1

 太陽が影を色濃く地面に貼り付けている。アスファルトから跳ね返る熱を浴びながら、僕はとある場所に向かっていた。
『ホームランが打ちたい! 先に行ってるから!』
 水瀬はそれだけ言って電話を切った。言われなくてもわかる、四季折々だ。でも今日は三〇度を超えるらしいから、僕は家から出るのを少しためらった。
 耐えがたい熱気と陽射し。家を出て数分で汗だくになる。気持ち悪い。夏になってずっと聞いているはずの蝉の鳴き声に苛立ちを覚えてしまうくらい不快だ。
「クッソ、熱ぃな」
 愚痴を吐いて、僕はバッティングセンターに入った。店内のクーラーが汗をかいた体を冷やして気持ちが良い。
 平日の昼間なんて人はいないと思っていたけど、意外にサラリーマンや女性も多い。中には楽しそうに打っている人もいれば険しい顔をして打っている人もいて、見ていて面白かった。
「やっと来たー! こっちだよ、湊!」
 場内に響き渡る快音に負けないくらいの大声で、水瀬は打席からこちらに手を振ってきた。水瀬の打席に近付くと、その足元には、すでにたくさんのボールが転がっている。
「久しぶりー!」
「昨日も会ったでしょ。それで、どうしてホームラン?」
「ふふふ、それはだね……夏休みの宿題が多すぎて、もー頭爆発しそうで!」
「なるほど。それでとにかく体を動かしたかったんだ?」
 水瀬はニッと笑ってバットを構えた。とても良いフォームだ。まさか経験者なのだろうか。モニターのピッチャーの投球に合わせて、ボールがまっすぐ飛んでくる。
「ざっつ~らいっ! うん、当たらん!」
「期待して損したよ」
「んもう、うるさいっ!」
 水瀬はバットを置いて僕の方へ走り寄ってくると、ネット越しに僕を手招きする。
「湊も一緒に打とうよホームラン! どっちが先に打てるか、勝負しよ!」
「でもこれ、水瀬の願いじゃ――」
「いいから、やろっ!」
 押し切られる形で僕はカウンターでカードを買って隣の打席に入った。バッティングセンターなんて初めて来たけど、わかりやすいように案内に手順が書かれていた。
 足元にはホームベースとバッターボックス。前方にはピッチャーが投影されたモニター。広がる青空。仄かに香る土やゴムの独特な匂い。それだけで僕のテンションは上がっていた。
 バットを振ったことは何度かあるけど、当たるんだろうか。
 僕はマシンで球速などを設定すると、バットを構えた。意外に重い。まあこれは、単純に僕の筋力不足だ。
「湊ー! 空振れー!」
「おい、何てこと言うんだ」
「あははっ。湊ー! 打てー!」
 僕は投げられたボールをしっかりと目で捉えて、バットを振り抜く。
 キンッ、と快音が響き、ボールは前方へと飛んで行く。衝撃で手は少し痺れるけど、けっこう気持ちが良い。
「え、すごーっ! ね、打ち方教えて! 調べて来たのに当たんなくてさー」
「そう言われても、僕も素人なんだけど」
「いいから!」
 一ゲーム目を終えた後、僕は持てる知識を総動員して水瀬のフォームを修正する。すると、水瀬はすぐにボールを当ててきた。これはまずいと、僕も慌てて再開する。
 そのまま二人で打ち続け、三ゲーム目が終わった頃には、僕は日頃の不摂生と筋力不足がたたってフラフラになっていた。
「はははっ、貧弱なやつめ!」
「うぐっ……絶対に先にホームラン打ってやるからな!」
「ふふん、私が先に打つもんね!」
 それから僕たちは三ゲーム連続でバットを振った。もう百球以上は打っているだろう。それでもホームランには程遠い。ヘロヘロになった僕と水瀬は、休憩ルームへと向かった。
 自動販売機でスポドリを買い、ベンチに座って飲んだ。年季の入ったベンチが軋む。
「ふー生き返るぅー」
「スポドリって、こんなに美味しかったっけ」
「さては、普段運動してないな?」
「否定はしないよ」
 水瀬は着けていたバッティンググローブを外して両手を握る。つられて見ると、その手のひらにはマメが出来ていた。
「あと少しだと思うんだけど、何が足りないんだろ。運?」
「実力と筋力じゃない?」
「それは湊でしょ。もう少し筋肉付けないと、いざって時に女の子のこと守れないよ~?」
 水瀬は笑いながら僕の腕の皮をつまんでくる。気にしていることを指摘され、少し傷付く。
 三〇分ほど駄弁って休憩ルームから出る。打席に入る前、僕は水瀬に呼びかけた。
「水瀬……体調は、大丈夫?」
「うん! 絶好調!」
 咲くように笑った水瀬に「なら、いいんだ」と返して僕は打席に入る。
 少し回復した体でバットを振る。しかしすぐにさっきまでの疲労が戻ってきて、正常な思考を曇らせる。疲労は、嫌な思考を加速させるみたいだ。
 休憩ルームで触られたときに気付いた。この前より、遥かに水瀬の体は、冷たくなっていた。
「――ッ!」
 嫌な思考をかき消すために、僕はバットを振り抜く。ボールは弧を描いて――。
『ホームラン! おめでとうございます!』
 軽快な音楽とアナウンスが辺りに響き渡り、僕の中で徐々に達成感が湧き上がってくる。
「あ、当たった! ホームラン打ったぞ、水瀬!」
『やったね! おめでとう!』そんな声を想像して、僕は水瀬の打席を振り返る。
 しかし、軽薄な想像とはほど遠い光景が、僕の目の前に広がっていた。
 水瀬は力なくしゃがみ込んでいた。いつも明るい表情は抜け落ちていて。血の気が一瞬で引くのを感じる。
「水瀬ッ!!」
 その光景が視界に飛び込んできた瞬間、僕は叫んでいた。勢いで自分の打席を飛び出し、水瀬のもとへ駆け寄る。多量の汗。青白い肌。不規則で苦しそうな呼吸。
「水瀬、大丈夫か!?」
 僕の呼びかけに、水瀬は我に返ったようにこちらを見上げる。
「あ、湊。ちょーっと疲れただけだから、大丈夫だよ」
「もう、今日はやめよう」
 毅然と言ったつもりでいた。でも僕の体は震えが止まらない。心臓の鼓動が加速する。
「心配してくれてありがと。さーてやるか~」
 僕は立ち上がろうとする水瀬の手を掴む。その冷たさに、無性に怒りが込み上げてきた。水瀬の体が限界なことはわかっていた。甘く考えていたんだ。僕も、水瀬自身も。
「これのどこが大丈夫なんだよ!」
「離して!」
 振り解かれそうになった水瀬の手を強く掴んで、僕は言い聞かせるように口を開く。
「頼むから、もっと自分のことを大切にしてくれ……」
 なんて説得力のない言葉だろう。自殺しようとした僕が言えたことじゃない。
 水瀬は疲労で濁った瞳を向けてくる。数瞬の静寂。僕は息を潜めて彼女の言葉を待った。
「もうほかに何も捨てたくないの。何も捨てないで進みたい」
 ゆっくりと僕の手を解いて、水瀬は続ける。
「今できることをいま捨てたら、ほかの願いも中途半端になっちゃうよ」
「そんなこと」
「だからお願い。湊だけは私を否定しないで。私を信じて……」
 水瀬に見つめられ、僕は動揺する。その言葉が、意志が、文月と同じだったからだ。
 ――湊だけが私を信じて、諦めずに願いを叶えてくれる。だから私、本当に幸せよ。
 その意志のまま文月を信じて行動した僕に掛けられた言葉。結果がどうあれ、あのとき文月は幸せそうに笑っていた。だから、僕は。
「……わかった。信じるよ」
「ありがとう」
 水瀬は立ち上がりぐっと伸びをすると、バットを握って再び打席に入った。僕はブースの端でその様子を見守る。
 無理やりにでも水瀬を病院に連れて行く。きっとそれがいちばん正しい選択だ。誰だってそう言うだろう。でも僕は知っている。正しさだけでは、得られないものがあると。
「水瀬、頑張れ」
 小さく発した僕の声に水瀬はうなずいた。もしかしたら投球のタイミングを計っているのかもしれない。
 バットは快音を何度も奏でる。その度に水瀬の苦しそうな呼吸が僕の耳に届いた。それでも水瀬は全力でバットを振り続ける。汗で髪は張り付き、マメが潰れたのか、打者用グローブには血が滲んでいた。
 僕はその姿に鳥肌が立った。お世辞にも綺麗とは言えないその姿に。ああそうか、水瀬は。
 ――今を生きているんだ。
 僕に、自分自身に、全力で証明しているんだ。
 水瀬は静かに投球モニターを見て構えている。フォームも最初よりずっと良くなった。
 投げられたボールを引き付けて、水瀬はバットを振り抜いた。
 響く快音。角度。飛距離。威力も十分だ。その瞬間、僕は叫んでいた。
「「当たれ!」」
 ほぼ同時に発した僕たちの声に導かれるように、打球は的に吸い込まれていく――。
 水瀬は僕に振り返り駆け寄ってきた。その瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
 徐々に近付いて鮮明になってくる水瀬の笑顔は、花のように綺麗に咲いていた。

 四季折々を達成した僕たちは、バッティングセンターを後にして町の河川敷に来ていた。僕と文月が初めて出会った場所だ。
 あの後、すぐ病院へ連れて行こうとしても水瀬は強く拒否した。今は元気そうだけど、いつまた倒れるか気が気ではなかった。それなのに川遊びをして涼みたいなんて、いくら四季折々とはいえ、何を考えているんだろう。
「ひゃー。夏でもけっこう冷たいんだね~」
 ふくらはぎほどの高さの水面を蹴って、水瀬は水しぶきを飛ばしてきた。
「なぁ水瀬……本当に大丈夫なの?」
「だいじょーぶ! 湊もこっちおいでよ。気持ちいいよ」
 正直、僕も体が熱かったから素直にその提案に乗ることにした。
「うわ、冷たいな」
 けど気持ちが良い。西日が水面に反射して煌々と輝いている。鳥のさえずりと川岸に打ち寄せる柔らかな水音は、張り詰めた緊張をほぐしてくれた。
 川底の石を踏みつけると、ざらざらと散らばって流されていく。屈んで水中を見ると、足元を小さい魚が通り抜けていった。
「水瀬、魚がいるよ。小さいやつ」
 顔を上げて報告すると、水瀬は両手の親指と人差し指でカメラの形を作って、遠くの鉄塔を撮る仕草を見せた。僕は懐かしい気持ちに駆られ、その後ろ姿をただ眺める。
 やがて水瀬は僕を振り返り、怪訝な顔で「どしたの?」と訊いてきた。
「いや、文月もよくそうやって、あの鉄塔を撮ってたなって」
「えっ、そうなのー? やっぱ似てるなぁ、私と莉奈ちゃん」
「ふ、だから水瀬とは似ても似つかないって――ぶぁっ」
 視界がぼやける。顔に水を盛大にぶっかけられて、僕は少しのけぞった。あまりに顔が冷たくて、思考停止する。
「あっははっ! スキありぃ!」
「水瀬……」
「うわ、怒ったー! 逃げろぉっ」
 バシャバシャと上流に向かって逃げようとする水瀬を追いかけて、僕は反撃する。
「ぎゃぁ冷たっ! おりゃー!」
「この……おりゃっ!」
 ノーガードで僕たちは水を掛け合う。ずぶ濡れなのに、なぜかすごく楽しかった。
 僕は途中で体力が尽きて防戦一方になった。水瀬は「ちょ、ほんとにタイム」と懇願する僕に笑いながら水を掛けてくる。体力が無尽蔵なのか?
「水瀬、あんまりはしゃぐと転ぶよ」
「大丈夫ー! そんな運動神経悪くない――わっ」
 案の定、水瀬はバランスを崩した。
 僕は咄嗟に水瀬に手を伸ばす。細かく飛び散った水しぶき。水瀬と目が合った。
 瞬間、過去の映像とリンクする。
 文月と出会った最初の日。そして、僕と文月の、最後の日。

 ――

 空が暗闇に飲み込まれて、家々の明かりが道を照らしている。昼間に鳴いていた蝉は息を潜めて辺りは静まり返っていた。僕と文月はレンガ調の小さな一軒家の前で足を止めた。
「送ってくれてありがとう。今日も楽しかったわ。それじゃあ」
 文月の冷たく心地の良い手が、僕の手から離れていく。
 手を繋いだのは久しぶりだった。初めて会ったとき以来だ。帰り道にふたり並んで歩いていると、まるでそうするのが当たり前かのように、文月から繋いできた。
 緊張で手が冷たくなっていた僕に、文月は「温かいわね」と言って微笑んだ。
「……もう少しだけ、一緒にいようよ」
 気が付くと僕は文月の手を取っていた。僕より冷たい手。でも、心が安らぐ温もりだった。
 文月は驚いた様子で振り返り、僕と自分の手を交互に見たあと、困った顔で言った。
「嬉しい。けど今日はもう遅いわ。それに、明日から二学期よ」
「うん。わかってるよ」
 僕はこれから起こることが不安だ。
 九月に入ったら、病状が進んで文月は入院が多くなる。今より会える時間も行ける場所も少なくなってしまうだろう。だから、もう少しだけ。
 僕は、その『もう少し』の理由を考える。色々な理由が頭に浮かんだけど、どれも文月を引き留めるには足りない気がした。
 すると文月は突然、僕の胸にもたれ掛かってきた。両手で抱きすくめられ、僕は硬直する。文月の甘い匂い。柔らかな感触。冷たい温もりが、水を含んだ絵の具のようにじんわりと僕の体に伝って来た。
「文月、どうしたの、急に?」
「何でもないわ。ただ、少し寒いだけよ」
「……ありがとう、文月」
 理由は、文月が用意してくれた。まったく、彼女には本当に敵わない。僕は行き場を失くしていた両手を文月の背中に回す。
「ふふ、正解よ」
 文月は僕の顔を見上げて微笑んだあと、また僕の胸に顔をうずめた。煩い心臓の音を誤魔化すために、僕は口を開く。
「文月、明日は何をする?」
「湊と一緒なら、何でも楽しいわ」
「そうだな。それだけは自信あるよ」
「いつもの調子が戻ってきたわね。湊にはそういう自信に満ちた顔が良く似合うわ」
 僕は文月にニッと強気に笑って見せる。自分でもわざとらしい笑い方だ。それでも、文月を不安にさせてしまうよりずっと良い。
 僕は最後に文月を思い切り抱きしめたあと、離れた。
「……じゃあ文月。また明日」
「ええ。湊、また明日」
 僕は文月に手を振り、背を向けて歩き出す。自然に言えたはずだ。
 振り返らずに歩く。しかし不安がよぎって、僕は振り返る。
 文月は玄関へと続く石畳を歩いていた。重い病を背負った小さな背中。
 遠くなっていくその背中に、気付くと僕は、手を伸ばしていた。

