それでも落ちたら死んでしまう。

 ベンは大きく息をつくと、驚かさないようにそっと隣の窓を開け、

「そこのメイドさん、ちょっとおいで」

 と、言って手招きをした。

 するとまるで忍者みたいにメイドはするすると窓枠に降り立ち、嬉しそうに入ってくる。赤毛をきれいに編み込み、笑顔の可愛い女の子だった。

「私、選んでもらえたんですね!」

 女の子は手を組んでキラキラとした笑顔を浮かべる。

「残念ながら君は失格! 命がけのアプローチは今後反則とする!」

 ベンは毅然(きぜん)とした態度で言い放った。

「そ、そんなぁ……。私、まだ処女なんです。病気もありません。しっかりご奉仕します!」

 女の子は必死にアピールするが、そんなアピールはベンには重いだけだった。

「いいから、今日は営業終了。早く出て行って!」

「は、母が病気なんです! クスリを買わないと死んでしまうんです!」

 女の子はベンの手を取ってすがってくる。

 一体なぜこんなことになってしまったのかわからず、ベンは思わず宙を仰いだ。自分がエッチをすると人助けになる。エッチってそういうモノだっただろうか?

 ベンはクラクラする頭を両手で支え、大きくため息をついて言った。

「お母さんの件は残念だが、それを僕に言われても……」

 すると、女子は急にベンに抱き着き、

「私ってそんなに魅力……ないですか?」

 そう言ってウルウルとした瞳でベンを見つめる。

 甘酸っぱくやわらかな女の子の香りがふんわりとベンを包み、ベンは目を白黒させた。

 そして女の子は器用にシュルシュルとメイド服のひもをほどき、脱ぎ始める。

「ストップ! スト――――ップ!!」

 ベンはそう叫ぶと、女の子をドアまで引っ張っていって追い出す。

「えー! ちょっとだけ! ちょっとだけですからぁ!」

 そう言ってすがる彼女の手を振り切って、

「今日はこれまで! 明日、ちゃんと話をしよう」

 そう言ってドアをバタンと閉めた。

 はぁぁぁ……。

 ベンはよろよろとベッドまで歩くと倒れ込み、海よりも深いため息をついた。

 異世界でハーレム。それは男の夢だと思っていたが、実際になってみるとそんな楽しい話では全然なかった。金のために女の子たちは必死になり、行為をしたら計算され、街の予算から彼女たちに支払われる。

 そして、大真面目な会議の席で、

『ベンの慰安費が今月は多いのではないか?』『いやいやもっとヤってもらわないと』『この子を気に入ったようですな』

 などとプライベートが議論されてしまうのだろう。最悪だ。

 もちろん、あんなに可愛い女の子とイチャイチャできるならいいじゃないか、という考え方もあるが、『母の薬のために抱かれているんだこの娘は』ということを考えてしまったら、もう楽しむことなんてできなくなってしまう。

 あぁ、なんて不器用なんだろう……。

 その晩、ベンは薄暗い天井を見つめながら何度もため息をつき、眠れない夜を過ごした。


      ◇


 翌朝、目が覚めると、もうすでに陽はのぼり、レースのカーテンには燦燦(さんさん)と光が差し、明るく輝いていた。

 ふかふかで巨大なベッド。先日までドミトリーのせんべい布団で寝ていたので、こんなフカフカなベッドは居心地が悪い。

 ふぁ~ぁ……。

 ベンは寝ぼけ眼をこすり、トイレに行こうと立ち上がる。

 ベッド変えてもらおうかなぁ……。

 ドアを開けた。

「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」
「ご主人様、おはようございます!」

 なんと、メイドたちがずらっと並んで頭を下げている。

 ベンは固まった。

 彼女たちはずっとここで背筋を伸ばしながら自分の起床を待っていたのだ。きっと何時間も。一体この地獄はどこまで続いているのだろうか?

