成(なる)海(み)天音。
それが、子どもの頃の私の名前だった。当時はお父さんとお母さんと、私と弟の四人で暮らしていた。夫婦仲は、物心のついた頃からあまり良くはなかった。
弟の春(はる)音(と)と私はとても仲が良くて、一緒にスポーツをして遊ぶことがよくあった。私の方が歳は上だったから、いつも教える側に回っていた。野球をする時も、ドッジボールをする時も。
けれど、そんな風に外で遊ぶことは、次第になくなっていった。とても単純な理由だった。弟の春音が病を患っていたからだ。病状が悪化したことにより、杉浦病院に入院することになった。とても重い病気だということは、お母さんの憔(しょう)悴(すい)しきった様子で察していた。
治るの?とは、聞いちゃいけないような気がした。お父さんもお母さんも、あまり病気のことを私に話したがらないから。だから、強くならなきゃいけないんだと子どもながらに理解した。二人で背負うよりも、三人で背負った方が、心は軽くなると思った。
けれど、もともと悪かった夫婦仲は、弟の病気の悪化を境に崩壊の一途を辿った。毎日病院へお見舞いに行くお母さんと、現状から目を背け続けるお父さん。心は、いつもすれ違っていた。
当時、私はお父さんが別の女性と仲良くしているのを知っていた。家に帰ってきた時に、お母さん以外の女性の匂いがすることがあったからだ。それを、お母さんが知っていたのかはわからない。ただ、怒る時にヒステリーを起こすことがよくある人だから、お父さんは疲れてしまったんだろうなと、子どもながらに察した。
春音の病気が良くなることはなく、日に日に生命の期限を奪っていくかのように悪化していった。これまでよりも強い薬を体に入れることになって、そのせいで髪の毛がすべて抜けた。ツルツルになった頭を私に見せて、春音は言った。
「僕、頑張るから。病気が治ったら、あ(、)ま(、)ね(、)ぇ(、)とまた一緒に遊びたい。野球したい」
 病気を患っているのに、春音は誰よりも強かった。だから私も負けちゃいられないと思って、お母さんにお願いして、当時伸ばしていた髪を理髪店で剃(そ)ってもらった。鏡に映った私は、思いのほか男の子のような見た目をしていた。
 翌日、春音にまん丸になった頭を見せると、最初は驚いて目を丸くしていたけど「変なあまねぇ!」と、久しぶりに笑ってくれた。それがただ純粋に、嬉しかった。
 女の子のままじゃ強くなれないと思った私は、それから男の子のように振舞うようになった。それがまた春音は嬉しかったらしく、同い年の男友達ができたみたいだと言ってくれた。だからこれからも髪の毛は伸びてきたら切って、男っぽく振舞うことに決めた。
 けれど小学校のクラスメイトたちは、そんな風に変わってしまった私を嘲笑して、いじめた。女の子は、女の子らしく振舞っていないとおかしいみたい。頭では理解していたけど、切った髪が一晩で元に戻ることはないし、何より他の誰かのためじゃなく弟のためにしていたことだったから、私は開き直っていた。
それでもいじめに耐え切れなくなって、私はだんだんと学校へ通わなくなった。気付けばいつも、お母さんと一緒に春音のお見舞いに来ていた。お母さんは、『天音が春音のためを思ってやっていることは、絶対に間違ってないよ』と肯定してくれた。だから、自分のやっていることは正しいのだと、疑いもしなかった。
私の仕草や言葉遣いは、日に日に荒っぽくなった。それが強くなることなんだと信じて止まなかった。強さの意味を履き違えていることを、誰も教えてはくれなかった。お父さんは別の女の人を見ていたし、お母さんは私よりも春音のことを見ていたから。
健康な私は、誰にも相手にされていなかった。
春音の病気は、現状を維持することはできても、快復には向かわなかった。命の秒針は刻一刻と終わりの時に向かって動き続け、見ていることに耐え切れなくなった時は病院の屋上で新鮮な空気を吸った。春音は起きている時間よりも、寝ている時間の方が多い時もあった。そんな春音はきっと、誰よりも頑張って病と闘っていた。