 ――

 こうやって手を伸ばしても、結局は届かない。救えないんだ。
 僕の手は水瀬の手を掴めずに空を切った。虚しい感触だけが残る。水瀬は川の中に尻もちをついた。瞬間、激しく水しぶきが舞い散る。
「ひぇぇ、おしり冷たー!」
「……だから、言ったのに」
 皮肉だけをつぶやいて、僕は伸ばしていた手を引っ込める。すると水瀬は「助けて湊」と包帯が巻かれた手を差し出してくる。
 少しだけ躊躇したあと、僕は水瀬の手を掴む。
「えい」
「うわっ!」
 僕は突然引っ張られ、抵抗する間もなく全身を水面に打ち付けた。
 水中で目を開くと、射し込む夕陽が水流で不規則に揺れて綺麗だった。息が続く限り、僕はその光景を眺める。
「あれ、み、湊? 死んじゃったの……?」
 死んでねえよ、と僕は心の中でツッコむ。近くに水瀬の細い両脚が見えたので、思い切り引っ張った。
 水瀬は悲鳴を上げて派手に転ぶ。その勢いで水流が乱れ、細かい砂の粒子が舞う。
 僕は息が続かなくなって水面から顔を出した。
「はあ、はあ。仕返しだ」
「このー、やったなぁ?」
 それから僕たちは、倒し、倒されての攻防を続けた。互いにびしょ濡れになり、岸に上がる頃にはすでに陽が沈みかけていた。
「はー楽しかった!」
「こんなに川で遊んだのなんて、小学生ぶりだよ」
「うん、私も!」
 水瀬はこうなることを予想していたのか、リュックの中からタオルを取り出した。僕は持ってないので仕方なく服を絞る。
「湊のタオルも持ってきたよ」
「え、ありがとう。助かるよ」
 受け取って濡れた髪を拭く。バスタオルは柔軟剤の良い香りがした。水瀬と同じ匂いがするから、何か変な感じだ。僕は思わず近くにいる水瀬を見てしまう。
 水瀬の濡れた髪から流れる水滴が、鎖骨を辿りTシャツに浸透していく。刺激的な光景。僕は咄嗟に、体ごと後ろを向いた。
僕は汗をかいたときのために持って来ていたTシャツを水瀬に渡した。
「良かったら、それ着てくれ」
 水瀬は言葉の真意がわからずに戸惑っていたが、やがて気付いたのか「あ……うん、ありがと」と僕のTシャツを受け取った。
 背後から聴こえる衣擦れの音から意識を逸らすために、僕は電線で群れる鳥を数える。やがて「湊、こっち向いていいよ」と声を掛けられた。
 丈が大きかったのか水瀬のショートパンツが隠れ、履いていない人みたいになっていた。僕はまた目を逸らし電線を眺める。しかし、さっきまでいた鳥の群れはすでに飛び去っていて。僕の心には罪悪感だけが残った。
「じゃー帰ろっか」
「……そうだね」
 僕たちは河川敷を後にして歩き始めた。
 西日は夜と交わり、群青色になって空を覆う。不意に水瀬が小さいくしゃみをした。バッティングセンターで汗をかいて川遊びで濡れたから当然だろう。
 水瀬が風邪を引くとまずい。僕は自然と歩く速度を早めていた。
「湊」
 背後から声を掛けられる。水瀬の声ではなく、もっと低い女性の声。
 振り返ると、夏だというのに黒衣に身を包んだ自称さんが立っていた。
「珍しいですね、外に出ているなんて」
「君に頼めないものも、まだこの世には多いからな」
 自称さんが手からぶら下げている袋の中には、確かに僕が買えない酒や煙草が入っている。
 僕はふと、自称さんの家でシャワーを借りればいいという案を思いついた。僕や水瀬の家より、自称さんの家の方がここから遥かに近い。
「あの、自称さん。お願いがあるんですけど――」
「魔女」
 聞き慣れない言葉に、僕は驚いて隣を見る。
 水瀬は僕の体の影に隠れて、腕にしがみついてくる。寒さか恐怖か、水瀬の声は微かに震えていた。
「湊、その人……魔女だよ」
 僕は自称さんに視線を移す。自称さんは、ただ静かに、笑みを深くした。

 *

 シャワーで温まった僕と水瀬は、自称さんの家のリビングソファでホームランバーを食べていた。僕が買い置きしていたものだ。自称さんはさっきから水瀬のことを観察している。
「それにしても」
 僕はアイスを飲み込んでから口を開く。バニラの甘い香りと冷気が鼻から抜けていく。
「小学生の噂を高校生が信じるってどうなんだ?」
「だ、だって。『大きい一軒家に住む黒い服を纏った女が、黄昏時に町を徘徊して目が合った者を家に連れ去り実験の材料にする』ってシンジくんもマヤちゃんも言ってたし……」
「いや誰だよ」
 その言い訳にも噂にも、僕はため息をつく。
「まあ、間違ってはいないな」
 自称さんは僕を見ながら可笑しそうに言う。まるで僕が連れ去られた奴みたいだ。
 水瀬は自称さんに怯えて、僕の後ろに隠れてしまった。「材料にしないで……」なんてバカみたいなことを何度もつぶやいている。
「水瀬、この人が前に言ってた小説家の人。本名とか基本情報は何もわからないけど、怖い人じゃないよ」
「……基本情報が何もわからないのは怖いよ、湊」
 もっともなことを言われてしまって僕は口をつぐむ。確かにそうだ。
 僕があと知っていることと言えば。ちらと自称さんを見ると「好きにすればいいよ」と考えていることを読まれた。やっぱりこの人は怖いかもしれない。
「水瀬。この前わかったんだけど、実は自称さんは、小説家の『綴真桔(つづりまき)』なんだ」
「え、ええっ!! ほんとにっ!?」
 水瀬は何の疑いもなく信じる。本当のことを言っているのになぜか悪い気がしてくる。
「水瀬って、本当に人のことを疑わないよね」
「え、嘘だったの……?」
「いや本当だけど。水瀬はもう少し、人を疑うってことを」
「あのっ、ファンです! 良かったら握手してください!」
 僕の忠告を無視して、水瀬は自称さんに両手を差し出す。さっきまで怯えていたくせに。
「湊から聞いていた通り、面白い子だな。綴真桔だ。よろしく、詠」
「よ、よろしくお願いします! 先生!」
 自称さんは水瀬と握手をする。四季折々に『綴真桔に会いたい』と書かれていたかは知らないけど、本人が嬉しそうにしているなら良かった。
 僕がその光景を眺めていると、自称さんは突然水瀬の手を引っ張って、抱きしめた。
「え?」
「へ……?」
 僕も水瀬もその奇行に疑問の声が出た。リビングが変な空気になる。水瀬は口をぽかんと開けたまま自称さんに抱きすくめられていた。
「なに気にするな。普段から応援してくれているお礼だ」
「いや、だからって……」
 水瀬は自称さんが腕を解いても放心していた。しかし数秒で我に返り、その場でどたどたと足踏みをしながら言った。
「こ、こちらこそ新作面白かったです! 抱きしめてくれてありがとうございました! 良い匂いがしましたっ!」
「ほら自称さん、いつもより馬鹿になってるじゃないですか」
「ふむ、少し刺激が強かったようだな」
 他人事みたいに言う自称さんを無視して、僕は水瀬をなだめる。
「落ち着け水瀬。ちょっと気持ち悪いよ」
「う、うん。落ち着く」
 水瀬は深呼吸をしたあとソファに座り直した。僕も気付くと立っていたので隣に座る。いつもより賑やかな自称さんの家での時間は、悪くない気分だった。
 服が乾いてからも少し談笑していると、自称さんが思い出したように口を開いた。
「そうだ、読んだよ、君の小説」
「えっ、本当ですか? ありがとうございます!」
 水瀬は緊張した表情で自称さんを見る。引き締まった空気に、僕まで緊張してきた。
「私、先生みたいな小説家になりたいんです。……どうでしたか。私の小説」
 静寂が降りる。自称さんはテーブルに置かれていた原稿に視線を落とした。
 僕がまだ言えていない感想。約束したのに、躊躇っている。僕は隣でまっすぐに自称さんを見つめる水瀬を見て、居た堪れなくなった。
「私個人としては好きだよ。繊細で、物語全体に強い意志を感じる。君は心から思ったことを文章に落とし込むことに長けているみたいだから、それを武器にするといい」
「本当ですか! ありがとうございます!」
 水瀬は嬉しそうにガッツポーズをする。尊敬する人から褒められたら嬉しいだろうな。
 しかし水瀬はまたすぐに真剣な表情に戻る。そして意を決したように口を開いた。
「あの……綴真桔先生としての評価は、どうでしたか?」
「……そうだな。では――」
 さっきまでとは比べ物にならないほどの凍てついた声音に、僕は思わず息を呑む。それこそが、僕が感想を伝えられなかった理由だ。
 何かを確かめるように二人は視線を交わす。やがて静かに、自称さんが口を開いた。
「これは、読んでいてつまらないな」
 刺すような言葉に、僕の心臓が跳ねる。水瀬はその断言に口元をきゅっと結んだ。
自称さんは続ける。
「強い意志は感じるが、共感する読者は少ないだろう。君の小説で描いている思想は綺麗で、正しすぎる」
「正しすぎる、ですか……?」
「書いていることはその通りで理解はできる。が、納得はできない。純度の高い『正しさ』は、人から疎まれ、孤独になるからだ」
 自称さんの話に、水瀬は「よく、わからないです」と眉を寄せる。
「ではストレートに言おうか。君の正しさを押し付けるな」
「っ……」
 水瀬は黙り込む。正しさの押し付け。その言葉を聞いて僕は納得していた。
 ――この考え方は絶対に正しい。みんなもそう思うでしょ?
 馬鹿みたいに人を思いやり、傍に寄り添う。でもこの小説にはそんな水瀬らしくない想いが込められていた。きっと死季病から来る焦りもあったのだろう。だから僕は、ストレートに感想を伝えるのを躊躇っていたんだ。
「これでは絶対に小説家になれない。死ぬまで、な」
 その断言に僕は思わず立ち上がる。それは、言い過ぎだ。
「湊。お前に口を挟む資格はない。黙っていろ」
「でも……」
 自称さんの射貫くような視線に僕は怯んで口をつぐむ。確かにその通りだ。だって僕は、水瀬に気を遣って感想すらまともに伝えられていないんだから。
 自称さんも水瀬の死季病は知っている。なのにどうしてこんなことが言えるんだろう。
 僕は息を潜めて隣を盗み見る。水瀬は何度も瞬きをして涙を堪えてから、声を絞り出した。
「私には、何が足りませんか? 正しさを押し付けずにみんなに共感してもらえるには……」
「知らんよ。そんなのは自分で考えることだ」
 突き放すような言葉に水瀬はうつむく。口元は歪み、押し寄せる何かに耐えているように見えた。僕は見ていられずに、水瀬から目を背けてしまう。
 ただ自称さんだけは、水瀬をじっと観察していた。
「貴重なご意見ありがとうございました、綴先生。もっと、頑張って考えてみます」
「……水瀬」
「ごめんね、湊。今日は帰るね」
 水瀬は荷物をまとめると、自称さんに頭を下げた。
「お風呂と夜ごはん、ありがとうございました」
 足早に去って行く水瀬を僕は見送る。しかし自称さんは「詠」とその背中に呼びかけた。ぴたりと水瀬の足が止まる。
「正しさは時に自分の首を絞める。君はもっと不純でいい。汚れてしまえ」
 水瀬は何も言葉を返さずに出て行った。僕は荷物をまとめる。ひどく居心地が悪かった。
 こんなことを言える資格はないと心に思いながら、僕は自称さんを睨む。
「らしくないですね、あんな厳しいことを言うなんて」
「優しい言葉を掛けたら、あの子は死ぬまでに夢を叶えられるのか?」
「それは」
 自称さんは僕を品定めするように見つめてくる。
「お前は中途半端だな、湊。完全に逃げることも、真剣にぶつかることもせず、ただその場に留まっているだけだ」
 その通りだ。それでも僕は動けずにいる。自称さんにはすべて見抜かれているだろう。だからこれは僕の『覚悟』を確認するための言葉だ。水瀬の隣に並んで進む覚悟を。
「でもあの子はどうだ。逃げられない厳しい現実が立ち塞がってもなお、今を変えようともがいている。……今のお前は相応しくない。邪魔でしかないよ」
「っ……!」
 頭が熱くなるのを感じる。
 わかっていたはずの事実。しかし初めて自称さんに指摘され、悔しさや後悔、色々な感情がない交ぜになって、目の前が眩んだ。
 その激情のままに、僕は自称さんの家を飛び出した。


 2

 夏休みを怠惰に消費する。僕は昼過ぎになっても自室のベッドから起き上がらずに、小説を読んでいた。水瀬のでも、自称さんのでもない小説だ。
 しかしその内容は頭に入って来ず、三日前の自称さんの指摘が(おもり)のように体に纏わりついていた。
 寝返りをして体勢を変えると、スマホの通知音が鳴った。グループメッセージだ。
【七月三一日。詠の家に誕プレ持って集合な!】
【わぁ、楽しみだね~!】
【いえぇぇい! ありがとみんな!】
 そのやり取りを見て僕は画面を閉じる。真っ暗な画面に映る僕の目は黒く濁っていた。
 ――今のお前は相応しくない。邪魔でしかないよ。
「わかってんだよ……」
 水瀬と過ごしたこの三か月を思い出す。文月を救えなかった後悔から始まった僕たちの関係は、最初から間違っていたんだ。後悔は消えない。むしろ、傷口は悪化していく。
 ――私は最後まで湊と一緒にいるよ。約束。
 僕の中の何かを変えてくれた言葉を思い出し、僕は読みかけの小説を閉じた。
 水瀬の誕生日には参加できない、と僕は適当な言い訳を送信した。七草や佐伯から追加のアプローチをされたが、すべて断った。
【じゃあ湊。来年の詠の誕生日は空けとけよー? 笑】
 その文面を見て、僕は咄嗟に画面を閉じる。心が刺されたように痛む。冷や汗が全身を舐めるように流れた。
 目を閉じて深呼吸をしていると、突然電話のコールが部屋に鳴り響いた。僕は驚いて飛び起き、思わず一コールで出てしまう。
『湊―。本当に来れないのー?』
「……その日は、用事があるんだよ」
 あんなことがあったのに、水瀬は普段と変わらない様子で話してくる。むしろ楽しそうだ。
『湊の選んだプレゼント、欲しかったなぁ。ねー、ちょうだいよ』
「七草と佐伯からもらったら充分でしょ。悪いけど、忙しいんだ」
 ひと思いに言って電話を切ろうとすると、水瀬は「待って」と僕を呼び止めた。
『湊、何か冷たい。私また何か無神経なことしちゃった?』
「いや、違うよ。でも僕のことなんてもういいから、今までみたいに三人で仲良くやってよ」
『待ってよ、何で急にそんなこと……』
 水瀬は黙り込む。そして確かめるように僕に訊いてきた。
『私と一緒にいるの、辛くなった? 怖くなった?』
 否定しようとして、僕は口をつぐむ。実際にはその通りだったからだ。中途半端に否定しても、水瀬は変わらず僕と一緒にいるだろう。それなら、どれだけ傷付けることになっても。
 スマホを握る手に力が入る。声が震えないように呼吸を整えて、僕は言う。
「僕が水瀬と居たのは、文月を救えなかった後悔があったからだ。だから水瀬の四季折々はうってつけだった」
『え……』
「でも四季折々を叶えたところで、僕の後悔は消えない。むしろ悪化するんだよ。怖くないわけないだろ。だからこれからは今まで通りだ」
 そう、すべてが元に戻るだけ。僕は文月の思い出にひとり浸って。水瀬は――。
「四季折々は、七草と佐伯にやってもらえばいい。僕より前向きにやるはずだよ」
『……この四季折々は、湊じゃなきゃだめなの』
 水瀬の声は震えていた。電話越しだから、怒っているのか泣いているのかわからない。どちらにせよ、これで最後だ。僕より四季折々に適したやつなんてたくさんいる。
 僕と水瀬には、どうしても埋まらない距離がある。
『湊の四季折々は? 莉奈ちゃんと過ごした日々を信じて前に進むって、書いたでしょ?』
「……あのリストは、消しておいてほしい」
『そんなの、無理だよ』
「前に進むなんて僕には無理だ。だからもう、いいんだよ」
 いつの間にか窓の外は暗くなっていた。その藍を目に映しながら、水瀬が僕のことを手放す瞬間を待つ。
『それが、湊の本当の気持ちなんだね』
 感情がすべて抜け落ちたような冷たい声。その温度は僕の耳から入り込み、徐々に体に浸透していく。そうして、電話が切られた。
 僕は電池が切れたアンドロイドみたいに、仰向けにベッドに倒れる。
 ――これで、いいはずだ。
 ベッドの軋む音を耳に残したまま、僕は目を閉じた。

 水瀬の誕生日の前日、僕は町を歩いていた。宿題の息抜きだ。今日は比較的に陽射しが弱くて助かった。それでも暑いには変わりないので、僕は駅中のショッピングモールを目指す。
「そこのお兄サーン! いまヒマ~?」
 何か話しかけられた気がするけど、きっと気のせいだろう。僕は無視して歩く。
「そこの冴えない顔と服を着たキミだよ~?」
「ち、ちょっと、そんなこと言わない」
 いや、この声のセットは知っている。神経を逆撫でするような言葉に僕は振り返る。
 そこにはおしゃれな私服姿の七草と佐伯が立っていた。僕のファッション知識では説明できないが、色々なことに気を遣わないと発せないオーラだ。……そんなに冴えないか、僕?
「……お前らか」
「「確保―!」」
 僕は二人に両腕を掴まれショッピングモールへ連行された。僕は右隣の七草に抗議する。
「七草、目的は何だ。あとしがみつくな、暑い」
「詠の誕プレ、選ぶの手伝ってくれよー。そんくらい、いいだろ?」
 ああこいつはだめだ。僕は左隣の佐伯に助けを求める。
「あの、佐伯……」
「だめ、かな?」
 僕はもう、瞳を閉じて従うしかなかった。