「お、おはよう」

 ベンはうんざりしながらそう言うと、トイレへと歩き出した。

 するとなぜか全員ついてくる。

「ちょ、ちょっとまって! 君たちなんでついてくるの?」

「ご主人様のお(しも)のお世話も私たちの仕事ですので」

 メイドはニコッと笑って答える。

「大丈夫! トイレは一人でやる。いいね? 君たちは食堂に行ってなさい」

 ベンはそう言ってメイドたちを追い払い、急いでトイレに駆け込む。

 便器に腰かけたベンは、まるでロダンの『考える人』のように苦悩の表情を浮かべながら、このとんでもない新生活を憂えた。
















22. 魔物の津波

 自宅では気が休まらないので早めに宮殿に出勤するベン。

 宮殿はまだ焼け跡が残り、痛々しいが、夜通し復旧作業が進んでいるようで、日々少しずつ綺麗になっている。

「それにしてもあのメイドたちどうしようかな? ベネデッタさんに知られたら軽蔑されるよなぁ……」

 ベンがつぶやいていると、

「あら? あたくしが何ですって?」

 そう言ってベネデッタが後ろからいきなりベンの腕をつかんだ。

「うわぁ! お、おはようございます。いや、ベネデッタさんを失望させないようにしないとなって、思ってまして……はい」

 ベンは目を白黒させ、冷や汗を流しながらごまかす。

「あら、ベン君は私の命の恩人、失望なんていたしませんわ」

 そう言って碧眼をキラキラと輝かせながら最高の笑顔を見せる。

 ベンはドキッとしながら、

「そ、そうですか。そ、それは良かった」

 と言って、頬を赤らめた。

 その時、向こうから手を振りながら誰かが駆けてくる。

「顧問! 大変です!」

 それは班長だった。班長は青い顔しながらダッシュでやってきて、悲痛な面持ちで言う。

「魔物が約一万匹、トゥチューラを目指しているという報告がありました」

「一万!?」

 ベンは青くなった。トゥチューラの兵は数千人しかいない。一万はトゥチューラの存亡にかかわる事態だった。今から王都に救援依頼を送っても到着までには何日もかかるだろう。自分たちで一万の魔物の軍勢を対処しなくてはならなくなった。

「ベン君どうしよう!?」

 ベネデッタが眉間にしわを寄せて不安げにベンを見る。その美しい(あお)い瞳にはうっすらと涙が浮かび、ベンの心は大きく揺さぶられた。

 ベンにしてみたら逃げるのが最善である。命がけで戦うメリットなどない。ひとり身の気楽な身分だから、他の街に移住してしまえばいい。

 でも……。彼女を見捨てて逃げる? 本当に?

 ベンは首をブンブンと振り、大きく息をついた。

 そして、覚悟を決め、

「大丈夫、任せてください」

 と、ニッコリと笑って見せた。

 前世でもこうやってトラブルの度に最前線で対応して命を削り、結果過労死してしまったわけだが、それは今世でも変わらない。お人好しでクソ真面目。でも、ベンはそれでいいと思った。こんな素敵な女の子に頼られて、それでも見捨てて逃げるような人生には何の価値もないのだ。

 とはいうものの、一万の軍勢には一万倍の【便意ブースト】では足りないだろう。ベンは未知の領域、十万倍を目指さねばならなくなってしまった。

 そして、それがもたらす苦痛を想像し、気が遠くなって思わず宙を仰いだ。


       ◇


 城壁の上に立ってみると、一面の麦畑の揺らめく陽炎の向こうに無数の黒い点がうごめいて、こちらに迫っていた。なるほどあれが魔物に違いない。

 あんな津波のような暴力がこの街を洗ったら滅亡は必至だった。

 兵士たちはたくさんの石を城壁の上に運び上げているが、顔色は悪い。城門に群がってくる魔物を上から石を投げて倒していくという作戦らしいが、さすがにこれでは一万には耐えられない。

 もちろん、弓兵も魔法使いもいるが、数百ならともかく、一万という数字は圧倒的な力をもって兵士たちの心を蝕んでいく。

 兵士たちは口々に不安をささやきあっており、士気は地に落ち、状況は非常にまずい。


 やがて魔物たちは、城門近くの麦畑に集結し、

 ギャウギャウ! グギャァァァ!