ある時いつものように屋上へ行ってみると、そこに一人の男の子がいた。屋上の手すりにつかまって、地上を見下ろしている。飛び降りるんじゃないかと思い怖くなって、気付けば私は話し掛けていた。
「おいお前、そこで何してるんだよ」
 彼の名前は、春希くん。当時は、男のくせに女の自分よりも弱っちい奴だと思っていた。けれど、初めて同年代の男の子に抱き留められた時、不覚にも心がざわついた。
 そんな春希くんに「お前って言うの、やめてほしい……」と言われた。私は初めて、自分の言葉が他人を傷付けるぐらい荒っぽくなっていたことを自覚した。だから、それからは一度たりとも、誰かのことを『お前』と呼ぶことはなかった。
 春希くんには、自分の名前は『成海』だと自己紹介した。『天音』と言ってしまえば、すぐに女だとバレてしまうからだ。男みたいな振る舞いをしているのに、名前はどう読んでも女の子にしか見えなくて、当時はかなりのコンプレックスだった。
 春希くんに会いに行くのは、春音が眠っている間の暇潰しみたいなものだった。眠っている間は病室にいてもやることがなく、薬剤を体に取り込むための管が弟の体に付いているのを見るのは苦手だった。
 彼と話をするのは、当時の私にとっては唯一の心休まるひと時だった。学校のことも、家族のことも、弟のことも考えなくていい、かけがえのない時間だった。
 けれどいつかは本当のことを話さなきゃいけなくて、その日が来るのがとても怖かった。春希くんにまでクラスメイトの子たちと同じように嫌われてしまえば、本当に居場所がなくなってしまう。彼は人を容姿で差別しない人だとわかっていても、嘘を吐いていた事実に変わりはないのだから。
 私は、春希くんのお母さんのことが大好きだった。もちろん産んでくれたお母さんも大好きだけど、怒らないし、いつもニコニコしているし、前に杉浦くんが言っていたように、他所の家の子だというのにリンゴを剥いて食べさせてくれた。だから、春希くんに本当のことを話す前に、お母さんには事実を打ち明けておこうと決めた。
 本当は春音も入院しているから、トイレの場所はわかっていたけれど、知らないふりをしてついてきてもらった。歩きながら、病気を患っている弟がいることを教えると、やっぱり自分のことのように心配してくれた。お父さんは、お見舞いにすら来ないというのに。
 だから本当の性別を明かしても、この人なら大丈夫だと思った。女(、)子(、)ト(、)イ(、)レ(、)に入り用を済ませて出てくると、予想通り驚いてはいたけれど、すぐに持ち直して「ナルミち(、)ゃ(、)ん(、)だったんだね」と、笑顔で言ってくれた。その後私は、お母さんに抱きしめられながら、ちょっとだけ泣いた。
 病室へ戻る時、春希くんに隠していることを全てお母さんに打ち明けた。相槌を打って、真剣に話を聞いてくれたから、世の中には自分のことを気持ち悪いと思わない人もいるんだということを知った。当たり前のことだけれど、当時の私の世界では、家族しか私を認めてはくれなかったから。
 同い年の子の中にも、春希くんのお母さんのように話を聞いてくれる人がいるかもしれない。だから、ずっと休みがちだった学校へ復帰することを決めた。
 けれども久しぶりに学校へ行っても状況は変わらなくて、むしろ腫(はれ)物(もの)を扱うように接された。上履きを隠されたり、ノートに落書きされたり。だからひっそりと息をするように学校生活を送った。
その生活に限界が来たのは、陰で私の悪口を言っている男の子を見つけた時だった。頭に血が上って、顔を殴った。すると、相手は驚くほど素直になった。勝てない相手だとわかると、人は従順になることを知った私は、強くなるということをさらに履き違えてしまった。殴ったことは当然問題になって、学校へ来たお母さんが頭を下げた。私は、形だけの『ごめんなさい』をした。
