会った。
この日、僕は一人で流れの緩やかな川が見渡せる河川敷まで来ていた。順調に友達ができて安心したから、少しだけ一人になりたくなったのかもしれない。
まだ肌寒い、でも気持ちの良い放課後。ピンク色の空は魔女が施した魔法のようで、そこから届く光が水面に反射している。
その光景をただ眺めていると、不意にシャッター音が聴こえた。次いで水面が揺れて不規則な波を作ったところで、僕は気になって視線を動かす。
カメラを胸元に下ろした少女と目が合う。なぜかこの時期に膝まで川の中に浸かっていた。
文月莉奈。
すぐに名前を思い出せたのは、僕や周りのクラスメイトが休み時間に友達と談笑しているなか、文月だけは独りで椅子に座って外を眺めていたからだ。少なくとも僕には明らかに住んでいる世界が違うように見えた。
文月は興味がなさそうに僕から目を逸らして、また遠くの写真を撮り始める。
綺麗な横顔だな、と僕は思う。カメラの方向には何の変哲もない鉄塔があるだけだ。それに比べたら、文月の横顔の方が何倍も価値があるだろう。
肩までの黒髪は癖で毛先がカールしている。猫目であまり表情も動かないから、それこそ本当の猫のように警戒心が強く見えた。制服から緩やかに伸びる細い肢体は全体的に白く、ふとした拍子にどこかに消えてしまいそうなほど儚い。
「良い風景は、撮れた?」
今日は一人で居たかったはずなのに、気付くと僕は川縁まで近付き問いかけていた。なぜだか、文月が放つ妙な引力に惹き付けられたのだ。
文月はゆっくりと振り向き僕の顔を捉えた。端正な顔立ち。さながら猫のようだ。
「あなた、誰?」
「一応クラスメイトなんだけどなあ……篠宮湊です。よろしくね、文月莉奈さん」
「ええ」
孤独な声だ、と僕は思う。正確に言えば、孤独に慣れてしまった声。どうしてそう思ったのかはわからないけれど、文月はどこか悲しそうに見えた。
僕は遠くの鉄塔をちらと見て、言葉を続ける。
「それで、どうして鉄塔を撮っていたの?」
「そうね……思い出を、閉じ込めるためかしら」
「思い出、か」
文月の表情はなぜか暗い。気になった僕は純粋に問う。
「それは、楽しい思い出なの?」
「え……?」
驚いた表情を見せた文月は体ごと僕へと向き直る――瞬間、ぐらりと体勢を崩した。
水面へ吸い込まれそうな文月にとっさに手を伸ばす。ギリギリのところで、僕は文月の右手を掴んだ。嫌に熱っぽい手のひらだった。
幸い、僕の両脚が水浸しになるだけで文月を助けることができたのだから良かった。
「文月さん。とりあえず、岸に上がろっか」
「……ありがとう」
「あはは、どういたしまして」
二人で川の中を歩いて岸まで上がると、文月が「ねぇ」と声を掛けてきた。
振り向いて首を傾げると、文月は僕と繋いだままの手を持ち上げて困ったように言った。
「もう転ばないから、大丈夫よ?」
「うわっ! ご、ごめん!」
繋いだままだった手をぱっと離す。しかしなぜか文月の手の熱と感触は離れない。むしろ全身に広がっていくようだった。
僕の慌てぶりに文月は口元を押さえてくすくすと笑う。初めて見た文月の笑顔に儚さはなく、どこにでもいる普通の女の子に見えた。
「そんなに慌てなくてもいいのに。……ふふ、顔が真っ赤よ?」
「自分でもわかってるよ。だから、あんまり見ないで」
文月は何も言わずに僕に背を向ける。そして近くにあったリュックからタオルを取り出し、濡れた脚を前方へと伸ばしてゆっくりと拭き始めた。
川の冷たさで少し赤くなった脚の水滴、指の間に付いた砂利を綺麗に拭き取った文月は、わずかに僕を振り返ってつぶやく。
「それで、どうしてそんなことを訊いたの?」
思い出を閉じ込めるように写真を撮っていた文月。それに僕が思ったことなんて、一つだ。
「文月さんが悲しそうに見えたから。思い出を閉じ込めるなら、それが楽しいものだといいなって。楽しい思い出があれば、明日はもっと楽しくなるでしょ?」
月並みだけど、これが一般的な考え方じゃないかと思った。
文月はソックスとローファーを履いてこちらに向き直る。そして僕をゆっくりと見据えて、首を振った。
「少し違うわ。初めから悲しいものなんて撮ってない。楽しくて、綺麗で、幸せなものを撮っているの」
「それなら」
「――だから、悲しいのよ」
僕は首を傾げたまま、思ったことをそのまま口にする。
「よく、わからないよ」
「……そう、幸せなのね」
冷たい声。濃密な孤独が、文月を取り囲んだような気がした。僕はまるで時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥る。目の前にはもう、さっきまで笑っていた文月はどこにもいない。
「じゃあ、さようなら」
文月はリュックを背負って歩き出す。何が彼女を孤独にさせるのか僕にはわからなかった。だから文月は僕とは正反対の人間なんだと決め付けて、これまで通り生きて行く。
それは違うよな、と僕は首を振った。
「今、幸せじゃなくなったよ」
僕は文月を追いかけて向かい合う。夕景に照らされた彼女の輪郭が輝いた。
「文月さんの言う通り、僕は幸せだと思う。でも文月さんみたいに悲しんでる人を無視してまで幸せでいたくないよ」
文月は目を見開く。綺麗な濃褐色の瞳だ。僕が返答を待っていると、やがて目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
「えっ文月さん!? 何で泣くの? え、えーっと、ハンカチ……」
慌てて制服のポケットをまさぐっても、そこには何もなかった。くっ、恰好がつかない。
文月はそんな僕の情けない姿を見て、涙を流しながら微笑む。その濡れた瞳と同い年とは思えない艶のある表情に、なぜか僕の胸は痛んだ。
少し落ち着いた様子の文月は、僕の顔を覗き込んで試すように言った。
「憶えておいて。女の子の涙を拭う、ハンカチなんかよりもずっと素敵なアイテム」
「へぇ。それって、どんな?」
文月は涙の雫が残る綺麗な瞳で、じっと僕を見つめた。
「きっとまた、泣いてしまうときがくると思うわ。だから、答え合わせはそのときに」
「……わかった。よく考えておくよ」
「ええ、楽しみにしてる」
微笑んだその目にもう涙は残っていなかった。冷たい春風に攫われた文月の涙を、今度は僕が。約束とも言えないおかしい何か。そんな日は来るだろうか。
すると、ふとした疑問が僕の頭に浮かぶ。僕は文月とこれからも一緒に居ていいのか、と。しかしその疑問は言葉にする前に解消された。
文月は小走りで河川敷の斜面を上ると、くるりとこちらに振り返った。
「篠宮くん。今度、あなたを被写体にしてもいい?」
「もちろん。文月さんが悲しくならない、幸せな写真を撮ってよ」
「そうね……。じゃあまた会いましょう、篠宮くん。さようなら」
「うん、また明日!」
夕陽と共に去った文月に大きく手を振る。まるで子どもみたいだけど、孤独な彼女が僕を認識して、名前を呼んでくれたことが、ただ嬉しかった。
その場に残されたのは、僕と、波音のさざめきと、群青色の空だけだった。
三年前の春。僕たちの淡い四季は確かに動き出し、そして色濃く染められていった。
しかしその約一年半後、文月莉奈は死んだ。
死季に侵されていた最中、自身の物語を未完成のまま、終わらせた。
そして僕はいまだに、文月と巡った四季にひとり、取り残されている。
3
懐かしい夢を見ていた。その浮遊感から現実へと叩きつけられた衝撃で僕は目を覚ました。夢から醒めるときはいつもこうだ。体がひどく汗ばんでいる。
スマホを確認すると、すでに夜の八時を回っていた。夕食を取ったあとに水瀬の小説を読んでいたら眠ってしまったみたいだ。僕は立ち上がり、リビングへ続く扉を開く。
デスクに向かって万年筆を走らせていた女性が、僕の方に振り返る。背中までの艶のある黒髪がさらさらとなびいた。
「おや、おはよう湊。よく眠れたかい?」
「おはようございます、自称さん」
「湊、顔を洗って来なさい」
「はあ……」
そんなことを言うなんて珍しい。僕は不思議に思いながらも、洗面所へと向かった。
「……なるほど、ひどい顔だ」
鏡に映った僕の顔には、涙で濡れた跡がくっきりと残っていた。僕はその弱々しい跡を蛇口から流れ出る水で洗い流した。
僕が戻るとすでにケーキが用意されていた。自称さんが飲んでいるウイスキーの香りがリビングに漂っている。ウイスキーってケーキに合うのだろうか。
自称さんは切れ長な目で僕を見つめ、印刷した水瀬の小説を掲げて妖しく笑った。
「お友達でも出来たのか?」
「違いますよ。それと勝手に読まないでください」
「そうか、それは残念だ」
本当に残念だなんて思っていない口調だ。自称さんは水瀬の小説をテーブルに置いた。僕は自称さんの白い横顔に問いかける。
「どう思いましたか? その小説」
「個人的には好きだよ。繊細で、とても強い意志を感じる」
「そうですか。さすが小説家。いや、綴真桔先生」
彼女の正体を僕は二年越しに突き付ける。自称さんは自分のことは何も話さない。名前も。年齢も。何もかも。
職業は机の上の小説原稿からわかった。でも僕は怪しくなって『自称小説家さん』なんて不名誉な名前を付けてしまった。
「なぜ今さら私の正体を? 私のことが好きなのか?」
「水瀬詠。その小説を書いた同級生が、自称さんの大ファンなんですよ」
「なるほど。確かに文体に綴真桔が混ざっていたな。もったいない」
笑いながら、自称さんはケーキの小箱を開ける。中身はショートケーキとチョコケーキだ。自称さんは両方のケーキを眺め、思案顔でつぶやいた。
「……両方食べたいな」
「え、ショートケーキ食べたいって言ったの、自称さんじゃないですか」
「私はチョコも好きだ。半分おくれよ、湊」
子どもみたいな言い分に僕はため息をつく。互いのケーキを縦半分に切って皿に乗せると、自称さんは満足そうにオセロのような配色のケーキを頬張り始めた。
「素直な子は好きだよ。うん、美味しいな」
「今度からは二つずつ買ってきます。まったく」
自称さんが皿の上にフォークを置き、キンッと高音が鳴る。弛緩した空気が引き締まった。
「ところでこの子は――死ぬのか?」
僕は驚いてチョコケーキのひと欠片を皿の上に落とす。自称さんは静かに僕を見据えていた。まるで確信したその答えを待つかのように。
「……どうして」
「小説は書いた人間を映す鏡だ。だから文章の端々から感じ取れる。この子は特に顕著だが」
そんなこと僕にはわからなかった。水瀬の小説が訴えかけてくるものは伝わったけど、とてもそこまでは。
自称さんは「そうか」とだけつぶやいてウイスキーの注がれたグラスを持ち上げ、その琥珀を眺めてまたテーブルの上に戻した。
きっと自称さんなら他言はしない。むしろ僕と水瀬のこの不安定な関係に何かメスを入れてくれそうな、そんな予感がした。
僕は水瀬との関係を話した。水瀬が文月と同じ死季病だということ。もう長くはないということ。水瀬の夢のこと。四季折々のこと。僕の罪のこと。
「残酷だな」
ぽつりとそう言って、自称さんはウイスキーを煽った。さっきまでグラスの中で小気味の良い音を奏でていた氷も、今は水滴に変わってグラスの外側を流れ落ちている。
「はい。自分でもひどい奴だと思いますよ」
「色々な見方があるさ。まあ、君のやり方はとても賢しい。きっと君も自分でそう感じているだろう。しかし――」
自称さんはふぅと息を吐き、左目を隠していた前髪をかき上げた。ウイスキーとケーキが混じった甘い香りが僕のもとまで届く。
「私はそれを『成長』と呼ぼう。湊、君の心は成長しようともがいているんだ」
「やめてください。僕はただ――」
「この現状こそ君が成長しようとしている証拠だ。成長は独りではできない。それを知っているから、君は水瀬詠に繋がりを求めたんだよ。残酷な繋がりを」
まったく違う、と僕は首を振る。見当違いも甚だしい。自称さんは酔っている。ひどい酔い方だ。ウイスキーの瓶も、半分近く減っていた。
「彼女は湊を信頼している。自分の小説を読ませるというのはそういうことだ。四季折々を渡したのも、君の過去を話してほしいと願っているからだろうさ」
「わからないんですよ。水瀬がどうしてここまで僕に踏み込むのか」
「世界にはそういう、自分が正しいと思ったことを馬鹿みたいにまっすぐやってしまえる人間がいるんだよ。昔の君のようにな。そんな子はなかなかいないから、大切にするといい」
とても愉快そうに自称さんは笑う。まるで過去を懐かしむように。
「……こんな子が、君を停滞の先へと連れて行ってくれるのかもしれないな」
反論しようとソファから立ち上がる。しかし自称さんは落ち着いた様子で「湊」と僕の名前を呼ぶ。その凛とした声色に気を取られ、僕はその場に立ち尽くしてしまう。
「今日もらった対価分の授業はここまでだ。また来なさい」
ふと机の上を見ると、すでにケーキとウイスキーが綺麗になくなっていた。
舌で唇の端を舐め取り自称さんは立ち上がる。僕は風呂場へと向かう後ろ姿に呼びかけた。
「自称さん」
「ここから先の対価は、そうだな。私の体を、隅々まで洗う。どうかな?」
自称さんは自分の体のラインを指でゆっくりとなぞり愉しそうに笑う。その蠱惑的なポーズに少しだけ想像してしまう。僕はひとつ咳払いをして雑念を打ち消した。
「……別の対価を持って、また来ます」
「それは残念だ。二年前までは、何回も一緒に入っていたのに」
「捏造はやめてください。もう帰ります」
荷物を持って玄関へ歩き出すと、背後で衣擦れの音と服をソファに放り投げる音が聞こえた。
一回だけですよ、と声には出さずに訂正して、僕はリビングから出た。
*
爆音が脳を揺らす。まるで太鼓のバチで何度も叩かれているみたいに、僕の体内に衝撃が響き渡った。ひずんだ音はしかし不快ではなく、快感として心の深い場所へと落ちていく。
「颯斗ー! いいぞー!」
「颯斗くんカッコいいー!」
隣を見ると、水瀬と佐伯が汗だくになりながら声援を送っている。でもそれは大規模な音楽フェスではなく、中央公園で開かれている小規模なイベントのライブステージだ。
僕が七草の演奏を何となく見ていると、耳に水瀬の吐息が掛かった。僕のものではない甘い匂いが微かに漂ってくる。
「湊、昨日は急に連絡してごめんねー。どうしてもみんなで応援したくて」
「別にいいよ。四季折々に書いてたことだし」
僕は昨日の電話で水瀬から聞いた、七草が音楽に特に力を入れているという話を思い出す。確かに歌も演奏も上手かった。迸るような熱気と音圧が、僕の心を穿つ。
「ほら! 湊も立って応援しよっ!」
「あ、ああ……な、七草、いいぞー」
「うわ、声小さっ!」
「ぐっ……」
水瀬は僕に心無い言葉を投げると、佐伯とパイプ椅子の上に立って応援し始めた。さすがにそれは恥ずかしいので僕はやらない。
七草はその演奏で自分を表現していく。でも――明らかに、何かが足りない。
そこで気付いた。僕たち以外、応援している人がほとんどいない。明らかに、七草の前に演奏していたバンドの方が声援は多かった。
ステージ上を見つめると、七草はこっちを見て笑った。――ああ、そうか。
「あっ、いま颯斗くん笑ったよ、詠ちゃん! 湊くん!」
「笑ったね! 湊も見たー?」
「うん、見たよ」
今の七草の笑顔は、諦めから生まれる笑顔だ。七草にとっての原因が何かはわからない。でも僕は、あの表情を浮かべた七草を応援する気にはなれなかった。無駄だと思った。
さっきまで僕の内側に芽生えていた僅かな熱は、驚くほどすっと冷えてしまった。
その瞬間、水瀬が僕の手を掴んだ。
「ほら、湊も一緒に椅子乗ろ!」
「僕は、いいよ」
――こんな子が、君を停滞の先へと連れて行ってくれるのかもしれないな。
水瀬の冷たい手の温もりに自称さんの言葉を思い出し、僕はその手をぱっと解く。
「……んもうっ!」
水瀬はもう一度、僕の手を掴んだ。僕の心が冷えてしまったからか、その手はとても温かく感じられて。思わず握り返してしまった。
「会場の人みんながステージ見るくらいの声で応援しよ! ほら見て! 颯斗、ここにいる誰よりも輝いててかっこいい!」
臆面もなくそう言った水瀬の顔は生き生きしていた。まるで子どもがひと夏の大冒険に行くみたいに、正しくてまっすぐな、希望に溢れた瞳だ。
僕は導かれるように水瀬の手を強く握ってパイプ椅子の上に立ち、大きく息を吸い込んだ。本当に不思議だ。恥ずかしいなんて、微塵も思わなかった。
「七草ーっ!!」
自分でも驚くくらいの大声。僕は音楽に乗って首に掛けていたタオルを掲げた。視界の端で水瀬と佐伯も驚いている。
「あははっ、出るじゃん、大きい声!」
「ふふ、出たねぇ、湊くん」
顔と体の内側が熱い。この熱は届いているだろうか。――届け。そう強く思った。
僕がステージを見ると七草はさっきと違って可笑しそうに笑っている。それを見た僕も、いつの間にか笑ってしまった。
心地良い熱を感じる中、僕と繋いだ水瀬の手の熱だけが、元の冷たさに戻っていた。
ライブが終わると僕たちは中央公園を後にして、町の文化ホールに足を運んだ。佐伯が『全国絵画コンクール』で最優秀賞を獲ったらしく、水瀬がその絵を見たいと言ったからだ。佐伯がすでにプロとしていくつか作品を残していると聞いたときは驚いた。
大ホールに入ると、水瀬は辺りをきょろきょろと見渡しながら言った。
「絵画のほかにもあるんだねー」
「書道とか写真もあるみたいだな。後でそのブースも見て回ろうぜ」
「そうだね、まずはなずの作品観よ!」
絵画作品のブースに入ると、僕たちは佐伯に厳かな額縁の前へと案内された。
「みんな、これだよ。私の作品」
「うわぁ……すごい」
水瀬が感嘆の声をあげる。僕は逆に、言葉を失っていた。感情の高波が内から外に押し寄せて、気付けば鳥肌が立っていた。
砂浜と青空。描かれているのはただそれだけだ。しかしどこまでも美しい色彩と叙情的な構図。繊細に、緻密に描かれた水彩画だった。
僕は佐伯の絵に、文月の写真を見たときのような感動を覚えていた。思考することを放棄させられて何も言えなくなる。
「なず、すごいよこの絵。綺麗すぎて……言葉が出ないや」
「確かにな。俺も今、鳥肌やっばいもん」
「僕も、こんなにすごいのは久しぶりに見たよ」
「あ、ありがとうみんな。嬉しいけど何か恥ずかしいね。ふふ」
みんな語彙を失ってたいしたことは言えなかったけれど、僕たちはしばらく作品を鑑賞していた。やがて恥ずかしくなったのか、佐伯は水瀬を連れてほかの作品を観に行った。
「……やっぱすごいよなあ、なずなは」
ずっと絵の前で立ち尽くしていた七草が不意に笑った。あの、諦めから生まれる笑顔で。僕はそれを見ないふりをしてうなずいた。
「きっと、すごい努力したんだろうな」
「あいつ小さい頃から絵を描いててさ。中学のときとか寝食すら惜しんで描いてた」
「それは、すごいな」
「すごいよあいつは。努力の天才だ。凡才の俺じゃ、いくら努力しても届かねぇ。……天才って、何なんだろうな」
僕は佐伯の絵に描かれた青空を眺めながら思案する。
文月も天才だった。物心がついた頃にはすでに写真を撮り、佐伯のようにあらゆる人から評価されていた。僕はそれが誇らしくもあったが、同時に自分との差に落胆もした。
僕にとっての天才、それは。
「救い、かな」
「救い?」
「たとえば努力ですべての優劣が決まる世界。それはきっと正しいけど救いがない。だから天才は存在するんだ」
だからこそ僕は文月を心から尊敬できた。努力だけですべてが決まるなら、僕はきっと文月に嫉妬していただろうから。
「天才っていう言葉は優しいよ。努力では敵わない凡才に、諦める理由をくれるから」
「諦める理由、か。確かにそうかもな」
僕にとってはその諦めこそが救いだった。でも、七草は? ライブのときに見せたあの笑顔の真意は、僕と同じなのだろうか。
「七草は、何を諦めたんだ?」
普段なら絶対に聞かないはずの質問を、僕は七草の横顔に問いかけていた。まださっきの熱が残っているみたいだ。少しの間を置いて、七草は開き直ったように笑う。
「よくわからん! ってか、何でそんなこと訊くんだー?」
「天才を語れるのは、諦めの味を知った凡才だけだと思うから」
「……じゃあそういう湊は、何を諦めたんだ?」
「僕は」
――僕は、全部だよ。
そんなことを言えるわけもなく、僕は七草と佐伯の絵から視線を逸らす。
「よくわからん」
「ハハハッ! 何だそりゃ! ……やっぱおもしれぇな、湊は」
「どこがだよ」
「俺、やっぱり湊のこと好きだわ」
七草は僕の顔を覗き込み、犬のように人懐っこく笑った。
数分後、僕たちは別れた。七草はもう少し佐伯の絵を見るらしい。せっかく来たんだ、僕も色々と見て行こう。
そうして僕の足が向いたのは、やっぱり写真のブースだった。ポートレートや風景写真。ストリート写真もある。しかし文月の写真ほど心惹かれるものはない。
――私は誰かに評価されるために写真を撮っているわけじゃないわ。
怒ったように口を尖らせる文月を思い出す。でも文月は生前、一度だけ大きな写真展に応募した。理由は教えてくれなかったが、当時の僕は文月の写真が評価されることは嬉しかった。
それが数多のプロの中から選ばれるなんて誰が思うだろう? 放課後に息をするように撮った一枚が、なんて。
考えている途中で僕の足が止まる。人混みに堰き止められたからだ。
観衆の視線の先。一枚の写真に意識を向けた僕の思考は、一瞬にして奪われた。
文月の写真がそこにはあった。幸せな思い出として文月が閉じ込めた一枚が。
【夭逝の天才 文月莉奈 『夏の涯』】。そう記されたプレートは、僕の心の柔らかい場所を傷付けた。その傷から沸々と黒い感情が湧き上がる。
――文月の、何を知っているって言うんだ。
「――知ったようなこと書きやがって」
僕はその声の方へ振り向く。そして目が合った。
「……氷野」
氷野涼太。僕の中学の同級生で、もちろん文月のことも知っている。もう二度と会いたくはなかった。それは向こうも同じようで、氷野は苛立ちを隠そうともせずに僕を睨んでくる。
「お前、知ってたか? 文月の写真が定期的にここに飾られてんの」
「……いいや」
氷野は眉間に皺を寄せて、僕にゆっくりと詰め寄ってくる。
「こんな見せ物みてぇになってんのに、ずいぶんと暢気だな、お前」
「お前に、文月のことをどうこう言える資格があるのか?」
氷野が文月にしたことを思い出しながら、僕はナイフのような言葉をぶつける。氷野は顔を歪めて僕の胸倉を掴んだ。
「ああ、ねぇよ。けどな、文月の葬式にすら来なかったテメェに言われたくねぇよ……! もう自分には関係ねぇってか?」
僕は何も言い返せずに、口を結ぶ。関係ないと思ったからではない。目の前で起こった現実を、何も信じたくなかったからだ。
氷野は僕の胸倉を掴む腕に力を入れる。首が締まり、僕は苦しさに顔を歪める。
「黙ってねぇで、何か言えよ篠宮……!」
「――何、やってるの?」
僕の視線の先には、水瀬が困惑した顔で立っていた。
水瀬は僕のもとへ走ってくると、氷野の腕を掴んで引き離した。その目にはすでに困惑の色はなく、明らかな敵意が宿っている。
「あんた誰? 私の友だちに何してんの?」
引き離された氷野は、僕と水瀬を交互に見たあとに舌打ちをした。
「まさか、文月の次ってわけか? ……ふざけやがって」
「ふざけてんのはあんたでしょ? 何で、こんな酷いことしたの!?」
「水瀬、やめてくれ」
「でも……!」
「いいから、やめてくれ」
これ以上、僕の問題に関わってほしくない。水瀬は素直に「わかった」とつぶやき、一歩だけ後ろに下がった。氷野は髪の毛を雑に掻きむしると、苦悶に満ちた表情を浮かべた。
「これじゃあ文月が救われねぇだろ。この半端野郎が……!」
吐き捨てるように言って、氷野はブースから出て行った。
氷野の言葉が僕の心の傷を広げる。その痛みを紛らわせるために、僕は首元に感じる別の痛みに手を伸ばした。
「湊、首のとこ赤くなってる。見せて?」
「別に、何も気にしなくていいから」
水瀬の手から距離を取る。それでも水瀬は距離を詰めてきて、僕の首元に優しく触れた。
「別に、何も気にしなくていいからね」
僕は水瀬の顔も、目の前の文月の写真も見られずに、視線を彷徨わせた。
それから文月の写真を黙って見つめていた水瀬は、僕に訊いてきた。
「綺麗な写真。文月莉奈さん。二年前だよね、亡くなったの」
「……文月のこと、知ってるんだな」
「それなりに。私の中学でもすごい人がいるって有名だったから。湊、仲良かったんだね」
深入りされないように黙り込む。しかし水瀬は僕の体を突いてからかうように言った。
「湊が女の子に慣れてる感じするのって、もしかして文月さんが恋人だったから?」
「まさか、違うよ」
文月のことを話される度に深い記憶がよみがえってくる。大切にしまい込んでいた思い出がすべて流れ出てしまいそうで、僕は身震いした。
水瀬は文月の写真に近付いて鑑賞し始めた。その隙に僕はこの場を離れようとする。
「湊が、さ」
嫌な汗が噴き出す。その問いを聞いてはいけないという警鐘が、頭に響いた。
振り返った水瀬の潤んだ瞳が、僕の瞳を捉えた。
「湊が飛び降りしたのって――文月さんが、死んじゃったから?」
――さようなら、湊。
「そんなこと、お前に関係ないだろ!」
水瀬は唇を結び、潤んだ瞳で僕を見つめていた。ふと我に返ってブースを見渡すと、周りの観客が怪訝な顔で僕らを見ていた。僕は居心地が悪くなって目を伏せる。
「ど、どうしたんだよ、お前ら」
「二人とも、何があったの?」
七草と佐伯が慌てて駆け着けてきて、事情を訊いてくる。でも僕たちは黙り込んでいた。
「……とりあえず、謝ってから出るか」
「うん。そうだね」
文化ホールを出た後も、僕の胸には澱のようなものが沈んでいた。
僕は自称さんの言葉を思い出し、首を振る。先になんて進みたくはない。だってそこに、文月はいないんだから。
分かれ道に辿り着くと、七草が明るい声で言った。
「俺たちこっちだから行くけど、お前ら、さっさと仲直りしろよー?」
「じゃあね詠ちゃん、湊くん」
なかなか難しいことを言って七草と佐伯は歩いて行った。夏の夕暮れ。気温は一向に下がらない。暑く、重たい空気が僕の肌をピリピリと焦がした。
僕は後ろの水瀬の気配を感じながら、後悔していた。怒鳴るなんて最悪だ。水瀬は僕の過去を案じていただけなのに。謝ろうと口を開くけれど、肝心の言葉が出て来ない。
沈黙のまま、僕たちの足音だけが空気に溶け、やがて目前に分かれ道が見えてくる。ここを逃したらダメだ、そう思った。
「あの、さ、水瀬。さっきのことなんだけど」
返事がない。きっと怒っているんだ。僕は次の言葉が続かずまた沈黙に身を委ねてしまう。そこでようやく気付く。後ろにいたはずの水瀬の足音が抜け落ちていることに。
振り返った僕の心臓は不規則に跳ねる。
水瀬は、ぐったりと地面に倒れて動かない。生温く吹いた風が水瀬の顔に掛かった髪の毛を攫い、生気のない青白い顔を強調させていた。
無意識に、僕は叫んでいた。
「――水瀬ッ!」
病院で処置を受けた水瀬はそれから一時間ほどで目を覚ました。「おはよー湊」なんていつもと変わらない明るい声で。
「湊、起きるまでいてくれてありがとね。まー寝顔見られたのは恥ずかしいけど」
何てことはなかったように水瀬はおどけて、僕に微笑んだ。
「湊には言うね。最近、急に意識を失うことが増えてきて。体温低下、血中酸素不足などによる意識障害、だったかな。死季病冬期の初期症状から後期症状に移行した合図だってさ」
それは文月も同じだったから知っている。僕は水瀬の顔を見られずにうつむいた。
「色々としつこく詮索してごめんなさい。悪いとこ出ちゃったなって反省してる」
「謝るのは、僕の方だよ。……水瀬、怒鳴って、ごめん」
僕は水瀬が倒れて動かない映像を思い出しながら、ぽつりとつぶやいていた。
「……無事で、良かった」
「――ねぇ、湊の後悔って、何?」
「僕の、後悔……?」
不意の質問に虚を突かれて、僕はしばらく黙って考えてしまう。僕の、後悔。
それはきっと、水瀬が倒れたときに僕が感じた恐怖の原因だ。でも水瀬には言えない。これは僕が抱えるべき問題だから。
「私、絶対に後悔したくないんだ」
僕は水瀬が柔らかく微笑むその瞳の奥に、覚悟を感じる。
「四季折々って、春夏秋冬、その時その時っていう意味なんだ。だから私の四季を後悔しないで大切に生きるために、四季折々を作ったの」
水瀬は四季折々ができた経緯を楽しそうに話す。死という絶望を突きつけられてなお、水瀬は生きる希望を捨てていない。僕には絶対に真似できないことだ。
よっぽど僕がひどい顔をしていたのか、水瀬は慌てた様子で言ってくる。
「もー、ほら、顔上げてよ」
――私が死んでも湊は大丈夫よ。湊の心に寄り添ってくれる人はいるわ。私にとってあなたがそうだったみたいに。
いつか文月は笑いながらそう言った。僕の未来を案じたからなのかもしれない。
なあ文月、僕にとってのその人は、水瀬なのか?
決して届かない問いだ。答えはわからない。でも、水瀬は、きっと。
「……一人の女の子を救えなかったことが、僕の後悔だよ」
「それが文月さんなんだね。湊、ちゃんと聞かせて」
これは僕が抱えるべき問題で。水瀬にはこれ以上、何も背負わせるべきじゃない。
とても難しいね、文月。君も僕に病気を打ち明けるとき、こんな不安な気持ちだったのか?