 と、口々に奇怪な叫び声をあげ、威圧してくる。

 そして、骸骨の馬(スケルトンホース)に乗った巨体の魔人がカッポカッポとゴブリンたちを蹴散らしながら先頭に出てきた。

 何をするのだろうかとベン達も、城壁の兵達も固唾を飲んで様子を見守る。

 すると、魔人は大声を張り上げた。

「おい! 人間ども! 我は魔王軍四天王が一人【フルカス】! ベンとやらをだせ!」

 ベンは思わず天を仰いだ。

 あの魔法使い、四天王のナアマの伝言を聞いてやってきたのだろう。あの時、瞬殺できなかったことが悔やまれる。

 ベンは大きく深呼吸をすると、不安げなベネデッタの肩をポンポンと叩き、

「ちょっと準備してくる。瞬殺してやるから安心していいよ」

 と、ニコッと笑った。

 ただ、そうは言ったものの十万倍は未知の領域。ベン自身自信はなかった。ただ、今はこう言い切る以外道が無いのだ。

 その時だった、

「ハーッハッハッハー! ベンなど待たずとも、この勇者が相手してやろう!」

 と、勇者の声が響き渡った。

 ベンに倒されて人気急降下の勇者としては信頼回復の好機だったのだ。フルカスさえ倒せば英雄の座を取り戻せる。勇者は必死だった。






23. 絶対に負けられない戦い

 見下ろすと、勇者とタンク役が馬に乗ってカッポカッポと魔人の方を目指し、悠然と進行しているのが見える。

「おぉぉ、勇者様だ!」「勇者様が来てくれたぞ――――!」

 一気に沸き立つ兵士たち。

 それは絶望的な状況に差した一筋の光明だった。


「勇者? お前がベンの代わりになどなる訳ないだろう」

 魔人はあざける。

「ほざけ! 貴様など聖剣のサビにしてくれる!」

 そう言うと、勇者は聖剣をスラリと抜き、空に掲げてフンと気合を入れる。刀身には幻獣模様の真紅の煌めきがブワッと浮かび上がった。

 うぉぉぉぉ! 勇者様――――!

 兵士たちはこぶしを突き上げ、一気に盛り上がる。

 しかし、フルカスはバカにしたように鼻で笑うと、

「聖剣は見事だが、貴様には過ぎたものだ」

 そう言って、空中に黒いもやもやの球を浮かべると、それを勇者に投げつけた。

 黒い球はゆるい放物線を描きながら勇者に迫る。

「うわっ! なんだそりゃ!?」

 勇者は球を聖剣で一刀両断に切り裂くが、手ごたえ無く、球はそのまま勇者の顔面を直撃する。

 ぶわっ!

 まるで泥団子を食らったように、球のかけらは勇者の全身にへばりついた。そして、モゾモゾと、動き始める。なんと、球は毛虫の魔物の集合体だったのだ。

「ひ、ひぃ! な、何だこれは!?」

 あわてて払い落そうとする勇者だったが、毛虫の数は膨大だ。どんなに払い落としても払い落としきれない。

 やがてモゾモゾと多くの毛虫が勇者のプレートアーマーの隙間からどんどんと中へと入っていってしまう。

「ふひゃひゃひゃ! くすぐったい! やめろ! ひぃ!」

 勇者はあがくが、侵入されてしまった毛虫にはなすすべがない。

 やがて毛虫は下着を食い尽くし、プレートアーマーの金具を食いちぎっていく。

 プレートアーマーはついにはバラバラになって、ガコン! と音を立てて地面に散らばっていった。

 馬上には素っ裸の勇者だけが残される。

 勇者は口をパクパクさせ、無様に縮みあがった。

「がーっはっはっは! 随分貧相な身体だな」

 フルカスは笑い、一万の魔物の群れも、

 ゲハゲハゲハ! グギャァァ! ギャッギャッギャッ!

