そんな最悪な一日だったというのに、放課後、また更に悪いことが起きた。
週末にやろうと思っていた課題を全て忘れてきてしまったことに気づき、慌てて学校まで学校戻ってきたのだ。
せっかくの金曜日。早く帰って休みたいところなのに、一本遅い電車に乗らないといけなくなった。
まったくもう、と怒り半分疲れ半分で来た道を逆戻りして校舎に入る。
外の校庭からは部活動の騒がしい声がよく聞こえてきた。
「あら、相原さん。どうしたの、こんな時間に」
上履きに履き替えてから廊下を歩いていると、担任教師と偶然すれ違った。
「先生……忘れ物しちゃったんです。課題を置いてきちゃったみたいで」
「それは大変ね。気づいて良かったわ」
担任は私の母親と同じくらいの年齢で、柔らかい笑みはなんとも人の良さそうな表情だった。
「はい。もう少しで電車に乗るところだったので危なかったです」
そう笑いつつ、先生と別れて教室へ向かおうするが。
「ああっ、ちょっと待って!」
慌てたように呼び止められて振り返る。
「どうしました?」
「あのね、相原さん、合唱コンのことで悩んでるみたいだったから。もしよかったらなんだけど、私に相原さんの悩みを聞かせてくれないかな」
「えっ」
驚いた。
合唱に対する愚痴を言ったことは無かったし、みんなの前でもそんな素振りは見せなかったというのに、先生は気づいていたとは。
優しい先生だと思っていたが、そこまで気にかけてくれるなんて。
驚きつつも、感心してしまう。
でも残念なことに、私の悩みなんて話したって意味が無いものだ。
「話したくないことならいいのよ。でも先生は、相原さんが何か悩んでいるのなら放っておくことなんてできなくて」
「私の話、聞いてくれますか……?」
「もちろん」
先生はゆっくり頷いた。
私は、ぽつぽつと語り始める。
中学の時のこと。
友達だと思っていた子たちに傷つけられ、ずっと悩んでいること。
自分の声が本当は異質なこと。
自分のことが好きになれないこと。
「そうだったの、相原さんはとっても悲しい思いをしてきたのね……」
全てを聞き終えた先生は、私を慰めるように眉を下げて悲しそうな表情をする。
よかった。先生は私の気持ちを分かってくれたみたいだ。
なんだか、口にしたらすっきりしたような気がした。
このことは親にも他の友達にも、誰にも話したことは一度たりともなかった。
長年一人で抱えてきたものから手を放せたかのような、そんな気分だ。
そう、だったのに。
「でも、その子たちはもう違う学校なんでしょう?だったらもう相原さんが気にする必要は無いじゃない」
「……え」
「そんなの気にしちゃダメよ。もう終わったことなんだから、いつまでも俯いてたらこの先ずっとそのままじゃない。悲しいことを考えるより前向きになって、みんなで合唱コンを頑張りましょう!」
朗らかな顔で、先生はそう言う。
私を元気づけるようなその明るさは、今の私が求めていたものとはまるっきり違う方向を向いていた。
私はただ、励まして欲しかったとか、アドバイスが欲しかったとかのそういうつもりじゃなく、聞いてもらえればそれで良かっただけだった。
(私、何考えてるんだ……)
先生の顔を見て、ハッとする。
不本意ではあっても励ましてくれた相手に対して、自分はなんて失礼なことを考えたんだろうか。
話を聞いて貰えただけでもありがたいことなのに、私は、期待していた反応ではなかったからと言ってなんてわがままなことを。
めまいみたいに、視界がくらくらする。
その後、自分がどんな顔で返事をしたのか覚えていない。
誰もいない放課後の教室はひっそりとしていた。
夕日で赤く染った室内に、私の足音だけが響く。
先生の言葉は正しい。
もう彼女たちのことを気にして生きる必要は無い。
声のことを悩む理由も無い。
でも、それじゃあ、私の心はどうなるの?
私の苦しみは、悲しみは全部無かったことにして忘れるの?
それで、本当にいいの?
あの日、家に帰ってから自分の部屋で隠れるように泣いていた私の心は、一体誰が癒してくれるの?
