朝食を食べ終わっても、まだ俺と宇佐美に軽(けい)蔑(べつ)の視線が向けられていた。当事者意識の低い、日本人らしい奥ゆかしさのある陰湿ないじめのやり方だ。言いたいことがあるなら、ハッキリと言えばいいのに。安全圏から人を叩けるのが、最高に気持ちいいんだろう。
一応の被害者である天音が許しているのに、第三者が非難をやめないという構図は理解に苦しむ。俺たちが周りにいったい何の不利益をもたらしたというのだろう。
もはや考えても仕方のないことだから、さっさと部屋に戻って身支度を済ませ、集合場所であるロビーへと向かった。今日は、みんなで回る場所を決めた自由行動の日。
グループごとに行動する予定なのに、宇佐美は俺たちを避けるように遠くで縮こまっていたから、手を引いて無理やり輪の中へ入れた。手を繋いだ瞬間にまたどよめきが上がったような気がしたけど、いい加減無視した。
「パフェ食べたいんだろ? それじゃあ、一緒にいないと迷子になって食べれないぞ」
「置いてってもいいよ、迷惑掛けたくないし……」
「それがもう迷惑なんだよ。何も悪いことしてないんだしさ、堂々としてろって」
「そうだよ真帆。それに、真帆が春希くんと幼い頃に会ってたことも知ってるし。幼馴染みたいなものなんだから、別にあれくらいなら気にしないよ」
それから天音は急に真面目な表情を作って。
「気まずくて、離れたいって気持ちもわかる。でも、向き合わなきゃ。逃げてても、いつまで経っても解決しないよ。春希くんは、真帆にちゃんと向き合った。そのおかげで今、みんな一緒にいるの。誰かが変わるのを待ってるんじゃなくて、自分が変わらなきゃいけないの」
「……自分が?」
「そうだよ。真帆だって、本当はわかってるでしょ? 変わりたいって思ったから、一度は眼鏡を外したんだもんね。それを馬鹿にする人もいるけど、私は美しいと思う。変わりたいと思って行動に移せた真帆は、本当に強い。私が保証する。ずっと昔から、真帆が知らないだけで、私は真帆のことを見てたんだから。だから真帆も、春希くんみたいに向き合うことができるでしょ?」
本当に、いつだって天音は正しいことを言う。誰よりも、どんな時だって相手を心の目で見つめているから、気持ちに訴える会話ができるんだ。だから彼女は、きっと誰のことも裏切ったりはしないのだろう。
同い年の高校生たちがひしめき合う中、悪意の視線が絶えず俺たちに降り注ぐ。それでも宇佐美は、今度こそハッキリと頷いた。逃げたりせずに、悪意に立ち向かう覚悟を決めた。その姿に、勇気をもらえたような気がした。
だから俺も、どうしようもない理不尽な現実に直面したとしても、逃げずに戦いたいと思えるようになった。
自由行動が始まれば、そこからはもう安息の時間だった。息苦しかったことを忘れるために、大きく深呼吸をする。南の地域の空気は、ほんのりと潮の香りが漂っているような気がした。海なんて、どこにも見えやしないけれど。
一番初めに向かったのは、戦争の歴史を写真や資料で知ることができる平和祈念館だった。今ここにいるのはただの旅行ではなく、学びを修めるためだから、後でレポートに学習内容をまとめなければいけない。
そのために訪れた歴史的な場所だが、過ぎ去りし時に興味はないのか、明坂は受付をしている時にあくびをするという罰当たりなことをしていた。
「もうちょっとさ、勉強をしに来たって意識を持ちなよ」
「無理だって。俺、暗記科目とか苦手だし。後で写させてくれよ」
「俺じゃなくて、他の人に頼んでね」
まあ、天音はおろか宇佐美も姫森も断るだろうけど。
そんなやる気のない彼だったが、展示されている巨大な戦闘機を前にして「かっけぇ!」と、子どものような感想を口にした。その戦闘機が後に特攻のために使用されたものだということを知ると、無邪気な顔から一転して珍しく険しい表情へと変わった。それからは、まるで人が変わったかのように口を閉ざし、特攻隊員の遺書や戦争の記録を観(かん)覧(らん)して、まだ新品だったメモ帳に一生懸命文字を書き込んでいた。
「これがきっかけで、少しは勉強に身が入ってくれればいいんだけど」
一通り見て回ったのか、姫森が親みたいな感想を口にする。寝て忘れるような奴じゃなければ、前向きに取り組むだろう。つまり、修学旅行が終わってからの行動次第で、姫森の明坂に対する評価が変わるということだ。いい機会なんだから、せめて歴史の勉強ぐらいは頑張って欲しいと思う。
それから俺も、明坂にならって見たことや感じたことをメモしていく。体が元に戻っても、春希がしっかりレポートに取り組めるよう詳細に書いた。
真面目な天音は、そこら辺を歩いている従業員を引き止めて質問していた。その行動力を少しは見習いたいけど、さすがにそこまで真剣にはなれなかった。
「鳴海くん」
俺にだけ聞こえる控えめな声で、宇佐美が名前を呼んでくる。
「どうした?」
「ちゃんと、もう一回謝っておいた方がいいと思って」
「そんなことより、見て回ったのか? 自分のことで悩んで適当やってたら、レポート書けなくなるぞ」
「明坂が頑張ってるんだから、レポート書けるくらいには回ったよ。風香と一緒に」
なんだかんだ、あいつも面倒見がいい奴だ。
「あの、それで。ごめ……」
「最近さ、宇佐美は謝りすぎ。本当に一番謝らなきゃいけなくなった時に、ごめんねの価値が下がるよ」
「だって、迷惑ばかり掛けてるから……」
「そういう時は、ありがとうでいいんだよ」
月並みな言葉だと思った。この前リビングで父親と観たドラマの主人公も、同じことをヒロインに話していた。けれど、今の宇佐美に一番必要なセリフだと思った。
「……ありがとう」
「うん」
「本当に、いつもありがとう」
「わかったって」
今度はありがとうの回数が増えそうで、おかしかった。けれど言葉を覚えたインコのようにごめんを言い続ける宇佐美よりかは、ずっとマシだ。
「……私、工藤の気持ちが少しだけわかったような気がする。当事者になるまでわかんなかったのが、すごく恥ずかしいけど、誰も味方になってくれる人がいなかったら、死にたくなってたかも」
「そんな物騒なこと言うなよ」
「だって、毎日クラスメイトと顔を合わせるんだよ。学校も、行けなくなるよ……私が、行けなくさせたんだ……」
「また謝るのか?」
宇佐美は必死に首を振った。艶やかで、何色にも染まっていない黒髪も左右に揺れる。
「それは、工藤が戻ってきた時のために取っておく。今の私にできるのは、私がやったおこないを受け止めて、これからどう生きていくか考えることだから」
「そっか。それは見つかりそう?」
まだ、訊ねるのは早かったかもしれない。けれど宇佐美はわずかな間の後に、未だ真面目にメモを取り続けている彼女を見て言った。
「私は、天音みたいな人になりたい」
「行動を見習うのはいいと思うけど、宇佐美は宇佐美だよ。別に、それこそ俺は今の君のままでもいいと思う」
「そう?」
「気付いてないだけで、宇佐美はもう十分変わったよ。変わりたいって思うこと自体は前向きでいいと思うし、もう少しだけ気楽に考えてみたら?」
「……わかった」
それからぎこちなくだけどはにかんで、あらためて「ありがとう」と言った。
きっとこの子はもう、自分から間違った道に進むことはないだろう。
お昼の代わりにパフェを食べて、一行は次の目的地の神社へと向かった。高校二年生で学問の神様のいる場所へお参りに行くのは、いささか急ぎすぎているような気もしたが、これからの成績が伸びるようにお願いするとすれば悪くはないだろう。
成績なんて、結局は自分の頑張り次第ではあるけれど。
鳥居をくぐる時、天音が礼儀良く頭を下げたから、それにならって頭を垂れた。しばらく歩くと、明坂が立ち止まり「なんか、牛の像が置かれてるぞ」と指を差す。
「護(ご)神(しん)牛(ぎゅう)って言うんだって。たとえば足の具合が悪かったら、牛の足を撫でた後に自分の足を撫でれば快復に向かうって言い伝えがあるらしいよ」
事前に調べてあったのか、メモ帳を開きながら天音が説明してくれる。
「マジか、すげえ。ここら辺に住んでたら薬とかいらねえじゃん」
こいつはいつか、怪しい宗教に引っかかるような気がした。先ほど少しは汚名を返上したというのに、姫森は呆れたようにため息を吐く。
「そんじゃあ、頭良くなりてーからたくさん撫でとこ!」
「あんた、他力本願だと何も変わんないからね」
「わかってるって。一応、念のためにだよ」
本当に念のためかはわからないけど、とても念入りに頭を撫でているから、もしその手が欲望にまみれているのだとしたら、いつか罰が当たるだろう。
本殿でお参りを済ませた後、各々行きたい場所に行って、しばらく経ってから集まろうという話になった。姫森はお守りを買いに行くと言い残し、明坂は護神牛があと十体いることを知ると、「探してくるわ!」と言って元気に走って行った。
宇佐美はというと、なぜか俺の隣で棒立ちになったままフリーズしたように動かない。
「見て回んないの?」
訊ねると、同じく動き出さない天音と俺とを交互に見つめて。
「三人で回りたいって言ったらダメ?」
「私は別に構わないけど」
一秒も迷うことなく天音は即答する。俺はと言えば、特に回りたいところもないから頷いておいた。
「さっき出店があったから、何か食べたい」
宇佐美が提案してくれたから、とりあえずそこへ向かおうということになって、天音は手に持っていたメモ帳をサイドバッグの中へしまおうとした。そのタイミングで、たまたま彼女の背中が通行人と接触し、こちらへよろめく。俺は、反射的に体を受け止める。けれどメモ帳が地面に落ちた。
「あ、すみません!」
先に彼女が謝った。しかしぶつかってしまった人は、気にした様子もなく歩いて行く。ほんの少しだけむっとしたが、天音は歩いて行った人の方を見つめているだけで、特に気にしていないようだったから忘れることにした。
代わりに、メモ帳を拾ってあげる。拾い上げた時、落ちた衝撃で適当に開かれていたページが目に入った。本当にたまたま、そのページは俺に関してのことが書かれている箇所だった。
杉浦市、汐月町、三船町。懐かしいなと思った。汐月町と三船町が杉浦市に合併して、今の杉浦市となった。俺は過去から来たんじゃないかと、天音が冗談みたいに言って、なんちゃってと、おどけたようにメッセージを送ってきて。あれから少しだけ時間が経ったけど、知らない間に記述が増えている。一人の間にも、考えてくれてたんだろうか。
「鳴海くんの名前、書いてある」
偶然目に入ったのか、宇佐美が横で呟いた。基本的には秘密主義者の天音のことだから、見られるのは心情的に良くないだろうと思い、一応気を使ってページを閉じてすぐに返した。
「ごめんね、ありがと」
「今までいろいろ考えてくれてたんだね」
「何もできないけど、ずっとなんとかしたいって思ってるから」
そう言って、メモ帳をバッグの中へとしまった。
「ねえ天音、DIDって何?」
宇佐美が突然、聞き慣れない単語を口にする。
「なんだよそれ」
「いや、たまたま目に入って」
聞き覚えがないのだろうか。首を傾げるそぶりを見せた後に、「気のせいじゃない?」と天音は言った。
「そう?」
「うん、書いた覚えもないし。それよりさ、私あれ食べたいんだよね。梅(うめ)ヶ(が)枝(え)餅(もち)」
「それ、私も食べたかった奴!」
疑問なんて、餅菓子の前ではたちどころに霧(む)散(さん)する。
「行こっか、杉浦くん」
天音に名前を呼ばれて、俺も二人の後をついていった。
ベンチに座って梅ヶ枝餅に舌(した)鼓(つづみ)を打った後、自分がまとめたメモ帳を読み返している天音に「そういえば、どうして昨日怒ってたの?」と、宇佐美が平然とした顔で訊ねた。オブラートに包まず直球で聞いたものだから、緊張で背筋が張り詰める。
「怒ってるように見えた?」
「天音って、怒ったら目が笑わなくなるし」
「そっか、目が笑わなくなるのか」
今の状態を確認するためか手鏡を取り出すと、そこに自分の顔を映し始めた。
「今日は普通だよ」
「杉浦くんも、怒ってるって思ったの?」
「何か含みはありそうだったかな」
「それじゃあ、普通にバレちゃってたんだね」
俺が指摘をすると、案外あっさりと認めた。
「怒ってたの?」
「怒ってたというか、なんというか。乙女心は複雑なんだよ」
歯切れの悪い話し方は珍しいが、冗談を言うのは相変わらずだった。
「二人だけの秘密みたいな感じだったのに、あっさり真帆に話しちゃうんだーとは思ったかな」
「あれだけ一緒に考えてたのに一言も相談しなかったのは、ちょっと申し訳ないなって思ったよ。でも、あのタイミングで言わなきゃ不誠実かなって思ったんだ」
「そっか。そう思ったならしょうがないよね。まあ、なんとなく察してたんだけど。私も、まだまだ子どもってことだね」
「天音は私よりずっと子どもでしょ」
驚くことに宇佐美がそんな発言をして、さすがの天音もきょとんと目を丸くした。ということは、宇佐美よりは大人だという自覚が天音にもあったということだ。お互いに、とても失礼な奴である。
「どうしてそう思うの?」
二人の背丈の違いを思い浮かべながら訊ねてみると、宇佐美はしたり顔で話した。
「だって、飛行機で怖がってたじゃん。近くにいたから知ってるもん。私、それ見て逆に怖くなくなったし」
「あー」
無邪気な勝ち誇った笑みを見せられ、天音も乾いた笑いを漏らす。そういう程度の低いことでマウントを取ろうとする姿勢は十分子どもだ。思ったけど、口にはしない。
「そっかー真帆は大人だね」
「でしょ?」
「うんうん」
遠からず天音も似たようなことを思ったのか、いつの間にか我が子を見守るような眼差しに変わっていた。この二人は案外、相性がいいのかもしれない。
学問の神様を祀(まつ)っている神社だからか、それから自然と会話の内容が自分たちの希望する進路の話へと移り変わっていった。とはいえ俺は春希の進む道なんて知ったこっちゃないため、今回は聞く側に回ることにする。天音も、どうせこの件については、はぐらかして話さないだろうと思っていた。それなのに。
「私は、お母さんからお医者様になりなさいって言われてるんだよね」
とてもあっさりと、自分で将来の話を口にしたから驚いた。いいのかよと視線を送ると、もういいのと言うように、彼女は笑った。
「お医者様って、医学部に通わないとダメなんだよね? すっごい大変なんじゃないの?」
「そうだよ。お金も、すごーくたくさん掛かっちゃうの」
「やっぱそうだよね。私なんか、今から頑張っても普通に無理なとこだ。裕福じゃないし、そもそも学力も足りてないし」
「天音の気持ちはどうなの?」
思わず、訊ねていた。聞いてもいいのかわからなかったけど、今のはお母さんの希望を口にしただけで、天音の本心が含まれていなかった。だから、どう考えているのかが、知りたかった。
「とても素晴らしい仕事だと思うよ。お父さんも、やりがいを持って仕事してるみたいだし。この頃は、二人きりの時によく話を聞いてるの」
「お父さん、お医者様なの?」
「そうだよ。血は繋がってないんだけどね」
カミングアウトの連続に、宇佐美は口を開いたまま放心した。俺はと言えば、それとは違う理由で固まってしまう。あれだけ必死に隠していたことを、次々と暴露していくものだから。
「それって、もしかして……」
「亡くなったとかじゃないよ。離婚して再婚したの。私が小学生の時に」
「マジ……やば……」
俺が思いのほか衝撃の表情を浮かべていなかったからか、宇佐美はうかがうようにこちらを見つめてきて「知ってたの?」と遠慮がちに訊ねてくる。
「まあ、もう天音が話したから言うけど、知ってた。でも、少し前に偶然成り行きで知っちゃっただけ。必死になって隠してたのに、話しても良かったの?」
会話のボールを天音に投げてみると、今度は複雑な表情をたたえながら「今なら、ちゃんと話せるかなと思って」と、これまた行き当たりばったりなセリフを吐いた。
「そんな大事なこと、話してくれてありがと……でも、私なんかが聞いても良かったの?」
「杉浦くんと真帆は特別。どのみち、いずれ二人にはもっと詳しく話さなきゃいけないと思ってたから」
それは、天音と仲良くしているからだろうか。それだけが理由じゃないような気もした。いつも、いつだって天音の発言には、何かしらの裏の事情も隠されているような気がする。
「……天音のお母さんって厳しい人だよね? 何度か見たことあるけど」
「厳しいね。でも、やることやってたら、大抵のことは許してくれるから。放任主義なんだよ、うちは。怒るとヒステリー起こすところが大変だけど。そういえば、お母さんと最後に話をしたの、いつだったかな」
「思い出せないくらい前なの?」
「ううん。今思い出した。四月の、三者面談の時だ」
それはまた、随分前だなと思った。
「一緒にご飯食べる時に話さないの?」
「一緒に食べてないんだよ。私、こう見えて反抗期がずっと続いちゃってて。ちょっと前までは、お父さんのことも避けててね。だって、いきなり知らない人が家にやってきたら、戸惑っちゃうでしょ?」
「笑わないからな」
一応釘を刺しておくと、天音は「ありがと」と礼を言った。宇佐美は笑うどころか、他人の家の話だというのに泣きそうになっていた。俺も初めて聞いた時は、何もしてやれないもどかしさを感じた。
「それで、何の話をしてたっけ」
俺に打ち明けてくれた時よりもハイペースで話しているせいで、心が追い付いていないんだろう。天音の息がほんの少し上がっている。軽くなるように背中をさすってあげると、「ありがと」と言って笑った。
「天音が考えてる、将来に対する気持ちだよ」
「そっか。そうだった」
一度深呼吸をしてから、話を戻した。
「正直、なりたくない。目指すのが大変とか、仕事が大変だからとかじゃないよ。人の生き死にに関わることが怖いの。それに慣れちゃいそうになる自分が嫌だ。血を見るのも嫌いだし」
それはもう、どうしようもないほどにしっかりとした理由だった。なれるなれないよりも、向き不向きの問題だからだ。
「やっぱり、お母さんに言えないの?」
「面と向かって話ができないの。だから、勉強だけはしっかりやってる」
まず、こんなモチベーションですんなり医者という職業に就くことなんて、到底不可能だ。天音ならばそれをやってのけるかもしれないけど。
「天音がやりたいことはないの?」
今度は宇佐美が訊ねた。しかしその質問に首を振る。
「やりたいことがあれば、説得材料になるんだけど。高校二年じゃ、将来やりたいことなんてなかなか見つからないよね」
「まあ、確かに……私も、全然未知だし」
「お父さんは、天音の将来について何か言ってるの?」
「お父さんは、やりたいことをやりなさいって言ってくれてる。でも、基本仲が悪いからね。うちの親」
せっかく再婚したというのに、仲が悪いなんて。これ以上は、きっと踏み込まない方が良いんだろう。天音の問題ではなく、俺から見れば第三者である父親と母親の問題になってしまうから。
次の言葉を探していると、天音は気分を転換するように、自分の太ももを両手で一度叩いた。
「でも、ちょっと前向きになった。真帆のおかげで」
「どうして私?」
「真帆も、逃げずに立ち向かって戦ってるから」
「背中を押してくれたのは、天音じゃん……」
どこか照れくさそうに話す。
「逃げるなって言ったのに、私がいつまでも逃げてたら示しがつかないよ。とりあえず修学旅行が終わったら、一度話してみるつもり」
「いい結果が出るように、応援してるよ」
言葉で励ますことしかできなかったけど、俺とは違って宇佐美は急に立ち上がって「お参りしとこう!」と高らかに宣言した。これにはさすがに、天音と一緒に呆気(あっけ)にとられる。
「ここ、学問の神様だよ?」
「いいじゃん。神様なんだから、ちょっとぐらい大目に見てくれるでしょ。それに、三人分のお願いだよ。絶対にご利益あるって!」
明坂みたいなことを言い出すものだから、軽く吹き出してしまった。天音もそうだったのか、口元を押さえる。
「それじゃあ、お参りしとこうかな」
天音が同意してくれたことによって、俺たち三人は本殿へと戻ることになった。大きな綱を揺らして、鈴の下で俺は祈った。
天音の迷い事が、いつかすべて晴れますように、と。
「なんだか頭が良くなった気がするぜ」
集合場所に現れた明坂が嬉しそうにそんなことを言うものだから、逆に頭が悪くなったんじゃないかと憂う。逆効果だったとしたら、それはご利益がなかったわけではなく、きっと神罰によるものだろう。
持ち直していた明坂に対する株も、一瞬にして底値まで下落した。
「あんたはそのくらい楽観的な方が性に合ってるのかもね」
もはや諦めたように姫森が言う。彼女のカバンには、さりげなく学業成就のお守りが付いていた。宇佐美も偶然同じものを購入していて、同じ場所に付けている。
