* * * *

「最近、元気ないね」
 緑の色鉛筆を持ちながら、病室に来てからずっと上の空のナルミに訊ねる。いつもなら、その辺を散歩しようと誘ってきて、春希を無理やりにでも連れ回そうとするのに。今日は、その気がまるでないみたいだ。
「ちょっと考え事してたんだ」
「考え事?」
「学校で、ついクラスメイトを殴っちゃったんだ」
 ついにしては大ごとすぎる告白に目を丸くする。春希は生まれてから一度も、誰かに手を上げたことがなかった。
「……ナルミくんって、いじめっ子なの?」
「いじめたことはないよ。ただ、俺がいじめられてるんだ」
「なんで? 強いのに」
「強くても、いじめられる人はいじめられるんだよ」
「……何か言われたの?」
「なんというか、服装とか髪型とか。キモイんだよって言われてたから、一発殴った」
 別に、服装も髪型もおかしなところはないのにと、思う。ナルミがダメだとしたら、特に何も気を使っていない自分は毎日いろいろ言われるかもしれないと思って、余計に学校へ行くのが怖くなった。
「そんなこと言われても、殴っちゃダメだよ」
「なんでさ。世の中、強い奴が正しいんだぜ?」
「手を出す人が、一番弱いよ」
 春希は珍しく、自分の意見をハッキリ言った。するとナルミは眉をきりりと内側に寄せて、近くのテーブルを思い切り強く叩いた。
「俺は弱くなんかねーよ!」
 驚いて、体が震えた。なんとなく、弱いという言葉がナルミにとっての禁句なんだと察した。けれど気付いた頃にはもう遅く、ナルミは何も言わずに病室を飛び出した。怒鳴られた春希は、わけがわからなくなって、勝手に涙が溢れた。
 それからお母さんがやってきて、春希は訊ねた。
「どうして、ナルミくんは怒ったの……?」
お母さんは、笑顔で教えてくれた。
「それは、ナルミちゃんが強くなろうとしてるからよ」
 でも、春希はお母さんから聞いていた。どんな理由があっても、手を上げる人が一番弱いんだと。そう教わっていたから、事実を言っただけだった。間違っているとは、思わなかった。
「僕も、殴られたりしないかな……」
「大丈夫よ。あの子は、ハルのことが大好きだから。でも、今度会った時はね――」
 その時春希は、生きていく上で一番大切なことを教わった。けれど、ナルミはもうここには来ないから、せっかく教わったことも、無駄になる。
 そう悲観していたけれど、驚くことに次の日もナルミは病室にやってきて「昨日は、ごめん……」と素直に謝ってきた。赤の色鉛筆を持っていた春希は、目を丸くする。
「僕も、ごめん……」
「そうだぞ。元はと言えば、俺のことを弱いって言った春希が悪いんだから」
 謝ってきたのに、逆に自分のせいにされてしまった。苦笑いを浮かべつつも、春希はお母さんに教わったことを実践することにした。
 それはとても単純なことで、相手とちゃんと話をするということだ。
「ナルミくんは、どうして昨日怒ったの?」
「は? ムカついたからに決まってんじゃん」
 いつもより乱暴に、丸椅子に腰掛ける。けれど今日は病室を飛び出したりはしない。
「そうじゃなくて、強くなりたいの?」
「だから、俺は強いんだって。同い年の男の子にも、普通に勝てる」
「僕は、それを強いとは言わないと思うんだ」
 また、怒るかもしれなかった。けれどナルミは、今日は腕を組みながら「どうして?」と訊ねてくれる。
「本当に強い人は、誰も泣かせたりしないから」
「そんなの、俺だって泣かせないよ。春希がいじめられてたら、俺が守ってやる」
「……そうじゃなくて。嬉しいけど、そうじゃないんだよ」
「なんだよ。ハッキリしない奴だな」
 拗(す)ねたように言われて、口元をむぐつかせる。それでも今日は、ちゃんと話をすると決めていたから、自分を奮い立たせるために手を握った。
「……本当に強い人は、誰とでも仲良くなれると思う」
「さっきと言ってること全然ちげーけど」
「そうだけど、そうじゃなくてっ!」
 上手く言葉にできなくて、情けなかった。気合いを入れるために自分の膝を叩くと、ナルミは「おもしれー奴」と言って笑った。恥ずかしくて、体が熱くなった。
「聞いててやるから。ゆっくり話しなよ」
「……それだよ」
 ナルミは、首を傾げてくる。
「殴った相手とも、ちゃんと話をすれば良かったんだよ」
「そんなの無理だぜ? だって、俺とは全然違うし。キモイって言われたし」
「……でも、僕とナルミくんは全然違うのに、こうやって仲良くできてるよ?」
 思い切って言ってみると、目をぱちくりされた。春希にはこれまで友達がいなかったから、そんな簡単なことを言う時でさえ、心臓がバクバクと鼓動した。仲良くないじゃんと、言われるかもしれないからだ。
 けれど。
「そういえば、そうだな!」