悲しいことなんて、忘れて生きる方が良いんだろう。
実際、そうやって立ち直った人もいるんだろう。
先生は間違ったことは言っていない。私を励ましてくれた、優しい先生だ。
そう、頭では理解しても納得はできなかった。
もうこんなこと考えたくない。
「もっと違う声だったら、よかったのに」
「あれ、相原じゃん」
「わっ!」
唐突に聞こえた声に、ぱっと反射的に顔を上げる。
「ゆ、結城くん……」
半開きの教室のドアから、彼の姿が現れる。
最悪だ。
よりによって、こんな時に結城くんに会うなんて。
泣いてはいないけど、万が一目元が赤くても夕日で誤魔化せるだろうか。
「どうしてここに」
「財布忘れて、取りに来た。週末だし、定期入ってるから置いてくのは嫌だったんだ。相原も忘れ物?」
こくり、頷く。
私の小さな呟きは聞こえていなかったようで安心するが、急に現れたものだからびっくりした。
揃って忘れ物をするなんて、なんという偶然なのか。
「課題、忘れてきちゃったんだ」
「そっか、週末だもんね。……そういえば、相原って週末は何してるの」
一瞬、手が止まった。
週末に私がすることなんて、そんなの一つに決まっている。
何気ないことのように思えるその質問が何を意味するのか。
結城くんが私から何を聞きたいのか。
そんなのもう、分かる。
ただ今は、とても彼の質問を軽くかわせるような状態ではなかった。
「色々だよ。ごろごろしたり、買い物に行ったり、あとは……ラジオを聞いたり」
週末。金曜日。
ユウの、真夜中ラジオ。
「ラジオ」
結城くんが繰り返す。
その響きは平坦で、変わらない。
「そう。ラジオ。毎週金曜十二時、ユウの真夜中ラジオ」
もう、今しかないだろう。
担任の先生のこともあり、私はもはややけっぱちのように意を決して前を見据え、結城くんと視線を合わせる。
答え合わせの時間だ。
「あなたなんだよね。結城くんが、ユウなんだよね」
とくん、心臓の鼓動が速くなる。
一瞬の静寂の後、結城くんはふわりと微笑んだ。
「そうだよ。やっと言ってくれた。ずっと待ってたんだ。君が俺に気づいてくれるのを」
やはり、結城くんはユウだった。
隣の席になってからやけに話しかけてくるのも、ラジオでわざわざあんな話を持ち出したのも、全部彼の言った通り気づいて欲しがっていたからだった。
でも、それだけでは納得できない。
「私がユウのラジオを聞いてるって、どうして知ってたの」
「ずっと前、入学したばっかりの頃かな。相原が、俺のラジオの話をしてたのがたまたま聞こえたんだ」
そういえば、そんなこともあった気がする。
友達との会話の中で、ふと話したのだ。
全員が初対面なものだから、趣味についてとかのよくある自己紹介からはじめないといけなかったが、その時にラジオを聞くのが好きだと言った。
今はユウっていう配信者のラジオが一番お気に入りなんだ、って。
「俺、めちゃくちゃ嬉しかったんだよ。俺のラジオ、聞いてくれてる人がこんなに近くにいるんだって。もちろん、リスナーのみんなはたくさんいてくれることも分かってるけど、やっぱり画面の上の数字だけじゃ実感が湧かなくて」
そう語る結城くんの表情は、年相応の幼さが垣間見えるようで、いつもよりもはしゃいでいるように見えた。
ユウのリスナーはいまも徐々に数を増やしていて、これからもっと注目が集まることは容易に想像できる。
それでもやっぱり、こうやってリアルで面と向かってみなければ湧かない実感というものはあるのだろう。
SNSだけで繋がっている、顔や本名も知らないような友達と同じ。
そこにいるのは分かっているけれど、その姿は曖昧で自分で想像することで存在を補強することしかできない。
「もしかしたら、俺は相原の理想のユウじゃなかったかもしれないけど、どうしても我慢できなくて」
「そんなことない。私の方こそ、本当は結城くんが思ってるような人じゃないよ。性格暗いし、北見くんみたいに人気者じゃないし、なんの取り柄もない」
さっきだって、せっかく励ましてくれた先生に対してあれこれと悩んでいたばかりだ。
ラジオで軽快に話すユウとは違って、いつまでも過去のことをずるずると引きずり陰鬱になることしか出来ない私なんて、それこそ結城くんが思っていた素敵なリスナーなんかとは程遠い。
「人気だとか明るいだとか、そんなのどうでもいいことだよ。俺は、俺のラジオを大切にしてくれてる相原だから嬉しかったんだ」
「でも」
「相原、もうずっと前から俺のラジオ聞いてくれてるだろ」
「……私のアカウント覚えてるの?」
「そりゃ覚えるさ。毎回来てくれるし、コメントも残してくれるし、SNSでも感想呟いてくれるし」
「でも、そのアカウントがほんとに私のものだなんて分かんないよ?」
「いや、絶対相原のだよ。わざと覗き見したんじゃないけど、相原のケータイの画面見ちゃったことがあって、それで気づいた」
「嘘でしょ……」
「嘘じゃないさ」
なんという迂闊さ。
現代だからこそ起きる事故とでも言えよう。
次からは覗き見防止フィルムを貼るべきだろうか。いや、今更もう遅いだろう。
ともかく、どうやら私たちは偶然の巡り合わせが何度も起こった結果答えが繋がったということらしい。
なんとも不思議な話だ。
「それに、北見は中学の頃からの友達だし。ていうか、友達ってよりもお互い秘密を共有してるって関係だから」
「な、なにそれ?」
秘密を共有する、なんて思わぬ角度からディープな言葉が飛び出してきてちょっと驚く。