俺は購入するつもりはなかったけど、天音が鈴の付いた赤青色違いの開運お守りを指差して「これ、お揃いで買おうよ」と言ったから、青色を買った。曰(いわ)く、破損してしまったストラップの代わりらしい。堂々としていれば別れたと疑う人もいないと思ったけど、今の彼女の中では別の意味が含まれているような気がした。わざわざ口実を使わなかったから、それがなんだか、無性に嬉しかった。
「今度は落とさないようにしなきゃね!」
「気を付けるよ」と、不器用に笑う。ちりんと優しい鈴の音が鳴った。
それからまた各地を転々としながら、短い旅の出発点でもあった旅館へと戻ってくる。到着した頃にようやく思い出したけれど、俺と天音と宇佐美は絶賛修羅場中だと噂されているのだ。
くだらないと思った。宇佐美もそうだったのか、「もう大丈夫だよ」と笑った。夕食の時間も、この五人で席を隣り合わせ集まって食べた。それを笑いものにする奴らがいたけど、もう俺も気にはしなかった。
昨日と同じく、橋本は教師の点呼が終わると別の部屋へと向かった。何かまた嫌みを言われたような気がしたけど、適当に相槌を打っていたから内容は忘れた。
「もう放っとけよ」
言いながら、明坂は布団の中へ潜り込んだ。俺も、明坂に続いて布団に入る。
「明日で終わりだな」
彼が言った。どこか、名(な)残(ごり)惜しさを含んでいるような響きをしていた。
「もっと遊んでいたかった?」
「ま、案外楽しかったからな」
「同じグループになったこと、後悔してない?」
「なんで」
「なんだかんだ、いろいろあったじゃん。姫森と明坂は、なんというか巻き込んじゃったから」
「それもまた、旅のいい思い出だろ」
珍しくいいことを言う。柄にもなく感傷的な気分に浸っているのだろうか。
いつもとは違う天井で、普段暮らしているところから離れた場所で、クラスメイトと一緒に床に就く。そういうのも案外、悪くなかった。
「俺、春希に誘ってもらえて良かったと思ってるよ。なんというか、なんだかんだみんな、いいところがあるんだなって気付けたし」
「そう?」
「宇佐美とか、男子の俺から見たら、口も性格も悪い奴にしか見えなかったから」
「言いすぎだろ」
「言いすぎじゃねーよ。春希のこと、いじめてたんだから。でもさ、どうしようもない奴でも、変わることってできるんだな。元の印象が最悪だったから、本当はいい奴だったとは絶対に思わないけど、今のあいつは悪くはないなって思うよ」
「そういう嫌なこと、忘れてやれよ」
「忘れねーよ。ああいう奴がいたんだってことを覚えとかなきゃ、いつか俺も同じ間違いをするかもしれねーから。過去はさ、簡単に消せねーんだよ」
普段はふざけていて、何も考えていないようにも見えるけど、明坂にも明坂なりの信念というものがあるんだろう。知らなかった。俺は彼という男を、少しみくびっていたのかもしれない。
「どうしたら、過去の罪は許されるの?」
「春希が許してくれたら、許されるんじゃない?」
「それじゃあ、宇佐美はとっくに許されてるよ」
「お前さ、春希じゃないだろ」
虚を突かれる。暗がりの中、思わず明坂を見た。どういう表情をしているのかは、わからなかった。
「……いつもの冗談?」
「外れってわけじゃないだろ。なあ、杉浦」
驚いた。まさか、名字で呼ばれるなんて。ということは、彼は本当に知っているということだ。
「……天音か、それとも宇佐美から聞いたの?」
「宇佐美も、杉浦のことを知ってんのか」
つい、口を滑らせる。降参だというように、ため息を吐いた。
「気を付けてたつもりなんだけど。一応、どうしてわかったの?」
「駅前で、高槻さんが春希のことを杉浦って呼んでるのが聞こえたんだよ」
「なるほどね。そんな前から知ってたんだ」
「俺、案外知らないふりするの上手いだろ?」
得意げに言ってきて、正直負けたと思った。
「ごめん、隠してて」
「そんなん言ったら、俺だって知ってたこと隠してたんだからさ。あ、別に事情とかは話さなくていいからな」
「なんで。一番知りたいところじゃないの?」
「たぶんそれ聞いたって、馬鹿だからわかんねーと思うし。でも一応、春希はちゃんと戻ってくるんだよな?」
確証なんてなかったけれど、俺は「戻るよ」と口にしていた。戻らなければ、いけないから。
「杉浦は? 春希が戻ってきた後に、ちゃんと会えんの?」
「天音と宇佐美とは、会おうって約束してるよ」
「それじゃあ、俺とも約束な。体育館で、春希も混ぜてバスケしようぜ。俺も、実は春希のことよく知らねーから」
「わかったよ」
いつになるのかはわからないけれど。その約束は、ちゃんと守りたいと思った。
それから目をつぶって、お互い寝ることに集中する。けれど先に入眠してしまった明坂のいびきがとてつもないほどうるさくて、なかなか寝付くことができなかった。
眠いけど、寝ることができないのは苦痛だ。可能ならば別の部屋で寝たいが、俺は橋本のように男の友人が多いわけではないから、選択肢はここしかない。
「さすがに、天音たちと寝るわけにもいかないからな……」
もし彼女たちから許可をもらえても、教師に見つかれば平穏な学校生活は無事に終わりを告げるだろう。
「散歩でもするか……」
体を動かして、少しでも寝られるようにしよう。そう思い立って、こっそり部屋を出た。
日中より薄暗い旅館の廊下は、物陰から幽霊が飛び出してくるんじゃないかと身構えてしまう。少しの物音にも敏感に反応してしまって、自分が案外びびりなんだということを自覚した。
どうにかして人には見つからずエレベーターに乗り込み、一階まで下りる。フロントの方を物陰から覗き見たが、幸い従業員は立っていなかった。
ホッとしたのも束の間、背後から物音がして慌てて振り返る。見ると、エレベーターが二階、三階と上昇していた。誰かが触らなければ、それは動くはずもない。ということは、上階で誰かがボタンを押したということで。もしかすると、一階まで下りてくるのかもしれない。
先生だったらまずいと思い、とにかく知っている道を選んで逃げるように走った。気付けば、昨日宇佐美とやってきたゲームセンターにいた。愉快なBGMを聞きながら息を整えて、落ち着くために自販機でコーラを買う。プルタブを開けて口に含むと、炭酸の弾ける感触で余計に目が覚めた。
ホッと息を吐こうとした時、やってきた方向から人の気配がした。宇佐美と一緒に休憩していた場所だ。思わず物陰に身を潜めたが、こちらまではやってこない。
大人だろうか。見回りに来たのか、それとも俺を見つけて追ってきたのか。どちらにせよ見つかれば、何かしらの責任を負わされそうだ。確か、夜間出歩いているのが見つかったら、廊下に正座させられるんだったか。
部屋は明坂がうるさいから、それもいいかと思ったけど、やはり見つからないに越したことはない。物陰に潜んだままやり過ごそうとしていると、声が聞こえてきた。
「嬉しいよ。こんな時間に呼び出してくれて」
期待のこもった色が、その声には含まれている。遠くからでも、わかった。そこにいるのは、橋本だった。
「なんで橋本が……」
しかし、状況的に一人じゃなくて二人いる。耳を澄ますと、いつも聞き慣れている彼女の声が聞こえてきた。
「私が呼び出した理由、康平はわかる?」
天音だった。驚いて、思わず身を乗り出してしまう。出て行くわけにはいかなかった。でも、耳を塞ぐこともできない。
「それはわからないけど。こんな夜遅くに呼び出すってことは、とても大事な話なんだろ? それこそ、誰にも聞かれたくないような」
「そうだね。大事な話。特に春希くんに聞かれるのは、本当に困る」
逃げ出したかった。けれどゲームセンターの奥は卓球用の小さな体育館があるだけで、その先は行き止まりだ。戻ろうにも、今二人がいる場所を通らなければいけない。
つまりこの会話が終わらないと、俺も解放されないということだ。
「工藤か。そういえば、宇佐美に浮気してたんだっけ」
「みんなそう言ってたね。真帆が色目使ったとも言ってたけど」
「どっちも正解かもしれないね。最近、二人は仲が良いから。自由行動のグループも一緒だろう」
「そうだね」
「昨日は、ラフティングの後に宇佐美の手を引いて行った。君という彼女がいながら、手を繋ぐなんて。俺は、二人は本当に浮気してると思ってるよ」
全部、橋本の勘違いだ。もしくは、都合の良いように解釈してるだけなのか。とにかく、まだそんなことを言ってるのかと腹が立った。
「俺はね、正直彼とは別れた方がいいと思ってるんだ。あんな奴じゃ、君を幸せにはできないよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、引きこもりだったじゃないか。修学旅行の委員も、自分がやりたいって言ったのに全部君に押し付けて。代われるなら、代わってあげたかったよ」
「それじゃあ、先生に言って代わってもらえば良かったんじゃない? 後からああすれば良かったって言うのは、卑怯だと思う」
「俺も、バスケ部で忙しかったんだよ。三年の先輩が引退するからさ、主将を任されるんだ。すごいだろ?」
天音が、わかりやすく大きなため息を吐いたのが聞こえてきた。
俺も、正直ここまでとは思わなかった。
ここまで、人の気持ちがわからない奴だとは。
「春希くんが委員に選ばれたのは、みんなが彼に押し付けたからだよ」
「仮にそうだったとしても、最後にやるって言ったのはあいつだろ? 責任感のない奴は、本当に困る」
「一番責任感がないのは、押し付けた人たちだと思うけど。やる気もないのに責任感って言葉を口にしてる人の方が、よっぽど恥ずかしいって。途中で投げ出したのはいけないことかもしれないけど、それでも誰もやりたくなかったことを引き受けた彼は、褒められるべきだよ」
「お前は、昔から優しいからそう思うんだよ」
「……それやめてって、ずっと前に言ったよね‼」
思わず背筋が凍り付いた。温度のない淡々とした口調ではなく、それは明らかに熱のこもった声音だったからだ。今までは、心の底から本気で怒っているわけじゃなかったんだと、わからされた。
ギリギリのところで自分を押さえていたからこそ、天音はいつも冷静だったんだ。
「おいおい、怒るなよ。なんでそんなに声を荒げるんだよ」
「私さ、人のことをお前って言うのはやめてって、中学の頃に言ったと思うんだけど」
「言ったっけ、そんなこと。ごめん、忘れてた。今度から気を付けるよ」
「このやり取り、一回目じゃないよ。三回目。この際だからハッキリ言うけど、そういうところが私は合わないと思ってるの」
まるで、あなたは口だけだと言っているかのようだ。それは、天音が一番嫌う類の人間であることを意味する。
「これからは気を付けるって」
「ほんと、康平は……」
出掛かった言葉を飲み込んだ。それが、天音の良心だった。そうやって優しさがちらつくから、彼も付け上がるんだ。
「……幸せって、与えられるものじゃなくて、自分で掴むものだと私は思う。もちろん与えられる幸せもあるけど、大切な人と一緒に、同じペースで見つけていくのが、一番素敵なことだと思うの。どちらかが頑張ってても、疲れるだけだから」
「それじゃあ、あいつと一緒にいたら天音がずっと頑張ってなきゃいけないだろ」
「そんなことないよ。みんな、知らないだけ。春希くんは、人の痛みを一緒になって分かち合える人なんだよ」
「天音の悩みに共感できたって、どうにもできなかったら幸せになれないだろ。あいつなんかに、何ができるんだよ。天音のお父さんやお母さんに、ちゃんと意見できるのか?」
「そんなの、康平にだってできないでしょ」
「俺ならできるよ。ちゃんといい大学に入って、その時に言ってやるんだ。あんたの娘は、別に医者になんかなりたくないんだって。天音の両親に宣言するんだ。天音には、天音の人生があるって」
「それ、別にもう私一人だけでも言えるから。修学旅行が終わったら、伝えるつもりでいるし」
「それでも、一度家族以外の人間がハッキリ言ってやるべきだろ! 娘の人生を弄ぶなって! 義理の父親が医者だからって、そんなことまで娘に背負わせるなって! だって、血も繋がってないんだからさぁ!」
「お母さんが私に医者になって欲しい理由と、お父さんが医者だということは、全然イコールじゃないよ。康平は私を助けたくて、事実を自分にとって都合の良い物語に捻じ曲げてる。だいたい、お父さんは私に医者になって欲しいとは思ってない。それはこの前、ちゃんと話をして聞いたから」
天音の声のトーンが下がっていくたびに、橋本の声に熱がこもっていく様が、聞いていて哀れに思えた。もう、ずっと前から天音は決めているんだろう。天音は決して彼の恋人にはならないし、そんな彼女にいくら自分が有用な人間だとアピールしても、それは一生届くことはない。
「そんな風に一生懸命私のことを考えてくれてるのは嬉しいけど、康平の望むようなものを私は何一つあげられないよ。それに、もうあなたが思ってるほどかわいそうな女の子じゃないの、私は。だから、ごめん。今までずっと、ハッキリ言わなくて」
「なんだよそれ……」
「そういうわけだから」
話は終わったんだろうか。片方の足音が、遠ざかっていくのが聞こえる。聞き耳を立ててしまったのが、ちょっとだけ申し訳なかった。明日、天音には正直に謝ろう。
そう考えたところで、声が響く。
「ちょっと待てって!」
鬼気迫る声だった。彼が発した、天音を引き止めるための言葉だ。その直後、「離して!」と、彼女が叫んだ。反射的に、俺の腰は浮いていた。
「なんで、なんでだよ! あいつ、浮気してたんだぞ⁉ 天音のお母さんや本当のお父さんと同じで、浮気してたんだ! 許せるわけがないだろ‼」
「お父さんやお母さんと、春希くんは関係ない! だいたい浮気じゃなかったってこの前お父さんに聞いたし、そもそも春希くんは浮気なんてしてないから! いい加減、なんでも自分の都合の良いように考えるのやめてよ‼」
「あんなの、どう考えても浮気だろ! 宇佐美の奴が、そこのベンチで工藤に寄り掛かって寝てたんだぞ! こんな人気もない奥まった場所で!」
まずい。そう思った。信じていたものが、崩れていくような音がした。抵抗する物音が、聞こえなくなった。どちらかが、冷静になったんだ。
気付いて欲しくない。そう祈った。けれど、人の揚げ足を取ることが大好きな彼女が、その言葉で確信を得ないはずがなかった。
「……どうして、ここがその場所だってわかるの。あの写真は、拡大されててどこで撮ったかなんてわからなかったのに」
黙っていれば良かったのに。黙っていれば、もうほとんど真実が白日の下に晒(さら)されたけど、気付かないふりをしていられた。そういうところが、彼女は本当に不器用だった。
そして彼も、悲しくなるくらいに、彼女への想いが切実だった。
「そんなの……俺が撮ってやったからに決まってるだろ! 天音はあいつに騙されてるから、誤解を解く必要があったんだ‼」
救いようのない奴でも、変わることができるんだろうか。それは、否だった。彼女が一度は見逃すことを選んだのに、彼は自分の欲望のために真実を話してしまった。そんな奴に、きっともう天音は優しさなんて振りまかない。
「……私、次はないって言ったよね。春希くんに危害を加えたら、絶交するって」
「そ、そんなの冗談だろ……?」
「冗談で、こんなこと言わないよ。それに、康平は真帆のことも傷付けた」
「あいつだって、工藤のこといじめてただろ! なんで天音は許してるんだよ!」
「真帆は、ちゃんと変われるって信じてたから。私は、ずっと前からあの子のことを理解してるの」
「そんなの、俺だって知ってるよ。中学が一緒だったから。でもあいつも、元は根暗で……」
「もういいよ、話し掛けないで。信じてたのに。そんな良識が欠如してる奴だなんて、思いたくなかった」
「待てよ‼」
その叫び声と共に、何かが床に叩きつけられるような音が響いた。まさかと、心臓が早鐘を打つ。考えるよりも先に、足が前に出ていた。
そこで俺が見たものは、床に倒れた天音と、それを見下ろしている橋本の姿だった。あいつが、彼女を突き飛ばした。危害を加えた。俺も、そんなことはしない奴だと信じていたのに。
何も気にせずに、走っておけば良かったと後悔した。
打ち付けた場所が痛むのか苦(く)悶(もん)の表情を浮かべ、天音はそれでも俺が現れたことに気付いて、目を見開いた。
「……春希くん?」
「なんだと……?」
理性を失った瞳がこちらを射抜く。驚くほどに、俺の心は冷え切っていた。天音が怒っている時もこんな感じだったのだろうかと、ふと思った。
「……一応聞くけどさ、ストラップも君が捨てたの?」
答えがどうあれ、俺がこの後に起こす行動は決まっていた。ただ、加減をするかどうかというだけで、しかしどうやらその必要はないようだった。
彼は、自分の功績を自慢するように、笑った。
「当たり前だろ。お前が、いつも調子に乗ってるからだ」
信じていたものが裏切られた時、口の中に錆(さび)の味が広がるらしい。とにかく、怒りのせいでどこかが切れてしまったみたいだ。それを舌で味わいながら、彼も同じ目に遭わせてやろうと思った。
近付いて、俺は躊躇らうことなく拳を振り上げ、橋本の頬を殴りつけた。そんなことをする勇気が工藤春希にはないとでも思ったのか、彼は驚(きょう)愕(がく)の表情を浮かべた。残念だけど、俺は工藤春希じゃなく杉浦鳴海だ。
そのふざけた顔に、もう一発拳を入れる。すると無(ぶ)様(ざま)にも、その場に尻もちをついた。
「何だよお前……! こんなことして、ただで済むと思ってんのかよ!」
「お前が天音を一番困らせてることに、どうして気付かないんだよ!」
叫んだ。彼がハッとした表情を浮かべていたけど、もう一発殴らなければ気が収まらなかった。宇佐美の分が、まだだったから。馬乗りになって、もう一発だけ殴るつもりでいた。動き出したところで、俺は何か優しいものに後ろから押さえつけられた。
「もうやめて、杉浦くん……! もう、いいからっ!」
「……は? 杉浦……?」
橋本が呟いた時、こちらに迫ってくる足音が聞こえた。あれだけ、彼が無様に叫んでいたんだ。むしろ、遅いぐらいだ。なんでこんなタイミングで来るんだよと、自分の不幸を呪った。
「お前ら! そこで何やってるんだ‼」
やってきたのは、担任教師だった。俺を止めるために押さえつけている天音と、二発殴りつけて横たわっている橋本の姿を目撃されてしまう。もう一度倒れ込んだ彼を見てみると、殴った箇所に青痣(あざ)ができていて、唇から血が滲んでいた。
これはどう考えても、もうダメだ。
天音が俺を解放する。肩で息をしていると、彼女が震えているのがわかった。泣いていた。泣かせたくないと思ったのに、他でもない俺が、泣かせてしまった。
担任教師が、こちらに迫る。
「お前が橋本を殴ったんだな?」
「……」
「原因は、痴(ち)情(じょう)のもつれか」
「……」
「ほどほどにしておけよって、俺言ったよな?」
随分前に、そんなことを言われた気がする。今さら、思い出した。
「先生、違うんです。春希くんは……」
「高槻は黙ってろ。俺は今こいつと話をしてるんだ」
それからあらためて、担任教師は俺を見る。
「理由はどうあれ、手を上げた奴が一番悪いぞ。見た感じ、正当防衛でもなさそうだ。橋本、間違ってないよな?」
彼も動揺していた。大ごとになるとは思わなかったんだろう。唇が、震えている。
「いや、あのっ……おれはっ……」
「俺は、一発も殴られてません」
ハッキリ、真実を口にした。橋本の目が見開かれる。天音が、一歩前に出た。まずいとでも、思ったんだろう。
「先生。ここでのこと、全部お話します。康平とも、一度話し合いたいです。できれば、三人だけで。私も悪かったから。だから、どうかここは見なかったことに……」
「全部、俺がやりました」
「……ちょっと、黙っててよ春希くんは‼」
その絶叫に、怯んだりはしなかった。俺は、天音を押しのける。それから担任教師を見据えた。
「こいつ、気が動転してるみたいなんで。部屋に戻して、休ませてあげてください。たぶん、そうした方がいいです」
「春希くん‼」
担任教師が、俺と天音と橋本を見比べていく。誰に話を聞いた方がいいか、思案しているんだろう。殴られた橋本は、目の焦点が合ってない。天音は、見るからに取り乱している。加害者の俺は、一番落ち着いている自信があった。そして、俺がやったんだと罪を認めている。
選択肢が一つしかないのは明白だった。
「橋本。保健の先生を起こすから、手当てしてもらえ。高槻は今から、女の先生を呼ぶ。部屋に戻れ。工藤は……」
「先生‼」
納得いかないのか、みっともなく天音が叫んだ。やっぱりこいつは、馬鹿だ。そういうところが本当に不器用だ。大切な誰かを助けたくて、後先を考えないところが。
それからほどなくして、呼び出された女の先生がやってくる。天音は連れて行かれる時にもがいて、俺の潔白を証明しようとしたけれど、その行動は精神状態が不安定だという推測を裏付けるだけだった。橋本は、何も話さなかった。動揺しているのか、罪を背負った俺をあざ笑っているのかは知らないけど、ただ最後まで、何も言わなかった。
