下校時刻になり、今日こそは病院へ行こうと意思を固める。ずっと、一昨日の夢の中で見た、B棟六階病棟が気になっていた。もしそこに同じ景色が広がっているのだとしたら、自分という存在にまた一歩近付けるかもしれない。
「病院、行くの?」
カバンを背負い直していると、天音が足元を見ながら訊ねてくる。それは足の負傷で行くという意味ではなさそうだ。
「渋ってたら修学旅行が始まりそうだから。大丈夫だよ、ちょっと見に行くだけだし」
「悪化したら、どうするの?」
「早めに退散する」
「行ってみて、徒労だったら足の痛みが悪化するだけだよ」
「でも、行ってみないと何も始まらないだろ?」
どうしても行かせたくないのか、今日はしつこく引き止めてくる。それでも曲げない意思を示していると、仕方ないというように肩を落とした。
「私の方で、話を通しといてあげるから。そうすれば無駄にならないし。それと、心配だから私もついてくよ」
「いいの?」
知人が働いてるからと言って、あまり協力的じゃなかったのに。
「仕方ないじゃん。どうしても行きたいって言うんだから。それに足引きずって歩いてる人が病院内を徘徊してる方が、よっぽど迷惑掛かりそうだし」
「……ごめん。ありがと」
素直にお礼を言った。天音には、本当に頭が上がらない。
二人で教室を出る時、宇佐美と目が合った。帰りの挨拶をしようか迷っていると、先に彼女の方から話し掛けてくれた。
「病院行くの?」
こっちは、足のことを言っている。
「天音が付き添ってくれるって言うから」
「どこの病院?」
なんでそんなことが気になるんだろうと思ったが、正直に答えた。
「杉浦病院だよ」
すると宇佐美は、珍しく急に顔をほころばせてきた。
「そこ、子どもの頃に目の検査してもらった病院だ」
知っている。だって俺は、春希と一緒に宇佐美と会っているんだから。
「そういえば、その病院で知らない男の子が話し掛けてきたのよ。元気にしてるかな」
「名前とか覚えてないの?」
「確か、ハルキくんとナルミくんだったかな。ていうか、あんたと名前同じじゃん、ウケる」
そこまで覚えているのに、どうして宇佐美は目の前に立っている人物がその春希だと気付かないんだろう。人の記憶というものは、酷く曖昧だ。
「もっと顔を見とけば良かったなぁ。遠視が酷くて、あんまりわかんなかったんだよね。眼鏡掛けるのも、その時は恥ずかしかったし」
「今掛けてないけど、大丈夫なの?」
「いつもはコンタクトしてるから」
そういえば春希がおすすめしたのは黒いふち眼鏡で、宇佐美がこの前掛けていたのも同じものだった。もしかするとあの時のことを覚えていて、ずっとその形を使い続けていたのだろうか。もしそうだとしたら、こう見えてかわいいところもあるらしい。
「ナルミくんとも、もうちょっと話したかったなぁ。実は私のメッセージの名前って、彼が付けてくれたんだよ。かわいくて気に入ってるの」
「へぇ、そうなんだ……」
それって俺が付けたんだよとは言えなかった。話してしまえば、いろいろ込み入ったことも説明しなければいけなくなるから。
「春希くん」
黙って俺たちの話を聞いていた天音が間に入ってくる。目で『早く行こうよ』と訴えてきた。その彼女の頬は、どうしてかちょっとだけ赤くなっている。
「あ、ごめん。彼女いるのに、時間取っちゃって」
「……別に、いいけど」
なぜかそっぽを向かれる。どこか、意味ありげな反応だった。
「もしかして、嫉(しっ)妬(と)してたの?」
ほんのり赤くなっていた理由が知りたくて訊ねてみると、珍しく顔を真っ赤にして「そんなんじゃない!」と、抗議の言葉を叫んだ。それは認めてるのと同じだと思ったが、これ以上からかって不機嫌になられると病院に行けなくなるかもしれないから、流すことにした。