「ラジオのことで、あいつに協力してもらってるんだ。みんなは知らないだろうけど、北見って実はすごい機械ヲタクで機材の用意とか手伝って貰ってるんだよ」
「えっ!?あの北見くんが!?」
私の驚愕の表情を見て、結城くんはそうそうその反応、とけらけら笑う。
「俺機械とかケータイとかの難しいものは苦手だから、マイクとかソフトとか色々用意してもらったんだ。いつも使ってるヘッドホンも北見厳選のやつ」
結城くんが機械類に弱いというのは初耳だったが、スマホのことをケータイと言う時点でなんとなく察しはつくかもしれなかった。
「あっ……もしかして、ユウが時々ラジオで話す友人Kっていう人……」
「そう。それが北見」
「えーっ」
Kは北見のイニシャルだなんてちょっと考えればたどり着けそうだが、結城がユウであるという前提を否定していたのだから無理だろう。
あの流行しか知りませんみたいな顔の北見くんが、実はPC類が大好きだなんて想像もつかない。
もしかすると、結城くんの口ぶりからして、きっとクラスの子も知らないような重大な情報だったのかもしれない。
明日からどんな顔で北見くんを見ればいいのだろう。
と、思う反面北見くんより結城くんにどう接すれば良いのかで悩みそうだ。
「結城くんはいいね、そういう大切な友達がいて」
「相原は違うの?いつも教室で仲良くしてる子たちとは」
「それは……」
何と返せば良いのだろうか。
クラスの友達のことは嫌いじゃない。むしろ、大切に思っている。
だからこそ私は、誰に対しても線を引くようにしていた。
中学の頃の友人関係は、とても良いものとは言えないものだった。
リーダーの気分次第で変わる嫌がらせの標的、それに反抗することなくただ受け入れるしかない自分たち、表では仲良くしておきながら裏では口汚く罵る。
思春期の中高生にはよくあることで、こういうことがあったのは私だけじゃない。
もしこの先、昔のように辛い思いをするぐらいだったら、最初から人間関係を縮小してしまえば良い。
短絡的な思考かもしれないが、現状、私が取れる自衛方法なんてそれぐらいしかなかったのだ。
「……俺じゃだめかな。俺じゃあ、相原の本当の声を聞かせてもらえる相手にはならないかな」
「何言って」
「相原、わざと声変えてるよね。本当はもっといい声してるのにさ」
私は思わず言葉を失った。
一体、いつ聞いていたのだろう。
いつもヘッドホンをしていて、みんなから距離を取っている印象があったはずなのに、友達ですら知らないようなことに気づいていたなんて。
「やっぱりそうだった。俺、ずっと相原の声が気になってたんだよ」
「私の、声」
「そう。相原、俺のラジオの話をしてる時、すっごく楽しそうな声でさ。ああ、これがこの子の本心なんだなって一瞬で分かるくらい」
楽しそうな声で話していた自覚はなかった。
私が気づいていない私のことに、結城くんが気づいてくれている。
もしかすると、いや、しなくても結城くんは私が思っている以上に周りの声をよく聞いている人だった。
案外、聞こえていないのは私の方だったのかもしれない。
「合唱コン、相原は不安なんだろ」
「……うん。そうだよ。できれば出席したくないぐらいには」
歌うのは私一人だけではないが、小さな声で歌っているのかどうかも分からないような状態で参加するのは、頑張っているクラスの子たちに申し訳ない。
それに、ああいうのは大勢の中で明らかに手抜きをしている人がいれば、そこだけ穴が空いたかのように目立つものだ。
でもコンプレックスである声を使わなければならない場面はなるべく避けたい。
うじうじしすぎだって、自分でも分かっている。
「相原に何があったのか、俺は知らないし聞かない。けど俺は、相原の声が好きだよ」
結城くんは、風のように涼やかな声でそう言った。
「お世辞なんていいよ」
「俺は本心しか言わないさ。いつか俺のラジオに出演して、全世界に向けて喋って欲しいくらい。こんなふうにさ、ブース作って、向き合っていろんなことを喋るんだ」
私と結城くんの机をがたがたと動かして、向かい合わせにしている。
マイクも機材もないけれど、即興のラジオブースのつもりみたいだ。
「そんなのダメだよ。私が好きなのはユウのラジオで、そこに私が入るのは絶対に違う」
そう言いつつも、結城くんがうきうきした目でこっちを見てくるものだから、私も椅子に座って向かい合わせになる。
「あははっ、こだわりを持ってくれてるのは嬉しいな」
こだわり、というよりもほとんどのリスナーはそう考えるはずだ。
そもそも、大好きなラジオ番組のMCがクラスメイトという前提がちょっとおかしいのだが。
「こんばんは。金曜日午後五時半、いつもと違うラジオを……そうだな、この時間なら真夜中ラジオじゃなくて黄昏ラジオだ。よし、黄昏ラジオを始めよう」
おあそびみたいな絵面なのに、ユウの語り口調はいつもと変わりない。
不思議な気持ちだ。
さっきまで喋っていた人がユウであり結城であるのに、今更になって生のユウのラジオだ、という実感が沸いてくる。
「私、話すなんて一言も言ってないよ」
「でもここに座ってくれたってことは、そういうことだろ?」
そう言われると否定はできなかった。
ユウのラジオに私が入るのは違うが、この放課後の教室で、私と彼二人だけのラジオをするのだったら、悪くはないかもしれない。
「記念すべき第一回目だ。まずは楽しい話をしようか」