気付くと、ダムが決壊したみたいに、僕は話し始めた。
文月が死季病を患っていたこと。文月の病気を知ってから毎日、一秒でも長く傍にいたこと。文月の心を救うために、死ぬまでにやりたいことを全力で実行したこと。僕と一緒に幸せそうに笑っていた文月が突然、飛び降り自殺をしたこと。
噛みしめるように言葉にしても、こんなにも一瞬だ。僕は文月の話をして、その人生が短くまとめられてしまうのも嫌だったのかもしれない。
水瀬は僕の話を聞いて、静かに涙を流していた。何かに耐えているような涙。水瀬が泣いているのなんて、初めて見た。
「ずっと傍にいたのに救えなかった。僕は……僕を赦せないよ」
その後悔が、怒りが、僕が飛び降りた理由なのだと今では思う。
「自分を赦して前に進んだら、文月が僕の中から消えそうで、怖いんだ」
「じゃあ湊は、そうやって後悔したまま立ち止まってるつもりなの?」
「……それが、僕ができる最後のことなんだ」
水瀬は目を見開いたあと、僕を睨みながら叫んだ。
「嘘だよ! 絶対にそんなこと思ってないくせに!」
「嘘じゃない、本心だ!」
言い返すと、水瀬は僕の両手を痛いくらいに掴んだ。振り解こうとしても離してくれない。
「湊と文月さんの思い出って、湊が前に進んだくらいで消えちゃうものなの!?」
「そんなわけないだろ! っ……」
水瀬は僕の弱さも嘘も射貫くように見つめてくる。涙を流し、強いまなざしで。
「前に進みたくないわけじゃない。でも、どうしたらいいのか、わからないんだ……」
立ち尽くしたままうなだれる。だから僕は何もかもを諦めたふりをしたんだ。
「ずっと一人で抱え込んできたんだね。話してくれてありがとう。ありがとね、湊」
心が壊れてしまいそうなほど苦しかった。でもこれが、僕の後悔の代償だ。水瀬にもこの痛みは渡せない。胸に残ったこの痛みだけは、僕のものだ。
「ねぇ湊、四季折々って持ってる?」
「……うん、持って来てるよ」
「貸して」
両手を僕に差し出す水瀬に、僕は言われるままリュックから四季折々を手渡す。
水瀬は四季折々に祈りを綴り始めた。数秒と経たずに書き終えて、僕に笑いかけてくる。
「怖いなら私と一緒に前に進もう。何も諦めなくていいんだよ。ただ、湊がやってきたことを、信じてあげて」
「僕には」
「――私は最後まで湊と一緒にいるよ。約束」
僕に四季折々を手渡して、水瀬は微笑む。最後まで。水瀬が死ぬまで。僕は果たして耐えられるだろうか。冷や汗が僕の首筋を伝って流れていくのがわかる。恐怖で全身が震えた。
それでも僕は、信じてみたかった。僕が文月と歩んできた日々を。水瀬の想いを。
『あの日々と、自分を信じて、前に進む』
一思いに書き殴った僕の文字は所々震えていて、情けないものだった。でもこれでいい。深呼吸をして隣のページを見ると、さっき水瀬が綴っていた願いが見えた。
『湊の心を救う!!』
シンプルに、大きく書かれた祈り。その優しさに、僕の心に針が刺さった。
病室に沈黙が降りる。やがてそれを切り裂くように水瀬が大きな声を出した。
「しんみりタイム終わり!」
水瀬は僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して、晴れやかな声で言い切った。
「湊のやってきたことは正しかった。文月さんは、幸せだったよ!」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「え? うーん。ほら、私と文月さんって超似てるから!」
その無理のある決めつけに、僕は大袈裟に首を横に振った。
「いや、似ても似つかないよ。文月は水瀬みたいにホギャホギャ言わなかったし」
「こんにゃろー調子戻ってきたなぁ? ホギャホギャ!」
「何だよ、それ」
水瀬はホギャホギャ言いながらも楽しげに笑っていた。僕もその笑顔で心が軽くなる。
「湊、ほら」
「……うん」
僕と水瀬は小指を交わす。何かが動き出す予感がしていた。僕一人では何もできなかっただろう。きっとこれが、暗闇の中から一歩を踏み出すに相応しい言葉だ。
まるで儀式で捧げる祈りのように、僕たちは小指を上下に動かした。
『四季折々』
1
太陽が影を色濃く地面に貼り付けている。アスファルトから跳ね返る熱を浴びながら、僕はとある場所に向かっていた。
『ホームランが打ちたい! 先に行ってるから!』
水瀬はそれだけ言って電話を切った。言われなくてもわかる、四季折々だ。でも今日は三〇度を超えるらしいから、僕は家から出るのを少しためらった。
耐えがたい熱気と陽射し。家を出て数分で汗だくになる。気持ち悪い。夏になってずっと聞いているはずの蝉の鳴き声に苛立ちを覚えてしまうくらい不快だ。
「クッソ、熱ぃな」
愚痴を吐いて、僕はバッティングセンターに入った。店内のクーラーが汗をかいた体を冷やして気持ちが良い。
平日の昼間なんて人はいないと思っていたけど、意外にサラリーマンや女性も多い。中には楽しそうに打っている人もいれば険しい顔をして打っている人もいて、見ていて面白かった。
「やっと来たー! こっちだよ、湊!」
場内に響き渡る快音に負けないくらいの大声で、水瀬は打席からこちらに手を振ってきた。水瀬の打席に近付くと、その足元には、すでにたくさんのボールが転がっている。
「久しぶりー!」
「昨日も会ったでしょ。それで、どうしてホームラン?」
「ふふふ、それはだね……夏休みの宿題が多すぎて、もー頭爆発しそうで!」
「なるほど。それでとにかく体を動かしたかったんだ?」
水瀬はニッと笑ってバットを構えた。とても良いフォームだ。まさか経験者なのだろうか。モニターのピッチャーの投球に合わせて、ボールがまっすぐ飛んでくる。
「ざっつ~らいっ! うん、当たらん!」
「期待して損したよ」
「んもう、うるさいっ!」
水瀬はバットを置いて僕の方へ走り寄ってくると、ネット越しに僕を手招きする。
「湊も一緒に打とうよホームラン! どっちが先に打てるか、勝負しよ!」
「でもこれ、水瀬の願いじゃ――」
「いいから、やろっ!」
押し切られる形で僕はカウンターでカードを買って隣の打席に入った。バッティングセンターなんて初めて来たけど、わかりやすいように案内に手順が書かれていた。
足元にはホームベースとバッターボックス。前方にはピッチャーが投影されたモニター。広がる青空。仄かに香る土やゴムの独特な匂い。それだけで僕のテンションは上がっていた。
バットを振ったことは何度かあるけど、当たるんだろうか。
僕はマシンで球速などを設定すると、バットを構えた。意外に重い。まあこれは、単純に僕の筋力不足だ。
「湊ー! 空振れー!」
「おい、何てこと言うんだ」
「あははっ。湊ー! 打てー!」
僕は投げられたボールをしっかりと目で捉えて、バットを振り抜く。
キンッ、と快音が響き、ボールは前方へと飛んで行く。衝撃で手は少し痺れるけど、けっこう気持ちが良い。
「え、すごーっ! ね、打ち方教えて! 調べて来たのに当たんなくてさー」
「そう言われても、僕も素人なんだけど」
「いいから!」
一ゲーム目を終えた後、僕は持てる知識を総動員して水瀬のフォームを修正する。すると、水瀬はすぐにボールを当ててきた。これはまずいと、僕も慌てて再開する。
そのまま二人で打ち続け、三ゲーム目が終わった頃には、僕は日頃の不摂生と筋力不足がたたってフラフラになっていた。
「はははっ、貧弱なやつめ!」
「うぐっ……絶対に先にホームラン打ってやるからな!」
「ふふん、私が先に打つもんね!」
それから僕たちは三ゲーム連続でバットを振った。もう百球以上は打っているだろう。それでもホームランには程遠い。ヘロヘロになった僕と水瀬は、休憩ルームへと向かった。
自動販売機でスポドリを買い、ベンチに座って飲んだ。年季の入ったベンチが軋む。
「ふー生き返るぅー」
「スポドリって、こんなに美味しかったっけ」
「さては、普段運動してないな?」
「否定はしないよ」
水瀬は着けていたバッティンググローブを外して両手を握る。つられて見ると、その手のひらにはマメが出来ていた。
「あと少しだと思うんだけど、何が足りないんだろ。運?」
「実力と筋力じゃない?」
「それは湊でしょ。もう少し筋肉付けないと、いざって時に女の子のこと守れないよ~?」
水瀬は笑いながら僕の腕の皮をつまんでくる。気にしていることを指摘され、少し傷付く。
三〇分ほど駄弁って休憩ルームから出る。打席に入る前、僕は水瀬に呼びかけた。
「水瀬……体調は、大丈夫?」
「うん! 絶好調!」
咲くように笑った水瀬に「なら、いいんだ」と返して僕は打席に入る。
少し回復した体でバットを振る。しかしすぐにさっきまでの疲労が戻ってきて、正常な思考を曇らせる。疲労は、嫌な思考を加速させるみたいだ。
休憩ルームで触られたときに気付いた。この前より、遥かに水瀬の体は、冷たくなっていた。
「――ッ!」
嫌な思考をかき消すために、僕はバットを振り抜く。ボールは弧を描いて――。
『ホームラン! おめでとうございます!』
軽快な音楽とアナウンスが辺りに響き渡り、僕の中で徐々に達成感が湧き上がってくる。
「あ、当たった! ホームラン打ったぞ、水瀬!」
『やったね! おめでとう!』そんな声を想像して、僕は水瀬の打席を振り返る。
しかし、軽薄な想像とはほど遠い光景が、僕の目の前に広がっていた。
水瀬は力なくしゃがみ込んでいた。いつも明るい表情は抜け落ちていて。血の気が一瞬で引くのを感じる。
「水瀬ッ!!」
その光景が視界に飛び込んできた瞬間、僕は叫んでいた。勢いで自分の打席を飛び出し、水瀬のもとへ駆け寄る。多量の汗。青白い肌。不規則で苦しそうな呼吸。
「水瀬、大丈夫か!?」
僕の呼びかけに、水瀬は我に返ったようにこちらを見上げる。
「あ、湊。ちょーっと疲れただけだから、大丈夫だよ」
「もう、今日はやめよう」
毅然と言ったつもりでいた。でも僕の体は震えが止まらない。心臓の鼓動が加速する。
「心配してくれてありがと。さーてやるか~」
僕は立ち上がろうとする水瀬の手を掴む。その冷たさに、無性に怒りが込み上げてきた。水瀬の体が限界なことはわかっていた。甘く考えていたんだ。僕も、水瀬自身も。
「これのどこが大丈夫なんだよ!」
「離して!」
振り解かれそうになった水瀬の手を強く掴んで、僕は言い聞かせるように口を開く。
「頼むから、もっと自分のことを大切にしてくれ……」
なんて説得力のない言葉だろう。自殺しようとした僕が言えたことじゃない。
水瀬は疲労で濁った瞳を向けてくる。数瞬の静寂。僕は息を潜めて彼女の言葉を待った。
「もうほかに何も捨てたくないの。何も捨てないで進みたい」
ゆっくりと僕の手を解いて、水瀬は続ける。
「今できることをいま捨てたら、ほかの願いも中途半端になっちゃうよ」
「そんなこと」
「だからお願い。湊だけは私を否定しないで。私を信じて……」
水瀬に見つめられ、僕は動揺する。その言葉が、意志が、文月と同じだったからだ。
――湊だけが私を信じて、諦めずに願いを叶えてくれる。だから私、本当に幸せよ。
その意志のまま文月を信じて行動した僕に掛けられた言葉。結果がどうあれ、あのとき文月は幸せそうに笑っていた。だから、僕は。
「……わかった。信じるよ」
「ありがとう」
水瀬は立ち上がりぐっと伸びをすると、バットを握って再び打席に入った。僕はブースの端でその様子を見守る。
無理やりにでも水瀬を病院に連れて行く。きっとそれがいちばん正しい選択だ。誰だってそう言うだろう。でも僕は知っている。正しさだけでは、得られないものがあると。
「水瀬、頑張れ」
小さく発した僕の声に水瀬はうなずいた。もしかしたら投球のタイミングを計っているのかもしれない。
バットは快音を何度も奏でる。その度に水瀬の苦しそうな呼吸が僕の耳に届いた。それでも水瀬は全力でバットを振り続ける。汗で髪は張り付き、マメが潰れたのか、打者用グローブには血が滲んでいた。
僕はその姿に鳥肌が立った。お世辞にも綺麗とは言えないその姿に。ああそうか、水瀬は。
――今を生きているんだ。
僕に、自分自身に、全力で証明しているんだ。
水瀬は静かに投球モニターを見て構えている。フォームも最初よりずっと良くなった。
投げられたボールを引き付けて、水瀬はバットを振り抜いた。
響く快音。角度。飛距離。威力も十分だ。その瞬間、僕は叫んでいた。
「「当たれ!」」
ほぼ同時に発した僕たちの声に導かれるように、打球は的に吸い込まれていく――。
水瀬は僕に振り返り駆け寄ってきた。その瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
徐々に近付いて鮮明になってくる水瀬の笑顔は、花のように綺麗に咲いていた。
四季折々を達成した僕たちは、バッティングセンターを後にして町の河川敷に来ていた。僕と文月が初めて出会った場所だ。
あの後、すぐ病院へ連れて行こうとしても水瀬は強く拒否した。今は元気そうだけど、いつまた倒れるか気が気ではなかった。それなのに川遊びをして涼みたいなんて、いくら四季折々とはいえ、何を考えているんだろう。
「ひゃー。夏でもけっこう冷たいんだね~」
ふくらはぎほどの高さの水面を蹴って、水瀬は水しぶきを飛ばしてきた。
「なぁ水瀬……本当に大丈夫なの?」
「だいじょーぶ! 湊もこっちおいでよ。気持ちいいよ」
正直、僕も体が熱かったから素直にその提案に乗ることにした。
「うわ、冷たいな」
けど気持ちが良い。西日が水面に反射して煌々と輝いている。鳥のさえずりと川岸に打ち寄せる柔らかな水音は、張り詰めた緊張をほぐしてくれた。
川底の石を踏みつけると、ざらざらと散らばって流されていく。屈んで水中を見ると、足元を小さい魚が通り抜けていった。
「水瀬、魚がいるよ。小さいやつ」
顔を上げて報告すると、水瀬は両手の親指と人差し指でカメラの形を作って、遠くの鉄塔を撮る仕草を見せた。僕は懐かしい気持ちに駆られ、その後ろ姿をただ眺める。
やがて水瀬は僕を振り返り、怪訝な顔で「どしたの?」と訊いてきた。
「いや、文月もよくそうやって、あの鉄塔を撮ってたなって」
「えっ、そうなのー? やっぱ似てるなぁ、私と莉奈ちゃん」
「ふ、だから水瀬とは似ても似つかないって――ぶぁっ」
視界がぼやける。顔に水を盛大にぶっかけられて、僕は少しのけぞった。あまりに顔が冷たくて、思考停止する。
「あっははっ! スキありぃ!」
「水瀬……」
「うわ、怒ったー! 逃げろぉっ」
バシャバシャと上流に向かって逃げようとする水瀬を追いかけて、僕は反撃する。
「ぎゃぁ冷たっ! おりゃー!」
「この……おりゃっ!」
ノーガードで僕たちは水を掛け合う。ずぶ濡れなのに、なぜかすごく楽しかった。
僕は途中で体力が尽きて防戦一方になった。水瀬は「ちょ、ほんとにタイム」と懇願する僕に笑いながら水を掛けてくる。体力が無尽蔵なのか?
「水瀬、あんまりはしゃぐと転ぶよ」
「大丈夫ー! そんな運動神経悪くない――わっ」
案の定、水瀬はバランスを崩した。
僕は咄嗟に水瀬に手を伸ばす。細かく飛び散った水しぶき。水瀬と目が合った。
瞬間、過去の映像とリンクする。
文月と出会った最初の日。そして、僕と文月の、最後の日。
――
空が暗闇に飲み込まれて、家々の明かりが道を照らしている。昼間に鳴いていた蝉は息を潜めて辺りは静まり返っていた。僕と文月はレンガ調の小さな一軒家の前で足を止めた。
「送ってくれてありがとう。今日も楽しかったわ。それじゃあ」
文月の冷たく心地の良い手が、僕の手から離れていく。
手を繋いだのは久しぶりだった。初めて会ったとき以来だ。帰り道にふたり並んで歩いていると、まるでそうするのが当たり前かのように、文月から繋いできた。
緊張で手が冷たくなっていた僕に、文月は「温かいわね」と言って微笑んだ。
「……もう少しだけ、一緒にいようよ」
気が付くと僕は文月の手を取っていた。僕より冷たい手。でも、心が安らぐ温もりだった。
文月は驚いた様子で振り返り、僕と自分の手を交互に見たあと、困った顔で言った。
「嬉しい。けど今日はもう遅いわ。それに、明日から二学期よ」
「うん。わかってるよ」
僕はこれから起こることが不安だ。
九月に入ったら、病状が進んで文月は入院が多くなる。今より会える時間も行ける場所も少なくなってしまうだろう。だから、もう少しだけ。
僕は、その『もう少し』の理由を考える。色々な理由が頭に浮かんだけど、どれも文月を引き留めるには足りない気がした。
すると文月は突然、僕の胸にもたれ掛かってきた。両手で抱きすくめられ、僕は硬直する。文月の甘い匂い。柔らかな感触。冷たい温もりが、水を含んだ絵の具のようにじんわりと僕の体に伝って来た。
「文月、どうしたの、急に?」
「何でもないわ。ただ、少し寒いだけよ」
「……ありがとう、文月」
理由は、文月が用意してくれた。まったく、彼女には本当に敵わない。僕は行き場を失くしていた両手を文月の背中に回す。
「ふふ、正解よ」
文月は僕の顔を見上げて微笑んだあと、また僕の胸に顔をうずめた。煩い心臓の音を誤魔化すために、僕は口を開く。
「文月、明日は何をする?」
「湊と一緒なら、何でも楽しいわ」
「そうだな。それだけは自信あるよ」
「いつもの調子が戻ってきたわね。湊にはそういう自信に満ちた顔が良く似合うわ」
僕は文月にニッと強気に笑って見せる。自分でもわざとらしい笑い方だ。それでも、文月を不安にさせてしまうよりずっと良い。
僕は最後に文月を思い切り抱きしめたあと、離れた。
「……じゃあ文月。また明日」
「ええ。湊、また明日」
僕は文月に手を振り、背を向けて歩き出す。自然に言えたはずだ。
振り返らずに歩く。しかし不安がよぎって、僕は振り返る。
文月は玄関へと続く石畳を歩いていた。重い病を背負った小さな背中。
遠くなっていくその背中に、気付くと僕は、手を伸ばしていた。
――
こうやって手を伸ばしても、結局は届かない。救えないんだ。
僕の手は水瀬の手を掴めずに空を切った。虚しい感触だけが残る。水瀬は川の中に尻もちをついた。瞬間、激しく水しぶきが舞い散る。
「ひぇぇ、おしり冷たー!」
「……だから、言ったのに」
皮肉だけをつぶやいて、僕は伸ばしていた手を引っ込める。すると水瀬は「助けて湊」と包帯が巻かれた手を差し出してくる。
少しだけ躊躇したあと、僕は水瀬の手を掴む。
「えい」
「うわっ!」
僕は突然引っ張られ、抵抗する間もなく全身を水面に打ち付けた。
水中で目を開くと、射し込む夕陽が水流で不規則に揺れて綺麗だった。息が続く限り、僕はその光景を眺める。
「あれ、み、湊? 死んじゃったの……?」
死んでねえよ、と僕は心の中でツッコむ。近くに水瀬の細い両脚が見えたので、思い切り引っ張った。
水瀬は悲鳴を上げて派手に転ぶ。その勢いで水流が乱れ、細かい砂の粒子が舞う。
僕は息が続かなくなって水面から顔を出した。
「はあ、はあ。仕返しだ」
「このー、やったなぁ?」
それから僕たちは、倒し、倒されての攻防を続けた。互いにびしょ濡れになり、岸に上がる頃にはすでに陽が沈みかけていた。
「はー楽しかった!」
「こんなに川で遊んだのなんて、小学生ぶりだよ」
「うん、私も!」
水瀬はこうなることを予想していたのか、リュックの中からタオルを取り出した。僕は持ってないので仕方なく服を絞る。
「湊のタオルも持ってきたよ」
「え、ありがとう。助かるよ」
受け取って濡れた髪を拭く。バスタオルは柔軟剤の良い香りがした。水瀬と同じ匂いがするから、何か変な感じだ。僕は思わず近くにいる水瀬を見てしまう。
水瀬の濡れた髪から流れる水滴が、鎖骨を辿りTシャツに浸透していく。刺激的な光景。僕は咄嗟に、体ごと後ろを向いた。
僕は汗をかいたときのために持って来ていたTシャツを水瀬に渡した。
「良かったら、それ着てくれ」
水瀬は言葉の真意がわからずに戸惑っていたが、やがて気付いたのか「あ……うん、ありがと」と僕のTシャツを受け取った。
背後から聴こえる衣擦れの音から意識を逸らすために、僕は電線で群れる鳥を数える。やがて「湊、こっち向いていいよ」と声を掛けられた。
丈が大きかったのか水瀬のショートパンツが隠れ、履いていない人みたいになっていた。僕はまた目を逸らし電線を眺める。しかし、さっきまでいた鳥の群れはすでに飛び去っていて。僕の心には罪悪感だけが残った。
「じゃー帰ろっか」
「……そうだね」
僕たちは河川敷を後にして歩き始めた。
西日は夜と交わり、群青色になって空を覆う。不意に水瀬が小さいくしゃみをした。バッティングセンターで汗をかいて川遊びで濡れたから当然だろう。
水瀬が風邪を引くとまずい。僕は自然と歩く速度を早めていた。
「湊」
背後から声を掛けられる。水瀬の声ではなく、もっと低い女性の声。
振り返ると、夏だというのに黒衣に身を包んだ自称さんが立っていた。
「珍しいですね、外に出ているなんて」
「君に頼めないものも、まだこの世には多いからな」
自称さんが手からぶら下げている袋の中には、確かに僕が買えない酒や煙草が入っている。
僕はふと、自称さんの家でシャワーを借りればいいという案を思いついた。僕や水瀬の家より、自称さんの家の方がここから遥かに近い。
「あの、自称さん。お願いがあるんですけど――」
「魔女」
聞き慣れない言葉に、僕は驚いて隣を見る。
水瀬は僕の体の影に隠れて、腕にしがみついてくる。寒さか恐怖か、水瀬の声は微かに震えていた。
「湊、その人……魔女だよ」
僕は自称さんに視線を移す。自称さんは、ただ静かに、笑みを深くした。
*
シャワーで温まった僕と水瀬は、自称さんの家のリビングソファでホームランバーを食べていた。僕が買い置きしていたものだ。自称さんはさっきから水瀬のことを観察している。
「それにしても」
僕はアイスを飲み込んでから口を開く。バニラの甘い香りと冷気が鼻から抜けていく。
「小学生の噂を高校生が信じるってどうなんだ?」
「だ、だって。『大きい一軒家に住む黒い服を纏った女が、黄昏時に町を徘徊して目が合った者を家に連れ去り実験の材料にする』ってシンジくんもマヤちゃんも言ってたし……」
「いや誰だよ」
その言い訳にも噂にも、僕はため息をつく。
「まあ、間違ってはいないな」
自称さんは僕を見ながら可笑しそうに言う。まるで僕が連れ去られた奴みたいだ。
水瀬は自称さんに怯えて、僕の後ろに隠れてしまった。「材料にしないで……」なんてバカみたいなことを何度もつぶやいている。
「水瀬、この人が前に言ってた小説家の人。本名とか基本情報は何もわからないけど、怖い人じゃないよ」
「……基本情報が何もわからないのは怖いよ、湊」
もっともなことを言われてしまって僕は口をつぐむ。確かにそうだ。
僕があと知っていることと言えば。ちらと自称さんを見ると「好きにすればいいよ」と考えていることを読まれた。やっぱりこの人は怖いかもしれない。
「水瀬。この前わかったんだけど、実は自称さんは、小説家の『綴真桔』なんだ」
「え、ええっ!! ほんとにっ!?」
水瀬は何の疑いもなく信じる。本当のことを言っているのになぜか悪い気がしてくる。
「水瀬って、本当に人のことを疑わないよね」
「え、嘘だったの……?」
「いや本当だけど。水瀬はもう少し、人を疑うってことを」
「あのっ、ファンです! 良かったら握手してください!」
僕の忠告を無視して、水瀬は自称さんに両手を差し出す。さっきまで怯えていたくせに。
「湊から聞いていた通り、面白い子だな。綴真桔だ。よろしく、詠」
「よ、よろしくお願いします! 先生!」
自称さんは水瀬と握手をする。四季折々に『綴真桔に会いたい』と書かれていたかは知らないけど、本人が嬉しそうにしているなら良かった。
僕がその光景を眺めていると、自称さんは突然水瀬の手を引っ張って、抱きしめた。
「え?」
「へ……?」
僕も水瀬もその奇行に疑問の声が出た。リビングが変な空気になる。水瀬は口をぽかんと開けたまま自称さんに抱きすくめられていた。
「なに気にするな。普段から応援してくれているお礼だ」
「いや、だからって……」
水瀬は自称さんが腕を解いても放心していた。しかし数秒で我に返り、その場でどたどたと足踏みをしながら言った。
「こ、こちらこそ新作面白かったです! 抱きしめてくれてありがとうございました! 良い匂いがしましたっ!」
「ほら自称さん、いつもより馬鹿になってるじゃないですか」
「ふむ、少し刺激が強かったようだな」
他人事みたいに言う自称さんを無視して、僕は水瀬をなだめる。
「落ち着け水瀬。ちょっと気持ち悪いよ」
「う、うん。落ち着く」
水瀬は深呼吸をしたあとソファに座り直した。僕も気付くと立っていたので隣に座る。いつもより賑やかな自称さんの家での時間は、悪くない気分だった。
服が乾いてからも少し談笑していると、自称さんが思い出したように口を開いた。
「そうだ、読んだよ、君の小説」
「えっ、本当ですか? ありがとうございます!」
水瀬は緊張した表情で自称さんを見る。引き締まった空気に、僕まで緊張してきた。
「私、先生みたいな小説家になりたいんです。……どうでしたか。私の小説」
静寂が降りる。自称さんはテーブルに置かれていた原稿に視線を落とした。
僕がまだ言えていない感想。約束したのに、躊躇っている。僕は隣でまっすぐに自称さんを見つめる水瀬を見て、居た堪れなくなった。
「私個人としては好きだよ。繊細で、物語全体に強い意志を感じる。君は心から思ったことを文章に落とし込むことに長けているみたいだから、それを武器にするといい」
「本当ですか! ありがとうございます!」
水瀬は嬉しそうにガッツポーズをする。尊敬する人から褒められたら嬉しいだろうな。
しかし水瀬はまたすぐに真剣な表情に戻る。そして意を決したように口を開いた。
「あの……綴真桔先生としての評価は、どうでしたか?」
「……そうだな。では――」
さっきまでとは比べ物にならないほどの凍てついた声音に、僕は思わず息を呑む。それこそが、僕が感想を伝えられなかった理由だ。
何かを確かめるように二人は視線を交わす。やがて静かに、自称さんが口を開いた。
「これは、読んでいてつまらないな」
刺すような言葉に、僕の心臓が跳ねる。水瀬はその断言に口元をきゅっと結んだ。
自称さんは続ける。
「強い意志は感じるが、共感する読者は少ないだろう。君の小説で描いている思想は綺麗で、正しすぎる」
「正しすぎる、ですか……?」
「書いていることはその通りで理解はできる。が、納得はできない。純度の高い『正しさ』は、人から疎まれ、孤独になるからだ」
自称さんの話に、水瀬は「よく、わからないです」と眉を寄せる。
「ではストレートに言おうか。君の正しさを押し付けるな」
「っ……」
水瀬は黙り込む。正しさの押し付け。その言葉を聞いて僕は納得していた。
――この考え方は絶対に正しい。みんなもそう思うでしょ?
馬鹿みたいに人を思いやり、傍に寄り添う。でもこの小説にはそんな水瀬らしくない想いが込められていた。きっと死季病から来る焦りもあったのだろう。だから僕は、ストレートに感想を伝えるのを躊躇っていたんだ。
「これでは絶対に小説家になれない。死ぬまで、な」
その断言に僕は思わず立ち上がる。それは、言い過ぎだ。
「湊。お前に口を挟む資格はない。黙っていろ」
「でも……」
自称さんの射貫くような視線に僕は怯んで口をつぐむ。確かにその通りだ。だって僕は、水瀬に気を遣って感想すらまともに伝えられていないんだから。
自称さんも水瀬の死季病は知っている。なのにどうしてこんなことが言えるんだろう。
僕は息を潜めて隣を盗み見る。水瀬は何度も瞬きをして涙を堪えてから、声を絞り出した。
「私には、何が足りませんか? 正しさを押し付けずにみんなに共感してもらえるには……」
「知らんよ。そんなのは自分で考えることだ」
突き放すような言葉に水瀬はうつむく。口元は歪み、押し寄せる何かに耐えているように見えた。僕は見ていられずに、水瀬から目を背けてしまう。
ただ自称さんだけは、水瀬をじっと観察していた。
「貴重なご意見ありがとうございました、綴先生。もっと、頑張って考えてみます」
「……水瀬」
「ごめんね、湊。今日は帰るね」
水瀬は荷物をまとめると、自称さんに頭を下げた。
「お風呂と夜ごはん、ありがとうございました」
足早に去って行く水瀬を僕は見送る。しかし自称さんは「詠」とその背中に呼びかけた。ぴたりと水瀬の足が止まる。
「正しさは時に自分の首を絞める。君はもっと不純でいい。汚れてしまえ」
水瀬は何も言葉を返さずに出て行った。僕は荷物をまとめる。ひどく居心地が悪かった。
こんなことを言える資格はないと心に思いながら、僕は自称さんを睨む。
「らしくないですね、あんな厳しいことを言うなんて」
「優しい言葉を掛けたら、あの子は死ぬまでに夢を叶えられるのか?」
「それは」
自称さんは僕を品定めするように見つめてくる。
「お前は中途半端だな、湊。完全に逃げることも、真剣にぶつかることもせず、ただその場に留まっているだけだ」
その通りだ。それでも僕は動けずにいる。自称さんにはすべて見抜かれているだろう。だからこれは僕の『覚悟』を確認するための言葉だ。水瀬の隣に並んで進む覚悟を。
「でもあの子はどうだ。逃げられない厳しい現実が立ち塞がってもなお、今を変えようともがいている。……今のお前は相応しくない。邪魔でしかないよ」
「っ……!」
頭が熱くなるのを感じる。
わかっていたはずの事実。しかし初めて自称さんに指摘され、悔しさや後悔、色々な感情がない交ぜになって、目の前が眩んだ。
その激情のままに、僕は自称さんの家を飛び出した。
2
夏休みを怠惰に消費する。僕は昼過ぎになっても自室のベッドから起き上がらずに、小説を読んでいた。水瀬のでも、自称さんのでもない小説だ。
しかしその内容は頭に入って来ず、三日前の自称さんの指摘が錘のように体に纏わりついていた。
寝返りをして体勢を変えると、スマホの通知音が鳴った。グループメッセージだ。
【七月三一日。詠の家に誕プレ持って集合な!】
【わぁ、楽しみだね~!】
【いえぇぇい! ありがとみんな!】
そのやり取りを見て僕は画面を閉じる。真っ暗な画面に映る僕の目は黒く濁っていた。
――今のお前は相応しくない。邪魔でしかないよ。
「わかってんだよ……」
水瀬と過ごしたこの三か月を思い出す。文月を救えなかった後悔から始まった僕たちの関係は、最初から間違っていたんだ。後悔は消えない。むしろ、傷口は悪化していく。
――私は最後まで湊と一緒にいるよ。約束。
僕の中の何かを変えてくれた言葉を思い出し、僕は読みかけの小説を閉じた。
水瀬の誕生日には参加できない、と僕は適当な言い訳を送信した。七草や佐伯から追加のアプローチをされたが、すべて断った。
【じゃあ湊。来年の詠の誕生日は空けとけよー? 笑】
その文面を見て、僕は咄嗟に画面を閉じる。心が刺されたように痛む。冷や汗が全身を舐めるように流れた。
目を閉じて深呼吸をしていると、突然電話のコールが部屋に鳴り響いた。僕は驚いて飛び起き、思わず一コールで出てしまう。
『湊―。本当に来れないのー?』
「……その日は、用事があるんだよ」
あんなことがあったのに、水瀬は普段と変わらない様子で話してくる。むしろ楽しそうだ。
『湊の選んだプレゼント、欲しかったなぁ。ねー、ちょうだいよ』
「七草と佐伯からもらったら充分でしょ。悪いけど、忙しいんだ」
ひと思いに言って電話を切ろうとすると、水瀬は「待って」と僕を呼び止めた。
『湊、何か冷たい。私また何か無神経なことしちゃった?』
「いや、違うよ。でも僕のことなんてもういいから、今までみたいに三人で仲良くやってよ」
『待ってよ、何で急にそんなこと……』
水瀬は黙り込む。そして確かめるように僕に訊いてきた。
『私と一緒にいるの、辛くなった? 怖くなった?』
否定しようとして、僕は口をつぐむ。実際にはその通りだったからだ。中途半端に否定しても、水瀬は変わらず僕と一緒にいるだろう。それなら、どれだけ傷付けることになっても。
スマホを握る手に力が入る。声が震えないように呼吸を整えて、僕は言う。
「僕が水瀬と居たのは、文月を救えなかった後悔があったからだ。だから水瀬の四季折々はうってつけだった」
『え……』
「でも四季折々を叶えたところで、僕の後悔は消えない。むしろ悪化するんだよ。怖くないわけないだろ。だからこれからは今まで通りだ」
そう、すべてが元に戻るだけ。僕は文月の思い出にひとり浸って。水瀬は――。
「四季折々は、七草と佐伯にやってもらえばいい。僕より前向きにやるはずだよ」
『……この四季折々は、湊じゃなきゃだめなの』
水瀬の声は震えていた。電話越しだから、怒っているのか泣いているのかわからない。どちらにせよ、これで最後だ。僕より四季折々に適したやつなんてたくさんいる。
僕と水瀬には、どうしても埋まらない距離がある。
『湊の四季折々は? 莉奈ちゃんと過ごした日々を信じて前に進むって、書いたでしょ?』
「……あのリストは、消しておいてほしい」
『そんなの、無理だよ』
「前に進むなんて僕には無理だ。だからもう、いいんだよ」
いつの間にか窓の外は暗くなっていた。その藍を目に映しながら、水瀬が僕のことを手放す瞬間を待つ。
『それが、湊の本当の気持ちなんだね』
感情がすべて抜け落ちたような冷たい声。その温度は僕の耳から入り込み、徐々に体に浸透していく。そうして、電話が切られた。
僕は電池が切れたアンドロイドみたいに、仰向けにベッドに倒れる。
――これで、いいはずだ。
ベッドの軋む音を耳に残したまま、僕は目を閉じた。
水瀬の誕生日の前日、僕は町を歩いていた。宿題の息抜きだ。今日は比較的に陽射しが弱くて助かった。それでも暑いには変わりないので、僕は駅中のショッピングモールを目指す。
「そこのお兄サーン! いまヒマ~?」
何か話しかけられた気がするけど、きっと気のせいだろう。僕は無視して歩く。
「そこの冴えない顔と服を着たキミだよ~?」
「ち、ちょっと、そんなこと言わない」
いや、この声のセットは知っている。神経を逆撫でするような言葉に僕は振り返る。
そこにはおしゃれな私服姿の七草と佐伯が立っていた。僕のファッション知識では説明できないが、色々なことに気を遣わないと発せないオーラだ。……そんなに冴えないか、僕?