俺は、担任教師に連れて行かれる。
楽しかった修学旅行の最後は、とても残念な幕切れで終わってしまった。
使用していない空き部屋に通されて、俺はことの経緯の説明を求められる。言えるわけがなかった。なんで俺が激昂したのか、その理由を話したくなかった。話せば、天音のことも口にしなければいけないから。たとえ、担任教師が彼女の家庭の事情を知っているのだとしても、話したくはなかった。
だから俺は、嘘を吐いた。
「あいつと仲良くしてるのが許せなくて。ついカッとなって、やりました」
担任教師の目には、俺が青臭いガキのように映っているだろう。それで良かった。天音のことを話さなくて済むのなら、それくらいの恥(ち)辱(じょく)は甘んじて受け入れるつもりだ。
「工藤は、この年まで彼女ができたことがなかったんだろう」
「……はい」
「男と女っていうのはな、何度も引っ付いたり別れたりして成長していくんだよ。辛いかもしれないけどな、工藤が経験したことは、大人になればよくあることで、社会に出てから同じことをやったら傷害で警察に捕まるんだ」
「……はい」
「お前なら、先生の言いたいことがちゃんとわかるよな?」
俺は、聞き分けのいい子どものように頷いた。目の前の大人は、未だ子どもの俺を憐れむような目で見つめてくる。
「お前はしばらく学校に来てなかったんだから、あまり親御さんに迷惑を掛けるんじゃないぞ。そうしないと、父も母も悲しむ」
言葉にした後、気まずそうに頬を掻いた。
「……そうだった。工藤のお母さんは、確か今年の冬に亡くなったんだったな。傷を掘り返したみたいで、すまない。たぶん、いろいろ整理ができていないんだろう。不安定だったんだよな」
「はい……」
「工藤は真面目な奴だから、もうあんなことはしないって信じてるぞ。先方の親御さんには、俺から説得しておくよ。保証はできないけど、学校には戻れるようになんとか掛け合ってみるから」
「すみません……」
「それは落ち着いたら、橋本に言ってやれ。謝る相手は、先生じゃないだろ?」
俺は、何も答えなかった。
「とりあえず、しばらくの間は自宅謹慎になると思う。明日は、朝一で先生と飛行機に乗って帰ろう」
「……わかりました」
「それじゃあ、布団敷いてこの部屋で寝なさい。荷物は明日の朝、明坂にまとめさせるから」
最後にそれだけ言って、担任教師は部屋を後にする。俺は、布団も敷かずに畳の上に横になった。何も、考えたくなかった。けれどただ一つだけ。
春希に対しては、本当に申し訳ないことをしてしまった。
何度もポケットの中のスマホが振動したけれど、一晩中それを無視して過ごした。
翌日、担任教師は俺の旅行カバンを持ってきた。みんなは朝食を食べている時間だったから、誰ともすれ違うことはなかった。旅館を出て、空港までタクシーに乗って、飛行機に搭乗する。
思考を停止していると、驚くほどすぐに杉浦市へと帰ってきた。担任教師と自宅へ行くと、事前に報告をしていたのか父親が俺を出迎えた。
「本人も動揺しているみたいなので、しばらくは自宅で過ごさせてください」
「……わかりました。この度は、うちの息子がご迷惑をお掛けしてしまって、本当に申し訳ございません……」
「若者ですから。よくあることですよ。ははっ」
最後に担任教師は俺を見て「反省するんだぞ」と釘を刺し、帰っていった。父親に「とりあえず、入りなさい」と言われて、素直に従った。
リビングには、朝食の匂いが立ち込めていた。見ると、テーブルの上には一人分の目玉焼きと、ウインナーと、ご飯が置かれている。
「先生が、朝ご飯は食べてないって言ってたから」
喉を通りそうだったら食べなさい。優しく言うと、お母さんに「春希が帰ってきたよ」と報告した。
「……ごめんなさい」
「朝ご飯は食べられない?」
「そうじゃなくて……」
平日だというのに、仕事も休ませてしまった。俺は、わかってなかった。誰かを殴ると、いろんな人に迷惑が掛かるということを。
「とりあえず、食べなよ。お腹いっぱいになったら、いろいろ聞いてあげるから」
「……うん」
気分は死んでいるも同然だったのに、人間の欲求に逆らうことはできなくて、出されていたものをすべて胃の中へ入れた。すると今度は、温かいお茶を用意してくれる。父親はブラックのコーヒーを淹れて、隣に座った。
「まずは、修学旅行の楽しかったことから話してみる?」
優しく笑った。怒ってこないのが、逆に怖くもあった。
「それとも、いきなり本題から入ってみる?」
控えめに頷いた。今楽しかった思い出を振り返ると、虚(むな)しさでどうにかなってしまいそうだった。
「それじゃあ、どうしてクラスメイトの子を殴ったの?」
わずかな間の後、口を開く。
「……許せなかったんだ」
「馬鹿にでもされた?」
「……天音を、守ってあげたかった。必死だったんだ。放っておけば、無責任に彼女のことをもっと傷付けそうだったから、黙らせたかった……」
「そっか」
噛みしめるように呟いた後、父親は言った。
「理由はどうあれ、手を上げるのはダメだよ」
「……先生にも言われたよ」
「でもお母さんが傷付けられてたとしたら、お父さんも手を上げてたかもしれない。男って、単純な生き物なんだ」
「……浅はかだった」
「そうだね。可能ならば、話し合いで解決するべきだった」
「話を聞いてくれないような奴だったら……?」
「それでも話をするんだよ。暴力で従わせる解決に、意味はないんだから。天音さんだって、きっとそんなことを望んだりはしないだろう」
当たり前だ。天音はどれだけ苛立ちを覚えても、決して暴力で解決したりしない。
けれど、そんな優しい人が、匙(さじ)を投げるような奴だったんだ。あまつさえ、暴力を振るわれていた。父親が言っているのは理想論で、ただの絵空事だ。
「手を出さなきゃ、きっと今度は俺が殴られてた。あいつは、天音を突き飛ばしたから……天音にだって、もっと暴力を振るったかも」
「暴力を振るった理由はどうあれ、君は無傷だ。第三者だったはずなのに。やり返すとしたら、君じゃなくて天音さんの方だろう?」
「あいつは、暴力なんて振るわないから……だから代わりに、俺が……」
「天音さんはそんなことを望まないって、お父さんさっき言ったよね?」
優しく、諭(さと)すような話し方をする。それに苛立ちを覚えてしまう自分が、恥ずかしかった。けれど見ていないからそんなことが言えるんだと、思った。
「……それじゃあ、天音が殴られるのを黙って見てれば良かったって言うの?」
「そうじゃない。本当に大切なら、天音さんの代わりになって説得を試みれば良かったんだ」
「それで上手くいかなかったら、殴られろって……?」
「ああ。殴るより、殴られる方がずっと強いよ」
断言してくる。わけがわからなかった。そんなのは、格好が悪い。
「厳しいことを言うけれど」
一度カップの中のコーヒーを口に含んでから、畳み掛けるように父親は話した。
「誰かのためという理由は、偽善だとお父さんは思う」
「偽善……?」
「もっと端的に言うなら、体の良い言い訳だよ。自分の行動理由を、相手のためだと言い張るのは。人間は往々にして、誰かのために人を殴ったりはしないと思うんだ。お父さんは人を殴ったことはないけれど、きっと手を出す瞬間は誰かのためというよりも、自身の怒りの感情の方が大きく勝っていると思う。無責任なことは言えないからあらためて聞くけれど、君は殴った瞬間に何を考えていた?」
問われて、思い出したくもない昨日の出来事を回想した。二人の話を盗み聞いていた俺は、誰かが倒れる音を聞いて飛び出した。そこへ行くと、橋本が立っていて、天音が倒れていた。許せないと、思った。天音が忠告をしたというのに、彼は聞き入れもせずにそれを無視したからだ。
誰かがわからせないといけないと思った。痛みを伴わなければ、人は理解しようとしない。だから天音の代わりに、踏み出した。
それでも俺は、最後に彼に訊ねていた。ストラップは、お前が捨てたのかと。その返答を聞いて、頭で理解して、血が上って、殴った。
誰かのためじゃなくて、自分自身の義(ぎ)憤(ふん)を晴らすために。
それに気付いた途端、愚かだったのは自分だったということを思い知った。
「……あの場所で一番強かったのは、天音だった」
突き飛ばされても、天音はやり返さなかった。女のくせに体力のある彼女なら、少しは抵抗することもできたはずなのに。担任教師が来た時も、三人で話し合うことを望んでいた。
それに比べて、俺はどうだ。橋本を恐怖で立てなくなるほど強く殴り飛ばした。誰も来なければ宇佐美の分だと言い訳して、もう一発殴っていたかもしれない。
俺は本当に、愚か者だ。気付いた瞬間に後悔が溢れてきて、涙が頬を濡らした。そんなどうしようもない俺の背中に、優しく手のひらを添えてくれる。
「殴られるのは痛いかもしれない。それでも、やりかえすよりはずっとマシさ。本当に強い人は、暴力で訴えたりしない。誰かを守れるほどの強さがあるなら、受け流すことはできるんだ。だからどんな理由があるにせよ、最初に拳を握ってしまった人は負けだよ」
心のどこかで、上手くやれていると思っていた。春希よりも、工藤春希をやれていると、自(うぬ)惚(ぼ)れていた。彼の守ることができないものを、俺なら守ることができると高をくくっていた。そんな慢(まん)心(しん)が招いてしまった、本当にどうしようもない間違いだった。
ごめんなさい。いろんな人に、謝らなければいけなかった。一番変わらなきゃいけなかったのは、他ならぬ俺だった。
変わることが、できるんだろうか。
救いようのない、こんな俺でも。
「とにかく、やったことは反省しなさい。反省して、やり直すことさえできれば、君はちゃんと強くなれるよ」
「……はい」
涙が溢れる。後悔のしずくだった。それが、とめどなく流れた。
変わらなきゃいけないと、強く思った。
しばらくの間、自室に引きこもった。気付くと夜が来て、夕ご飯だと言われてリビングへ行き食事をして、また閉じこもった。そうして反省をすることが、今の俺にできる最大限の償(つぐな)いだと思った。
また気付けば、朝になっていた。もうとっくに、みんなもこっちへ帰ってきているだろう。今日は、振替休日。天音からの着信は、昨日から鳴り止まなかった。一時間おきに、かかってきた。自宅謹慎をしているんだから、放っとけよ。今は合わせる顔も、掛ける言葉も見つからないんだから。
お昼に、宇佐美から着信があった。天音の連絡を無視して出るのは気が咎めたが、誰かの声が聞きたくて、応答をタップしていた。誰でもいいから、俺をなじって欲しかった。最初に戻るみたいに、死ねと言われても良かった。けれど彼女の第一声は『大丈夫?』だった。
本当に、宇佐美真帆は変わった。その事実が余計に心を刺激して、涙が溢れてきた。
『ちょ、本当に大丈夫……?』
「……昨日よりも、ちょっとは落ち着いた」
『……そっか。天音からは、一向に電話に出てくれないって聞いてるけど。なんで私には出てくれたの?』
「声が、聞きたかったから……」
電話の向こうの彼女が、赤くなったような気がした。もちろんそんな意味で言ったんじゃない。
『天音には、繋がらなかったって言っておくよ』
「ごめん、ありがとう」
『ごめんはいらないから。鳴海くんが言ったんでしょ?』
そうだった。落ち着いた俺は、思わず苦笑した。
「……天音から、事情は聞いたの?」
『ううん。教えてくれなかった。でも、噂で聞いたよ。橋本を殴ったって』
宇佐美曰く、突然帰宅した工藤春希と、顔に痣ができている橋本康平と、意気消沈している高槻天音という状況証拠から、そんな噂が広まっているらしい。概ね、間違いはなかった。こんな時だけとても正確なのが、なんだかやりきれないと思った。
『それで、なんで殴ったの?』
「許せなかったんだよ」
『天音がなんか言われたから?』
「……いや、もっと個人的な。どうかしてた。だから今、ちゃんと反省してる」
『そっか』
「引いたよな」
『別に。私も橋本のこと叩いたし。だから仲間だね』
冗談を言う時みたいに、笑みを含ませながら宇佐美は言った。そのおかげでちょっとだけ、元気がもらえた。
「天音、結構参ってると思うから。宇佐美が見ていてあげて欲しい。お願いできるかな?」
『言われなくてもそうするつもりだよ。でも鳴海くんがいなくて不機嫌になられても困るから、早めに戻ってきてね』
「……ありがと。橋本は、どんな感じだった?」
『天音と一緒。怖いくらい黙り込んでた。天音と顔合わせる時もあったのに、一言も会話してなかったし。まるで、人が変わったみたいだった』
「そっか……」
『それが原因で、みんな根拠のない憶測ばかり言ってる。また、ちょっと前に戻ったみたいで、なんか嫌だった。前のは、私が蒔(ま)いた種だったけど……』
「今回ばかりは仕方ないよ。俺が殴ったんだから。本当に、春希に申し訳ない。また学校を居心地の悪い場所にしちゃった」
『大丈夫だよ。今度は私が、鳴海くんのことも春希のことも助けてあげるから』
「いいよ。宇佐美もいじめられたら、かわいそうだし」
『それで私がいじめられるなら、一緒にいじめられるよ。というか、私の疑惑もまだ解消されてないし。だから、本当に大丈夫。安心して戻っておいで』
何も大丈夫なんかじゃないけれど、宇佐美の優しさが身に染みた。
「ありがとう」
最後にもう一度だけお礼を言って、通話を切った。スマホを机の上に置いて、ベッドに横になる。いろいろと、考えなきゃいけないことがあった。
春希のことと、これからのこと。それと、どんな顔をして天音に会えばいいのかが、未だにわからなかった。元の体に戻るまでに、やらなければいけないことが増えてしまった。元通りになるまでに、全部それを解決することはできるんだろうか。
考えても、ネガティブな未来しか今は思い浮かばなかった。
* * * *
「最近、元気ないね」
緑の色鉛筆を持ちながら、病室に来てからずっと上の空のナルミに訊ねる。いつもなら、その辺を散歩しようと誘ってきて、春希を無理やりにでも連れ回そうとするのに。今日は、その気がまるでないみたいだ。
「ちょっと考え事してたんだ」
「考え事?」
「学校で、ついクラスメイトを殴っちゃったんだ」
ついにしては大ごとすぎる告白に目を丸くする。春希は生まれてから一度も、誰かに手を上げたことがなかった。
「……ナルミくんって、いじめっ子なの?」
「いじめたことはないよ。ただ、俺がいじめられてるんだ」
「なんで? 強いのに」
「強くても、いじめられる人はいじめられるんだよ」
「……何か言われたの?」
「なんというか、服装とか髪型とか。キモイんだよって言われてたから、一発殴った」
別に、服装も髪型もおかしなところはないのにと、思う。ナルミがダメだとしたら、特に何も気を使っていない自分は毎日いろいろ言われるかもしれないと思って、余計に学校へ行くのが怖くなった。
「そんなこと言われても、殴っちゃダメだよ」
「なんでさ。世の中、強い奴が正しいんだぜ?」
「手を出す人が、一番弱いよ」
春希は珍しく、自分の意見をハッキリ言った。するとナルミは眉をきりりと内側に寄せて、近くのテーブルを思い切り強く叩いた。
「俺は弱くなんかねーよ!」
驚いて、体が震えた。なんとなく、弱いという言葉がナルミにとっての禁句なんだと察した。けれど気付いた頃にはもう遅く、ナルミは何も言わずに病室を飛び出した。怒鳴られた春希は、わけがわからなくなって、勝手に涙が溢れた。
それからお母さんがやってきて、春希は訊ねた。
「どうして、ナルミくんは怒ったの……?」
お母さんは、笑顔で教えてくれた。
「それは、ナルミちゃんが強くなろうとしてるからよ」
でも、春希はお母さんから聞いていた。どんな理由があっても、手を上げる人が一番弱いんだと。そう教わっていたから、事実を言っただけだった。間違っているとは、思わなかった。
「僕も、殴られたりしないかな……」
「大丈夫よ。あの子は、ハルのことが大好きだから。でも、今度会った時はね――」
その時春希は、生きていく上で一番大切なことを教わった。けれど、ナルミはもうここには来ないから、せっかく教わったことも、無駄になる。
そう悲観していたけれど、驚くことに次の日もナルミは病室にやってきて「昨日は、ごめん……」と素直に謝ってきた。赤の色鉛筆を持っていた春希は、目を丸くする。
「僕も、ごめん……」
「そうだぞ。元はと言えば、俺のことを弱いって言った春希が悪いんだから」
謝ってきたのに、逆に自分のせいにされてしまった。苦笑いを浮かべつつも、春希はお母さんに教わったことを実践することにした。
それはとても単純なことで、相手とちゃんと話をするということだ。
「ナルミくんは、どうして昨日怒ったの?」
「は? ムカついたからに決まってんじゃん」
いつもより乱暴に、丸椅子に腰掛ける。けれど今日は病室を飛び出したりはしない。
「そうじゃなくて、強くなりたいの?」
「だから、俺は強いんだって。同い年の男の子にも、普通に勝てる」
「僕は、それを強いとは言わないと思うんだ」
また、怒るかもしれなかった。けれどナルミは、今日は腕を組みながら「どうして?」と訊ねてくれる。
「本当に強い人は、誰も泣かせたりしないから」
「そんなの、俺だって泣かせないよ。春希がいじめられてたら、俺が守ってやる」
「……そうじゃなくて。嬉しいけど、そうじゃないんだよ」
「なんだよ。ハッキリしない奴だな」
拗(す)ねたように言われて、口元をむぐつかせる。それでも今日は、ちゃんと話をすると決めていたから、自分を奮い立たせるために手を握った。
「……本当に強い人は、誰とでも仲良くなれると思う」
「さっきと言ってること全然ちげーけど」
「そうだけど、そうじゃなくてっ!」
上手く言葉にできなくて、情けなかった。気合いを入れるために自分の膝を叩くと、ナルミは「おもしれー奴」と言って笑った。恥ずかしくて、体が熱くなった。
「聞いててやるから。ゆっくり話しなよ」
「……それだよ」
ナルミは、首を傾げてくる。
「殴った相手とも、ちゃんと話をすれば良かったんだよ」
「そんなの無理だぜ? だって、俺とは全然違うし。キモイって言われたし」
「……でも、僕とナルミくんは全然違うのに、こうやって仲良くできてるよ?」
思い切って言ってみると、目をぱちくりされた。春希にはこれまで友達がいなかったから、そんな簡単なことを言う時でさえ、心臓がバクバクと鼓動した。仲良くないじゃんと、言われるかもしれないからだ。
けれど。
「そういえば、そうだな!」
ナルミは笑ってくれた。春希はホッと胸を撫で下ろす。
「よく考えたら、春希の言う通りかもな。誰かを泣かせるより、泣いてる人を慰めてやれる奴の方が、ずっと強いのかもしれない」
「わかってくれた?」
「でもそれはそれとして、キモイって言われたのは腹立つけどな」
「僕は、全然キモイなんて思わないけど」
思い切って本音で打ち明けてみると、思いのほかその言葉が嬉しかったのか、ナルミは頬を染めて「そ、そうか?」と照れてくる。
「僕、どちらかというと、いじめられるタイプだし。そんな僕に、いつもこうやって話し掛けてくれるの、すごく嬉しいんだよ。だから僕みたいに、みんなとも話せば今よりずっと強くなれると思うよ」
「や、やめろよ。そんなムズムズするようなこと言うの……」
「言うよ。だって僕、ナルミくんのことが好きなんだもん」
好きだと本音を言ったら、もっと喜んでくれると思った。けれど予想に反して、ナルミの表情から途端に明るさが消えた。
「……嬉しいけど、春希が本当の俺を知ったら、たぶん嫌いになると思う」
「どうして?」
「……だってさ、俺、最近あんまり学校行ってねーもん。行っても、保健室とかだし。春希みたいに、病気だから行けないわけでもないのにさ……」
だからいつも病室に来られるのかと、合(が)点(てん)がいった。平日の、それこそみんなが授業を受けている時でも、ナルミはここに遊びに来てくれていたから。
「なんで行かないの?」
「みんなが、俺を馬鹿にするから。……ごめん。実は結構、いつも強がってんだ、俺」
急にナルミが泣き出しそうになって、春希はどうしたらいいかわからなくなった。だからとりあえず、腕を大きく広げる。すると泣き顔から一転して、頭の上に疑問符が浮かんだような気がした。
「……何やってんの?」
「寂しい時とか辛い時とか、いつもお母さんが抱きしめてくれてるから……だから、ナルミくんもおいでよ」
「なんだよそれ」
吹き出すように小さく笑ったが、ナルミは大人しく春希の元へ丸椅子を寄せて、腕の中にすっぽりと収まった。やっぱり、この子の体はとてもやわらかい。それからお母さんのように艶やかで綺麗な髪を撫でてあげた。
「落ち着く?」
「……ありがとう」