「楽しいって、どんな話」
「そりゃあもちろん、俺と君が一番好きな物についての話さ」
結城くんの笑顔が眩しい。
私と彼が好きな物なんて、そんなのラジオしかないだろう。
「君のお気に入りのラジオ番組は?」
「ユウの真夜中ラジオ。他は……もう終わっちゃったけど、ミッドナイトミュージックとか。あとは気が向いた時に好きなだけ流してる」
「ミッドナイトミュージック!俺も毎週聞いてたよ。まさか先月で終わっちゃうなんてね。ショックだったけど、いい番組だったなぁー」
また聞きたいな、と彼は笑う。
「じゃあ俺のラジオを聞きはじめたきっかけは?」
「アプリ見てたらたまたま流れてきたの。この時代に真っ暗背景に何も映さずひたすら喋るだけって、珍しいなって気になって」
「それ、北見からも言われたんだよね。そんなにビジュアルが大事かなぁ。俺はトークで勝負したいんだ」
「私もそれがいいと思う。むしろ、ユウの話が面白くて惹き込まれたから、こんなに夢中になれてるんだよ」
「おっ、それは嬉しいな」
多分、私以外にもそういう人は多いと思う。
ユウのラジオの形式なら、今いるリスナーは絶対に彼の話が好きだから聞いているんだ。
「元々ラジオは好きだったの?」
「うん。昔、家族の使ってた古いオーディオプレーヤーを貰って、ずっとそれでラジオを流してたの。でも、壊れちゃって」
電波は上手く受け取ってくれていたが、さすがに寿命だったみたいだ。
ある日突然、ぱったりと動かなくなってしまった。
「それからはあまりラジオは聞かなくなったけど、ユウに出会ってからはまた色々聞くようになったんだ」
「そうか、俺がきっかけになったなんて、なんだか光栄だ」
「うん、ユウのおかげかな」
無意識に避けていたのではないが、なんとなく気が向かなかっただけ。
ユウを知ってから、ラジオの面白さを思い出せたのだ。
「ねぇ、結城くんって、どうしてラジオを始めようと思ったの」
そういえば、ユウのラジオでもきっかけについては聞いたことがなかったので、せっかくだからたずねてみた。
「どうして、か……。俺、子供の頃から親が家にいないことが多くて、とにかく暇だったんだよね。外に遊びに行くことも出来ないし、かといって家の中で話し相手なんて誰もいないし」
「えっ」
明るい顔で何気ないことのように言っているが、それって大変なことなんじゃないだろうか。
とんでもない質問をしてしまったと焦る私を見て、今度は結城くんの方がちょっと慌ててしまった。
「あ、育児放棄とかそういうんじゃないよ?ただ両親の仲が悪くて別居状態な上に、母親の仕事が忙しくて俺に構ってられなかったってだけ。お手伝いさんは来てくれてたけど、遊んでくれたってわけじゃないから」
だとしても、それって幼い子供にとってはかなり辛い環境なんじゃないだろうか。
今までの結城くんの印象では、そんな幼少期の影を感じさせないもので、彼は十数年の間にどんな日々を巡ってきたのだろう。
「まあそんな時、たまたま父親の部屋にあるオーディオを勝手に触っちゃって、ラジオが流れたんだよね。どうやって流れてるのか仕組みが分かんないから、俺壊しちゃったのかと思ってすっごい慌てたんだけど、どうしていいのかわかんなくて。で、呆然としながらラジオを聞いてるうちに、なんかこれ面白いやつだなって気づいたんだよ」
どこか昔を懐かしむように、彼は笑う。
「知らない人たちがどこか遠くで話してて、ただそれだけの内容で、終わりがけに一曲流れる。よくある番組だけど、俺、世の中にはこういうのもあるんだって新鮮に感じたんだ。一人で家にいても遊んでくれる人はいないし、テレビはつまらないし、何をするにしても退屈だったんだよ」
その経験が、その喜びが今のユウを、結城を作り上げている。
初めて知った、彼の深い背景だった。
「それからはもうラジオに夢中になって、いろんな番組を聞いてた。そのうちに自分でもやりたいって思うようになって、北見に手伝ってもらったりして、俺はユウになった。最初は分からないことだらけで、本当にこんなラジオを聞いてくれる人がいるのか、ずっと疑いながらやってたんだ。だから、相原が俺のラジオの話をしてくれてたの、本当にすっごい嬉しかったんだよ」
試行錯誤を重ね、長い努力の末にようやく理想を掴めてきた、ということだ。
結城くんはすごい人だ。
憧れを憧れのままにしないで、一歩踏み出せる勇気を持っている。
それは私には無いもので、私が欲しいものだった。
「そっか、そうだったんだね……」
当時の結城くんが、素敵なものを見つけられてよかった。
その思い出には、偶然の出会いという響きだけでは納められない、大切なものがぎゅっと詰まっている。
彼のきらきらした瞳が、そう物語っていた。
「番組の名前は、覚えてたりするの?」
「どこかのバンドのラジオ番組だったと思う。番組名も分かんないけど、ただ漠然と面白かったってことは今も覚えてる」
きっとそれは、一生の宝物だ。
私がユウに出会ったように、彼もまたそうなのだった。
「今の俺があるのは、相原のおかげでもあるんだよ。相原が、俺に希望をくれたんだ」
結城くんはそう言ってくれるが、それは私も同じだ。
迷う日々の中で、結城くんの存在が私の心を支えてくれた。
私が彼に希望を与えたのなら、私は彼にたくさんの安らぎをもらった。
そしてなにより、一歩踏み出せる勇気を持つ彼に、憧れを抱いた。
