「ふぅ……、危なかった……」

 森の中ですっかり中身を出したベンは、恍惚(こうこつ)の表情を浮かべながら、青空をゆったりと横切る雲を眺めていた。

「あぁ、生き返る……」

 チチチチと小鳥たちがさえずる声を聞きながら、ベンは天国に上ったような気分で目を閉じる。もうあの腹を刺す暴力は去ったのだ。

 勝利……。そう、あの悪魔的な便意に打ち勝ち、肛門を死守したのだ。若干漏れてしまったが実質勝利と言っていいだろう。

 グッとこぶしを握り、ガッツポーズをしながらベンは自らの健闘を讃えた。あの苛烈な戦いからの無事生還はまさに奇跡である。

 ベンがにんまりとしていると、いきなり空の方から女の子の声が響いた。

「きゃははは! ベン君、すごいね! 千倍だって!」

 見上げると、青い髪の女の子が、近未来的なぴっちりとしたサイバーなスーツに身を包んでゆっくりと降りてくる。透き通るような肌に、澄み通るパッチリとした碧眼(へきがん)。その人間離れした美貌には見る者の心をぐっとつかむ魔力をはらんでいた。

「あっ! シアン様!」

 ベンは思わず叫ぶ。そう、この女の子は、ベンが日本で死んだ時にこの世界に転生させてくれた女神だった。

 しかし、ベンには不満がある。普通転生と言えばチートなスキルが特典としてもらえるはずなのに、ベンには【便意ブースト】という訳わからないスキルだけで、逆にレベルが上がらない呪いがかけられていた。このおかげで強くもなれず、貧困の中で必死に荷物持ちなんてやる羽目になっている。

「このスキルなんなんですか? せっかく転生したのに散々なんですけど?」

 ベンはここぞとばかりにクレームをつける。

「え? そのスキルは宇宙最強だよ?」

 女神は小首をかしげて言う。

「は? 何が宇宙最強ですって?」

「便意を我慢すればするだけ強さが上がっていくんだよ。さっき千倍出して魔人瞬殺してたよね?」

「は? 魔人?」

 排便のことに必死であまり覚えていないが、確かに何かしょぼいピエロのようなオッサンをパンチで粉砕したような記憶がある。ベンの攻撃力は十しかないが、千倍となれば一万になる。勇者の攻撃力だって千は行っていないはず。あの時自分は勇者の十倍以上強かったということらしい。

 荷物持ちどまりとして散々馬鹿にされてきた最弱の自分が、あの瞬間は人類最強だった。

 バカな……。

 ベンはかすかにふるえる自分の両手を見た。この手で魔人を粉砕したなど全く実感がわかないが、確かにそうでなければ説明がつかない。

「人間は便意を我慢すると集中力が上がるんだよ。そしてその集中力に合わせてパラメーターをブーストするのが【便意ブースト】。我慢すればするだけどこまでも上がるので宇宙最強だよっ!」

 シアンはニコニコしながら楽しそうに言った。

 ベンは絶句した。なんという悪魔的なスキル。人が苦しむのを楽しむために作ったような酷い仕様である。

「いや、ちょっと待ってくださいよ。なんかこう、念じるだけでブーストしたっていいじゃないですか。なんでよりによって便意なんですか?」

「人間はね、なぜか便意の我慢が強烈なパワーを生むんだよね。あれ、なんなんだろうね? きゃははは!」

 シアンはそう言って楽しそうに空中をクルッと回った。腰マントがヒラヒラッと波打ち、まるでゲームのエフェクトみたいにそこから光の微粒子がキラキラと振りまかれる。

 ベンはウンザリして首を振った。どんなに宇宙最強と言われたって、あの猛烈な便意を我慢し続けたら人格が崩壊しかねない。

「こんなスキル要らないです。弱くていいからもっと別なのに変えてください」

「ダメ――――!」

 女神はそう言って腕で×を作った。

「な、なんでですか?」

「だって君、素質あるよ。【便意ブースト】で千倍出したのって君が初めてなんだよね。やっぱり真面目な子って素敵。僕の目に狂いはなかった。この調子なら……神すら殺せるよ。くふふふ」