「ううん。僕も、いつもこうしてもらってるから」
「……今俺が泣いたらさ、春希は弱くなっちゃうのかな?」
「そういうのは、問題ないと思う」
春希は自分が強いとは思わなかった。
ナルミは声を出して泣いたりはしなかったけど、体が少し震えているのが伝わってきた。優しく、その背中を撫でてあげる。
もしかすると、みんなどこかに弱さを抱えているのかもしれないと、幼い春希は思った。
「一緒に、絵を描いてみない?」
いろいろ気になることはあったけど、春希はナルミに多くを訊ねなかった。一緒に遊ぶことで、少しでもその代わりになると思ったからだ。腕の中で、ナルミは言った。
「俺、絵下手だけど。野球とかなら、得意だよ」
「僕も上手くはないよ。野球は動き回らなきゃだから、今の僕には無理かな」
「……下手でも、いいの?」
「もちろんだよ。どうせなら、絵本みたいに描いてみる?」
そんな女の子みたいな遊びは嫌だと、断られる予想はしてた。けれどいつもより素直なナルミは、頷いてくれた。それから隣に来なければ描きづらいかもしれないと思って、少しだけ右にずれる。躊躇うようなそぶりは見せたけど、最終的に靴を脱いで、春希の隣に腰掛けた。
「僕、病気が治ったらナルミくんといろんな場所に行きたい」
「……いろんな場所って?」
「南の島とか。そういうの、無理なのかなって思ってたけど、ナルミくんのおかげで、生きることに勇気が持てるようになったんだ。野球も、ナルミくんから教わりたいな」
春希は茶色の色鉛筆を手に取ると、ヤシの木の幹を書いた。それから緑色で、葉っぱを着色していく。ナルミが隣で遠慮がちに青の色鉛筆を取って、真っ青な海を描いた。それだけで、真っ白だった画用紙の上が南国の島のように見えた。
「……どうせなら、その南の島にウサミミも連れてこうぜ。だって、春希の将来の恋人なんだからさ」
「会えるかな?」
「会うんだよ。春希の病気が治るまでに、なんとかして友達になっとくからさ。一人より、二人より、三人の方が楽しいだろ?」
「うん……」
ナルミはピンク色の色鉛筆で、拙いながらもかわいいウサギの絵を描いた。そして、なぜか黒色の眼鏡を掛けさせる。南の島に眼鏡を掛けたウサギは、どう考えてもおかしいと思ったけど、別にいいやと開き直った。だって、絵本なんだから。ナルミが書いてくれたウサギの上に、春希が『ウサミちゃん』と名前を書いておいた。
「そういえば、名前聞いてなかったね」
「次会った時に聞けばいいじゃん」
「そっか」
それからナルミは、ウサミちゃんの隣にひ弱そうな男の子の絵を描いた。名前は『ハルキ』。
「上手だね。でも、なんだか恥ずかしいな」
「それでさ、春希は俺のこと描いてくれんの?」
恥ずかしさを誤魔化すように言ってから、期待のこもった眼差しを向けられた。
「あんまりかっこ良く描けないけど、それでもいい?」
「ダサくなければ」
要望に応えて、春希は隣に座るナルミを見ながら、かっこ良いとかわいいの中間ぐらいの男の子を描いていった。そうしていると、病室のドアが開く。入ってきたのは、お父さんだった。
「ああ、ナルミちゃん。来てたんだ」
「あの、お邪魔してます……」
「今日はとっても仲良しだね。二人で絵を描いてるんだ?」
「絵本描いてるの」
ナルミを描きながら答える。お父さんは気を使ったのか、荷物を置くとすぐに病室を出て行った。
「ねえ、まだ?」
「もう少し」
「暇だよ」
「そういえば、ナルミくんの名字ってなんていうの?」
答えるのに、わずかな間があった。春希がナルミを完成させた時に、ちょうど答えは返ってきた。
「杉浦」
「スギウラ?」
「うん」
「この病院と同じ名前だね!」
ナルミはぎこちなく微笑んでくる。完成した絵の上には『ナルミくん』と書き記した。我ながら、かわいい子が描けたんじゃないかと春希は思う。隣に座っている子は、いつもかっこいいけれど、今日はなんだかこの絵のようにかわいく映った。
「なんだよ、めっちゃ女みたいじゃん……」
「言いじゃん別に。男っぽくても、女っぽくても。ナルミくんはナルミくんだよ!」
また照れているのか、ナルミは俯いたまま顔を上げなかった。だからいろんな色を追加して絵本に着色していると「春希みたいな奴が先生だったら、きっと楽しく学校に通えたんだろうな……」と呟いた。
言葉の意味が汲み取れず、首を傾げる。すると、今度は声を震わせながら。
「この絵本、もらってもいい……?」
「いいけど、捨てないでよ?」
「捨てるわけないじゃん……」
「それじゃあ、あげる。絶対になくさないでね」
「うん」
画用紙を受け取ると、ナルミはまるで宝物のようにその絵を見つめた。家族以外に自分の絵を褒められたことがなかった春希は、ただそれが嬉しかった。
「……春希はさ、死なないよな?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって、心臓の病気なんだろ……?」
「治すためにここに来てるって言ったのは、ナルミくんだよね」
「……そうだった」
今日のナルミは、どこか変だ。けれど幼い少年にはちょっとした機(き)微(び)の違いなんてわかるわけもなく、明日も明後日もなんだかんだここへ来て、仲良くできるんだと思っていた。
「とりあえず俺、明日から学校行ってみる。そんで、いろんな人とちゃんと話してみる」
「えらい!」
「そういうわけだから、今度から来られる日は少なくなるかも」
「それは仕方のないことだから、我慢するよ」
学校へ行くと言ってくれて、自分のことのように嬉しかった。そして今日はもう帰るつもりなのか、画用紙を持ってベッドから降りる。こちらを振り返って、にんまりと笑った。
「ありがとな」
「僕の方こそ」
「それでさ、約束して欲しいことがあるんだけど」
「何?」
訊ねると、視線を右往左往させながら、話してくれた。
「俺がちゃんと学校に通えるようになったら、聞いて欲しい話があるんだ」
「それは、今言えないの?」
「うん。だって俺、あんまり強くなかったみたいだから」
それならと、春希は小指を差し出す。
「指切りしようよ」
あの日、そうしてくれたように。今度は春希の方から、近付いてきたナルミに小指を絡めた。
「指切りげんまん嘘ついたらはりせんぼんのーます。指切った!」
ナルミとの契りは、こうして切られた。
帰り際、ナルミは病室のドアを開けてから振り返って、言った。
「言い忘れてたけど、俺も春希のことが好きだぜ!」
吹っ切れたようなその笑みを見て、この子はもう大丈夫だと春希は思った。これから先も、きっとたくましく生きて行くだろう。
あの日に交わした約束は、いつまでも忘れることはなかった。
けれどあの笑顔を最後にして、ナルミは春希の病室を訪れなくなった。
やがて病状が快復していくと共に、退院の日がやってきた。
それでもおめでとうと言ってくれる大切な人が目の前に現れてはくれなくて。
再開の期待を胸に抱き中学へ進んでも、スギウラナルミという子は同じ学校に入学はしてなくて。
大きな手術をして思う存分野球をできる体になっても、ナルミと再会することは叶わなくて。
そうして春希はまた、いつの間にか一人になっていた。
* * * *
俺は、どこへ行ったんだろう。久しぶりに見た春希の夢の終わりで、思った。
手がかりは、見つからなかった。あの意味深な態度も、春希に話したかったことも、すべてが想像すらできなかった。いったい、俺は何を言いたかったんだ。無事に、学校には通えたんだろうか。
「春希……」
呟くと、ベッドの上に無造作に置かれたスマホが鳴った。明坂からのメッセージだった。確認すると、それはあの日から学校を休んでる俺を心配する内容だった。
《橋本のこと殴ったって噂流れてるけど大丈夫か? 宇佐美も、ついでに姫森も心配してんぞ》
まさか、姫森も心配してくれているなんて。
天音の様子を訊ねてみると、おそらく授業中であるにもかかわらず、すぐに返信が来た。
《めっっちゃ意気消沈してる。全然話さなくなったし。というか、高槻さんも周りからいろいろ言われ始めてるんよ。橋本に浮気したとか、どうとか。もう、意味わかんねーよ。姫森とか宇佐美が、頑張って励ましてあげてるけどよ。橋本も、なんか学校休みがちになったし》
胸が痛んだ。俺が彼を殴らなければ、こんなことにはならなかった。もし過去をやり直せるなら、思いとどまりたかった。けれど悔やんでも、過去は決して変わらないし、戻ることもできない。
一度、天音に連絡を取ろうか迷った。連絡先を呼び出して、通話ボタンを押そうとしたところで、指が動かなくなってしまった。電話を掛けたところで、何を話せばいいかわからなかったからだ。
彼女のことだから、声が聞けただけでも嬉しいと言ってくれるかもしれない。それでも、怖かった。怒っているかもしれないから。
何より、夢で見た子どもの頃の自分から、結局何一つ変われていなかったことが恥ずかしかった。春希と、約束したのに。結局俺はいつまでも弱いままで、誰かを助けることのできるような人間じゃなかった。春希のことも、あの病院に置き去りにした。何も理由を告げずに。
天音から、また着信が来た。今度は留守番電話サービスに繋がるまでコール音が響いて、耳にも視界にも入れたくなかったから布団でスマホを押し潰した。
「ごめん……」
本当に、ごめん。日に日に申し訳なさは積もっていくばかりだった。
しばらく日にちが空き、また宇佐美から着信があった。ちょうど学校では、お昼ご飯の時間だったようだ。彼女は謹慎中の俺に定期報告をしてくれている。けれど状況は芳しくはないらしい。毎日飽きもせず、クラスメイトが裏でコソコソ俺と天音と橋本の話をしているんだとか。
言葉にはしなかったけど、現状をどうにかしようと頑張ってくれているんだろう。いつかの天音のように。嬉しいけれど、それが原因で仮に宇佐美がいじめられるようなことがあるなら、もうやめて欲しいと思った。この件に、彼女はまったく関与していないんだから。
今日も、その連絡だろうと思っていた。釘を刺すつもりだった。俺のことは気にするな、と。そのつもりだったのに、電話を掛けてきた今日の宇佐美は取り乱した声で。
『天音が、倒れた……!』
頭の中が、真っ白になる。あの健康優良児の天音が、倒れた。病気とは、まったく縁がなさそうなのに。そんな彼女が、倒れた。
「……どうして?」
『二時間目の体育の時間に、過呼吸起こしてっ……! 理由はよくわからないけど、たぶん、ストレスの限界が来たんだと思う……!』
説明してくれる宇佐美も、今にも過呼吸になりそうなくらい息が乱れていた。だから「宇佐美も落ち着け」と、冷静な言葉を掛けることができた。
呼吸を整えた彼女は『……ありがとう』と、落ち着いた声で答えた。
「それで、天音は保健室に行ったの……?」
『……ううん。救急車が来て、病院に運ばれてった……』
それは、重症なんだろうか。天音に限って、そんなことはないと思いたかった。
「……どこの病院に運ばれたのかはわかる?」
『わかんないけど、たぶん杉浦病院だと思う……』
「そっか。ごめん、一回切ってもいい?」
『天音に会いに行ってくれるの……?』
「そのつもり。会えるかは、わからないけど」
『……それじゃあ、もし会えたら後で大丈夫だったか聞かせてね』
「わかったよ」
電話を切ると共に、久しぶりに外出する服装へ着替えた。自宅謹慎中だから、本当は外出もしたらダメだけど。さっきの話を聞いて、大人しく部屋に閉じこもって反省し続けるのは無理だ。
家を飛び出して、杉浦病院へと走った。久しぶりの運動で体がなまっていて、足がもつれてころびそうになった。それでも、ただ走った。
杉浦病院のエントランスをくぐると、以前もかいだ消毒液の臭いが鼻をついた。嫌な臭いだけれど、そんなことに構っている暇はない。とにかく行き当たりばったりでここへ来てしまったが、向かう場所は決めていた。
ひとまず、ナースステーションへ行く。仮に天音が入院するのだとしたら、お見舞いだと一言伝えれば通してくれるかもしれない。とはいえ、二時間目に倒れたということだから、大ごとになっていたとしたら、今は会えない可能性の方が高い。その時のことは、考えていなかった。
「君、ちょっと待ちなさい」
帰宅する人たちがひしめき合っているロビーで、誰かに呼び止められた。振り返ると、そこには白衣を着た天音のお父さんが立っていた。
「あ、こんにちは……」
「偶然では、なさそうだね。もしかして、お見舞いに来てくれたの?」
ちょうどいいと思った。頷くと、それ以上は何も言わずに「おいで」と手招きされる。おかげでナースステーションをパスできた。病院の廊下を歩きながら、訊ねる。
「天音は、大丈夫なんですか?」
「持病を患ってるとかじゃないからね。疲労が溜まってたみたいで、それが突然爆発したらしい。今は落ち着いてるけど、妻が心配しているから念のため検査入院させることになったんだ」
「そうですか……」
安心した。もう会えなくなるといったような、最悪の事態になっていなくて。
「学校、抜け出してきたの?」
「いや……実は、自宅謹慎中で」
「へぇ、何か悪いことでもやっちゃった?」
「……クラスメイトを、殴りました」
「そうか。もしや、天音くんが最近元気ないのは、それが関係してるのかな?」
鋭い。そして、この人は娘の不調を察せられるほど、最近はちゃんとコミュニケーションを取っているらしい。上手くやれているようで、場違いにも安堵した。
お父さんと一緒にエレベーターへと乗り込み「すみません……」と謝罪する。
「どうして謝るんだい?」
「天音が倒れたのは、たぶん俺のせいです。余計な負担を、掛けてしまったので……」
「残念だけど、それは自惚れだよ。春希くん」
「……どういうことですか?」
「君の今回の件で、瞬間的に強いストレスがかかってしまったのかもしれないけど、そんなことで倒れたりするほど、あの子は弱くないんだ。自分で自覚してしまっているのがとても申し訳ないが、抱えている爆弾を爆発寸前まで持って行ったのは、僕と、それから妻のせいなんだよ。数年間、僕らは家庭で娘にストレスを与えすぎてしまった。いつ爆発してしまっても、おかしくはなかったと思う。君のおかげで、最近は少しだけ持ち直していたみたいだけど」
だから、君だけが悪いわけじゃないんだよ。安心させるように言って、お父さんは右肩に手を乗せた。引き金を引いた事実に変わりはないけれど、少しだけ心が軽くなったような気がした。
「それに、君にはとても感謝しているんだ。今も、昔もね」
「昔、ですか?」
「芳子さん……いや、妻にこの前聞いたんだけど、子どもの頃に君は、天音くんと遊んでくれていたんだろう?」
曖昧に頷く。そんな話は、一度たりとも天音の口から聞いたことがなかった。勝手に、春希とは高校に上がってからの付き合いなんだと思っていた。
「大変だったろう。子どもの頃の彼女は」
「今も、十分大変ですけどね」
今のは失礼だったかもしれない。けれど、笑ってくれた。
エレベーターを降りて、またしばらく廊下を歩く。それから病室の前で立ち止まった。見ると、入院患者のプレートには『高槻』と書かれていた。
「とにかく、君には本当に感謝してる。反省しなきゃいけないことはあるだろうけど、僕は君たちの交際に反対なんてしないから、安心してくれていい。むしろ包み隠さずにちゃんと話してくれて、好感が持てたよ」
「……ありがとうございます」
お礼を言うと、お父さんは病室のドアを三回ノックした。返事はなかったけど「入るよ」と言って、ドアをスライドさせる。うかがうように中を覗き見ると、その部屋のベッドで天音が病院服を着て座っていた。
俺には、まだ気付いていないようだった。
「さっき、病室にお母さんが来てね。すごく、泣かれた」
「へぇ、そうなんだ」
「倒れてしまうくらい、ずっと追い詰められてたんだねって。気付いてあげられなくて、本当にごめんなさいって、謝られた……」
「芳子さんは、天音くんのことを放任してはいるけれど、蔑ろにはしてないよ。少し前までは、どうすればまた話せるようになれるのか、僕に相談してくれていたからね」
俺は黙ったまま、親子の会話を聞いてしまっていた。また、盗み聞きしてしまった。これ以上は、聞かない方がいいのかもしれない。耳を塞ごうとしたら、お父さんが「その話は後で聞くとして。さっき、ロビーで見かけたんだ」と、俺の出るタイミングを作ってくれた。
一度深呼吸をして、少しだけ腰をかがめながら病室の中へと入った。
「……久しぶり、天音」
文字通り、彼女は固まっていた。ぽかんと口を開いたまま。
怒られると思った。また、嫌みを言われると思った。
けれど彼女は、そのまま涙を流し始めた。
だから俺はやっぱり、どうすればいいか、わからなくなってしまった。
天音の涙が止まった頃には、既にお父さんは席を外してくれていた。病院の個室にいるのは、俺と彼女だけ。さっきお母さんが来たと言っていたけど、おそらくもう帰ったんだろう。
何から切り出したらいいのか、何を言えばいいのかがわからなくて、せっかくここまで来たのに頭が真っ白になって、沈黙だけが続いた。顔を合わせれば、どれだけだって言葉が出てきたはずなのに、それが懐かしい過去のように思えて、辛かった。
だから俺は、なんとかして言葉を絞り出す。
「……ごめん。電話に出なくて」
「ちゃんと、ご飯食べてた?」
「……うん。お父さんが用意してくれてて」
「そっか。それなら良かった」
何が良かったんだろう。天音は、ストレスで倒れてしまうほど追い詰められていたのに。俺は、ただ家でのうのうと生きていて、正直、恥ずかしかった。
「……ごめん、天音」
「そんなに謝らないで」
「ごめん……」
「もう」
困ったように笑う。なんでそんなに優しいんだよ。恨み言の一つでも吐けばいいのに。人を殴るような奴とは話したくないと言えばいいのに。なんで、そんなに……。
「私の方こそ、ごめんね。私と康平のことで、杉浦くんが謹慎になっちゃって」
「なんで……」
なんで自分のせいとか言うんだよ。傍目から見ても、どう考えたって明らかに俺が悪かったのに。どうして、こんなどうしようもない奴のことを、かばおうとするんだ。
「だって、私のために手を上げてくれたんでしょう?」
頭の中で、あの日のお父さんの言葉がリフレインした。
人は誰かのために、殴ったりはしない。
気付けば俺は真っ白な布団の上に手を置いて、土下座をするように頭を下げていた。
「違う……違うんだよ天音……! あいつを殴ったのは、俺のせいなんだ……! 俺がむかついたから、手を出したんだ……! だから、俺を責めてくれよ! なんで君が、余計なものまで背負おうとするんだよ……!」
子どものように、みっともなくわめいた。嫌われるには十分すぎるほど気持ちが悪いおこないをしたというのに、天音は俺の頭に手のひらを乗せてきた。あまつさえ、優しく撫でてくれた。
「間違えることは、誰にだってあるよ」
「だから、違うんだ! 俺は、子どもの頃にもクラスメイトの子を殴ったんだよ……! 昔から何も変わってないんだ! 夢で、見たんだ……」
「また、春希くんの夢を見たの?」
「ああ……俺、何も言わずに春希の前から姿を消したんだ……一人ぼっちにした。約束したのに……! だからきっと、あいつも怒ってるよ……」
「春希くんは、やっぱり怒ってるのかな?」
「怒ってるよ、きっと……」
「それじゃあ、ちゃんと謝らなきゃ」
「無理だ……どこにいるのかも、わからないんだから」
顔を上げると、天音と目が合った。申し訳なさで、胸がいっぱいになる。こんな話をするために、ここまで来たわけじゃないのに。
俺はいったい、何がしたいんだ。どうしてここにいるんだ。なんで、いつまで経っても元の体に戻れないんだ。もっと早く戻れていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。誰でもいいから、教えて欲しかった。
「ごめん……本当に、ごめん……」
「謝らなきゃいけないのは、私の方だよ」
「だから、なんでそんなこというんだよ……!」
「私は、とんでもない嘘つきだから」
「嘘つき……?」
訊ね返すと、頷いた。天音は、嘘が嫌いなはず。だから嘘つきのはずがなくて、これもまた俺の罪悪感を減らす気遣いなんだろうと思った。
誰かのために吐く、優しい嘘。そう、思っていた。
天音が、その言葉を口にするまでは。
「私、春希くんがどこにいるのか、本当は知ってるの」
飛び出した内容は、罪悪感で押し潰されそうになっていた俺の頭を真っ白に塗り替えるには十分すぎるほどで、一瞬彼女の発した言葉の意味さえ見失っていた。だから、頭の中で唱えるように反芻(はんすう)した。
春希が、どこにいるのか知っている。
「……嘘だろ?」
「本当だよ。実は、修学旅行が始まるよりも前から知ってた」
「冗談だよな……?」
「正直、確証は今もないけど。私なりに、これまでいろいろ調べてたの。杉浦くんには、ずっと内緒で」