私に、私にはその勇気はあるのだろうか。
近づきたい。
彼のその眩しさに、目を逸らすだけの自分なんて嫌だ。
「……結城くん、私、私ね。自分の声が大嫌いなの」
まだ少し震える声で、それでも私は懸命に話す。
結城くんは、ただ黙って私に耳を傾けてくれた。
「ある人たちに言われたの。私の声は汚いんだって。それからずっと、ずっと引きずってるの。毎日悩んで人の目を気にして、息苦しくて仕方なかった。でもね、ユウのラジオを聞いてると胸がすぅっと楽になって、眠れない夜でもぐっすり眠れちゃうぐらいなの。ユウのラジオのおかげで、私は生きていられるの」
いつの間にか私の声は、元に戻っていた。
偽らない、そのままの声に。
「だからね、結城くん、ラジオを始めてくれてありがとう。ユウのラジオ、次も楽しみにしてる」
うん、と彼は頷く。
「その痛みは忘れたくても忘れられない。それでいい。でも、たまに背負うのが苦しくなったら俺にも分けてくれよ。両手、空いてるから」
結城くんはいたずらっぽく笑う。
夕暮れなのに、その眼差しは暖かな日差しのようで心地よかった。
「あれこれ悩んでるだけじゃ、悩みは増えてくだけだ。大丈夫、つまづいたって俺が支えるよ」
慰めでも励ましでもなく、ただ傍で支えてくれる。
そんな飾らない言葉が、何よりも私の心を満たしてくれた。
リスナーはいない、私と君と、二人だけのたそがれラジオ。
私たちの内緒の時間は、いつものその言葉で幕を閉じた。
週末にやろうと思っていた課題を全て忘れてきてしまったことに気づき、慌てて学校まで学校戻ってきたのだ。
せっかくの金曜日。早く帰って休みたいところなのに、一本遅い電車に乗らないといけなくなった。
まったくもう、と怒り半分疲れ半分で来た道を逆戻りして校舎に入る。
外の校庭からは部活動の騒がしい声がよく聞こえてきた。
「あら、相原さん。どうしたの、こんな時間に」
上履きに履き替えてから廊下を歩いていると、担任教師と偶然すれ違った。
「先生……忘れ物しちゃったんです。課題を置いてきちゃったみたいで」
「それは大変ね。気づいて良かったわ」
担任は私の母親と同じくらいの年齢で、柔らかい笑みはなんとも人の良さそうな表情だった。
「はい。もう少しで電車に乗るところだったので危なかったです」
そう笑いつつ、先生と別れて教室へ向かおうするが。
「ああっ、ちょっと待って!」
慌てたように呼び止められて振り返る。
「どうしました?」
「あのね、相原さん、合唱コンのことで悩んでるみたいだったから。もしよかったらなんだけど、私に相原さんの悩みを聞かせてくれないかな」
「えっ」
驚いた。
合唱に対する愚痴を言ったことは無かったし、みんなの前でもそんな素振りは見せなかったというのに、先生は気づいていたとは。
優しい先生だと思っていたが、そこまで気にかけてくれるなんて。
驚きつつも、感心してしまう。
でも残念なことに、私の悩みなんて話したって意味が無いものだ。
「話したくないことならいいのよ。でも先生は、相原さんが何か悩んでいるのなら放っておくことなんてできなくて」
「私の話、聞いてくれますか……?」
「もちろん」
先生はゆっくり頷いた。
私は、ぽつぽつと語り始める。
中学の時のこと。
友達だと思っていた子たちに傷つけられ、ずっと悩んでいること。
自分の声が本当は異質なこと。
自分のことが好きになれないこと。
「そうだったの、相原さんはとっても悲しい思いをしてきたのね……」
全てを聞き終えた先生は、私を慰めるように眉を下げて悲しそうな表情をする。
よかった。先生は私の気持ちを分かってくれたみたいだ。
なんだか、口にしたらすっきりしたような気がした。
このことは親にも他の友達にも、誰にも話したことは一度たりともなかった。
長年一人で抱えてきたものから手を放せたかのような、そんな気分だ。
そう、だったのに。
「でも、その子たちはもう違う学校なんでしょう?だったらもう相原さんが気にする必要は無いじゃない」
「……え」
「そんなの気にしちゃダメよ。もう終わったことなんだから、いつまでも俯いてたらこの先ずっとそのままじゃない。悲しいことを考えるより前向きになって、みんなで合唱コンを頑張りましょう!」
朗らかな顔で、先生はそう言う。
私を元気づけるようなその明るさは、今の私が求めていたものとはまるっきり違う方向を向いていた。
私はただ、励まして欲しかったとか、アドバイスが欲しかったとかのそういうつもりじゃなく、聞いてもらえればそれで良かっただけだった。
(私、何考えてるんだ……)
先生の顔を見て、ハッとする。
不本意ではあっても励ましてくれた相手に対して、自分はなんて失礼なことを考えたんだろうか。
話を聞いて貰えただけでもありがたいことなのに、私は、期待していた反応ではなかったからと言ってなんてわがままなことを。
めまいみたいに、視界がくらくらする。
その後、自分がどんな顔で返事をしたのか覚えていない。
誰もいない放課後の教室はひっそりとしていた。
夕日で赤く染った室内に、私の足音だけが響く。
先生の言葉は正しい。
もう彼女たちのことを気にして生きる必要は無い。
声のことを悩む理由も無い。
でも、それじゃあ、私の心はどうなるの?
私の苦しみは、悲しみは全部無かったことにして忘れるの?
それで、本当にいいの?
あの日、家に帰ってから自分の部屋で隠れるように泣いていた私の心は、一体誰が癒してくれるの?