 ショッピングモールに着くと二人は雑貨店に入り、商品を物色し始めた。ケルト音楽が心地良い音量で流れていて、つい目の前の光景に流されてしまう。
「なあ湊―。こういうの詠に合うと思うんだけど、どうよ?」
「詠ちゃんならこっちだと思うなぁ。どう思う、湊くん?」
「わからないよ。二人の方が、僕より水瀬のこと詳しいだろ」
 七草と佐伯は「いやぁ、そうなんだけどー」と照れながら商品を棚に戻した。
「そういや湊は何かあげないのか? 強制じゃねぇけど、あげたら喜ぶと思うぞ?」
「いや、僕は……。二人があげれば充分でしょ」
「不足も充分もないだろ。こういうのって、誰にもらったかだと思うんだ、俺は」
 七草は商品を漁りながら何気なくつぶやく。こいつは本当に、普段はおちゃらけているくせに、たまに核心を突くようなことを言う。
 僕が少し感心していると、七草は不意に顔を上げて嬉しそうに笑う。
「あ、なずな。俺いま、良いこと言った気がする!」
「もう、自分で言わないの」
「へへ、すんませーん」
 佐伯は七草をたしなめたあと「でも、そうなんだよね」と言って僕を見つめる。
「湊くんが選んだプレゼントなら、詠ちゃんすっごく喜ぶよ」
「……そうかな」
「うんっ。親友の私が保証する」
「詠はそういうやつだろ。物の価値とか見た目とかじゃなくて、ちゃんと本質を見てる」
 確かにそうだよな、と僕は思う。だって容易に想像できる。水瀬にプレゼントを渡す。水瀬は嬉しそうに全身で喜ぶ。見ていて本当に飽きないやつだ。
「あのね、湊くん。颯斗くん、中二のときにね……」
 こっそり耳打ちしてくる佐伯に、僕は少し屈んで話を聞く。
「詠ちゃんの誕生日をすっかり忘れててね。慌てて自分の食べかけのお菓子を『ハッピーバースデー』って渡したことあるんだよ」
「えぇ、本当に?」
「でも詠ちゃん、それでも『私の好きなお菓子だ!』って喜んで食べてた」
「もーあのときはマジで罪悪感やばかったなぁ」
「あっははっ。七草ひどいな。水瀬も大概だけど」
 あまりの間抜けさに、僕は笑ってしまう。七草は恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。
「まあでも、こういう想いって、ちゃんと言葉とか行動にしないと伝わんないからな。中途半端じゃ、ダメなんだ」
 その言葉に潜んだ重みが僕の心にのしかかる。中途半端。七草も何か、そう感じたことがあるのだろうか。すると七草は手に取っていたぬいぐるみを棚に戻した。
「うーん。ここじゃなさそうだな。次行こうぜ」
「うん、行こ行こ」
 それほど深い意味はなかったのかもしれない。七草はもう佐伯と別の話をしている。僕はその後を付いて行った。
 結局モール内のほぼすべての店を網羅して、プレゼント選びは終了した。七草は水瀬の好きなブランドのスニーカー。佐伯はハイブランドのコスメをプレゼントに選んだ。
 満足そうな顔をしている二人に、僕は疲労の溜まった声で言う。
「二人とも、よくそんな高そうなものをポンポンと……」
「まー俺は色んなところでバイトしてるしなぁ」
「私は絵の賞金とか、収入が少しあるから」
 佐伯の絵を思い出しながら僕は納得する。確かにあれなら収入を得ていてもおかしくない。
 モールの出口に向かって三人で歩いていると、七草が訊いてくる。
「それで、湊はいいのか?」
「良い感じのもの、なかった?」
「……うん。僕は、いいかな」
 純粋に尋ねてくる二人に僕は曖昧に答える。七草は嫌な顔一つせずに「そっか。じゃ、帰ろうぜー」と笑った。
 今日、二人と居てわかった。僕はこの輪には相応しくない。自称さんはそういうことも含めて言ったのかもしれないな、と痛感した。

 ショッピングモールを出て、僕たちは帰路へつく。途中に通った公園を覗くと、ちょうど小学生が帰るところだった。楽しげな声が遠ざかって行く。取り残された遊具が夕陽に照らされて、少しだけ寂しそうに見えた。
「――で、どうして喧嘩してんの?」
 僕の前を歩いていた七草が振り返って訊いてくる。どうして知っているのだろうと思考を巡らせていると、佐伯が補足するように口を開いた。
「詠ちゃんがね、湊くんのこと傷付けちゃったって言ってたよ」
「……いや、水瀬は悪くないよ。ぜんぶ僕が悪い」
 喧嘩とも言えない、一方的な拒絶。死季病のことも含んでいるから話せない。
「個人的な問題だから、二人には話せないよ」
「個人的な問題、か。それって、莉奈ちゃんと関係あるのか?」
「どうして、文月のこと……」
 文月は七草たちの中学でも有名人だったらしいが、僕とは結び付かないはずだ。水瀬が話したのだろうか。
「とりあえずそこの公園入ろうぜ」と七草は微笑む。僕は何かが暴かれてしまいそうな恐怖と共に、その背中を追った。
「ブランコとか久々に乗ったなぁ。湊も乗れよ~」
 促されて、ブランコに腰を下ろす。ギィギィと錆び付いた音。佐伯は正面の飛び出し防止用の手すりに体を預けて、僕のことを静かに見ている。
 居心地の悪さを解消するため、僕は口を開く。
「誰から文月のことを聞いたんだ?」
「莉奈ちゃんは有名だったし最初から知ってた。でも病気のことと、湊と仲が良かったことは氷野から聞いたな。元々あいつとはバンドで一緒になること多くてさ」
 僕は顔を歪める。不快で仕方なかった。本当にあいつは余計なことをペラペラと。
 怒りを何とか鎮めるために、僕は深く息を吸う。どこからか濃い夏草の匂いがした。
「それで、どうして僕と水瀬の話に、文月の名前が出てくるんだ?」
「なずなの絵を観に行って喧嘩したときも莉奈ちゃん関係だったろ。写真の前だったし」
「……そっか」
 僕は納得する。七草はやっぱり鋭い奴だ。それでも明け透けに深入りしてこないのは、ありがたかった。
「それに、繋がらないんだよ」
 意味を図りかねる言葉に、僕は情報を求めようと七草の表情を見る。そんな七草も、まっすぐに僕を見ていた。
「詠は理由もなく人を傷付けるやつじゃねえ。でも詠は湊を傷付けたって言った。あいつが人を傷付けるのは、そいつの心に手を伸ばしたときだけだ」
 違うんだ、声にならない言葉が喉元で凍り付く。水瀬の優しい手を僕は拒んだ。ぜんぶ切り捨てた。傷付いたのは僕じゃない、水瀬の方なんだ。
「だからまた莉奈ちゃんのことで喧嘩したのかなって思ったんだ。詠もあれでけっこう強引なとこあるからな。ま、そこが詠らしいんだけど」
 また僕は地面を見ていた。死季病のことを除けば、ほぼその通りだ。どうしてこの二人じゃなく僕が死季病のことを知ってしまったんだろう。どうして水瀬は僕にだけ――。
 考えても仕方のないことが頭を巡る。すると七草が僕の頬をつまんで、いたずらっ子のように笑っていた。
「顔に辛いって書いてあんだよ。こんなの、俺となずなが見逃すわけねーだろ」
「そうだよ。湊くんも詠ちゃんも、ほんとにわかりやすいよね」
 僕は空を見上げる。涙が零れそうになったからじゃない。こうしないと、すべての懊悩を吐き出してしまいそうだったからだ。
 この不安定で、中途半端な関係を終わらせるため、僕は込み上げてくるものを飲み込もうとする。お前は邪魔でしかないんだよ、何度も自分の中でそう唱えた。
「湊、背負って逃げるくらいなら、俺たちに吐き出しちまえ」
「っ……」
 僕はもう、耐えられなかった。必死に結んでいた唇が、ゆっくりと動き出す。
 とめどなく、溢れ出す。自分がどんな顔をしているかもわからない。
 文月が死んで前に進めなくなったこと。水瀬が前に進もうと背中を押してくれたこと。でも水瀬といると、文月のことを思い出して辛くなり、拒絶してしまったこと。
 上手く伝わらなかったかもしれない。そんなのは当たり前だ。元々、言うつもりなんてなかったんだから。でも、止まらなかった。
「中途半端はもう嫌なんだ。だからこれからは、ぜんぶ元通りだ」
 居た堪れなさが、溢れてくる。すべてを元に戻すように、僕は二人に向けて言った。
「……今まで、一緒にいてごめん」
 話してみればあっという間だ。後悔を軽くしようと思ったこと自体、間違いだった。この痛みも含めてすべてが、文月との大切な思い出なんだから。
 ――瞬間、強烈な痛みが左頬に走り、思考を攫った。
 平衡感覚を失った僕は、ブランコからずり落ちる。
 痛みが襲ってきた方向を確認すると、そこには肩で息をする佐伯が立っていた。怒りと悲しみがない交ぜになった複雑な表情。今まで見たことのない佐伯の気迫に、息を呑む。
「中途半端は嫌? 元通り? 一緒にいて、ごめん? ……何それ、ふざけてんの?」
 佐伯は僕の両肩を掴んで、何度も揺さぶってくる。
「そんな中途半端なことしないでよ!」
 予想外の言葉に僕は戸惑う。水瀬たちとの不安定な関係を断ち切ってここに――文月の思い出と共に生きて行こうって決意した。
「……これの、どこが中途半端だって言うんだよ」
「ぜんぶだよ! 中途半端に突き放して、莉奈ちゃんとの過去からも逃げようとしてる!」
「何も知らないくせに、勝手なこと言うなよ!」
 僕は強引に佐伯の手を振り解いて、叫ぶ。正論だった。だから、叫ぶしかなかった。
「わからないよッ!」
 僕より大きな声で佐伯は叫ぶ。体がふらついてしまうほどに。そんなことは意に介さず、佐伯は寂しげな表情で僕を見下ろす。
「わかるわけないよ……だって湊くん、何も言ってくれない」
「当たり前だろ。こんな話、簡単にできるかよ」
「そうだよね。だから私、さっき湊くんが少しでも話してくれて、嬉しかった」
 強い意志が籠ったまなざしだ。水瀬も文月も佐伯も、同じまなざしを僕に向けてくる。目を逸らしてはいけない。そんな気持ちにさせられる。
「確かに私たちは湊くんのことは何も知らない。でも、心配もしちゃだめなの?」
 力が抜けて、僕はうつむく。みんなどうしてそんなに優しい言葉を掛けてくれるんだろう。
 僕は傷付けて、拒絶した。心配してもらう権利なんてない。
 ――もう僕を置いて、進んでくれ。
「余計なお世話だ。僕とお前らじゃ、何もかも違うんだよ! 考え方も生き方も!」
 そこまで言って、僕は完全に関係を閉じる言葉を思いつく。その残酷さに、自分でもぞっとした。唇を舐め、悪意に染まった言葉を吐き出す。
「お前らとの関係なんてただの友達ごっこだ。だからもう僕に構わないでくれ。迷惑だ!」
 沈黙が降りる。二人の顔は見えない。いや、怖くて見られなかった。このままどこかに行ってくれ、と僕は強く願った。
「……本当に、中途半端」
 佐伯は両膝を地面に付け、座り込む僕を真正面から見つめた。
「違ってて当たり前だよ。違う部分を好きになったから、私たちは一緒にいるんだよ」
「一緒にするな。僕は、お前らと居たくなんてないんだよ」
 水の底にいるときのような息苦しさが僕を襲う。孤独の水は、重く、冷たい。
「嘘ついてる」
「嘘じゃない! 本当にお前らとなんて――」
「本当にそう思ってるなら、どうしてそんなに苦しそうな顔してるの!?」
 僕は佐伯に両手を掴まれ、痛いくらいに握られる。顔を歪めて佐伯を見ると、その瞳からは涙が流れていた。
僕は怯む。なぜか鼻の奥がつんと痛んだ。……心が、苦しい。
「そんな自分も苦しくなるような言葉ばっかり並べて、私たちを突き放せると思わないで! 友達なめんな!!」
 僕は何も言うことが出来なくなった。でも、涙だけは溢れてくる。理由はとっくにわかっていた。ただ、認めたくなかっただけなんだ。
 佐伯は肩で息をして、潤んだ瞳に僕を映している。みっともない姿だろう。僕は顔を逸らして涙を拭った。
「なぁ、湊。二年前にもし莉奈ちゃんから同じように突き放されたら、諦められるか?」
「……無理に決まってるだろ」
「そうだよな。俺たちも同じだ。お前を置いて進むなんて、できねえよ」
 僕は恐る恐る、二人の顔を見上げる。怒ってなどいない、むしろ穏やかな顔だ。
「湊の中の莉奈ちゃんも一緒に、みんなで進もう。お前はとっくに独りじゃねえ」
 心の中の霧が、晴れていく。
 七草は手を伸ばしてくる。優しく温かそうなその手は、今にも燃え尽きそうな夕陽に照らされている。引き寄せられるように僕は、孤独の水中から手を伸ばした。
 しかし同時に怖くなり、僕の手は止まった。あと数センチなのに、水面に至るにはまだ足りない。その距離を埋めるに至る勇気が。
 ――大丈夫。湊なら、絶対にできるわ。
 文月の声に背中を押された気がして、僕はもう一度、力の限り手を伸ばした。
 孤独の水中から手を出し、次いで顔を出す。それは、現実の僕の体をも動かした。
 七草は、僅かに伸ばしていた僕の手を掴み、信じられないくらいの力で引っ張り上げた。
「湊の手、冷てぇなー。なずなも触ってみ?」
「ほんとだ。仕方ないから、あっためてあげる」
 二人と握手するような構図に恥ずかしくなり、僕は手を離す。それだけでもう、熱が染み渡ってきた。充分すぎるくらいだ。
 目尻に残っていた涙を拭う。涙の理由はとっくにわかっていた。僕は、嬉しかったんだ。心から僕を思ってくれることが。心から僕にぶつかってきてくれることが。――だから。
「……二人が、温かすぎるんだよ。ありがとう、七草。佐伯」
 独りじゃないんだって、教えてくれて。
 七草と佐伯は僕に手を差し出してくる。腹が立つくらい、嬉しそうな顔だ。
 僕は少しだけ躊躇ったあと、その温かな手を結んだ。

 *

 僕は太陽が差し込む玄関で靴ひもを結ぶ。今日は水瀬の誕生日だ。まだ昼だけど、プレゼントを買っていないから、パーティーまでに厳選しなきゃならない。
 すると不意にスマホの通知音が鳴る。相手は水瀬だった。
【パーティー楽しみ! 早く6時にならないかなー】
 その文章をじっと眺めて、僕は昨日の出来事を思い出していた。