「調べてたなら、教えてくれよ……!」
「ごめん。中途半端に教えたら、それこそ混乱するだけだと思ったから」
責めるような言い方になってしまったことに気付いて、また自分を恥じた。本当に俺は、学習しない奴だ。どれだけ彼女を傷付ければ気が済むんだ。
「話を戻すけど、杉浦くんは、春希くんと会わなくなる時までの記憶を、もう夢で見たんだよね?」
「……ああ。俺、何も言わずにいなくなった。本当に、無責任な奴だったんだ……」
「それは本当に、私もそう思う」
ハッキリ言ってくれることを望んだはずなのに、いざストレートに言われると辛かった。消えてしまいたいとさえ、思った。
「……それで、春希はどこにいるんだよ?」
「私が最初に想像していたより、ずっと近くにいたよ。正直なところ、過去から来たんじゃないかと思ってたから」
「そんなの、無理だろ……いや、体が入れ替わるのも無理があるけどさ……というか、そんな近くにいたなら、天音は会ったりしなかったの……?」
「実際に会って、話をしたことはあるね」
いまいち信用できなかった。事実ならとても喜ばしいが、春希と実際に会って俺に話さない理由がわからない。会わせない理由も。隠す必要なんて、ないはずなのに。
そこまで考えて、ある一つの推測が思い浮かんだ。
「もしかして、会わせられない理由があるの?」
「当たらずといえども、遠からずかな」
「……そろそろ、もったいぶらずに教えてくれよ」
催促すると、天音は一度姿勢を正した。それにならって、俺も椅子に座り直す。
「DIDだよ」
「……DID?」
呟いた言葉の意味は、もちろんぴんと来なかった。しかし、最近どこかで聞いたことのある言葉だ。あれは確か、みんなで学問の神様が祀られている神社へ行った時。宇佐美が拾った天音のメモ帳に書いてあったという、アルファベット。
あの時は、知らないと言ったはずなのに。
「それ、何かのお店の名前? そこに行けば、春希はいるの?」
「Dissociative Identity Disorder」
とても聞き取りやすい発音で、天音はDIDという言葉を略さず発した。しかし、特別英語が得意じゃない俺には、何のことかわからない。だから、首を傾げると。
「解離性同一性障害」
「……は?」
「多重人格って言った方が、わかりやすいかも」
唖(あ)然(ぜん)とした。馬鹿げている。もったいぶった答えに、落胆すらしてしまった。
「多重人格って……ありえないだろ。それじゃあ、俺が見た夢は全部ニセモノだったっていうのかよ? 作り込まれすぎだろ」
「落ち着いて」
「落ち着けるわけないだろ‼」
「それでも、落ち着いて聞いて欲しいの。全部、正直に話すから」
思わず、手近にあったテーブルを手のひらで叩いてしまった。天音の体が、びくりと震える。また、やってしまった。けれど、止まれなかった。さすがに、言っていることの意味が、わからない。
「なあ、意味わかんないよ……俺、笑えばいいの? ごめん、机叩いて。でも、本当に、何言ってるかわからないんだ。多重人格って、どういう意味だよ……? 夢の中の男の子だって、スギウラナルミって名乗ってたんだぜ……?」
「それ、偽名なの」
「は? 偽名? なんで、そんなことが天音にわかるんだよ。見てたのかよ。あの場所には、俺と春希しかいなかったんだぞ」
「違う。ずっと、君は勘違いをしてたの」
まさか、こんな大事な時にジョークを言うような奴だったなんて。
錯乱(さくらん)していると、天音が俺の手のひらを握ってくる。暖かいものが、手のひらを通じてじんわりと体の中に広がっていった。
「全部話すって、約束したから。しばらく、私の昔話に付き合って」
気付けば、俺は頷いていた。いつ、そんな約束をしたんだろう。わからなかったけれど、いつの間にかほんの少しだけ冷静になっていた。
だから、彼女の話す言葉にそっと耳を傾けた――
成(なる)海(み)天音。
それが、子どもの頃の私の名前だった。当時はお父さんとお母さんと、私と弟の四人で暮らしていた。夫婦仲は、物心のついた頃からあまり良くはなかった。
弟の春(はる)音(と)と私はとても仲が良くて、一緒にスポーツをして遊ぶことがよくあった。私の方が歳は上だったから、いつも教える側に回っていた。野球をする時も、ドッジボールをする時も。
けれど、そんな風に外で遊ぶことは、次第になくなっていった。とても単純な理由だった。弟の春音が病を患っていたからだ。病状が悪化したことにより、杉浦病院に入院することになった。とても重い病気だということは、お母さんの憔(しょう)悴(すい)しきった様子で察していた。
治るの?とは、聞いちゃいけないような気がした。お父さんもお母さんも、あまり病気のことを私に話したがらないから。だから、強くならなきゃいけないんだと子どもながらに理解した。二人で背負うよりも、三人で背負った方が、心は軽くなると思った。
けれど、もともと悪かった夫婦仲は、弟の病気の悪化を境に崩壊の一途を辿った。毎日病院へお見舞いに行くお母さんと、現状から目を背け続けるお父さん。心は、いつもすれ違っていた。
当時、私はお父さんが別の女性と仲良くしているのを知っていた。家に帰ってきた時に、お母さん以外の女性の匂いがすることがあったからだ。それを、お母さんが知っていたのかはわからない。ただ、怒る時にヒステリーを起こすことがよくある人だから、お父さんは疲れてしまったんだろうなと、子どもながらに察した。
春音の病気が良くなることはなく、日に日に生命の期限を奪っていくかのように悪化していった。これまでよりも強い薬を体に入れることになって、そのせいで髪の毛がすべて抜けた。ツルツルになった頭を私に見せて、春音は言った。
「僕、頑張るから。病気が治ったら、あ(、)ま(、)ね(、)ぇ(、)とまた一緒に遊びたい。野球したい」
病気を患っているのに、春音は誰よりも強かった。だから私も負けちゃいられないと思って、お母さんにお願いして、当時伸ばしていた髪を理髪店で剃(そ)ってもらった。鏡に映った私は、思いのほか男の子のような見た目をしていた。
翌日、春音にまん丸になった頭を見せると、最初は驚いて目を丸くしていたけど「変なあまねぇ!」と、久しぶりに笑ってくれた。それがただ純粋に、嬉しかった。
女の子のままじゃ強くなれないと思った私は、それから男の子のように振舞うようになった。それがまた春音は嬉しかったらしく、同い年の男友達ができたみたいだと言ってくれた。だからこれからも髪の毛は伸びてきたら切って、男っぽく振舞うことに決めた。
けれど小学校のクラスメイトたちは、そんな風に変わってしまった私を嘲笑して、いじめた。女の子は、女の子らしく振舞っていないとおかしいみたい。頭では理解していたけど、切った髪が一晩で元に戻ることはないし、何より他の誰かのためじゃなく弟のためにしていたことだったから、私は開き直っていた。
それでもいじめに耐え切れなくなって、私はだんだんと学校へ通わなくなった。気付けばいつも、お母さんと一緒に春音のお見舞いに来ていた。お母さんは、『天音が春音のためを思ってやっていることは、絶対に間違ってないよ』と肯定してくれた。だから、自分のやっていることは正しいのだと、疑いもしなかった。
私の仕草や言葉遣いは、日に日に荒っぽくなった。それが強くなることなんだと信じて止まなかった。強さの意味を履き違えていることを、誰も教えてはくれなかった。お父さんは別の女の人を見ていたし、お母さんは私よりも春音のことを見ていたから。
健康な私は、誰にも相手にされていなかった。
春音の病気は、現状を維持することはできても、快復には向かわなかった。命の秒針は刻一刻と終わりの時に向かって動き続け、見ていることに耐え切れなくなった時は病院の屋上で新鮮な空気を吸った。春音は起きている時間よりも、寝ている時間の方が多い時もあった。そんな春音はきっと、誰よりも頑張って病と闘っていた。
ある時いつものように屋上へ行ってみると、そこに一人の男の子がいた。屋上の手すりにつかまって、地上を見下ろしている。飛び降りるんじゃないかと思い怖くなって、気付けば私は話し掛けていた。
「おいお前、そこで何してるんだよ」
彼の名前は、春希くん。当時は、男のくせに女の自分よりも弱っちい奴だと思っていた。けれど、初めて同年代の男の子に抱き留められた時、不覚にも心がざわついた。
そんな春希くんに「お前って言うの、やめてほしい……」と言われた。私は初めて、自分の言葉が他人を傷付けるぐらい荒っぽくなっていたことを自覚した。だから、それからは一度たりとも、誰かのことを『お前』と呼ぶことはなかった。
春希くんには、自分の名前は『成海』だと自己紹介した。『天音』と言ってしまえば、すぐに女だとバレてしまうからだ。男みたいな振る舞いをしているのに、名前はどう読んでも女の子にしか見えなくて、当時はかなりのコンプレックスだった。
春希くんに会いに行くのは、春音が眠っている間の暇潰しみたいなものだった。眠っている間は病室にいてもやることがなく、薬剤を体に取り込むための管が弟の体に付いているのを見るのは苦手だった。
彼と話をするのは、当時の私にとっては唯一の心休まるひと時だった。学校のことも、家族のことも、弟のことも考えなくていい、かけがえのない時間だった。
けれどいつかは本当のことを話さなきゃいけなくて、その日が来るのがとても怖かった。春希くんにまでクラスメイトの子たちと同じように嫌われてしまえば、本当に居場所がなくなってしまう。彼は人を容姿で差別しない人だとわかっていても、嘘を吐いていた事実に変わりはないのだから。
私は、春希くんのお母さんのことが大好きだった。もちろん産んでくれたお母さんも大好きだけど、怒らないし、いつもニコニコしているし、前に杉浦くんが言っていたように、他所の家の子だというのにリンゴを剥いて食べさせてくれた。だから、春希くんに本当のことを話す前に、お母さんには事実を打ち明けておこうと決めた。
本当は春音も入院しているから、トイレの場所はわかっていたけれど、知らないふりをしてついてきてもらった。歩きながら、病気を患っている弟がいることを教えると、やっぱり自分のことのように心配してくれた。お父さんは、お見舞いにすら来ないというのに。
だから本当の性別を明かしても、この人なら大丈夫だと思った。女(、)子(、)ト(、)イ(、)レ(、)に入り用を済ませて出てくると、予想通り驚いてはいたけれど、すぐに持ち直して「ナルミち(、)ゃ(、)ん(、)だったんだね」と、笑顔で言ってくれた。その後私は、お母さんに抱きしめられながら、ちょっとだけ泣いた。
病室へ戻る時、春希くんに隠していることを全てお母さんに打ち明けた。相槌を打って、真剣に話を聞いてくれたから、世の中には自分のことを気持ち悪いと思わない人もいるんだということを知った。当たり前のことだけれど、当時の私の世界では、家族しか私を認めてはくれなかったから。
同い年の子の中にも、春希くんのお母さんのように話を聞いてくれる人がいるかもしれない。だから、ずっと休みがちだった学校へ復帰することを決めた。
けれども久しぶりに学校へ行っても状況は変わらなくて、むしろ腫(はれ)物(もの)を扱うように接された。上履きを隠されたり、ノートに落書きされたり。だからひっそりと息をするように学校生活を送った。
その生活に限界が来たのは、陰で私の悪口を言っている男の子を見つけた時だった。頭に血が上って、顔を殴った。すると、相手は驚くほど素直になった。勝てない相手だとわかると、人は従順になることを知った私は、強くなるということをさらに履き違えてしまった。殴ったことは当然問題になって、学校へ来たお母さんが頭を下げた。私は、形だけの『ごめんなさい』をした。
「辛かったら、無理に学校へ行かなくてもいいのよ」
家に帰っても、叱(しか)ったりせずにお母さんはそれだけ言った。それだけ言って、病院へお見舞いに行く準備を始めた。だから私は、もっと大きな勘違いをした。誇らしかった。強くなれたんだと思ってしまった。
けれど病室で春希くんに得意げに話すと、それは決して強くはないと反論された。私は自分が正しいと信じて疑わなかったから、聞き入れることなく病室を飛び出した。すると、偶然にも春希くんのお母さんとすれ違った。この人なら、わかってくれると思った。だから殴ったことと喧嘩をしたことを伝えると、初めて「そんなことは、しちゃいけないのよ!」と怒られた。むっとした表情をされただけだったけど、それでも普段のニコニコ顔じゃなかったから、自分が悪いことをしてしまったんだとようやく自覚した。
「明日、もう一度ハルと話をしなさい。イライラしても、逃げずにね」
春希くんのお母さんからはそう言われただけで、正直もっと怒られると身構えていたから、むしろ拍子抜けしてしまった。
今にして思えば、あの時言われた言葉が、生きていく上で一番の大切なことだった。その日お母さんと別れる時、独特な別れの挨拶をされて真似をしてみた。すると笑顔になってくれて、それからなんとなく、私はそれが癖になった。
翌日、もう一度春希くんと面と向かって話をした時に、初めて人とわかり合えたような気がした。それまでの私は、自分のことを理解して欲しいと思うだけで、話をすることを放棄していた。だからこそ、これからはちゃんと相手の話を聞こうと反省した。
無事に学校へ通えるようになったら、本当の自分のことを春希くんに話そう。
決意が鈍らないように、指切りをして約束した。好きだと言われて、心の底から嬉しかった。男の姿をしている自分は、気持ちが悪いとしか言われてこなかったから。
春希くんはたぶん、裏切るということをしない人なんだろう。
だから、自分と向き合うことに、勇気を持てた。
けれどそれからすぐに春音の容体が急変して、そのまま亡くなってしまった。張り詰めていた糸がぷつんと千切れるように、お父さんとお母さんは離婚した。まるで、春音が亡くなるのを待っていたかのようだった。
たった一人の弟がいなくなって失意に沈んでいた時に、どちらについていくのかを訊ねられた。選ぶことなんてできなかった。曲がりなりにも、これまで一緒に過ごしてきた家族なんだから。けれど、お父さんがいつかまた一緒に暮らせるようにすると言ったから、今だけはお母さんについてくことに決めた。
あまり時間を空けずに、お母さんは別の男の人と再婚した。お父さんとの約束は、いったい何だったんだろう。私は名字が二回変わって、高槻天音になった。新しいお父さんは、弟が入院していた病院で小児科医をしている人だった。それを知った時、私は子どもながらに複雑な思いを抱いた。
新しいお父さんには、どうしても懐くことができなかった。他人同然の人がいきなり家に上がり込んできたのを、受け入れろと言われても無理な話だ。それでも仲良くなろうと手を差し伸べられたけど、ことごとくを拒絶した。どうしようもないほどに、私は子どもだった。
残りの小学校生活は、家に引きこもってやり過ごした。いつの間にか、短かった髪は伸びきっていて、成長と共に男っぽく振舞っていた面影なんて綺麗さっぱり消えていた。それでも久しぶりにお父さんと話をする時、私のことは以前と変わらず天(、)音(、)く(、)ん(、)と呼んできた。
今にして思えば、新しいお父さんは、私が男っぽく振舞っていたことを、ずっと許容してくれていた。
小学校の卒業式には参加しなかった。思い出なんて、何もなかったから。
いつものように部屋に引きこもって片付けをしていたら、偶然にも押し入れの中にしまい込んだままの画用紙を見つけた。それは、前に春希くんと一緒に描いた、たった一枚の宝物だった。当時を思い出して、涙が溢れた。彼との思い出だけが、私にとっての唯一の支えだった。
もしかすると、春希くんも同じ中学に入学するかもしれない。だからまた、中学に上がってから頑張ってみようと思えた。
けれど、何もかもやり直すつもりで入学した初日から、既にこれからの生活のやる気は完全に失われていた。すべてのクラスをそれこそ三周くらいは確認したけれど『工藤春希』という男の子の名前がなかったからだ。入る中学を間違えてしまったとさえ思った。
それでも、同じクラスには『宇佐美真帆』という女の子がいた。
話し掛けようとしたけど、何と説明すればいいか迷った。男みたいに振舞っていたから、打ち明ければ気持ち悪いと言われるかもしれない。だから何も言えなかった。
けれど真帆がいたおかげで、中学校へ通うことに意味を見出すことができた。
クラスメイトの中には、小学生の頃に話したことがある人もいた。またいじめられるかもと不安だったけど、驚いたことにみんなが初めましてと私に挨拶してきた。よく考えてみれば、名前も成海から高槻に変わっているし、あれから髪も伸びている。中学は私服ではなくセーラー服だから、男っぽさなんて微塵も感じられない。話し方も、入学する前に少女漫画を読んで矯正した。だからみんな、いじめてた成海だとは気付かなかった。
ちょうどいいと思った。すべてをやり直すには、最高の環境だった。だから、春希くんや春希くんのお母さんから学んだように、ちゃんと相手と向き合って、会話することを心掛けた。苦手な人でも、話をしてみればわかり合えることにようやく気付けた。いつの間にか、クラスメイトのみんなと、私は友達になれていた。
『橋本康平』とは、特別周りの人たちよりも仲良くなった。よく話していた私は、付き合ってるんじゃないかと噂されたけど、そんな事実はない。特別な感情も抱かなかった。優しいけど、中学生になって恋心というものを理解した時、あの頃春希くんに抱いていたものがまさしくそれだったことに気付いてしまったのだ。
けれど私は真帆と春希くんの仲を応援していた立場の人間で、勝手に一人で過去の二人に嫉妬した。そんな真帆とは、たまに話をする程度の関係は築けていた。
ある時康平から、一緒にショッピングモールへ遊びに行かないかと誘われた。いつもは顔色変えずに話しかけてくるというのに、その日は頬を赤くさせていて、了承した後にデートの約束だったんだと気付いた。
とはいいつつも、ショッピングモールのフードコートでご飯を食べて、その辺をぶらぶらするだけの計画だった。一端の中学生に財力なんてものはないため、交通費と食事代だけでお小遣いは吹き飛んでしまう。だから結局はいつも通り話をして、頃合いを見て解散をするだけだと楽観していた。
事件は、二人でゲームセンターを回っていた時に起きた。少しだけお金が余ってるから、ユーフォーキャッチャーでもしようよと彼が提案した時、私は視界の端にとてもよく見知った人物を捉えてしまった。
その人は、私の知らない女性と手を繋いで歩いていて、その女性はまだ生まれたばかりの赤子を胸に抱いていた。呼吸が、だんだんと荒くなっていった。逃げ出したくて、目をそらしたくて、それでもどうすることもできなかった。
「天音? 大丈夫?」
康平が、私のことを心配してくれる。その声があの大人にも聞こえていたのかはわからないけど、なんと間の悪いことにこちらを見た。目が合って、そらされる。気まずそうに、連れの女性に何か話し掛けて、方向を転換しどこかへ行ってしまった。
いつかまた、一緒に暮らそう。
心のどこかで、まだその言葉を信じていたのかもしれない。だから明確に裏切られていたことを知った時、忘れたかった在りし日の思い出が濁流のように押し寄せてきて、私の修復しかかっていた心を一気に飲み込んだ。思わず、その場にうずくまった。
「ちょっと、天音……? 本当に大丈夫……?」
背中をさすってくれる。
嘘を吐かれた。家族だった人に。お父さんだった人に。
家族を捨てて、また新しい家族を作っていた。気持ちが悪いと思ってしまった。あの言葉は、私を捨てるための体の良い言い訳だった。家族のためだと言ったのに、結局は自分のためだったんだ。
私は新しい家族と何も上手くいってないのに。お母さんとも、上手くいってないのに。模範とならなきゃいけない大人ばかりが幸せになっている。それが、許せなかった。いずれ壊れる関係なら、そこに愛という尊い言葉を持ち出さないで欲しかった。
生まれてきた子どもが、理不尽に苦しい思いをしてしまうから。
過呼吸を起こしそうになった時、どうすればいいのかバスケ部で教えてもらっていたのか、とにかく康平のおかげで呼吸を落ち着かせることができた。それから近くの椅子に座って休ませてもらい、ほんの少しだけ彼に愚痴を吐いた。
お父さんが浮気をして、一家が離散したこと。お父さんに嘘を吐かれたこと。怒る時、お母さんがヒステリーを起こすこと。たまに顔を合わせる時、口癖のように母から「将来は、医者になりなさい」と言われること。新しい子を妊娠していること。家庭に、居場所がないこと。さっき、お父さんだった人と目が合って、そらされてしまったこと。