「……お前らか」
「「確保―!」」
僕は二人に両腕を掴まれショッピングモールへ連行された。僕は右隣の七草に抗議する。
「七草、目的は何だ。あとしがみつくな、暑い」
「詠の誕プレ、選ぶの手伝ってくれよー。そんくらい、いいだろ?」
ああこいつはだめだ。僕は左隣の佐伯に助けを求める。
「あの、佐伯……」
「だめ、かな?」
僕はもう、瞳を閉じて従うしかなかった。
ショッピングモールに着くと二人は雑貨店に入り、商品を物色し始めた。ケルト音楽が心地良い音量で流れていて、つい目の前の光景に流されてしまう。
「なあ湊―。こういうの詠に合うと思うんだけど、どうよ?」
「詠ちゃんならこっちだと思うなぁ。どう思う、湊くん?」
「わからないよ。二人の方が、僕より水瀬のこと詳しいだろ」
七草と佐伯は「いやぁ、そうなんだけどー」と照れながら商品を棚に戻した。
「そういや湊は何かあげないのか? 強制じゃねぇけど、あげたら喜ぶと思うぞ?」
「いや、僕は……。二人があげれば充分でしょ」
「不足も充分もないだろ。こういうのって、誰にもらったかだと思うんだ、俺は」
七草は商品を漁りながら何気なくつぶやく。こいつは本当に、普段はおちゃらけているくせに、たまに核心を突くようなことを言う。
僕が少し感心していると、七草は不意に顔を上げて嬉しそうに笑う。
「あ、なずな。俺いま、良いこと言った気がする!」
「もう、自分で言わないの」
「へへ、すんませーん」
佐伯は七草をたしなめたあと「でも、そうなんだよね」と言って僕を見つめる。
「湊くんが選んだプレゼントなら、詠ちゃんすっごく喜ぶよ」
「……そうかな」
「うんっ。親友の私が保証する」
「詠はそういうやつだろ。物の価値とか見た目とかじゃなくて、ちゃんと本質を見てる」
確かにそうだよな、と僕は思う。だって容易に想像できる。水瀬にプレゼントを渡す。水瀬は嬉しそうに全身で喜ぶ。見ていて本当に飽きないやつだ。
「あのね、湊くん。颯斗くん、中二のときにね……」
こっそり耳打ちしてくる佐伯に、僕は少し屈んで話を聞く。
「詠ちゃんの誕生日をすっかり忘れててね。慌てて自分の食べかけのお菓子を『ハッピーバースデー』って渡したことあるんだよ」
「えぇ、本当に?」
「でも詠ちゃん、それでも『私の好きなお菓子だ!』って喜んで食べてた」
「もーあのときはマジで罪悪感やばかったなぁ」
「あっははっ。七草ひどいな。水瀬も大概だけど」
あまりの間抜けさに、僕は笑ってしまう。七草は恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。
「まあでも、こういう想いって、ちゃんと言葉とか行動にしないと伝わんないからな。中途半端じゃ、ダメなんだ」
その言葉に潜んだ重みが僕の心にのしかかる。中途半端。七草も何か、そう感じたことがあるのだろうか。すると七草は手に取っていたぬいぐるみを棚に戻した。
「うーん。ここじゃなさそうだな。次行こうぜ」
「うん、行こ行こ」
それほど深い意味はなかったのかもしれない。七草はもう佐伯と別の話をしている。僕はその後を付いて行った。
結局モール内のほぼすべての店を網羅して、プレゼント選びは終了した。七草は水瀬の好きなブランドのスニーカー。佐伯はハイブランドのコスメをプレゼントに選んだ。
満足そうな顔をしている二人に、僕は疲労の溜まった声で言う。
「二人とも、よくそんな高そうなものをポンポンと……」
「まー俺は色んなところでバイトしてるしなぁ」
「私は絵の賞金とか、収入が少しあるから」
佐伯の絵を思い出しながら僕は納得する。確かにあれなら収入を得ていてもおかしくない。
モールの出口に向かって三人で歩いていると、七草が訊いてくる。
「それで、湊はいいのか?」
「良い感じのもの、なかった?」
「……うん。僕は、いいかな」
純粋に尋ねてくる二人に僕は曖昧に答える。七草は嫌な顔一つせずに「そっか。じゃ、帰ろうぜー」と笑った。
今日、二人と居てわかった。僕はこの輪には相応しくない。自称さんはそういうことも含めて言ったのかもしれないな、と痛感した。
ショッピングモールを出て、僕たちは帰路へつく。途中に通った公園を覗くと、ちょうど小学生が帰るところだった。楽しげな声が遠ざかって行く。取り残された遊具が夕陽に照らされて、少しだけ寂しそうに見えた。
「――で、どうして喧嘩してんの?」
僕の前を歩いていた七草が振り返って訊いてくる。どうして知っているのだろうと思考を巡らせていると、佐伯が補足するように口を開いた。
「詠ちゃんがね、湊くんのこと傷付けちゃったって言ってたよ」
「……いや、水瀬は悪くないよ。ぜんぶ僕が悪い」
喧嘩とも言えない、一方的な拒絶。死季病のことも含んでいるから話せない。
「個人的な問題だから、二人には話せないよ」
「個人的な問題、か。それって、莉奈ちゃんと関係あるのか?」
「どうして、文月のこと……」
文月は七草たちの中学でも有名人だったらしいが、僕とは結び付かないはずだ。水瀬が話したのだろうか。
「とりあえずそこの公園入ろうぜ」と七草は微笑む。僕は何かが暴かれてしまいそうな恐怖と共に、その背中を追った。
「ブランコとか久々に乗ったなぁ。湊も乗れよ~」
促されて、ブランコに腰を下ろす。ギィギィと錆び付いた音。佐伯は正面の飛び出し防止用の手すりに体を預けて、僕のことを静かに見ている。
居心地の悪さを解消するため、僕は口を開く。
「誰から文月のことを聞いたんだ?」
「莉奈ちゃんは有名だったし最初から知ってた。でも病気のことと、湊と仲が良かったことは氷野から聞いたな。元々あいつとはバンドで一緒になること多くてさ」
僕は顔を歪める。不快で仕方なかった。本当にあいつは余計なことをペラペラと。
怒りを何とか鎮めるために、僕は深く息を吸う。どこからか濃い夏草の匂いがした。
「それで、どうして僕と水瀬の話に、文月の名前が出てくるんだ?」
「なずなの絵を観に行って喧嘩したときも莉奈ちゃん関係だったろ。写真の前だったし」
「……そっか」
僕は納得する。七草はやっぱり鋭い奴だ。それでも明け透けに深入りしてこないのは、ありがたかった。
「それに、繋がらないんだよ」
意味を図りかねる言葉に、僕は情報を求めようと七草の表情を見る。そんな七草も、まっすぐに僕を見ていた。
「詠は理由もなく人を傷付けるやつじゃねえ。でも詠は湊を傷付けたって言った。あいつが人を傷付けるのは、そいつの心に手を伸ばしたときだけだ」
違うんだ、声にならない言葉が喉元で凍り付く。水瀬の優しい手を僕は拒んだ。ぜんぶ切り捨てた。傷付いたのは僕じゃない、水瀬の方なんだ。
「だからまた莉奈ちゃんのことで喧嘩したのかなって思ったんだ。詠もあれでけっこう強引なとこあるからな。ま、そこが詠らしいんだけど」
また僕は地面を見ていた。死季病のことを除けば、ほぼその通りだ。どうしてこの二人じゃなく僕が死季病のことを知ってしまったんだろう。どうして水瀬は僕にだけ――。
考えても仕方のないことが頭を巡る。すると七草が僕の頬をつまんで、いたずらっ子のように笑っていた。
「顔に辛いって書いてあんだよ。こんなの、俺となずなが見逃すわけねーだろ」
「そうだよ。湊くんも詠ちゃんも、ほんとにわかりやすいよね」
僕は空を見上げる。涙が零れそうになったからじゃない。こうしないと、すべての懊悩を吐き出してしまいそうだったからだ。
この不安定で、中途半端な関係を終わらせるため、僕は込み上げてくるものを飲み込もうとする。お前は邪魔でしかないんだよ、何度も自分の中でそう唱えた。
「湊、背負って逃げるくらいなら、俺たちに吐き出しちまえ」
「っ……」
僕はもう、耐えられなかった。必死に結んでいた唇が、ゆっくりと動き出す。
とめどなく、溢れ出す。自分がどんな顔をしているかもわからない。
文月が死んで前に進めなくなったこと。水瀬が前に進もうと背中を押してくれたこと。でも水瀬といると、文月のことを思い出して辛くなり、拒絶してしまったこと。
上手く伝わらなかったかもしれない。そんなのは当たり前だ。元々、言うつもりなんてなかったんだから。でも、止まらなかった。
「中途半端はもう嫌なんだ。だからこれからは、ぜんぶ元通りだ」
居た堪れなさが、溢れてくる。すべてを元に戻すように、僕は二人に向けて言った。
「……今まで、一緒にいてごめん」
話してみればあっという間だ。後悔を軽くしようと思ったこと自体、間違いだった。この痛みも含めてすべてが、文月との大切な思い出なんだから。
――瞬間、強烈な痛みが左頬に走り、思考を攫った。
平衡感覚を失った僕は、ブランコからずり落ちる。
痛みが襲ってきた方向を確認すると、そこには肩で息をする佐伯が立っていた。怒りと悲しみがない交ぜになった複雑な表情。今まで見たことのない佐伯の気迫に、息を呑む。
「中途半端は嫌? 元通り? 一緒にいて、ごめん? ……何それ、ふざけてんの?」
佐伯は僕の両肩を掴んで、何度も揺さぶってくる。
「そんな中途半端なことしないでよ!」
予想外の言葉に僕は戸惑う。水瀬たちとの不安定な関係を断ち切ってここに――文月の思い出と共に生きて行こうって決意した。
「……これの、どこが中途半端だって言うんだよ」
「ぜんぶだよ! 中途半端に突き放して、莉奈ちゃんとの過去からも逃げようとしてる!」
「何も知らないくせに、勝手なこと言うなよ!」
僕は強引に佐伯の手を振り解いて、叫ぶ。正論だった。だから、叫ぶしかなかった。
「わからないよッ!」
僕より大きな声で佐伯は叫ぶ。体がふらついてしまうほどに。そんなことは意に介さず、佐伯は寂しげな表情で僕を見下ろす。
「わかるわけないよ……だって湊くん、何も言ってくれない」
「当たり前だろ。こんな話、簡単にできるかよ」
「そうだよね。だから私、さっき湊くんが少しでも話してくれて、嬉しかった」
強い意志が籠ったまなざしだ。水瀬も文月も佐伯も、同じまなざしを僕に向けてくる。目を逸らしてはいけない。そんな気持ちにさせられる。
「確かに私たちは湊くんのことは何も知らない。でも、心配もしちゃだめなの?」
力が抜けて、僕はうつむく。みんなどうしてそんなに優しい言葉を掛けてくれるんだろう。
僕は傷付けて、拒絶した。心配してもらう権利なんてない。
――もう僕を置いて、進んでくれ。
「余計なお世話だ。僕とお前らじゃ、何もかも違うんだよ! 考え方も生き方も!」
そこまで言って、僕は完全に関係を閉じる言葉を思いつく。その残酷さに、自分でもぞっとした。唇を舐め、悪意に染まった言葉を吐き出す。
「お前らとの関係なんてただの友達ごっこだ。だからもう僕に構わないでくれ。迷惑だ!」
沈黙が降りる。二人の顔は見えない。いや、怖くて見られなかった。このままどこかに行ってくれ、と僕は強く願った。
「……本当に、中途半端」
佐伯は両膝を地面に付け、座り込む僕を真正面から見つめた。
「違ってて当たり前だよ。違う部分を好きになったから、私たちは一緒にいるんだよ」
「一緒にするな。僕は、お前らと居たくなんてないんだよ」
水の底にいるときのような息苦しさが僕を襲う。孤独の水は、重く、冷たい。
「嘘ついてる」
「嘘じゃない! 本当にお前らとなんて――」
「本当にそう思ってるなら、どうしてそんなに苦しそうな顔してるの!?」
僕は佐伯に両手を掴まれ、痛いくらいに握られる。顔を歪めて佐伯を見ると、その瞳からは涙が流れていた。
僕は怯む。なぜか鼻の奥がつんと痛んだ。……心が、苦しい。
「そんな自分も苦しくなるような言葉ばっかり並べて、私たちを突き放せると思わないで! 友達なめんな!!」
僕は何も言うことが出来なくなった。でも、涙だけは溢れてくる。理由はとっくにわかっていた。ただ、認めたくなかっただけなんだ。
佐伯は肩で息をして、潤んだ瞳に僕を映している。みっともない姿だろう。僕は顔を逸らして涙を拭った。
「なぁ、湊。二年前にもし莉奈ちゃんから同じように突き放されたら、諦められるか?」
「……無理に決まってるだろ」
「そうだよな。俺たちも同じだ。お前を置いて進むなんて、できねえよ」
僕は恐る恐る、二人の顔を見上げる。怒ってなどいない、むしろ穏やかな顔だ。
「湊の中の莉奈ちゃんも一緒に、みんなで進もう。お前はとっくに独りじゃねえ」
心の中の霧が、晴れていく。
七草は手を伸ばしてくる。優しく温かそうなその手は、今にも燃え尽きそうな夕陽に照らされている。引き寄せられるように僕は、孤独の水中から手を伸ばした。
しかし同時に怖くなり、僕の手は止まった。あと数センチなのに、水面に至るにはまだ足りない。その距離を埋めるに至る勇気が。
――大丈夫。湊なら、絶対にできるわ。
文月の声に背中を押された気がして、僕はもう一度、力の限り手を伸ばした。
孤独の水中から手を出し、次いで顔を出す。それは、現実の僕の体をも動かした。
七草は、僅かに伸ばしていた僕の手を掴み、信じられないくらいの力で引っ張り上げた。
「湊の手、冷てぇなー。なずなも触ってみ?」
「ほんとだ。仕方ないから、あっためてあげる」
二人と握手するような構図に恥ずかしくなり、僕は手を離す。それだけでもう、熱が染み渡ってきた。充分すぎるくらいだ。
目尻に残っていた涙を拭う。涙の理由はとっくにわかっていた。僕は、嬉しかったんだ。心から僕を思ってくれることが。心から僕にぶつかってきてくれることが。――だから。
「……二人が、温かすぎるんだよ。ありがとう、七草。佐伯」
独りじゃないんだって、教えてくれて。
七草と佐伯は僕に手を差し出してくる。腹が立つくらい、嬉しそうな顔だ。
僕は少しだけ躊躇ったあと、その温かな手を結んだ。
*
僕は太陽が差し込む玄関で靴ひもを結ぶ。今日は水瀬の誕生日だ。まだ昼だけど、プレゼントを買っていないから、パーティーまでに厳選しなきゃならない。
すると不意にスマホの通知音が鳴る。相手は水瀬だった。
【パーティー楽しみ! 早く6時にならないかなー】
その文章をじっと眺めて、僕は昨日の出来事を思い出していた。
――
【湊、やっぱり明日来れるってよー!】
【やったね、詠ちゃん!】
公園から帰宅した途端にそうメッセージを送ってきた二人に、僕は焦る。あの後、佐伯から水瀬に謝るように叱られてしまった。でもさすがに展開が早すぎてまだ謝れていない。
ついこの前自分を突き放した奴が急に掌を返したら、さすがの水瀬も困惑するだろう。
【ほんとに――――――!? やった―――――!!】
そんなことはなかった。僕は思わず吹き出す。自分の部屋で良かった。
僕はメッセージを入力する。色々と迷惑を掛けた記憶がよみがえり、少し時間が掛かった。
【良ければ参加させてもらいたいです。よろしく】
みんなからファンシーなスタンプが送られてくる。僕は息を吐き出してベッドに座った。
すると突然、電話が鳴った。僕は驚いて「うわっ」と声を出してしまう。水瀬からだ。
少し話していないだけなのにずいぶん久しぶりに思える。僕は緊張しながら電話に出た。
『湊! 来れるってほんと? 嘘じゃないよね?』
「うん、嘘じゃないよ。それで、その……この前のこと、謝りたくて」
僕はベッドから立ち上がる。緊張で体から汗が滲み、心臓は早鐘を打っていた。でもきっとここが、僕が前に進むためのスタート地点だ。
「ひどいこと言って、ごめん。僕が弱いせいで水瀬を傷付けた。本当に、ごめんなさい」
『いいの。湊がまた私たちと一緒にいようって思ってくれただけで、嬉しい』
水瀬ならそう言って許してくれるだろうと、僕は思っていた。だからまだ足りない。それを水瀬に直接伝えても、はぐらかされてしまうだろう。
もっと誠実な言葉。「ごめん」より「ありがとう」よりも、誠実な言葉。
僕は「水瀬」と呼びかける。僕たちに相応しい言葉は、いつもそこにあった。
『なあに、湊』
「――四季折々」
水瀬の四季折々を全力で叶える。それが僕にとっての覚悟で、いま示せる誠実なものだ。
数秒の沈黙のあと、水瀬は「ふふふふふ」と壊れた機械のように笑い出した。
『初めて湊から言ってくれて嬉しい。でも湊、無理してない? 辛く、ならない?』
「辛くなるとは思う。でも、僕より辛いのは水瀬だ。だから一緒に前に進みたい」
僕は、僕の手を優しく引いてくれる人たちの顔を思い浮かべて、言った。
「もう独りじゃないんだって、みんなが教えてくれたから」
『……もう、気付くの遅すぎだよ』
呆れたように言った電話越しの水瀬は、嬉しそうに笑った。
――
靴を履き終えると「あら、今日はどこに行くの?」と母さんに声を掛けられた。僕が自発的に家から出るのが嬉しいのか、ニコニコしている。
簡潔に言うなら、そうだな……。少し考えて、僕は口を開いた。
「――友達の誕生日会だよ。行ってきます」
何だか体がむずがゆい。慣れない言葉だけど、事実だから仕方ないよな。
僕はそう納得して、弾むような気持ちで家を出た。
夕陽が西の彼方へ沈んでいく。赤、橙、黄。まるでパレットに延ばした絵の具みたいに、空が色濃く染まっている。遠くからは群青が押し寄せていた。夜は近い。
僕は住宅街を奔走する。プレゼントを吟味していたら遅刻ギリギリになってしまったのだ。呼吸が苦しくなり、僕は走るのをやめた。心臓が張り裂けそうなほど脈を打っている。
途端に汗が噴き出してきて、熱気が体に纏わりつく。でも清々しい気分だ。
僕はリュックの上からプレゼントの存在を確かめる。七草や佐伯より値は張らないけど、水瀬のことを考えて真剣に選んだ。
水瀬の家まであと少し。さすがに汗だくで誕生日会に参加するのはまずいだろう。僕は滲む汗を拭った。
丁字路を曲がると、遠くに多くの人だかりができていた。何だろう、よく見えない。ただ、住宅に点滅する赤いランプだけが浮いていて、不気味だ。
嫌な予感がした。さっきまでの清々しさと違う冷たい汗が、背中を這う。
僕はその人だかりへ近付いて行く。少しだけ見えた。白い車体。赤いライン。赤い点滅。息を呑む。
――今日未明。日向町の中学二年生、文月莉奈さんが山の斜面で遺体となって発見されました。莉奈さんは町内の山中にある公園から飛び降りたと見られ、近くに莉奈さんの物と思われる靴が置いてあったことから、警察は自殺の可能性を視野に――
無機質に、ただ現実だけを突きつけるニュースが僕の脳裏に蘇る。何も知らないまま、突然終わりは訪れるんだ。
水瀬の家はもう少し奥のはずだ。脚が震えていた。今にも倒れてしまいそうだ。僕はその足を引きずるように、現実の中心部へと向かう。
違う。絶対に、違う。誰かほかの人の体調が悪くなったんだ。水瀬はそれを心配そうに見ている。誕生日会は六時から予定通り開かれて、プレゼントを渡して、みんなで――
「詠ッ!!」
「詠ちゃん!!」
七草と佐伯の、悲鳴に近い叫び声が辺りに響く。
瞬間、僕は駆け出していた。躓き、転びそうになるのを堪えて二人の声の方へ。
人混みをかき分けて、僕は二人の隣に並んだ。
「っ――湊! 詠が……」
目を覆いたくなるほどの現実に、僕は立ち眩みを覚える。救急車内のストレッチャーに乗せられた水瀬の体は、ピクリとも動いていなかった。
「あの、すみません。ご家族の方以外の同乗はできません」
気が付くと僕は救急隊員に制止されていた。関係あるか。肩を揺すったら起きるはずだ。もっと近くに行って、声を。
僕は救急車に近付こうと無理やり脚を動かす。
「大切な、友達なんです……」
自分でも驚くくらい、震えた声だった。自覚した途端、寒気がした。
僕は制止されたまま、救急車に向かって手を伸ばす。でも水瀬にはまだ遠い。
「湊……」
「湊くん……」
名前を呼ばれ振り向く。僕の両隣には七草と佐伯が立っていた。それに気を取られているうちに、けたたましいサイレンと共に、水瀬を乗せた救急車が走り出した。
「水瀬……」
つぶやいた僕の両手に、冷たい何かが触れた。見なくてもわかる。七草と佐伯の手だ。
心を巣食う不安から、縋るように僕も握り返す。ただ、二人の手も昨日とは違い、冷たく震えていた。
二年前と同じだ。何もかもが遠くへと消えてしまう感覚。
僕たちは閑静を取り戻した住宅街に、いつまでも立ち尽くしていた。
3
あれから二日。僕たちは水瀬のお見舞いで病院に来ていた。ここに来るのは二度目だ。
「いやぁ、最近ずっと小説のこと考えてたら、階段から転げ落ちちゃって……はは」
「はは、じゃないでしょ! 心配したんだから、もう!」
「なずー、ごめんってー」
水瀬は佐伯に叱られベッドの上で謝っている。七草はそんな佐伯を「まあまあ」となだめていた。水瀬の頭と右腕には包帯が巻かれ、所々青痣があって痛々しい。
「にしても、一週間も検査入院なんてつまんないなー」
「……頭とかも打ってるんだから、大人しくしとけ」
「むーん、湊きびしい」
きっとそれには死季病の検査も含まれている。水瀬が階段から落ちた理由が本当かはわからない。でも、死季病が進行している可能性も捨てきれないだろう。明るく話している水瀬を見ていると、胸が痛んだ。
「じゃー、そろそろやるか!」
「わーやった! 楽しみ!」
「ふふ、詠ちゃん子どもみたい」
でも、今はそれより――。
『四季折々――誕生日会、やりたい』
水瀬は倒れた翌日にそう連絡してきた。悩む必要すらなく、僕のやることは決まっていた。
僕たちは病院に来る前に買ってきたパーティーグッズの飾り付けを始める。水瀬は脚も怪我しているので、指示役を買って出た。今も険しい表情でベッドの上から目を光らせている。
飾り付けはたっぷり三〇分ほど掛かった。元々買い過ぎたグッズをぜんぶ切って貼って付けたら、およそ病室とは思えない仕上がりになってしまった。
水瀬はパチパチと大きな拍手をする。
「わー最高っ! みんなで写真撮ろ~!」
水瀬の提案で、パーティー会場をバックに写真を撮る。文月の被写体になることはあったけど、こうやって友達と一緒に撮るのはずいぶん久しぶりだった。
時刻は午後三時。テーブルにお菓子やケーキ、水瀬の母親が作ったオードブルを広げる。パーティーという感じがしてワクワクした。
カーテンを閉め、息を吹きかけると消えるキャンドルライトを点ける。まるで本物の炎みたいに、ライトが揺らめく。
みんなで息を揃えてバースデーソングを歌った。なぜか祝われる側の水瀬の声がバカみたいに大きいのが可笑しくて、僕たち三人はまともに歌えなかった。
妙にくすぐったくて、楽しくて、僕は自然と笑ってしまう。それはみんなも同じだった。
「「「誕生日、おめでとう!!」」」
「みんなありがと!」
水瀬はライトで明るく照らされた顔で屈託なく笑い、『1』『6』二つのキャンドルライトに息を吹きかける。これで僕たちみんな一六歳だ。
ケーキを取り分けて会話を弾ませていると、七草が目配せしてくる。水瀬にプレゼントを渡す合図だ。ウインクが妙に上手いのが腹立つ。
「はい詠、俺から!」
「詠ちゃん、私から!」
綺麗にラッピングされたプレゼントに、水瀬はベッドが壊れるんじゃないかと思うくらい跳ねて喜んだ。さっきから「わ~すご~! かわい~!」しか言えていない。
ついに僕の番だ。プレゼントが入ったバッグをちらりと見て、包帯が巻かれた水瀬の右腕に視線を向ける。
「……ごめん。今日までにプレゼント用意できなかったんだ。時間が掛かるって知らなくて」
楽しい場を白けさせるのはわかっている。でも僕のプレゼントは、今の状態の水瀬には使えない。治ってから渡したかった。
次の言葉が怖くて下を向く。生まれた数瞬の沈黙だけで、僕の心臓は不規則に脈を打った。居た堪れなくてこの場から逃げたい気持ちに駆られる。でも――。
「湊、プレゼント用意してくれたんだね。それだけで私嬉しい! ふふ、何かなぁ」
「予約制ってことは、きっとやっべーやつだぜ?」
「ほほう、なんと!」
「大人だなぁ湊くん。楽しみだね、詠ちゃん」
責めるどころか嬉しそうにしてくれる水瀬を見て、罪悪感が僕の心を刺す。
色々と申し訳なくなった僕はふと思いつき、飾り付けに使った色画用紙を手に取った。簡素だけど、仕方がない。
「とりあえず、これ」
僕はハサミで長方形に切って文字を書いただけのそれを渡す。しかし文字が見えなかったのか、水瀬は首を傾げた。
「えーと……肩たたき券?」
「ブフッ」
七草が口に手を当てて吹き出す。僕は恥ずかしくて顔が熱くなった。
「たぶん違うよ、詠ちゃん。よく見てみて」
佐伯だけはフォローを入れてくれる。いや、佐伯も顔が赤い。今にも吹き出しそうだ。
「あは、いっけねー。どれどれ、ふむふむ」
水瀬はおどけたあとまじまじと色画用紙を見て、子どもみたいに顔を輝かせた。
「うわー! 『プレゼント引換券』だぁ!」
「あの、水瀬。もう、やめて……」
「おい湊~。いくら用意できなかったからって、ひ、引換券って……!」
「は、颯斗くんそんなに笑っちゃ……!」
自分でも子供っぽいとは思っていたけど、そんなに笑わなくてもいいだろ。
恥ずかしさと後悔がピークに達した僕は引換券を取り戻そうとしたが、水瀬が胸に抱いて返してくれない。
「返さないよーだ! もうもらっちゃったもーん! 誕プレ楽しみにしてるね、湊!」
「……あー、まあ、うん」
水瀬が喜んでいるならそれでいいか、と僕は無理やり納得することにした。
面会時間ギリギリまで誕生日会は続いた。というか少し過ぎて看護師さんに叱られた。病室を片付けて水瀬に別れを告げる。楽しい時間はあっという間で、少し寂しい。
水瀬もそれを感じたのか、怪我をしているのに病院の出入り口まで来ようとしたので、みんなで慌てて止めた。
「めっちゃ楽しかった~! みんなまた来てね~! ばいばーい!」
僕たちが見えなくなるまで、水瀬は笑顔でぶんぶんと手を振っていた。その姿は明るく、でも寂しそうに僕には見えた。
――じゃあまたね、湊。
病室のベッドから静かに僕につぶやいた文月の姿が、今の水瀬の姿と重なった。
最寄り駅に着いたのは、一九時半頃だった。七草と佐伯は寄るところがあるらしいのでそのまま別れる。
家路へと向かって歩く。駅前にあった喧騒は止み、住宅街のどこかにいる鈴虫の鳴く声だけが辺りに反響していた。今までは気にしたこともなかったけど、心が安らぐ音だ。
今日の誕生日会のことを思い出して頬が緩む。それと同時に別れ際の水瀬の姿が浮かんだ。
その瞬間、空気を切り裂くように着信音が鳴り響いた。誰だろう、と思ったら水瀬だった。
「もしもし、どうしたの?」
『やっほー、もう家着いちゃった?』
「まだだけど……」
まさか忘れ物でもしたか? と思い、体をまさぐる。でも僕の予想は外れた。
『四季折々――夜の町を見たい』
「それは、退院したら、だよな?」
『今から! 四季折々もまだいっぱいあるから、やれそうなことぱぱっと叶えちゃおうよ』
「え……」
僕は絶句する。あり得なかった。今まで水瀬が一つ一つの四季折々を全力で叶えてきたからこそ、その言葉は歪んで聞こえた。
黙っていると、自動車が脇を通り過ぎる音が聞こえた。しかし顔を上げても僕の周りには何もない。もしかして、抜け出したのか?
「なあ水瀬、今どこにいるんだ?」
『とりあえず駅前に集合ねー!』
「え、あ、ちょっと」
返事をする暇もなく電話を切られる。さっきまでは心地良かった静けさが今はうるさく感じて、妙に落ち着かない。
僕はスマホをポケットにしまい、その場に立ち尽くした。水瀬らしくない言動。病室での別れ際に見せた寂しげな姿。
――独りは不安で寂しいのね。今まで独りだったから、気付かなかったわ。
ああ、同じなんだ。入院中、文月がそう言って見せた笑顔と、さっきの水瀬の笑顔は。
踵を返して僕は走り出す。もう鈴虫の声は、聞こえてこなかった。
「あっ湊! さっきぶりー!」
「あのな……」
僕は肩で息をする。色々とあった言いたいことは、胸とわき腹の痛みに負ける。水瀬はさっきまでの無機質な病衣とは違い、おしゃれをしていた。
ゆったりとしたブラウンのオーバーオールに白いTシャツ。足元の裾はまくって同系色のスニーカーを履いていた。
「可愛い? 颯斗から貰ったスニーカーとね、なずから貰ったアイシャドウとリップもしてみたんだ」
水瀬は目を瞑り顔を近付けてくる。確かに普段より目元がくっきりして見えて、唇も桜色に色付いていた。それだけ見て、僕はぱっと顔を逸らす。
「良いんじゃないか。すごく似合うと思う」
「ふふ、ありがと」
目を細めて水瀬は笑い、歩き出す。僕もいつも通りその隣に並んだ。
夜の町を見たいと言っても、それは何気なくその辺をぶらぶらするだけだった。
駅前の工事現場を覗いて何が建つんだろうと考えたり、居酒屋が並ぶ路地で酔っ払っている大人たちを見て、四年後どんなお酒を飲んでみたいかを話し合ったりと、何でもない会話だ。
やがて僕たちは明るい中心街から離れ、町の西側に向かって歩く。住宅街に差し掛かり暗さの比率が高くなってくると、水瀬が空を見上げてつぶやいた。
「ここだとあんまり星、見えないね~」
「唐突だね。それも四季折々?」
「そうだよ。今日晴れてるから、見たいなって」
確かに今日は空気も澄んでいて天体観測日和だ。しかし家々の隙間から覗く星は何だか味気ない。水瀬は同じく空を見上げていた僕に尋ねてきた。
「ねえ湊。もっとよく星が見えるところに行きたいんだけど、知ってる?」
知らない、と言いたかったけど、僕は知っていた。ここよりさらに暗く、高い。僕の大切な思い出が詰まった場所でもあり、最も近付きたくない場所。
逡巡した僕は、やがて口を開く。
「……知ってるよ。今から行こう」
「やった! 行こ行こ!」
水瀬はガッツポーズをして、僕の隣に並ぶ。もう二年ぶりになる。そこに水瀬と行くのは、何だか変な感じだ。
「っ!」
思考を遮る小さなうめき声をあげ、水瀬は僕に寄り掛かってきた。慌ててそれを支える。
初めて触れた日からずいぶん冷たくなった体温は、温和な理想に浸っていた僕を冷徹な現実へ引き戻すには十分すぎた。
「ごめん、何かちょっと足がもつれちゃって」
水瀬は軽くその場でストレッチをしてまた歩き出した。反射で引き留めようとした手を降ろして、僕はその後ろ姿を見つめる。
理解せざるを得ない。水瀬が今、この瞬間に、自分の脚で歩く意味を。
僕は歩く速度を落として、いつでも水瀬を支えられるように意識を注ぐ。
「……ここからその場所までけっこう遠いんだ。どうする?」
「すっごく歩きたい気分だから最高だね! 最後まで歩く!」
水瀬は無邪気に笑って僕の数歩先を歩いて行く。アスファルトとスニーカーが強く擦れる音が、僕の耳の奥にこだましていた。
西に向かって歩き三〇分ほど。辺りは明滅して頼りない街灯だけになった。時折、思い出したように車が数台通過する。水瀬はそのライトに照らされながら空を見上げて微笑んでいた。
僕たちは雑談を交わしながら歩道を練り歩く。やがて一時間に数本しか来ないバス停を目印に、小路へと逸れた。
この場所は本来、バスで来る場所なのだ。少なくとも、僕と文月はそうしていた。
「ここ?」
「そうだよ。ここからちょっと山登るけど、平気?」
「もち!」
案内板には『展望公園』と表示されている。大体一〇分ほどで着く距離だ。
僕と水瀬は整備された山道を登っていく。光源はほとんどなく、隣を歩く水瀬の表情も見え辛い。吹く風が、空を黒く塗りつぶしたような木々を揺らした。
「なかなか雰囲気あるね。ちょっと怖いかも……」
「水瀬、肩に乗せてるの何?」
「やぁーめーてーっ」
僕の声を遮るように水瀬は叫ぶ。意外と怖いものが苦手らしい。話題を変えるように、水瀬は口を開く。
「今日の誕生日会、楽しかったね! オードブルもケーキも美味しかったし、プレゼントも嬉しかったし、毎日でもやりたい」
「あんな贅沢ばっかりしてたら、水瀬はすぐ太りそう」
「何だと!? いいじゃん、ケーキの三個や四個くらい!」
「え、四個も食べてたの? やば……」
「女の子は甘いものならいくらでも入るの!」
水瀬だけだろ、とは思ったけど、自称さんも甘いものには目がないから何とも言えない。
「でも、毎日みんなと居たいなーとは本気で思うよ」
「まあそれは、そうだね」
暗闇に目が慣れてきたのか、水瀬が「素直になったねぇ」とニヤニヤするのが見えた。少し腹立つけど、それは僕も本気で思うことだ。
「みんなで叶えられそうな四季折々もいっぱいあるんだ。だから、効率的に叶えていきたいなーって思って」
その機械のように冷たい言葉が、僕の心に深く刺さる。いいや、違うだろ。
水瀬の歩んできた四季は、そうじゃないはずだ。それは四季折々を根底から覆す言葉だ。
「……何か、あった?」
「え~何もな――あっ」
突然バランスを崩した水瀬の腕を掴む。しかし水瀬はそのまま座り込んでしまった。立ち上がろうともがいていたけど、脚に力が入っていないみたいだった。
「水瀬……」
「あれぇ~? おかしいな~」
水瀬は誤魔化すように僕に微笑む。暗闇で輪郭がぼやけ、その笑みは嫌に歪んで見えた。
病院に引き返すのは簡単だ。でも今はただ、水瀬の四季を大切にしたかった。
「乗って。僕が上まで連れて行く」
僕は水瀬の前で背中を向ける。困惑した水瀬の息遣いが聞こえた。
「だ、大丈夫だよ、湊。すぐ歩けるようになる――」
「――いいから。……行こう、水瀬」
「……うん。ありがとう」
背中に水瀬の体重が掛かる。負担を感じないほど軽くて冷たい体だ。じんわりと僕の体の表面が冷たくなっていく。その感覚を噛みしめながら、僕は水瀬をおぶって山道を登り始めた。
「湊は、何か、あったの?」
「どうして?」
「だって、今から行く公園って、莉奈ちゃんが……」
「ああ、そうだよ」
知っていて当然だ。この道と展望公園は、連日ニュースで取り沙汰されていたから。
どうしてだろう。前の僕ならあり得なかった。この場所に近付くことも、ましてや文月と同じ境遇の水瀬と一緒に、なんて。
「どうして、ここに連れてきてくれたの?」
勾配がきつくなってきた。僕は水瀬の体を背負い直し、脚に力を込めた。
ここに水瀬を連れて来た理由。浮かび上がった本心を、僕はなぞる。
「いつまでも、立ち止まってちゃだめだって思ったんだ」
「……そっか。そう思ってくれて、良かった」
病室で書いた『あの日々と、自分を信じて、前に進む』という僕の最初の四季折々。それが今は、少し違っていた。
僕は、ひとつひとつ丁寧に階段を上る。僕の背中にいる水瀬の表情はわからない。わかるのは、背中越しに伝わる鼓動と心の機微を映した声音だけだ。
それだけで、十分だった。僕は水瀬に本心をぶつける。
「僕はみんなと一緒に、前に進みたい」
「うん、私も一緒だよ」
「だから今、水瀬が前に進めてない理由を知りたい」
スニーカーで土を抉る感触。僕はそこで立ち止まり、水瀬の言葉を待った。
水瀬は僕の首元に回した両手を、きゅっと握った。
「それは、四季折々?」
何も否定しない水瀬に僕は確信する。四季折々に効率を求めたのも、病室で見せた不自然な笑顔も、すべてSOSなのだと。
僕が頷いたら水瀬は本音を吐き出すだろう。四季折々はそういう後悔をなくすために作られたんだから。でもこれは、四季折々に書くまでもない願いだ。
「いいや。水瀬の友だちとして、知りたいんだ」
水瀬が背後で息を呑む音が聞こえる。今の僕の言葉に四季折々みたいな強制力はない。だから、仮面を被り続けようと思えばできるはずだ。
「……困ったなぁ」
水瀬は静かに笑う。僕の背中に掴まる力が徐々に強くなっていく。そして僕の耳元で、何でもないようにつぶやいた。
「私、死ぬのが怖いみたい」
「――っ」
その響きに、僕の心は錆び付いた歯車みたいに音を立てて擦れる。
それは目を背けることは出来ない事実で。それでも水瀬がずっと明言しなかった現実だ。
覚悟していたつもりだった。でも、まだ足りなかったんだ。本当の意味で僕は、水瀬が抱える死の恐怖に向き合えていなかった。
返す言葉が一つも出て来ない。再び歩き出して最良の言葉を探す。それが悔しくて、情けなくて、僕は唇を噛んだ。
水瀬は明るい声で続けた。
「だから楽しいことをして、ずっとみんなと居たいの」
どれだけの恐怖だろう。僕には想像もつかない。共感も慰めも意味を成さない。この剥き出しの恐怖を取り除くことなんて、きっと二年前の僕でも、無理だ。
「何か、言ってよ」
僕は押し黙る。こんなに近くにいるのに、今の水瀬は遠く、独りに感じた。こんな時に限って言葉は不便だ。適切な言葉なんてわからない。何を言っても、水瀬に届く前に空中で解けてしまうだろう。
「――なんてね」
黙り込む僕に、水瀬は話を断ち切るようにつぶやく。
途端に視界が明瞭になる。僕たちを覆っていた木々の群れが終わりを告げ、一本の大樹が目に飛び込んできた。二年ぶりの展望公園だ。
「ここまでありがとね、湊!」
「あ……」
水瀬は勢い良く僕の背中から降りると、展望公園の中心まで歩いて行く。すぐ目の前には落下防止用の柵がある。
「湊―! 夜景、綺麗だよー!」
吐露した死の恐怖なんて初めからなかったみたいに、水瀬は僕を手招く。
眼下にある中心街は煌々と輝き、それを囲うように住宅街の灯りが並んでいる。その灯りは銀河に浮かぶ星々みたいだ。でも今の僕には濁って見えて、直視できない。僕の視線は自然と目の前の崖の下――文月の命を奪った暗闇に向けられた。
「夜の町、すっごい綺麗だね!」
水瀬ははしゃぐ。肯定も否定もせず、僕は目を閉じる。
ここに来た理由を思い出す。文月と過ごしたあの幸福だった日々を、僕が立ち止まる言い訳にしないためだ。
――でも、またお前は立ち止まろうとしてる。そうすれば傷付かずに済むもんな。
崖の下の暗闇から、もうひとりの僕の声が聞こえた気がした。
「夜の町を見たい。達成だね」
四季折々を取り出して線を引こうとする水瀬の手を掴む。そうして初めて気付いた。僕の手が、どうしようもなく震えていることに。
「……湊、どうしたの?」
呼吸まで震えて声も出せない。理由はわかっている。二年前の後悔の渦が、僕の頭の中を巡っているからだ。
――どうせお前は誰も救えないよ。文月莉奈も。水瀬詠も。自分自身も。
また僕の声が聞こえる。ああ、そうかもしれないな。
「――湊の手は、いつもあったかいね。ほっとする」
その声に、何もかも冷え切っていた僕のすべてが解けていった。
「僕じゃなくて、水瀬が冷たすぎるんだよ」
「ふふ、知ってる。じゃあ、あっためて」
水瀬はそう言って手を握り返してくる。熱が逆流して僕に流れ込む。震えが、止まった。
確かに救えないかもしれない。でも、もう二度とあんな辛い別れを繰り返さないために、あがくことはできるはずだ。
僕は水瀬の両手を包み込む。約束したんだ。病室で水瀬が力強く結んでくれた約束。あの約束は、互いを独りにしないために交わしたものなんだって、僕は信じてる。
僕は、上目遣いで覗き込んでくる水瀬を正面から見つめて言った。
「僕は、最後まで水瀬と一緒にいるよ。約束」
声が少し裏返ったけど、目は逸らさない。いずれ訪れる未来に怖くて泣きそうになるけど、あの日の病室の水瀬と同じように、僕は微笑んだ。
水瀬は目を大きく開いて見つめて来る。僕の姿と夜景が映り込んだ瞳が輝いた。
「震えてるよ、湊」
「そこは、大目に見てくれると助かる」
「あははっ、情けね~」
どんなに不格好でも、前に進むための一歩に変わりはない。僕らしいな、と自分でも思う。
すると水瀬は前触れもなく僕を抱きしめてきた。甘い香りと柔らかな感触と冷たさ。そのアンバランスが僕を包む。それは徐々に、力強く。
「……ありがと。湊が一緒なら、もう怖くない」
少し涙混じりの声で水瀬は言う。そこに不安も恐怖も内包されていることは、誰から見ても明らかで。だから僕は、この約束を形として残そうと決めた。
「水瀬、渡したいものがあるんだ」
「なに?」と水瀬は僕を抱きしめていた腕を解く。少し熱っぽい感触が僕の肌に残った。
僕は鞄の中から手提げ袋を取り出し、水瀬に手渡す。
「誕生日、おめでとう」
「え、プレゼント……? でも、時間掛かるって」
水瀬は困惑しながらも嬉しそうに、僕と紙袋を交互に見る。
「ごめん、嘘なんだ。水瀬の腕が治ってからの方が良いのかなって考えたら、渡せなくて」
「そっか……気を遣ってくれてありがとね。あっ、ちょっと待って!」
慌てた様子で四季折々をパラパラとめくる水瀬。すると一枚の色画用紙を僕に渡してきた。
「はい、引き換え!」
昼間に笑われたことを思い出した僕は、慌ててそれをポケットに突っ込んだ。
「ね、開けていい?」
「ああ、もちろん」
促すと、水瀬は子どもみたいに顔を輝かせて綺麗に包装を剥がす。開封している間、水瀬はしきりに「包装おしゃれだぁ」「わ、箱出てきた!」などと盛り上がっていた。
慎重に箱を開いた水瀬が息を呑むのが、僕にも伝わる。
「万年筆だ……! しかも、先生と同じモデル……!」
水瀬は万年筆を手に取り、色々な角度から眺めている。やがて宙に文字を書く仕草を僕に見せたあと、恥ずかしそうに笑った。そんな水瀬に僕もつられて笑う。
僕はこの約束を形に残すための言葉を唇に乗せる。
「水瀬がこれから歩く四季を、その万年筆で書いて、僕に見せて」
一瞬一瞬を、大切に刻んでほしいと、僕は心から思った。
「うん……! ありがとう、湊。約束するね!」
水瀬は眩しいくらいに笑う。目尻に残る涙の粒が、澄み切った町の灯りで光っていた。すでにその表情に仮面はなくて。四季折々に未来への祈りを綴る姿が、僕の瞳に焼き付いていた。
*
それから五日後、水瀬は退院した。夏が加速していく中、水瀬は願いの一つ一つを全力で、楽しそうに叶えていた。
「重大な四季折々を発表いたします」
かしこまった口調で水瀬は宣言した。重大と言われると怖いな、と思って内容を訊くと「それは先生の家に行ってからね」と最悪な場所を指定された。自称さんの家にはあれ以来行っていないから、気が重い。
退院したその足で、僕たちは自称さんの家に向かう。僕の心とは裏腹に晴れ渡った昼下がりの青空。陽射しは変わらず強いが、気持ちの良い風が吹いていた。
「はあ……水瀬、本当に行くの?」
「もー! もにょもにょ言ってないで、早く行こ!」
「わかったよ」そう仕方なく返事をして、僕は水瀬が乗る車椅子を押した。
水瀬は自称さんの家に着くと、玄関で車椅子を降りた。完全に歩けなくなってしまったわけじゃない。ただ、もう普通には歩けない。
死季病の進行で硬直が増した脚でよたよたと歩いて、水瀬はリビングの扉を開けた。
自称さんは相変わらず机に向かって、原稿に万年筆を走らせていた。僕がいた頃より色々なところに服やゴミが散らばっていて、若干空気が淀んでいる。
「せんせーぇ! お久しぶりでーす!」
「ああ、詠か。思ったより元気そうで何よりだ。まあ、座るといい」
当然のように会話している二人に僕は困惑する。水瀬はつい最近、辛辣な批評を受けたばかりなのに。
すると自称さんは、切れ長な目で視線を送ってきた。僕は内心ビクッとする。
「湊も久しぶりだな。それで、今日のスイーツは何だ?」
あまりにいつもと変わらない調子の自称さんに、思わず僕は笑ってしまう。
「えっと、ウィークエンドシトロン? まあレモンケーキ、ですね。水瀬のリクエストで」
「私が選びました! 美味しいんですよ、ここのやつ」
「……そうか、美味そうだ。なら紅茶だな」
ケーキ箱をリビングテーブルに置いて、僕は三人分のアイスティーを作る。それからソファでくつろいでいると、水瀬がレモンケーキをアイスティーで流し込んで口を開いた。
「あ、湊。四季折々なんだけどね!」
「バッ……!」
僕は声のボリュームが狂った水瀬の口を押さえる。死季病と四季折々については僕が自称さんに話してしまっているが、水瀬は隠したいはずだ。何やってるんだ、こいつ。
「死季病の件はすでに詠から聞かせてもらっている」
僕は驚いて、押さえていた水瀬の口を離す。話す基準が謎だった。僕や自称さんに話して、七草や佐伯に話さない基準が。
「そういうこと! じゃあ発表するね」
水瀬は勢いよく立ち上がるが、体がふらついてテーブルに接触する。コップの中の氷がカラン、と小気味良い音を奏でた。僕はとっさに体を支える。
「大丈夫か? あんまり急に立ったら危ないぞ」
「あ、ありがと、湊」
僕は今まで通りとはいかない水瀬をソファに座らせて、四季折々の発表を促す。
「四季折々――颯斗となずをくっつけたい! はい拍手っ!」
水瀬ひとりだけの拍手が、リビングに響く。僕と自称さんはそのテンションに付いて行けずにただ見ていた。ノリの悪い連中である。
そこでふと疑問に思ったことを僕は口に出した。
「あれ、あの二人って、まだ付き合ってなかったのか?」
「そうなんだよねぇ。好き同士なんだけどね」
二人の距離感を思い出していると、水瀬がじっと僕を見てきた。
「湊ってさ。莉奈ちゃんと、どこまでいったの?」
「は!?」
「ふっ、ストレートだな」
動揺していると、水瀬は体をくねらせて愉しそうにあらぬ推測を立て始めた。
「話してた感じだとー、手は繋いでるよね~? あ、ちゅーもしてるかぁ。その先は怪しいけど~! きゃー」
「勢いで手は繋いでいる。が、ちゅーはしてないな」
「っ……!」
いや、どうして言っていないのに正確にわかるんだ、怖すぎるだろ。
水瀬は一人で「ほほーっ!」と興奮して、隣で冷や汗を掻く僕に詰め寄って来る。
「ねードキドキした? したんでしょ? ん? ほれほれ、言うてみぃ?」
「あーうるさいっ! それより二人の話だろ! はい、四季折々―!」
話を元のレールに戻すと、水瀬は「つまらぬー」と唇を尖らせた。自称さんも若干つまらなそうにしている。この二人が組むと最悪かもしれない。
水瀬は自称さんに、七草と佐伯の基本情報と関係性などを話した。
「――って感じでお互い好きなのはバレバレで、クラスも公認のカップルなんですけど」
「なるほどな」
自称さんは空になったケーキ皿を見つめながらうなずき、言葉を続ける。
「なぜ結ばれないのか。私からすれば明白だな」
「ほ、ほんとですか!? それってどうしてですか?」
「それを含めて考えるのが四季折々だろう? 甘えるな」
ズバッと切り捨てられ、水瀬は「せんせぇ……」と枯れた花みたいにしおれる。これはダメージが大きそうだ。自称さんは深く椅子にもたれ掛かり、僕と水瀬を交互に見て言った。
「考えて、行動して、悩んで、本質を見つめ続ければ答えは浮かび上がってくる。詠、お前が今までずっとやってきたことだ。忘れたか?」
水瀬は首を横に振ると「湊、作戦会議だ!」と言ってリビングと繋がる書斎へと移動する。僕も「わかった、やろう」と答えて立ち上がった。
自称さんは氷が解け切ったアイスティーを飲み干すと、また執筆に戻った。
「甘えるなって言っておいて、自称さんって水瀬には甘いですよね」
「レールを敷いたつもりはないさ。ご褒美ってところだな」
万年筆を動かしながら話す自称さんに、僕は「ご褒美?」と尋ねる。
「少し見ないうちに二人とも成長している。特に湊。前よりいい顔をするようになった」
「え……」
「暗闇はもう、抜け出したか?」
不意に褒められて僕は顔が熱くなる。溺れてしまいそうなほどの暗闇。そこから光へと連れ出してくれた女の子を横目で見る。
「水瀬が、みんなが連れ出してくれたんです。だから次は僕の番かな、って」
自称さんは鼻を鳴らして笑う。やっぱり少し調子に乗りすぎたかもしれない。
「まったく……調子に乗るな、このヘタレ童貞が」
「なっ、そ、それは関係ないでしょ!」
僕は狼狽えながら自称さんに抗議する。こんな話、水瀬に聞こえたらどうしてくれるんだ。書斎の方を見るとすぐ近くに水瀬が立っていて、僕は驚いてしまう。
水瀬は体の前で指を組み、少しだけ視線を彷徨わせていた。僕は何か言われる前に水瀬を書斎の方へ誘導した。
「ごめん水瀬。会議しような」
すると不意に自称さんが思い出したように水瀬に言う。
「詠、入院中に送ってくれた原稿だが、ずいぶん良くなっていたよ」
「ほ、ほんとですか!? やった!」
大きくなった水瀬の瞳が窓から差し込む陽光に照らされる。きっと、あれから水瀬はずっと悩んで、小説の推敲を続けていたのだろう。
「詠の想いや正しさが、世界観やキャラクターに溶け込んで、共感できるストーリーになっている。……いいんじゃないか?」
沈黙が降りる。目の前の水瀬を見ると、ぽかんと口を開けてフリーズしていた。人を褒めない自称さんがこんなことを言ったら、そりゃそんな反応になるよな、と僕は苦笑する。
すると水瀬の体が小刻みに震え始めた。まさか、泣いてるのか?