 ――

【湊、やっぱり明日来れるってよー!】
【やったね、詠ちゃん!】
 公園から帰宅した途端にそうメッセージを送ってきた二人に、僕は焦る。あの後、佐伯から水瀬に謝るように叱られてしまった。でもさすがに展開が早すぎてまだ謝れていない。
 ついこの前自分を突き放した奴が急に掌を返したら、さすがの水瀬も困惑するだろう。
【ほんとに――――――!? やった―――――!!】
 そんなことはなかった。僕は思わず吹き出す。自分の部屋で良かった。
 僕はメッセージを入力する。色々と迷惑を掛けた記憶がよみがえり、少し時間が掛かった。
【良ければ参加させてもらいたいです。よろしく】
 みんなからファンシーなスタンプが送られてくる。僕は息を吐き出してベッドに座った。
すると突然、電話が鳴った。僕は驚いて「うわっ」と声を出してしまう。水瀬からだ。
 少し話していないだけなのにずいぶん久しぶりに思える。僕は緊張しながら電話に出た。
『湊! 来れるってほんと? 嘘じゃないよね?』
「うん、嘘じゃないよ。それで、その……この前のこと、謝りたくて」
 僕はベッドから立ち上がる。緊張で体から汗が滲み、心臓は早鐘を打っていた。でもきっとここが、僕が前に進むためのスタート地点だ。
「ひどいこと言って、ごめん。僕が弱いせいで水瀬を傷付けた。本当に、ごめんなさい」
『いいの。湊がまた私たちと一緒にいようって思ってくれただけで、嬉しい』
 水瀬ならそう言って許してくれるだろうと、僕は思っていた。だからまだ足りない。それを水瀬に直接伝えても、はぐらかされてしまうだろう。
 もっと誠実な言葉。「ごめん」より「ありがとう」よりも、誠実な言葉。
 僕は「水瀬」と呼びかける。僕たちに相応しい言葉は、いつもそこにあった。
『なあに、湊』
「――四季折々」
 水瀬の四季折々を全力で叶える。それが僕にとっての覚悟で、いま示せる誠実なものだ。
 数秒の沈黙のあと、水瀬は「ふふふふふ」と壊れた機械のように笑い出した。
『初めて湊から言ってくれて嬉しい。でも湊、無理してない? 辛く、ならない?』
「辛くなるとは思う。でも、僕より辛いのは水瀬だ。だから一緒に前に進みたい」
 僕は、僕の手を優しく引いてくれる人たちの顔を思い浮かべて、言った。
「もう独りじゃないんだって、みんなが教えてくれたから」
『……もう、気付くの遅すぎだよ』
 呆れたように言った電話越しの水瀬は、嬉しそうに笑った。

 ――

 靴を履き終えると「あら、今日はどこに行くの?」と母さんに声を掛けられた。僕が自発的に家から出るのが嬉しいのか、ニコニコしている。
 簡潔に言うなら、そうだな……。少し考えて、僕は口を開いた。
「――友達の誕生日会だよ。行ってきます」
 何だか体がむずがゆい。慣れない言葉だけど、事実だから仕方ないよな。
 僕はそう納得して、弾むような気持ちで家を出た。

 夕陽が西の彼方へ沈んでいく。赤、橙、黄。まるでパレットに延ばした絵の具みたいに、空が色濃く染まっている。遠くからは群青が押し寄せていた。夜は近い。
 僕は住宅街を奔走する。プレゼントを吟味していたら遅刻ギリギリになってしまったのだ。呼吸が苦しくなり、僕は走るのをやめた。心臓が張り裂けそうなほど脈を打っている。
 途端に汗が噴き出してきて、熱気が体に纏わりつく。でも清々しい気分だ。
 僕はリュックの上からプレゼントの存在を確かめる。七草や佐伯より値は張らないけど、水瀬のことを考えて真剣に選んだ。
 水瀬の家まであと少し。さすがに汗だくで誕生日会に参加するのはまずいだろう。僕は滲む汗を拭った。
 丁字路を曲がると、遠くに多くの人だかりができていた。何だろう、よく見えない。ただ、住宅に点滅する赤いランプだけが浮いていて、不気味だ。
 嫌な予感がした。さっきまでの清々しさと違う冷たい汗が、背中を這う。
 僕はその人だかりへ近付いて行く。少しだけ見えた。白い車体。赤いライン。赤い点滅。息を呑む。

 ――今日未明。日向町の中学二年生、文月莉奈さんが山の斜面で遺体となって発見されました。莉奈さんは町内の山中にある公園から飛び降りたと見られ、近くに莉奈さんの物と思われる靴が置いてあったことから、警察は自殺の可能性を視野に――

 無機質に、ただ現実だけを突きつけるニュースが僕の脳裏に蘇る。何も知らないまま、突然終わりは訪れるんだ。
 水瀬の家はもう少し奥のはずだ。脚が震えていた。今にも倒れてしまいそうだ。僕はその足を引きずるように、現実の中心部へと向かう。
 違う。絶対に、違う。誰かほかの人の体調が悪くなったんだ。水瀬はそれを心配そうに見ている。誕生日会は六時から予定通り開かれて、プレゼントを渡して、みんなで――
「詠ッ!!」
「詠ちゃん!!」
 七草と佐伯の、悲鳴に近い叫び声が辺りに響く。
 瞬間、僕は駆け出していた。躓き、転びそうになるのを堪えて二人の声の方へ。
 人混みをかき分けて、僕は二人の隣に並んだ。
「っ――湊! 詠が……」
 目を覆いたくなるほどの現実に、僕は立ち眩みを覚える。救急車内のストレッチャーに乗せられた水瀬の体は、ピクリとも動いていなかった。
「あの、すみません。ご家族の方以外の同乗はできません」
 気が付くと僕は救急隊員に制止されていた。関係あるか。肩を揺すったら起きるはずだ。もっと近くに行って、声を。
 僕は救急車に近付こうと無理やり脚を動かす。
「大切な、友達なんです……」
 自分でも驚くくらい、震えた声だった。自覚した途端、寒気がした。
 僕は制止されたまま、救急車に向かって手を伸ばす。でも水瀬にはまだ遠い。
「湊……」
「湊くん……」
 名前を呼ばれ振り向く。僕の両隣には七草と佐伯が立っていた。それに気を取られているうちに、けたたましいサイレンと共に、水瀬を乗せた救急車が走り出した。
「水瀬……」
 つぶやいた僕の両手に、冷たい何かが触れた。見なくてもわかる。七草と佐伯の手だ。
 心を巣食う不安から、縋るように僕も握り返す。ただ、二人の手も昨日とは違い、冷たく震えていた。
 二年前と同じだ。何もかもが遠くへと消えてしまう感覚。
 僕たちは閑静を取り戻した住宅街に、いつまでも立ち尽くしていた。


 3

 あれから二日。僕たちは水瀬のお見舞いで病院に来ていた。ここに来るのは二度目だ。
「いやぁ、最近ずっと小説のこと考えてたら、階段から転げ落ちちゃって……はは」
「はは、じゃないでしょ! 心配したんだから、もう!」
「なずー、ごめんってー」
 水瀬は佐伯に叱られベッドの上で謝っている。七草はそんな佐伯を「まあまあ」となだめていた。水瀬の頭と右腕には包帯が巻かれ、所々青痣があって痛々しい。
「にしても、一週間も検査入院なんてつまんないなー」
「……頭とかも打ってるんだから、大人しくしとけ」
「むーん、湊きびしい」
 きっとそれには死季病の検査も含まれている。水瀬が階段から落ちた理由が本当かはわからない。でも、死季病が進行している可能性も捨てきれないだろう。明るく話している水瀬を見ていると、胸が痛んだ。
「じゃー、そろそろやるか!」
「わーやった! 楽しみ!」
「ふふ、詠ちゃん子どもみたい」
 でも、今はそれより――。
『四季折々――誕生日会、やりたい』
 水瀬は倒れた翌日にそう連絡してきた。悩む必要すらなく、僕のやることは決まっていた。
 僕たちは病院に来る前に買ってきたパーティーグッズの飾り付けを始める。水瀬は脚も怪我しているので、指示役を買って出た。今も険しい表情でベッドの上から目を光らせている。
 飾り付けはたっぷり三〇分ほど掛かった。元々買い過ぎたグッズをぜんぶ切って貼って付けたら、およそ病室とは思えない仕上がりになってしまった。
 水瀬はパチパチと大きな拍手をする。
「わー最高っ! みんなで写真撮ろ~!」
 水瀬の提案で、パーティー会場をバックに写真を撮る。文月の被写体になることはあったけど、こうやって友達と一緒に撮るのはずいぶん久しぶりだった。
 時刻は午後三時。テーブルにお菓子やケーキ、水瀬の母親が作ったオードブルを広げる。パーティーという感じがしてワクワクした。
 カーテンを閉め、息を吹きかけると消えるキャンドルライトを点ける。まるで本物の炎みたいに、ライトが揺らめく。
 みんなで息を揃えてバースデーソングを歌った。なぜか祝われる側の水瀬の声がバカみたいに大きいのが可笑しくて、僕たち三人はまともに歌えなかった。
 妙にくすぐったくて、楽しくて、僕は自然と笑ってしまう。それはみんなも同じだった。
「「「誕生日、おめでとう!!」」」
「みんなありがと!」
 水瀬はライトで明るく照らされた顔で屈託なく笑い、『1』『6』二つのキャンドルライトに息を吹きかける。これで僕たちみんな一六歳だ。
 ケーキを取り分けて会話を弾ませていると、七草が目配せしてくる。水瀬にプレゼントを渡す合図だ。ウインクが妙に上手いのが腹立つ。
「はい詠、俺から!」
「詠ちゃん、私から!」
 綺麗にラッピングされたプレゼントに、水瀬はベッドが壊れるんじゃないかと思うくらい跳ねて喜んだ。さっきから「わ~すご~! かわい~!」しか言えていない。
 ついに僕の番だ。プレゼントが入ったバッグをちらりと見て、包帯が巻かれた水瀬の右腕に視線を向ける。
「……ごめん。今日までにプレゼント用意できなかったんだ。時間が掛かるって知らなくて」
 楽しい場を白けさせるのはわかっている。でも僕のプレゼントは、今の状態の水瀬には使えない。治ってから渡したかった。
 次の言葉が怖くて下を向く。生まれた数瞬の沈黙だけで、僕の心臓は不規則に脈を打った。居た堪れなくてこの場から逃げたい気持ちに駆られる。でも――。
「湊、プレゼント用意してくれたんだね。それだけで私嬉しい! ふふ、何かなぁ」
「予約制ってことは、きっとやっべーやつだぜ?」
「ほほう、なんと!」
「大人だなぁ湊くん。楽しみだね、詠ちゃん」
 責めるどころか嬉しそうにしてくれる水瀬を見て、罪悪感が僕の心を刺す。
 色々と申し訳なくなった僕はふと思いつき、飾り付けに使った色画用紙を手に取った。簡素だけど、仕方がない。
「とりあえず、これ」
 僕はハサミで長方形に切って文字を書いただけのそれを渡す。しかし文字が見えなかったのか、水瀬は首を傾げた。
「えーと……肩たたき券?」
「ブフッ」
 七草が口に手を当てて吹き出す。僕は恥ずかしくて顔が熱くなった。
「たぶん違うよ、詠ちゃん。よく見てみて」
 佐伯だけはフォローを入れてくれる。いや、佐伯も顔が赤い。今にも吹き出しそうだ。
「あは、いっけねー。どれどれ、ふむふむ」
 水瀬はおどけたあとまじまじと色画用紙を見て、子どもみたいに顔を輝かせた。
「うわー! 『プレゼント引換券』だぁ!」
「あの、水瀬。もう、やめて……」
「おい湊~。いくら用意できなかったからって、ひ、引換券って……!」
「は、颯斗くんそんなに笑っちゃ……!」
 自分でも子供っぽいとは思っていたけど、そんなに笑わなくてもいいだろ。
 恥ずかしさと後悔がピークに達した僕は引換券を取り戻そうとしたが、水瀬が胸に抱いて返してくれない。
「返さないよーだ! もうもらっちゃったもーん! 誕プレ楽しみにしてるね、湊!」
「……あー、まあ、うん」
 水瀬が喜んでいるならそれでいいか、と僕は無理やり納得することにした。
 面会時間ギリギリまで誕生日会は続いた。というか少し過ぎて看護師さんに叱られた。病室を片付けて水瀬に別れを告げる。楽しい時間はあっという間で、少し寂しい。
 水瀬もそれを感じたのか、怪我をしているのに病院の出入り口まで来ようとしたので、みんなで慌てて止めた。
「めっちゃ楽しかった~! みんなまた来てね~! ばいばーい!」
 僕たちが見えなくなるまで、水瀬は笑顔でぶんぶんと手を振っていた。その姿は明るく、でも寂しそうに僕には見えた。
 ――じゃあまたね、湊。
 病室のベッドから静かに僕につぶやいた文月の姿が、今の水瀬の姿と重なった。

 最寄り駅に着いたのは、一九時半頃だった。七草と佐伯は寄るところがあるらしいのでそのまま別れる。
 家路へと向かって歩く。駅前にあった喧騒は止み、住宅街のどこかにいる鈴虫の鳴く声だけが辺りに反響していた。今までは気にしたこともなかったけど、心が安らぐ音だ。
 今日の誕生日会のことを思い出して頬が緩む。それと同時に別れ際の水瀬の姿が浮かんだ。
 その瞬間、空気を切り裂くように着信音が鳴り響いた。誰だろう、と思ったら水瀬だった。
「もしもし、どうしたの?」
『やっほー、もう家着いちゃった?』
「まだだけど……」
 まさか忘れ物でもしたか? と思い、体をまさぐる。でも僕の予想は外れた。
『四季折々――夜の町を見たい』
「それは、退院したら、だよな?」
『今から! 四季折々もまだいっぱいあるから、やれそうなことぱぱっと叶えちゃおうよ』
「え……」
 僕は絶句する。あり得なかった。今まで水瀬が一つ一つの四季折々を全力で叶えてきたからこそ、その言葉は歪んで聞こえた。
 黙っていると、自動車が脇を通り過ぎる音が聞こえた。しかし顔を上げても僕の周りには何もない。もしかして、抜け出したのか?
「なあ水瀬、今どこにいるんだ?」
『とりあえず駅前に集合ねー!』
「え、あ、ちょっと」
 返事をする暇もなく電話を切られる。さっきまでは心地良かった静けさが今はうるさく感じて、妙に落ち着かない。
 僕はスマホをポケットにしまい、その場に立ち尽くした。水瀬らしくない言動。病室での別れ際に見せた寂しげな姿。
 ――独りは不安で寂しいのね。今まで独りだったから、気付かなかったわ。
 ああ、同じなんだ。入院中、文月がそう言って見せた笑顔と、さっきの水瀬の笑顔は。
 踵を返して僕は走り出す。もう鈴虫の声は、聞こえてこなかった。

「あっ湊! さっきぶりー!」
「あのな……」
 僕は肩で息をする。色々とあった言いたいことは、胸とわき腹の痛みに負ける。水瀬はさっきまでの無機質な病衣とは違い、おしゃれをしていた。
 ゆったりとしたブラウンのオーバーオールに白いTシャツ。足元の裾はまくって同系色のスニーカーを履いていた。
「可愛い? 颯斗から貰ったスニーカーとね、なずから貰ったアイシャドウとリップもしてみたんだ」
 水瀬は目を瞑り顔を近付けてくる。確かに普段より目元がくっきりして見えて、唇も桜色に色付いていた。それだけ見て、僕はぱっと顔を逸らす。
「良いんじゃないか。すごく似合うと思う」
「ふふ、ありがと」
 目を細めて水瀬は笑い、歩き出す。僕もいつも通りその隣に並んだ。
 夜の町を見たいと言っても、それは何気なくその辺をぶらぶらするだけだった。
 駅前の工事現場を覗いて何が建つんだろうと考えたり、居酒屋が並ぶ路地で酔っ払っている大人たちを見て、四年後どんなお酒を飲んでみたいかを話し合ったりと、何でもない会話だ。
 やがて僕たちは明るい中心街から離れ、町の西側に向かって歩く。住宅街に差し掛かり暗さの比率が高くなってくると、水瀬が空を見上げてつぶやいた。
「ここだとあんまり星、見えないね~」
「唐突だね。それも四季折々?」
「そうだよ。今日晴れてるから、見たいなって」
 確かに今日は空気も澄んでいて天体観測日和だ。しかし家々の隙間から覗く星は何だか味気ない。水瀬は同じく空を見上げていた僕に尋ねてきた。
「ねえ湊。もっとよく星が見えるところに行きたいんだけど、知ってる?」
 知らない、と言いたかったけど、僕は知っていた。ここよりさらに暗く、高い。僕の大切な思い出が詰まった場所でもあり、最も近付きたくない場所。
 逡巡した僕は、やがて口を開く。
「……知ってるよ。今から行こう」
「やった! 行こ行こ!」
 水瀬はガッツポーズをして、僕の隣に並ぶ。もう二年ぶりになる。そこに水瀬と行くのは、何だか変な感じだ。
「っ!」
 思考を遮る小さなうめき声をあげ、水瀬は僕に寄り掛かってきた。慌ててそれを支える。
 初めて触れた日からずいぶん冷たくなった体温は、温和な理想に浸っていた僕を冷徹な現実へ引き戻すには十分すぎた。
「ごめん、何かちょっと足がもつれちゃって」
 水瀬は軽くその場でストレッチをしてまた歩き出した。反射で引き留めようとした手を降ろして、僕はその後ろ姿を見つめる。
 理解せざるを得ない。水瀬が今、この瞬間に、自分の脚で歩く意味を。
 僕は歩く速度を落として、いつでも水瀬を支えられるように意識を注ぐ。
「……ここからその場所までけっこう遠いんだ。どうする?」
「すっごく歩きたい気分だから最高だね! 最後まで歩く!」
 水瀬は無邪気に笑って僕の数歩先を歩いて行く。アスファルトとスニーカーが強く擦れる音が、僕の耳の奥にこだましていた。