 シアンは何やら穏やかでないことを言って、悪い顔で笑った。

「か、神殺し……? いや、神なんて殺せなくていいから……」

「正直言うとね、この星、もうすぐ無くなるかもしれないんだ」

 急に渋い顔になるシアン。

 ベンはいきなり世界の終わりをカミングアウトされ、驚きで目を白黒させる。

「へ? それって……、僕たち全員死んじゃうって……ことですか?」

「そうなんだよー。で、君にちょっと救ってもらおうと思ってるんだ。いいでしょ?」

「ど、どういうことですか? 僕、嫌ですよ!」

 しかしシアンは聞こえないふりをして、

「次は一万倍、楽しみだなぁ」

 と、嬉しそうに笑う。

「何が一万倍ですか! こんな糞スキル絶対二度と使いませんからね!」

 ベンは真っ赤になって叫んだ。しかし、シアンは気にも留めずに、

「あ、そろそろ行かなきゃ! ばいばーい。きゃははは!」

 と、言ってツーっと飛びあがる。

「あっ! ちょっと待……」

 ベンは引き留めようと思ったが、女神はドン! と、ものすごい衝撃音を上げながらあっという間に音速を超え、宇宙へ向けてすっ飛んでいってしまった。

「なんだよぉ……」

 ベンはぐったりとうなだれた。何が宇宙最強だ、何が星を救うだ。なんで自分だけがこんなひどい目に遭うのか、その理不尽さに腹が立った。

 絶対女神の思い通りになどならん!

 ベンはグッとこぶしを握ると、二度と糞スキルなど使わないと心に誓った。











3. 追放


「あっ! ベン! お前どこ行ってたんだ!」

 勇者はダンジョンの入り口に戻ってきたベンを見つけると、目を三角にして怒鳴った。

「あ、ごめんなさい、ちょっと用を足しに……」

「お前がちゃんと見てないから荷物全損だぞ! 貴様はクビだ!」

 勇者はカンカンになってベンに追放を宣告した。

「えっ! ちょっと待ってください、それは魔人がやったことですよ。代わりに魔人を倒したじゃないですか」

「魔人を倒した? お前が? ただの荷物持ちがなんで魔人なんて倒せるんだよ?」

「あ、そ、それは……」

 ベンは【便意ブースト】のことを説明しようとしたが、こんなバカげたスキル、説明するのもはばかられる。それにマーラも聞いているのだ。恥ずかしくてとても口に出せず、うつむいた。

「それみろ! 単に魔人が何かやらかして自爆しただけだろ? 勝手に自分の手柄にすんな! クビだ! クビ!」

 勇者はそう言い放つと、「帰るぞ!」とパーティに告げた。

「えっ! そ、そんなぁ……」

 マーラは少し心配そうにチラッとベンの方を見たが、そのままメンバーと一緒に去って行ってしまう。

 ベンは呆然として立ち尽くした。相場よりもかなり安い値段で、地図まで読んで勇者パーティに尽くしてきたのに、この仕打ちはひどすぎる。荷物燃やしてクビになったなんて話がギルドの中で知れ渡れば、もうベンを雇ってくれるパーティなんてないだろう。紹介してくれた街の偉い人の顔も潰してしまったので、トイレ掃除の仕事もなくなってしまうに違いない。

「このままだと飢え死にだ……」

 ベンは真っ青になってガクッと崩れ落ち、明日からどうやって暮らしていったらいいのか途方に暮れる。そして、ただ、小さくなっていく勇者パーティの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。


        ◇


 翌日、ベンは暗黒の森にゴブリン退治に来ていた。レベルの上がらない呪いのかかったベンを入れてくれるパーティもなく、街の仕事も当面は難しい。生き残るにはソロで冒険者をやるくらいしかなかった。

 ベンはポーチをまさぐり、なけなしの金で買った下剤の小瓶を取り出し、眺める。これは薬師ギルドのおばちゃんに土下座して特別に調合してもらったもの。その茶色の瓶の中に入った液体はきっと強烈な便意を引き起こし、ベンを宇宙最強にまでしてくれるはずだ。しかし、ベンはどうしても飲む気にはなれなかった。あの強烈な腹の痛み、肛門を襲う便意のことを思い出すだけで身体が震えてしまう。

 それにあのクソ女神の思惑通りになるのも絶対避けたかった。

 ベンはうつむき、ギュッとこぶしを握ると、

「ゴブリンくらいならスキルを使わなくたって倒せるはずだ!」

 と、自分を鼓舞し、顔を上げ、うっそうとした暗黒の森の奥をにらんだ。


       ◇


 しばらく慎重に進むと、ガサッと茂みが動いた。何かいる!