「辛かったら、無理に学校へ行かなくてもいいのよ」
 家に帰っても、叱(しか)ったりせずにお母さんはそれだけ言った。それだけ言って、病院へお見舞いに行く準備を始めた。だから私は、もっと大きな勘違いをした。誇らしかった。強くなれたんだと思ってしまった。
けれど病室で春希くんに得意げに話すと、それは決して強くはないと反論された。私は自分が正しいと信じて疑わなかったから、聞き入れることなく病室を飛び出した。すると、偶然にも春希くんのお母さんとすれ違った。この人なら、わかってくれると思った。だから殴ったことと喧嘩をしたことを伝えると、初めて「そんなことは、しちゃいけないのよ!」と怒られた。むっとした表情をされただけだったけど、それでも普段のニコニコ顔じゃなかったから、自分が悪いことをしてしまったんだとようやく自覚した。
「明日、もう一度ハルと話をしなさい。イライラしても、逃げずにね」
 春希くんのお母さんからはそう言われただけで、正直もっと怒られると身構えていたから、むしろ拍子抜けしてしまった。
今にして思えば、あの時言われた言葉が、生きていく上で一番の大切なことだった。その日お母さんと別れる時、独特な別れの挨拶をされて真似をしてみた。すると笑顔になってくれて、それからなんとなく、私はそれが癖になった。
翌日、もう一度春希くんと面と向かって話をした時に、初めて人とわかり合えたような気がした。それまでの私は、自分のことを理解して欲しいと思うだけで、話をすることを放棄していた。だからこそ、これからはちゃんと相手の話を聞こうと反省した。
無事に学校へ通えるようになったら、本当の自分のことを春希くんに話そう。
決意が鈍らないように、指切りをして約束した。好きだと言われて、心の底から嬉しかった。男の姿をしている自分は、気持ちが悪いとしか言われてこなかったから。
春希くんはたぶん、裏切るということをしない人なんだろう。
だから、自分と向き合うことに、勇気を持てた。
けれどそれからすぐに春音の容体が急変して、そのまま亡くなってしまった。張り詰めていた糸がぷつんと千切れるように、お父さんとお母さんは離婚した。まるで、春音が亡くなるのを待っていたかのようだった。
たった一人の弟がいなくなって失意に沈んでいた時に、どちらについていくのかを訊ねられた。選ぶことなんてできなかった。曲がりなりにも、これまで一緒に過ごしてきた家族なんだから。けれど、お父さんがいつかまた一緒に暮らせるようにすると言ったから、今だけはお母さんについてくことに決めた。
あまり時間を空けずに、お母さんは別の男の人と再婚した。お父さんとの約束は、いったい何だったんだろう。私は名字が二回変わって、高槻天音になった。新しいお父さんは、弟が入院していた病院で小児科医をしている人だった。それを知った時、私は子どもながらに複雑な思いを抱いた。
新しいお父さんには、どうしても懐くことができなかった。他人同然の人がいきなり家に上がり込んできたのを、受け入れろと言われても無理な話だ。それでも仲良くなろうと手を差し伸べられたけど、ことごとくを拒絶した。どうしようもないほどに、私は子どもだった。
残りの小学校生活は、家に引きこもってやり過ごした。いつの間にか、短かった髪は伸びきっていて、成長と共に男っぽく振舞っていた面影なんて綺麗さっぱり消えていた。それでも久しぶりにお父さんと話をする時、私のことは以前と変わらず天(、)音(、)く(、)ん(、)と呼んできた。
今にして思えば、新しいお父さんは、私が男っぽく振舞っていたことを、ずっと許容してくれていた。
小学校の卒業式には参加しなかった。思い出なんて、何もなかったから。