 西に向かって歩き三〇分ほど。辺りは明滅して頼りない街灯だけになった。時折、思い出したように車が数台通過する。水瀬はそのライトに照らされながら空を見上げて微笑んでいた。
 僕たちは雑談を交わしながら歩道を練り歩く。やがて一時間に数本しか来ないバス停を目印に、小路へと逸れた。
 この場所は本来、バスで来る場所なのだ。少なくとも、僕と文月はそうしていた。
「ここ?」
「そうだよ。ここからちょっと山登るけど、平気?」
「もち!」
 案内板には『展望公園』と表示されている。大体一〇分ほどで着く距離だ。
 僕と水瀬は整備された山道を登っていく。光源はほとんどなく、隣を歩く水瀬の表情も見え辛い。吹く風が、空を黒く塗りつぶしたような木々を揺らした。
「なかなか雰囲気あるね。ちょっと怖いかも……」
「水瀬、肩に乗せてるの何?」
「やぁーめーてーっ」
 僕の声を遮るように水瀬は叫ぶ。意外と怖いものが苦手らしい。話題を変えるように、水瀬は口を開く。
「今日の誕生日会、楽しかったね! オードブルもケーキも美味しかったし、プレゼントも嬉しかったし、毎日でもやりたい」
「あんな贅沢ばっかりしてたら、水瀬はすぐ太りそう」
「何だと!? いいじゃん、ケーキの三個や四個くらい!」
「え、四個も食べてたの? やば……」
「女の子は甘いものならいくらでも入るの!」
 水瀬だけだろ、とは思ったけど、自称さんも甘いものには目がないから何とも言えない。
「でも、毎日みんなと居たいなーとは本気で思うよ」
「まあそれは、そうだね」
 暗闇に目が慣れてきたのか、水瀬が「素直になったねぇ」とニヤニヤするのが見えた。少し腹立つけど、それは僕も本気で思うことだ。
「みんなで叶えられそうな四季折々もいっぱいあるんだ。だから、()()()()()()()()()()()なーって思って」
 その機械のように冷たい言葉が、僕の心に深く刺さる。いいや、違うだろ。
 水瀬の歩んできた四季は、そうじゃないはずだ。それは四季折々を根底から覆す言葉だ。
「……何か、あった?」
「え~何もな――あっ」
 突然バランスを崩した水瀬の腕を掴む。しかし水瀬はそのまま座り込んでしまった。立ち上がろうともがいていたけど、脚に力が入っていないみたいだった。
「水瀬……」
「あれぇ~? おかしいな~」
 水瀬は誤魔化すように僕に微笑む。暗闇で輪郭がぼやけ、その笑みは嫌に歪んで見えた。
 病院に引き返すのは簡単だ。でも今はただ、水瀬の四季を大切にしたかった。
「乗って。僕が上まで連れて行く」
 僕は水瀬の前で背中を向ける。困惑した水瀬の息遣いが聞こえた。
「だ、大丈夫だよ、湊。すぐ歩けるようになる――」
「――いいから。……行こう、水瀬」
「……うん。ありがとう」
 背中に水瀬の体重が掛かる。負担を感じないほど軽くて冷たい体だ。じんわりと僕の体の表面が冷たくなっていく。その感覚を噛みしめながら、僕は水瀬をおぶって山道を登り始めた。
「湊は、何か、あったの?」
「どうして?」
「だって、今から行く公園って、莉奈ちゃんが……」
「ああ、そうだよ」
 知っていて当然だ。この道と展望公園は、連日ニュースで取り沙汰されていたから。
 どうしてだろう。前の僕ならあり得なかった。この場所に近付くことも、ましてや文月と同じ境遇の水瀬と一緒に、なんて。
「どうして、ここに連れてきてくれたの?」
 勾配がきつくなってきた。僕は水瀬の体を背負い直し、脚に力を込めた。
 ここに水瀬を連れて来た理由。浮かび上がった本心を、僕はなぞる。
「いつまでも、立ち止まってちゃだめだって思ったんだ」
「……そっか。そう思ってくれて、良かった」
 病室で書いた『あの日々と、自分を信じて、前に進む』という僕の最初の四季折々。それが今は、少し違っていた。
 僕は、ひとつひとつ丁寧に階段を上る。僕の背中にいる水瀬の表情はわからない。わかるのは、背中越しに伝わる鼓動と心の機微を映した声音だけだ。
 それだけで、十分だった。僕は水瀬に本心をぶつける。
「僕はみんなと一緒に、前に進みたい」
「うん、私も一緒だよ」
「だから今、水瀬が前に進めてない理由を知りたい」
 スニーカーで土を抉る感触。僕はそこで立ち止まり、水瀬の言葉を待った。
 水瀬は僕の首元に回した両手を、きゅっと握った。
「それは、四季折々?」
 何も否定しない水瀬に僕は確信する。四季折々に効率を求めたのも、病室で見せた不自然な笑顔も、すべてSOSなのだと。
 僕が頷いたら水瀬は本音を吐き出すだろう。四季折々はそういう後悔をなくすために作られたんだから。でもこれは、四季折々に書くまでもない願いだ。
「いいや。水瀬の友だちとして、知りたいんだ」
 水瀬が背後で息を呑む音が聞こえる。今の僕の言葉に四季折々みたいな強制力はない。だから、仮面を被り続けようと思えばできるはずだ。
「……困ったなぁ」
 水瀬は静かに笑う。僕の背中に掴まる力が徐々に強くなっていく。そして僕の耳元で、何でもないようにつぶやいた。
「私、死ぬのが怖いみたい」
「――っ」
 その響きに、僕の心は錆び付いた歯車みたいに音を立てて擦れる。
 それは目を背けることは出来ない事実で。それでも水瀬がずっと明言しなかった現実だ。
 覚悟していたつもりだった。でも、まだ足りなかったんだ。本当の意味で僕は、水瀬が抱える死の恐怖に向き合えていなかった。
 返す言葉が一つも出て来ない。再び歩き出して最良の言葉を探す。それが悔しくて、情けなくて、僕は唇を噛んだ。
 水瀬は明るい声で続けた。
「だから楽しいことをして、ずっとみんなと居たいの」
 どれだけの恐怖だろう。僕には想像もつかない。共感も慰めも意味を成さない。この剥き出しの恐怖を取り除くことなんて、きっと二年前の僕でも、無理だ。
「何か、言ってよ」
 僕は押し黙る。こんなに近くにいるのに、今の水瀬は遠く、独りに感じた。こんな時に限って言葉は不便だ。適切な言葉なんてわからない。何を言っても、水瀬に届く前に空中で解けてしまうだろう。
「――なんてね」
 黙り込む僕に、水瀬は話を断ち切るようにつぶやく。
 途端に視界が明瞭になる。僕たちを覆っていた木々の群れが終わりを告げ、一本の大樹が目に飛び込んできた。二年ぶりの展望公園だ。
「ここまでありがとね、湊!」
「あ……」
 水瀬は勢い良く僕の背中から降りると、展望公園の中心まで歩いて行く。すぐ目の前には落下防止用の柵がある。
「湊―! 夜景、綺麗だよー!」
 吐露した死の恐怖なんて初めからなかったみたいに、水瀬は僕を手招く。
 眼下にある中心街は煌々と輝き、それを囲うように住宅街の灯りが並んでいる。その灯りは銀河に浮かぶ星々みたいだ。でも今の僕には濁って見えて、直視できない。僕の視線は自然と目の前の崖の下――文月の命を奪った暗闇に向けられた。
「夜の町、すっごい綺麗だね!」
 水瀬ははしゃぐ。肯定も否定もせず、僕は目を閉じる。
 ここに来た理由を思い出す。文月と過ごしたあの幸福だった日々を、僕が立ち止まる言い訳にしないためだ。
 ――でも、またお前は立ち止まろうとしてる。そうすれば傷付かずに済むもんな。
 崖の下の暗闇から、もうひとりの僕の声が聞こえた気がした。
「夜の町を見たい。達成だね」
 四季折々を取り出して線を引こうとする水瀬の手を掴む。そうして初めて気付いた。僕の手が、どうしようもなく震えていることに。
「……湊、どうしたの?」
 呼吸まで震えて声も出せない。理由はわかっている。二年前の後悔の渦が、僕の頭の中を巡っているからだ。
 ――どうせお前は誰も救えないよ。文月莉奈も。水瀬詠も。自分自身も。
 また僕の声が聞こえる。ああ、そうかもしれないな。
「――湊の手は、いつもあったかいね。ほっとする」
 その声に、何もかも冷え切っていた僕のすべてが解けていった。
「僕じゃなくて、水瀬が冷たすぎるんだよ」
「ふふ、知ってる。じゃあ、あっためて」
 水瀬はそう言って手を握り返してくる。熱が逆流して僕に流れ込む。震えが、止まった。
 確かに救えないかもしれない。でも、もう二度とあんな辛い別れを繰り返さないために、あがくことはできるはずだ。
 僕は水瀬の両手を包み込む。約束したんだ。病室で水瀬が力強く結んでくれた約束。あの約束は、互いを独りにしないために交わしたものなんだって、僕は信じてる。
 僕は、上目遣いで覗き込んでくる水瀬を正面から見つめて言った。
「僕は、最後まで水瀬と一緒にいるよ。約束」
 声が少し裏返ったけど、目は逸らさない。いずれ訪れる未来に怖くて泣きそうになるけど、あの日の病室の水瀬と同じように、僕は微笑んだ。
 水瀬は目を大きく開いて見つめて来る。僕の姿と夜景が映り込んだ瞳が輝いた。
「震えてるよ、湊」
「そこは、大目に見てくれると助かる」
「あははっ、情けね~」
 どんなに不格好でも、前に進むための一歩に変わりはない。僕らしいな、と自分でも思う。
 すると水瀬は前触れもなく僕を抱きしめてきた。甘い香りと柔らかな感触と冷たさ。そのアンバランスが僕を包む。それは徐々に、力強く。
「……ありがと。湊が一緒なら、もう怖くない」
 少し涙混じりの声で水瀬は言う。そこに不安も恐怖も内包されていることは、誰から見ても明らかで。だから僕は、この約束を形として残そうと決めた。
「水瀬、渡したいものがあるんだ」
「なに?」と水瀬は僕を抱きしめていた腕を解く。少し熱っぽい感触が僕の肌に残った。
 僕は鞄の中から手提げ袋を取り出し、水瀬に手渡す。
「誕生日、おめでとう」
「え、プレゼント……? でも、時間掛かるって」
 水瀬は困惑しながらも嬉しそうに、僕と紙袋を交互に見る。
「ごめん、嘘なんだ。水瀬の腕が治ってからの方が良いのかなって考えたら、渡せなくて」
「そっか……気を遣ってくれてありがとね。あっ、ちょっと待って!」
 慌てた様子で四季折々をパラパラとめくる水瀬。すると一枚の色画用紙を僕に渡してきた。
「はい、引き換え!」
 昼間に笑われたことを思い出した僕は、慌ててそれをポケットに突っ込んだ。
「ね、開けていい?」
「ああ、もちろん」
 促すと、水瀬は子どもみたいに顔を輝かせて綺麗に包装を剥がす。開封している間、水瀬はしきりに「包装おしゃれだぁ」「わ、箱出てきた!」などと盛り上がっていた。
 慎重に箱を開いた水瀬が息を呑むのが、僕にも伝わる。
「万年筆だ……! しかも、先生と同じモデル……!」
 水瀬は万年筆を手に取り、色々な角度から眺めている。やがて宙に文字を書く仕草を僕に見せたあと、恥ずかしそうに笑った。そんな水瀬に僕もつられて笑う。
 僕はこの約束を形に残すための言葉を唇に乗せる。
「水瀬がこれから歩く四季を、その万年筆で書いて、僕に見せて」
 一瞬一瞬を、大切に刻んでほしいと、僕は心から思った。
「うん……! ありがとう、湊。約束するね!」
 水瀬は眩しいくらいに笑う。目尻に残る涙の粒が、澄み切った町の灯りで光っていた。すでにその表情に仮面はなくて。四季折々に未来への祈りを綴る姿が、僕の瞳に焼き付いていた。

 *

 それから五日後、水瀬は退院した。夏が加速していく中、水瀬は願いの一つ一つを全力で、楽しそうに叶えていた。
「重大な四季折々を発表いたします」
 かしこまった口調で水瀬は宣言した。重大と言われると怖いな、と思って内容を訊くと「それは先生の家に行ってからね」と最悪な場所を指定された。自称さんの家にはあれ以来行っていないから、気が重い。
 退院したその足で、僕たちは自称さんの家に向かう。僕の心とは裏腹に晴れ渡った昼下がりの青空。陽射しは変わらず強いが、気持ちの良い風が吹いていた。
「はあ……水瀬、本当に行くの?」
「もー! もにょもにょ言ってないで、早く行こ!」
「わかったよ」そう仕方なく返事をして、僕は水瀬が乗る車椅子を押した。