悲しいことなんて、忘れて生きる方が良いんだろう。
実際、そうやって立ち直った人もいるんだろう。
先生は間違ったことは言っていない。私を励ましてくれた、優しい先生だ。
そう、頭では理解しても納得はできなかった。
もうこんなこと考えたくない。
「もっと違う声だったら、よかったのに」
「あれ、相原じゃん」
「わっ!」
唐突に聞こえた声に、ぱっと反射的に顔を上げる。
「ゆ、結城くん……」
半開きの教室のドアから、彼の姿が現れる。
最悪だ。
よりによって、こんな時に結城くんに会うなんて。
泣いてはいないけど、万が一目元が赤くても夕日で誤魔化せるだろうか。
「どうしてここに」
「財布忘れて、取りに来た。週末だし、定期入ってるから置いてくのは嫌だったんだ。相原も忘れ物?」
こくり、頷く。
私の小さな呟きは聞こえていなかったようで安心するが、急に現れたものだからびっくりした。
揃って忘れ物をするなんて、なんという偶然なのか。
「課題、忘れてきちゃったんだ」
「そっか、週末だもんね。……そういえば、相原って週末は何してるの」
一瞬、手が止まった。
週末に私がすることなんて、そんなの一つに決まっている。
何気ないことのように思えるその質問が何を意味するのか。
結城くんが私から何を聞きたいのか。
そんなのもう、分かる。
ただ今は、とても彼の質問を軽くかわせるような状態ではなかった。
「色々だよ。ごろごろしたり、買い物に行ったり、あとは……ラジオを聞いたり」
週末。金曜日。
ユウの、真夜中ラジオ。
「ラジオ」
結城くんが繰り返す。
その響きは平坦で、変わらない。
「そう。ラジオ。毎週金曜十二時、ユウの真夜中ラジオ」
もう、今しかないだろう。
担任の先生のこともあり、私はもはややけっぱちのように意を決して前を見据え、結城くんと視線を合わせる。
答え合わせの時間だ。
「あなたなんだよね。結城くんが、ユウなんだよね」
とくん、心臓の鼓動が速くなる。
一瞬の静寂の後、結城くんはふわりと微笑んだ。
「そうだよ。やっと言ってくれた。ずっと待ってたんだ。君が俺に気づいてくれるのを」
やはり、結城くんはユウだった。
隣の席になってからやけに話しかけてくるのも、ラジオでわざわざあんな話を持ち出したのも、全部彼の言った通り気づいて欲しがっていたからだった。
でも、それだけでは納得できない。
「私がユウのラジオを聞いてるって、どうして知ってたの」
「ずっと前、入学したばっかりの頃かな。相原が、俺のラジオの話をしてたのがたまたま聞こえたんだ」
そういえば、そんなこともあった気がする。
友達との会話の中で、ふと話したのだ。
全員が初対面なものだから、趣味についてとかのよくある自己紹介からはじめないといけなかったが、その時にラジオを聞くのが好きだと言った。
今はユウっていう配信者のラジオが一番お気に入りなんだ、って。
「俺、めちゃくちゃ嬉しかったんだよ。俺のラジオ、聞いてくれてる人がこんなに近くにいるんだって。もちろん、リスナーのみんなはたくさんいてくれることも分かってるけど、やっぱり画面の上の数字だけじゃ実感が湧かなくて」
そう語る結城くんの表情は、年相応の幼さが垣間見えるようで、いつもよりもはしゃいでいるように見えた。
ユウのリスナーはいまも徐々に数を増やしていて、これからもっと注目が集まることは容易に想像できる。
それでもやっぱり、こうやってリアルで面と向かってみなければ湧かない実感というものはあるのだろう。
SNSだけで繋がっている、顔や本名も知らないような友達と同じ。
そこにいるのは分かっているけれど、その姿は曖昧で自分で想像することで存在を補強することしかできない。
「もしかしたら、俺は相原の理想のユウじゃなかったかもしれないけど、どうしても我慢できなくて」
「そんなことない。私の方こそ、本当は結城くんが思ってるような人じゃないよ。性格暗いし、北見くんみたいに人気者じゃないし、なんの取り柄もない」
さっきだって、せっかく励ましてくれた先生に対してあれこれと悩んでいたばかりだ。
ラジオで軽快に話すユウとは違って、いつまでも過去のことをずるずると引きずり陰鬱になることしか出来ない私なんて、それこそ結城くんが思っていた素敵なリスナーなんかとは程遠い。
「人気だとか明るいだとか、そんなのどうでもいいことだよ。俺は、俺のラジオを大切にしてくれてる相原だから嬉しかったんだ」
「でも」
「相原、もうずっと前から俺のラジオ聞いてくれてるだろ」
「……私のアカウント覚えてるの?」
「そりゃ覚えるさ。毎回来てくれるし、コメントも残してくれるし、SNSでも感想呟いてくれるし」
「でも、そのアカウントがほんとに私のものだなんて分かんないよ?」
「いや、絶対相原のだよ。わざと覗き見したんじゃないけど、相原のケータイの画面見ちゃったことがあって、それで気づいた」
「嘘でしょ……」
「嘘じゃないさ」
なんという迂闊さ。
現代だからこそ起きる事故とでも言えよう。
次からは覗き見防止フィルムを貼るべきだろうか。いや、今更もう遅いだろう。
ともかく、どうやら私たちは偶然の巡り合わせが何度も起こった結果答えが繋がったということらしい。
なんとも不思議な話だ。
「それに、北見は中学の頃からの友達だし。ていうか、友達ってよりもお互い秘密を共有してるって関係だから」
「な、なにそれ?」
秘密を共有する、なんて思わぬ角度からディープな言葉が飛び出してきてちょっと驚く。
「ラジオのことで、あいつに協力してもらってるんだ。みんなは知らないだろうけど、北見って実はすごい機械ヲタクで機材の用意とか手伝って貰ってるんだよ」
「えっ!?あの北見くんが!?」
私の驚愕の表情を見て、結城くんはそうそうその反応、とけらけら笑う。
「俺機械とかケータイとかの難しいものは苦手だから、マイクとかソフトとか色々用意してもらったんだ。いつも使ってるヘッドホンも北見厳選のやつ」