「せんせーぇ!」
「うおっ」
僕を押しのけて水瀬は自称さんのもとまで駆けていく。でもその足元は赤子のようにたどたどしい。転びそうになる水瀬を、とっさに自称さんが抱き支えた。
「まったく、危ない奴だな。気を付けろ」
「ふふー。先生、初めて褒めてくれましたね~! 好きっ!」
「こら、離れろ」
水瀬は自称さんに抱き付きながら、頬をつねられていた。「いひゃいいひゃい」と言いながらも変な顔で笑っている。僕もその光景に頬が緩んでしまう。
「おい湊。このバカを引き剥がすのを手伝え」
「……」
僕はその状況を眺めながら無視する。決して自称さんのさっきの言葉を根に持っているわけではない。
自称さんは半ば諦めた様子でため息をつく。やがて水瀬の頬を色んな方向に伸ばして遊び始めると、ポツリとつぶやいた。
「……桔梗みたいなやつだな、お前は」
「桔梗……お花の方ですか?」
自称さんは何も答えず、水瀬の頬を離して僕を見た。いつもの飄々とした表情だ。
「この四季折々についてもう一つだけ言っておこうか」
僕と水瀬はその言葉に顔を見合わせる。何か問題点でもあるんだろうか?
「今回の願いは詠では叶えられない。絶対に、な」
「それって、どう……」
――それを含めて考えるのが、四季折々だろう?
さっきの自称さんの言葉を思い出し、僕は考える。七草と佐伯をくっつけるには、余計なことはするなということか? でもそれなら「詠では」と言う必要はないはずだ。
思考を巡らせていると、自称さんが外の様子を眺めて立ち上がった。
「……雨が降るな。少し出てくる。遅くなるだろうから自由にしていてくれ」
そう言い残して、自称さんは出掛けて行った。リビングに取り残された僕と水瀬の間に、重たい空気が張り詰める。
「とりあえず、どうやって四季折々を叶えるか、会議するか」
「うん、そうだね」
書斎へと移動する。十畳ほどの部屋は壁一面が本棚で、様々なジャンルの小説が並べられている。窓から差し込む暖かな陽射しが、毛足の長いラグを際立たせていた。
デスクとパソコンもあるが、自称さんは滅多に使わないので、ただのインテリアとしての役割しか果たしていない。
僕たちは自称さんの確言に引っ掛かりを抱えたまま、会議を始めた。内容は、主に二人の背中を押すための場所とシチュエーションと演出をどうするか。有り体に言ってしまえば、どちらかが告白すればいいのだから、結論はすぐに出た。
水瀬はA4用紙に万年筆でメモをしながら言った。
「――じゃあ、一週間後の夏祭りで二人きりになれるタイミングを作って。その前に私と湊でなずと颯斗をせっつく、ってことでいい?」
「ああ、それで行こう」
「ふい~、疲れたぁ」
会議が一段落すると、水瀬は仰向けに寝転んで気の抜けた声を出した。右腕で目元を隠し、そのまま黙り込んでしまう。静かな呼吸音。微かな衣擦れの音と共に胸元が上下している。僕はその光景から思わず目を逸らした。
すると水瀬に「ねぇ、湊」と呼びかけられ、僕の心臓は跳ねる。
「……大丈夫かな。先生、絶対に私じゃ叶えられないって言ってたよね」
「水瀬――」
何か言葉を掛けようと呼んだ瞬間、急に部屋が暗くなった。窓の外にさっきまでの陽射しはなく、重く垂れこめた灰白色の雲から雨が降り注いでいた。
「本当に降ってきた」
僕は窓辺に近寄り外の様子を眺める。屋根に、庭の土に、葉に、花に打ちつける雨の音。それを聴いているうちに、余計な思考も雑音も、すべて消えていった。
「すぐ止んじゃうかなぁ、雨」
「好きなの?」
「……うん。好きだよ」
僕と並んで外を眺めている水瀬はやっぱり元気がなくて。だから僕は、この雨に似合わない明るい声で言った。
「四季折々は叶うよ。水瀬に叶えられないなら、僕が一緒に叶えればいい」
「そっか……ありがとう、湊」
「だから、大丈夫だよ。大丈夫」
隣の水瀬が微笑む声がして、僕も微笑む。良かった、純粋にそう思ったんだ。
「雨なんて、久しぶりだな」
「うん」
「……止みそうに、ないな」
「ん……」
その掠れた吐息を耳に残して窓を流れる雨粒を目で追っていると、僕の手に、水瀬の指が触れた。それは小指、薬指と絡み合い、やがて僕の手をすべて包み込んだ。
水瀬を見ると、水瀬もまた僕のことをじっと見ていた。そのまま、見つめ合う。なぜだろう、目を逸らしたくなかった。
水瀬の瞳は雨を含んだ雲のように潤んでいて、しきりに何度も瞬きをしている。
きゅっと結んだ口元は、緊張しているのか微笑んでいるのか曖昧で。
その表情に、僕の心に温かい熱がじわりと滲む。息が止まってしまいそうだ。
水瀬は一瞬だけ目を伏せて、また僕を見つめる。艶のある綺麗な髪が、はらりと揺れた。
雨音はいつまでも優しく鳴り響き、僕たちを包み込んでいた。
4
善は急げということもあり、僕たちはその翌日には佐伯を誘ってカフェに来ていた。もちろん、七草への気持ちを確かめるためだ。
ブルックリンスタイルの店内は、いつもは賑わっているらしいが平日だからか人は少なく、奥まった席がちょうど空いていた。ラッキーだ。
「……詠ちゃん、脚、大丈夫なの?」
「大丈夫! まーけっこう派手な転び方しちゃったから、骨とか靭帯が……」
「ひぃ~痛いっ」
顔を歪めながら佐伯は自分の脚をさする。僕は車椅子を席まで押して、椅子の横に着けた。
「手伝うか、詠?」
「んーん、大丈夫。ありがと湊」
自力で椅子に座る詠を見届けたあと僕も隣に座る。それぞれ飲み物を注文した僕たちは本題の前に雑談を交わす。
「なず、忙しいのにありがとね。コンクールの絵は順調?」
「う~ん。あと一週間も頑張れば完成するかなぁ」
「へぇ、楽しみだな」
「ふふー、今度はどんな賞取るのかな~」
「そう言われると緊張しちゃうけど、良い作品が描けるように頑張るね!」
自信たっぷりな表情で拳を握る佐伯に、僕と詠はエールを送る。すると佐伯は、今度は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「……詠ちゃんの絵、もう少しだけ待っててね」
「詠の絵?」
気になって尋ねると、詠が嬉しそうに話してくれた。
「七月入ってすぐくらいから、なずに頼んで描いてもらってるんだ~!」
「もう一か月以上経つのに、ごめんね」
肩を落として謝る佐伯に、詠は何度も首を横に振って笑いかけた。
「全然! またモデル必要だったら言って。私、なずと二人きりのあの感じ、好きなんだ~」
「……うん。ありがとう、詠ちゃん。頑張って描くね」
淡く微笑んだ佐伯に、僕は尋ねる。佐伯が描いた詠がどんな風なのか、気になったのだ。
「なぁ佐伯。コンクールと詠の絵って、写真はないのか?」
「あるよ。ちょっと待ってね」
佐伯はスマホを操作して二つの写真を見せてくれる。イーゼルに設置されたキャンバス。椅子に座っている女性は、きっと詠だろう。そう思うのには理由があった。
「詠の顔だけ、描けてないんだな」
「……油絵で人の顔描くの、けっこう難しくて」
目線を逸らして佐伯は笑う。確かに佐伯は水彩で原風景を描く作品が多い。油絵で人物画を描く印象はなかった。詠の顔だけが抜け落ちた絵はそれでもリアルで、荘厳さと不気味さが両立していた。
次いで画面をスライドさせてコンクールの絵を表示すると、それも油絵だった。
ススキが生い茂る中に一人の少女が座り込んでいる。その少女が目の前にある川に反射した月を見つめている、という綺麗な構図だ。
こっちの方が、風景も相まって佐伯らしさが出ているけど、僕はある違和感を覚えた。
「この絵、何か……」
「はーい、後は一週間後のお楽しみ~!」
「えー、もう少しだけ~」
佐伯はスマホを取り上げてしまった。僕はその違和感の正体を考える。なぜか風景は淡く、少女だけは色濃く鮮明に描かれていた。単純にそういう描き方なのかもしれない。でも素人の僕には、それがちぐはぐに見えてしまった。まるで夢のようだ。
まあ、僕がとやかく言えることではないな、とひとり納得する。
すると詠はいま思い出したかのように「あ! 一週間後と言えばさぁ」と人差し指を立てる。何だかわざとらしくて、僕は思わず苦笑してしまう。
「夏祭り、みんなで行こうね。今年は湊もいるからもっと楽しくなりそう」
「そうだね! わー楽しみだなぁ。それまでに頑張って絵を完成させないと!」
僕はやる気をみなぎらせる佐伯を見ながら、迷っていた。どう七草の話題と結びつけるべきか。それは詠も同じ――ではなかった。
「なずはさー。颯斗とは二人で行かないの?」
「えぇっ!? 何で颯斗くん!?」
僕は頭を抱える。いくら何でもドストレートすぎる。佐伯は顔を真っ赤にしながらおろおろしていた。こっちはこっちで、わかりやす過ぎる。
佐伯は何度も髪をくるくると触りながら、やがて口を開いた。
「じ、実は……夏祭りの前日に、その、告白しようかと思って」
「「えぇっ!?」」
同時に叫んだ僕と詠に、飲み物を持ってきた店員さんが驚いてのけぞる。ごめんなさいと頭を下げて、僕たちは飲み物を受け取った。
「それでね、オッケーもらえたら、初日は颯斗くんと二人で行って、最終日はみんなで行きたいなって思ってて」
「わ~そっかぁ……! うん、絶対いけるよ!」
「七草と佐伯以外の組み合わせなんてありえないと思うけどな。詠もそうだろ?」
「そうそう! ついに二人が結ばれると思うと……うっ、涙が」
芝居じみた動きで涙を拭う仕草を見せた詠に、僕と佐伯は笑う。
僕たちが何かする前に事態は前進していたのだ。なら後はもう、なるようになるだろう。
アイスコーヒーを飲んで一息つくと、詠がにやにやしながら佐伯に尋ねた。
「その日、デートするんでしょ? 颯斗いつもバイトとかバンドで時間なさそうだけど」
「一緒に出掛けようって誘ったら、一日空けといてくれるって」
「そっかぁ……良かったね、なず。私も嬉しくなっちゃった」
「ふふ、ありがとね、詠ちゃん」
佐伯と詠は幸せそうに笑い合う。その光景を見て和やかな気持ちになっていると、不意に佐伯が僕を見て言った。
「私も前に進まないとね、湊くん」
「うん、応援してるよ。佐伯」
あの公園での出来事を思い出しながら、僕は佐伯に笑いかけた。
夏祭りの前日。今日は詠が夏祭りで着る浴衣に似合う小物探しだ。色々と見繕って良い物が買えた僕たちは、中央公園で休憩することにした。噴水の近くは真夏でも涼しくて、その前のベンチに二人で腰を下ろす。水が流れる音が心地良い。
僕はスマホとにらめっこをする詠に尋ねた。
「まだ連絡来ないの?」
「うん。もう六時だし、とっくに連絡あっても良い時間なんだけど……。あー気になる! なず、緊張して言えなかった~とか、ないよね?」
「むしろ告白は大成功で、詠に電話かける暇がない、とかな」
「おぉーきっとそうだ! よし、ヒューヒュー電話かけちゃおー」
「いや、そこはそっとしといてやれよ」
僕の忠告をまったく聞かずに詠は電話をかける。しかし何度コールしても、佐伯は一向に出ない。
「ほほー、これは湊の言った通りかもねー」
切ろうとした途端に電話が繋がったらしく、詠は「あ、なずー?」と明るく話しかけた。僕は、陽が傾きかけてオレンジ色に染まる公園を眺める。少し遠くに、七草がライブをやったステージ広場が見えた。
あれからまだ一か月くらいしか経ってないのに、とても遠くまで来たように感じる。それだけ毎日が濃密だったんだよな、と僕はこれまでに感じた熱を思い出す。
視界の端で、地面に何かが落ちる音が聞こえた。音の方を見ると詠が転んでいて、立ち上がろうと脚を動かしていた。
「詠! 大丈夫か?」
ベンチから慌てて立ち上がり支え起こす。すると、詠は血相を変えて僕の肩を掴んだ。
「湊! なずが!」
今にも泣き出しそうな表情と震える唇で、詠は言った。
「なずが、車に――病院に、運ばれたって……」
「っ……」
僕の視界がぐらりと歪んだ。体から熱が引いていく、嫌な感覚。
知っていたはずだ。幸せな日々は、突然手から零れ落ちることを。
今もある不幸の残滓が脳裏を掠めながら、僕は車椅子に詠を乗せて、走り出した。
*
「なず! 大丈夫!?」
病室に駆け込むと、佐伯は感情のない顔で僕たちを見た。
佐伯の頭と右腕には包帯が巻かれていて、誕生日会のときの詠を想起させた。僕が車椅子をベッド横に着けると、詠は身を乗り出して佐伯を抱きしめた。
「なず、無事でよかった……」
しかし佐伯は、無言で詠の抱擁を拒んだ。その光景に僕の心がざわつく。
「……振られたんだ、私。それでショック受けて、車にはねられて、ほんとバカみたい」
僕たちは息を呑む。どうして、という言葉さえ出て来ない。断られるなんて事実があり得なかった。
詠はやがて車椅子に座り直すと「ちょっと颯斗のとこ行ってくる」とつぶやいた。静かだけど怒気がこもった声だった。
「やめて、詠ちゃん」
「だってあり得ない! 絶対に両想いだったんだよ! なのに」
「私に魅力がなかっただけだよ。だからもう……これ以上、私を惨めにさせないで」
佐伯は昨日の自信のある姿とは違って小さく見えて。僕は七草に、怒りよりも疑念を抱く。
詠はちらと佐伯の右手を見て、探るように尋ねた。
「……右手、そんなに、悪いの?」
「治るまで二週間だって。締め切りまで時間ないから、もう無理」
淡々と事実だけを語っていく佐伯の言葉は冷え切っていた。詠は明るい口調で励ます。
「そんなこと言わないで、なず。コンクール良い作品できるように頑張るって言ってたでしょ? 私、できること何でもやるから」
「詠ちゃんはいいよね。最近、小説順調なんでしょ? プロの先生からも褒めてもらったって言ってたもんね」
「なず……?」
「湊くんともいつも楽しそうに話してて良い感じだもんね。詠ちゃん私と違って可愛いし、私みたいに性格悪くないし、私より器用で、何しても上手く行くし。羨ましいなぁ」
早口でまくし立てる佐伯に僕たちは戸惑う。すると佐伯は僕の方を見て、暗く微笑んだ。
「今なら公園のときの湊くんの気持ち、わかる。何言われても、苦しくなるんだね」
「……佐伯、でも僕は、二人に救われたんだよ」
「私は湊くんみたいにまっすぐじゃない。励まされても、自分が嫌になっていくだけ」
佐伯は大切なものすべてが奪われた気分だろう。その気持ちを完全に推し量ることはできない。でも共感はできる。僕は過去にすべてを、詠は未来のすべてを、奪われたんだから。
うつむく佐伯に、詠は重々しく口を開く。
「私、なずの気持ち、わかるよ」
「詠ちゃんには、わからないよ。私より色々持ってて幸せな人に、何も言われたくない」
「っ、佐伯」
「――私っ、詠ちゃんになりたかった。もう、死にたい……!」
その瞬間、病室に大きな破裂音が響いた。
佐伯は叩かれた頬に手を当てながら詠を睨む。そして驚いたように目を見開いた。
「……何で、詠ちゃんが泣いてんの?」
詠は口を震わせながら、佐伯のことを見つめる。佐伯が理解できないのも無理はない。だから僕にだけその涙の真意が理解できてしまうことに、歯痒さを覚えた。
佐伯は顔を歪ませて「帰って」とつぶやいた。
「なず、私」
「いいから、もう帰って! 詠ちゃんなんて顔も見たくない!」
頭から布団を被り、それっきり佐伯は出て来なかった。
「詠、今日は、もう帰ろう」
返事はなかったが、僕は車椅子を押して病室を後にした。
翌日の夏祭り当日。僕は朝から、七草に会うために町へ繰り出していた。昨日、あれからいくら電話をしてもメッセージを送っても、返事はなかった。佐伯を振った罪悪感からか。もっと別の理由かはわからない。
一向に手掛かりが掴めないまま昼になった。僕は中央公園の噴水前のベンチに腰掛け、水を勢いよく飲む。
朝から気温は上がり続け、今では雲一つない青空に太陽が鎮座している。手で庇を作って、灼けるように注ぐ光を仰ぐ。
――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
昨日の帰り道、詠が泣きながらつぶやいた記憶がよみがえる。だから僕は別れ際、詠を少しでも安心させるために笑って言った。
「……僕が、何とかするよ、か」
正直、どうすればいいか僕もわからない。でも、考えてばかりじゃ仕方ない。行動する意味は、後で詠と一緒に考えればいいんだから。
僕は後悔しないため、詠の言葉を胸に立ち上がった。
七草がいそうな場所に当たりをつけて探したが、どこも外れだった。日向町は小さい町だけど、全域を探すとなると骨が折れる。完全に手詰まりだ。
気付けば時刻は一七時。僕は夏祭り会場の日向神社まで来ていた。ちらほらと浴衣姿の人たちが神社の境内に吸い込まれていく。微かにソースの焦げる良い匂いが漂ってきた。
「湊くん?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには息を切らした佐伯が立っていた。頭の包帯は取れていたが、右腕には包帯を巻いている。僕は状況が理解できずに走り寄った。
「佐伯、どうしてこんなところにいるんだよ!」
「だって、颯斗くんが心配で」
佐伯は息を整えて話し始めた。
「私と別れたあと、氷野くんの家に泊まるって家族に電話してたみたいでね。それで颯斗くんのお母さんが氷野くんの家に連絡したら、来てない、って……」
誰も七草の行方がわかってないのか。嫌な思考を拭い去るように僕は頭を振った。
「とりあえず、僕の思い当たる場所はぜんぶ回った。佐伯は?」
「私もダメ。颯斗くんのお母さんには帰ってきたら連絡くださいって言ったけど……」
佐伯は力なく首を振った。あと僕が知っていて、七草のことをよく知る人物。状況的に、詠には頼れない。となると。僕は躊躇いながら提案した。
「……氷野に、訊いてみよう」
「え、湊くん。氷野くんと仲悪いんじゃ……あ、ごめんなさい」
「うん、その通りだよ。でも今はそんなこと言ってられない」
僕の言葉に佐伯もうなずいて「じゃあ氷野くん探しに行こう」と歩き出した。僕はその後ろ姿を呼び止める。
「いや、ここで待つ。氷野はきっと友達と祭りに来るから」
「そう、なの?」
神社の鳥居の下で、僕と佐伯は辺りを見渡す。私服に浴衣に甚平。聞こえる祭囃子が、この空間の非日常感を演出していた。
雑踏の中からたった一人を探す。本当なら、四人でここにいる未来もあったんだろうか。
中学一年生のときの夏祭り。僕は氷野とそのほか数人で夏祭りに来た。元々、僕は氷野と仲が良かったのだ。
――祭りの初日は毎年、仲良い奴と来るって決めてんだ。今年は篠宮も一緒だな。
そんな懐かしい日のことを思い出す。それが変わっていなければ、必ず。
「氷野くん!」
佐伯の声で、僕もその姿を捉える。甚平を着た氷野が、佐伯の姿を見つけて歩いてくる。しかし途中で僕もいるとわかったのだろう。苦虫を噛み潰したような顔をした。
「氷野くん。実は颯斗くんが」
「あー、母親から聞いた。帰ってねぇんだろ、あいつ」
氷野は頭を掻き、言葉を続ける。
「まあ大丈夫だろ。あいつも一人になりたいときくらいあるって」
「大丈夫じゃないかもしれないんだ」
僕は氷野と正面から向き合う。ずっと佐伯に視線を向けていた氷野が僕を睨んだ。
「七草に会って話したいんだ。氷野が思い当たる場所を教えてほしい」
「何で俺が、お前に教えなきゃならねぇんだよ」
吐き捨てるように言われ、僕はそうだよな、と思う。でも、なりふり構ってはいられない。僕が頼れるのはもう氷野だけだ。
「大切な友達なんだ。だから知ってること何でもいい。……頼む」
僕は頭を下げる。できることなんてそれくらいだ。氷野が息を呑む音が聞こえた。
「私もお願い。颯斗くんが心配なの」
氷野は舌打ちをしたあと、顔を上げた僕に詰め寄ってきた。
「お前が、どうにかできるとでも思ってんのか?」
充血した目で氷野は僕を睨む。その黒い瞳は不安に揺らいでいるようで。氷野には、僕が過去から目を逸らしているだけのように見えているだろう。確かに今まではそうだった。でも。
僕は氷野の濁った瞳を見つめてうなずいた。
「……わからない。でも、もう何もできないまま後悔したくないんだ」
「ふざけんな……! そんなの文月のことから逃げてるだけじゃねぇか!」
氷野は激情を僕にぶつける。でもそれは、僕だけが前に進んで、自分が独りになるのを恐れているようにも見えた。僕だけじゃない。氷野も後悔の檻の中に縛られていたんだ。
わかるよ、氷野。文月の死は僕たちにとって、今までの生き方を変えてしまうほどのものだった。だから、このままじゃ、だめなんだ。
こんなにも氷野の目を見て話したのなんていつぶりだろう。目を見て話せなかったのは、僕たちが似ているからだ。過去の自分を直視したくなかったからだ。
だから僕は目を逸らさずに対峙する。
「僕も最初は、そう思ってたよ」
「ああ……だから俺たちは逃げるなんて赦されないんだよ」
氷野は揺らいだ瞳を僕に向け、手を伸ばしてくる。まるで鎖のような手を。
確信する。今の氷野は、かつての僕だ。後悔の檻に縛られ、立ち止まっている僕だ。なら僕にできることは一つしかない。
僕は伸びてくる手を掴んだ。その手は冷え切っていて、震えている。
「もう充分逃げた。だから僕はみんなと前に進みたいって思ってる」
「じゃあ、文月はどうなるんだよ! 前になんて進んだら、あいつは……!」
言葉が途切れる。氷野の潤んだ双眸から涙が零れてきた。それに抗うように、氷野は歯を食いしばって僕を見つめた。僕への恨みも何もない、ただ純粋に文月を想った顔だった。
「独りに、なっちまうだろ……?」
氷野の裏返った声から、震えた手から、不安や恐怖が伝わってくる。僕はそれを消し去るように、強く手を握り返した。
「独りじゃない。僕たちの中に残ってる。だからこれからの自分を、文月に見せてあげたい」
氷野は僕の手を振り払ってしゃがみ込んだ。力なくうつむいた氷野の表情は読めない。
「……七草、独りで悩んでると思うんだ。頼むよ、氷野」
目の前でうずくまる氷野が、過去の僕を想起させた。祭り客は依然増え続けて、僕の肩に通行人の肩がぶつかった。
やっぱり、ダメだ。一度できた距離を戻すのは、言葉を尽くすだけじゃ足りない。
「――もう、独りじゃないのか……?」
喧騒に消えてしまいそうなほどの小さい声。でも僕はそれを聞き逃さなかった。
「ああ。そうだよ」
僕は力強く答える。僕も、氷野も、文月も。独りになれるはずがないんだ。大切な人が心の中にいる限り。
氷野はゆっくり立ち上がり、脚を引きずるように佐伯のもとまで行くと、耳打ちをした。
佐伯ははっと目を見開いて、何度もうなずいた。
「……ありがとう。氷野」
鳥居をくぐり氷野は祭り会場へと消えていく。それを見送ったあと、僕たちは走り出した。
「颯斗くん、絶対そこにいると思う。思い出の場所なんだ」
氷野が教えてくれた場所は、詠と佐伯と七草が通っていた中学の屋上だった。走って息が切れた僕たちは、歩きながら呼吸を整える。
「ごめんね、私の問題に付き合わせちゃって」
「僕もこのままじゃ嫌だったから、気にすんな」
「……湊くんはすごいね。一歩ずつ前に進んでて」
佐伯を横目に見る。それはいつもと変わらない笑顔で。でも少し悲しげで。
「私だけ中途半端。……詠ちゃんも、傷付けちゃったし」
「でも、本心じゃないんだろ?」
僕の問いに、佐伯は目の前を見つめたまま答えた。
「本心だよ。ただの嫉妬。詠ちゃんって本当に良い子なの。透明で、綺麗で、羨ましい」
そう思う気持ちは僕にもわかった。でも、詠の本質は。
「――近くにいると、自分の汚さがよくわかるんだ」
佐伯は自分の右手に巻かれた包帯をじっと見つめながら微笑む。
「だから颯斗くんにも振られたんだよ」
「あいつらをそういう風に思ってるんなら、間違いだよ」
僕の断言に佐伯はこっちを見て、仮面のような笑みを浮かべた。
「……そうかな。湊くんより私、二人と一緒にいるんだよ?」
「僕より一緒にいるのに、二人のこと全然わかってないんだな」
僕の本心からの言葉に佐伯は歩みを止めて、鋭く睨んでくる。僕も睨み返す。脆い仮面が音を立てて割れ落ちた。
「そうやって決めつけて、自分の本心まで隠してきたんだろ」
「湊くんに何がわかんの!? 私が本心なんか出したら、嫌われるに決まってる!」
その考えがそもそも間違えてるんだ。過去を思い出させるように、僕は言う。
「あの公園で、佐伯が本心でぶつかってきてくれたおかげで、僕は救われたんだ」
「……でも、やっぱり、嫌われるのは怖いよ」
僕は文月に本心でぶつかってきた日々を思い出す。嫌がられたり、喧嘩した日もあった。でもそういうのをぜんぶ含めて大切な思い出なんだ。綺麗なだけじゃ、刻めない。
「怖いよな。でも、本心でぶつからなきゃ、何も見えないんだよ」
「それでみんなに嫌われちゃっても……?」
あり得ない未来だ。僕はその仮定を、強く否定する。
「喧嘩したり呆れることはあっても、僕たちが佐伯を嫌いになることは絶対にないよ」
佐伯の瞳からとめどなく涙が溢れてくる。その涙は透明で、綺麗だった。
「私、詠ちゃんに謝りたい。颯斗くんのことも、まだ諦めたくない……!」
溢れ出る涙を何度も拭い、佐伯は心からの想いを僕にぶつけてくる。
「ずっとこの四人で、一緒にいたい」
「……そうだな」
曇りが晴れたような表情で歩き出す佐伯のあとに、僕も続いた。
中学校の正門前で立ち止まる。下から屋上を眺めても、そこに七草の気配はない。隣を見ると佐伯が不安に顔をこわばらせていた。それを見て僕は口を開く。
「佐伯は詠のところに行ってほしい。七草とは、僕が話すよ」
「私も行く。私が向き合わないといけないから」
強がっているのは一目でわかった。詠と七草の問題。一緒に向き合えるほど佐伯は強くない。いや、きっと誰だって。だから、一つ一つ、丁寧に。
「まだ心の整理も着いてないだろ? ……僕じゃ、頼りないか?」
「ううん、そんなことない……けど」
佐伯は屋上を見つめて、うつむく。やっぱりその体は少しだけ震えていて。だから僕は「なずな」と自信に満ちた声を作って呼びかけた。
「えっ――痛っ!」
驚いた顔で見てくるなずなの額を指で弾いて、僕は笑った。
「大丈夫だって。――友達なめんな」
「湊くん……ありがとう」
「なずな、詠を頼んだ」
なずなをその場に残して、僕は校舎の屋上へと急いだ。
花火が、夜空に咲き誇った。それを眺めていた七草が僕を振り返る。わずかに照らされた表情が、薄く微笑むのがわかった。
「湊だけか。てっきり詠も来るかと思ってた。ま、ちょうどいいか」
「どうしてなずなを振ったんだ?」
回りくどい話はしない。僕は七草の表情がよく見えるように近付いた。
「そうだな……なずなを好きでいるため、かな」
矛盾している言葉に、僕は眉をひそめる。
「天才を語ることができるのは、諦めの味を知った凡才だけ。あの日、俺はなずなを語った。でも、本当は何も諦められてなんかいなかったんだよ」
「……文化ホールでした才能の話か。懐かしいな」
七草は空を仰いだあと、過去をなぞり始めた。
「この中学でなずなに出会ったとき、まだなずなは才能の実が成ってなくてさ。毎日、命を削るみたいに絵を描いてて、顔も髪もぜんぶ絵の具だらけだったのに、綺麗だった」
当時の光景を思い出すように、七草は続ける。
「尊敬した。特別なものがなかった俺も、なずなみたいに輝きたいって思った。だから約束したんだ。『お互いに好きなもので輝けるように頑張ろう』って」
僕ははっと気付く。七草がバンドやバイトと日々忙しそうにしていたのは、その約束を叶えるためなんだと。
楽しい日々を思い出したのか、七草は鉄柵に指を引っ掛けて遊ぶ。鉄の無機質な高音がリズムを奏でた。
「初めてギターを弾いた時さ。今までつまんねぇって思ってたモノクロの世界が、どんどんカラフルに変わったんだ。そこで初めて気付いたよ。ああ――俺はなずなが好きだって」
七草はそう言ったあと「そんな時だ」と寂しそうに笑った。
「中二のとき、なずなが夢を叶えた。あいつ一人だけが約束の場所に辿り着いたんだ。だから俺も色んなところでライブして腕を磨いたよ。忙しかったけど、すっげぇ楽しかったなぁ」
まるで自分の体を痛め付けるように、七草は鉄柵に背中を打ちつける。
「……喉とか指から血が出るくらい努力してもだめだった。歌が心に響いて来ない。惹き込まれるものがない。ライブの帰りに観客が話してんのを聞き飽きるくらい聞いた」
七草の顔が花火に照らされ、昏く光る。その事実に、僕の胸まで痛んだ。一体どれほどの悔しさを、その胸に仕舞い込んで来たんだろう。
「それからすぐだ、カラフルだった世界がモノクロに後退していったのは。その中でなずなだけはずっと鮮やかで、俺のことを応援し続けてくれた」
「……なずならしいな」
「ああ。俺にとってなずなは一〇〇パーセントの女の子だよ。純粋に好きだって伝えられたらどんなにいいかって何度も思った。でもできなかった。湊なら、もうわかるよな」
僕はうつむく。最近ずっとみんなのことを考えて、本質を見つめ続けた。その答えを僕は言葉に乗せる。
「なずなの才能に嫉妬しても、そんなの虚しいだけだろ」
「虚しいけどな、嫉妬の感情は簡単には消えないんだよ。……俺はなずなを避けて、ほかの女の子と遊ぶようになった。湊にとっちゃ軽薄で最低だろ? 蔑んでもいいぜ」
「何で、そんなこと。なずなが好きなら――」
「安心したかったんだ。なずなが俺にとっての特別だって。だからほかの女の子と手を繋いでも、キスしても、寝てるときも、ぜんぶモノクロに感じたよ。改めて思った。俺が本気で恋をしてるのは、なずなだけだ」
僕は、まるでそれが最良の選択であるように語る七草を睨む。理解も納得もできない。
「あとは嫉妬の感情を消すだけだ。それには約束に辿り着くか、諦めるかの二つしかない。正直、もう諦めかけてた。でもあの公園のなずなの言葉が、俺まで叱ってくれた気がしてさ。中途半端はやめよう、絶対に約束を叶えようって思った」
「それなら、何の問題もないはずだろ?」
「ああ。俺もそう思ったから昨日、なずなに告白しようとしてたんだ」
僕はその事実に驚き、声を出すことができなかった。すると七草は目の前まで来て、光のない瞳で僕を見下ろす。その口元に、薄い微笑みを浮かべて。
「――なずなは、お互いに約束を叶えられたと思ったから、俺に告白してきたんだ」
僕は息を呑む。七草の生き方をカラフルに変えた約束。七草はそれを叶えるために輝けるものを見つけて、ずっと努力をしてきた。
でも七草は約束を叶える前に取り上げられたのだ。同じ約束を交わした、無垢な女の子の無自覚によって。それはあまりにも、残酷だ。
「俺は諦めたよ。……もう何もかも、モノクロだ」
花火が上がる。体に響く音圧。夜空に広がる閃光に、僕と七草の顔が照らされた。貼り付いたその笑みに、僕は言う。
「七草。お前、歪んでるよ」
「かもな……やっぱり俺、湊のこと嫌いだよ。才能を手に入れたやつなんて、みんな嫌いだ」
鉛のようなものが重く体にのしかかる。七草は僕を残して歩き出した。すれ違いざまの目はすでに僕を、いや、もう何も見ていないのかもしれなかった。
大切だと思っていた人に拒絶されるのは、こんなにも辛くて苦しいのか。僕はこんなことをみんなにしてしまったんだ。
このまま別れたら、もう二度と一緒にいられない。そんな予感がした。
――ずっとこの四人で、一緒にいたい。
――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
――僕が、何とかするよ。
まだ諦めるには早いよな。僕は背負っているんだ、二人の想いを。だから、前に進むなら、五人一緒だ。
屋上のドアノブに手を掛けた七草に、僕は呼びかける。
「七草。お前、中途半端だよ。前の僕と一緒で」
「俺はずっと中途半端だよ。でも、それでいい。……やっとぜんぶ諦められたんだから」
「幸せだな、お前」
七草はこちらに振り返り、眉間に皺を寄せる。そして苛立たしげに叫んだ。
「ふざけんなよ。どこを切り取ったら、俺が幸せそうに見えんだよ!」
「何もかもだ。中途半端でもいい? ふざけんなよ、七草。それはぜんぶを諦めたやつが使える言葉じゃないんだよ!」
中途半端は希望の言葉だ。たとえ途中で投げ出しても、また進めば届くかもしれない。それはすごく幸せなことで。だから文月を亡くした僕は、この言葉が大嫌いだった。今までとこれからのすべてが無駄になる、諦めとは程遠い。
「お前はただ目を逸らしてるだけだ。まだぜんぶそこにあるだろ! だから僕にはお前が幸せに見えるんだ!」
「うるせぇ!」
七草は顔を歪め、両手で僕を鉄柵に押し付けた。激しい痛みに、僕は思わず呻き声が出る。
「俺より色々持ってるお前にはわかんねぇだろッ!」
「わかんねぇよッ!」
僕は七草の胸倉を掴みながら押し返す。自分でも抑えきれないほど力が入った。
「でもそれが大切な人を陥れていい理由にはなんねぇぞ! 誰かを好きになるって、そうじゃねぇんだよ! お前のは違う! お前のはもっと……歪んだ何かだ!」
「そんなの俺がいちばんわかってる! でも何もかも崩れちまった今から修復するなんて、俺には無理だ!」
僕の手を振り払って叫ぶ七草に、やるせなさと怒りが湧き上がってくる。きっとこれは、自己嫌悪だ。僕は過去の自分を戒めるように言う。
「何でそれを誰にも言わなかったんだ! 何で独りで抱え込もうとしてるんだよ……!」
「……言っても解んのか? 詠は小説。なずなは絵。湊は人のこと救えちまう才能があるもんな。所詮、何も持ってないやつの気持ちなんか、解るわけねぇ」
「……解るよ、僕には」
だって、七草と僕は似ている。大切なものを傷付けないように遠ざけてしまうところも。本当は一つも投げ出したくないって思っているところも。自分は何も持っていないのだと思っているところも。
今なら自称さんの言葉の真意が理解できる。これは詠にも、なずなにも無理だ。僕にしかできない。七草を理解することも。過ちを正すことも。救うことも。僕にしか。