いつものように部屋に引きこもって片付けをしていたら、偶然にも押し入れの中にしまい込んだままの画用紙を見つけた。それは、前に春希くんと一緒に描いた、たった一枚の宝物だった。当時を思い出して、涙が溢れた。彼との思い出だけが、私にとっての唯一の支えだった。
もしかすると、春希くんも同じ中学に入学するかもしれない。だからまた、中学に上がってから頑張ってみようと思えた。
けれど、何もかもやり直すつもりで入学した初日から、既にこれからの生活のやる気は完全に失われていた。すべてのクラスをそれこそ三周くらいは確認したけれど『工藤春希』という男の子の名前がなかったからだ。入る中学を間違えてしまったとさえ思った。
それでも、同じクラスには『宇佐美真帆』という女の子がいた。
話し掛けようとしたけど、何と説明すればいいか迷った。男みたいに振舞っていたから、打ち明ければ気持ち悪いと言われるかもしれない。だから何も言えなかった。
けれど真帆がいたおかげで、中学校へ通うことに意味を見出すことができた。
クラスメイトの中には、小学生の頃に話したことがある人もいた。またいじめられるかもと不安だったけど、驚いたことにみんなが初めましてと私に挨拶してきた。よく考えてみれば、名前も成海から高槻に変わっているし、あれから髪も伸びている。中学は私服ではなくセーラー服だから、男っぽさなんて微塵も感じられない。話し方も、入学する前に少女漫画を読んで矯正した。だからみんな、いじめてた成海だとは気付かなかった。
ちょうどいいと思った。すべてをやり直すには、最高の環境だった。だから、春希くんや春希くんのお母さんから学んだように、ちゃんと相手と向き合って、会話することを心掛けた。苦手な人でも、話をしてみればわかり合えることにようやく気付けた。いつの間にか、クラスメイトのみんなと、私は友達になれていた。
『橋本康平』とは、特別周りの人たちよりも仲良くなった。よく話していた私は、付き合ってるんじゃないかと噂されたけど、そんな事実はない。特別な感情も抱かなかった。優しいけど、中学生になって恋心というものを理解した時、あの頃春希くんに抱いていたものがまさしくそれだったことに気付いてしまったのだ。
けれど私は真帆と春希くんの仲を応援していた立場の人間で、勝手に一人で過去の二人に嫉妬した。そんな真帆とは、たまに話をする程度の関係は築けていた。
ある時康平から、一緒にショッピングモールへ遊びに行かないかと誘われた。いつもは顔色変えずに話しかけてくるというのに、その日は頬を赤くさせていて、了承した後にデートの約束だったんだと気付いた。
とはいいつつも、ショッピングモールのフードコートでご飯を食べて、その辺をぶらぶらするだけの計画だった。一端の中学生に財力なんてものはないため、交通費と食事代だけでお小遣いは吹き飛んでしまう。だから結局はいつも通り話をして、頃合いを見て解散をするだけだと楽観していた。
事件は、二人でゲームセンターを回っていた時に起きた。少しだけお金が余ってるから、ユーフォーキャッチャーでもしようよと彼が提案した時、私は視界の端にとてもよく見知った人物を捉えてしまった。
その人は、私の知らない女性と手を繋いで歩いていて、その女性はまだ生まれたばかりの赤子を胸に抱いていた。呼吸が、だんだんと荒くなっていった。逃げ出したくて、目をそらしたくて、それでもどうすることもできなかった。
「天音? 大丈夫?」
 康平が、私のことを心配してくれる。その声があの大人にも聞こえていたのかはわからないけど、なんと間の悪いことにこちらを見た。目が合って、そらされる。気まずそうに、連れの女性に何か話し掛けて、方向を転換しどこかへ行ってしまった。
 いつかまた、一緒に暮らそう。
心のどこかで、まだその言葉を信じていたのかもしれない。だから明確に裏切られていたことを知った時、忘れたかった在りし日の思い出が濁流のように押し寄せてきて、私の修復しかかっていた心を一気に飲み込んだ。思わず、その場にうずくまった。