結城くんが機械類に弱いというのは初耳だったが、スマホのことをケータイと言う時点でなんとなく察しはつくかもしれなかった。
「あっ……もしかして、ユウが時々ラジオで話す友人Kっていう人……」
「そう。それが北見」
「えーっ」
Kは北見のイニシャルだなんてちょっと考えればたどり着けそうだが、結城がユウであるという前提を否定していたのだから無理だろう。
あの流行しか知りませんみたいな顔の北見くんが、実はPC類が大好きだなんて想像もつかない。
もしかすると、結城くんの口ぶりからして、きっとクラスの子も知らないような重大な情報だったのかもしれない。
明日からどんな顔で北見くんを見ればいいのだろう。
と、思う反面北見くんより結城くんにどう接すれば良いのかで悩みそうだ。
「結城くんはいいね、そういう大切な友達がいて」
「相原は違うの?いつも教室で仲良くしてる子たちとは」
「それは……」
何と返せば良いのだろうか。
クラスの友達のことは嫌いじゃない。むしろ、大切に思っている。
だからこそ私は、誰に対しても線を引くようにしていた。
中学の頃の友人関係は、とても良いものとは言えないものだった。
リーダーの気分次第で変わる嫌がらせの標的、それに反抗することなくただ受け入れるしかない自分たち、表では仲良くしておきながら裏では口汚く罵る。
思春期の中高生にはよくあることで、こういうことがあったのは私だけじゃない。
もしこの先、昔のように辛い思いをするぐらいだったら、最初から人間関係を縮小してしまえば良い。
短絡的な思考かもしれないが、現状、私が取れる自衛方法なんてそれぐらいしかなかったのだ。
「……俺じゃだめかな。俺じゃあ、相原の本当の声を聞かせてもらえる相手にはならないかな」
「何言って」
「相原、わざと声変えてるよね。本当はもっといい声してるのにさ」
私は思わず言葉を失った。
一体、いつ聞いていたのだろう。
いつもヘッドホンをしていて、みんなから距離を取っている印象があったはずなのに、友達ですら知らないようなことに気づいていたなんて。
「やっぱりそうだった。俺、ずっと相原の声が気になってたんだよ」
「私の、声」
「そう。相原、俺のラジオの話をしてる時、すっごく楽しそうな声でさ。ああ、これがこの子の本心なんだなって一瞬で分かるくらい」
楽しそうな声で話していた自覚はなかった。
私が気づいていない私のことに、結城くんが気づいてくれている。
もしかすると、いや、しなくても結城くんは私が思っている以上に周りの声をよく聞いている人だった。
案外、聞こえていないのは私の方だったのかもしれない。
「合唱コン、相原は不安なんだろ」
「……うん。そうだよ。できれば出席したくないぐらいには」
歌うのは私一人だけではないが、小さな声で歌っているのかどうかも分からないような状態で参加するのは、頑張っているクラスの子たちに申し訳ない。
それに、ああいうのは大勢の中で明らかに手抜きをしている人がいれば、そこだけ穴が空いたかのように目立つものだ。
でもコンプレックスである声を使わなければならない場面はなるべく避けたい。
うじうじしすぎだって、自分でも分かっている。
「相原に何があったのか、俺は知らないし聞かない。けど俺は、相原の声が好きだよ」
結城くんは、風のように涼やかな声でそう言った。
「お世辞なんていいよ」
「俺は本心しか言わないさ。いつか俺のラジオに出演して、全世界に向けて喋って欲しいくらい。こんなふうにさ、ブース作って、向き合っていろんなことを喋るんだ」
私と結城くんの机をがたがたと動かして、向かい合わせにしている。
マイクも機材もないけれど、即興のラジオブースのつもりみたいだ。
「そんなのダメだよ。私が好きなのはユウのラジオで、そこに私が入るのは絶対に違う」
そう言いつつも、結城くんがうきうきした目でこっちを見てくるものだから、私も椅子に座って向かい合わせになる。
「あははっ、こだわりを持ってくれてるのは嬉しいな」
こだわり、というよりもほとんどのリスナーはそう考えるはずだ。
そもそも、大好きなラジオ番組のMCがクラスメイトという前提がちょっとおかしいのだが。
「こんばんは。金曜日午後五時半、いつもと違うラジオを……そうだな、この時間なら真夜中ラジオじゃなくて黄昏ラジオだ。よし、黄昏ラジオを始めよう」
おあそびみたいな絵面なのに、ユウの語り口調はいつもと変わりない。
不思議な気持ちだ。
さっきまで喋っていた人がユウであり結城であるのに、今更になって生のユウのラジオだ、という実感が沸いてくる。
「私、話すなんて一言も言ってないよ」
「でもここに座ってくれたってことは、そういうことだろ?」
そう言われると否定はできなかった。
ユウのラジオに私が入るのは違うが、この放課後の教室で、私と彼二人だけのラジオをするのだったら、悪くはないかもしれない。
「記念すべき第一回目だ。まずは楽しい話をしようか」
「楽しいって、どんな話」
「そりゃあもちろん、俺と君が一番好きな物についての話さ」
結城くんの笑顔が眩しい。
私と彼が好きな物なんて、そんなのラジオしかないだろう。
「君のお気に入りのラジオ番組は?」
「ユウの真夜中ラジオ。他は……もう終わっちゃったけど、ミッドナイトミュージックとか。あとは気が向いた時に好きなだけ流してる」
「ミッドナイトミュージック!俺も毎週聞いてたよ。まさか先月で終わっちゃうなんてね。ショックだったけど、いい番組だったなぁー」
また聞きたいな、と彼は笑う。
「じゃあ俺のラジオを聞きはじめたきっかけは?」
「アプリ見てたらたまたま流れてきたの。この時代に真っ暗背景に何も映さずひたすら喋るだけって、珍しいなって気になって」
「それ、北見からも言われたんだよね。そんなにビジュアルが大事かなぁ。俺はトークで勝負したいんだ」