「あの公園で七草が掛けてくれた言葉、憶えてるか? 僕が前に進めるのは、お前のおかげでもあるんだよ。僕は、お前を置いて前に進むなんてできない」
「は……あんなの、綺麗事だ」
「僕もそう思ってたよ。でも今は違う。文月と同じくらい、詠が、なずなが、七草が、僕の支えになってる。独りだと絶対に気付けなかったものを、みんながくれたんだ」
僕は独りでも怖くなかった、文月の記憶が傍にいたから。でも、みんなと触れ合ってわかった。僕は、ずっと――。
「独りってすごく怖いよ。寂しいんだよ。だからそんなところにいるな。戻って来い、七草」
「俺はなずなを、お前らを傷付けた。もう四人で一緒にはいられねぇんだよ」
うつむいて孤独に逃げようとする七草の肩を掴み「逃げんな!」と僕は叫ぶ。
「お前がなずなに残した傷は消えない! どんだけ悔やんでも、ぜんぶ元通りになんてならないんだよ! ……だから、その傷を刻んで、進むしかないんだ」
「でも、才能もなずなの気持ちもぜんぶ投げ出した俺が、前になんて進めない」
「七草が必死に努力して得たものはちゃんとある。僕たちも知ってるよ。投げ出したんなら、また拾って進めばいいだけだろ? 今度は、みんなで一緒に」
そのために、僕たちは一緒にいるんだから。僕は言い聞かせるように、言葉を続ける。
「――七草ならわかるだろ。独りで見る世界と、大切な人と一緒に見る世界は違うって。色も形も広がって、カラフルに魅せ方を変えるんだよ」
はっとしたように、七草は顔を上げる。まるで花火のように、その瞳が煌めいた。
「七草の見る世界をカラフルに色付けてくれたその人は、本当にモノクロに見えたのか? 本当にその人を置いて先に進めるのか?」
「……無理だ。俺はもっと、なずなと――」
溢れ出た涙に七草は言葉を飲み込まれた。考えなくとも、僕にはその先がわかった。
僕は七草に言う。いま確かにある幸せを自覚させるために。
「もう自分が持ってるものから逃げんな。大切な人がいつまでも傍にいてくれるなんて、絶対にないんだから」
もう隣にはいない心の中の女の子を思い出す。火傷のように、胸が痛んだ。
生きてさえいれば、伸ばした手は、きっと届くんだから。
七草は花火の花弁が滲みそうな濡れた瞳で、僕に訊いてくる。
「何でそこまで俺に向き合えるんだよ。意味わかんねぇよ。なんで……」
澄み切った空を見つめて、僕をここまで突き動かす大切な人の記憶を思い出す。
僕の見る世界の色を変えてくれた人を。
僕の見ていた世界の色を取り戻して、さらに色付けてくれた人を。
二人の笑顔を思い出し、僕は目の前で涙を流す七草に、手を伸ばした。
「七草を救いたかったんだ。ただ、それだけだよ」
僕が心から望んでいたのなんて、本当にそれだけだ。
七草はうつむいて涙を乱暴に拭うと、無理やり笑って僕の手を握った。大きくて、あの公園で感じたより少し頼りない手のひら。
それでも確かな熱が、そこにはあった。
二日後、僕は詠と中学校に来ていた。エレベーターで四階まで上がり、車椅子を押す。その場所に着くまでに僕は、一昨日の屋上での話を詠に話した。
「そっか……颯斗がそんなに悩んでること、私ぜんぜん気付けなかった」
「仕方ないよ。僕も、本当に颯斗を救えたのかどうかはわからないから」
でも、颯斗があのとき僕の手を握ってくれたことが答えだという気もする。
詠は車椅子を押す僕の顔を見て、微笑んだ。
「先生が言ってた本当の意味も、やっとわかったよ。……湊、本当にありがとう」
「……なずなとは、あれからどう?」
「あ~」
言葉を詰まらせる詠に僕は焦る。今日まで訊かなかったけどまた喧嘩になったのだろうか。
少し不安になっていると、詠はその日のことを思い出すように言った。
「なず、家まで謝りに来てくれてね。今まで思ってたことぜんぶ話してくれた」
「そっか」
「知ってた? なずって意外にひねくれてて、めっちゃ口悪いの! それ見て私、笑っちゃってさ。でも、芯の部分はいつものなずと変わらなくてね」
楽しそうに話す詠の表情を見て、僕は自分のことみたいに嬉しくなる。
「何かね、今までよりもっとなずのこと、好きになっちゃった」
「そうだな。僕も同じだよ」
僕たちがそう感じたように、きっとそれは颯斗も同じで。大切な人の知らない部分が見えるのは、怖いけど、嬉しいことなんだ。
目的地に近付くと僕と詠は声を潜め、隠れるように教室の扉の丸窓から中の様子を窺う。部屋の中から、油絵の具の独特な匂いが漂ってくる。
颯斗となずなが出会った美術室。そこで二人は一つの絵と向かい合っていた。なずなが完成を諦めていた、川に映る月を見つめる女の子の絵だ。
なずなは汗を流しながら、紐で絵筆を括り付けた手を動かしていた。颯斗は油絵の具の調整やイーゼルの角度を変える手伝いをしながら、なずなと笑い合っていた。
昨日、颯斗となずな両方から『本音で向き合って話してくる』と連絡があって心配で来たけど、その必要はなかったみたいだ。
「……大丈夫そう、だな」
「うん。今の颯斗となずなら、何があっても大丈夫だと思う」
その様子を二人で眺めていると、不意に颯斗がこっちに向かって歩いてきた。
「うわっ、こっち来た」
「み、湊、どっか隠れて」
「無茶言うな」
慌てているうちに扉が開き、見つかってしまう。颯斗は顔や手に絵の具を付けながら笑う。
「何やってんだお前ら。バレバレだよ」
「えっと、進捗どうかなって。な、詠」
「うん、そうそう」
颯斗は美術室の中を振り返り「何とか、間に合いそうだよ」と安心したように言う。僕と詠は顔を見合わせて喜んだ。
なずなは僕たちの方を覗き込むと、顔を輝かせた。
「あっ、詠ちゃん! 来てくれたの?」
「なず、来たよー! 絵どんな感じ?」
颯斗はなずなと詠の後ろ姿を短く見つめたあと、僕に「自販機行こうぜ」と呼びかけた。
一階にある自販機で飲み物を選んでいると、颯斗が突然口を開く。
「さっき、なずなと本音で話し合って気付いたよ。俺、本当は何も手放したくなかったんだ」
僕はうなずいて先を促す。夏休み。誰もいないフロアに、颯斗の声が静かに響く。
「努力も好きだし、なずなのことはもっと大好きだ。俺、けっこう色々持ってるんだなって」
「そっか……幸せそうだな、颯斗」
颯斗は僕の言葉に今度は満面の笑みを浮かべた。それは何よりもカラフルで、眩しかった。
詠となずなの飲み物も買い、僕たちは階段を上る。途中で、颯斗は弾むような声で言った。
「やっぱり湊は特別だったんだな。詠とすぐに仲良くなるわけだ」
「……どういう意味だ?」
颯斗は少し悩む素振りを見せたあと、遠慮気味に言った。
「俺、湊と初めて病室で会ったとき、何でって思ったんだよ。詠と湊って性格真反対で相性最悪だったからさ。詠から進んで仲良くなったのが不思議だったんだよなー」
「詠は優しいから、性格合わなくても誰とでも仲良くできるだろ」
「毎日でも一緒に遊ぶくらいか? まー、詠の一目惚れってのもあり得なくもないけどな」
僕は言葉に詰まる。颯斗の疑念のナイフが喉元まで届く。
すべての始まり。死季病を打ち明けられ、四季折々を共有した。その部分を隠しているのだから、颯斗の疑念はもっともだ。それはきっとなずなも感じているだろう。
僕も颯斗もなずなも。心を開いて、ぶつかり合ってきた。――でもまだ、詠だけは。
階段を上り、僕たちは美術室の前に着く。すると颯斗は、僕の名前を呼んだ。
「湊、俺たちを救ってくれて、ありがとう」
僕の返事を待たずに、颯斗は美術室にいる二人に合流した。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らした。僕は暖かな陽光が射す三人を見つめる。
不安はある。でも、僕たちなら乗り越えられる、そう心から思った。
僕は三人が待つその暖かな場所に向かって、歩き始めた。
1
二学期が始まってからもうすぐ一か月が経つ。青葉はまだ深いけど、季節はすっかり秋だ。この季節になるといつも悲しい。僕は窓の外で風に揺れる木々を眺めて思う。
「莉奈ちゃんのこと、考えてる?」
不意に呼びかけられ、ベッドに腰掛ける詠を見る。四季折々と万年筆を手に持って微笑んでいる。嘘をついても仕方がないので、僕はわかりやすくうなずいた。
「うん。でも、前よりは寂しくないよ。詠とか、みんなのおかげ」
「ほんとに素直になっちゃって~。前に進んで、えらいえらい」
子どもみたいに頭を撫でてくる詠の手を雑に払って、僕は四季折々を覗き込む。
「夏にやること、ぜんぶ終わったんだな」
「うん。ぜんぶ湊のおかげ。このまま秋も、冬もよろしくね」
僕は、今度は曖昧にうなずく。終わりが近付いているんだ。でも僕以外の誰も、そのことは知らない。その現実に、心がざわつく。
「もうそろそろ文化祭だよね! 楽しみだな~」
「そうだな。うちのクラス、何やるんだろ」
「みんなと一緒なら何でも楽しそうだなぁ。よし、四季折々!」
詠はそう言うと、万年筆で綺麗な願いを綴り始めた。そして僕に見せてくる。
「最後の文化祭をみんなと楽しみたい!」
最後。その言葉と文字が、僕の心に重くのしかかる。
詠の願いに僕は全力で応えるだけだ。でも、本当にそれで――死季病を隠したままの心で、本当にみんなと心から楽しむことなんてできるのか?
「詠、死季病のこと、颯斗となずなに話さなくていいのか? もう、限界だよ」
「えーなに、急に。まあ、そのうち二人にはちゃんと話すよ。まだ、大丈夫」
「大丈夫じゃない。もう一週間、検査で学校休んでるだろ。何も言わないけど、あいつらもおかしいって思ってる」
詠は少し黙ったあと「私なりのタイミングがあるの」とつぶやく。……タイミングって何だよ。僕は目を逸らす詠を睨む。
文月もそうだ。僕が指摘するまで、死季病のことは話さなかった。文月を大切に想っていたからこそ、知ったとき本当に辛かったし、悔しかった。
「早く話さないと、みんなが辛い思いをすることになるんだぞ!」
「なに、それ……湊の勝手なエゴを押し付けないで!」
「エゴって何だよ! 僕だけじゃない、みんな詠のことを大切に想ってる! だから言ってんだよ!」
「何て言われても、ギリギリまで話す気はないから!」
詠は布団を被って完全に僕をシャットアウトした。いくら呼びかけても、揺さぶっても、反応は返ってこない。僕はもどかしさに髪を掻きむしったあと、詠の部屋を後にした。
――
僕は心の底では、わかっていた。詠が病気を隠し通す理由を。だから、こんな懐かしい夢を見てしまうんだろう。
文月の横顔。大きな目に長い睫毛。整った鼻筋。結ばれた唇。
僕たちは神社の階段に座り込んでいた。文月は華奢な体を縮ませ、膝を抱えていた。夢の中、思い通りに体は動かせなくて。僕はシナリオを読むみたいに口を動かした。
「死季病のこと、どうして隠してたの?」
「言ってもどうしようもないからよ」
「どうしようもないことだから、文月と一緒に背負いたかったんだよ。早く気付いてあげられなくて、ごめん」
文月は僕の目を見つめて微笑み「ごめんなさい。今の、嘘よ」とつぶやく。
「本当は、そうね。私が私でなくなってしまうと思ったから」
「……どういう、意味?」
すると文月は僕の手を握ってきた。氷のように冷たい手。それを溶かそうと、僕は強くその手を握り返した。
「湊。私はここにいる。だから、私が私でなくなってしまっても、憶えていて」
文月の強いまなざしに、僕は「忘れないよ」とうなずいた。
文月の笑顔が白くぼやけていく。そのまま、夢の映像は途切れた。
暗闇に包まれた自室のベッドで、僕は目を覚ます。濃密な文月の記憶に、しばらく動くことができない。やがて僕は夢の内容を正確になぞった。
「詠も、そうなのか?」
思わず口に出る。当時、深くは考えなかった文月の言葉。でも、きっと今と繋がるはずだ。
僕は確かな確信を胸に、部屋から出た。
*
翌日。詠が久しぶりに登校した日に、それは唐突に訪れる。
六時間目。文化祭の出し物を決めるホームルーム。実行委員の颯斗となずなが前に出て、クラスのみんなに案を聞く。
「そんじゃー、みんな何やりたい?」
カフェやお化け屋敷、メイド喫茶、脱出ゲーム、など。次々に出る案をなずなが黒板にまとめていく。すると詠はぴんと手を挙げて提案した。
「はいっ! 私、縁日やりたい! みんなで屋台とか、ゲームとかやったら楽しそう!」
颯斗は嬉しさと申し訳なさがない交ぜになった表情で笑った。
「さては詠、食べたいだけだろ~」
「そ、そんなことないよ! ほら、浴衣とかも着れるし! 美味しいし! 最高!」
間の抜けた詠のプレゼンに笑いが起きる。その提案は、夏祭りに行けなかった後悔があるからで。僕たちも気持ちは同じだった。
なずなは黒板に大きく『縁日』と書いた。やがて案が一〇個くらい出揃い、多数決を取る。『縁日』と『カフェ』が共に一五票ずつ。
詠となずなが、本気で悔しそうな顔をしていて僕は吹き出す。縁日側の我がすごく強い。このままだと戦争が起きそうなので、僕は手を挙げる。
「折衷案として、合わせるってのはどうかな? カフェも縁日も飲食が絡むし、和と洋を上手く組み合わせれば集客も見込める。浴衣だけじゃなくて、着たい服の幅も広がるし」
「なるほど、いいな。さっすが湊」
「え、湊は天才だった……?」
颯斗と詠に褒められて気恥ずかしくなる。ほかのクラスメイトも「いいかもね」「楽しそう」と賛同してくれた。
「じゃあ、いま湊が出してくれた、両方合わせてみる、って案でいい人は、挙手ー!」
「ふふ、決まったね」
「よし、やったーっ!!」
詠は両手を挙げて思い切り喜ぶ。クラスの雰囲気も弛緩する中、颯斗が口を開く。
「じゃあ詠、具体的に何やりたかったんだ?」
しかし颯斗の問いに答えは返って来ず、クラスは沈黙に包まれた。その違和感に、僕を含めた数人の視線が詠の席へと向く。
それを見た刹那、僕は全身から冷や汗が噴き出した。詠は、唐突に音もなく眠っていた。まるで電池の切れた機械のように。
睡眠発作。間違いなく、死季病冬期症状の一つだった。
隣席に座っていたクラスメイトが笑いながら呼びかける声が小さく聞こえる。自分の震えた息遣いが耳元で聞こえた。
僕は気付くと詠の席まで駆け寄っていた。机と椅子がガタンッと鈍い音を立て、クラスメイトの視線が刺さる。でもそんなの、今は関係なかった。
「――詠! 詠、起きろ!」
返事がない。上手く息ができなくなって、喉から変な音が鳴る。
救急車を呼ぼうとしたところで、詠は目を覚ました。徐々に焦点が合っていく瞳で僕を見た詠は、はっと息を呑んだ。
「あ……普通に、寝てた。あはは……で、何だっけ?」
おどける詠につられて、教室でぽつぽつと笑いが起きる。でも僕は笑うことなんて出来ずにその場に立ち尽くしていた。僕は息を整えて、二人の様子を見る。
颯斗はしばらく詠を心配していたが、やがてホームルームに戻った。なずなは何度も瞬きをしながらクラスメイトと笑い合う詠を見つめていた。
詠が今まで塗り固めてきたすべての理想が、剥がれ落ちていく音がした。
僕たちは高校が終わると、その足で詠の家に集合した。準備は忙しくなりそうだけど、それ以上に楽しくなりそうだ。
クラスから出た案を大体まとめ終わる頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。最近は陽が落ちるのが早い。秋の肌寒さと共に、焦燥感もやってくる。
「あっ、湊。カーテン閉めてくれる?」
「わかった」
詠の指示を聞いてカーテンを閉めると、不意に颯斗が口を開いた。
「詠、その脚……いつ頃治りそうなんだ?」
「あーこれ? そうだなぁ、もうちっとかかりそ~」
詠は雪のように白い脚をぺちぺちと叩きながらごまかす。二か月近く歩いていない脚は、出会った頃よりさらに細くなった。二人のやりとりを、僕は黙って見つめる。
「そっか。早く治して、文化祭準備、バシバシ手伝えよ~?」
「当たり前じゃん! 心配ご無用! あ、みんな今日泊まってく? 明日休みだし」
あまりに不自然に話題を変えようとした詠に、なずなが「詠ちゃん」と呼びかける。凍てついた声と空気が、僕たちを取り囲んだ。
「何か、隠してるでしょ」
「え、えぇ~? ……本当は食べ物の屋台もっと増やしたいって思ってるの、バレた?」
「真面目に答えて」
「お、おい、なずな」
なずなは「颯斗くんもおかしいって思ってたでしょ?」と訊き返す。颯斗は迷ったように視線を彷徨わせ、うつむいた。
沈黙を裂くようになずなは立ち上がり、詠のもとへ近付いていく。でも詠はなずなと目を合わせようとしない。
「……詠ちゃん、ごめんね」
なずなはそう言って、詠の手に触れた。
「っ!」
渇いた音が部屋に響き渡った。なずなは詠に弾かれた自分の手を握り「やっぱり、そうなんだね」と、震える声を抑えながら話し始めた。
「中二になったときから詠ちゃん、体調悪くて休む日、増えたよね」
なずなは違和感のピースをはめていくように、核心へと踏み込む。それは死季病の春期、死季の始まりだ。詠を見ると、青ざめた顔で口をつぐんでいた。
「三年になったらそれもなくなってほっとしてたけど、今度は二学期から年末までぜんぜん連絡取れなくなった」
詠の喉元にじわじわとナイフが突き刺さっていく。それは、詠が秘匿してきた真実を暴くまで止まる気配はない。
なずなは、詠の脚へ視線を向けた。
「詠ちゃんの脚、いつ治るの? 湊くんでも二か月しないで治ったのに」
「な、なず、もうやめよ? 本当に、何もないよ!」
「嘘つくのもいい加減にしてよ!」
なずなが叫ぶと共に沈黙が降りる。重たい空気に塗り固められたように動けなくなった僕たちの中で、なずなのまっすぐな瞳が詠を捉えていた。
「……詠ちゃんの顔だけ、描けなかったの」
「私の、顔?」
僕はなずなが描いていた、顔のない詠の絵を思い出す。不気味なほどにリアルだった。
「最初は私の技術の問題だって思った。だから詠ちゃんを観察して何枚も描いたんだ。でも描けば描くほど、詠ちゃんがわからなくなった」
なずなは苦悶の表情を浮かべて、ベッドに座る詠を見下ろした。
「それで気付いたの。目の前にいる詠ちゃんと、私が描いた詠ちゃんは、ぜんぜん違うって」
その言葉の意味を、僕は直感的に理解できてしまった。
なずなは天才だ。本人もそれを自覚しているだろう。見たものの本質をそれ以上に見抜き、描き出せてしまえる。仮面を被った詠と秘密を抱えた本当の詠。なずなはその矛盾を描いたとき、詠に違和感を抱いたんだ。
「……信じたくない」
ぽつりとつぶやいて、なずなは黙り込んでしまった。――もうとっくに、なずなは……。
壁掛け時計が空虚な音を奏で、外の黒い木々が這うように蠢いている。
音もなく、なずなは詠を見つめていた。詠からの言葉を待っていたのかもしれない。でもどれだけ時が経っても、詠から言葉が発されることはなかった。
やがてなずなは、ヒビが入った詠の仮面を叩き割る言葉を突きつけた。
「……死季病、なんでしょ? 詠ちゃん」
詠は声にならない掠れた息を吐き、うつむいた。僕はなずなを見ることができずに目を逸らす。全身から力が抜け、嫌な汗が止まらなかった。
「……死季病って、何でだよ。だってずっと元気だっただろ? 治る、んだよな?」
颯斗の問いに、僕も、誰も答えることができない。ただ沈黙を貫くことしかできない。
きっと颯斗や氷野こそが正常で、決して鈍感なわけじゃない。誰も、大切な人が病気だなんて考えない。そんな考えにすら行き着かない。僕もなずなも、その人を想うあまり、少し見えすぎるだけなんだ。
「なぁ詠。嘘だよな。何か、言ってくれよ」
颯斗はうつむく詠の両肩を掴む。そして明らかな異常に、大きく目を見開いた。
「何でこんな、冷たいんだよ……」
颯斗の手から逃れるように詠は体を小さく縮ませる。やがて消え入りそうなほどの小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。
「私、死季病、で。それでね……次の春まで、生きられない」
詠の口から放たれた現実に視界が眩む。いつか辿ることを知っていた未来でも、心が歪みそうなほどに苦しい。僕は唇を噛みしめ、声にならない呻きを飲み込んだ。
僕は眩む視界で二人を見る。颯斗はまだその現実を受け止め切れていないのか、その場に座り込んで放心していた。
さっきまで強かったなずなの表情は徐々に弱く歪み、涙が溢れ出してくる。何度も横に首を振り、現実を否定していた。
それは、最後まで詠が否定してくれるのを待っていたように、僕には見えた。
「――っ」
「なずなっ!」
涙が溶けだした声を残して、なずなは逃げるように部屋を飛び出した。颯斗も咄嗟になずなを追いかけて行った。
「なず、颯斗……!」
詠は慌てて二人を追いかけようと走り出すが、足がもつれてその場で転倒してしまった。僕はただ立ち尽くして詠を見つめる。
「……湊の言う通りになっちゃったね。こうやって、何もかも簡単に、終わっていくんだ」
僕は、嗚咽を押し殺してそう言った詠を支え起こして、ベッドに座らせた。
「疲れたでしょ。今まで散々付き合わせてごめんね。……独りにさせて」
「詠、まだ終わってない。颯斗もなずなも、まだ受け入れられてないんだよ」
「もう無理だよ。きっと三年も隠してきたバチが当たったんだ」
「どうして死季病のこと、ずっと隠してきたんだ?」
こうなることは火を見るより明らかで。それでもひた隠しにした理由。詠は涙に濡れた瞳で僕を見てつぶやいた。
「……私が、私じゃなくなっちゃう気がしたの」
――私が私でなくなってしまうと思ったから。
文月の言葉とリンクして、僕は鳥肌が立つ。その言葉の先を欲してしまう。
「どういう、意味?」
「死季病だって言ったら『水瀬詠』から『難病の女の子』として見られる気がしたんだ。今までの私が忘れられちゃうみたいで、怖かったの」
――私はここにいる。だから、憶えていて。
そういう、意味だったのか。
僕は詠と文月、二人の言葉を反芻して、飲み込む。胸の奥から得体の知れない侘しさが込み上げてきた。
「忘れるわけ、ないだろ」
心の中と目の前にいる二人に向けて、僕は言う。忘れるなんてできるか。
僕は詠の机の引き出しから四季折々を取り出す。一冊のノートに、今まで叶えてきた無数の願いが綴られている。自分の願いよりもほかの人を想った願いの方が多い。
それを詠に見せて、僕は言う。
「四季折々の始まりは死季病だ。でもここに書かれた願いは、詠が誰かを想って、後悔しないために歩いてきた証だろ?」
「……うん」
「詠の人生は、大切な人たちに『難病の女の子』としか記憶されないものだったのか?」
詠は何度も首を横に振る。僕は病室で詠に出会った日からの出来事を思い出すように言う。
「詠が歩いてきた四季は、ちゃんと残ってる。絶対に忘れられない思い出だよ」
「ほんと?」
「一緒に行こう。まだ詠の四季は、終わってない」
「……ありがとう」
四季折々を胸に抱きながら、詠は一筋、涙を流した。
河川敷に、颯斗となずなは座り込んでいた。辺りはすっかり暗くなり、街灯に照らされた川面がきらきらと風に揺れている。
緩やかなスロープを下り、その背後に立つ。二人がこちらに振り返ると、詠は何度か深呼吸をしたあと、芯の通った声で言った。
「なず。颯斗。私の病気のこと、ちゃんと話したい」
「湊は死季病のこと知ってたのか?」
僕は包み隠さずに答えた。震えそうな声を、必死に抑えつける。
「詠に初めて会った日に教えてもらったよ」
「それなら何で俺らに教えてくれなかったんだよ。もっと早く知ってたら何でもできた。もっと毎日を大切にできたのに……」
「……本当に、ごめん」
僕は頭を下げて謝り、二人の表情を見る。
颯斗は僕を責めているより、やり場のない感情をただ言葉に乗せているように見えた。なずなは涙でぐしゃぐしゃな顔で、茫然と詠へ視線を向けていた。その姿が過去の氷野やクラスメイトと重なり、心がざわつく。
僕が何も言えずに黙っていると、詠が口を開いた。
「湊のせいじゃない。私が言わないでって言ったの」
「そんなに俺ら、頼りないかよ」
詠は颯斗の嘆きに「違うよ」と首を振り、病気を隠していた理由を二人に話した。難病の女の子としてではなく、水瀬詠の言葉として。
三年にも及ぶ秘密の理由を聞いた颯斗は、悔しそうに顔を歪めて詠に言った。
「でも、初めて会った湊には教えたんだな」
「それはきっと、自分の命に意味なんてないって思ってた僕に、証明するためだと思う」
眉間に皺を寄せた颯斗の横から、今まで沈黙していたなずながぽつりとつぶやいた。
「詠ちゃんより、これからを生きられる湊くんの方が幸せってことの証明?」
的を射る言葉に、僕は驚いてしまう。なずなは涙で濡れる目を伏せながら言った。
「言ったでしょ。私の方が、湊くんよりずっと詠ちゃんと一緒にいるって」
なずなの気持ちが痛いほど理解できてしまう。その痛みに、僕はぐっと目を閉じた。
――何が本心でぶつからなきゃ何も見えない、だ。こんな現実、見たくもないはずなのに。
「私、言ったら詠ちゃんを傷付けちゃうんじゃないかとか、絶対に何か勘違いしてるんだってずっと自分に言い聞かせてた。詠ちゃんと話し合いたいとも思ってた。でも――」
なずなは涙を溢しながら、叫ぶように本音を吐き出した。
「やっぱり、詠ちゃんが大切だから何も言えなかった。それが、いちばん悔しい……!」
「なず……!」
詠は車椅子から降り、両脚を地面に引きずりながら二人のもとへ向かう。河原の小石が無造作に散らばり、土が抉れる。
座り込むなずなと颯斗の目の前までたどり着いた詠は、正面から向かい合う。
「なず、颯斗、ごめんね。私自分のことばっかで、二人の気持ち、深く考えられなかった」
「……それは私もだよ。だから今まで、逃げて何もできなかった自分が許せないの」
なずなは何度も声を詰まらせながら言葉を紡いだ。きっとこれが、なずなの本心なんだ。
それは、文月を救えなかった自分を責めた僕にも。すべてを投げ出して、一人で悪者になろうとした颯斗にも言えることで。
だから僕たちは悩んで、自分のせいにしたり、誰かのせいにしたりして、こんなに足踏みをしているんだ。
颯斗は消え入りそうな弱々しい声で、詠に語りかける。
「俺も自分のことばっかで、病気だなんて思いもしなかった。ずっと一緒にいたのに……」
自省する颯斗となずなの手に触れて詠は首を振る。まるで自分の罪を贖う咎人みたいに。
その手のひらの冷たさに、二人は苦しそうに顔を歪めて詠のことを見つめた。
「違うよ。私が狡くて弱かったから、伝えられなかったの」
「詠のせいじゃない」
僕は咄嗟に口に出していた。自分を責めるのは楽だけど、進む未来を変えてはくれない。
詠の隣に腰を下ろしてみんなの顔を見る。不安げに翳る表情。最良の答えを求めるような視線が、僕に集まった。
「誰のせいでもない。だから、難しいけど、自分を許して進むしかないんだよ」
そうやってやり場のない感情をぜんぶ抱え込んで進む未来は、灰白色の世界だ。僕はそんな痛みや苦しみを、みんなに抱えてほしくはなかった。
「でも私、二人を傷付けた! ぜんぶ私が悪いの! 一生嫌われたって仕方ない!」
一人で背負い込もうと詠は叫ぶ。その気持ちが、僕にはよくわかった。
「誰も責めてくれないから、自分を責めるしかないんだよな。その方が重く背負える気がするから。僕もそうだったよ」
「違う……私は、本気で」
「それが間違ってるとは言わないよ。だから、考えたんだ」
ずっと、自分を許すにはどうしたらいいのか考えてた。みんなと過ごして、やっと僕は気付くことができた。
これが最良の答えなのかはわからない。でもそれに近付こうと考えて、考え抜いて出した答えを、僕は三人にぶつけた。
「自分を許すって、『信じる』ってことなんだと思う。自分を責めるのは、自分を信じてくれた人も否定するってことじゃないのか?」
詠は驚いたように短く息を吸い込んだあと、拳を握った。
「僕はみんなといれば、自分を許せる気がしたんだ。だから、ほかには何もいらない」
誰かと一緒にいることで初めて自分や人を信じることができる。独りだとできないことだ。
「湊の言う通りだな」颯斗は頭を雑に掻いたあと、僕と詠を交互に見た。
「正直、病気のことはまだ受け止め切れねぇし、頭もごちゃごちゃしてる。……けど俺もみんなといたい。誰も嫌いになんてなれねぇよ」
それはきっとみんな同じ気持ちで。なずなもずっと心の中にあったのだろう。詠への想いを口にした。
「みんな好きも嫌いもあるよ。でもそれで詠ちゃんのことぜんぶ嫌いになんてならないよ。だって詠ちゃんにもらった好きの方が、私の中にいっぱいあるから」
詠は二人に何か言おうとして、でも何も言えず黙ってしまう。するとすぐに、言葉にできない感情がその頬を伝った。
しかし詠は溢れ出る涙を拭おうとはしなかった。屈託もなく、子どもみたいに泣いている。
僕は詠が意図して二人の前では明るく振る舞っていたことを知っていた。それが、弱さを見せたくないという詠の弱さだということも。だから素直に嬉しかった。これからは僕だけじゃない。颯斗となずなも一緒に、詠の未来を分かち合えるんだ。
その姿が伝播したのか、なずなも涙を流しながら詠を力いっぱい抱きしめた。
「詠ちゃん、今までよく頑張ったね。もう、独りになんてさせないからね」
「……ありがとう、なず。でも私、独りじゃなかったんだよ。死季病になって辛くても、みんながいたから生きて来られた。幸せだったんだよ」
詠は死季病になってからの約三年間を僕たちに話してくれた。もちろん辛かったこと、苦しかったことはたくさんあって。でも嘘偽りなく、詠は幸せそうだった。
その詠の歩いてきた幸せな四季の中には確かに、僕たちがいた。
すべてを剥き出しにして話し合い、気付いたら夜は更けて肌寒くなっていた。街灯の下で僕たちは別れを告げる。僕を含めだと思うけれど、みんなひどい顔だった。
「……今日は詠ちゃんの家に泊まる。離れたくない」
「なずな、詠も疲れてるだろうから」
「嫌だ」
颯斗の言葉をバッサリ切って、なずなは詠に抱き付いた。その当人は目の周りを真っ赤にしながらまんざらでもない顔をしていた。
仕方なく僕と颯斗は二人に別れを告げ、歩き出した。
所々明かりが漏れる住宅街を無言で歩く。遠くで車のエンジン音が聞こえる。その音がどこかへ吸い込まれてから数秒、颯斗がぽつりと口を開いた。
「半年後、俺たちは何してるんだろうな」
半年後。詠の四季が終わったあと。それでも僕たちの四季は続いていくんだ。想像もつかない。でも、誓っていることはある。
「わかんないけど、あのときみたいに後悔したくないよ。そのためなら、何だってやりたい」
「湊は強いな。そうやって莉奈ちゃんも、詠も救ってきたんだな。俺も、なずなもそうか」
「ただ必死なだけだ。……救えてるのかはわからないよ」
それに、本当の意味で救われているのは、僕の方だ。
颯斗は「半年か」とつぶやいたきり、沈黙してしまった。僕は隣を見る。すると颯斗は肩を震わせて、押し殺すように、静かに泣いていた。
病気を打ち明けられてから、ずっと我慢していたんだ。僕はこの不器用で、大切な人のことを思って泣くことができる親友に笑いかけた。
「僕、やっぱり颯斗のこと好きだよ」
「……何だよ、急に」
颯斗は瞳に涙を溜めて少し笑うと、前だけを見つめて、誓いのような言葉を僕に言う。
「湊、生きような。何も諦めないで、手放さないで、生きよう」
それだけ言って颯斗はまた黙ってしまった。僕も何も言わずに、分かれ道まで歩き続けた。
2
一〇月に入り、文化祭まではあと一〇日。僕は放課後、再び検査入院することになった詠に呼び出されていた。病室に入ると、詠は文化祭で使う装飾品をせっせと作っていた。
僕が椅子に座ると、詠は声のトーンを落として訊いてきた。
「それで……みんな、どう、だった?」
その言葉ひとつで今日の出来事が脳裏によみがえる。教壇からの風景。クラスメイトの様々な感情が込められた視線。その記憶をなぞるように、僕は詠に教えた。
「死季病のこと、ぜんぶ話してきたよ。文化祭前に話したのも、できるだけ早くみんなに伝えたかった詠の意思だって」
「ごめんね。本当は私が伝えなきゃいけないことなのに……」
本来なら今日、詠が僕たちと一緒にそれを伝えるはずだった。しかしここ最近、検査入院が続いた詠は学校に来れていなかったのだ。その明らかな異変は、クラスのみんなも感じ取っていた。もう限界だった。
「もともと詠ひとりに言わせるつもりはなかっただろ? 颯斗となずなが傍にいてくれたから心強かったよ」
詠は「そっか」と安堵しながらも、その先を求めるように強いまなざしで僕のことを見つめてきた。みんなの反応こそ、詠が恐れているもののはずなのに。
だから僕も目を逸らさずに、瞳に焼き付けた風景をそのまま話した。
「みんな信じられないって顔してた。泣いて過呼吸になってるやつとか。嘘だろって疑ってくるやつもいた」
「うん、それで……?」
「それで、特に何か言われたわけじゃないけど、迷惑そうにしてるやつもいた。興味なさそうに寝てるやつとかもいたよ」
僕たちのしたことはあまりに自分勝手で。でも悔恨を残さないために必要なはずだ。覚悟はしていた。それでもあの景色は、僕には悔しかった。だからきっと、詠はもっと。
僕が何か言葉を掛けようとした瞬間、詠は「そっか~」と気の抜けた声を出した。思っていた反応とのギャップに、僕は驚く。
「……悔しく、ないのか?」
「悔しいよ。でもみんなに嫌われてなくて安心したかな。私のために泣いてくれる人がいるだけで、私の人生、間違ってなかったんだなって思えたよ」
詠は「次みんなに会ったら謝んなきゃ」と僕に微笑む。その笑顔は、少しだけ強がっているようにも見えて。だから僕は、これが当たり前かのように言った。
「そうだな。僕も一緒に謝るよ」
「ふふ、ありがと、湊」
すべての不安が払拭されたわけじゃないだろう。でも、死季病を僕たちに打ち明ける前とは明らかに違う。これが詠の成長の形なんだ、そう僕は思った。
詠はいそいそと装飾品を綺麗に作り終えると、僕を見つめてにやっと笑う。