 水瀬は自称さんの家に着くと、玄関で車椅子を降りた。完全に歩けなくなってしまったわけじゃない。ただ、もう普通には歩けない。
 死季病の進行で硬直が増した脚でよたよたと歩いて、水瀬はリビングの扉を開けた。
 自称さんは相変わらず机に向かって、原稿に万年筆を走らせていた。僕がいた頃より色々なところに服やゴミが散らばっていて、若干空気が淀んでいる。
「せんせーぇ! お久しぶりでーす!」
「ああ、詠か。思ったより元気そうで何よりだ。まあ、座るといい」
 当然のように会話している二人に僕は困惑する。水瀬はつい最近、辛辣な批評を受けたばかりなのに。
 すると自称さんは、切れ長な目で視線を送ってきた。僕は内心ビクッとする。
「湊も久しぶりだな。それで、今日のスイーツは何だ?」
 あまりにいつもと変わらない調子の自称さんに、思わず僕は笑ってしまう。
「えっと、ウィークエンドシトロン? まあレモンケーキ、ですね。水瀬のリクエストで」
「私が選びました! 美味しいんですよ、ここのやつ」
「……そうか、美味そうだ。なら紅茶だな」
 ケーキ箱をリビングテーブルに置いて、僕は三人分のアイスティーを作る。それからソファでくつろいでいると、水瀬がレモンケーキをアイスティーで流し込んで口を開いた。
「あ、湊。四季折々なんだけどね!」
「バッ……!」
 僕は声のボリュームが狂った水瀬の口を押さえる。死季病と四季折々については僕が自称さんに話してしまっているが、水瀬は隠したいはずだ。何やってるんだ、こいつ。
「死季病の件はすでに詠から聞かせてもらっている」
 僕は驚いて、押さえていた水瀬の口を離す。話す基準が謎だった。僕や自称さんに話して、七草や佐伯に話さない基準が。
「そういうこと! じゃあ発表するね」
 水瀬は勢いよく立ち上がるが、体がふらついてテーブルに接触する。コップの中の氷がカラン、と小気味良い音を奏でた。僕はとっさに体を支える。
「大丈夫か? あんまり急に立ったら危ないぞ」
「あ、ありがと、湊」
 僕は今まで通りとはいかない水瀬をソファに座らせて、四季折々の発表を促す。
「四季折々――颯斗となずをくっつけたい! はい拍手っ!」
 水瀬ひとりだけの拍手が、リビングに響く。僕と自称さんはそのテンションに付いて行けずにただ見ていた。ノリの悪い連中である。
 そこでふと疑問に思ったことを僕は口に出した。
「あれ、あの二人って、まだ付き合ってなかったのか?」
「そうなんだよねぇ。好き同士なんだけどね」
 二人の距離感を思い出していると、水瀬がじっと僕を見てきた。
「湊ってさ。莉奈ちゃんと、どこまでいったの?」
「は!?」
「ふっ、ストレートだな」
 動揺していると、水瀬は体をくねらせて愉しそうにあらぬ推測を立て始めた。
「話してた感じだとー、手は繋いでるよね~? あ、ちゅーもしてるかぁ。その先は怪しいけど~! きゃー」
「勢いで手は繋いでいる。が、ちゅーはしてないな」
「っ……!」
 いや、どうして言っていないのに正確にわかるんだ、怖すぎるだろ。
水瀬は一人で「ほほーっ!」と興奮して、隣で冷や汗を掻く僕に詰め寄って来る。
「ねードキドキした? したんでしょ? ん? ほれほれ、言うてみぃ?」
「あーうるさいっ! それより二人の話だろ! はい、四季折々―!」
 話を元のレールに戻すと、水瀬は「つまらぬー」と唇を尖らせた。自称さんも若干つまらなそうにしている。この二人が組むと最悪かもしれない。
 水瀬は自称さんに、七草と佐伯の基本情報と関係性などを話した。
「――って感じでお互い好きなのはバレバレで、クラスも公認のカップルなんですけど」
「なるほどな」
 自称さんは空になったケーキ皿を見つめながらうなずき、言葉を続ける。
「なぜ結ばれないのか。私からすれば明白だな」
「ほ、ほんとですか!? それってどうしてですか?」
「それを含めて考えるのが四季折々だろう? 甘えるな」
 ズバッと切り捨てられ、水瀬は「せんせぇ……」と枯れた花みたいにしおれる。これはダメージが大きそうだ。自称さんは深く椅子にもたれ掛かり、僕と水瀬を交互に見て言った。
「考えて、行動して、悩んで、本質を見つめ続ければ答えは浮かび上がってくる。詠、お前が今までずっとやってきたことだ。忘れたか?」
 水瀬は首を横に振ると「湊、作戦会議だ!」と言ってリビングと繋がる書斎へと移動する。僕も「わかった、やろう」と答えて立ち上がった。
 自称さんは氷が解け切ったアイスティーを飲み干すと、また執筆に戻った。
「甘えるなって言っておいて、自称さんって水瀬には甘いですよね」
「レールを敷いたつもりはないさ。ご褒美ってところだな」
 万年筆を動かしながら話す自称さんに、僕は「ご褒美?」と尋ねる。
「少し見ないうちに二人とも成長している。特に湊。前よりいい顔をするようになった」
「え……」
「暗闇はもう、抜け出したか?」
 不意に褒められて僕は顔が熱くなる。溺れてしまいそうなほどの暗闇。そこから光へと連れ出してくれた女の子を横目で見る。
「水瀬が、みんなが連れ出してくれたんです。だから次は僕の番かな、って」
 自称さんは鼻を鳴らして笑う。やっぱり少し調子に乗りすぎたかもしれない。
「まったく……調子に乗るな、このヘタレ童貞が」
「なっ、そ、それは関係ないでしょ!」
 僕は狼狽えながら自称さんに抗議する。こんな話、水瀬に聞こえたらどうしてくれるんだ。書斎の方を見るとすぐ近くに水瀬が立っていて、僕は驚いてしまう。
 水瀬は体の前で指を組み、少しだけ視線を彷徨わせていた。僕は何か言われる前に水瀬を書斎の方へ誘導した。
「ごめん水瀬。会議しような」
 すると不意に自称さんが思い出したように水瀬に言う。
「詠、入院中に送ってくれた原稿だが、ずいぶん良くなっていたよ」
「ほ、ほんとですか!? やった!」
 大きくなった水瀬の瞳が窓から差し込む陽光に照らされる。きっと、あれから水瀬はずっと悩んで、小説の推敲を続けていたのだろう。
「詠の想いや正しさが、世界観やキャラクターに溶け込んで、共感できるストーリーになっている。……いいんじゃないか?」
 沈黙が降りる。目の前の水瀬を見ると、ぽかんと口を開けてフリーズしていた。人を褒めない自称さんがこんなことを言ったら、そりゃそんな反応になるよな、と僕は苦笑する。
 すると水瀬の体が小刻みに震え始めた。まさか、泣いてるのか? 
「せんせーぇ!」
「うおっ」
 僕を押しのけて水瀬は自称さんのもとまで駆けていく。でもその足元は赤子のようにたどたどしい。転びそうになる水瀬を、とっさに自称さんが抱き支えた。
「まったく、危ない奴だな。気を付けろ」
「ふふー。先生、初めて褒めてくれましたね~! 好きっ!」
「こら、離れろ」
 水瀬は自称さんに抱き付きながら、頬をつねられていた。「いひゃいいひゃい」と言いながらも変な顔で笑っている。僕もその光景に頬が緩んでしまう。
「おい湊。このバカを引き剥がすのを手伝え」
「……」
 僕はその状況を眺めながら無視する。決して自称さんのさっきの言葉を根に持っているわけではない。
 自称さんは半ば諦めた様子でため息をつく。やがて水瀬の頬を色んな方向に伸ばして遊び始めると、ポツリとつぶやいた。
「……桔梗みたいなやつだな、お前は」
「桔梗……お花の方ですか?」
 自称さんは何も答えず、水瀬の頬を離して僕を見た。いつもの飄々とした表情だ。
「この四季折々についてもう一つだけ言っておこうか」
 僕と水瀬はその言葉に顔を見合わせる。何か問題点でもあるんだろうか?
「今回の願いは詠では叶えられない。絶対に、な」
「それって、どう……」
 ――それを含めて考えるのが、四季折々だろう?
 さっきの自称さんの言葉を思い出し、僕は考える。七草と佐伯をくっつけるには、余計なことはするなということか? でもそれなら「詠では」と言う必要はないはずだ。
 思考を巡らせていると、自称さんが外の様子を眺めて立ち上がった。
「……雨が降るな。少し出てくる。遅くなるだろうから自由にしていてくれ」
 そう言い残して、自称さんは出掛けて行った。リビングに取り残された僕と水瀬の間に、重たい空気が張り詰める。
「とりあえず、どうやって四季折々を叶えるか、会議するか」
「うん、そうだね」
 書斎へと移動する。十畳ほどの部屋は壁一面が本棚で、様々なジャンルの小説が並べられている。窓から差し込む暖かな陽射しが、毛足の長いラグを際立たせていた。
 デスクとパソコンもあるが、自称さんは滅多に使わないので、ただのインテリアとしての役割しか果たしていない。
 僕たちは自称さんの確言に引っ掛かりを抱えたまま、会議を始めた。内容は、主に二人の背中を押すための場所とシチュエーションと演出をどうするか。有り体に言ってしまえば、どちらかが告白すればいいのだから、結論はすぐに出た。
 水瀬はA4用紙に万年筆でメモをしながら言った。
「――じゃあ、一週間後の夏祭りで二人きりになれるタイミングを作って。その前に私と湊でなずと颯斗をせっつく、ってことでいい?」
「ああ、それで行こう」
「ふい~、疲れたぁ」
 会議が一段落すると、水瀬は仰向けに寝転んで気の抜けた声を出した。右腕で目元を隠し、そのまま黙り込んでしまう。静かな呼吸音。微かな衣擦れの音と共に胸元が上下している。僕はその光景から思わず目を逸らした。
 すると水瀬に「ねぇ、湊」と呼びかけられ、僕の心臓は跳ねる。
「……大丈夫かな。先生、絶対に私じゃ叶えられないって言ってたよね」
「水瀬――」
 何か言葉を掛けようと呼んだ瞬間、急に部屋が暗くなった。窓の外にさっきまでの陽射しはなく、重く垂れこめた灰白色の雲から雨が降り注いでいた。
「本当に降ってきた」
 僕は窓辺に近寄り外の様子を眺める。屋根に、庭の土に、葉に、花に打ちつける雨の音。それを聴いているうちに、余計な思考も雑音も、すべて消えていった。
「すぐ止んじゃうかなぁ、雨」
「好きなの?」
「……うん。好きだよ」
 僕と並んで外を眺めている水瀬はやっぱり元気がなくて。だから僕は、この雨に似合わない明るい声で言った。
「四季折々は叶うよ。水瀬に叶えられないなら、僕が一緒に叶えればいい」
「そっか……ありがとう、湊」
「だから、大丈夫だよ。大丈夫」
 隣の水瀬が微笑む声がして、僕も微笑む。良かった、純粋にそう思ったんだ。
「雨なんて、久しぶりだな」
「うん」
「……止みそうに、ないな」
「ん……」
 その掠れた吐息を耳に残して窓を流れる雨粒を目で追っていると、僕の手に、水瀬の指が触れた。それは小指、薬指と絡み合い、やがて僕の手をすべて包み込んだ。
 水瀬を見ると、水瀬もまた僕のことをじっと見ていた。そのまま、見つめ合う。なぜだろう、目を逸らしたくなかった。
 水瀬の瞳は雨を含んだ雲のように潤んでいて、しきりに何度も瞬きをしている。
 きゅっと結んだ口元は、緊張しているのか微笑んでいるのか曖昧で。
 その表情に、僕の心に温かい熱がじわりと滲む。息が止まってしまいそうだ。
 水瀬は一瞬だけ目を伏せて、また僕を見つめる。艶のある綺麗な髪が、はらりと揺れた。

 雨音はいつまでも優しく鳴り響き、僕たちを包み込んでいた。


 4

 善は急げということもあり、僕たちはその翌日には佐伯を誘ってカフェに来ていた。もちろん、七草への気持ちを確かめるためだ。
 ブルックリンスタイルの店内は、いつもは賑わっているらしいが平日だからか人は少なく、奥まった席がちょうど空いていた。ラッキーだ。
「……詠ちゃん、脚、大丈夫なの?」
「大丈夫! まーけっこう派手な転び方しちゃったから、骨とか靭帯が……」
「ひぃ~痛いっ」
 顔を歪めながら佐伯は自分の脚をさする。僕は車椅子を席まで押して、椅子の横に着けた。
「手伝うか、詠?」
「んーん、大丈夫。ありがと湊」
 自力で椅子に座る詠を見届けたあと僕も隣に座る。それぞれ飲み物を注文した僕たちは本題の前に雑談を交わす。
「なず、忙しいのにありがとね。コンクールの絵は順調?」
「う~ん。あと一週間も頑張れば完成するかなぁ」
「へぇ、楽しみだな」
「ふふー、今度はどんな賞取るのかな~」
「そう言われると緊張しちゃうけど、良い作品が描けるように頑張るね!」
 自信たっぷりな表情で拳を握る佐伯に、僕と詠はエールを送る。すると佐伯は、今度は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「……詠ちゃんの絵、もう少しだけ待っててね」
「詠の絵?」
 気になって尋ねると、詠が嬉しそうに話してくれた。
「七月入ってすぐくらいから、なずに頼んで描いてもらってるんだ~!」
「もう一か月以上経つのに、ごめんね」
 肩を落として謝る佐伯に、詠は何度も首を横に振って笑いかけた。
「全然! またモデル必要だったら言って。私、なずと二人きりのあの感じ、好きなんだ~」
「……うん。ありがとう、詠ちゃん。頑張って描くね」
 淡く微笑んだ佐伯に、僕は尋ねる。佐伯が描いた詠がどんな風なのか、気になったのだ。
「なぁ佐伯。コンクールと詠の絵って、写真はないのか?」
「あるよ。ちょっと待ってね」
 佐伯はスマホを操作して二つの写真を見せてくれる。イーゼルに設置されたキャンバス。椅子に座っている女性は、きっと詠だろう。そう思うのには理由があった。
「詠の顔だけ、描けてないんだな」
「……油絵で人の顔描くの、けっこう難しくて」
 目線を逸らして佐伯は笑う。確かに佐伯は水彩で原風景を描く作品が多い。油絵で人物画を描く印象はなかった。詠の顔だけが抜け落ちた絵はそれでもリアルで、荘厳さと不気味さが両立していた。
 次いで画面をスライドさせてコンクールの絵を表示すると、それも油絵だった。
 ススキが生い茂る中に一人の少女が座り込んでいる。その少女が目の前にある川に反射した月を見つめている、という綺麗な構図だ。
 こっちの方が、風景も相まって佐伯らしさが出ているけど、僕はある違和感を覚えた。
「この絵、何か……」
「はーい、後は一週間後のお楽しみ~!」
「えー、もう少しだけ~」
 佐伯はスマホを取り上げてしまった。僕はその違和感の正体を考える。なぜか風景は淡く、少女だけは色濃く鮮明に描かれていた。単純にそういう描き方なのかもしれない。でも素人の僕には、それがちぐはぐに見えてしまった。まるで夢のようだ。
 まあ、僕がとやかく言えることではないな、とひとり納得する。
 すると詠はいま思い出したかのように「あ! 一週間後と言えばさぁ」と人差し指を立てる。何だかわざとらしくて、僕は思わず苦笑してしまう。
「夏祭り、みんなで行こうね。今年は湊もいるからもっと楽しくなりそう」
「そうだね! わー楽しみだなぁ。それまでに頑張って絵を完成させないと!」
 僕はやる気をみなぎらせる佐伯を見ながら、迷っていた。どう七草の話題と結びつけるべきか。それは詠も同じ――ではなかった。
「なずはさー。颯斗とは二人で行かないの?」
「えぇっ!? 何で颯斗くん!?」
 僕は頭を抱える。いくら何でもドストレートすぎる。佐伯は顔を真っ赤にしながらおろおろしていた。こっちはこっちで、わかりやす過ぎる。
 佐伯は何度も髪をくるくると触りながら、やがて口を開いた。
「じ、実は……夏祭りの前日に、その、告白しようかと思って」
「「えぇっ!?」」
 同時に叫んだ僕と詠に、飲み物を持ってきた店員さんが驚いてのけぞる。ごめんなさいと頭を下げて、僕たちは飲み物を受け取った。
「それでね、オッケーもらえたら、初日は颯斗くんと二人で行って、最終日はみんなで行きたいなって思ってて」
「わ~そっかぁ……! うん、絶対いけるよ!」
「七草と佐伯以外の組み合わせなんてありえないと思うけどな。詠もそうだろ?」
「そうそう! ついに二人が結ばれると思うと……うっ、涙が」
 芝居じみた動きで涙を拭う仕草を見せた詠に、僕と佐伯は笑う。
 僕たちが何かする前に事態は前進していたのだ。なら後はもう、なるようになるだろう。
 アイスコーヒーを飲んで一息つくと、詠がにやにやしながら佐伯に尋ねた。
「その日、デートするんでしょ? 颯斗いつもバイトとかバンドで時間なさそうだけど」
「一緒に出掛けようって誘ったら、一日空けといてくれるって」
「そっかぁ……良かったね、なず。私も嬉しくなっちゃった」
「ふふ、ありがとね、詠ちゃん」
 佐伯と詠は幸せそうに笑い合う。その光景を見て和やかな気持ちになっていると、不意に佐伯が僕を見て言った。
「私も前に進まないとね、湊くん」
「うん、応援してるよ。佐伯」
 あの公園での出来事を思い出しながら、僕は佐伯に笑いかけた。

 夏祭りの前日。今日は詠が夏祭りで着る浴衣に似合う小物探しだ。色々と見繕って良い物が買えた僕たちは、中央公園で休憩することにした。噴水の近くは真夏でも涼しくて、その前のベンチに二人で腰を下ろす。水が流れる音が心地良い。
 僕はスマホとにらめっこをする詠に尋ねた。
「まだ連絡来ないの?」
「うん。もう六時だし、とっくに連絡あっても良い時間なんだけど……。あー気になる! なず、緊張して言えなかった~とか、ないよね?」
「むしろ告白は大成功で、詠に電話かける暇がない、とかな」
「おぉーきっとそうだ! よし、ヒューヒュー電話かけちゃおー」
「いや、そこはそっとしといてやれよ」
 僕の忠告をまったく聞かずに詠は電話をかける。しかし何度コールしても、佐伯は一向に出ない。
「ほほー、これは湊の言った通りかもねー」
 切ろうとした途端に電話が繋がったらしく、詠は「あ、なずー?」と明るく話しかけた。僕は、陽が傾きかけてオレンジ色に染まる公園を眺める。少し遠くに、七草がライブをやったステージ広場が見えた。
 あれからまだ一か月くらいしか経ってないのに、とても遠くまで来たように感じる。それだけ毎日が濃密だったんだよな、と僕はこれまでに感じた熱を思い出す。
 視界の端で、地面に何かが落ちる音が聞こえた。音の方を見ると詠が転んでいて、立ち上がろうと脚を動かしていた。
「詠! 大丈夫か?」
 ベンチから慌てて立ち上がり支え起こす。すると、詠は血相を変えて僕の肩を掴んだ。
「湊! なずが!」
 今にも泣き出しそうな表情と震える唇で、詠は言った。
「なずが、車に――病院に、運ばれたって……」
「っ……」
 僕の視界がぐらりと歪んだ。体から熱が引いていく、嫌な感覚。
 知っていたはずだ。幸せな日々は、突然手から零れ落ちることを。
 今もある不幸の残滓が脳裏を掠めながら、僕は車椅子に詠を乗せて、走り出した。