「ちょっと、天音……? 本当に大丈夫……?」
 背中をさすってくれる。
嘘を吐かれた。家族だった人に。お父さんだった人に。
家族を捨てて、また新しい家族を作っていた。気持ちが悪いと思ってしまった。あの言葉は、私を捨てるための体の良い言い訳だった。家族のためだと言ったのに、結局は自分のためだったんだ。
私は新しい家族と何も上手くいってないのに。お母さんとも、上手くいってないのに。模範とならなきゃいけない大人ばかりが幸せになっている。それが、許せなかった。いずれ壊れる関係なら、そこに愛という尊い言葉を持ち出さないで欲しかった。
生まれてきた子どもが、理不尽に苦しい思いをしてしまうから。
過呼吸を起こしそうになった時、どうすればいいのかバスケ部で教えてもらっていたのか、とにかく康平のおかげで呼吸を落ち着かせることができた。それから近くの椅子に座って休ませてもらい、ほんの少しだけ彼に愚痴を吐いた。
お父さんが浮気をして、一家が離散したこと。お父さんに嘘を吐かれたこと。怒る時、お母さんがヒステリーを起こすこと。たまに顔を合わせる時、口癖のように母から「将来は、医者になりなさい」と言われること。新しい子を妊娠していること。家庭に、居場所がないこと。さっき、お父さんだった人と目が合って、そらされてしまったこと。
何年か分の溜まっていた思いを、もちろん話せないこともあったけど、吐き出した。そのおかげで少しは楽になったけど、私を見る康平の瞳の色が変わってしまったことに気付いた。
かわいそうなものを見る目になってしまった。
「お前は今まで、本当に辛い思いをしてきたんだな……」
 悪気なんて、なかったんだろう。そこにあったのは、好きな人を助けてあげたいという、ひたむきで真っすぐな尊い気持ちだけ。
それがたまたま、あまりにも事情が深刻だったから、誰かが支えてあげなきゃいけないんだという、強迫観念にも似た思いに取り憑かれてしまった。私が彼を変えてしまった。本当は最初から自覚していた。全部、私が悪かったんだって。
だから彼が傷付いたりしないように、接し方は変えられなかった。告白されて、何度も振り続けている間に、いつか彼が新しい人を好きになって欲しいと願った。
そしてもう誰にも、家族の話はしないようにしようと、心に決めた。
ヘアドネーションという言葉を知ったのは、中学二年生の頃だった。病気で髪が抜けてしまった子どものために、髪を寄付してウィッグを作る取り組みがあるらしい。私はその日、迷わずお父さんに話をした。お医者様をやっているから、すぐに理解は得られた。髪を切りに行く時、話し掛けてくれたのが嬉しかったのか、仕切りに話が途切れたりしないように会話を繋いでくれた。
悪い人ではない。ずっとそう思ってはいたが、口が滑って、いつからお母さんと知り合っていたのかを聞いてしまいそうで、あまり長くは話せなかった。今となってはもう、浮気じゃなかったと知ってはいるけど、ここ最近まで私はずっと二人の出会いを疑っていた。
長かった髪をバッサリと切り落とした時、クラスメイトからは心底驚かれた。それでも、もう馬鹿にしてくるような人たちはいなくなっていた。
そのようにして、しばらく経って高校受験が控え始めた頃、行きたい学校のなかった私は真帆との関係を途切れさせたくないという理由だけで、同じ学校に進学することを決めた。特別仲の良い関係ではなかったから、志望校を聞いた時は不審がられた。そして康平や風香も私にくっついてきた。私がいるからという理由だけで志望校を決めるのはいかがなものかと思ったけど、完全にお前が言うなという話だから、彼らの意思に任せることにした。
そうして無事に合格して始まった高校生活で、ついにその時が来た。
貼り出されたクラス分けの紙に、工藤春希という名前が刻まれていた。思わず、泣きそうになった。クラスは、違ったけれど。