「別に、工藤のことなんて取って食べたりしないわよ」
「だから、本当に嫉妬じゃないんだってば……」
「はいはい、わかったわかった」
適当にあしらわれたのが腑に落ちなかったのか、唇を尖らせる。
「……早く行こ」
これ以上何か言われるのを避けたいのか、わざわざ手を握って俺を教室から連れ出す。
昇降口で外履きに替えていると「本当に、嫉妬じゃないからね」と、聞いてもいないのに話を蒸し返してきた。いい加減鬱陶しく思い「わかったから」と適当に返したら、今度は不服そうに頬を膨らませてくる。
「……行く前に、先にアポ取ってくるね」
もう気が済んだのか、それだけ言ってそそくさと離れていった。電話を掛けに行くんだろう。
そういえば病院で働いている人を彼女は知人と言ったが、具体的にはどういう関係なんだろう。想像していると、髪を揺らしながら足早にこちらへと戻ってくる。
ショートの髪形は、未だになんとなく見慣れなかった。
「五時半過ぎたら大丈夫だって」
「そっか、ありがと。ところで、その天音の知り合いってどんな人なの?」
「会えばわかるよ」
なんとなく、この場で話したくないんだろうなという意思が垣間(かいま)見(み)えた。だから深くは訊ねずに、時間が来るのを待つことにする。
五時半まで時間があったから、病院近くの公園のベンチに座って時間を潰すことにした。ちょうどいいから、二人になったら話そうと思っていたことを打ち明ける。
「昨日、また夢を見たんだ。驚かないで聞いて欲しいんだけど、俺と春希は子どもの頃に宇佐美と会ったことがあるらしい」
「そっか」
何かしらの反応を期待していたけど、思いのほか素っ気なかった。天音は黒く磨かれたローファーの先っぽで、転がっている小石をつまんなそうに蹴飛ばしている。
「もしかして、怒ってるの?」
「別に」
「病院に行くの、そんなに嫌だった?」
「嫌と言えば嫌だけど、放ってはおけないから」
自分の都合より、相手の都合を優先してしまうのが彼女らしい。そんな優しさに、甘えてばかりではいられないけど。
ここで俺が行かない選択を取れば、天音はこんなことでいちいち気を揉んだりしないんだろうが、好奇心には抗えなかった。
「杉浦くんはさ、元の体に戻ることが怖かったりしない?」
脈絡もなく、訊ねてくる。隣を見やると、つま先で小石を蹴る行為を続けていた。
「なんで怖いの? 元の体があるなら、戻りたいでしょ」
「もし、犯罪者とかだったらどうするの?」
「それはないって。犯罪者だったら、名前を調べたら事件がヒットするだろ」
「春希くんが、なんだかんだ向こうの体で楽しくやってたら?」
「俺の体だ。春希には我慢してもらうしかないね」
この問答に、何の意味があるかはわからない。けれど彼女はなぜか、しきりに『元の体に戻った後のこと』を気にしている。もしかすると、何か不安があるのだろうか。
「どちらにせよ戻る以外の選択肢はないよ。そのために、今日は病院へ行くんだから」
「……そうだよね。ただ、もしもの話だけど、元の体に戻った時に杉浦くんが春希くんみたいにいじめられてたり、良くない事情があったりしたら、それはなんだかかわいそうだな。みたいなことをちょっと考えてたの……」
「なんとかして受け入れるよ。俺の人生なんだから」
本心を伝えると、「そっか……」とだけ呟いて不器用に笑いかけてくる。いろいろなものを背負っているかのようなその表情を見ていると、胸が詰まった。
「ごめん。今日は変なことばかり言って」
「いつものことだろ」
冗談めかして言うと、かわいらしく頬を膨らませてくる。少しは元気が戻ったようで、勝手に安心した。