 *

「なず! 大丈夫!?」
 病室に駆け込むと、佐伯は感情のない顔で僕たちを見た。
 佐伯の頭と右腕には包帯が巻かれていて、誕生日会のときの詠を想起させた。僕が車椅子をベッド横に着けると、詠は身を乗り出して佐伯を抱きしめた。
「なず、無事でよかった……」
 しかし佐伯は、無言で詠の抱擁を拒んだ。その光景に僕の心がざわつく。
「……振られたんだ、私。それでショック受けて、車にはねられて、ほんとバカみたい」
 僕たちは息を呑む。どうして、という言葉さえ出て来ない。断られるなんて事実があり得なかった。
 詠はやがて車椅子に座り直すと「ちょっと颯斗のとこ行ってくる」とつぶやいた。静かだけど怒気がこもった声だった。
「やめて、詠ちゃん」
「だってあり得ない! 絶対に両想いだったんだよ! なのに」
「私に魅力がなかっただけだよ。だからもう……これ以上、私を惨めにさせないで」
 佐伯は昨日の自信のある姿とは違って小さく見えて。僕は七草に、怒りよりも疑念を抱く。
 詠はちらと佐伯の右手を見て、探るように尋ねた。
「……右手、そんなに、悪いの?」
「治るまで二週間だって。締め切りまで時間ないから、もう無理」
 淡々と事実だけを語っていく佐伯の言葉は冷え切っていた。詠は明るい口調で励ます。
「そんなこと言わないで、なず。コンクール良い作品できるように頑張るって言ってたでしょ? 私、できること何でもやるから」
「詠ちゃんはいいよね。最近、小説順調なんでしょ? プロの先生からも褒めてもらったって言ってたもんね」
「なず……?」
「湊くんともいつも楽しそうに話してて良い感じだもんね。詠ちゃん私と違って可愛いし、私みたいに性格悪くないし、私より器用で、何しても上手く行くし。羨ましいなぁ」
 早口でまくし立てる佐伯に僕たちは戸惑う。すると佐伯は僕の方を見て、暗く微笑んだ。
「今なら公園のときの湊くんの気持ち、わかる。何言われても、苦しくなるんだね」
「……佐伯、でも僕は、二人に救われたんだよ」
「私は湊くんみたいにまっすぐじゃない。励まされても、自分が嫌になっていくだけ」
 佐伯は大切なものすべてが奪われた気分だろう。その気持ちを完全に推し量ることはできない。でも共感はできる。僕は過去にすべてを、詠は未来のすべてを、奪われたんだから。
 うつむく佐伯に、詠は重々しく口を開く。
「私、なずの気持ち、わかるよ」
「詠ちゃんには、わからないよ。私より色々持ってて幸せな人に、何も言われたくない」
「っ、佐伯」
「――私っ、詠ちゃんになりたかった。もう、死にたい……!」
 その瞬間、病室に大きな破裂音が響いた。
 佐伯は叩かれた頬に手を当てながら詠を睨む。そして驚いたように目を見開いた。
「……何で、詠ちゃんが泣いてんの?」
 詠は口を震わせながら、佐伯のことを見つめる。佐伯が理解できないのも無理はない。だから僕にだけその涙の真意が理解できてしまうことに、歯痒さを覚えた。
 佐伯は顔を歪ませて「帰って」とつぶやいた。
「なず、私」
「いいから、もう帰って! 詠ちゃんなんて顔も見たくない!」
 頭から布団を被り、それっきり佐伯は出て来なかった。
「詠、今日は、もう帰ろう」
 返事はなかったが、僕は車椅子を押して病室を後にした。

 翌日の夏祭り当日。僕は朝から、七草に会うために町へ繰り出していた。昨日、あれからいくら電話をしてもメッセージを送っても、返事はなかった。佐伯を振った罪悪感からか。もっと別の理由かはわからない。
 一向に手掛かりが掴めないまま昼になった。僕は中央公園の噴水前のベンチに腰掛け、水を勢いよく飲む。
 朝から気温は上がり続け、今では雲一つない青空に太陽が鎮座している。手で庇を作って、灼けるように注ぐ光を仰ぐ。
 ――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
 昨日の帰り道、詠が泣きながらつぶやいた記憶がよみがえる。だから僕は別れ際、詠を少しでも安心させるために笑って言った。
「……僕が、何とかするよ、か」
 正直、どうすればいいか僕もわからない。でも、考えてばかりじゃ仕方ない。行動する意味は、後で詠と一緒に考えればいいんだから。
 僕は後悔しないため、詠の言葉を胸に立ち上がった。

 七草がいそうな場所に当たりをつけて探したが、どこも外れだった。日向町は小さい町だけど、全域を探すとなると骨が折れる。完全に手詰まりだ。
 気付けば時刻は一七時。僕は夏祭り会場の日向神社まで来ていた。ちらほらと浴衣姿の人たちが神社の境内に吸い込まれていく。微かにソースの焦げる良い匂いが漂ってきた。
「湊くん?」
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには息を切らした佐伯が立っていた。頭の包帯は取れていたが、右腕には包帯を巻いている。僕は状況が理解できずに走り寄った。
「佐伯、どうしてこんなところにいるんだよ!」
「だって、颯斗くんが心配で」
 佐伯は息を整えて話し始めた。
「私と別れたあと、氷野くんの家に泊まるって家族に電話してたみたいでね。それで颯斗くんのお母さんが氷野くんの家に連絡したら、来てない、って……」
 誰も七草の行方がわかってないのか。嫌な思考を拭い去るように僕は頭を振った。
「とりあえず、僕の思い当たる場所はぜんぶ回った。佐伯は?」
「私もダメ。颯斗くんのお母さんには帰ってきたら連絡くださいって言ったけど……」
 佐伯は力なく首を振った。あと僕が知っていて、七草のことをよく知る人物。状況的に、詠には頼れない。となると。僕は躊躇いながら提案した。
「……氷野に、訊いてみよう」
「え、湊くん。氷野くんと仲悪いんじゃ……あ、ごめんなさい」
「うん、その通りだよ。でも今はそんなこと言ってられない」
 僕の言葉に佐伯もうなずいて「じゃあ氷野くん探しに行こう」と歩き出した。僕はその後ろ姿を呼び止める。
「いや、ここで待つ。氷野はきっと友達と祭りに来るから」
「そう、なの?」
 神社の鳥居の下で、僕と佐伯は辺りを見渡す。私服に浴衣に甚平。聞こえる祭囃子が、この空間の非日常感を演出していた。
 雑踏の中からたった一人を探す。本当なら、四人でここにいる未来もあったんだろうか。
 中学一年生のときの夏祭り。僕は氷野とそのほか数人で夏祭りに来た。元々、僕は氷野と仲が良かったのだ。
 ――祭りの初日は毎年、仲良い奴と来るって決めてんだ。今年は篠宮も一緒だな。
 そんな懐かしい日のことを思い出す。それが変わっていなければ、必ず。
「氷野くん!」
 佐伯の声で、僕もその姿を捉える。甚平を着た氷野が、佐伯の姿を見つけて歩いてくる。しかし途中で僕もいるとわかったのだろう。苦虫を噛み潰したような顔をした。
「氷野くん。実は颯斗くんが」
「あー、母親から聞いた。帰ってねぇんだろ、あいつ」
 氷野は頭を掻き、言葉を続ける。
「まあ大丈夫だろ。あいつも一人になりたいときくらいあるって」
「大丈夫じゃないかもしれないんだ」
 僕は氷野と正面から向き合う。ずっと佐伯に視線を向けていた氷野が僕を睨んだ。
「七草に会って話したいんだ。氷野が思い当たる場所を教えてほしい」
「何で俺が、お前に教えなきゃならねぇんだよ」
 吐き捨てるように言われ、僕はそうだよな、と思う。でも、なりふり構ってはいられない。僕が頼れるのはもう氷野だけだ。
「大切な友達なんだ。だから知ってること何でもいい。……頼む」
 僕は頭を下げる。できることなんてそれくらいだ。氷野が息を呑む音が聞こえた。
「私もお願い。颯斗くんが心配なの」
 氷野は舌打ちをしたあと、顔を上げた僕に詰め寄ってきた。
「お前が、どうにかできるとでも思ってんのか?」
 充血した目で氷野は僕を睨む。その黒い瞳は不安に揺らいでいるようで。氷野には、僕が過去から目を逸らしているだけのように見えているだろう。確かに今まではそうだった。でも。
 僕は氷野の濁った瞳を見つめてうなずいた。
「……わからない。でも、もう何もできないまま後悔したくないんだ」
「ふざけんな……! そんなの文月のことから逃げてるだけじゃねぇか!」
 氷野は激情を僕にぶつける。でもそれは、僕だけが前に進んで、自分が独りになるのを恐れているようにも見えた。僕だけじゃない。氷野も後悔の檻の中に縛られていたんだ。
 わかるよ、氷野。文月の死は僕たちにとって、今までの生き方を変えてしまうほどのものだった。だから、このままじゃ、だめなんだ。
 こんなにも氷野の目を見て話したのなんていつぶりだろう。目を見て話せなかったのは、僕たちが似ているからだ。過去の自分を直視したくなかったからだ。
 だから僕は目を逸らさずに対峙する。
「僕も最初は、そう思ってたよ」
「ああ……だから俺たちは逃げるなんて赦されないんだよ」
 氷野は揺らいだ瞳を僕に向け、手を伸ばしてくる。まるで鎖のような手を。
 確信する。今の氷野は、かつての僕だ。後悔の檻に縛られ、立ち止まっている僕だ。なら僕にできることは一つしかない。
 僕は伸びてくる手を掴んだ。その手は冷え切っていて、震えている。
「もう充分逃げた。だから僕はみんなと前に進みたいって思ってる」
「じゃあ、文月はどうなるんだよ! 前になんて進んだら、あいつは……!」
 言葉が途切れる。氷野の潤んだ双眸から涙が零れてきた。それに抗うように、氷野は歯を食いしばって僕を見つめた。僕への恨みも何もない、ただ純粋に文月を想った顔だった。
「独りに、なっちまうだろ……?」
 氷野の裏返った声から、震えた手から、不安や恐怖が伝わってくる。僕はそれを消し去るように、強く手を握り返した。
「独りじゃない。僕たちの中に残ってる。だからこれからの自分を、文月に見せてあげたい」
 氷野は僕の手を振り払ってしゃがみ込んだ。力なくうつむいた氷野の表情は読めない。
「……七草、独りで悩んでると思うんだ。頼むよ、氷野」
 目の前でうずくまる氷野が、過去の僕を想起させた。祭り客は依然増え続けて、僕の肩に通行人の肩がぶつかった。
 やっぱり、ダメだ。一度できた距離を戻すのは、言葉を尽くすだけじゃ足りない。
「――もう、独りじゃないのか……?」
 喧騒に消えてしまいそうなほどの小さい声。でも僕はそれを聞き逃さなかった。
「ああ。そうだよ」
 僕は力強く答える。僕も、氷野も、文月も。独りになれるはずがないんだ。大切な人が心の中にいる限り。
 氷野はゆっくり立ち上がり、脚を引きずるように佐伯のもとまで行くと、耳打ちをした。
 佐伯ははっと目を見開いて、何度もうなずいた。
「……ありがとう。氷野」
 鳥居をくぐり氷野は祭り会場へと消えていく。それを見送ったあと、僕たちは走り出した。
「颯斗くん、絶対そこにいると思う。思い出の場所なんだ」
 氷野が教えてくれた場所は、詠と佐伯と七草が通っていた中学の屋上だった。走って息が切れた僕たちは、歩きながら呼吸を整える。
「ごめんね、私の問題に付き合わせちゃって」
「僕もこのままじゃ嫌だったから、気にすんな」
「……湊くんはすごいね。一歩ずつ前に進んでて」
 佐伯を横目に見る。それはいつもと変わらない笑顔で。でも少し悲しげで。
「私だけ中途半端。……詠ちゃんも、傷付けちゃったし」
「でも、本心じゃないんだろ?」
 僕の問いに、佐伯は目の前を見つめたまま答えた。
「本心だよ。ただの嫉妬。詠ちゃんって本当に良い子なの。透明で、綺麗で、羨ましい」
 そう思う気持ちは僕にもわかった。でも、詠の本質は。
「――近くにいると、自分の汚さがよくわかるんだ」
 佐伯は自分の右手に巻かれた包帯をじっと見つめながら微笑む。
「だから颯斗くんにも振られたんだよ」
「あいつらをそういう風に思ってるんなら、間違いだよ」
 僕の断言に佐伯はこっちを見て、仮面のような笑みを浮かべた。
「……そうかな。湊くんより私、二人と一緒にいるんだよ?」
「僕より一緒にいるのに、二人のこと全然わかってないんだな」
 僕の本心からの言葉に佐伯は歩みを止めて、鋭く睨んでくる。僕も睨み返す。脆い仮面が音を立てて割れ落ちた。
「そうやって決めつけて、自分の本心まで隠してきたんだろ」
「湊くんに何がわかんの!? 私が本心なんか出したら、嫌われるに決まってる!」
 その考えがそもそも間違えてるんだ。過去を思い出させるように、僕は言う。
「あの公園で、佐伯が本心でぶつかってきてくれたおかげで、僕は救われたんだ」
「……でも、やっぱり、嫌われるのは怖いよ」
 僕は文月に本心でぶつかってきた日々を思い出す。嫌がられたり、喧嘩した日もあった。でもそういうのをぜんぶ含めて大切な思い出なんだ。綺麗なだけじゃ、刻めない。
「怖いよな。でも、本心でぶつからなきゃ、何も見えないんだよ」
「それでみんなに嫌われちゃっても……?」
 あり得ない未来だ。僕はその仮定を、強く否定する。
「喧嘩したり呆れることはあっても、僕たちが佐伯を嫌いになることは絶対にないよ」
 佐伯の瞳からとめどなく涙が溢れてくる。その涙は透明で、綺麗だった。
「私、詠ちゃんに謝りたい。颯斗くんのことも、まだ諦めたくない……!」
 溢れ出る涙を何度も拭い、佐伯は心からの想いを僕にぶつけてくる。
「ずっとこの四人で、一緒にいたい」
「……そうだな」
 曇りが晴れたような表情で歩き出す佐伯のあとに、僕も続いた。
 中学校の正門前で立ち止まる。下から屋上を眺めても、そこに七草の気配はない。隣を見ると佐伯が不安に顔をこわばらせていた。それを見て僕は口を開く。
「佐伯は詠のところに行ってほしい。七草とは、僕が話すよ」
「私も行く。私が向き合わないといけないから」
 強がっているのは一目でわかった。詠と七草の問題。一緒に向き合えるほど佐伯は強くない。いや、きっと誰だって。だから、一つ一つ、丁寧に。
「まだ心の整理も着いてないだろ? ……僕じゃ、頼りないか?」
「ううん、そんなことない……けど」
 佐伯は屋上を見つめて、うつむく。やっぱりその体は少しだけ震えていて。だから僕は「なずな」と自信に満ちた声を作って呼びかけた。
「えっ――痛っ!」
 驚いた顔で見てくるなずなの額を指で弾いて、僕は笑った。
「大丈夫だって。――友達なめんな」
「湊くん……ありがとう」
「なずな、詠を頼んだ」
 なずなをその場に残して、僕は校舎の屋上へと急いだ。