「天音とは、今回も同じクラスだな」
 いつの間に隣にいたのか、康平がそんなことを呟いた。よく見てみると、確かに同じクラスだった。そうして一筋こぼれた春希くんへの涙を拭うと「おいおい、泣くほど嬉しかったのかよ」と彼は嬉しそうに笑った。
 真帆とは、偶然にも同じクラスだった。けれど眼鏡を外してコンタクトに変えていたから、別人のようだった。中学では目立たない存在だったのに、積極的にクラスメイトたちに話し掛けて仲良くなろうとしていたから、なんだか、かわいいなと思った。昔の私を見ているようだった。
 春希くんと廊下ですれ違った時、自分の中に芽生えていた恋心が勘違いじゃなかったことを確信した。同時に、この数年でいろんなことが変わってしまったから、気付かないだろうなと思った。案の定、すれ違って目もあったのに、彼は気付いてくれなかった。仕方がないけれどちょっとだけ……いや、かなり寂しかった。
 あの日から料理を覚えたことも、女の子みたいに髪を伸ばしたことも伝えたかったのに。
 好きな人に話し掛けるのは、勇気がいることのようだ。彼はいつも一人でいるから、話し掛けるタイミングなんてそれこそいくらでもあったのに、結局高校一年は一度も会話を交わすことなく終了した。
 終業式の日、康平が真帆に告白されたらしい。
それを私は、本人から聞いた。振ったことも伝えられた。暗に、私のことが好きだから振ったと言っているようだった。しばらくして仲の良い友人から、工藤春希が真帆の傷心に付け込んで、アプローチを仕掛けたらしいという噂話が流れてきた。
 すぐに、そんなはずはないと思った。その根拠のない噂は、しかし瞬く間に拡散されていった。だからそんな噂が流れてくるたびに、騒動を鎮火させるための言葉を投げ続けた。それでも、一度炎上してしまったものは、簡単に消えたりしなかった。
 新学期が始まって早々、春希くんに対しての陰湿ないじめが始まった。悲しいことに、真帆もそれに加担してしまっていた。
 過去にあった自分に対するいじめは、結局のところ異分子を排除したいという意思が一番強くて、そんな時だけ普段あまり仲の良くない人までもが一致団結する。皮肉なことに、中高生が一番結束力の高まる瞬間は誰かをいじめている時で、関係ない人までもが春希くんに嫌がらせをした。冷たい視線を向けた。いじめられるようになったきっかけを、知らない人もいるんじゃないか。一度膨れ上がってしまった悪意は、もう私一人の力ではどうすることもできなかった。
 修学旅行の実行委員が私と春希くんに決まった後、空き教室で彼と話をした。
「私、あんな噂話は信じてないから。ここで話したことも、別に誰かに話すつもりもないし。普通にしてていいんだよ」
「……ごめん」
 それから真実を知るために優しく問い掛けると、彼は話してくれた。
「「……たまたま、宇佐美さんが昇降口で男の人に告白してるところに出くわしちゃって。それで、宇佐美さんが泣いてたから、慰めようとしただけなんだ。でも、やっぱり僕も悪いよ。勘違いされるようなことをしちゃったから……」
 そんなことだろうなと、最初からわかっていた。優しい彼が、人の弱みに付け込むはずがないんだから。
 勘違いというよりも、真帆は気が動転していたんだろう。
「真帆を慰めたのは、やっぱり昔馴染みだったから?」
 訊ねると、小さな目が見開かれた。
「……誰にも、話してないんだけど」
「だって私、春希くんとあの頃ずっと一緒にいたから」
「……え?」
「スギウラナルミだよ。覚えてない?」
「ナルミくん……?」
 その名前で、確信したんだろう。彼は突然、涙を流した。私は、春希くんが泣き止むまで待ってあげた。泣き止んだ後、彼だけに、ありのままの自分をさらけ出した。本当に、全部明かした。私が学校に行けるようになったら打ち明けると、ずっと昔に決めていたから。