 と、大声で笑い始める。

「次は毛虫たちにお前の身体を食い荒らすように指令してやろうか?」

 フルカスはニヤニヤしながら言った。

 勇者は真っ赤になって、

「くぅ! 卑怯者! おぼえてろぉ!」

 と、捨て台詞を残して逃げ出してしまった。

「口ほどにもない。クハハハハ!」

 フルカスはあざ笑う。

 一万匹の魔物たちも、

 ギャッギャッギャー! フゴッフゴッ!

 と、口々に奇怪な笑い声をたてながら愉快そうに笑った。

 人類最強のはずの勇者が刃を交えることもできず、あっさりと敗退してしまった。城壁の上の兵たちは皆真っ青な顔をしてお互いの顔を見つめ合う。

 切り札であるところの騎士団顧問のベンという少年は、本当にあんな魔人に勝てるのだろうか? 勝てたとして、残り一万の魔物はどうするのか?

 どう考えても勝算のない戦いに、兵たちは逃げたくてたまらなくなるのを必死にこらえていた。

 ベンは勇者の敗退を見て静かにうなずくと天幕に入る。もはやこの街に住む十万人の命運は自分の便意にかかっているのだ。

 ベンは大きく息をつくと覚悟を決め、水筒をお尻にあてがった。


       ◇


「お待ちどうさま……」

 ベンはよろよろしながら天幕から戻る。新型の水筒二本で一気に高めた便意はすでに一万倍に達していた。

 しかし、一万では足りない。もう一声、十万に達さねばならなかった。

 ぐぅ、ぎゅるぎゅるぎゅる――――!

 ベンの腸は猛り狂いながら肛門を攻めてくる。

 ぐふぅ……。

 ベンは顔を歪め(ひざ)をつく。一気に水筒二本はヤバすぎる。かつてない猛烈な便意にベンの肛門は崩壊寸前だった。

 しかし、トゥチューラの街の人たちの命がかかっているのだ。絶対暴発などできない。

 ベンは脂汗を垂らしながら必死に括約筋に喝を入れ、何とか腸が落ち着くのを待った。

「ベン君、だいじょうぶですの?」

 ベネデッタは声をかけるが、ベンはギュッと目をつぶって奥歯をかみしめるばかりで返事ができなかった。

 漏れる……、漏れる……。

 顔をゆがめ、激しい便意と戦っているベンにベネデッタは神聖魔法をかけた。

 ベンの身体はほのかに黄金の光を纏い、少しだけ苦痛を和らげてくれる。

 しかしどんなに待っても十万倍の表示は来なかった。このままではトゥチューラの陥落は必至だ。

「おい! 早くベンを出せ! 出さなきゃその城壁ぶち抜いて皆殺しにするぞ!」

 魔人は煽ってくる。

 くぅぅぅ……。

 ベンは覚悟を決め、ポケットから下剤を出した。

 ただでさえ限界近いのにさらに下剤。それはまさに自殺行為である。

 だが、多くの人の命には代えられない。ベンは目をつぶって一気飲みをした。

 ゴホッゴホッ!

 強烈な悪臭が口の中に広がり、思わずむせてしまう。

 やがてやってくる強烈な便意の第二弾。

 水筒の水でパンパンになった腸に下剤がパワーを与え、ここぞとばかりに絞り出しにかかる。

 ぐぉぉぉぉ。

 ベンは四つん這いになって、必死に便意に耐えた。

 漏れる……、漏れる……、漏れる……、漏れる……。

 ここがトゥチューラの存亡をかけた勝負どころ。絶対に負けられない戦いが今、ベンの肛門で繰り広げられていたのだ。

 そんなことを全く理解できない周囲の人たちは、狂ってしまいそうになるベンに何もできず、オロオロとしながら、ただ見守るばかりだった。











24. 大いなる代償

 ポロン! 『×100000』。

 ついにやってきた、前人未到の十万倍。

 しかしベンの肛門は暴発寸前だった。

 痛い……、痛い……、痛い……。

ほんの些細な衝撃でもバーストしてしまう極限の状態で必死に耐えるベン。

 やがて少しだけ腸が落ち着き、そのすきにユラリと立ち上がると、真っ青な顔で魔物たちの方によろよろと腕を伸ばす。

「ファ、ファイヤーボール……」

 ベンはボソッとつぶやいた。

 ベネデッタは耳を疑う。ファイヤーボールとは子供が練習に使う初級魔法で、魔物を(たお)すのに使えるようなものじゃなかったのだ。

 しかし、いきなり数十メートルの超巨大な円が魔物に向けて描かれ、不気味に赤く光り輝いた。

 えっ?