何年か分の溜まっていた思いを、もちろん話せないこともあったけど、吐き出した。そのおかげで少しは楽になったけど、私を見る康平の瞳の色が変わってしまったことに気付いた。
かわいそうなものを見る目になってしまった。
「お前は今まで、本当に辛い思いをしてきたんだな……」
悪気なんて、なかったんだろう。そこにあったのは、好きな人を助けてあげたいという、ひたむきで真っすぐな尊い気持ちだけ。
それがたまたま、あまりにも事情が深刻だったから、誰かが支えてあげなきゃいけないんだという、強迫観念にも似た思いに取り憑かれてしまった。私が彼を変えてしまった。本当は最初から自覚していた。全部、私が悪かったんだって。
だから彼が傷付いたりしないように、接し方は変えられなかった。告白されて、何度も振り続けている間に、いつか彼が新しい人を好きになって欲しいと願った。
そしてもう誰にも、家族の話はしないようにしようと、心に決めた。
ヘアドネーションという言葉を知ったのは、中学二年生の頃だった。病気で髪が抜けてしまった子どものために、髪を寄付してウィッグを作る取り組みがあるらしい。私はその日、迷わずお父さんに話をした。お医者様をやっているから、すぐに理解は得られた。髪を切りに行く時、話し掛けてくれたのが嬉しかったのか、仕切りに話が途切れたりしないように会話を繋いでくれた。
悪い人ではない。ずっとそう思ってはいたが、口が滑って、いつからお母さんと知り合っていたのかを聞いてしまいそうで、あまり長くは話せなかった。今となってはもう、浮気じゃなかったと知ってはいるけど、ここ最近まで私はずっと二人の出会いを疑っていた。
長かった髪をバッサリと切り落とした時、クラスメイトからは心底驚かれた。それでも、もう馬鹿にしてくるような人たちはいなくなっていた。
そのようにして、しばらく経って高校受験が控え始めた頃、行きたい学校のなかった私は真帆との関係を途切れさせたくないという理由だけで、同じ学校に進学することを決めた。特別仲の良い関係ではなかったから、志望校を聞いた時は不審がられた。そして康平や風香も私にくっついてきた。私がいるからという理由だけで志望校を決めるのはいかがなものかと思ったけど、完全にお前が言うなという話だから、彼らの意思に任せることにした。
そうして無事に合格して始まった高校生活で、ついにその時が来た。
貼り出されたクラス分けの紙に、工藤春希という名前が刻まれていた。思わず、泣きそうになった。クラスは、違ったけれど。
「天音とは、今回も同じクラスだな」
いつの間に隣にいたのか、康平がそんなことを呟いた。よく見てみると、確かに同じクラスだった。そうして一筋こぼれた春希くんへの涙を拭うと「おいおい、泣くほど嬉しかったのかよ」と彼は嬉しそうに笑った。
真帆とは、偶然にも同じクラスだった。けれど眼鏡を外してコンタクトに変えていたから、別人のようだった。中学では目立たない存在だったのに、積極的にクラスメイトたちに話し掛けて仲良くなろうとしていたから、なんだか、かわいいなと思った。昔の私を見ているようだった。
春希くんと廊下ですれ違った時、自分の中に芽生えていた恋心が勘違いじゃなかったことを確信した。同時に、この数年でいろんなことが変わってしまったから、気付かないだろうなと思った。案の定、すれ違って目もあったのに、彼は気付いてくれなかった。仕方がないけれどちょっとだけ……いや、かなり寂しかった。
あの日から料理を覚えたことも、女の子みたいに髪を伸ばしたことも伝えたかったのに。
好きな人に話し掛けるのは、勇気がいることのようだ。彼はいつも一人でいるから、話し掛けるタイミングなんてそれこそいくらでもあったのに、結局高校一年は一度も会話を交わすことなく終了した。
終業式の日、康平が真帆に告白されたらしい。
それを私は、本人から聞いた。振ったことも伝えられた。暗に、私のことが好きだから振ったと言っているようだった。しばらくして仲の良い友人から、工藤春希が真帆の傷心に付け込んで、アプローチを仕掛けたらしいという噂話が流れてきた。
すぐに、そんなはずはないと思った。その根拠のない噂は、しかし瞬く間に拡散されていった。だからそんな噂が流れてくるたびに、騒動を鎮火させるための言葉を投げ続けた。それでも、一度炎上してしまったものは、簡単に消えたりしなかった。
新学期が始まって早々、春希くんに対しての陰湿ないじめが始まった。悲しいことに、真帆もそれに加担してしまっていた。
過去にあった自分に対するいじめは、結局のところ異分子を排除したいという意思が一番強くて、そんな時だけ普段あまり仲の良くない人までもが一致団結する。皮肉なことに、中高生が一番結束力の高まる瞬間は誰かをいじめている時で、関係ない人までもが春希くんに嫌がらせをした。冷たい視線を向けた。いじめられるようになったきっかけを、知らない人もいるんじゃないか。一度膨れ上がってしまった悪意は、もう私一人の力ではどうすることもできなかった。
修学旅行の実行委員が私と春希くんに決まった後、空き教室で彼と話をした。
「私、あんな噂話は信じてないから。ここで話したことも、別に誰かに話すつもりもないし。普通にしてていいんだよ」
「……ごめん」
それから真実を知るために優しく問い掛けると、彼は話してくれた。
「「……たまたま、宇佐美さんが昇降口で男の人に告白してるところに出くわしちゃって。それで、宇佐美さんが泣いてたから、慰めようとしただけなんだ。でも、やっぱり僕も悪いよ。勘違いされるようなことをしちゃったから……」
そんなことだろうなと、最初からわかっていた。優しい彼が、人の弱みに付け込むはずがないんだから。
勘違いというよりも、真帆は気が動転していたんだろう。
「真帆を慰めたのは、やっぱり昔馴染みだったから?」
訊ねると、小さな目が見開かれた。
「……誰にも、話してないんだけど」
「だって私、春希くんとあの頃ずっと一緒にいたから」
「……え?」
「スギウラナルミだよ。覚えてない?」
「ナルミくん……?」
その名前で、確信したんだろう。彼は突然、涙を流した。私は、春希くんが泣き止むまで待ってあげた。泣き止んだ後、彼だけに、ありのままの自分をさらけ出した。本当に、全部明かした。私が学校に行けるようになったら打ち明けると、ずっと昔に決めていたから。
その話の中で、春希くんのお母さんが亡くなったことを知った。体が弱かったなんて、ずっと知らなかった。だから聞かされた時、私も涙がこぼれた。
「……ずっと待たせちゃってごめんね。一人にして、ごめん」
「……僕の方こそ。ずっと、酷い勘違いをしてた。嫌いになったから、いなくなったんだって……」
「嫌いになんてならないよ。ずっと、春希くんのことを考えてた。君とまた一緒に話がしたかったから、中学や高校も通えるようになったの」
そして、この話を打ち明けた時から、私はもう覚悟を決めていた。これ以上自分に嘘を吐き続けたくないし、黙って見ているのも嫌だった。
「私が、これからは春希くんの味方でいるからね。だから、安心していいよ。真帆のことも、なんとかできるように私が頑張るから」
「……高槻さんがそんなことをしたら、それこそ僕みたいにいじめられるよ」
「いいよ、それぐらい。君をいじめたりするような友達なんて、いらない」
だって、ずっと会いたかったから。これこそが、本当の愛のカタチなんだと信じて止まなかった。だから、私は正しいことをしているんだと思った。春希くんは何も言ってくれなかったけど、明日から私は、彼をいじめる人を誰一人として許さないつもりでいた。
けれど翌日から、彼は学校に来なくなった。
どれだけ考えても、不登校になった理由に心当たりはなかった。
それからまたしばらくして、春希くんは何事もなかったかのように学校へ登校した。雰囲気や言葉遣いから、すぐに別人だとわかった。問い詰めると、驚くことに「スギウラナルミ」だと名乗った。そんな人物は、存在しない。だって、私が子どもの頃に適当に作った仮の名前なんだから。
初めは記憶が混濁しているから「スギウラナルミ」を名乗っているだけで、本当に誰かと入れ替わっているんじゃないかと思った。けれどあの日、そうじゃないことを偶然にも知った。
杉浦くんと初めてデートをした日、『春希くんのことが好きだ』と言った瞬間、彼の表情に変化が現れた。以前にも、教室で似たようなことがあった。あの時は、一時的に杉浦くんと春希くんが入れ替わっていた。
今回も、おそらくそれと同じことが起こった。
「……あれ、ここは?」
「……春希くん?」
誰もいないリビングは、話をするのにちょうど良かった。今度は、教室にいた時みたいに取り乱したりしなかった。
「……高槻さん。僕は、どうしてここにいるの? 君と、二人で……」
「さっきまで、デートをしてたの」
「デート?」
驚くほど、冷静に話をすることができた。チャンスは、この瞬間しかないと思ったから。
「誰か知らない人と、体が入れ替わったりはしてない?」
「……何それ。ちょっとよくわかんない」
「ここ数日、春希くんは『スギウラナルミ』を名乗る人に入れ替わってたの。だから、この前流行った映画みたいに、知らない人と体が入れ替わったんじゃないかって、その人と一緒に推測してたんだけど」
「その映画、たぶん僕も見た……でも、知らない。よくわからない。前も、家で寝てたはずなのに、気付いたら学校にいたけど……なんで今は、高槻さんの家にいるの?」
話を聞く限りでは、入れ替わりが起きている間、春希くんは意識を消失しているらしい。ということは、別に誰とも入れ替わったりはしていない、のだろうか。確証はなかった。
私はいつだったか、似たような症状のある病気をどこかで聞いたような気がした。お父さんに聞けば、わかるんだろうか。あの人は、お医者様だから。
とにかく、今が好機だと思った。だから彼が取り乱したりしないように、ここ数日の出来事をメモで確認しながら、詳細に語って聞かせた。そのことごとくに、春希くんは「覚えてない……」という反応を示した。
けれど今回は、前みたいに意識を失って杉浦くんに戻ったりしていない。よくわからないけど、ようやく元に戻ったんだと思った。杉浦くんのことはわからずじまいだったけど、もし彼に本当の体があるとしたら、杉浦市を訪ねてここに来てくれる。それを、信じるしかない。
「とりあえず、良かったよ。明日からは一緒に学校に通えるんだね」
安堵して笑顔を見せると、春希くんは急に表情を引きつらせて「……学校には、行かないよ」と話した。
「どうして?」
「だって僕は、いじめられてるじゃないか。そんなところに、行きたくなんてない」
「だから、私がなんとかしてあげるよ。不安に思うことなんて、何もないの。みんな君のことを嫌っても、私だけはそばにいるから」
手を握ろうとすると、拒絶された。何か思うことがあるような、複雑な表情を見せ、こらえきれなくなったのか目を伏せる。
「……僕なんかより、そのスギウラって子が代わりになればいいんじゃないの? だって、僕よりもちゃんとやれてるんでしょ? 友達もできたみたいだし、高槻さんとも仲良くやってるみたいだし」
「それはそうかもしれないけど、そういうことじゃないでしょ。だって、仮に杉浦くんの人生があったとしたら、迷惑を掛け続けることになるんだよ?」
「記憶、なくしてるんでしょ……? それじゃあ、ちょうどいいじゃんか。僕の残りの人生、彼にあげるよ。お母さんのいない世界なんて、僕は嫌だったんだ……!」
「ふざけたこと言わないで!」
思わず、テーブルを叩いた。間接的に手を上げてしまったことを後悔したけど、止まることなんてできなかった。
「逃げないことを教えてくれたのは、春希くんの方じゃん! だから私は頑張って、頑張ってっ……これまで生きてきたんだよ⁉ なんでそれを教えてくれた君が逃げるの!」
「ごめん。でも、僕がいると……」
「逃げるな‼」
私のその絶叫にも似た言葉を最後にして、春希くんは糸が切れたように顔を俯かせた。嫌な予感がした。それが当たらないで欲しいと思った。
気付けば、時計の短針が五の数字を回っていた。
「……杉浦くん?」
確認するように、彼の名前を呟いた。彼は、テーブルに落としていた視線を上げると。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
戻ってしまったんだとわかった。私は平静を装うことで、精一杯だった。
春希くんと長話をしてしまったせいで、タイミング悪くお父さんが帰宅した。本当は、帰宅するまでに帰らせるつもりだった。私は、後で話があるからと、お父さんに伝えた。
聞きたかったことは、『突然人が別人みたいに変わってしまう病気はあるのか』という内容だった。そういうことに興味を持ってくれたことが嬉しかったのか、それとも娘が話し掛けてくれたことに対してなのかはわからないけど、お父さんは嬉々とした様子で説明してくれた。
「DIDだね」
「DID?」
「Dissociative Identity Disorder。解離性同一性障害だよ」
それで、納得がいった。まだ確定したわけではないけど、これまで接してきた『杉浦鳴海』という人物は、春希くんが作り出した別人格とみて間違いはなさそうだ。お母さんが亡くなったショックで作り出してしまったのか、いじめられた反動で作り出されたのか、あるいはそのどちらも要因となっているのか。
誰も気付いていない。知ってしまったのは、私だけ。精神科に連れて行った方がいいのだろうか。けれど事情を話して杉浦くんが納得してくれるかわからなかったし、春希くんのように取り乱す可能性もあると思った。それに何より、今まで私は杉浦くんのことを一人の人間と思って接してきた。
あなたは工藤春希によって生み出された人格で、スギウラナルミという人間は存在しないなんて、言えるはずがなかった。だからずっと、隠すことに決めた。また春希くんに入れ替わった時、もう一度ちゃんと話をすると決めていた。それで納得してもらって、現実を受け入れてもらおうと。
結局それからというものの、彼が春希くんに戻ることは一度たりともなかった。
* * * *
すべてを知った俺は、ずっと天音が嘘を吐いていたことを知った。最初から、本当に全部わかっていたなんて、想像すらしていなかった。俺が、工藤春希によって生み出された人格だということも。
「ごめん。今まで黙ってて」
話せなくても、それはしょうがないと思った。事実、そんな突拍子もないことを打ち明けられたら、俺は取り乱していただろうから。今も、頭が混乱している。
「……俺、どうしたらいいんだ? 消えるのか……?」
怖かった。だって、せっかくみんなと仲良くなれたのに、俺は初めから存在していなかったなんて。信じたくはなかった。けれども今の話を聞いて、現実逃避ができるほど頭も悪くなかった。
放心状態でいると、天音はこちらに体を寄せて、そっと抱きしめてくれた。優しい温もりが、全身に溢れた。ここにいていいんだと、言ってくれているようだった。
「杉浦くんは、杉浦くんだよ。春希くんでもあるの。だって、春希くんから生まれた存在なんだから。きっと春希くんがなりたかった、憧れの存在なんだよ」
「俺が、春希の憧れ……?」
「そうだよ。今は受け入れられないかもしれないけど、もう少しだけ落ち着いたら、お父さんにお医者様を紹介してもらおうよ。私、調べたの。人格は、統合することができるんだって。だから、消えたりしない。杉浦くんは、春希くんといつか一つになるの」
それは、夢のような提案だった。
いつかお母さんがしてくれたように、今度はクラスメイトの女の子が俺の頭を撫でてくれる。取り乱した心を、癒してくれる。本当にそんなことが可能なら、またみんなと一緒にいられる。宇佐美や天音たちと遊べる。明坂とも、バスケができる。
「……そして、今度こそ本当の恋人になろうよ」
天音が、俺にそう言ってくれた。彼女のことが好きだった。それもまた、心の底から望んでいたことで。俺から一度離れると、ゆっくりと綺麗な顔が近付いてきた。逃げるはずがなかった。俺は、彼女のことを受け入れた。
ファーストキスは、悲しみの味がしたような気がした。
逃げるな。逃げるな。
頭の中で、ずっとそんな言葉がこだまする。
俺は、逃げてなんていない。現実と向き合うことを決めたんだ。落ち着いたら、天音のお父さんに良い精神科医を紹介してもらって、春希の人格と統合される。それが俺にとっての、春希にとっても一番のハッピーエンドなんだから。
担任教師から呼び出しがあったのは、天音の病室へ行ってから二日後のことだった。反省文を書いたら、また学校に戻ることができるよう取り計らってくれたらしい。本当に、感謝の言葉しか浮かばない。
天音に電話で伝えると、自分のことのように喜んでくれた。俺も、彼女が笑ってくれて嬉しかった。その日は、一緒に学校へ行こうと約束した。
翌日、久しぶりに制服に着替えて家を出ると、そこには笑顔の天音がいた。幸福を実感した。何も言わずに手を繋いでくれた。
大丈夫だからと、彼女が言った。たとえ何を言われても、守ってくれるらしい。
一緒にバスに乗った時、同じ学校の生徒に奇異の視線を向けられた。あいつは、クラスメイトを殴ったんだ、と。俺が悪いんだから、その非難は甘んじて受け入れようと思った。彼女も『ビッチ』だと罵られていたけど、まったく気にしていないようだった。
学校に到着して昇降口へ向かう。いろんな人が、手を繋ぐ俺たちを見ていた。気にしなかった。天音が、「大丈夫だよ」と言ってくれたから。
下駄箱に、俺の上履きはなかった。また誰かが捨てたんだろうなと思って、靴下のまま担任教師に指定された進路指導室へと向かった。ドアを開けて中に入る前に、天音は言った。
「反省文をちゃんと書けば戻れるから。教室で待ってるね」
頷いて、ただ早く戻りたいとだけ思った。緊張していることが伝わったのか、天音が優しく前髪を整えてくれた。そのおかげで、だいぶ落ち着いた。最後に、笑いかけてくれた。
彼女と別れ進路指導室へ入ると、担任教師が俺を出迎えた。
机の上には、三枚の原稿用紙。
「ここにちゃんと反省を綴(つづ)れば、お前は許されるから。納得してないかもしれないけど、とにかく書け。工藤のためだ」
「納得は、してます」
理由はどうあれ、手を上げた奴が一番悪い。だから俺はこんなにも多くの人に迷惑を掛けたんだ。本当に、浅はかだった。原稿用紙の三枚くらい、朝礼が始まる頃には書き終わるだろう。
後は筆を握って、反省の想いを書き留めるだけ。それで、すべて許される。元に戻れる。
だから俺は、筆を握った。ペン先を、原稿用紙に向ける。
けれどその手が、不意に止まった。
本当に、これでいいんだろうか。
これが、一番正しかったことなのだろうか。
ずっと、逃げるなという言葉が頭の中で鳴り響いていた。正しいことだと信じて止まなかったのに、こんな土壇場になって俺は、迷った。
そもそも、どうして春希は俺という人格を作ったんだろう。いじめられて、それに耐えられなくなったという理由は、酷く短絡的な気がした。お母さんが亡くなったからというのも、タイミング的におかしい。それで塞ぎ込んでいるのなら、新学期から登校はしないだろう。
そしてかつて好きだった友人と再会したなら、それこそ頑張って学校へ足を運ぶはずだ。だけど現実はまったく逆で、天音がナルミだということを知ると、次の日からは不登校になった。何か、彼なりの意図があったんじゃないかと勘ぐってしまう。
「どうした? 書けないのか?」
ペンを握ったまま微動だにしない俺を見てしびれを切らしたのか、担任教師は目の前に椅子を置いて座り込んだ。
「脅すわけじゃないが、それが書けなきゃ工藤は退学だ」
「退学、ですか……」
それは、困る。けれど、あのまま春希が登校しなければ、どのみち留年か退学は免れなかっただろう。それでも、彼は学校へ行かないことを選択した。
「先生も、そんなことにはしたくない。お前は橋本を殴ったけれど、大切な教え子だからな。もし言葉が思い浮かばなくて書けないなら、先生が手伝ってやるぞ」
担任教師は、未だ真っ白な原稿用紙を人差し指で三回叩いた。
「お前は、大きな勘違いをした」
「……はい」
「高槻はもう、橋本に気が移っていたのに、それを知らなかった工藤は彼女のことを助けたくて、橋本を殴った。そういう話だったよな?」
「俺が、彼女のことを助けたかった……」
「そうだ」
……俺は、ようやく気付いた。春希と俺が、本当に守りたかったものを。それに気付いた瞬間、存在しないはずの記憶や感情が、頭の中に一斉に流れ込んできた。
あの日、彼女と話をした放課後の空き教室で、工藤春希は誓ったんだ。自分を助けてくれると言った彼女の手を、取らないことを。
その手を取ってしまえば、彼女は必死に積み上げてきたものをすべて投げ捨ててまで、自分のことを守ってくれるから。