 ナルミは笑ってくれた。春希はホッと胸を撫で下ろす。
「よく考えたら、春希の言う通りかもな。誰かを泣かせるより、泣いてる人を慰めてやれる奴の方が、ずっと強いのかもしれない」
「わかってくれた?」
「でもそれはそれとして、キモイって言われたのは腹立つけどな」
「僕は、全然キモイなんて思わないけど」
 思い切って本音で打ち明けてみると、思いのほかその言葉が嬉しかったのか、ナルミは頬を染めて「そ、そうか?」と照れてくる。
「僕、どちらかというと、いじめられるタイプだし。そんな僕に、いつもこうやって話し掛けてくれるの、すごく嬉しいんだよ。だから僕みたいに、みんなとも話せば今よりずっと強くなれると思うよ」
「や、やめろよ。そんなムズムズするようなこと言うの……」
「言うよ。だって僕、ナルミくんのことが好きなんだもん」
 好きだと本音を言ったら、もっと喜んでくれると思った。けれど予想に反して、ナルミの表情から途端に明るさが消えた。
「……嬉しいけど、春希が本当の俺を知ったら、たぶん嫌いになると思う」
「どうして?」
「……だってさ、俺、最近あんまり学校行ってねーもん。行っても、保健室とかだし。春希みたいに、病気だから行けないわけでもないのにさ……」
 だからいつも病室に来られるのかと、合(が)点(てん)がいった。平日の、それこそみんなが授業を受けている時でも、ナルミはここに遊びに来てくれていたから。
「なんで行かないの?」
「みんなが、俺を馬鹿にするから。……ごめん。実は結構、いつも強がってんだ、俺」
 急にナルミが泣き出しそうになって、春希はどうしたらいいかわからなくなった。だからとりあえず、腕を大きく広げる。すると泣き顔から一転して、頭の上に疑問符が浮かんだような気がした。
「……何やってんの?」
「寂しい時とか辛い時とか、いつもお母さんが抱きしめてくれてるから……だから、ナルミくんもおいでよ」
「なんだよそれ」
 吹き出すように小さく笑ったが、ナルミは大人しく春希の元へ丸椅子を寄せて、腕の中にすっぽりと収まった。やっぱり、この子の体はとてもやわらかい。それからお母さんのように艶やかで綺麗な髪を撫でてあげた。
「落ち着く?」
「……ありがとう」
「ううん。僕も、いつもこうしてもらってるから」
「……今俺が泣いたらさ、春希は弱くなっちゃうのかな?」
「そういうのは、問題ないと思う」
 春希は自分が強いとは思わなかった。
ナルミは声を出して泣いたりはしなかったけど、体が少し震えているのが伝わってきた。優しく、その背中を撫でてあげる。
 もしかすると、みんなどこかに弱さを抱えているのかもしれないと、幼い春希は思った。
「一緒に、絵を描いてみない?」
 いろいろ気になることはあったけど、春希はナルミに多くを訊ねなかった。一緒に遊ぶことで、少しでもその代わりになると思ったからだ。腕の中で、ナルミは言った。
「俺、絵下手だけど。野球とかなら、得意だよ」
「僕も上手くはないよ。野球は動き回らなきゃだから、今の僕には無理かな」
「……下手でも、いいの?」
「もちろんだよ。どうせなら、絵本みたいに描いてみる?」
 そんな女の子みたいな遊びは嫌だと、断られる予想はしてた。けれどいつもより素直なナルミは、頷いてくれた。それから隣に来なければ描きづらいかもしれないと思って、少しだけ右にずれる。躊躇うようなそぶりは見せたけど、最終的に靴を脱いで、春希の隣に腰掛けた。
「僕、病気が治ったらナルミくんといろんな場所に行きたい」
「……いろんな場所って?」
「南の島とか。そういうの、無理なのかなって思ってたけど、ナルミくんのおかげで、生きることに勇気が持てるようになったんだ。野球も、ナルミくんから教わりたいな」
 春希は茶色の色鉛筆を手に取ると、ヤシの木の幹を書いた。それから緑色で、葉っぱを着色していく。ナルミが隣で遠慮がちに青の色鉛筆を取って、真っ青な海を描いた。それだけで、真っ白だった画用紙の上が南国の島のように見えた。
「……どうせなら、その南の島にウサミミも連れてこうぜ。だって、春希の将来の恋人なんだからさ」
「会えるかな?」
「会うんだよ。春希の病気が治るまでに、なんとかして友達になっとくからさ。一人より、二人より、三人の方が楽しいだろ?」
「うん……」
 ナルミはピンク色の色鉛筆で、拙いながらもかわいいウサギの絵を描いた。そして、なぜか黒色の眼鏡を掛けさせる。南の島に眼鏡を掛けたウサギは、どう考えてもおかしいと思ったけど、別にいいやと開き直った。だって、絵本なんだから。ナルミが書いてくれたウサギの上に、春希が『ウサミちゃん』と名前を書いておいた。
「そういえば、名前聞いてなかったね」
「次会った時に聞けばいいじゃん」
「そっか」
 それからナルミは、ウサミちゃんの隣にひ弱そうな男の子の絵を描いた。名前は『ハルキ』。