 周りの人は何が起こったのか分からなかった。

 やがて円の内側には六(ぼう)星が描かれ、ルーン文字が精緻に書き加えられ、さらに小さな円が数十個、円の中に描かれ、そこにも六芒星とルーン文字が書き込まれていった。

 いまだかつて誰も見たことのない魔法陣だった。その圧倒的なスケールの魔法陣から灼熱の巨大な球がゴゴゴゴと腹に響く重低音を放ちながら生み出されていく。

 魔物も兵たちも一体何が起こったのか分からなかったが、極めてヤバい事態が進行しているのではないかと皆、青ざめた顔で冷や汗を浮かべていた。

「に、逃げろ――――!!」

 フルカスは真っ青な顔をして叫ぶと、スケルトンホースに鞭を入れてゴブリンを踏みつぶしながら一目散に逃げだしていった。

 直後、巨大な炎の球は激しい閃光を放つとパウッ! という衝撃音とともに吹っ飛んでいく。そして、逃げ惑う魔物たちの群れの真ん中で炸裂した。

 天と地は激しい光と熱線に覆われ、直後、衝撃波が辺り一帯を襲った。

 城壁は倒れんばかりに揺れて(やぐら)の屋根が吹き飛び、街道の木々は蒸発していく。

 うわぁぁぁ! ひぃぃぃ!

 兵士たちは皆倒れ込み、まるでこの世の終わりのような圧倒的なエネルギーの奔流(ほんりゅう)に恐怖で動けなくなった。

 やがて、巨大な灼熱のキノコ雲が辺りに熱を放ちながら上空へと舞い上がっていく。その禍々しいさまは、まるでこの世の終わりかのようであった。

 熱線で蒸発した麦畑には巨大なクレーターが出現し、魔物など、一匹も残っていない。ただ、荒涼とした死の大地が広がるばかりだった。

 高く舞い上がるオレンジ色に輝くキノコ雲を見上げながら、兵士たちは魔物よりはるかに恐ろしい圧倒的な暴力に、恐怖でガタガタと震える。ベンの破壊力は人間や魔物とは異次元の領域に達しており、神話に伝わる神の営みそのものだった。

 騎士団顧問の少年ベン、その名は圧倒的恐怖の象徴として兵士たちの胸に刻み込まれたのだった。

 ベネデッタもベンのすさまじい魔法に圧倒されていたが、横でベンが倒れてとんでもない事になっているのに気が付いた。

 ブピュッ! ビュルビュルビュ――――。

 ベンは意識を失い痙攣(けいれん)しながら肛門から異様な音を上げていた。それはまるで先日の勇者の姿を思い出させる。

「ベン君! ベン君!」

 ベネデッタは声をかけるが、ベンは反応しない。

「救護班! 救護班、急いで!」

 ベネデッタは叫び、ベンは毛布にくるまれ、担架で運ばれていった。


         ◇


「あ、あれ? ここは……」

 ベンが目覚めると清潔な真っ白い天井が見えた。

 そして横を見ると、ベッドの脇にはキラキラとしたブロンドの髪に透き通るような美しい寝顔……、ベネデッタだった。ベンの手を握り、うつらうつらしている。

 えっ!? これはいったいどういうこと?

 ベンは焦って記憶を掘りおこす。確か魔物の群れに向けてファイヤーボールを放ったような……。そこから先の記憶がない。

 えっ!? まさか!?