「……なに、その顔」
「じゃーん! これなーんだ!」
効果音と共に、詠が布団の中に隠していた紙の束が僕に掲げられる。小さな文字が規則正しく綴られている。小説の原稿用紙だ。
「出来たんだ……!」
「うん。最高傑作だよ」
自信満々に言って、詠は原稿用紙を渡してくる。紙の重みだけじゃない。水瀬詠のすべてが懸かった重みが僕の両手に乗る。パラパラとめくると、文字は全編万年筆で書かれていた。
「これ、ぜんぶ書き直したのか?」
「せっかく万年筆もらったから。何かね、湊がいつも見ててくれるみたいで心強かったよ」
「……ああ、そう」
そこまで喜んでくれているとは思わず、僕は顔が熱くなるのを感じる。詠も気付いたのか、無視してくれればいいのに、わざわざ突いてきた。
「湊、顔赤~い。照れてる~!」
「て、照れてない」
僕は詠に背を向けて、小説の原稿をリュックの中にしまう。でもすぐに顔が綻んでしまう。感慨深くて、嬉しくて、じんわりと心に熱がともる。
窓の遠く、少し乾いた秋の空を眺めて表情を落ち着かせていると、背後から声が聞こえた。
「湊、絶対に感想ちょうだいね。思ったこと、全部だよ」
「ああ。面白くなかったらバッサリ言うよ。約束する」
詠は「ほんとかなぁ」と訝しげに言うと、テーブルに置いてあった四季折々を開いて僕を手招きした。前科があるから仕方ないけど、まったく信用されてないな。
僕はベッドに腰を下ろして万年筆を持つ。開かれたページいっぱいに『詠の小説をぜんぶ読んで、本音で感想を伝える』と書き、誓いの言葉を口に出す。
「――四季折々」
至近距離で、僕のことを嬉々として見つめてくる詠を見つめ返し、目を閉じた。
「……これで、どうだ?」
「ふふん、よろしい」
得意げに言った僕に詠も偉そうに答える。数秒経って互いに可笑しくなり、吹き出した。白くて空虚な箱が色付いていく、そんな感覚。それより単純に、詠といるこの空間が楽しいんだ。
「それで、次の四季折々、どうしようか」
「う~ん、どうしよ」
詠は時間をかけてページをめくり、記された願いの中から指を差した。
「『みんなと文化祭を楽しむ』と『みんなと紅葉狩りをしたい』の二つかなぁ」
「わかった。そう言えば、紅葉はあと少しで見頃だって、ニュースでやってたな」
「え、ほんとに? やった!」
答えながらふと四季折々に目を通すと、いくつか願いが塗り潰されていることに気付いた。僕の視線に詠も気付いたのか、静謐な声で言う。
「運動系と食べる系の願いはもう叶えられないから、消したんだ」
避けようのない事実。僕は一瞬の間、言葉に詰まる。これからはもっとそういうことが増えて、詠の歩ける道は狭まっていく。
だから僕は、塗り潰した願いを寂しそうに指でなぞった詠に、微笑んだ。
「じゃあ、消した願いの分、ほかにやりたい願い事をみんなで考えるか」
その狭まった道を押し広げるために僕たちは一緒にいるんだ。一人だと何も見えなくても、四人なら、手から零れ落ちるものは減るはずだ。
詠は花みたいに笑顔を咲かせて何度もうなずいた。その生き生きとした表情は、この狭い場所には似合わなかった。
「また今度、颯斗となずも呼んで作戦会議しようね! さぁて、何やろうかなぁ……」
僕たちは身を寄せて、まだ見ぬ四季に未来を描く。それはとても理想的な幸せで。
僕の肌に触れる氷のような温度だけが、現実を如実に映しだしていた。
*
翌日、僕は四季折々の作戦会議のために、颯斗となずなを連れて病院を訪れた。二人と来るのは、詠の誕生日会以来だ。
廊下を進んだ先。病室のドアの前には詠の母親が立っていた。詠と似て快活そうなその表情は、なぜか暗い。嫌な予感が僕の脳裏にべっとりと貼り付いた。
颯斗となずなの挨拶に続いて、僕も遅れて頭を下げる。
「みんな、来てくれてありがとうね。……あの子のことなんだけど、聞いてくれる?」
詠の母親は病室のドアに手を掛け、僕たちを見て言った。
状況が飲み込めないまま扉が開かれ、中に通される。いつもと変わらない白い箱。カーテンは閉め切られ、薄暗い。その部屋の中央のベッドで詠は眠っていた。それはまるで――。
全身から嫌な汗が噴き出す。心臓が不規則に脈を打った。なずなも気付いたのだろう。詠を見つめ、つぶやいた。
「これって……」
「死季病の、冬期の末期症状でね。次に起きるのは一週間後か、遅いと一か月後だって先生に言われたの」
「そんな、嘘だろ」
「詠ちゃん……」
感情を押し殺したような、でも涙が滲む声で、詠の母親は説明してくれる。惨たらしい現実が重くのしかかった。僕も詠も昨日まで、この場所であんなに笑い合っていたのに。
動けずに茫然とつぶやく二人を置いて、僕はいつもと同じようにベッド脇の椅子に座る。そして静かに眠る詠の顔を眺めた。
雪のように白く、生気のない肌。体はピクリとも動かず、呼吸音もほとんど聞こえない。本当に、嘘みたいな光景だ。
文月はこうなる前に死んでしまった。こんなにも、残酷なのか。僕たちと詠の間に、決して超えることのできない壁が立ちはだかった気がした。
それでも僕はなぜか冷静だった。分厚い氷のような絶望が心を凍り付かせているのに。
颯斗となずなもベッドに近付いて、祈るように詠の手を握った。
「詠はすぐに起きるよ」
根拠のない言葉を僕は口に出す。二人を元気付けようとかそんな意図はない。ただこれまで僕たちが乗り越えてきた色々な出来事が、僕にそんな自信を持たせていた。
「詠はすぐ起きて一緒に文化祭に行く。四季折々にもそう書いたんだ。絶対に、大丈夫だよ」
詠の手を握っていた颯斗は「そうだよな」と立ち上がった。本当はこんな根拠のない言葉、信じたくはないはずだ。でも僕たちは信じることしかできない。詠と過ごした時間を。
なずなは詠が大量に作っていた文化祭の装飾品を眺めて、僕と颯斗に言った。
「文化祭の準備とか、ほかにも色々、私たちがやれることをしよう」
「そうだな。詠が起きて、最高に文化祭を楽しめるようにしようぜ」
強い意志が込められた二人の声音に、僕も自信がみなぎってくる。何だって思い通りになるような、そんな予感。分厚い氷のような絶望感が急速に溶けていく。
颯斗となずなが居て、本当に良かった。僕だけならきっと耐えられなかった。
僕は目の前にいる心強い友人たちに、笑いかけた。
「――それじゃあ、作戦会議だ!」
そうだ。絶望に至るには、まだ早い。
スマホの画面の中に楽しそうに作業するクラスメイトたちの笑顔が映る。教室内は至るところに装飾が施され、画面には映らない絵の具や木材の匂いが、場を満たすざわめきが、非日常感を演出していた。
これが僕たちの作戦会議の末に出た答えで。詠が眠っている間にできることだ。文化祭準備中。みんなの楽しそうな声を聞けば、詠が飛び起きそうな気がした。
何を撮ろうかと教室を見回すと、男子が二人「詠か?」と話しかけてくる。
「詠! これおれが作った射的の連射ゴム銃! カッケーだろ!」
「カフェで創作ドリンクも試作してるから、味見よろしくな。早く来いよ!」
中村は子どもみたいにゴム銃を撃ち、前田は僕に「ほい、篠宮」その創作ドリンクとやらを渡してくる。七色の色彩で、炭酸が入っているのかパチパチと音を立てている。
受け取って恐る恐る口に運ぶと、僕の頭の中に電気が走った。
「うっわ、まっず! 前田これ何入れた!?」
口の中がおかしい。僕が悶える姿を中村と前田は大声で笑う。いつか覚えてろ。
「篠宮くんとそこ二人! 遊んでないで手を動かしてください!」
声の方へスマホを向けると、クラス委員長の岩沢さんが呆れ顔で立っている。二人はすでに教室から逃げ出していて、気付けば僕ひとり取り残されていた。
「篠宮くん。ここはいいので、外の小道具班の作業をお願いしていいですか?」
「あ、はい、わかりました」
その圧に、僕は思わず敬語で受け答えしてしまう。怒っているわけではないんだろうけど、何だか緊張してしまう。
委員長は僕のカメラに気付くと、笑顔で手を振った。張り詰めた雰囲気が一瞬で解ける。
「詠ちゃん。作ってくれた装飾すごく上手だった。みんな頑張ってくれて、良い文化祭になりそうだよ。待ってるから、またね」
「……岩沢さん、詠には敬語じゃないんだな」
どうでもいいことを言うと、委員長は「だめですか」と僕を睨んできた。いいえ、とんでもない。僕は逃げるように教室を飛び出した。
廊下にも華やかな装飾が目立つ。気分が高揚して、僕はスマホで装飾を撮りながら走った。学校中がお祭りみたいだ。アートが施された階段を駆け下り、中庭で作業している小道具班のもとへ。
色々な学年のクラスが作業する中、颯斗は汗を流しながら、大きなロール紙に書かれたイラストに丁寧に絵の具を塗っている。颯斗は僕に気付くと手を振ってきた。
「おっ、撮ってんなぁ。どうだ詠、俺の仕事ぶり! 上手くね?」
「自分で言うな!」
颯斗の塗ったイラストを撮りながら気付く。明らかにその絵の繊細さが違うことに。
「まさかこれも……?」
「なずなはうちの内装責任者だからな。あとで黒板アートもやるって言ってたぜ」
その仕事量の多さに脱帽する。委員長のお達し通りできることを探していると、颯斗に名前を呼ばれる。
「うわっ! 何すんだ!」
僕は振り向きざまに左頬に絵の具を付けられた。冷たい感触が気持ち悪い。
「あっはっはっ! ダセェー!」
「ったく、お前がやったんだろ!」
腹を抱えて笑う颯斗につられて、僕も笑う。颯斗は僕のスマホをちらりと見て言った。
「ここは足りてるから、なずなのとこ行ってこい!」
僕はうなずいて、また走り出した。正門前の巨大なアーチ。屋上からぶら下げられた複数の横断幕。設置される屋台と人混みを撮りつつ、なずなのいる体育館へ。
息を切らし体育館に到着すると、なずなはステージバックの巨大パネルに色を塗っていた。それもなずなが描いたものだ。真剣な表情で、十数人の生徒たちに指示を出している。
邪魔するのも悪いよな、と僕が声を掛けるのを躊躇していると、なずなが気付いて駆け寄ってきた。
「湊くん! あ、詠ちゃーん! 私も頑張ってるよ~! また会いに行くねー!」
「相変わらず忙しいな、なずな」
「湊くんも少し前まで全体の企画とかスケジュール調整とかで忙しかったでしょ?」
「あー、まあな」
僕にしては忙しかったここ数日を思い出す。詠やみんなと楽しい文化祭にするために、今まで話したこともなかったクラスメイトたちともたくさん言葉を交わした。最初は慣れなくて戸惑ったけど、楽しい毎日。きっと詠がいれば、もっと――。
「えいっ」
後ろ向きな考えが頭をよぎった瞬間、右頬に冷たいものが触れる。驚いて顔を上げると、なずなが絵筆を持って悪戯っぽい顔で笑っていた。
「おい、なずな……」
「ふふ、湊くん、ほっぺかわいー」
鏡を見なくてもわかる。僕の顔がどれだけ愉快なことになっているのか。このカップル、本当に良い連携をしてくれる。
なずなは僕が撮っていたスマホを取り上げて、僕を映す。
「詠ちゃん、うちのクラスの立役者でーす! 何かお言葉をどうぞ!」
いざカメラを向けられると、恥ずかしくて困るけど。僕は病室で眠り続ける詠を想像しながら、語りかける。
「詠……後悔しないために、色々やってみたよ。クラスのみんなとも話して、毎日忙しくて。でもすごく楽しい。青春してんなぁって思う」
文月と一緒にいることが僕にとっての青春で。それを喪って。そして僕は詠と出会い、颯斗となずなと出会った。いま僕は、居心地の良い青春の只中にいる。でも――。
「でも、足りないよ。僕の青春には、まだ詠が足りない。だから、早く戻って来い」
喋り終えて少しして、急激に顔が熱くなる。僕はなずなからスマホをひったくる。
「やばい、めちゃくちゃハズイ! 今のなし!」
「えー何で! すごくカッコ良かったよ! 特に、僕の青春には、まだ詠が――」
「復唱すんな!」
画面がガタガタと揺れて数秒後、映像は途切れた。
――
僕は静かになった病室で頭を抱える。いま見返しても恥ずかしい。あのときは何か変なスイッチが入っていたんだろう。とはいえ、これを聞いているのは目の前で眠っている詠だけだ。僕はスマホをしまって話しかける。
「明日だよ、文化祭。あとは一緒に文化祭に行くだけだ。頼む、起きてくれよ、詠……」
両手で詠の手を包み込んで、僕は言う。
しかし冷たいその手から反応は返って来ない。無情な沈黙に包まれる。やれることはやった。諦めてもいない。だから僕はもう、祈るしかなかった。
不意に扉が開く音が聞こえる。入ってきたのは詠の母親だった。こうやって二人で会うのは初めてだ。僕が立ち上がって挨拶をすると、彼女は明るい声で笑った。
「こんにちは湊くん。明日文化祭なのに、今日も来てくれたのね。……お邪魔だった?」
「いえ、全然」
よりによって手を握っているところを見られた。僕は平静を装って答えるが、彼女はにこにこと僕を見つめて来る。詠と笑い方がそっくりだ。嫌な予感がする。
「毎日来てくれるのなんて、湊くんだけよ。やっぱり、そういうこと?」
どういうこと? と突っ込みたかったけど、僕は曖昧に笑ってごまかす。彼女は何でもない話題を僕に振りながら、詠の体温を測り始めた。
その口調や仕草、快活な性格と少し抜けたような発言も詠に似ていて。僕は詠が未来を生きたら、こんな大人になるんだろうな、とひとり思った。
詠を挟んで何気ない会話を続けていると、彼女は急に笑い出した。
「ふふ、詠から聞いてた通りね」
「悪いこと言われてそうで、怖いですね」
彼女は詠の髪を撫でながら「ううん、むしろ逆」と微笑む。
「高校から急に湊くんの話しかしなくなったのよ。隠してた死季病のことも話して、私にも見せてくれなかった四季折々を手伝ってもらってるって聞いて。すごい、何者? って」
僕は恥ずかしくなって、口元を押さえながら言う。
「詠には助けてもらってばかりで。だからすごいのは僕じゃなくて、詠の方なんです」
「……きっとそういうところもなのね」
つぶやいた彼女は「さて」と気合を入れて立ち上がった。
「詠の体をマッサージするんだけど、やってみる?」
「えっ? い、いや、さすがに……」
娘の友だちで、しかも赤の他人に頼むか普通。僕は面食らってしまう。
「ごめんなさい。もちろん無理にとは言わないわ。詠の意思だったものだから、ついね」
「詠の、意思……?」
彼女は過去の出来事を思い出すように目を閉じる。その長い睫毛の輪郭を、窓から差し込んだ夕陽が縁取った。
彼女は洗面台で濡らしたタオルで、詠の首筋を拭きながら話し始めた。
「詠は最初、こういう体のケアを家族にもやらせようとしなかったの。きっと私たちの負担になるって思ったんでしょうね。そんなこと、思うはずないのに」
「……でも何だか、詠らしいです」
「そうね。それで話しているうちに詠が言ったのよ。もし拒否されなかったら、家族以外で、湊くんにも任せたいって」
そのことに僕は唖然として、寝ている詠の顔をちらと見る。何というか――。
「――変な奴だな」
思わず口に出してしまうと、彼女は口元に手を当てて笑った。
「こんなこと、家族以外にさせられるわけないって怒ったんだけど、聞かなくて」
「けっこう頑固ですよね、詠って。いや、まっすぐって言ったらいいのか」
僕が今まであった出来事を思い出して笑うと、彼女は慈しむように詠を見つめて言う。
「だから驚いたの。まっすぐで、警戒心が強くて、人のことをきちんと見極めて付き合うこの子が、そんなに信頼できる人を見つけたのが……嬉しかったのよ」
それは僕の知っている詠とは違う姿だった。今まで僕は、詠は誰とでも仲良くなれるタイプだと思っていた。きっとそれも正しいんだろうけど、正解ではない。
警戒心が強くて。人のことをきちんと見極める。詠が死季病のことを黙っていたことにも繋がる気がした。……なら詠は、どうして僕に――。
鍵穴に形の合わない鍵を差し込んでいるような、もどかしい感覚。すると意識の外から視線を感じる。詠の母親が、詠と同じ強いまなざしで僕を見ていた。
「詠にとって湊くんは、本当に特別なんだと思う。できるだけ一緒にいてくれたら、私もすごく嬉しい」
遠慮気味に言った彼女に、僕は未来が決まっているかのように、自信を持って答えた。
「ずっと一緒にいます。約束したんです」
「……ありがとう、湊くん。そう言ってくれると、救われるわ」
彼女は涙が滲んだ声で僕に微笑んだあと、黙々と詠の体を拭き始めた。夕陽が沈み、薄暗くなる病室。詠の白い肌が灰色に染まるのを見て、僕は口を開いた。
「僕は、何をしたらいいですか。教えてください」
彼女は確認するように「いいの?」と訊いてくるが、僕は一切の迷いもなくうなずいた。
詠がそう望むなら、僕はそれを叶えるだけだ。
「……じゃあ、まずは腕のマッサージからお願いしようかな」
「はい。わかりました」
詠の右腕に触れてそっと持ち上げる。鉛のように重く、氷のように冷たい。僕の温かかった手のひらはすぐに冷え切ってしまう。
僕は彼女に言われた通り、筋肉が固まってしまった詠の腕をマッサージしながら、関節などの拘縮を和らげていく。緊張で、額には汗が滲んできた。
こうやって全神経を注いで触れるほどわかる。詠の体はここにあるのに、どこにもいないことが。僕は得体の知れない焦燥感と心を突き刺す痛みに耐えるように、唇をきつく結んだ。
時間をかけて詠の右手まで到達すると、僕の手にざらざらした何かが触れる。見てみると、親指と中指にペンだこができていた。詠の努力の証だ。
「……こんなに、頑張ってたんだな」
僕がつぶやくと、彼女もマッサージしていた手を止めて微笑んだ。
「湊くんに万年筆をもらって、毎日のように書いてたから。私にも自慢してきて、よっぽど嬉しかったんだと思うわ」
――何かね、湊がいつも見ててくれるみたいで心強かったよ。
詠が嬉しそうに笑う光景を思い出しながら、僕はペンだこを撫でる。手のひらは少しだけ皮膚が硬くなっている。バッティングセンターのときにできたマメだろう。
詠の手に刻まれた、生きた証。それは僕がこれまで詠と一緒に過ごしてきた証だ。胸を満たす嬉しさに、自然と顔が綻んだ。
「……湊くん、大丈夫?」
彼女に心配された理由はわかっていた。僕は泣いていた。嬉しいはずなのに涙が溢れ、嗚咽が込み上げてくる。
僕は何度も涙を拭って、呼吸を整える。目の端が擦れて少し痛かった。詠の手のひらに落としてしまった涙の雫まで拭き取ると、僕は彼女に微笑んだ。
「すみません、大丈夫です。……次は、どうすればいいですか?」
僕はまた時間をかけて詠と向き合い始める。この瞬間に、詠が目覚めるよう祈りながら。
3
詠は文化祭までに目覚めなかった。『みんなで紅葉狩りがしたい』という四季折々も、秋にしかできないほかの四季折々もすべて叶えることはできなかった。
一一月。詠が眠ってから一か月が経った。冬の背中が見え始めたある日、僕はいつものように詠の病室を訪れていた。窓から差し込む陽光は昼だというのにぼんやりとしていて、まるで世界が終わる前みたいにやる気がない。木々や太陽が痩せ細っていく中で、この病室の風景だけは変わっていなかった。
僕は洗面所で手を洗い、タオルをお湯で濡らすと、詠の首筋を拭き始めた。
「今日、颯斗となずながさ――」
僕は高校での楽しい出来事を詠に話す。それを思い出して病室でひとり笑いながら。そうしないと僕は耐えられなかったのだ。詠だけ時が止まったままの、この日常に。
詠の体のケアを終え、僕は深く椅子に腰かけて息をつく。そして少し疲労の溜まった体で、テーブルの上に置いてあった四季折々を開いた。
「なあ、詠――四季、折々」
返事はない。わかっているのに、詠が眠ってから何度も儀式のように繰り返したやり取り。僕はページをめくって、詠と今まで叶えた願いを確認していく。
ただの欲望の願い。ふざけてノリで書いた願い。切実な願い。僕を勇気づけるための願い。涙ながらに書いた願い。途方もないほど多くの願いを叶えてきた。それはまだたくさんある。その中で、僕がまだ叶えられていない願いも。
僕はリュックの中から、詠の原稿用紙を取り出した。ずっしりとした重さの夢の束を、丁寧にめくる。
僕は一瞬だけ詠に視線を向けたあと、一ページ、また一ページと小説を読み進めて行った。
――
「詠、そんなに走ったら危ないわよ」
「えーだって楽しいんだもん! 莉奈ちゃん! 湊! 早く来て!」
「もう……詠は子どもみたいね、湊?」
呼びかけられて隣を見ると、文月が困った顔で微笑んでいた。少し遠くには詠もいて、飛び跳ねながら走り回っている。突然目の前に広がった光景に、僕は驚く。
そこがどこかはわからない。二人以外の風景はすべて不鮮明で、僕はすぐにこれが夢だと理解した。でも僕は目の前の幸福に身を任せる。
「僕には、文月もはしゃいでるように見えるよ」
「まあ、否定はしないわ。きっと湊と詠が一緒だからね」
僕は文月に笑いかけて、詠のもとへ走った。後ろでカメラのシャッター音が、弾むようなリズムを奏でる。
幸せな夢だ。詠も、文月も、僕も一緒に笑っている。絶対に叶うことはない夢。
僕は走り疲れて、楽しそうに話し始めた詠と文月を眺める。瞬間、夢の端から白い靄が迫ってきた。それは徐々に夢の中心部まで塗り固めていく。
「詠! 文月!」
僕は必死に名前を叫んで追いかけた。しかし二人は靄の奥へと歩いて行く。何度も叫びながら、心の奥底ではわかっていた。希望だけを詰め込んだ、幸福な夢が終わるのだと。
――ああ、まだ、目覚めたくない。もっと、一緒にいたいよ。
しかし僕の願いは届くことはなく、すべてが白に染まる。靄の中に消えてしまった大切な人たちを見送って、僕は静かに、目を閉じた。
目覚める瞬間、とてつもない苦痛が僕を襲う。薄暗い病室。視界は涙で歪んでいた。
詠の小説にまで、涙の雫が落ちている。僕は体を起こしてそれを拭うと、読み終えた小説をテーブルの上に置いた。
「――と」
不意に掠れた音が聞こえた。空調の音でも、風が窓を叩く無機質な音でもない、確かな生の熱を持った音。僕はゆっくりと顔を上げてその正体を探る。
「み、なと……おはよう」
弱々しい掠れ声と光を宿した瞳。静かに微笑む詠に、僕も微笑んだ。またどうしようもなく涙が溢れてきて、詠の顔を目に焼き付けたいのに、滲んで見えなかった。
「……おはよう、詠」
僕は優しく詠の手を握った。詠も呼応するように、僕の手を握り返してくる。その手は変わらず冷たかったけれど、驚くほど力強かった。
しばらくすると詠の両親が病室に駆け付けた。詠が「また、会えて良かった」と笑いかけると、二人は涙を流しながら詠を抱きしめた。僕はその幸福な光景を、ただひたすら目に焼き付けた。
詠の両親が経過説明のために主治医と病室を出て行くタイミングで、息を切らせた颯斗となずなが駆け込んできた。
なずなは勢いそのまま詠に抱き付くと、胸の中で嗚咽を漏らしながら言った。
「詠ちゃん……本当に、良かった」
「……これで、四人そろったな」
颯斗は涙で震える声でそうつぶやいた。本当にその通りだ。詠が眠って、僕たちの心に開いてしまった穴はとてつもなく大きくて。けどようやく、止まっていた時間が動き出した。
詠は少し目を伏せて言った。
「みんな……心配かけてごめんね。文化祭とかも、一緒に行けなくて」
「詠が目を覚ましただけで僕たちは嬉しいよ。気にする必要なんかない」
どれだけ慰めても、詠が喪った時間は大きくて。それを感じ取ったのか、颯斗はスマホの画面を詠に見せた。
「ほらこれ、文化祭の動画! 詠にも見せたくて、みんなで撮ったんだ」
颯斗が動画を流そうとすると、なずなが涙を拭いながら制止する。
「まだ詠ちゃん起きたばかりだから、動画見たら疲れちゃうよ」
「そ、そうだよな。悪い、気が回ってなかった」
颯斗が素直に謝ってスマホを仕舞おうとすると、詠は「そんなことないよ」と笑った。
「みんなが私の分まで楽しんでくれたの、見たいな。もっと、元気出ると思う」
一か月眠っていたとは思えないほど生気の迸る声音で、詠は言う。元気を与えるつもりが、逆にこっちが元気付けられてしまう。
「じゃあ颯斗、鑑賞会だ。カーテン閉めてくれ」
「りょーかい!」
「やったー。なずはかわいいから私の隣ね」
よくわからない理由で詠のベッドに座ったなずなは、勝ち誇った顔で僕と颯斗を見てくる。何だか釈然としない。僕と颯斗は目配せして、無理やり詠のベッドに腰掛けた。ゆったりしたベッドも、途端に窮屈になる。
「ねーちょっと、狭い~」
「私と詠ちゃんの空間なのに」
「こうしないと動画見られないし。なー、湊」
「そうだよ、我慢してくれ」
僕も乗っかってそう言うと、詠は「仕方ないなぁ」と口を尖らせている。心なしかその表情は嬉しそうだ。
動画を再生する前、詠は静かにつぶやいた。
「四季折々。達成で、良いかなぁ」
僕たちは何も答えなかった。そんなの、答えるまでもなかったからだ。
――みんなと文化祭を楽しむ。
四人がここにいて。詠のために残した思い出がここにある。それだけで四季は色付く。
颯斗が再生ボタンを押した。僕たちは過去に刻んだ四季を、巡り始めた。
*
詠は一週間ほど精密検査とリハビリが続いた。その間も僕たちは、病室で出来る範囲で四季折々を叶えた。詠がそれを望んだからだ。
僕と詠は一一月の空の下、散歩に出かけていた。もちろん詠は外出禁止なので、病院内の中庭だ。僕らを取り囲む木々は葉を落とし、冬に備えている。道端に咲いている花は四季折々楽しめるらしい。詠はそれを見て「綺麗だね」と微笑んでいた。
「こんな綺麗な庭があるなんて知らなかったな」
「え~、もったいない。もっと綺麗なところもあるんだよ。行こ」
詠は自分で車椅子を動かす。僕が押そうとすると「リハビリになんないでしょ」と文句を言われた。内心ハラハラしながら、隣に並ぶ。
「まだ起きて一週間なのに、詠はすごいな」
「お母さんと湊が私の体をケアしてくれたからすぐ動けたんだよ。ありがとう」
「……どういたしまして」
僕はその感謝を受け取る。でもきっとそれだけじゃなくて、詠の時計の針を進める意思が強かったからだ。細くなった腕で車椅子を動かす詠を見ながら、僕は歩を進める。
「――四季折々」
不意に詠がつぶやいた。今日、僕がここに呼ばれた理由。僕の四季折々を叶えるためだ。
「読んで、くれたんだよね。……どうだった?」
詠のすべてを懸けた最高傑作。一字一句見逃さないように、その情景を、意図を、伏線を読み解いた。緊張しているのか、僕は手汗が滲んでいるのを感じる。
「すごく、面白かった。舞台設定も登場人物もよく練り込まれていて。緻密なシーン描写には何回も驚いたよ。所々で張られていた伏線も効いて、読んでて楽しかった。詠がすべてを懸けただけはあるな。最高だった」
一思いに言い切ると、詠は顔を輝かせて喜んだ。その瞳には涙も浮かんでいる。詠の小説は自称さんにも負けないくらい、最高だった。それだけなら、まだ良かった。
「本当に、面白かったよ。ただ――気になることがあって」
「……気になること?」
僕が立ち止まると、詠も止まる。僕たちは中庭から外れ、僕の身長ほどの植物が入り組む迷路みたいな場所まで来ていた。本当にこの先に、綺麗なところなんてあるんだろうか。
「湊、遠慮しないで。本音で、ぜんぶ教えて」
小説の問題はない。僕が気になったのは、そこから浮かび上がってきた違和感で。きっと誰も気付かない。僕じゃないと気付けないものだ。
自称さんの言葉を思い出す。小説は、書いた人間を映す鏡だ、と。だから僕は詠の小説を読んだあと、あんなあり得ないはずの夢を見たのだろう。
僕は詠に、正面からその違和感をぶつける。
「――詠は、僕と出会う前から、文月と友達だったんじゃないのか?」
一陣の風が吹き抜ける。思わず身震いしてしまうほどの冷たい風。しかし詠はじっと僕を見据えたあと、目を閉じた。
「湊……もうすぐ着くから、行こう。私と莉奈が、初めて会った場所」
間違ってはめられていたパズルが再配置されていくようだ。でもまだ全体像は掴めない。
逸る気持ちを抑えながら、詠の後ろを付いて行く。迷路のようでいて、単純な道のり。やがて僕たちは行き止まりで足を止めた。
煉瓦で舗装された道。パーゴラから伸びるツタや植物は幻想的で。その下に設置された木製のベンチに、柔らかい秋の木漏れ日が差し込んでいた。
詠は何もないベンチを少しだけ見つめたあと、僕に向き直った。
「中二の春に死季病になって、偶然ここに辿り着いたときに、莉奈と会ったの」
僕の知らない文月の話に、一瞬で引き込まれる。詠は過去を懐かしむように続けた。
「ずっと塞ぎ込んでた。でも莉奈は、いくら拒絶しても私の手を握ってくれたんだ。今の私くらい冷たい手だったのに『私と同じね。でも、大丈夫よ』って幸せそうに笑ったの」
「文月が……そんなことを、言ったのか」
僕は思わず泣いてしまいそうになる。文月がそんな風に詠を励ましていたことに。幸せそうに笑っていたことに。
「莉奈と一緒にいるうちに心が軽くなって、また明日が楽しみになったんだ。それくらい、莉奈は私にとっての心の支えだった」
でも莉奈は、と声のトーンを落としたあと、詠は僕に微笑む。それは悲しみを押し殺すような笑みで。詠も僕と同じく、文月を喪って傷付いていたんだ。
「莉奈はいつもある人の話をしてた。優しくて、情熱的で、まっすぐ莉奈の心にぶつかってきてくれる男の子の話」
「それって……」
「莉奈が言ってた。私に手を差し伸べられたのは、湊が自分にそうしてくれたからだって」
文月がそう言ってくれて、僕は素直に嬉しかった。ずっと知りたかった文月の本心。過去の自分が満たされていくようだった。それと同時に、未完成のパズルは正しく組み合わさり、完成に近付いていく。
「それで、頼まれたの。莉奈が死んだあと、湊のことを気に掛けてあげて欲しいって」
「っ……」
最後のピースがはまった。その真実に、僕は足元が崩れ去るような衝撃を覚える。どうしてその可能性に気付けなかったんだろう。いや、違う。本当は詠と文月の関係に気付いた瞬間、僕はわかっていた。でも、無意識に考えないようにしていたんだ。
ヒントはいくらでもあった。
詠の母親が言っていた。詠は警戒心が強く、人を見極めて付き合う子だと。
颯斗が不思議がっていた。そんな詠が、僕を警戒せずに初めから仲良くできたこと。
死季病と四季折々の秘密を明かしてまで、僕を救おうとしたこと。
認識はすべて根底から覆り、温かく色付けられた四季は、冷たく意図的なものに変貌していた。僕は突きつけられた真実を咀嚼して、口から吐き出す。
「文月に頼まれたから、僕と一緒にいたのか……?」
「違う……違うよ、湊。私は――」
僕は詠から伸ばされた手を、思わず払ってしまう。そのことに自分でも驚いた。詠がそんなことをするわけがない。わかっているのに、心と体が連動しなかった。
悲痛に歪む詠の表情。その表情すら、今の僕には――。
耐えきれずに、僕は詠を置いたままその場から逃げ出した。傷だらけの背中に、僕の名前を必死に叫ぶ詠の声を浴びながら。
僕は、文月と初めて出会った河川敷まで来ていた。脚が鉛のように重い。呆れてしまうほど濃い夕陽は水平線に溶かされ、代わりに川面には白い月が映し出されている。
緩やかに流れる川。風に揺れるススキ。遠くに見える何の変哲もない鉄塔。ただそれらを眺めて、僕は河原に座り込んだ。
詠と初めて会った日のことをなぞるように思い出す。春、白い箱庭。初対面なのに、まるで元々仲が良かったかのように接してきた。でも蓋を開けてみればそれは文月の願いで。
僕は衝動的に河原の石を乱暴に掴んで川の中に投げ入れた。水面が弾け、波紋が広がる。すぐに何事もなかったように水面は穏やかになったが、土を抉った指先が鈍く痛んだ。
本当に色々なことがあった。笑って、泣いて、心に触れ合って。大切に四季を巡ってきた。それなのに。
「……今までの日々がぜんぶ、偽物みたいじゃないか」
しかし僕の理性が僕の言葉を否定する。詠と過ごした日々は、交わした言葉は、本当に偽りだったのか。ただ僕の感情はどうしようもなく、シナリオめいたこの現実を許せなかった。
理性と感情の狭間で懊悩している僕の背後から、不意に名前を呼ばれる。詠の声。病院から抜け出してまで、追ってきたんだ。でも僕は振り返らずに立ち上がり、その声から逃げる。
「待って、湊!」
結局、逃げてばかりだ。文月が死んでから何ひとつ変わっていない。大切な人を最後まで信じてあげることすら、僕にはできない。どうしてこんなに、難しいんだろう。
「行かないで。あっ――」
短い悲鳴と共に車椅子がガシャリと鈍い音を立てる。思わず振り返ると、詠がスロープの途中で倒れていた。溝に引っ掛かったのだろう。車椅子は横転し、タイヤの車輪だけがカラカラと虚しく回転していた。
それを無視するなんて、できなかった。
僕は詠のもとまで駆け寄り、何も言わず詠を抱きかかえる。驚いてしまうほどに細く、軽い体。病衣越しにも伝わる体温。そのままスロープを下り、芝生の上に座らせる。
「ありがとう、湊」
「寒いだろ……」
素っ気なく言って、僕は着ていた上着を詠の肩に掛ける。冷たく吹く風が、熱くなっていた頭と体を冷やす。僕は詠の隣に腰を下ろした。
ススキが風に遊ぶ音。カラスの寂しい鳴き声。隣の詠の息遣いは聴こえない。僕は目の前の水面に揺らぐ偽物の月をじっと見つめていた。
視界の端で、詠が僕の方を向いた。
「湊、ごめんなさい。あんな風に言ったら、確かにそう思われて当然だよね」
「別に謝ってほしいわけじゃない。僕はただ……」
真実を知りたいだけだ。文月の想いと、詠が抱えてきたそのすべてを。僕は目を瞑る。頭は冷静だ。もう、逃げることはしない。詠と、視線が交わう。
僕の意志が届いたのか、詠は僕を見つめて、訥々と話し始める。
「私ね、死のうと思ったんだ。病院で検査を受けた帰り道に、どこかないかなって庭を散歩して、それであの場所に行き着いたの」
「……そこで、文月に会ったんだな」