「私もそれがいいと思う。むしろ、ユウの話が面白くて惹き込まれたから、こんなに夢中になれてるんだよ」
「おっ、それは嬉しいな」
多分、私以外にもそういう人は多いと思う。
ユウのラジオの形式なら、今いるリスナーは絶対に彼の話が好きだから聞いているんだ。
「元々ラジオは好きだったの?」
「うん。昔、家族の使ってた古いオーディオプレーヤーを貰って、ずっとそれでラジオを流してたの。でも、壊れちゃって」
電波は上手く受け取ってくれていたが、さすがに寿命だったみたいだ。
ある日突然、ぱったりと動かなくなってしまった。
「それからはあまりラジオは聞かなくなったけど、ユウに出会ってからはまた色々聞くようになったんだ」
「そうか、俺がきっかけになったなんて、なんだか光栄だ」
「うん、ユウのおかげかな」
無意識に避けていたのではないが、なんとなく気が向かなかっただけ。
ユウを知ってから、ラジオの面白さを思い出せたのだ。
「ねぇ、結城くんって、どうしてラジオを始めようと思ったの」
そういえば、ユウのラジオでもきっかけについては聞いたことがなかったので、せっかくだからたずねてみた。
「どうして、か……。俺、子供の頃から親が家にいないことが多くて、とにかく暇だったんだよね。外に遊びに行くことも出来ないし、かといって家の中で話し相手なんて誰もいないし」
「えっ」
明るい顔で何気ないことのように言っているが、それって大変なことなんじゃないだろうか。
とんでもない質問をしてしまったと焦る私を見て、今度は結城くんの方がちょっと慌ててしまった。
「あ、育児放棄とかそういうんじゃないよ?ただ両親の仲が悪くて別居状態な上に、母親の仕事が忙しくて俺に構ってられなかったってだけ。お手伝いさんは来てくれてたけど、遊んでくれたってわけじゃないから」
だとしても、それって幼い子供にとってはかなり辛い環境なんじゃないだろうか。
今までの結城くんの印象では、そんな幼少期の影を感じさせないもので、彼は十数年の間にどんな日々を巡ってきたのだろう。
「まあそんな時、たまたま父親の部屋にあるオーディオを勝手に触っちゃって、ラジオが流れたんだよね。どうやって流れてるのか仕組みが分かんないから、俺壊しちゃったのかと思ってすっごい慌てたんだけど、どうしていいのかわかんなくて。で、呆然としながらラジオを聞いてるうちに、なんかこれ面白いやつだなって気づいたんだよ」
どこか昔を懐かしむように、彼は笑う。
「知らない人たちがどこか遠くで話してて、ただそれだけの内容で、終わりがけに一曲流れる。よくある番組だけど、俺、世の中にはこういうのもあるんだって新鮮に感じたんだ。一人で家にいても遊んでくれる人はいないし、テレビはつまらないし、何をするにしても退屈だったんだよ」
その経験が、その喜びが今のユウを、結城を作り上げている。
初めて知った、彼の深い背景だった。
「それからはもうラジオに夢中になって、いろんな番組を聞いてた。そのうちに自分でもやりたいって思うようになって、北見に手伝ってもらったりして、俺はユウになった。最初は分からないことだらけで、本当にこんなラジオを聞いてくれる人がいるのか、ずっと疑いながらやってたんだ。だから、相原が俺のラジオの話をしてくれてたの、本当にすっごい嬉しかったんだよ」
試行錯誤を重ね、長い努力の末にようやく理想を掴めてきた、ということだ。
結城くんはすごい人だ。
憧れを憧れのままにしないで、一歩踏み出せる勇気を持っている。
それは私には無いもので、私が欲しいものだった。
「そっか、そうだったんだね……」
当時の結城くんが、素敵なものを見つけられてよかった。
その思い出には、偶然の出会いという響きだけでは納められない、大切なものがぎゅっと詰まっている。
彼のきらきらした瞳が、そう物語っていた。
「番組の名前は、覚えてたりするの?」
「どこかのバンドのラジオ番組だったと思う。番組名も分かんないけど、ただ漠然と面白かったってことは今も覚えてる」
きっとそれは、一生の宝物だ。
私がユウに出会ったように、彼もまたそうなのだった。
「今の俺があるのは、相原のおかげでもあるんだよ。相原が、俺に希望をくれたんだ」
結城くんはそう言ってくれるが、それは私も同じだ。
迷う日々の中で、結城くんの存在が私の心を支えてくれた。
私が彼に希望を与えたのなら、私は彼にたくさんの安らぎをもらった。
そしてなにより、一歩踏み出せる勇気を持つ彼に、憧れを抱いた。
私に、私にはその勇気はあるのだろうか。
近づきたい。
彼のその眩しさに、目を逸らすだけの自分なんて嫌だ。
「……結城くん、私、私ね。自分の声が大嫌いなの」
まだ少し震える声で、それでも私は懸命に話す。
結城くんは、ただ黙って私に耳を傾けてくれた。
「ある人たちに言われたの。私の声は汚いんだって。それからずっと、ずっと引きずってるの。毎日悩んで人の目を気にして、息苦しくて仕方なかった。でもね、ユウのラジオを聞いてると胸がすぅっと楽になって、眠れない夜でもぐっすり眠れちゃうぐらいなの。ユウのラジオのおかげで、私は生きていられるの」
いつの間にか私の声は、元に戻っていた。
偽らない、そのままの声に。
「だからね、結城くん、ラジオを始めてくれてありがとう。ユウのラジオ、次も楽しみにしてる」
うん、と彼は頷く。
「その痛みは忘れたくても忘れられない。それでいい。でも、たまに背負うのが苦しくなったら俺にも分けてくれよ。両手、空いてるから」
結城くんはいたずらっぽく笑う。
夕暮れなのに、その眼差しは暖かな日差しのようで心地よかった。
「あれこれ悩んでるだけじゃ、悩みは増えてくだけだ。大丈夫、つまづいたって俺が支えるよ」
慰めでも励ましでもなく、ただ傍で支えてくれる。
そんな飾らない言葉が、何よりも私の心を満たしてくれた。
リスナーはいない、私と君と、二人だけのたそがれラジオ。
私たちの内緒の時間は、いつものその言葉で幕を閉じた。