「上手だね。でも、なんだか恥ずかしいな」
「それでさ、春希は俺のこと描いてくれんの?」
 恥ずかしさを誤魔化すように言ってから、期待のこもった眼差しを向けられた。
「あんまりかっこ良く描けないけど、それでもいい?」
「ダサくなければ」
 要望に応えて、春希は隣に座るナルミを見ながら、かっこ良いとかわいいの中間ぐらいの男の子を描いていった。そうしていると、病室のドアが開く。入ってきたのは、お父さんだった。
「ああ、ナルミちゃん。来てたんだ」
「あの、お邪魔してます……」
「今日はとっても仲良しだね。二人で絵を描いてるんだ?」
「絵本描いてるの」
 ナルミを描きながら答える。お父さんは気を使ったのか、荷物を置くとすぐに病室を出て行った。
「ねえ、まだ?」
「もう少し」
「暇だよ」
「そういえば、ナルミくんの名字ってなんていうの?」
 答えるのに、わずかな間があった。春希がナルミを完成させた時に、ちょうど答えは返ってきた。
「杉浦」
「スギウラ?」
「うん」
「この病院と同じ名前だね!」
 ナルミはぎこちなく微笑んでくる。完成した絵の上には『ナルミくん』と書き記した。我ながら、かわいい子が描けたんじゃないかと春希は思う。隣に座っている子は、いつもかっこいいけれど、今日はなんだかこの絵のようにかわいく映った。
「なんだよ、めっちゃ女みたいじゃん……」
「言いじゃん別に。男っぽくても、女っぽくても。ナルミくんはナルミくんだよ!」
 また照れているのか、ナルミは俯いたまま顔を上げなかった。だからいろんな色を追加して絵本に着色していると「春希みたいな奴が先生だったら、きっと楽しく学校に通えたんだろうな……」と呟いた。
 言葉の意味が汲み取れず、首を傾げる。すると、今度は声を震わせながら。
「この絵本、もらってもいい……?」
「いいけど、捨てないでよ?」
「捨てるわけないじゃん……」
「それじゃあ、あげる。絶対になくさないでね」
「うん」
 画用紙を受け取ると、ナルミはまるで宝物のようにその絵を見つめた。家族以外に自分の絵を褒められたことがなかった春希は、ただそれが嬉しかった。
「……春希はさ、死なないよな?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって、心臓の病気なんだろ……?」
「治すためにここに来てるって言ったのは、ナルミくんだよね」
「……そうだった」
 今日のナルミは、どこか変だ。けれど幼い少年にはちょっとした機(き)微(び)の違いなんてわかるわけもなく、明日も明後日もなんだかんだここへ来て、仲良くできるんだと思っていた。
「とりあえず俺、明日から学校行ってみる。そんで、いろんな人とちゃんと話してみる」
「えらい!」
「そういうわけだから、今度から来られる日は少なくなるかも」
「それは仕方のないことだから、我慢するよ」
 学校へ行くと言ってくれて、自分のことのように嬉しかった。そして今日はもう帰るつもりなのか、画用紙を持ってベッドから降りる。こちらを振り返って、にんまりと笑った。
「ありがとな」
「僕の方こそ」
「それでさ、約束して欲しいことがあるんだけど」
「何?」
 訊ねると、視線を右往左往させながら、話してくれた。
「俺がちゃんと学校に通えるようになったら、聞いて欲しい話があるんだ」
「それは、今言えないの?」
「うん。だって俺、あんまり強くなかったみたいだから」
 それならと、春希は小指を差し出す。
「指切りしようよ」
 あの日、そうしてくれたように。今度は春希の方から、近付いてきたナルミに小指を絡めた。
「指切りげんまん嘘ついたらはりせんぼんのーます。指切った!」
 ナルミとの契りは、こうして切られた。
 帰り際、ナルミは病室のドアを開けてから振り返って、言った。
「言い忘れてたけど、俺も春希のことが好きだぜ!」
 吹っ切れたようなその笑みを見て、この子はもう大丈夫だと春希は思った。これから先も、きっとたくましく生きて行くだろう。
 あの日に交わした約束は、いつまでも忘れることはなかった。
 けれどあの笑顔を最後にして、ナルミは春希の病室を訪れなくなった。
 やがて病状が快復していくと共に、退院の日がやってきた。
それでもおめでとうと言ってくれる大切な人が目の前に現れてはくれなくて。
 再開の期待を胸に抱き中学へ進んでも、スギウラナルミという子は同じ学校に入学はしてなくて。
 大きな手術をして思う存分野球をできる体になっても、ナルミと再会することは叶わなくて。
 そうして春希はまた、いつの間にか一人になっていた。

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