だから俺はずっと、勘違いしていた。春希が守りたかったのは、自分の立場や学校生活なんかじゃなく、たった一人の高槻天音だった――
――僕は、守ってあげたかった。大人の都合に振り回され、それでも必死で生きてきた彼女がようやく手にすることのできた、かけがえのない居場所を。そのために、僕という存在は邪魔だったんだ。だから、僕は学校へ行かないということを選択した。
彼女を守るために、俺も必死だった。何とかして、恩返しがしたかった。だから彼女の相談に乗って、修復不可能だと思われていた父親との関係を持ち直すことができた。自分のことのように、心の底から嬉しかった。ただ彼女には、どこにいても笑っていて欲しかったから。
けれど今の俺は、なんだ。自分勝手な都合で、天音の居場所を独占しようとしている。助けてあげるという言葉に縋(すが)っている。守りたかったのは、彼女の居場所のはずなのに。俺が、いつの間にか守られている。
「どうした工藤?」
担任教師が、未だ反省文を書かない俺のことを、苛立ちを含んだ瞳で見つめてくる。
もう覚悟は決まった。本当は、俺が杉浦鳴海になる前から、とっくに決まっていた。
なぜなら、たとえ人格が入れ替わったとしても、愛する人は同じだったから。
僕(、)は(、)それに気が付いた時、手に持っていたペンを原稿用紙の上に戻した。
「……書けません」
「なに?」
先生の目が、驚きで見開かれる。僕はそれでも、怯(ひる)んだりはしなかった。
「書かないということは、お前は退学になるぞ」
「構いません」
ハッキリ口にすると、先生は大きな手のひらを机の上に叩きつけて、聞き分けのない子どもに間接的な暴力で威嚇してきた。
「お前が退学になったら、お父さんとお母さんは悲しむぞ!」
「お母さんは、もう亡くなりました。お父さんは、きっと事情を話せば許してくれます」
「なんて説明するんだ!」
「僕のやったことは、正しかったことだと話します」
もう一度、先生は机を叩いた。怯むわけにはいかない。僕は毅(き)然(ぜん)とした態度で応戦した。その時、視界の端で黒い大きな眼鏡が一瞬見えた気がした。すぐに隠れたけれど、そこに彼女がいると知れたのは都合が良かった。
僕はきっと、今から彼女たちを傷付けることになる。鳴海くんの思い出が蘇(よみがえ)ってきて、奥歯を強く噛みしめた。冗談でも、言いたくなかった。だけど、言わなければいけなかった。
これは、僕が始めてしまった物語だから。
僕は椅子に背中を預け、挑発するように、笑みを浮かべた。
「だいたい、あいつが悪いんですよ。おれと付き合ってるのに、深夜にこっそり別の男と会おうとしたんですから。中学からの幼馴染か何か知らないけど、彼女が別の男の人と話してるところなんて、見たくないじゃないですか。だから、殴ったんです」
「……お前、仮にもあいつの彼氏だったんだろ? そんなふざけたことばかり言ってたら、本当に嫌われてしまうぞ」
「嫌われても構いませんよ。本当は、初めからあんな女のことなんて好きじゃなかったんですから」
「……なんだと?」
僕は口元に手を添えて、不敵に笑ってみせた。人を、小馬鹿にするような笑みだ。
「同情ってやつですかね。いじめられてたおれを見て、きっと放っておけなかったんだ。修学旅行で同じ担当になったのは、本当に都合がよかった。おかげで、ちょっと優しくしただけでおれのことを好きになったんだから」
瞬間、先生の目の色が変わった。僕はそれを、見逃したりはしなかった。
「彼女と付き合い始めて、クラスメイトのおれを見る目が変わったのは傑作でした。みんなおれの嘘に騙されて。あいつも結局、最後まで愛されていないことに気付かなかった」
「……高槻はあの時、曲がりなりにもお前を庇おうとしたんだぞ。それをお前は今、無碍(むげ)にしようとしている。その自覚はあるのか? 本当は、クラスメイトを殴ってしまうほどに好きだったんじゃないのか?」
図星だった。彼女を想う気持ちが抜けない棘となって、僕の心臓に突き刺さった。それでも、こんな中途半端な場所で止まるわけにはいかなかった。だから精一杯の言葉を絞り出した。
「……最初から、好きじゃなかったって言ってるじゃないですか。だいたいあいつは、いちいち細かいんですよ。人の揚げ足ばかり取ってきて、勝手に何でも自分で決めてきて……自分で、背負い込んで……本当に、救いようのない馬鹿ですよ」
そんな君のことが頭の中から離れなくなって、僕も彼もいつの間にか好きになっていた。だからこんなことを言うのは、嫌だった。だけどこうすることでしか、もう彼女を救うことが、できない。
そのためには、先生に勘違いをしてもらうしかなかった。
それが最後に残された、たった一つの彼女を救う方法だから。
僕は、また突然笑った。気味の悪いものを見る目が、僕の体を貫いた。
「彼女のおかげで、宇佐美とも仲良くなれましたから。天音がダメなら、今度は彼女と付き合ってみようかな」
先生の眉間にしわが寄る。明確に僕を、どうしようもない屑(くず)だと認識したようだ。けれど、それじゃあ足りない。もっと……それこそ、クラスメイトの前に立った時に、苛立ちを隠せなくなるほど挑発しなければ、みんな勘違いをしなくなる。
だから僕は、再び笑った。その瞬間、彼女が足に包帯を巻いてくれた時の出来事が、脳裏をよぎった。こんなこと、本当は言いたくなかった。でも、退くことは許されなかった。そんな時、彼が背中を押してくれたような気がした。
「……あいつ、最近おれと仲が良いんですよ。ちょっと優しくしたら、ずっと後ろを付いてくるようになっちゃって。先生も知ってるんじゃないですか? あいつが橋本に告白して振られたこと。面白いですよね、おれのことが嫌いだったのに。本当に、女って……」
すべてを言葉にする前に、先生は怒りのあまり机の上の原稿用紙を握りしめた。それを乱雑に、部屋の隅にあるゴミ箱へ投げ捨てる。
「謝罪すれば許してやったものを、本当にお前は馬鹿だよ工藤。退学したければ、勝手にすればいい。お前の人生はもう破滅だ」
「……おれを助けようとしたのも、結局は自分の保身のためじゃないんですか? 教え子が退学したら、立場が危うくなりますもんね。知ってますか、先生。そういうのは、偽善って言うんですよ」
最後の言葉が効いたのか、先生は立ち上がって机を蹴り飛ばすと「さっさと帰れ‼」と吐き捨てて進路指導室を出て行った。
気付けば足が震えていて、思わず椅子の背もたれに体を預けた。「ごめん……」と、みんなに謝った。僕に勇気をくれた彼も、泣いているのが、わかった。
「春希……」
一部始終を見ていた宇佐美が、恐る恐る部屋の中へと入ってくる。僕は、そんな彼女の顔を真正面から見据えることができなかった。
「……今僕が言ったこと、クラスメイトに伝えなよ。そうすればみんな勘違いして、宇佐美も天音も安心して過ごせると思うから……そういうの、得意だろ?」
「でもさっきの、全部嘘だよね……?」
「何言ってんだよ。だって僕、君の傷心に付け込んだじゃないか。忘れちゃったの?宇佐美が、そう周りに話したんじゃなかったっけ。それが正しかったんだよ」
子どもの頃の出来事を覚えていた僕は、ただ純粋に宇佐美のことを慰めてあげたかった。けれど、僕が未熟だったから、言い方も方法も間違えてしまったんだろう。
「なんでそんな泣きそうな顔してるの。宇佐美は被害者なのに」
「違うよ……」
「もういいから、行ってよ……天音の居場所、奪いたくないんだ。元はと言えば、僕が何も説明せずに逃げたのがいけなかったんだ。僕が現実から逃げ出して、別の人格を作っちゃったから、こんなことになったんだ」
「春希のせいじゃないよ……」
「どのみち、もう無理だよ。あんなに挑発したら、僕は学校に戻ることなんてできない。天音にも、顔向けできない……」
自分で言ってて、悲しくなった。ようやく再会できたと思ったのに、あまり一緒に過ごせずに別れてしまうなんて。一度くらい自分の言葉でありがとうと伝えたかった。
「……僕にまだ申し訳ない気持ちがあるなら、これぐらいの頼みは聞いてよ。それでもう、全部許すから……」
震える足で立ち上がって、宇佐美の元へ歩いて行く。この子には、本当に彼が何度も助けられた。彼女とも、もし叶うならちゃんとした友達になりたかった。
「約束、守れなくてごめん……」
「……約束?」
「僕は、天音のことが好きだから。たぶん宇佐美は、僕のことなんて好きじゃないだろうけど。それでも約束、破っちゃったから」
彼女は、必死に首を振った。それだけで、もう十分だった。
約束も守れない噓つきな僕は、宇佐美の目の前から立ち去った。彼女の泣き声が、いつまでも耳のそばから離れてはくれなかった。
家に帰ると、天音から数件の着信が来ていた。メッセージも何通か届いていて、僕はそれを泣きながら消していった。ついでに連絡先も削除して、もう電話もメッセージも送れない設定に変えた。
一つずつ、もう一人の僕が積み上げてきたものを清算していく。
高槻天音、明坂隼人、姫森風香。
宇佐美真帆の連絡先をタップしようとした時、メッセージが届いた。何の気まぐれか、僕は最後にそれを開いた。
《さっきは、取り乱してごめん。それと、春希に会った時に伝えたかったことを、伝えられてなかった。私のせいで、辛い思いをさせて本当にごめんなさい。償っても、償いきれないことをしました。春希がいなくなった後、いろいろ考えて、精一杯考えて、あなたが望むことをしようと決めました。それが、私のせめてもの償いです。だからもう一度、みんなに嘘を吐きました。天音は取り乱して、保健室へ連れて行かれました。クラスメイトのみんなは、そんな彼女のことを憐れんで、私もいつの間にか許されていました。私は春希だけを、悪人にしました。でもそれが、本当に正しいことなのかどうか、私にはわかりません。けれど天音の周りには、確かに多くの友達がいます。みんなが彼女のことを、心配してくれています。きっとこれが、あなたが守りたかったものなんでしょう。もし迷惑じゃなければ、落ち着いた頃にいろいろ教えてください。鳴海くんのことと、あなたのこと。もし気に入らなかったら、メールごと削除して、いいよ……》
そのメッセージの末尾には《眼鏡を掛けることになって不安だった時、私のことを慰めてくれてありがとう。あの頃の私は、あなたの言葉で自信が持てて、救われていました》という言葉が添えられていた。
僕は、消せなかった。宇佐美のことを共犯者にしてしまったから。
彼女はこれから卒業まで、嘘を吐き続けることになる。そんな彼女さえも遠ざけることは、今の僕には、もう……。
すべての清算が終わった頃には、夜になっていた。お父さんが帰ってきて、学校から連絡があったと教えてくれた。どうやら、今からでも謝罪すれば学校へ戻ってもいいらしい。言いすぎたと、先生も謝罪してくれたみたいだ。でも、首を振った。お父さんは、怒らなかった。
「ごめんなさい。親不孝な息子で……」
「いいよ。それに学校へ行かなくなった時、ちゃんと話してくれたじゃないか。大切な人の居場所を守ってあげたいんだって」
僕は以前、お父さんに話した。
僕が学校へ行けば、今までの友達をすべて捨てて助けてくれる人がいると。正直なところ、嬉しかったのは確かだ。会わなくなった時からずっと、僕のことを考えてくれていたんだから。
でも僕のために、彼女が積み上げてきたものをすべて捨てるのは、何かが違うような気がした。守ってもらうのも、違う。僕は今年の冬にお母さんが亡くなって、強く生きようと誓ったんだから。
病床に伏せるお母さんの手を握りながら、最後にその言葉を聞いた。
『自分が正しいと思う生き方をしなさい。自分の選択から逃げずに立ち向かえば、きっといつまでも幸せでいられるから』
そもそも僕という人間は、昔から集団生活が苦手だった。病気のせいで、長らくまともに学校へ通えなかったことがきっと一番の原因だ。お父さんとお母さんからは、通信制の学校に通う道もあると教えられていた。それでも全日制の高校を選んだのは、その道の先にナルミくんがいるかもしれなかったからで。だからあの時にはもう、僕が高校へ通う理由はほとんどなくなっていた。彼女と、再会できたんだから。
けれど今にして思えば、僕は心のどこかで、学校に通いながら彼女と向き合いたかったんだと思う。けれどちっぽけな僕にそんな勇気はなくて、だから無意識のうちに杉浦鳴海という人格を作り出した。
心のどこかで、ずっと思っていたんだろう。
僕は、ナルミくんみたいな人に、なりたかったと。
それも全部、無駄だったんだろうか。心の中の僕に、訊ねた。返答は、返ってきたような気がした。
きっと、無駄ではなかった。
彼女は少しだけ、家族と向き合うことができるようになったんだから。
自室へ戻るためドアに手を掛けた時、お父さんは「春(、)希(、)」と呼び止めてきた。振り返ると「おかえり」と言って笑った。
首を傾げたけれど、なんとなく、その意味は伝わった。
最初から、お父さんも気付いていたんだろう。
天音は僕と話をするために、自宅へ来るようになった。最初のうちは無視を決め込んでいたけど、何度も来るものだからそういうわけにもいかなくなって、お父さんに母方の実家に行ったと嘘を吐いてもらった。そして実際、そうすることにした。いつまでも、家の中に引きこもっているわけにもいかないから。
宇佐美とは定期的に連絡を取り合った。主に、クラスメイトの動向を教えてもらった。僕の目論見通り、工藤春希は根暗に見えて女を手籠めにする最低な奴だという認識が広がって、その犠牲者である天音も宇佐美も騙されていたんだということで周囲の見解が一致したらしい。
天音はそれでも僕の身の潔白を訴えてくれたみたいだけど、皮肉なことに少数派である彼女の意見は通らなかった。工藤春希に騙されて洗脳されていたという、憐れみの目を向けられるだけだった。だからみんな彼女へ、余計に献身的に接するようになった。
橋本康平は、あれからずいぶん大人しくなったみたいだ。天音に固執することもなくなって、自分の人生を歩み出したらしい。喜ばしいことだと思った。殴ってしまった彼には、今でも申し訳なさを抱いている。
母方の実家に旅立つ日の前日、宇佐美から電話が掛かってきた。出ようか迷ったけど、この杉浦市で話すのも最後だと思ったから、電話に出た。その話の中で、僕はこれからどうするのかを訊かれた。これからのことは、もう決めていた。
「とりあえず、高認の試験を受けるよ。お父さんが、大学に通ってもいいって言ってくれてるから。お母さんの実家で、また一から勉強し直すつもり」
『大学、行くの? どこ?』
「決めてないけど、教職の資格が取れるところ、かな。叶うかはわからないけど、小学校の先生になりたいと思ったんだ」
病気であまり学校に行けなかったからこそ、僕は一人でも多くの人を救いたいと思った。昔、ナルミくんがそうしてくれたように。
それに、ふと昔のことを思い出したんだ。僕みたいな人が先生だったら、楽しく学校に通えたのかもと言ってくれた人がいた。その言葉が、結果として未来の僕の背中を押してくれた。
『決まったら教えてよ』
「なんで」
『春希と一緒の大学に通いたい』
「行きたい大学は自分で決めなよ」
『やりたいことなんてないし。それなら、春希のそばにいた方が学べることが多くあると思うの』
どうせ冗談だろうと思った。だから受けたい大学が決まったら、宇佐美にだけは教えることに決めた。
彼女は時間が経つにつれて調子を取り戻していった。最初こそ何度も何度も『ごめん』と謝ってきたけど、いつの間にか言わなくなった。その代わり、
『ありがとう』
そう言ってくれるようになった。どこかの誰かが、その言葉を彼女に教えてあげたんだろう。何度も謝るより、その方がずっといいと思った。
やがてうだるような暑さの夏が来て、紅葉彩る秋になって、お母さんの亡くなった冬が来た。罪や悲しみを覆い隠すように真っ白な雪が降り積もり、母の命日にだけ僕は杉浦市の実家に帰った。墓前で、手を合わせた。次にここへ来るのは、大学への入学が決まった時にしようと、心に決めた。
電車に乗って母の実家に帰る時、宇佐美はわざわざ会いに来てくれた。たった数ヶ月会わなかっただけなのに、彼女は随分大人の顔つきになったような気がする。けれど、赤色のタータンチェックのマフラーに巻かれているみたいで、ちょっとだけ笑みがこぼれて元気をもらえた気がした。
「天音、大学は行かないんだって」
近くのコンビニで買ってあげたホットココアの缶を手のひらで包みながら、また近況を教えてくれる。降り積もった雪で電車がストップして、予定の時間よりだいぶ遅れているらしい。僕らは駅構内の椅子に座って再びそれが動き出すのを待っていた。
「大学に行かないと、たぶん医者にはなれないと思うんだけど」
「それ、なかったことになったんだって。たぶんお母さんと真剣に話し合ったんだと思う」
「そっか。自分の道を自分で決められたなら、良かった。でもなんで、大学には行かないんだろう」
「さあ。相変わらず口が堅いし、何考えてるのか本当によくわかんない」
でも、最近はまた笑顔が戻ってきたよ。宇佐美は、自分のことのように嬉しそうに話してくれた。笑顔が戻ったなら、少しは安心できる。
「たぶん春希が望んだことを、天音はゆっくり理解していったんだと思う。大切な人のために突っ走っちゃうところはあるけど、あれでちゃんと頭はいいから」
「いつか、わかってくれる日は来ると思ってたよ」
信じていた。彼女なら、また前を向いて歩き出せると。
「天音のこと、まだ好きなの?」
「うん、初恋だから。気持ち悪いかな」
恋をしていると言ったことに、後悔はなかった。
「素敵だと思う。両想いなのに、一緒にいられないのはかわいそうだけど」
「もう僕のことなんて気にしてないと思うよ。二度も勝手にいなくなったんだから」
「それじゃあ、私が付き合って欲しいって言ったら、考えてくれるの?」
驚いた。変なことを言うものだから、言葉に詰まった。彼女を見ると、マフラーの色みたいに顔が赤くなっていた。それは冬の寒さがそうさせているのか、もっと違う要因があるのか。
「……ごめん。今はそういうこと、考えられないかな」
「だよねー」
傷付いた様子を見せると思ったけど、宇佐美は困ったように笑うだけだった。
「もしかして、冗談だった?」
「ううん。割と本気。でも天音が好きなのに、私と付き合うって言ったら張り倒すところだったかも」
「なんだよ。物騒なこと言うな」
「だって天音は、ただひたむきに春希のことを想ってたんだもん。私は、もう会えないだろうと思って、一回忘れた。それが、私と彼女の決定的な違いだった。だから私なんかに惑わされないで、純愛を貫いて欲しいと思うの」
「純愛ね……」
もうその恋も、叶うことはないだろうけど。それぞれが、別の道を目指して歩き始めたんだから。
「それはそれとして、付き合ってもいいって思ってくれたら、その時はちゃんと教えてね!」
「今の言葉で台無しだよ」
地元から離れる時、宇佐美は笑顔で手を振ってくれた。彼女の気持ちが本当はどこに向いているのかはわからないけど、もし僕が天音に好意を抱いていなかったとしたら、たぶんさっきの告白にちゃんと返事をしていたんだろう。
彼女には申し訳ないけれど、僕という人間は、ずっと昔から天音という女の子に恋焦がれていた。学校を、やめてもいいと思えるほどに。
無事に高認の試験に合格してから志望することを決めた大学は、地元を選ばなかった。一度、新しい地でゼロからスタートさせたかったからだ。
一応、宇佐美には受ける大学を伝えておいた。告白の返事は断ったから同じ大学は受けないだろうと思って、「受験申込したよ」という言葉も、何かの冗談だと思っていた。
けれど、受験当日の日に彼女は笑顔で僕の目の前に現れた。
「よ!」
「よ、じゃないよ。本当に受けるつもりなんだ」
「言ったじゃん」
「言ったけど、冗談だと思ってた」
「春希のそばで、私もいろいろ学ばせてもらうね」
「僕からじゃなくて、自分の学びたいことを軸に考えなよ」
「じゃあ私も、小学校の先生を目指すことにする!」
適当すぎる。けれど、本当に考えてはいるんだろう。
「ま、お互い頑張ろうよ。春希」
「……本当に、しょうがない奴だな」
受験が終わって、思いのほか好感触だった僕とは対照的に、宇佐美は顔面が蒼白(そうはく)になっていた。曰く「落ちたかも……」ということらしい。
「私が後輩になっても、春希は嫌いにならないでね……」
そんな冗談を言っていたけれど、修学旅行の時に買った学業成就のお守りのおかげかどうかは知らないが、宇佐美は大学に合格した。僕も、この一年は大学入試の勉強に費やしたから、もちろん合格した。
春からは、同じ大学に通うことが決まった。
一度、大学の入学式に着るスーツに身を包んで、お母さんのお墓参りに出かけた。お墓を掃除して、「合格したよ」と伝えた。僕はまだ夢の途上だけど、春からは晴れてひとまずの目標だった大学生だ。同い年の人たちと、一緒のタイミングで入学することができる。信じた道を逃げずに突き進んで、本当に良かった。