 ベンは急いで自分のお尻をチェックする。乾いた高級なシルクの手触り。誰かに着替えさせられていた。これは暴発を処理されたということを意味している。

 やっちまった……、うぁぁぁ……。

 ベンは頭を抱え、毛布の中で丸くなった。

 今まで、どんな時でも最後まで死守した肛門。しかし今回ついに突破されてしまったのだ。

 ベンはその底知れない敗北感に気が遠くなっていく。

「あ、気が付かれましたの?」

 ベネデッタが起きてニコッと笑った。

「はっ、はい! こ、ここは……どこですか?」

 ベンは急いで体を起こし、冷汗を流しながら聞いた。

「ここは宮殿の救護室ですわ。城壁でベン君、倒れちゃったからここに運ばせましたの。それで……、シアン様からすべて聞きましたわ」

「えっ!? 全てって……もしかして……」

 ベンは真っ青になる。便意を我慢して強くなるなんて、絶対女の子には知られたくなったのだ。

「そんな辛い目に遭っていたなんて、あたくし、全然知らなくて……。ごめんなさい。トゥチューラのために……、ありがとう」

 ベネデッタはそう言ってギュッとベンの手を握った。

 その言葉にベンの中で何かが(せき)を切ったようにあふれ出し、思わず泣き崩れた。

 ひぐっ! うぅぅぅ……。

 ベンの目から大粒の涙がぽたぽたと落ちた。

 ベネデッタはそんなベンを心配そうにハグし、

「辛かったですのね」

 と、言いながら優しくベンの頭をなでた。

 ベンはうなずき、今までの苦しい便意との戦い、理解されない孤独で凍り付いてしまっていた心がゆっくりと溶けていくのを感じていた。

 ふんわりと立ち上る優しい甘い香りに包まれ、ベンは温かいもの満たされていく。

 思い返せば前世のブラック企業で延々と深夜まで激務をこなし、文字通り命を削っていたのだが、感謝されたことも謝られたこともなかった。どこか『自分なんてどうせ』と卑屈に思い、低い自己評価でそんな状況を受け入れてしまっていたのだ。しかし、そんな状況が続けば、心が硬直化してしまう。ベンの心は死にそうになりながら、ずっとこれを待っていたのかもしれない。

 ベネデッタの思いやりのこもった一言は、前世から続くベンの心の奥底のひずみを優しくゆっくりと癒し、ベンはとめどなく湧いてくる涙でトラウマを洗い流していった。

 前世と合わせたら三十代のベンからしたらベネデッタは子供なのだが、今のベンには年齢などもはやどうでも良くなっていた。

 ポトポトと自らの服に落ちる涙を、ベネデッタは厭うこともなく、ほほ笑みながら優しくベンの背中をなで続ける。それはまるで聖女のもたらす無限の愛のようであった。














25. 天空の城

 ベンが落ち着くと、ベネデッタは宝石に彩られた煌びやかなカギをベンに渡して言った。

「シアン様からこれ預かりましたの」

 えっ?

 ベンはその豪華で重厚なカギを眺め、首をかしげた。

「魔王城のカギだそうですわ」

「ま、魔王城!?」

 ベンは目を丸くしてカギに見入る。魔王城なんておとぎ話に出てくるファンタジーな存在だとばかり思っていたのに、実在していたのだ。

 ベンはその豪奢なカギの精巧な作りに、ただ事ではない凄みを感じ、思わず息をのんだ。

「魔王がベン君に会いたいそうなんですわ。でも……、無理して会わなくても良いのですよ。ベン君があんなにつらい思いをしてみんなを救う必要なんて、無いと思いますわ」

 ベネデッタは心配そうにベンを見つめながら言った。

 ベンはキラキラと煌めきを放つカギを眺めながら考える。先日シアンは言っていた。この星が消滅の危機にあり、自分なら解決できると。きっとその話なのだろう。

 この世界が滅ぶ運命ならそれでいいんじゃないか、そんなの一般人の自分には関係ない。

 シアンの自分勝手な進め方に、ふと、そんな思いも頭をよぎる。

 顔を上げると、ベネデッタは眉を寄せ、伏し目がちにベンを見ていた。その碧い瞳にはうっすらと涙が浮かび、ベンをいたわる気持ちが伝わってくる。

 ベンはそんなベネデッタを見て、ズキッと心の奥に鈍い痛みが走った。自分の意地とかこだわりがこの女の子の命を奪うことになってしまったら、悔やんでも悔やみきれない。世界なんてどうでもいいが、この娘は守らないといけないのだ。