 ベンは短剣を構え、茂みを凝視する。

 思えばソロの戦闘は初めてかもしれない。ミス一つで死んでしまう世界に飛び込んでしまったことを少し後悔しながらも、自分にはもうこの生き方しか残されていないと覚悟を決めた。

 ベンは短剣をギュッと握る。

 脂汗がたらりと頬をつたっていく……。


「ギャギャー!」

 いきなり茂みから飛び出した緑色の小人、ゴブリンだ。とがった耳に醜悪な顔、その気色悪さがベンを威圧する。

 ゴブリンはよだれを垂らしながら棍棒を振りかざし、まっすぐにベンを襲う。

 ベンは緊張でガチガチになりすぎて、対応が遅れた。

 振り下ろされるこん棒。

 ベンは間一髪でかわすも、足を取られ、転んでしまう。

 うわぁ!

 そこにさらに振り下ろされるこん棒。ゴブリンは身体が小さな分、俊敏で、厄介な相手だ。

 ベンは何とか短剣で叩いて直撃を免れると、こん棒をつかみ、そのまま()りを喰らわせた。

 悲痛な叫び声を上げながら吹き飛ぶゴブリン。

 ベンは急いで起き上がり、ここぞとばかりに棍棒をバットのように振り回してゴブリンの頭部を打ちぬいた。

 ゴブリンは断末魔の悲鳴を上げ、やがて薄くなり消えていく。そして、緑色の魔石が足元に転がった。

 はぁはぁはぁ……。

 ベンは荒い息をしながら魔石を拾い、その緑色に怪しく光る輝きを眺める。

 ゴブリン一匹に命懸け、これはどう考えてもいつか殺されてしまう。やはり、ソロでやっていくのは難しいと、思い知らされたのだった。

 その時、森の奥、あちこちから「ギャッ!」「ギャッ!」と声が上がる。ゴブリンの群れに気づかれてしまった。

 ヤバい!

 鼻の奥がツーンとして、死の予感が真綿のようにゆっくりと首を締めあげていく。

 まともに戦えば殺せて2,3匹。あとは残りの連中に惨殺されて終わりだ。ベンはそうやって死んだ新米冒険者を何人も見てきたのだ。

 ベンはダッシュで逃げる。渾身の力で木の根を飛び越え、(やぶ)を抜け、街の方へと必死に駆けた。

 すると、ポン! という音がして、小さなぬいぐるみのような生き物が空中に現れた。青い髪の毛を揺らしながら背中には羽を生やしている。顔はシアンをデフォルメしたものになっているところを見ると、どうやらシアンの分身らしい。

 そのぬいぐるみはベンの耳元で、

「ほらほら! 下剤下剤! きゃははは!」

 と、笑いながら言った。

「シアン様! 下剤なんて嫌ですよ。僕はあんなスキル絶対使わないんです!」

 ベンは糞スキルを推してくるシアンにムッとして言った。

 しかし、シアンは聞く耳を持たず、

「げ・ざ・い! げ・ざ・い!」

 と、(はや)し立てながらベンの周りを飛ぶ。

 なんというウザい女神だろうか。

 ベンはそんなシアンを手で追い払いながら、ただ必死に走った。

 しかし、ゴブリンは口々に嫌な叫び声を上げながら迫ってくる。

「どんどん、距離縮まってるよ? 早い方がいいよ」

 ぬいぐるみのシアンは悪い顔をして耳元でささやく。

 人としての尊厳を取るか、生き残るための合理的選択を取るか、迫られるベン。

 ベンはギリッと奥歯を鳴らし、シアンをにらんだ。