「……彼女は、どうしているんだろうね」
奇しくもその日は、高校の卒業式だった。彼女のことだから、学年の総代を務めるのだろうか。全校生徒の前で、答辞を述べるのだろうか。もし叶うなら、それを卒業生の列に交じって聞きたかった。彼女の晴れ姿を、誰よりも先に祝ってあげたかった。
もう、高校を卒業する。彼女が必死になって作った居場所も、今日という日を持ってなくなってしまう。みんな新しい居場所を作るために、旅立っていくから。
僕ら大人になり切れていない中途半端な子どもは、自分の居場所を守ることに必死で、時には平気で他者をも傷付ける。守り抜く力を身に付けなければ、いつの間にか淘(とう)汰(た)されてしまう。未だ世界は、大きく分けて家庭と学校の二つしか存在しないからだ。
そんな僕らは大学生や社会人になって思い知るのだろう。
世界は、自分が想像していたよりずっと広い。
居場所なんてものは、それこそ無数に存在する。むしろその時々に応じて、自分が持っている仮面を使い分けなきゃいけなくなる。その中に、自分という存在を受け入れてくれる場所はきっとあって、だとすれば僕が守りたかったものは、それほど価値のあるものだったのだろうか。
答えは、未来でわかると思った。過去を振り返る時、あるいは人生の途上で心が折れそうになった時、僕らは戻ることのできない遠い日に想いを馳(は)せ、あの時のかけがえのない居場所で見た笑顔を糧(かて)に、今日という一日を頑張って生きていくのだから。
人生という長い長い旅路は、きっとそういう風にできている。
帰りの電車の中で、宇佐美に一通のメッセージを送った。みんなへの思いも、そこに込めた。
「卒業おめでとう」
しばらくして、一本の動画と一枚の写真が送られてきた。見ると、天音が卒業生の前に立ち、答辞を述べている動画だった。こっそりと隠し撮りをしていたらしい。やっぱり総代を務めていて、なんだか誇らしかった。
イヤホンを付けて、彼女の溌剌とした通りのいい声をBGMにしながら、もう一枚の写真も開いた。それは、卒業式の後に教室で撮ったものなんだろう。写真の中のみんなは、笑っていた。
宇佐美も、明坂くんも、姫森さんも、天音も。それからもう一人、不器用そうに笑う彼が一緒に映っていた。
「……和解できたんだ」
どうしようもない人でも、変わることはできるらしい。僕は複雑な気持ちなんて一切抱くことなく、ただ嬉しかった。途端に、涙が溢れた。透明なしずくは頬を滴り落ちて、スマホの画面を優しく濡らした。
手の甲で涙を拭おうとする。その拍子にイヤホンのコードが腕に当たり、スマホから抜けた。
『――そして、私のことを育ててくれたお父さん、お母さん。十五の春、生意気にも自立していると思い込んでいた私を、この素敵な学(まな)び舎(や)に通わせてくれて、本当にありがとうございました』
彼女の澄んだ声が、電車内に響いた。慌てて付け直そうとしたけど、周囲には誰もいないことに気付いて、そのまま動画を再生することにした。
『当時未熟だった私は、家族に愛されてはいないのだと思っていました。血の繋がらないお父さん。叱ってくれないお母さん。いつまでも新しい家族を受け入れられなかった私は、勝手に反抗を重ねていました。それでも顔を合わせれば、おはようやおやすみを言ってくれて。私が久しぶりに話し掛ければ嬉しそうに笑ってくれて。今にして思えば、愛そうとしなかったのは、未熟だった私の方でした。人を愛する方法がわからなくて、いつまでも不器用に過ごしていて……そんな私に踏み出すきっかけをくれたのは、今はもうこの学び舎にはいない彼でした』
心がざわついた瞬間に、スマホのスピーカーから流れる音にも微かなどよめきの声が上がった気がした。その口上は、予定にはなかったのだろう。彼はもう、そこにはいないのだから。厳(げん)粛(しゅく)な空間で、今まで優等生として振舞ってきた彼女の、たった一度のわがままを止めさせる愚行を犯せる人は誰一人としておらず、僕もまた動画のストップボタンを押せなかった。
『まずは友達から始めてみたら? 素直になれない私に、彼はそう言いました。家族にならなきゃいけないと気が急いでいた私には、思いつくことのなかったその案に、気付けば心の中で笑っていました。彼の言葉がなければ、私はきっといつまでも間違え続けたままで、この素敵なお祝いの場にお父さんとお母さんを呼ぶこともなかったでしょう』
驚いた。お父さんと、お母さんを呼んだんだ。以前までの彼女なら、きっと日程も教えなかっただろうに。
彼女がわずかに息を吐いたのがわかった。これから先の言葉も、当初の台本になかったことが、わかってしまった。
だから僕は、また気付けば彼女のその言葉に耳を傾けていた。
『そして、今はもう、この学び舎にいないあなた。あなたのおかげで、私は人と向き合うことの大切さを学びました。あなたが望んでくれたことを考えて、向き合って、私はこの居場所で残りの学生生活を過ごしました。この一年で、本当に多くの人と話をしました。いじめを見て見ぬふりをしていた人。あなたのことを誤解したままだった人。納得してくれない人もいたけれど、それでも本当のあなたのことをわかって欲しくて……みんなに、春希くんの素敵なところを伝え続けました』
また、お得意の行き当たりばったりなことをしたなと、僕も彼も呆れた。それでまたいじめが起これば、僕らがしたことが全部無駄になってしまうというのに。
それでも彼女は、最後まで意思を曲げなかったんだろう。一度決めてしまったら、最後まで突っ走ってしまう人だから……。僕が病室で救われたように、彼もまたそんな彼女に救われたんだろう。心の中が、じんわりと熱くなったような気がした。
『あの日から、何度も話をしました。その甲斐あって、二年三組の仲間たちは、みんなもっとあなたと話をしたかったと言ってくれました。ちゃんと謝りたかった、とも。私も、もちろん同じ気持ちでした。幼き頃、あなたやあなたのお母様から大切なことを教わったのに、築き上げてきた大切なものを、何もかも捨てようとしてしまったから……。だから、あなたは私の前から姿を消したんだよね』
彼女の語尾が、震えたような気がした。それでも懸命に持ち直して、涙だけは見せまいと気丈に振舞う姿が容易に想像できて、胸を打たれた。
僕の方こそ、何も話をせずに二度も姿を消したのに。
だから謝りたいのは、僕の方だった……。
「ごめん……」
届くはずもないのに、寂しく呟く。僕の気持ちだけをあの場所に置いていくように、電車が故郷から遠ざかっていく。戻りたいと願っても、動き出した人生の歯車は、もう都合良く止まったりはしない。
逃げるな。逃げるな。
頭の中に、いつかの言葉がこだまする。後押しするかのように、いつの間にか調子を取り戻した彼女が、最後のお別れの言葉を、そこにはいない誰かのために口にした。
『……これから先の人生、辛いことや、逃げ出したくなることがたくさんあると思います。不安なことがいっぱいあるけど、そんな日は時々でいいから、一緒に過ごした日々のことを思い出してください。思い出の中にいる人たちは、みんなあなたのことを、この世界のどこかで応援しているから。私も、この思い出深い杉浦市で、いつまでもあなたのことを変わらずに想っています』
心残りは尽きませんが、今日まで私たちを導いてくださった方への感謝と、先生方のご健(けん)勝(しょう)を祈(き)念(ねん)して、お別れの言葉といたします。
令和五年三月十一日 卒業生総代 高槻天音。
そこで動画の再生は終わった。
溢れた涙は、目的地に着いた後も止まることはなかった。
また新しい春が来て、新品のスーツに身を包み、僕は宇佐美と一緒に大学の入学式に参列した。高校を卒業した彼女は、どこか垢(あか)抜(ぬ)けたようにも見えて、けれどトレードマークの黒い眼鏡はそのまま掛けてくれていた。
式が終わった後「これからまた四年間よろしくね!」と、嬉しそうに話す。以前告白されて振ったから気まずくなると思ったけど、そういうことはなく、いつもの元気な彼女がそこにいた。失恋しても、暴走しないくらいには成長したということだ。
「私、実家を出た時、思わず泣いちゃったよ。今日も夜に涙で枕を濡らしそう」
「天音に電話して、慰めてもらいなよ」
「無理無理。天音も初出勤だし、疲れてると思うから心配掛けられないよね」
「杉浦病院の、医療事務だっけ」
「そうそう。明坂と橋本はスポーツ推薦で、風香は看護の専門学校だよ」
「みんな、それぞれ大変そうだね」
「でも、頑張ってると思うから。私も頑張れる。春希もそうでしょ?」
「まあ、そうかな」
「久しぶりに、電話でもしてみる?」
訊かれて、僕は首を振っていた。なぜなら、大学に合格はしたけれど、僕という人間の時間はあの日から止まったままだったから。成長した彼ら、彼女たちと話をするには、まだそれなりの時間が必要だった。
「そっか」
「気を使ってくれて、ありがとね」
「ううん。でも、放っといたら天音、取られちゃうよ。モテモテだし」
「その時は、その時だよ。それは、新しい居場所を見つけたってことなんだから」
それに今は、夢を叶えることを一番に頑張りたかった。彼女と再び会うことがあるとすれば、それは大学を卒業した時だろう。
それから僕は適度に力を抜きつつも、大学の勉強に真面目に取り組んだ。居酒屋でアルバイトも始めた。目まぐるしく変わる日常の中で、僕にとっての居場所は一つ、また一つと増えていった。
真帆と一緒に入った、学園祭を盛り上げるためのサークル。あるいは、居酒屋でのアルバイト。あるいは、三年次に入ったゼミ。
教職を目指すために集まった同志たちの中には、真帆もいた。広がった世界では誰かを蹴落とそうと画策する人もいたけど、助けてくれる仲間も大勢いた。アルバイトでジョッキを割って店長に叱られても、次の日にはゼミのみんながドンマイと言って慰めてくれた。だからまた次も頑張ろうと、前向きな気持ちで出勤することができた。
立ち上がれそうにないぐらい躓いた時は、彼女との短い日々に想いを馳せた。天音やみんなとまた会う時のために、胸を張れる自分になろうと努力した。その努力が報われて、僕と真帆は大学四年次に小学校教諭第一種免許状を取得した。
そして、地元で受けた教員採用試験も、晴れて二人とも合格を掴み取った。
二人の進路が決まった日、アルバイトをしていた居酒屋で、真帆と一緒に飲み明かした。この四年間の苦労を話し合って、涙が枯れるまでお酒を飲んだ。
帰る時には真帆がダウンしていて、仕方なくおぶって送ることになった。昔から何も変わっていないことを嬉しく思いながら、僕は道を歩き遠い過去に想いを馳せた。
今の僕なら、彼女に会うことが許されるのだろうか。
大学の卒業式を終えて、四年間住み続けた六畳一間のアパートもすべての整理が終わった。地元へ戻ったら父と一緒に暮らすことも考えたけど、荷物は実家へ送らなかった。一人でも大丈夫だと思ったから、また新しいアパートを借りた。居場所はもう、自分の手で作れる。真帆も、実家には戻らなかった。
新しい部屋の整理が終わって外へ出ると、太陽の光が新しい門出を祝福してくれた。今日は最高の、お墓参り日和だった。
事前にその日はお母さんのところへ行くと真帆に伝えてあり、「私も手を合わせに行っていい?」と言ってくれた。もちろん、了承した。アパートの二階から駐車場へ降りると、新品の真っ赤な軽自動車が停まっていた。すぐに真帆のものだとわかった。
助手席に乗り込むと「どう? かわいいでしょ」と、自慢げに鼻を高くする。僕も免許を持っているから、そろそろ車を買おうと思った。
「高かったんじゃない?」
「ママが買ってくれたの。卒業祝いと、教員採用試験合格のお祝いだって」
「優しいママだね」
「今度お礼に、仕事が始まる前に温泉旅行をプレゼントするの。お父さんとお母さんをこの車に乗せてね!」
「僕も、新品のスーツをプレゼントする予定だよ。ところでペーパードライバーだろうから、運転は十分気を付けてね」
「わかってるよ。今度レンタカー借りてみんなで遊びに行くから、今日はその予行演習も兼ねてるし」
真帆の運転は、久しぶりにしては上出来だった。酷く揺られることもなく、目的地の霊園へと到着した。車を降りて、いつものようにお墓へと向かう。今日は、親友の真帆を連れて。
彼女はお墓の掃除を手伝ってくれた。事前に花屋で買っておいたお花をお供えして、真帆はマッチで線香に火を付けて立ててくれた。煙が、空高くゆらゆらと昇っていく。
ふと、修学旅行で乗った飛行機のことを思い出した。天音はあの時、見渡す限りの雲海を見て、それを天国のようだと形容した。そこにお母さんがいるとすれば、空の彼方から僕らのことを見守ってくれているのだろうか。彼女の、弟さんも。
手を合わせて、喪に服した。僕はもう、逃げずに立ち向かえるほど強くなりましたと、お母さんに伝えた。
「それじゃ、私はこれで」
「は?」
目を開けたら、隣で手を合わせていた真帆が、笑顔でひらひらと手を振ってきた。
「真帆が一人で帰ったら、歩いて帰らなきゃいけないんだけど」
「大丈夫。迎えの人は寄越してあるから」
「迎えの人って……明坂くんでも呼んだの?」
にやにやと笑って、真帆は勝手にも駐車場の方へと歩いて行った。ため息を吐いて、腰を上げる。すると、暖かな一陣の風が吹いた。髪の毛が、はらはらと揺れて、思わず目を閉じる。
その瞬間、懐かしい鈴の音がちりんと鳴ったような気がした。
再び目を開けた時、そこには一人の女の子が立っていた。
「……久しぶり、春希くん」
「あ……」
本当に、久しぶりだった。
五年ぶりの再会だというのに、連れてきた真帆は隣でまたにやにやと笑っていて「それじゃあ、お邪魔だから本当に帰るね」と言った。そして本当に、帰って行った。墓前に残ったのは、僕と、彼女の二人だけ。
とりあえず、「あの、えっと、久しぶり……」と言葉にした。それからなんと呼べばいいか迷って「……高槻さん」と口にする。彼女は、首を振った。
「ううん。もう、高槻じゃないよ。今は、宮(みや)園(ぞの)」
「……そっか」
結婚、したんだ。そりゃあ、そうだよな。高校を卒業して、四年も経っているんだから。美人で、愛想が良くて、元気な彼女に彼氏ができて、結婚しないはずがない。ましてや大学生ではなく、社会人なんだから。あの日からずいぶん伸びてしまった髪が、どうしようもないほどの時間の経過を僕に突き付けた。
予想はしていたけど、自分勝手にも泣きそうになった。初恋が、終わったんだから。
宮園さんは墓前にしゃがみ込んで、手を合わせてくれた。そういえば以前、今度はお墓に手を合わせたいですと話していたのを思い出す。今日来てくれたのもきっと、その約束を果たすためだったんだろう。
「実は、真帆から定期的に春希くんの近況を聞いてたの」
「……そうだったんだ」
そんなことは一言も言ってなかったけど、話しているのはなんとなく予想してた。だから、驚きはしなかった。
閉じていた目を開いて、宮園さんはこちらに微笑みかけてくる。
「教員採用試験、合格おめでとう。これから晴れて、小学校の先生だね」
「……ありがとう」
それから何を話そうか迷って、言いたいことはたくさんあったけど、とりあえず例の件について話すことに決めた。
「四年前、真帆から答辞の動画、見せてもらったんだ。すごい、かっこ良かった。ずっと言えなくて、本当に今さらだけどさ、卒業、おめでとう……」
「ありがとね」彼女が笑う。
「……写真も、見せてもらったんだ。絶交するって言ったのに、ちゃんと橋本くんと和解できて、やっぱりすごいなって思った……本当に、また何も言わずに君の前から姿を消すようなことをして、ごめん……本当に、ごめんなさい……!」
謝罪の言葉を口にしたら、涙がこぼれ落ちた。思わず膝から崩れ落ちて、地面に手をつく。こんなつもりじゃなかったのに。彼女と会えた時に泣くつもりなんて、なかったのに……。
「顔、上げて」
彼女が、優しく言った。僕は、涙で歪む視界を上げる。そこには、いつの間にか随分大人になってしまった彼女の姿が、あった。その事実が、また僕の心を刺激した。
「実は、ずっと落ち込んでたら、真帆に怒られたの」
「……え?」
「春希くんのためだって言うけど、それはただの逃げなんじゃないかって。春希くんを言い訳にするなって」
ポケットから取り出したハンカチで、彼女は僕の涙を拭いてくれた。必死で、顔をそらした。彼女はもう、どこかの誰かの妻なんだから。そんなことをしてもらう資格なんて、今の僕にはない。
「そう言われて、初めて気付いた。春希くんが、私の前からいなくなった理由。全部捨てようとした私のため、なんだよね」
「違う……違うんだよ、僕は……!」
逃げたんだ。そこに彼女を想う気持ちはあったのかもしれないけど、一度は明確に逃げた。
「でも君は、あれからまた学校に来てくれた」
「それは、僕じゃなくて……!」
「ううん。君は、君だよ」
それから彼女は優しく僕のことを抱きしめてくれた。あの日、彼に病室でそうしたように。
「君のおかげで、康平も変わったの。君が私のために、ハッキリと困ってるんだって言ってくれたから。あの言葉があったから、自分が間違っていたことに気付いて目が覚めたみたい。君がいなくなった後、私や隼人くんや、真帆にも謝ってた。君にも、謝りたいって言ってた」
「やめろよ……結婚してるんだろ? こんなところを見られたら、また変に噂されるから……」
今度は、ただのいじめなんかじゃ済まない。大人になれば、司法が僕らのことを裁いてくる。
狭い世界だ。
噂は、それこそあっという間に広がる。せっかく就職した杉浦病院も、退職しなければいけなくなるかもしれない。それなのに、彼女はいっそう僕のことを強く抱きしめてきた。
「実は、離婚したの」
「……え?」
「私が高校を卒業して、しばらく経ってから。お父さんが耐え切れなくなったみたい」
悲しいことのはずなのに、おどけたように彼女は言った。
「私のお母さん、自分勝手なところがあるから。感情の制御も苦手だし、しょっちゅう喧嘩してたし、本当のお父さんが出て行った理由も今になってみればよくわかるの」
「そんな……」
「それでも、私はお母さんのことが大好きだよ」
いつの間にか心まで大人になった彼女は、もうわだかまりなんて一つもないかのように、笑顔を浮かべていた。
「私が倒れた日、誰よりも先に病室に来て泣いてくれたの。今まで、散々迷惑を掛けてごめんって。本当にどうしようもなくて、みんなから嫌われるような人で、康平が毒親だって言いたくなる気持ちもわかるの。だけどそれじゃあ、あの人は本当に一人になってしまうから。だから、私だけは愛してあげようって決めたの。だって、最愛の息子を小児がんで亡くして、愛していた人に裏切られたのに、それでも私のことを泣きながら抱きしめて、受け入れてくれたんだから」
恨みを抱く前に、感謝しなきゃいけなかった。彼女は清々しい表情をたたえ、そう言った。
「今は、お母さんと弟と一緒に暮らしてる。正直、離婚するだろうなっていう予感はずっとあったから、大学には行かずに就職することにしたの。お金のことで、二人に迷惑掛けちゃうから」
「でも今は、杉浦病院で働いてるんでしょ? あの人も、働いてるよね……?」
「そうだよ。でも、別にあの人と私の仲が悪くなったわけじゃないから。春希くん、言ってくれたでしょ? 友達から始めてみても、いいんじゃないかって。だから、たまに会って、変わらずにお酒とか飲んで話してる。私に申し訳ないと思ってるから、お母さんもそれくらいは許してくれてるみたい」
「……そうだったんだ」
「弟の輝幸は、小学生になってから野球を始めたの。休日は私がたまに教えてあげて、バッティングが随分上手になった。ボールも速く投げられるから、もしかすると将来はピッチャーをやるのかも!」
「そっか……」
本当に、見違えるほど彼女は強くなった。成海から宮園に変わって、それから高槻に。そして高槻から、また宮園に戻って。
大人の都合に翻弄され続けたのに、本当に、強く……。
「春希くん」
彼女が、優しく僕の名前を呼んでくれる。
「だからもう、大丈夫だよ」
安心させるように、そっと肩を撫でてくれた。
もう、いいのだろうか。
ずっと秘めていた想いを、言葉にしても。
僕らはみんな、嘘を吐きすぎてしまった。
たくさんの勘違いや、すれ違いの果てで。
いつかの僕は、この想いさえも嘘で塗り潰した。
ずっと、一緒にいたいと望んでいた。
今度会った時、彼女に意中の相手がいなかったとしたら、伝えたいことがあった。
本当に、僕は。
心の底から、子どもの頃から、ずっと、君のことが。
「好きです」
きっと二人なら、どこまでも歩いて行ける。
一番大切な人は、子どもの頃からずっと変わっていなかったから。
それだけは、嘘を吐けなかった。