 自分にできる事があるのならやるべきだろう。そもそもこの命はシアンに転生させてもらったのだ。ムカつくおちゃらけた女神ではあるが恩はある。

 ベンはふぅっと大きく息をつくと、

「行くよ。まず話を聞いてみよう」

 と、ニコッと笑って言った。

 すると、ベネデッタは今にも泣きだしそうな表情をして、ゆっくりとうなずいた。


      ◇


「うわぁ! 凄い景色だ!」

 翌朝、ベンはベネデッタの持ってきた魔法のじゅうたんに乗せてもらい、一気にトゥチューラの上空へと飛び上がっていった。

「うふふ、我が家に伝わる秘宝ですの。魔石を燃料にどこまでも飛んでいってくれますのよ」

 ベネデッタは自慢気にそう言いながらさらに高度を上げていく。

 宮殿は見る見るうちに小さくなり、トゥチューラの街全体が一望できる。そこには美しい水路が縦横に走り、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。

 魔王城の在りかはカギが教えてくれる。ひもに吊るしたカギは、コンパスのように常に一方向を指し続けていた。

 ベネデッタはそれを見ながらじゅうたんを操作し、軽やかに飛んでいく。暗黒の森をどんどん奥へと進み、丘を越え、小山を越え、稜線を越えていった。

「いやぁ、これはすごいや!」

 ベンはワクワクしながらどんどん後ろへ飛び去って行く風景を楽しむ。

 ベネデッタは風にバタつくブロンドの髪を手で押さえながら、キラキラした目ではしゃぐベンを愛おしそうに見つめた。

 やがて、遠くに岩山の連なる様子が見えてくる。その異質な見慣れない風景にベンは眉をひそめ、運命の時が迫ってくるのを感じた。

 すると、急に濃霧がたち込め、真っ白で何も見えなくなった。

「うわぁ、なんですの、これは……」

 ベネデッタは困惑し、じゅうたんの速度を落とす。急に発生した明らかに異常な濃霧。自然現象というよりは誰かによって生み出された臭いがする。

 ベンはカギの動きをジッと見定めた。すると、変な動きをしているのに気が付く。

「あ、ここは迷路ですね」

「えっ? どういうことですの?」

「この濃霧の中では進む方向を勝手に曲げられてしまうみたいです。なので、ゆっくりとカギの指す方向へ行きましょう」

「わ、分かりましたわ」

 ベネデッタはカギの方向をみながらそろそろと進み、カギが回るとその方向へ舵を取った。

 濃霧の向こう側からは時折不気味な影が迫っては消えていく。その度にベンは下剤の瓶を握りしめ、冷や汗を流した。何らかのセキュリティ機能ということだろうが、実に心臓に悪い。


 急にぱぁっと視界が開けた。

 穏やかな青空のもと、中国の水墨画のような高い岩山がポツポツとそびえる美しい景色が広がっている。そしてその中に、巨大な城がそびえていた。よく見ると、城は宙に浮かぶ小島の上に建っている。

 うわぁ……。すごいですわ……。

 二人はそのファンタジーな世界に息をのむ。

 城は中世ヨーロッパのお城の形をしており、天を衝く尖塔が見事だったが、驚くべきことに城全体はガラスで作られているのだ。漆黒の石を構造材として、全体を青い優美な曲面のガラスが覆い、随所(ずいしょ)にガラスが羽を伸ばすかのような装飾が優雅に施されている。そして、ガラスにはまるで水面で波紋が広がっていくような優美な光のアートが展開され、お城全体がまるで花火大会みたいな雰囲気をまとった芸術作品となっていた。

 その、モダンで圧倒的な存在感に二人は言葉を失う。

 魔王城なんて魔物の総本山であり、汚いドラキュラの城みたいなものがあるのかと思っていたら、極めて未来的な現代アートのような美しい建造物なのだ。

 ベンは魔王との会合が想像を超えたものになるだろう予感に、鳥肌がゾワっと立っていくのを感じていた。