 その話の中で、春希くんのお母さんが亡くなったことを知った。体が弱かったなんて、ずっと知らなかった。だから聞かされた時、私も涙がこぼれた。
「……ずっと待たせちゃってごめんね。一人にして、ごめん」
「……僕の方こそ。ずっと、酷い勘違いをしてた。嫌いになったから、いなくなったんだって……」
「嫌いになんてならないよ。ずっと、春希くんのことを考えてた。君とまた一緒に話がしたかったから、中学や高校も通えるようになったの」
 そして、この話を打ち明けた時から、私はもう覚悟を決めていた。これ以上自分に嘘を吐き続けたくないし、黙って見ているのも嫌だった。
「私が、これからは春希くんの味方でいるからね。だから、安心していいよ。真帆のことも、なんとかできるように私が頑張るから」
「……高槻さんがそんなことをしたら、それこそ僕みたいにいじめられるよ」
「いいよ、それぐらい。君をいじめたりするような友達なんて、いらない」
 だって、ずっと会いたかったから。これこそが、本当の愛のカタチなんだと信じて止まなかった。だから、私は正しいことをしているんだと思った。春希くんは何も言ってくれなかったけど、明日から私は、彼をいじめる人を誰一人として許さないつもりでいた。
 けれど翌日から、彼は学校に来なくなった。
どれだけ考えても、不登校になった理由に心当たりはなかった。
 それからまたしばらくして、春希くんは何事もなかったかのように学校へ登校した。雰囲気や言葉遣いから、すぐに別人だとわかった。問い詰めると、驚くことに「スギウラナルミ」だと名乗った。そんな人物は、存在しない。だって、私が子どもの頃に適当に作った仮の名前なんだから。
 初めは記憶が混濁しているから「スギウラナルミ」を名乗っているだけで、本当に誰かと入れ替わっているんじゃないかと思った。けれどあの日、そうじゃないことを偶然にも知った。
 杉浦くんと初めてデートをした日、『春希くんのことが好きだ』と言った瞬間、彼の表情に変化が現れた。以前にも、教室で似たようなことがあった。あの時は、一時的に杉浦くんと春希くんが入れ替わっていた。
 今回も、おそらくそれと同じことが起こった。
「……あれ、ここは?」
「……春希くん?」
 誰もいないリビングは、話をするのにちょうど良かった。今度は、教室にいた時みたいに取り乱したりしなかった。
「……高槻さん。僕は、どうしてここにいるの? 君と、二人で……」
「さっきまで、デートをしてたの」
「デート?」
 驚くほど、冷静に話をすることができた。チャンスは、この瞬間しかないと思ったから。
「誰か知らない人と、体が入れ替わったりはしてない?」
「……何それ。ちょっとよくわかんない」
「ここ数日、春希くんは『スギウラナルミ』を名乗る人に入れ替わってたの。だから、この前流行った映画みたいに、知らない人と体が入れ替わったんじゃないかって、その人と一緒に推測してたんだけど」
「その映画、たぶん僕も見た……でも、知らない。よくわからない。前も、家で寝てたはずなのに、気付いたら学校にいたけど……なんで今は、高槻さんの家にいるの?」
 話を聞く限りでは、入れ替わりが起きている間、春希くんは意識を消失しているらしい。ということは、別に誰とも入れ替わったりはしていない、のだろうか。確証はなかった。
私はいつだったか、似たような症状のある病気をどこかで聞いたような気がした。お父さんに聞けば、わかるんだろうか。あの人は、お医者様だから。
とにかく、今が好機だと思った。だから彼が取り乱したりしないように、ここ数日の出来事をメモで確認しながら、詳細に語って聞かせた。そのことごとくに、春希くんは「覚えてない……」という反応を示した。
けれど今回は、前みたいに意識を失って杉浦くんに戻ったりしていない。よくわからないけど、ようやく元に戻ったんだと思った。杉浦くんのことはわからずじまいだったけど、もし彼に本当の体があるとしたら、杉浦市を訪ねてここに来てくれる。それを、信じるしかない。