詠は小さくうなずく。僕の背筋に冷たいものが走った。詠のその心境は当時の僕と同じだ。まるで忘れ物を思い出したような感覚。本当の絶望は、自分の知らないところで膨れ上がっていて、急に弾けるんだ。
病院の庭での会話を思い出すように、詠は言う。
「莉奈に湊のことを頼まれたのは本当だよ。でも、それだけで行ったわけじゃない。莉奈が本当に楽しそうに湊のことを話すから、どんな人なのか、私も会いたくなったの」
「そんなの、今ならどうとだって言えるだろ」
心無い言葉を放った僕の口は途端に凍り付いてしまう。なのに詠は、それでも怯まない。
「そうだね。初めから私がぜんぶ湊に話してたらこんなことにはならなかった。でも、どうしてもできなかったの」
「何で……」
「あのときの湊に、莉奈とのことをぜんぶ話すなんて、できないよ」
「っ……!」
僕はそこで理解した。詠のとてつもなく強い意思を。
四月。僕が詠から文月の話を聞いたとして。その後に詠も死季病だと知ったとして。僕は耐えられただろうか。突き放して、二度と立ち直れなかったはずだ。
「夏期の病状が落ち着いて湊に会いに行ったら、莉奈から聞いてた湊とは別人みたいだった。それどころか、少し触っただけでいなくなっちゃいそうで……」
瞳に浮かんだ涙が流れないためか、詠は数秒だけ目を閉じた。
「抜け殻みたいな湊を見るのが、すごく辛くて……何とかして救いたいって思った」
初めて会ったあの瞬間から、詠はそこまで考えていたんだ。何気ない会話をして僕を励まそうとしてくれた詠の笑顔を思い出す。それなのに、僕は。
「でも、私の比じゃないくらい湊の絶望は深かった。中途半端じゃ湊の心は救えない。私もそこで、覚悟を決めたの」
「それで文月との関係を隠して、死季病と四季折々を僕に伝えたのか」
「湊は莉奈のときみたいに、絶対に私の死季病にも気付く。だから初めから死季病を打ち明けて、それでも湊が自分の意思で前に進めるようになるまで、一緒にいようって」
詠は最後に「どれだけ私が拒絶されても」と小さくつぶやいた。どうして、詠はここまでできたんだろう。文月の願いだから? 文月から僕の話を聞いて興味を持ったから? どれも正しいとは思えなかった。真実を知っても、僕には、それだけがわからない。
「わからないよ……どうして詠はそんなに、僕のことを」
僕の質問が意外だとでも言うように詠は微笑む。その瞳に、煌めく水面を支配する月の光が映り込んだ。
「湊は、私の命の恩人だから」
とてもシンプルで、しかし身に覚えのない理由に、僕は呆然とする。その言葉を咀嚼しても答えは出なかった。
「……でも僕は、そのとき詠に会ってすらいない」
「会ってなくても、巡ってるんだよ。湊は莉奈のことを救って。莉奈は私のことを救ってくれた。だから私は、湊のことを救いたかった。私の四季を繋いでくれたのは莉奈でも、その始まりは、ぜんぶ湊なんだよ?」
走馬燈のように、文月と出会ってから今までの四季折々がすべて蘇る。体の中から何かが迸り、僕はうなだれる。やがて震える唇で言葉を紡いだ。
「僕は、救えていたんだ……」
つぶやいた瞬間、僕の両手を詠の両手が包み込んだ。なぜか、出会った頃の詠の手みたいに温かい。それが錯覚だということはわかっている。でも、何もかもが温かすぎて、もう涙が頬を流れていた。顔を上げると、詠も静かに泣いていた。
詠は声を詰まらせながら、僕に微笑みかけた。
「――私は、出会う前から、湊に救われていたんだよ」
その言葉に、僕の傷がすべて癒えて、心が満たされていく。ひたすら走ってきた過去が。目の前が真っ暗になった過去が。自分を責めた過去が。
僕が選んで、巡ってきた四季は間違いじゃなかった。間違って、なかったんだ。
僕の嗚咽は水面を滑り、徐々に強く広がっていく。小さくなって泣き続ける僕を包む詠の温もりだけは、ずっと傍にいた。
4
どこまでも突き抜けるような青空。この快晴がまるで嘘かのように、車椅子を押す僕の手から熱が奪われていく一二月。僕たちは、とある場所まで来ていた。
「寒くないか、詠?」
「着込んで来たから、大丈夫だよ」
詠のブランケットの位置を直して、僕は目的の場所を目指す。
規則正しく並べられた墓石。それは無機質で冷たく見えるけれど、確かにその人がここで生きていた証だ。小高い丘を登り、僕は一つの墓前で足を止めた。
文月が眠っている墓。ようやくここまで来ることができた。僕が立ち尽くしていると、詠は静かに口を開いた。まるで長年の夢が叶ったような安寧を湛えて。
「莉奈のお墓参り、二人で来られて良かった」
「……そうだな。二年と三か月も掛かったけど」
詠が会いに来てくれなければ、僕はここに来られなかった。本当に詠には感謝しかない。
辺りを見渡して水道を見つけた僕は、詠に言った。
「じゃあ水汲んでくるから、ちょっと待ってて」
そして二人で墓の周りを掃除し始める。定期的に家族が来ているのだろう。墓は綺麗に保たれていた。軽く掃除を終え、花を供え、線香をあげる。
僕たちは並んで手を合わせた。柔らかく上がる線香の煙。赤くなった僕らの指先。またこうして文月に何かをするということが、堪らなく嬉しかった。
目を閉じるとすぐに思いは溢れた。文月への言葉を、僕は空まで届く煙へと乗せる。
――遅くなってごめん、文月。長い間、君と過去に閉じ籠っていたけど、もう僕は大丈夫。大丈夫だよ。だから、これから僕が歩む四季を、どうか見守っていてほしい。
冷たく、でも柔らかい風が僕の肌を撫でる。長い時間、僕は手を合わせていた。ゆっくりと目を開くと、詠が僕のことを見つめて微笑んでいた。
「湊もちゃんと、届けられた?」
「……うん、きっと。届くといいな」
僕も詠に微笑みかけて二人で空を仰ぐ。青の彼方に、雲のように白い僕の息が上っていく。詠の口からは出ないその白は、やがて空気に溶けて、消えていった。
文月の墓参りですべてが終わったわけじゃない。まだ僕は、やり残していることがあった。詠の車椅子を押して、かつて文月と歩いた道を歩く。
鉄塔に背を向けて少し歩いた住宅街。その中の一軒家に、僕たちは向かっていた。
「莉奈のママさん、元気かなぁ。最近は会ってなかったんだ」
「連絡とってくれてありがとう、詠」
文月の葬式に出られなかった僕がどう思われているのかは、正直怖い。でも、僕の知らない文月の最後が、そこにはある気がした。
緊張を紛らわせるために会話をしていると、急に詠の体が傾いた。睡眠発作だ。最近は短い周期で短時間だけ眠ることが多くなった。
僕は慌てて車椅子を止め、詠の正面から肩を揺すって声を掛ける。
「詠、詠、大丈夫か? 起きられそうか?」
「ぅ……」
「良かった……」
僅かに反応があるときは、数分で目を覚ますはずだ。僕の体から吹き出た汗が引いていき、冷たい安堵だけが残った。僕は詠の体をベルトで固定して、また歩き出した。
レンガ調の小さな一軒家。二年前まではよく訪れていた場所だ。車椅子を止めた僕は、玄関扉の横のインターホンを見る。数段の階段を上って押すだけなのに、とても遠く感じた。
「大丈夫だよ、湊。私も一緒だから」
「詠、良かった……心配したよ」
詠は「いつもごめんね」と困った顔で笑う。僕は思わず詠の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。冬の渇いた空気と詠の髪の匂いが混ざり合い、空間を満たす。何だか落ち着く匂いだ。
こんな顔をさせないくらい、強くならないといけないよな。僕は短い階段を上り、インターホンを押した。詠の隣に立ち、その時を待つ。
小さな足音が聞こえたあと、すぐに玄関の扉が開く。僕が深く頭を下げると、詠は「お久しぶりです、ママさん」と言う。文月の母親は僕たちを交互に見て、薄く微笑んだ。
「久しぶり、詠ちゃん。……それと、湊くん、よね? 寒かったでしょう、入って」
母親には初めて会ったけど、僕のことは文月が話していたのだろう。
靴を脱ぐと、文月の部屋へ続く階段に手すりが設置されているのに気付く。僕が遊びに来ていた時にはなかったものだ。文月の強がりに、僕は懐かしさを覚える。
僕たちはリビングへ通された。詠をソファに座らせて、僕はリビングを見渡した。
木材を基調とした温かな雰囲気は二年前と変わっていない。でもその中で、すぐにある部分に目が行く。コンパクトな仏壇に、文月の遺影が立てかけられていた。相変わらず猫のように澄ました表情で、こっちを見ている。
そしてその隣にもう一つ、優しそうな男性が微笑んでいる遺影が並んでいる。きっと文月の父親だ。亡くなっていたなんて、知らなかった。
僕は文月の母親に、静かに訊いた。
「……線香を、あげてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ。ありがとう」
仏壇前の座布団に正座する。僕はソファから動けない詠の分も線香をあげ、リンを鳴らす。高い音色が彼方へと吸い込まれた後、僕は正座のまま文月の母親に向き直った。謝らなければいけないことがある。
「莉奈さんとは、仲良くさせてもらっていました。でも、葬式にも、墓参りにも行けなくて、本当にすみません」
深く頭を下げる。母親は「謝らないで」と諭すように言うと、ゆっくりと顔を上げた僕を優しい表情で見つめる。
「湊くんは今日、こうやって詠ちゃんと来てくれたでしょう? それだけで嬉しいのよ」
「……そう言ってもらえると、救われます」
もっと色々言われることを覚悟していたから、その言葉は本当に僕にとっての救いだった。
「救われたのは私の方よ。莉奈は死季病になってから、私に頼ったり、弱いところを一つも見せなくなったから。きっと、このあと独りになる私に気を遣ったのかもしれないわ」
僕は視界の端にある二つの遺影に意識を向ける。
「何か、莉奈っぽいなぁ。泣き虫になっちゃった私とは真逆だ」
詠が恥ずかしそうに笑うと、母親も口に手を当てて笑いながら、続ける。
「それでいいのよ。たくさん泣いて、笑って、甘えてくれた方が親としては嬉しいもの。でも中学生になってからは、ちゃんと年相応に弱音を吐いたりするようになった」
母親は僕たちを交互に見て微笑んだ。目尻には涙が少し、滲んでいた。
「湊くんと詠ちゃんのおかげで、あの子はとても幸せに生きられたと思うわ。二人とも、本当にありがとう」
声を出せずに、僕はうつむいて首を横に振る。詠は涙が滲む声で口を開いた。
「私も、莉奈と会えて幸せだった。私、莉奈にもらってばかりで、何も返せてない」
「いいえ、そんなことないわ。傍にいてくれるだけで心を満たしてくれる。詠ちゃんは莉奈にとっても、私にとっても、大切な存在よ」
僕は深く納得する。きっとそれは詠の才能で。人間性で。その輪に入った誰もがそう思ってしまう。詠は恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
母親は立ち上がり、ソファに座っていた詠の隣に腰を下ろすと、そっと肌に触れた。文月のことを思い出したのか、その表情が寂しげな色を見せる。
「……桔梗の会で初めて会ってから、もうそんなに経つのね」
桔梗の会。確か死季病患者の会の別称だったはずだ。詠は、母親に微笑みかけた。
「私の四季も、あと三か月くらいだよ。最近は、関節を動かすのが難しくて。睡眠発作も頻度が多くなってきたんだ」
「……そう、なのね」
「それで、次に長く眠ったら、最期」
明るく放たれた言葉。しかし「最期」という言葉だけは、少し震えて空気に溶けた。遠いようで、限りなく近い未来だ。
母親は、ゆっくりと詠の背中に腕を回した。詠は少し驚いた表情を浮かべたあと「えへへ」と笑う。嬉しさや寂しさが混ざった、でも幸せに近い笑みだと、僕は思った。
「……向こうでも、莉奈と仲良くするね。ママさん」
「ええ……莉奈のことをよろしくね、詠ちゃん」
二人は少しの間、抱き合っていた。母親は詠から腕を解いて、流れていた涙を指で拭う。詠はその姿を見てか、明るい声で提案した。
「そうだ、ママさん。私、久しぶりに莉奈の部屋行きたい」
「莉奈の部屋? ええ、いいわよ」
「やった。湊、ん!」
両腕を広げて、運んでと催促してくる詠に、僕は言う通りにする。でも文月の母親の前では少し恥ずかしい。
詠の母親と違って何も言っては来ないけど、僕を見る目が文月のそれと同じだ。楽しいおもちゃを見つけたみたいな、そんな目。ぜひやめてもらいたい。
僕は詠を抱えて、文月の部屋がある二階へ上がった。奥の一室。ドアを開けて中に入った僕たちは、同時に「あのままだ」とつぶやいた。
シンプルな木目調の部屋。勉強机とイス。ベッドにカーペット。クローゼットに服はあまり掛かっておらず、代わりにカメラに使う撮影道具が積まれている。
あれから二年が経っても埃っぽさはまるでなくて、きちんと掃除が行き届いていた。僕は詠をベッドの上に座らせ、文月の部屋を懐かしんだ。
――女の子の部屋をじろじろ見るなんて、デリカシーがないわよ、湊。
初めて文月の部屋を訪れたときのことを思い出す。そのあと、なるべく一点を見るように努めて笑われたことも。
「湊も莉奈の部屋、来たことあったんだね」
「うん、よく来てたよ。急に呼ばれて、文月のやりたいことを叶えに」
でもそれは決まって母親が仕事でいない日だった。さっきの話を聞いた今ならわかる。その理由が、文月の寂しさを紛らわせるためだったのだと。
――湊、いつか私の四季が終わったら……。
頭の中に反響するように、文月の声が聞こえる。僕がまだやり残していること。あのときのまま変わらないこの部屋なら、きっとそこに。
――私の部屋。勉強机の、横のチェスト。
「……上から、二段目」
僕はチェストの引き出しを開ける。そこには、文月の魂が刻み込まれた一眼レフカメラが置いてあった。楽しい思い出が詰まったカメラを手に取り、指で撫でる。
「湊くん。莉奈のカメラ、もし良かったらもらってほしいの」
遅れて部屋にやってきた母親の突然の提案に、僕は首を振る。
「こんなに大切なもの、もらえません」
「莉奈が命くらい大切にしていたものだから、湊くんにもらってほしいのよ」
僕はあのとき約束を交わさなかった。文月の四季が終わるのを認めるみたいだったからだ。でもそれは、ずっと心に引っ掛かっていた約束のひと欠片で。
――湊、いつか私の四季が終わったら。今度はあなたがこのカメラで、四季を巡って。
「それがきっと、莉奈の最期の願いだから」
文月の最期の願い。今の僕なら、きっと文月に胸を張れるくらいの四季を巡ることだってできるだろう。
不意に詠を見つめると、ベッドの上で淡く微笑み返してきた。まるでこれから僕が出す答えがわかっているみたいに。
僕はその表情に向けてカメラを構える。幾度となく見た、文月がファインダーを覗く姿を思い出しながら。
シャッター音が部屋に響く。その音が消える刹那、文月が笑ってくれた気がした。
「……大切にします。これからも、ずっと」
いつか僕の四季が、終わるまで。
「ありがとう、湊くん。莉奈の隣にいた人が、あなたで良かった」
母親は涙声でそう言ったあと「ゆっくりしていって」と言い残して、階段を降りて行った。僕は何だか力が抜けてしまい、詠の隣に腰を下ろして息を吐く。木製のベッドが鈍く鳴った。
僕はまだ手に馴染まないカメラを触りながら言う。
「文月のカメラを譲り受ける日が来るなんて、思わなかったな」
「でも撮る姿、けっこう様になってたよ。さっきの写真、見たいな」
カメラを覗き込んでくる詠にデータを見せる。性能が良いのもあるけど、久しぶりにしては上手く撮れた方だ。
「おぉ~。やっぱり私、可愛いなぁ」
「おい自分で言うな。……まあでも、被写体が良いのは確かだな」
詠は突然、僕を小突いてくる。ずっと一緒にいるからわかる。ただの照れ隠しだ。
そのまま僕たちは、文月が閉じ込めた幸せな時間を巡り始める。過去から未来へ。膨大な枚数を、一枚一枚、時間をかけて。
すべてが風景写真だった。河川敷。水面の不規則な揺らめき。遠くの鉄塔。群青の空。文月が巡った四季折々の繊細さと漂う懐かしさに、まるで童心に帰ったような胸の高鳴りを覚える。思い出が新しいものになるにつれて、その風景はより繊細に、輝きを増していった。
僕や詠に出会った日付から少し経つと、今までとは明確に違う写真が、僕たちの目に飛び込んできた。
「これ、文化ホールに飾られてた写真だね」
『夏の涯』。文月が放課後に息をするように撮った、初めてのポートレート。
展望公園から、夕陽に染まった町並みを見下ろす少年の横顔が切り撮られている。夕陽の逆光で、それが誰かはわからない。
「被写体が良いのは、湊も一緒だね」
「これは、文月の技術が凄いんだよ」
文月と初めて会ったときの、僕を被写体にするという約束。文月にとっての幸せな写真の一部になれたことが、僕は何よりも嬉しかった。
それ以降は、母親の写真。僕の写真。詠の写真の比率が徐々に多くなってきた。僕の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていった。
長い旅を終え、最後の二枚。僕と詠は顔を見合わせ、写真をモニターに表示する。
僕と詠は、同時に息を呑んだ。最後の二枚は、僕と詠がそれぞれ文月と一緒に写っている写真だった。頑なに自分は写ろうとしなかった文月が一緒に撮ろうと提案してきたことは、今でも鮮明に覚えている。
場所はどちらも展望公園。一本の桜の樹を背景にしていた。僕は緊張気味に文月の左隣に。詠は満面の笑みで文月の右隣に立っていた。二つの写真の中で文月は幸せそうに微笑んでいる。
モニターに、温かな水滴が落ちる。気付くと僕は泣いていた。これが文月の幸福の答えなんだ。そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。
詠も涙を拭った手で、二枚の写真を交互に表示させた。
「……何か、三人で一緒に写ってるみたい。莉奈、本当はずっとこうしたかったんだよね」
「……うん、きっと」
でも文月は、最後にひとり残されてしまう僕を案じて、そうしなかった。
その文月の優しさと慈愛を、胸にしっかりと刻み込む。僕は涙で滲む視界で、その幸福の答えを眺め続けた。
*
部屋にカメラのシャッター音が響く。僕は慣れた動作で、切り撮った思い出を確かめる。
大きなクリスマスツリー。並べられたプレゼント。豪華な食事。見るだけで心が躍るような光景だ。煌びやかに飾り付けられた部屋は、白い箱庭なんかじゃない。詠が生まれ育った家に僕たちは集まっていた。
僕が顔を上げると、颯斗がローストチキンをもぐもぐと頬張りながら口を開く。
「詠、本当に良かったのかー? 食べ物も並べちまって」
「いいの! 食べ物ないとクリスマスじゃないじゃん! まあ最近は調子良いから、できればちょこっと……」
「おい食うなよ? 食ったらなずなのパンチが飛んで来るぞ」
「や、やだ。そんなことしないよ!」
今にも口からよだれを垂らしそうな詠を僕は制止する。食べても危険なわけではないけど、できるだけ危険因子は減らすべきだ。詠の病状を鑑みると仕方がない。
餌をお預けされる犬みたいな詠に、なずなが手を叩いて言う。
「じゃあちょっと早いけど、プレゼント交換会しよっ!」
「やったー! プレゼント~」
ベッドに座った詠の顔がぱっと華やぐ。僕はそれをすかさず写真に収めた。が、タイミングが悪く、半眼の詠が変なポーズを取って荒ぶっている仕上がりになってしまった。まったく、文月のようにはいかない。
颯斗となずなが、一か所に置いていた全員のプレゼント袋を仕分け始める。詠が食べ物を食べられない代わりに、プレゼントは僕たち三人で会議して絶対に喜んでくれるものを選んだ。
僕もカメラに視線を落とした、一瞬のことだった。
「うわ~っ! お肉美味しい~!」
ローストチキンに豪快にかぶり付く詠に、颯斗となずなは真っ青になって詠に飛び付いた。
「うわっ! バカッ、よせ!」
「詠ちゃん! もう絶対やると思った!」
僕は天国と地獄が垣間見える光景に、腹から笑いながらシャッターを切った。詠の母親の想像通りだ。僕は事前に「食べ過ぎない程度になら、詠にも食べさせてあげて」と了承を得ていた。颯斗となずなには伝えないで正解だったな。めちゃくちゃ面白い。
詠は程よく食べて、幸せそうに笑っていた。僕も颯斗もなずなも、それは同じで。文月のカメラに、僕にとっての幸福の答えが、多く刻み込まれていった。
それから僕たちは正月を迎えた。大晦日は詠の家に泊まり、展望公園で初日の出を拝んだ。僕がこの世界に願ったことは、みんなが幸せでいられますように。ただそれだけだった。
でも、世界に祈るより確実なことがある。それは、詠が作った四季を巡る祈りだ。僕たちはゆっくり、着実に冬の四季折々を叶えていった。
そんな日々が、これからもずっと続けばいい。そう思う反面、僕は覚悟していた。いずれ来る崩壊の日々を。
その日も変わらず、僕は詠の病室を訪れていた。いつもの調子で会話をして、四季折々を叶えて。充足した一日。
僕は自称さんの小説を読んでいた。それは主人公とヒロインが出会い、ある事件をきっかけに破滅していくという物語。希望溢れる描写から絶望に変わるストーリーラインに、引き込まれていく。
すると、何かが床に落ちる音で、僕は現実世界に引き戻された。顔を上げると、四季折々に書き込んでいた詠の手から万年筆が落ちていた。
床に転がる万年筆を拾い上げ、僕は詠に手渡す。
「ありがと……」
しかし万年筆は、詠の手から零れ落ちる。テーブルに万年筆が落ちる空虚な音が、嫌に耳に残った。僕はその事実に、ぞっとする。力が、一つも入っていないみたいだった。
「詠……」
名前を呼ぶと、詠は小さな声で「いや……」とつぶやく。その顔はみるみるうちに恐怖に歪み、呼吸が荒くなっていく。
「嫌ッ!!」
廊下にまで響き渡るほどの声で、詠は叫んだ。ほとんど悲鳴のようだった。僕は詠の肩に手を置いて「詠、大丈夫。大丈夫だから」となだめた。しかし詠はとてつもない力で、僕の手を振り解く。パニックに陥っていた。
怒りと、恐怖と、悲しみと、あらゆる感情が内包された声。僕は一瞬怯んだが、詠を落ち着かせようと抱きしめた。
すると騒ぎを聞いた看護師が数人、慌てた様子で部屋の中に入ってきた。僕は詠から引き剥がされ、看護師数人が詠の体を押さえる。しかし詠は体を激しく動かして抵抗した。
「嫌ッ! 離して!! 何で私が死ななきゃいけないの!? まだ、死にたくない!」
僕は立ち尽くし、詠の悲痛な叫びを聞いていた。その間も看護師はずっと優しく言葉を掛け続けている。詠は過呼吸状態で、喘鳴を上げながら、金切り声を出した。
「――死にたくないッ!!」
僕は呆然と項垂れた。目の前の詠の声がとても遠くに聞こえて、僕の震えた呼吸が耳元で聞こえる。『死にたくない』。理不尽な現実に対するその強い想いが、僕の頭の中で、何度もこだましていた。
やがて詠は鎮静剤を打たれ、今は静かに眠っていた。椅子に座ってぼんやりしていると、不意に声を掛けられる。詠の母親だった。
「湊くん。今日はもう大丈夫だから、家に帰ってゆっくり休んで。……ごめんね」
「はい……僕は、大丈夫です」
うつむきながら僕は答える。ふと、いつの間にか床に転がっていた万年筆が目に入る。詠が綺麗な四季を描いていたそれは、ペン先がぐにゃりと曲がっていた。僕はそれを拾うこともせず、詠が眠る病室を後にした。
僕は河川敷に座り込んでぼうっと川面の揺らめきを眺めていた。一月は昼間でも気温が低く、徐々に僕の熱を奪っていく。その冷たさに、心に付いていた傷がひどく痛んだ。
死にたくないという詠の心からの叫びに僕ができることなんて、何もない。さっき、まざまざとそう思わされてしまった。
ポケットの中のスマホが震える。きっと颯斗となずなだろう。二人もあのあと来る予定だったから、僕の行方を捜しているのかもしれない。でも、返信している余裕はなかった。
雪がはらはらと降ってきた。その小さな結晶は音もなく僕の手に触れ、消えていく。その様子を何となく眺めてうずくまると、背後から声が聞こえた。
「篠宮……?」
その声にゆっくりと振り向くと、氷野が立っていた。しかしそこに今までのような険しい表情はなくて。単純にこんな場所に座り込んでいる僕に対しての疑問が表れていた。
返事をする余裕もなく、僕はまた正面の景色を眺めた。すると、氷野は「何でこのクソ寒い日にこんなところにいんだよ」と悪態をつきながら、僕の周りをうろうろし始めた。それにも反応せずにいると、氷野は短く舌打ちをして、僕の隣に腰を下ろした。
「吹っ切れたのかよ」
「え……?」
ぶっきらぼうに放たれたその言葉に、僕は聞き返す。氷野は正面を眺めたまま、その意味を正確に伝えてくる。
「文月の母親から聞いた。篠宮と水瀬さんが来てくれたって。すっげぇ喜んでたよ」
僕は文月の家に行くまでの出来事を思い出しながら、口を開く。白煙が空に昇った。
「ああ……文月にちゃんとお別れを言えてなかったから。時間は掛かったけど」
「じゃあ、何でそんなにくたばりそうなツラしてんだよ」
氷野と久しぶりに視線が合う。そこに怒りの色はなく、まっすぐ僕だけを見ている。あれから何か心境に変化でもあったのだろう。だから誤魔化す必要はないように思えた。
「詠が死季病なんだ。もうそんなに長くない。それでさっき病室でパニックを起こして……」
「死季病って……嘘だろ」
そんなの、信じられないだろう。氷野は苦痛に顔を歪めていた。きっと文月との別れを思い出しているのかもしれない。
それは氷野が文月に固執する――いや、自分と過去とを鎖で繋がなければならなかった理由にもなった出来事だ。
僕は空を仰ぎ、当時のことを思い出す。中学一年生の二学期が始まってすぐのことだ。
氷野は文月が好きだった。でも、好意を伝える選択を誤った。文月の気を引くために、文月が命くらい大事にしていたカメラを奪ったのだ。無知で未熟な考えで。
僕も、無知で未熟だった。感情のまま氷野を殴りカメラを取り返した。それが後にどんな結果を生むかも知らずに。
それ以来、僕は氷野と関わりを断ち。氷野は謝れないまま、文月は死んでしまった。
氷野が文月を傷付けたのは紛れもない事実だ。でも氷野を文月から遠ざけてしまったのは、無知で未熟だった僕だ。言い訳はできない。
だから僕は、隣でうつむく遠い日の友人に声を掛ける。
「……氷野」
氷野の視線が僕を捉える。悲痛なその表情が、僕の過去の記憶と重なる。鮮烈な痛みが胸の奥を駆けた。
「文月の死季病を黙ってて……ずっと氷野のことを遠ざけて、本当にごめん」
頭を下げる。本当に僕は、何もかもが遅すぎる。氷野にとってはもう、取り返しがつかないことなのに。
氷野は鉄塔に視線を移して瞬きをすると、意を決したように体を僕に向けた。
「……黙ってたのは、文月がそう望んでたからだろ。本当はわかってた。でも、色んな感情がごちゃ混ぜになって、ぜんぶお前のせいにしちまった」
「いいんだ。僕が氷野を文月から遠ざけてなきゃ、こんなことにはならなかったんだから」
しかし氷野は首を横に振って「違うよ、篠宮」と僕を見つめる。深い後悔の色が、表情から滲み出ていた。
「本を正せば、俺が文月のカメラを奪ったのが原因だ。篠宮のせいじゃねぇ。謝ろうと思えばいつでも謝れたのにな。でも、怖かったんだ。あれ以上、嫌われたくなんてなかった」
氷野はふっと僕から目を逸らし、独り言のように小さくつぶやいた。
「……好きだった。ただ、それだけだったんだ」
もう直接伝えられないその想いは、冷たい風に攫われていく。だから氷野は何度も文月に手を合わせていたのかもしれない。天国までの遠い距離へ、どうにか届くように。
氷野はもう一度しっかりと僕を見据えると、少しだけ震える声で言った。
「俺の弱さのせいで、篠宮にひどいこといっぱい言ったよな……本当に、ごめん」
僕は、深く頭を下げてくる氷野を見つめる。僕らは無知で、未熟で。でも今この瞬間、少しは前に進めたんだろう。だから僕は、さっきの言葉を氷野にそのまま返した。
「……吹っ切れたのかよ」
氷野は驚いた表情で僕を見たあと、柔らかく微笑んだ。それは遠い日の笑顔から、何一つ変わってはいなかった。
しばらくすると氷野は立ち上がり、僕を見下ろしながら言った。
「で、いつまでそんな辛気臭いツラしてんだ、篠宮」
僕の心はまだ完全には晴れていなかった。さっきの詠を思い出すと、体の細胞がすべて凍り付いたみたいに動けない。氷野は何も答えない僕に「あのさ」小さくため息をついた。
「文月も、水瀬さんも、お前を選んだ。それって、篠宮なら何かを変えてくれるって思ったからじゃねぇのか?」
「……僕ができることなんて、本当に何もないんだよ」
「俺が見てた昔のお前は、こんなところで立ち止まってなんかいねぇよ。いつも大切な誰かのために走り回ってただろ!」
思い切り背中を叩かれる。痛みの熱が浸透するように、体中に響いた。ああそうだな。それだけは、自信がある。
――私は、出会う前から、湊に救われていたんだよ。
晴れやかな詠の笑顔。病室での恐怖に歪んだ顔。相反する二つの表情が、頭の中を巡る。まだ何一つ、救えてなんかいない。
僕は立ち上がる。体は冷え切っていたけれど、確かに熱は灯っていた。
「氷野、ありがとう。僕……」
「わぁったから、早く行けバカ!」
相変わらず口が悪い氷野に苦笑しながら、僕は詠のもとへと走る。
厚い雲間から覗く淡い光芒。太陽は水平線に吸い込まれようとしていた。むせ返ってしまいそうな冬の冷気を体内に取り入れてもなお、僕の体はいっそう熱を帯びる。
走りながら、スマホの着信を確認する。颯斗となずなから何件も電話が掛かって来ていた。その瞬間、僕は察する。折り返そうとした矢先、また着信音が鳴った。
『――湊っ! 詠が……病院から、いなくなった』
震えるその声は、僕の心臓と走る脚を加速させた。
内から湧き出る焦燥をかき消すように、僕は走る。拭い去れない嫌な予感は、陽が落ちて夜の比率が濃くなると共に膨らんでいった。
詠が病院から姿を消したのは三〇分ほど前。車椅子に乗った詠が町を出ていないことは、颯斗が駅員に確認を取っている。詠は、きっとこの町のどこかにいるはずだ。
高校。ショッピングモール。中央公園。文化ホール。詠と出会い、巡った場所を僕は探し回る。しかし詠の姿はどこにもない。また中央公園に戻ってきたところで、背後から声を掛けられた。振り向いた先に、颯斗となずながいた。二人とも走り回ったのか、呼吸が荒い。
「湊! 詠、いたか?」
返答しようとした瞬間、僕は激しく咳込む。町中を走った反動が今になって体を襲う。呼吸は苦しく、頭がぼんやりする。こんなに寒いのに体だけは熱く、汗が噴き出してきた。
膝に両手をつく。地面に染み込む自分の汗を見ながら、僕は何とか言葉を絞り出した。
「いや。まだ、ぜんぶは、探せてない……」
僕は全身に脈打つ鼓動を意識しながら、また歩き出す。すると、不意になずなに右手を掴まれる。ぼやける視界の中で、なずなも、颯斗も、ひどく不安そうな顔をしていた。
「湊くん。ちょっと休んで。詠ちゃんは私たちが絶対に見つけるから」
「そうだ。このままだとお前が先に倒れちまう」
その優しい言葉に僕は首を振る。心配してくれる二人を心配させないように、僕は笑う。
「大丈夫だ。それに、ここで立ち止まったら、また後悔すると思うから」
今までずっと立ち止まってきた。だから、僕は走り続けたい。死ぬほど今が辛くても、未来では笑うために。
二人にも思い当たる場所をもう一度探すように頼んで、僕はまた走り出した。
詠との軌跡を、僕はなぞる。バッティングセンター。河川敷を横目に通り過ぎる。耳の奥で鼓動が響く。詠が向けてくれた笑顔が脳裏に点滅するように蘇った。
後は――詠と僕、文月の思い出の地だけだ。無意識のうちに、候補から外していた。あの場所に辿り着くには、車椅子では難しいから。
でも、確信があった。詠は絶対にそこにいる。僕はその場所へと急いだ。
汗を拭い、僕は疲弊しきった体で展望公園へと続く道を上る。黄昏時。僕を追い返そうと木々が激しく揺れる中を、まっすぐと進む。
木々が途切れ、静かになった。視界の端には一本の桜の樹。陽が落ちて薄暗くなった展望公園は、全体がセピア色に染められていた。
落下防止柵の向こう側。そこには鋭い木々と背筋が凍るほどの急斜面の崖が広がっている。その手前に詠は座っていた。僕は少しだけ近付いて、声を掛けた。
「……空でも、飛びたかったのか?」
「来ないで」
静かで、研がれた刃のような言葉。僕は向けられた刃の切っ先へ向かうように近付いた。
「どうして、そんなところにいるんだ」
「今が、すごく幸せだから」
詠は遠くの町並みを眺めながら、震える声音で言う。僕は口を結んで、次の言葉を待った。
「……もっと生きたい。死にたくない。でも、もうすぐぜんぶ終わる。だから、どうせ終わっちゃうなら、写真みたいに幸せなまま、終わらせたいの」
息を呑む。僕たちの根底には確かに絶望があって、自ら死を望んだ。でも詠の絶望はもっと底が見えないくらい、深い。
「湊。私を、救ってくれてありがとう」
詠は柵を支えに震える手足で立ち上がり、背を預けた。柵は腐食しているのか、グラグラと動いて頼りない。今にも詠は、本当に鳥のように飛び立ってしまいそうだ。
だから、僕は叫んだ。その羽を折るために。二人で最期まで歩いて行くために。
「こんなのが、幸せ? ふざけんな!」
体をびくりと震わせて、詠は僅かに僕を振り返る。
「死にたくないんだろ? 幸せなまま終わりたいんだろ? なら、まだやれてないことがたくさんあるだろ! 足掻けよ!」
「足掻いたよ!」
詠も叫び、僕を睨む。そんな目をできる奴が死を望むなんて、絶対に間違っている。
「湊も見たでしょ? 私の手が動かなくなるところ。後はもう冷たくなるだけなのに、それでも、まだ、頑張らなきゃいけないの……?」
「っ……」
弱々しいその本心に僕は怯む。詠は半分泣いているような声で、言葉を絞り出した。
「湊は私を救ってくれて、幸せをたくさんくれた。このまま終わらせたいって思うことは、そんなにだめなことなの?」