 花火が、夜空に咲き誇った。それを眺めていた七草が僕を振り返る。わずかに照らされた表情が、薄く微笑むのがわかった。
「湊だけか。てっきり詠も来るかと思ってた。ま、ちょうどいいか」
「どうしてなずなを振ったんだ?」
 回りくどい話はしない。僕は七草の表情がよく見えるように近付いた。
「そうだな……なずなを好きでいるため、かな」
 矛盾している言葉に、僕は眉をひそめる。
「天才を語ることができるのは、諦めの味を知った凡才だけ。あの日、俺はなずなを語った。でも、本当は何も諦められてなんかいなかったんだよ」
「……文化ホールでした才能の話か。懐かしいな」
 七草は空を仰いだあと、過去をなぞり始めた。
「この中学でなずなに出会ったとき、まだなずなは才能の実が成ってなくてさ。毎日、命を削るみたいに絵を描いてて、顔も髪もぜんぶ絵の具だらけだったのに、綺麗だった」
 当時の光景を思い出すように、七草は続ける。
「尊敬した。特別なものがなかった俺も、なずなみたいに輝きたいって思った。だから約束したんだ。『お互いに好きなもので輝けるように頑張ろう』って」
 僕ははっと気付く。七草がバンドやバイトと日々忙しそうにしていたのは、その約束を叶えるためなんだと。
 楽しい日々を思い出したのか、七草は鉄柵に指を引っ掛けて遊ぶ。鉄の無機質な高音がリズムを奏でた。
「初めてギターを弾いた時さ。今までつまんねぇって思ってたモノクロの世界が、どんどんカラフルに変わったんだ。そこで初めて気付いたよ。ああ――俺はなずなが好きだって」
 七草はそう言ったあと「そんな時だ」と寂しそうに笑った。
「中二のとき、なずなが夢を叶えた。あいつ一人だけが約束の場所に辿り着いたんだ。だから俺も色んなところでライブして腕を磨いたよ。忙しかったけど、すっげぇ楽しかったなぁ」
 まるで自分の体を痛め付けるように、七草は鉄柵に背中を打ちつける。
「……喉とか指から血が出るくらい努力してもだめだった。歌が心に響いて来ない。惹き込まれるものがない。ライブの帰りに観客が話してんのを聞き飽きるくらい聞いた」
 七草の顔が花火に照らされ、昏く光る。その事実に、僕の胸まで痛んだ。一体どれほどの悔しさを、その胸に仕舞い込んで来たんだろう。
「それからすぐだ、カラフルだった世界がモノクロに後退していったのは。その中でなずなだけはずっと鮮やかで、俺のことを応援し続けてくれた」
「……なずならしいな」
「ああ。俺にとってなずなは一〇〇パーセントの女の子だよ。純粋に好きだって伝えられたらどんなにいいかって何度も思った。でもできなかった。湊なら、もうわかるよな」
 僕はうつむく。最近ずっとみんなのことを考えて、本質を見つめ続けた。その答えを僕は言葉に乗せる。
「なずなの才能に嫉妬しても、そんなの虚しいだけだろ」
「虚しいけどな、嫉妬の感情は簡単には消えないんだよ。……俺はなずなを避けて、ほかの女の子と遊ぶようになった。湊にとっちゃ軽薄で最低だろ? 蔑んでもいいぜ」
「何で、そんなこと。なずなが好きなら――」
「安心したかったんだ。なずなが俺にとっての特別だって。だからほかの女の子と手を繋いでも、キスしても、寝てるときも、ぜんぶモノクロに感じたよ。改めて思った。俺が本気で恋をしてるのは、なずなだけだ」
 僕は、まるでそれが最良の選択であるように語る七草を睨む。理解も納得もできない。
「あとは嫉妬の感情を消すだけだ。それには約束に辿り着くか、諦めるかの二つしかない。正直、もう諦めかけてた。でもあの公園のなずなの言葉が、俺まで叱ってくれた気がしてさ。中途半端はやめよう、絶対に約束を叶えようって思った」
「それなら、何の問題もないはずだろ?」
「ああ。俺もそう思ったから昨日、なずなに告白しようとしてたんだ」
 僕はその事実に驚き、声を出すことができなかった。すると七草は目の前まで来て、光のない瞳で僕を見下ろす。その口元に、薄い微笑みを浮かべて。
「――なずなは、お互いに約束を叶えられたと思ったから、俺に告白してきたんだ」
 僕は息を呑む。七草の生き方をカラフルに変えた約束。七草はそれを叶えるために輝けるものを見つけて、ずっと努力をしてきた。
 でも七草は約束を叶える前に取り上げられたのだ。同じ約束を交わした、無垢な女の子の無自覚によって。それはあまりにも、残酷だ。
「俺は諦めたよ。……もう何もかも、モノクロだ」
 花火が上がる。体に響く音圧。夜空に広がる閃光に、僕と七草の顔が照らされた。貼り付いたその笑みに、僕は言う。
「七草。お前、歪んでるよ」
「かもな……やっぱり俺、湊のこと嫌いだよ。才能を手に入れたやつなんて、みんな嫌いだ」
 鉛のようなものが重く体にのしかかる。七草は僕を残して歩き出した。すれ違いざまの目はすでに僕を、いや、もう何も見ていないのかもしれなかった。
 大切だと思っていた人に拒絶されるのは、こんなにも辛くて苦しいのか。僕はこんなことをみんなにしてしまったんだ。
 このまま別れたら、もう二度と一緒にいられない。そんな予感がした。
 ――ずっとこの四人で、一緒にいたい。
 ――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
 ――僕が、何とかするよ。
 まだ諦めるには早いよな。僕は背負っているんだ、二人の想いを。だから、前に進むなら、五人一緒だ。
 屋上のドアノブに手を掛けた七草に、僕は呼びかける。
「七草。お前、中途半端だよ。前の僕と一緒で」
「俺はずっと中途半端だよ。でも、それでいい。……やっとぜんぶ諦められたんだから」
「幸せだな、お前」
 七草はこちらに振り返り、眉間に皺を寄せる。そして苛立たしげに叫んだ。
「ふざけんなよ。どこを切り取ったら、俺が幸せそうに見えんだよ!」
「何もかもだ。中途半端でもいい? ふざけんなよ、七草。それはぜんぶを諦めたやつが使える言葉じゃないんだよ!」
 中途半端は希望の言葉だ。たとえ途中で投げ出しても、また進めば届くかもしれない。それはすごく幸せなことで。だから文月を亡くした僕は、この言葉が大嫌いだった。今までとこれからのすべてが無駄になる、諦めとは程遠い。
「お前はただ目を逸らしてるだけだ。まだぜんぶそこにあるだろ! だから僕にはお前が幸せに見えるんだ!」
「うるせぇ!」
 七草は顔を歪め、両手で僕を鉄柵に押し付けた。激しい痛みに、僕は思わず呻き声が出る。
「俺より色々持ってるお前にはわかんねぇだろッ!」
「わかんねぇよッ!」
 僕は七草の胸倉を掴みながら押し返す。自分でも抑えきれないほど力が入った。
「でもそれが大切な人を陥れていい理由にはなんねぇぞ! 誰かを好きになるって、そうじゃねぇんだよ! お前のは違う! お前のはもっと……歪んだ何かだ!」
「そんなの俺がいちばんわかってる! でも何もかも崩れちまった今から修復するなんて、俺には無理だ!」
 僕の手を振り払って叫ぶ七草に、やるせなさと怒りが湧き上がってくる。きっとこれは、自己嫌悪だ。僕は過去の自分を戒めるように言う。
「何でそれを誰にも言わなかったんだ! 何で独りで抱え込もうとしてるんだよ……!」
「……言っても解んのか? 詠は小説。なずなは絵。湊は人のこと救えちまう才能があるもんな。所詮、何も持ってないやつの気持ちなんか、解るわけねぇ」
「……解るよ、僕には」
 だって、七草と僕は似ている。大切なものを傷付けないように遠ざけてしまうところも。本当は一つも投げ出したくないって思っているところも。自分は何も持っていないのだと思っているところも。
 今なら自称さんの言葉の真意が理解できる。これは詠にも、なずなにも無理だ。僕にしかできない。七草を理解することも。過ちを正すことも。救うことも。僕にしか。
「あの公園で七草が掛けてくれた言葉、憶えてるか? 僕が前に進めるのは、お前のおかげでもあるんだよ。僕は、お前を置いて前に進むなんてできない」
「は……あんなの、綺麗事だ」
「僕もそう思ってたよ。でも今は違う。文月と同じくらい、詠が、なずなが、七草が、僕の支えになってる。独りだと絶対に気付けなかったものを、みんながくれたんだ」
 僕は独りでも怖くなかった、文月の記憶が傍にいたから。でも、みんなと触れ合ってわかった。僕は、ずっと――。
「独りってすごく怖いよ。寂しいんだよ。だからそんなところにいるな。戻って来い、七草」
「俺はなずなを、お前らを傷付けた。もう四人で一緒にはいられねぇんだよ」
 うつむいて孤独に逃げようとする七草の肩を掴み「逃げんな!」と僕は叫ぶ。
「お前がなずなに残した傷は消えない! どんだけ悔やんでも、ぜんぶ元通りになんてならないんだよ! ……だから、その傷を刻んで、進むしかないんだ」
「でも、才能もなずなの気持ちもぜんぶ投げ出した俺が、前になんて進めない」
「七草が必死に努力して得たものはちゃんとある。僕たちも知ってるよ。投げ出したんなら、また拾って進めばいいだけだろ? 今度は、みんなで一緒に」
 そのために、僕たちは一緒にいるんだから。僕は言い聞かせるように、言葉を続ける。
「――七草ならわかるだろ。独りで見る世界と、大切な人と一緒に見る世界は違うって。色も形も広がって、カラフルに魅せ方を変えるんだよ」
 はっとしたように、七草は顔を上げる。まるで花火のように、その瞳が煌めいた。
「七草の見る世界をカラフルに色付けてくれたその人は、本当にモノクロに見えたのか? 本当にその人を置いて先に進めるのか?」
「……無理だ。俺はもっと、なずなと――」
 溢れ出た涙に七草は言葉を飲み込まれた。考えなくとも、僕にはその先がわかった。
 僕は七草に言う。いま確かにある幸せを自覚させるために。
「もう自分が持ってるものから逃げんな。大切な人がいつまでも傍にいてくれるなんて、絶対にないんだから」
 もう隣にはいない心の中の女の子を思い出す。火傷のように、胸が痛んだ。
 生きてさえいれば、伸ばした手は、きっと届くんだから。
 七草は花火の花弁が滲みそうな濡れた瞳で、僕に訊いてくる。
「何でそこまで俺に向き合えるんだよ。意味わかんねぇよ。なんで……」
 澄み切った空を見つめて、僕をここまで突き動かす大切な人の記憶を思い出す。
 僕の見る世界の色を変えてくれた人を。
 僕の見ていた世界の色を取り戻して、さらに色付けてくれた人を。
 二人の笑顔を思い出し、僕は目の前で涙を流す七草に、手を伸ばした。
「七草を救いたかったんだ。ただ、それだけだよ」
 僕が心から望んでいたのなんて、本当にそれだけだ。
 七草はうつむいて涙を乱暴に拭うと、無理やり笑って僕の手を握った。大きくて、あの公園で感じたより少し頼りない手のひら。
 それでも確かな熱が、そこにはあった。

 二日後、僕は詠と中学校に来ていた。エレベーターで四階まで上がり、車椅子を押す。その場所に着くまでに僕は、一昨日の屋上での話を詠に話した。
「そっか……颯斗がそんなに悩んでること、私ぜんぜん気付けなかった」
「仕方ないよ。僕も、本当に颯斗を救えたのかどうかはわからないから」
 でも、颯斗があのとき僕の手を握ってくれたことが答えだという気もする。
 詠は車椅子を押す僕の顔を見て、微笑んだ。
「先生が言ってた本当の意味も、やっとわかったよ。……湊、本当にありがとう」
「……なずなとは、あれからどう?」
「あ~」
 言葉を詰まらせる詠に僕は焦る。今日まで訊かなかったけどまた喧嘩になったのだろうか。
 少し不安になっていると、詠はその日のことを思い出すように言った。
「なず、家まで謝りに来てくれてね。今まで思ってたことぜんぶ話してくれた」
「そっか」
「知ってた? なずって意外にひねくれてて、めっちゃ口悪いの! それ見て私、笑っちゃってさ。でも、芯の部分はいつものなずと変わらなくてね」
 楽しそうに話す詠の表情を見て、僕は自分のことみたいに嬉しくなる。
「何かね、今までよりもっとなずのこと、好きになっちゃった」
「そうだな。僕も同じだよ」
 僕たちがそう感じたように、きっとそれは颯斗も同じで。大切な人の知らない部分が見えるのは、怖いけど、嬉しいことなんだ。
 目的地に近付くと僕と詠は声を潜め、隠れるように教室の扉の丸窓から中の様子を窺う。部屋の中から、油絵の具の独特な匂いが漂ってくる。
 颯斗となずなが出会った美術室。そこで二人は一つの絵と向かい合っていた。なずなが完成を諦めていた、川に映る月を見つめる女の子の絵だ。
 なずなは汗を流しながら、紐で絵筆を括り付けた手を動かしていた。颯斗は油絵の具の調整やイーゼルの角度を変える手伝いをしながら、なずなと笑い合っていた。
 昨日、颯斗となずな両方から『本音で向き合って話してくる』と連絡があって心配で来たけど、その必要はなかったみたいだ。
「……大丈夫そう、だな」
「うん。今の颯斗となずなら、何があっても大丈夫だと思う」
 その様子を二人で眺めていると、不意に颯斗がこっちに向かって歩いてきた。
「うわっ、こっち来た」
「み、湊、どっか隠れて」
「無茶言うな」
 慌てているうちに扉が開き、見つかってしまう。颯斗は顔や手に絵の具を付けながら笑う。
「何やってんだお前ら。バレバレだよ」
「えっと、進捗どうかなって。な、詠」
「うん、そうそう」
 颯斗は美術室の中を振り返り「何とか、間に合いそうだよ」と安心したように言う。僕と詠は顔を見合わせて喜んだ。
 なずなは僕たちの方を覗き込むと、顔を輝かせた。
「あっ、詠ちゃん! 来てくれたの?」
「なず、来たよー! 絵どんな感じ?」
 颯斗はなずなと詠の後ろ姿を短く見つめたあと、僕に「自販機行こうぜ」と呼びかけた。
 一階にある自販機で飲み物を選んでいると、颯斗が突然口を開く。
「さっき、なずなと本音で話し合って気付いたよ。俺、本当は何も手放したくなかったんだ」
 僕はうなずいて先を促す。夏休み。誰もいないフロアに、颯斗の声が静かに響く。
「努力も好きだし、なずなのことはもっと大好きだ。俺、けっこう色々持ってるんだなって」
「そっか……幸せそうだな、颯斗」
 颯斗は僕の言葉に今度は満面の笑みを浮かべた。それは何よりもカラフルで、眩しかった。
 詠となずなの飲み物も買い、僕たちは階段を上る。途中で、颯斗は弾むような声で言った。
「やっぱり湊は特別だったんだな。詠とすぐに仲良くなるわけだ」
「……どういう意味だ?」
 颯斗は少し悩む素振りを見せたあと、遠慮気味に言った。
「俺、湊と初めて病室で会ったとき、何でって思ったんだよ。詠と湊って性格真反対で相性最悪だったからさ。詠から進んで仲良くなったのが不思議だったんだよなー」
「詠は優しいから、性格合わなくても誰とでも仲良くできるだろ」
「毎日でも一緒に遊ぶくらいか? まー、詠の一目惚れってのもあり得なくもないけどな」
 僕は言葉に詰まる。颯斗の疑念のナイフが喉元まで届く。
 すべての始まり。死季病を打ち明けられ、四季折々を共有した。その部分を隠しているのだから、颯斗の疑念はもっともだ。それはきっとなずなも感じているだろう。
 僕も颯斗もなずなも。心を開いて、ぶつかり合ってきた。――でもまだ、詠だけは。
 階段を上り、僕たちは美術室の前に着く。すると颯斗は、僕の名前を呼んだ。
「湊、俺たちを救ってくれて、ありがとう」
 僕の返事を待たずに、颯斗は美術室にいる二人に合流した。
 窓から吹き込む風がカーテンを揺らした。僕は暖かな陽光が射す三人を見つめる。
 不安はある。でも、僕たちなら乗り越えられる、そう心から思った。
 僕は三人が待つその暖かな場所に向かって、歩き始めた。