「とりあえず、良かったよ。明日からは一緒に学校に通えるんだね」
 安堵して笑顔を見せると、春希くんは急に表情を引きつらせて「……学校には、行かないよ」と話した。
「どうして?」
「だって僕は、いじめられてるじゃないか。そんなところに、行きたくなんてない」
「だから、私がなんとかしてあげるよ。不安に思うことなんて、何もないの。みんな君のことを嫌っても、私だけはそばにいるから」
 手を握ろうとすると、拒絶された。何か思うことがあるような、複雑な表情を見せ、こらえきれなくなったのか目を伏せる。
「……僕なんかより、そのスギウラって子が代わりになればいいんじゃないの? だって、僕よりもちゃんとやれてるんでしょ? 友達もできたみたいだし、高槻さんとも仲良くやってるみたいだし」
「それはそうかもしれないけど、そういうことじゃないでしょ。だって、仮に杉浦くんの人生があったとしたら、迷惑を掛け続けることになるんだよ?」
「記憶、なくしてるんでしょ……? それじゃあ、ちょうどいいじゃんか。僕の残りの人生、彼にあげるよ。お母さんのいない世界なんて、僕は嫌だったんだ……!」
「ふざけたこと言わないで!」
 思わず、テーブルを叩いた。間接的に手を上げてしまったことを後悔したけど、止まることなんてできなかった。
「逃げないことを教えてくれたのは、春希くんの方じゃん! だから私は頑張って、頑張ってっ……これまで生きてきたんだよ⁉ なんでそれを教えてくれた君が逃げるの!」
「ごめん。でも、僕がいると……」
「逃げるな‼」
 私のその絶叫にも似た言葉を最後にして、春希くんは糸が切れたように顔を俯かせた。嫌な予感がした。それが当たらないで欲しいと思った。
 気付けば、時計の短針が五の数字を回っていた。
「……杉浦くん?」
 確認するように、彼の名前を呟いた。彼は、テーブルに落としていた視線を上げると。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
 戻ってしまったんだとわかった。私は平静を装うことで、精一杯だった。
 春希くんと長話をしてしまったせいで、タイミング悪くお父さんが帰宅した。本当は、帰宅するまでに帰らせるつもりだった。私は、後で話があるからと、お父さんに伝えた。
 聞きたかったことは、『突然人が別人みたいに変わってしまう病気はあるのか』という内容だった。そういうことに興味を持ってくれたことが嬉しかったのか、それとも娘が話し掛けてくれたことに対してなのかはわからないけど、お父さんは嬉々とした様子で説明してくれた。
「DIDだね」
「DID?」
「Dissociative Identity Disorder。解離性同一性障害だよ」
 それで、納得がいった。まだ確定したわけではないけど、これまで接してきた『杉浦鳴海』という人物は、春希くんが作り出した別人格とみて間違いはなさそうだ。お母さんが亡くなったショックで作り出してしまったのか、いじめられた反動で作り出されたのか、あるいはそのどちらも要因となっているのか。
 誰も気付いていない。知ってしまったのは、私だけ。精神科に連れて行った方がいいのだろうか。けれど事情を話して杉浦くんが納得してくれるかわからなかったし、春希くんのように取り乱す可能性もあると思った。それに何より、今まで私は杉浦くんのことを一人の人間と思って接してきた。
 あなたは工藤春希によって生み出された人格で、スギウラナルミという人間は存在しないなんて、言えるはずがなかった。だからずっと、隠すことに決めた。また春希くんに入れ替わった時、もう一度ちゃんと話をすると決めていた。それで納得してもらって、現実を受け入れてもらおうと。
 結局それからというものの、彼が春希くんに戻ることは一度たりともなかった。

* * * *