「だめだ」
僕は強く言い切って、さらに詠に近付いた。詠は青ざめた顔で「来ないでよ!」と叫ぶ。柵を掴む両手に力が入るのがわかる。このまま少し勢いをつけて飛び出せば、詠は真っ逆さまに落ちてしまうだろう。凄惨な光景が脳裏をよぎった。
それでも僕は足を止めなかった。そんなに悲しい顔を、苦しい思いをさせたまま、詠と離れる気はない。
「僕はまだ、詠を救った覚えはない」
「え……?」
詠は僕に救われたと、幸せだと言ってくれた。でも、まだ何もかもが中途半端なんだ。
前に僕がこの場所で詠に誓った約束。『最後まで詠と一緒にいる』。この約束の本当の意味を、僕は言葉に乗せる。
「詠が瞳を閉じる瞬間に、心から幸せだったって思うまで僕は足掻きたい。それが僕の……」
一瞬だけ言葉に詰まり、僕は微笑む。誓ったんだ。独りになんて絶対にさせない。
「――四季折々だ。詠……僕の願いを、一緒に叶えてほしい」
自分勝手だって思われても、こんな形で別れるよりはずっといい。これが僕の四季の形だ。
詠は、初めは静かに、しかしやがて堪え切れずに嗚咽を漏らし始めた。それはセピア色に染まった展望公園にこだまする。何度も、何度も、声にならない声で「ごめんなさい」と繰り返しながら。
僕は「帰ろう、詠」と言って、柵に掴まって一生懸命に立っている詠に近付いた。詠も素直にうなずいて、僕に手を伸ばす。
――瞬間。詠の体が、かくんと崩れた。睡眠発作。最悪なタイミングだった。
死の底へと吸い込まれていく詠。伸ばされた小さく冷たい手を掴むために、僕は何も考えずにただ走った。周りの音が止んだ。
しかし脳裏に浮かんだ映像が、僕の脚を鈍らせる。
文月との最後の日。僕は背を向ける文月の手を掴めなかった。
詠と川遊びをした日。転びそうになった詠の手を掴めなかった。
でもそんなこと、今は関係ない。そうならないために、僕は詠と、この四季を巡ってきたんだ。僕はただ、ひたすら駆ける。
「詠ッ!!」
――手を、伸ばした。
落下防止柵の根元を左手で掴み、僕は飛び込むように詠の右手を握った。詠の体が急斜面の崖から飛び出し、揺れる。細かい石が音を立てて転がっていく。暗い底はひどく凍てついて見えて、僕は恐怖に息を呑んだ。
詠のすべてを受け止めている僕の右手と肩が悲鳴を上げる。長くは持ちそうになかった。
詠は確かに眠っている。それなのに、僕の手を握る力は、とてつもなく強い。
懸命に生きようとする詠の意志が、僕の体に流れ込んでくる。だから僕が諦めるわけにはいかない。最後まで、足掻いてやる。
詠の魂まで届くように、僕は叫ぶ。
「詠! 僕が君を救う! だから絶対に離すな!!」
反応はない。思いとは裏腹に、僕たちの手はじりじりと離れていく。僕はとっくに、限界なんて超えていた。
無意識のうちに、僕は心の中で文月に願っていた。
お願いだ、文月。まだ詠を連れて行かないでくれ。これからなんだ。やれていないことがたくさんあるんだ。
しかし、その願いは届かなかった。
数瞬の浮遊感。そこから、呼吸をする暇もないほどの落下速度と風圧に襲われる。
あのときと――僕が飛び降りたときとまったく同じ。でも唯一違うこと。僕と繋がれた右手の先には、死んでも守らなければいけない大切な人がいる。
衝突の瞬間。僕は自分でも信じられないくらいの力で詠を引き寄せ、抱きしめていた。
どのくらい、時間が経ったのだろう。僕はうっすらと目を開ける。ぼやける視界。僕の腕の中で、詠は目を閉じていた。途端に僕は怖くなり、息を止めて耳を澄ませる。
静かで、安定した呼吸が聞こえた。良かった、生きてる。その安堵感からか、僕の意識が徐々に遠のいて行くのを感じた。
詠の寝顔を見つめると、その瞳から涙が零れていることに気付いた。胸が、ひどく痛む。
「――」
泣かないで。そう発したはずの声は音もなく空気に溶けた。体の感覚がなく、動かせない。そうか。もう、僕は……。
目を瞑ると、古い記憶が流れていった。初めて会ったとき涙を流した文月が、僕に微笑む。
――憶えておいて。女の子の涙を拭う、ハンカチなんかよりもずっと素敵なアイテム。
結局、その答え合わせを文月にはできなかったよな。でも僕さ、考えて、考えて、やっとわかったんだ。
もう一度、僕は目を開く。感覚がない体を無理やり動かした。
泣かないで、詠。できれば、最後まで、笑っていて。
僕は、繋いだ右手とは反対の左手の指先で、流れる詠の涙を丁寧に掬い取った。
その涙の温かさを指先に残しながら、僕の意識は、闇に落ちた。
――
気付くと僕は、自分の部屋に立ち尽くしていた。目の前には、クッションを枕にして颯斗となずなが寝息を立てている。そうだ、僕の家に泊まろうと詠が言い出して、遅くまでみんなで遊んでいたんだった。
でもなぜだろう。僕は急に不安に襲われて詠の姿を探す。すると詠は堂々と僕のベッドを占領して、大の字で眠っていた。その図太さに僕は安堵する。
みんなに毛布を掛けて、僕はそれぞれの寝顔を眺める。遊び疲れた子供みたいに、あどけない顔で眠っていた。これでもう、大丈夫だ。
「さて……行かないとな」
僕はドアを開けて少し振り返り、三人の姿を目に焼き付けると、部屋を後にした。
不意に、文月の声が聞こえた。僕の名前を呼ぶ声。それは家中に響き渡るように聞こえてきて。僕は転がるように階段を降りた。
声がする場所を探しながら、僕は文月に届くように語りかける。みんなに毛布を掛けたときから理解していた。これが、最期の夢なのだと。
「なぁ、文月。君はあんなに暗い場所で、独りで死んだんだな」
家中にあるドアを開け、僕は一つずつ中を確かめる。そこに文月の姿はない。でも、声はどんどん近付いていく。
「……怖かったよな。寂しかったよな。痛かったよな」
僕もそうだった。死ぬのは、怖い。当たり前だと思っていたことの本当の意味を、あの瞬間になって思い知らされた。
それはきっと、僕にたくさん大切な人がいるからで。だから僕は二年前、死ぬのが少しも怖くなかったんだ。そのとき独りで冷たくなった文月のことを想うと、やるせなかった。
小さくて、軽やかな足音。次いで玄関のドアを開閉する音が聞こえた。僕は懐かしい音のする方へと向かう。
いつもと変わらない玄関。その先にいる文月に呼びかけるように。
「文月……僕も今から、そっちに行くから――」
ドアノブに手を掛け、勢いよく開いた。
眩しいほど真っ白な空間。文月はそこに立って、微笑んでいた。その笑顔はなぜか少し悲しそうにも見えて。僕は慎重に距離を詰めた。
「久しぶりね、湊」
「久しぶり、文月。じゃあ、行こうか」
僕は笑って右手を伸ばす。すると数秒、自分の右手に視線が釘付けになった。誤魔化すように視線を戻したとき、文月は微笑みながら首を振っていた。
「まだやれていないことが、あるんでしょう?」
うつむいた僕に、文月はゆっくりと近付いて来た。心残りはある。でも――。
「……湊。ここまでありがとう。今のあなたなら、もう、大丈夫よ」
耳元で文月はそう囁く。ずっと、心のどこかで望んでいた言葉。夢の質量では表せない、本物の熱量を持った言葉だ。唇が震え、鼻の奥がつんと痛む。一筋の涙が、僕の頬を伝った。
「――さようなら」
ありがとう、文月。
さようなら。
――
機械的な音がリズムを刻んでいた。僕は重たいまぶたを開く。差し込む光の刺激に、目を細めた。徐々にぼんやりしていた視界と頭が明瞭になっていくと、声が聞こえた。僕の名前を呼ぶ声だ。
「湊! 聞こえるか?」
「湊くん!」
視線を巡らせると、颯斗となずなが険しい顔で僕を覗き込んでいた。そんな顔するなよ、大丈夫だから。そう証明するために、僕は薄く微笑んだ。
でも、何よりも大事なこと。詠はあの後どうなった? 今どこにいる? ちゃんと助けられたのだろうか。姿を探すが、この病室にはいない。
「……よみ」
名前を呼ぶ。自分でも驚くくらい、か細く掠れた声だった。
詠のところに行くために軋む体を無理やり動かした。鋭い痛みに脳が痺れる。その場で静かにもがいていると、颯斗が僕の体を押さえつけながら言った。
「湊……詠なら、大丈夫だから」
「今は、自分のことだけ考えて。湊くん」
体の力が抜けていくのを感じる。でも僕の心は晴れてはくれなかった。颯斗の言葉が、まるで自分にそう言い聞かせているように聞こえたからだ。僕はもどかしい気持ちのまま、白い天井を見つめていた。
僕は四日も眠っていたらしい。あの急斜面には大きな岩や鋭い木々が生い茂っていたにも関わらず、軽傷で済んだ。きっと文月が助けてくれたのだろう。
医師の診察を終えるのを待って、僕は颯斗に言った。
「颯斗、詠のところまで連れて行ってくれ」
「湊、もう少し安静に――」
「わかってる。でも僕のことは後でいい。今は、詠に会いたい」
長い沈黙。僕は二人の表情をしっかりと見据える。颯斗は何度も瞬きをして、視線を彷徨わせていた。なずなは僕を見つめながら、きゅっと唇を結んでいる。その瞳は潤んでいた。
「……わかった。今から行こう」
「ありがとう、颯斗、なずな」
二人の沈黙の理由。その答えを胸に抱えたまま、僕たちは病室を出た。
颯斗に車椅子を押され、僕は詠の病室までやってきた。なずながノックをすると、中から詠の母親が顔を出す。僕を見た母親は曇った表情を浮かべたあと、部屋に通してくれた。
詠は静かに眠っていた。近くに車椅子を付けて耳を澄ませても、寝息さえ聞こえない。
大きな傷はないように見えた。僕は安堵して詠の手を握った。懐かしい感触。冷たく、固い手だ。でもまだ、生きている。
「……湊くん」
声の方に視線を向けると、母親は詠のベッドを挟んで僕に深く頭を下げていた。突然の出来事に、僕は理解が追い付かなかった。
「怪我をさせてしまって、ごめんなさい。あのとき詠の心が不安定だってわかっていたのに。もっと詠をしっかり見てあげるべきだった……本当に、ごめんなさい」
頭を下げ続ける詠の母親は、初めて会ったときよりも小さく見えた。誰だって、あのときの詠の行動を予測できた人はいなかっただろう。だから謝る必要なんてない。
「僕も詠もこうして生きてます。僕はそれだけで、幸せです」
あのとき掴めなかった詠の手を掴んで、命を守れた。それだけで。
「ありがとう。湊くん」
母親はゆっくりと頭を上げて僕を見つめた。でもその顔はまだ暗く沈んでいて、手探りで現状を伝えようとしていた。それこそが、僕がここに来た本当の目的だ。
僕は詠の手を少し強く握りながら、言葉を待つ。
「……湊くん。詠はね、もう、目覚めることはないの」
全身に重く質量のある何かが衝突したような感覚。胸が詰まって、息ができない。覚悟はしていたはずなのに。
颯斗となずなは、僕が眠っている間にすでに知らされていたのだろう。だから二人は僕が詠に会うことを躊躇っていたんだ。
詠の母親は涙混じりの声で、何とか僕に伝えようと続けた。
「最期まで、一緒にいてくれてありがとう。詠は本当に、幸せだった……」
母親は静かに嗚咽を漏らし始めた。颯斗となずなも声を押し殺して泣いていた。きっと泣いてしまうとわかっていたのに、僕のために傍にいてくれたんだろう。
白くて冷たい箱庭が、喪失を含んだ青に塗り潰されていく。
胸が張り裂けそうなほど苦しくて、悲しい。それなのに僕は、涙が出なかった。どうしてだろう? 深い絶望の淵に立っているからだろうか。いいや、違う。
――まだやれていないことが、あるんでしょう?
ああ、その通りだよ、文月。
泣けない理由は、諦めてなんかいないからだ。
「……まだ、最後じゃない」
僕はテーブルにひっそりと置かれていた四季折々に手を伸ばす。使い込まれたノートはとても綺麗とは言えなくて。それでも詠が歩んだ四季が詰め込まれて、輝いて見えた。
わずかに残された、詠が叶えられていない願い。その願いをなぞって、僕は言う。
「できることはまだたくさんある。僕たちにしか、できないんだ」
颯斗となずなは、はっとした表情を浮かべて涙を拭う。涙で濡れた顔に、徐々に生気が宿っていくように見えた。
「そうだよな……今も詠は、頑張ってるんだもんな」
颯斗は詠に視線を落として微かに笑う。覚悟を決めたように、拳を握りながら。
「そうだね。私たちが諦めるなんてできないよね。ずっと、最後まで、隣に居たい」
なずなの弱々しい表情は彼方へ消え、今は詠への迸る意志が宿っていた。
二人の瞳に、もう涙の気配はなかった。みんなで並んで手を繋いでいる、そんな感覚。不安なんて、微塵も感じない。
僕が詠の母親に笑いかけると、彼女は雲間から差し込む光芒のような優しい笑顔で言った。
「……ありがとう。詠と出会ってくれたのがみんなで、本当に良かったわ」
「僕たちも同じです。それに、まだわからないです。詠はいつも、僕たちの想像なんて飛び越えてきますから」
僕は眠る詠の顔を見つめる。まだ、別れるわけにはいかない。詠はあのとき泣いていた。だから最期は、君が心から幸せだって思えたまま、さよならを言わせてほしい。
開いた四季折々の願いの上で、僕は詠と小指を交わす。それに気付いた颯斗となずなも無理やり小指を絡ませてきた。歪に重なり合った小指を見て、僕たちは笑う。
僕たちの指は、冷たい水の底に沈んだ詠の指と混じり合い、熱を届ける。
詠がもう一度、瞳を開くための祈りを込めて。
『――四季折々』
4
冬は見えるものすべてを灰色に染めていく。やせ細った木々には雪が降り積もり、溶ける気配はない。まるで時間が止まっているみたいだ。だから僕たちは進もう。詠の手を引いて。
高校の帰り、毎日のように僕たちは詠のもとに集まった。寂しがり屋の詠のためでもあったし、何より詠の周りが僕らの居場所でもあったからだ。
四季折々。その魔法のような言葉を唱えて、眠る詠の傍らで願いを叶えた。『みんなでスノードームを作りたい』。『みんなで足湯に入りたい』。『みんなで冬の星を見たい』。願いのすべてに僕たちが含まれていた。
時間が止まっているかのようなこの季節の中で、僕たちは確かに一緒に前に進んでいた。
ある日、詠にその日あった出来事を話している中、颯斗が嬉しそうに言った。
「最近、自分で曲作って路上で歌っててさ」
「えっ、すごいな。中央公園で歌ってたときは、ぜんぶカバー曲だったよな?」
僕が記憶を辿りながら訊くと、颯斗は「そうそう」とうなずく。
「これが、駅前なのにまったく人が集まらねぇんだよ。いや正直、めっちゃ悔しい」
颯斗はそれでも穏やかに笑う。熱がこもった瞳が輝いた。
「でも、すげぇ楽しい。カラフルより綺麗なものってあるんだな。ぜんぶが輝いて見えるんだよ。これが俺の本気で好きなことだからだと思う」
「……そっか。良かったな、颯斗」
「私も、ずっと応援してるからね、颯斗くん」
正面から才能についてぶつかり合ったあの日を思い出す。颯斗はまっすぐな表情で「おう、よろしくな」と犬のように笑った。
颯斗の熱意にあてられたのか、なずながもじもじしながら口を開いた。
「あの、まだ確定じゃないんだけどね。絵の個展をやらないかって誘われてるんだ」
「えっ、本当に? すごいな……!」
どうやら颯斗は知っていたみたいだ。僕は「それで、やるんだろ?」となずなに問う。
「やりたい。今よりもっと先に進みたいから。それで、詠ちゃんにあげた絵も飾って、こんな素敵な子がいるんだよって教えてあげたい。……颯斗くんも応援してくれたし」
「佐伯なずなはもっと高くまで行ける天才画家だって、俺がいちばん知ってるからな」
「へぇへぇ、お熱いことで。ごちそうさま~」
自信満々に言って見せた颯斗に、僕はからかうように言う。ここで照れながらもまったく否定しないところが、二人の絆の深さなのだろう。
颯斗となずなに未来の希望が現れたのは、二人の努力や意志、そして何かを掴み取ろうともがいた結果だ。この先もずっと、希望が続けばいい。
楽しく話していたら、すぐに陽は傾いた。冬は夜の手を引いてくるのがとても早い。まるで太陽と敵対しているかのようだ。
颯斗は路上ライブ。なずなは個展に向けての打ち合わせと言って病室から出て行った。
詠と二人になった僕は、詠の寝姿勢を変えながらマッサージをする。体を拭く頻度は減っていた。詠の代謝は極端に低く、低体温で保たれていたからだ。
「……颯斗もなずなもすごいよ。あんなに頑張ってるから、すぐ有名になるんだろうな」
詠に語りかけて、口をつぐむ。僕は、二人を羨んでいるのだろう。自分の未来を想像して目を伏せる。――僕の未来は、まだ、わからない。
でも、詠の安らかな寝顔を見て思う。四季折々を、詠の想いを、決して悔いのない形で。それが今の僕の、未来のすべてだ。
いつか詠が目覚めることを僕たちは信じ続けた。必死に前に進もうともがく詠の手を、みんなで引くように。
でも、音を立てて希望が崩れ去るのは、いつも突然だ。
――詠の心臓が、止まった。
集中治療室の前には、重たい沈黙が降りていた。時折、看護師が僕たちの横をすり抜けては慌ただしく走って行った。
廊下のソファに浅く座り、颯斗となずなは険しい表情で両手の指を組んでいた。なずなの双眸からは音もなく涙が零れ、電灯の淡い光に照らされている。その姿はまるで、静かに祈りを捧げている信徒のようだ。
詠の母親は憔悴しきった顔で項垂れていて、父親は母親の肩を抱きながら口を堅く結んでいた。永遠にも感じる長い時間。
僕はそれぞれの表情を眺めながら、詠のいる方向を眺めていた。死季病患者が臓器異常を起こして助かる可能性は低い。無責任な事実だけを並べた文章が脳裏をかすめる。でも――。
この押し潰されそうな静寂の向こう側で、詠は懸命に生きようとしているんだ。僕は颯斗となずなの目の前に行き、声を掛ける。
「颯斗。なずな。あまり無理しないで、ちゃんと休もう」
数秒経ってから、颯斗は力ない声で答える。抜け殻のように空虚な響きだった。
「ああ……わかってる」
「詠ちゃん……」
二人が指を組む手に力を入れるのがわかる。このままだと、詠が目覚める前に倒れてしまいそうだ。だから僕は意思を込めて言う。この言葉が現実になるよう、自信を込めて。
「詠は大丈夫だ。絶対にまた、すぐに目を覚ますよ」
絶望なんてここにはない。確かな希望があるのだと。詠は、そういう奇跡を起こしてくれるのだと。僕は心の底からそう信じていた。
その希望を少しでもこの空間に分けたくて、僕はこの場にいるみんなに明るく話しかけた。
沈んでいた空気が、徐々に、羽ばたく鳥のようにふわりと軽くなっていく。みんなの中に巣くっていた絶望の中に、ほんの少しの光明が見える、そのときまで。
僕は希望を願い、話し続けた。
空が白み始めてきた。ぽつぽつと会話が戻ってきた廊下に、どこからか鳥の声が聞こえる。夜中から始まった手術は、まだ終わる気配が見えない。
僕は気分転換に外を散歩することにした。颯斗となずなに缶コーヒーを渡しながら誘うと、二人は疲れ切った顔で微笑んだ。
「もう少しだけここにいるよ。ありがとな、湊」
「私も居たい。あと少ししたら休むね。ありがとう、湊くん」
「……そっか。じゃあ、また後で」
二人と、詠の両親に挨拶をして、僕は外へ出た。
夜の深い藍が、わずかに昇る太陽を含んで薄まっていく。肌を刺すような二月の寒さに身を震わせながら、僕はまだ眠りにつく町の中を歩いた。
詠が目覚めたら何をしよう。僕は疲労で変に覚醒している脳で、幸福な未来を考える。すると不意に、今まで詠と巡った場所などを見て回ろうと思いついた。気分転換には最適だ。
当然ながら、開いていない場所だらけだ。でもそれはそれで、僕と詠が巡ったときとは真逆の雰囲気が漂っていた。
締め切られたショッピングモール。音が鳴り止んだ中央公園。群衆の視線から逃れた文化ホール。快音が響かないバッティングセンター。生徒がいない中学校と高校。
その一つ一つを、時間をかけて回った。
展望公園までやってくると、落下防止柵の修繕工事が行われていた。柵の前はバリケードで塞がれて、近付けなくなっている。
公園の端に重機もあるので、もしかしたらこの急斜面の崖にも手が加えられるのかもしれない。結果的に三人もこの場所から落ちてしまっているから、当然だろう。
僕は凍てつく固い大地を踏みしめて、顔を出し始めた太陽の光を浴びた。冷たくなった鼻や指先がじんわりと温まっていく。
もうすぐ氷は溶けて、町は目を覚ますだろう。そうしてまた、四季は巡る。僕は大きく息を吸って白い息を吐き出すと、展望公園を後にした。
河川敷は何も変わらず、ただ緩やかに川が流れている。文月と出会い、僕が詠の本心とぶつかった思い出深い場所。すべてはここから始まったんだ。
僕が文月に出会わなければ、文月が詠を救うことはなくて。そして詠もまた僕を救うことはなかった。まるで春夏秋冬、巡るバトンを繋いでいるみたいだ。
詠と話し合った芝生の上に、僕は座る。色褪せ、凍り付いた芝生が小気味良い音を立てた。疲労と眠気が一気に押し寄せ、僕の脳裏に詠の顔が浮かぶ。冷たい水の底で、今も必死に水面へと手を伸ばしているのだろう。
顔を上げると遠くに鉄塔が見えた。太陽の光が当たらず、暗く翳っている。僕は立ち上がり歩き始めた。川岸は流れが弱く、薄い氷が張っていた。
裸足になり、僕は氷を割りながら川の中に入った。そして親指と人差し指でカメラの形を作り、その枠内を切り撮った。
二月の水温は針で刺されたように冷たく、脚に激痛が走る。どうでも良かった。
数秒経つと脚の感覚がなくなり、思考が働かなくなってくる。でも、どうでも良かった。
歩こうとしてバランスを崩し、僕は仰向けに倒れ込んだ。大量の水飛沫が上がる。水の中はひどく静かで。詠も今、この場所にいるのかもしれない、そう思った。
すぐに身体は言うことを聞かなくなり、暗い水の底へと沈んでいく。体より心が、冷たく痛んだ。僕はもう、壊れていた。
「文月――詠……」
水中で、小さく名前を呼ぶ。気泡が水面へと上がっていく光景を見て、僕は目を閉じる。
すべてが、冷たくなっていく。
文月と詠の体に近付いている、そんな気がしていた。
声がした。誰かが迎えに来たのかもしれない。そう思いうっすらと目を開くと、勢い良く手が伸びてくる。そのまま僕は水底から引っ張り上げられた。
「お前は何をやってるんだ! 目を覚ませ!!」
途切れそうな意識の中でその人を見る。黒衣を纏った、魔女のような恰好。
僕はその人に力いっぱい抱き締められると、意識を失った。
徐々に、体に熱が戻ってくる。僕は気付くと湯船に浸かっていた。凍え切った体が湯の熱でじりじりと痛む。僕は静かに一点を見つめ、湯船に落ちる水滴の音だけを聞いていた。
詠が目覚めるのを信じていなかったわけじゃない。でもあの瞬間――水の底に沈んだ瞬間。僕が得てきた何もかもをかなぐり捨てて、詠と同じ場所に行きたいと、そう思ってしまった。
強張りが取れた両手で顔にお湯を掛ける。すると浴室の扉の向こうに人影が見えて、その場に座り込んだ。
「どうだ、少しは温まったか?」
自称さんの懐かしい声。最近は会っていなかった。その必要がなくなっていたからだ。文月を喪った日も、こうして自称さんに助けられたことを思い出す。
「お前の選んだ未来が、まさかあんなに冷たい結末とはな」
僕は口をつぐむ。何も言い返せない。言い返す気力も起きなかった。自称さんが扉越しに息を吐くのが聞こえる。まるで体内にある重たい何かを排出するかのように。
「湊。お前は今も死と戦っている詠に、そんな姿を見せたかったのか?」
「……違う」
僕は、僕を救ってくれた詠に、大丈夫だと胸を張って生きたい。その想いは、今は僕を支える太い幹になっている。でも。
「でも、僕は、詠が死んでいくのに耐えきれない……」
「本当に理性的だな。そんなもの、耐えられないに決まっているだろ」
珍しく語気を強めた自称さんに僕は驚き、思わず扉の向こうを見る。
「お前は、何事もよく考えてから行動する。とても立派だよ。でもな、湊。それだけでは、死という普遍を乗り越えて進むことはできないんだよ」
「じゃあ……どうしたら僕は、乗り越えられるんですか」
この立っていられないほどの絶望を。喪っていく恐怖を。
文月の死を受け入れて、共に進んでいく。これも一つの正しい選択だ。大切な人を喪う恐怖を、ほかの人はどうやって乗り越えていると言うんだろう。
僕はきっと、これからも大切な人が増えていく。その中で家族、友人、恋人の死を乗り越えて進む術。僕は自称さんの言葉を、固唾を呑んで待った。
「――もっと、目の前の死に抗え」
そんな答えが、聞きたいんじゃない。僕は湯の中で拳を握って、抗議する。
「抗いましたよ。でも、詠は」
「まだ終わっていない。今もまだ詠は抗っているだろう。お前が諦めたら、詠はどうなる」
はっとして黙り込む。詠が最後の眠りについたとき、僕が颯斗となずなに言ったことだ。そんなささやかな希望すら、今の僕にはなくなっていた。
自称さんは優しく僕の名前を呼ぶ。思わず泣いてしまいそうな声音で。
「自分の感じたままに、我を通しなさい。全力で走って、やりたいことをやって、後ろなんて振り返るな。汚くても、醜くても足掻け。それが、目の前の死に抗うということだ」
頭の中に、詠との四季がよぎる。詠の笑った顔。怒った顔。泣いた顔。詠はいつでも死に抗っていた。そんな風に僕は抗えていただろうか。いいや、きっとまだだ。僕は顔にお湯を掛ける。不鮮明だった視界が、一気に鮮明になった。
僕は「自称さん」と呼ぶ。どことなく、さっきの言葉が寂しそうに聞こえたからだ。
「……自称さんは、死に抗ったことがあるんですか?」
少しの沈黙のあと、自称さんはふっと笑った。
「そうだな……湊より、ずいぶん子供だった。色々な人に迷惑を掛けたよ」
自称さんの声が優しさと寂しさを纏う。初めて見せた声の色。別人のようだ。僕は扉の向こうで揺れる影を見つめた。
「まだその名すらなかった時。……初めての死季病患者が、私の親友だった」
「初めての、死季病患者……?」
思い掛けない真実に、僕は体ごと自称さんの方へ向く。穏やかだった水面に波が立つ。自称さんは当時を思い出すように続けた。
「この病が何なのかもわからなかった。あの子は――桔梗は、襲い来る死季に抗い続けた。春も、夏も、秋も、冬も。五回、桔梗と同じ四季を巡ったよ」
五年にも及ぶ死季病。僕や文月や詠よりもずっと長い年月、自称さんと桔梗さんはその未知に抗い続けたのか。生半可な覚悟じゃなかっただろう。
自称さんはため息をつくと「私の話は別にいい」とつぶやいた。
「湊。濁らずに、世界から目を背けずに生きなさい。臆せずに君の心を表せば、そこにいる誰かが、君を見てくれる。この世界は、そういう風にできている」
僕に微笑みかけてくる詠が記憶の最前に浮かぶ。あの笑顔を、声を、温もりを、もう一度。
「最後の一瞬まで抗ったやつにしか奇跡は掴めない。湊……手を伸ばせ」
「――はい」
力強くうなずく。もう迷いはなかった。体にも、心にも熱は戻った。あとは抗うだけだ。
自称さんは僕の返事を聞いて「話は終わりだ」と言うと、立ち上がった。
「もう充分温まっただろう。シャワーでも浴びなさい」
言われるままに僕は湯船から出て、シャワーの蛇口を捻る。先ほどまでの静けさから一転。僕の肌にお湯が打ちつけ、激しい音を立てて流れていく。
あらゆる雑音がかき消される中、自称さんが「湊」と僕の名前を優しく呼ぶ声だけがはっきりと聞こえた。
「……詠の手術が成功したそうだ。やったな」
数瞬の沈黙の後、僕は決壊する。抑え切れない嗚咽が浴室中に響き渡る。しかしその声を、シャワーの水音がすべて洗い流してくれた。自称さんの優しさが、心に沁みた。
僕は詠の名を何度も呼びながら、哭き続けた。
病室でひとり詠の胸に耳を当てると、不規則ながらも、確かに鼓動を刻んでいた。その現実に、また涙が溢れてきた。
終わりが目前まで近付いていてもなお、四季は巡る。僕たちは眠る詠と一緒に、四季折々を叶えた。一つ、また一つと。手を伸ばして、奇跡を希った。
そうして。
――詠が余命宣告された日から、三日が経った。
僕は四季折々を眺める。詠や僕の願いで埋め尽くされたページは、楽しく、幸福で満たされていた。それでも、まだ叶えられていない願いはいくつかあって。
視線を窓の外へと向ける。春にはまだ遠い、三月の景色。でも、この願いだけは。
ベッドで眠り続ける詠に、視線を戻す。僕は数瞬、瞠目して。
「――おはよう、詠」
「――おはよう、湊」
当たり前で、幸福な言葉を伝え合い、僕たちは笑った。
詠は僕の手を力強く引いて走る。夏の始まり。詠と出会って間もない頃を思い出す。でもあのときとは違う。その手のひらからは、確かに柔らかな熱が伝わってきて。僕も溢れる熱が詠に届くように、力強く握り返した。
透明で澄み切った陽光が降り注ぐ。僕と詠は白い息を躍らせ、弾むように走った。アスファルトを、大地を、力いっぱい踏みしめて。
風に揺れる木々。羽ばたく鳥の群れ。緩やかに流れる川。息づく人たちの営み。僕らを育んでくれた町すべてが七色に縁取られ、目が眩んでしまうほど、光り輝いて見えた。
晴れ渡った白虹色の世界を、僕たちは走り続けた。
展望公園は、温かな陽光を浴びて煌めいて見えた。僕は詠の手を握りながら、その場所へと近付く。一本の、大きな桜の樹だ。
――桜を見たい。
冬の四季を巡ったあと。次の春に綴られた、一つだけの願い。僕はどうしてもそれを叶えたかった。僕もその願いの隣に『詠と一緒に桜を見る』と綴った。
詠も晴天に這った桜の樹の枝を眺め、花を探す。しかし、まだ芽吹かずに眠りについたままの桜だけだ。それでも。
「あっ! 湊、見て……!」
「あった……!」
――一輪だけの桜。
ほとんど同時に僕と詠は願いの桜を見つけ、歓喜の声を上げていた。
その儚さに、美しさに触れて、鳥肌が立つ。思わず握っていた詠の手を振ると、詠も満面の笑みで振り返してきた。
僕たちは、幻でも見ているのだろうか。でも確かに桜は咲いていた。足元にはまだ少し雪が残っているにも関わらず。
冬と春の狭間。透明な季節のなかで、僕らは奇跡を見た。
詠は飛び跳ねて喜び、色々な角度から桜を眺めていた。僕は、震えていた。次の春を迎えることはできないと、そう言われていた詠が。自らの運命を超え、四季を巡ったのだ。
奇跡は、本当にあるんだ。
僕たちはその場に座りながら、時間をかけて、一輪だけの桜の花びらを眺めた。綺麗で、儚くて、美しい。
すると、やがて詠が小さく口を開いた。
「私ね、あのとき死ななくて良かった。助けてくれて、ありがとうね」
「うん……助けられて、本当に良かったよ」
手を伸ばし続けて、最後まで抗い続けて良かった。僕は過去を懐かしみながら微笑んだ。
「私に出会ってくれて、ありがとう。一緒に泣いて、怒って、悲しんで、笑ってくれて、ありがとう。湊がいたから、私はこんなに幸せになれたんだよ」
「それは、僕も同じだよ。詠が、颯斗が、なずなが居てくれなかったら、僕はずっとあのまま暗い水の底で生きてた。僕に手を伸ばしてくれて、ありがとう」
僕と詠は同じタイミングで目が合い、笑い合う。視線が混じり合い、詠の小さな息遣いまで聞こえてくる。
詠は僕の名を呼ぶ。それは強くて、希望に満ち溢れた声だった。
「私の、最期の願いを言うね」
僕はうなずいて、詠の両手を強く握りながらそれを待った。なぜか冷たさは感じない。魂が揺さぶられそうな熱が、僕に流れ込んできた。
「――春も、夏も、秋も、冬も。何度も四季を巡って、またいつか、みんなに会いたい。
だから、幸せに生きて。好きなものをたくさん作って。誰かを愛して、愛される人になって。それが……私の、最期の願い」
詠の最期の願いを、僕は時間をかけてゆっくりと、心の中の四季折々に刻み込んだ。
「約束するよ。僕の四季が終わって、またいつか、出会う日まで」
詠は花のように笑う。その笑顔だけで、僕のすべてが満たされていく。
僕たちは、互いに小指を結ぶ。まだ見ぬ未来へ、願いと希望を込めて。
『――四季、折々』
二人で桜を眺めていた。詠は僕の肩に頭をもたせ掛けながら「ねぇ湊」と呼びかけてくる。僕は視線だけを詠に移して、その温もりを感じていた。
「私ね、すごく幸せだったよ。こんなに幸せでいいのかなって思うくらい」
「それが、僕の願いだよ。詠が幸せなら、僕も幸せだ」
詠はくすぐったそうに笑いながら、小さな声でささやいた。
「――私を救ってくれて、幸せをくれて、ありがとう――」
花びらが、散った。
それは瞳を閉じた詠へと降り注ぎ、やがて、音もなく消えた。
名のない季節に咲く桜を見たことがある。冬と春の境界線。あの日、目の前に一瞬だけ訪れた、透明な季節に。
それは何よりも綺麗で、儚くて、美しかった。
長い、長い旅を終える。
記憶の底から手を引っ張るように、風が四季折々と一冊の文庫本のページをめくる。僕は詠の祈りと夢が込められた宝物を持って立ち上がった。
展望公園の桜は満開だった。柔らかな風に枝葉が揺れ、春光がなびき、無数の花びらがこの四季巡る町に運ばれていく。その美しい光景を僕は悠然と、首から提げた一眼レフカメラで一枚だけ切り撮った。
写真を確認して僕は微笑む。綺麗で躍動感もある。とても良い写真だ。
「おーい、湊ー!」
「湊くん! そろそろ行こ!」
颯斗となずなに呼ばれて、僕は「わかった! すぐ行くよ!」と返事をする。
僕は二人のもとへと歩き出す。
四季折々には、叶えることができなかった願いも残った。でも、その願いごと胸に刻んで生きていこう。今の僕なら、僕たちなら、それができる。
詠の、最期の四季折々。叶えるにはまだまだ時間が掛かりそうだ。でもゆっくりでいい。またいつか、出会う日まで。色々なものに手を伸ばして、この四季のなかを進みたい。
空にゆっくり手を伸ばし、桜の花びらを一枚掴み取る。僕はそれを数秒眺めて、手に持っていた一冊の文庫本のページに、栞のように挟み込んだ。
「――必ず、君の四季は叶うよ」
そうつぶやいて、風を切って走る。そして遠くで話していた颯斗となずなに合流した。
僕たちは三人並んで、じっくりと歩き出した。
いくつもの、輝く四季が待つ未来へ。