それからしばらくの間、他愛もない雑談をして杉浦病院へと向かった。目的地に近付くにつれて隣を歩く天音の表情はけわしいものになっていくから、何度か「やっぱりやめとこうか」と言ってしまいそうになる。彼女の心労を気にしつつも、それでも退かずに進み続ける俺は、おそらく酷い奴だ。
だからすべて物事が解決した暁には、その時はいくらでも天音の愚痴を聞いてやろうと、勝手に決めた。
エントランスをくぐると、消毒液の臭いが鼻をついた。なんとなく、この臭いは嫌いだ。病気をしていないのに、どこか体が悪いんじゃないかと錯覚してしまう。
「やっぱり、対面した時に驚かれると困るから先に言っておくけどさ、今日ここで会う人って、私のお父さんなの」
「えっ」
「お医者様なんだよね。だから、あんまり来たくなかったというか」
あそこまで渋っていた理由は、それか。彼女の家へお邪魔した時のことを思い返す。親子仲が上手くいっていないのは火を見るよりも明らかで、やっぱりよしておくべきだったかもしれないと、今さらながらに後悔した。
打ち明けたことによって覚悟が決まったのか、それから彼女はきびきびと歩くようになった。ナースステーションへ行き用件を伝えると、何の問題もなく通された。俺が行きたい場所はB棟の六階で、偶然にも今から向かう場所もそこらしい。ということは、その場所でお父さんは勤務しているのだろうか。
天音はこの場所に慣れているのか、俺の足を気にしながらも迷いなく進んでいく。渡り廊下を通り、エレベーターに乗り込む。そして、最上階である六階のボタンを押した。
「今日行くのは、屋上でいいんだっけ」
「それと、子ども用の休憩室も見てみたい。宇佐美と会った場所だから、本当にあるのか気になって」
「わかったよ」
そんな会話をしていると、エレベーターは六階で停止した。扉が開くと、そこにはあの日見た天音のお父さんが、今日は白衣姿で立っていた。にこやかな表情を浮かべている。
それでもやっぱり彼女は、隣で複雑な顔をして俯(うつむ)いていた。
「将来は医者を目指しているんだって?」
どうやらここへ忍び込む口実として、天音はそんな作り話をでっちあげたらしい。嘘を吐かせたのが、なんだか申し訳なかった。
「先輩として、若者がそう考えてくれているのはとても嬉しいよ。今日はいろいろ説明してあげるからね」
とりあえず、感じがいい好青年に見えるように「あはは」と作り笑いを浮かべておいた。彼女のお父さんはこの仕事に誇りを持って取り組んでいるのか、ハキハキと、とても嬉しそうにB棟六階病棟の説明をしてくれる。
夢で見た通り、ここは小児科や眼科、消化器内科や消化器外科など、複数の診療科の混合病棟になっているらしい。その事実を知れただけでも、ここへやってきた甲斐があった。何も収穫がなかったら、天音に申し訳が立たないところだった。
子ども用の休憩室も見せてもらう。年月が経って全体的に色(いろ)褪(あ)せてはいたけれど、そこは間違いなく記憶通りの場所だった。医者になるつもりなんてないけど、夢で見た場所と同じ光景に興奮を覚える。
「僕はね、ここの小児科で働いているんだ。といっても、天音くんからもう聞いてるかもしれないけど」
「知らなかったです」
入院時に使用する子ども用の個室を見学している時に、お父さんが話してくれた。そもそも、病院に勤務していることすら今日教えてもらったんだから、知っているわけがない。天音はあまり家庭のことを話したがらないから。
ここへ連れてきてくれた当の天音は「疲れたから休んでる」と言って、先ほどの休憩室の椅子に腰を下ろしていた。長時間運動しても疲れを見せない彼女が、ここに来るだけで疲労するわけもないから、おそらくお父さんと距離を取ったんだろう。
「君は、工藤春希くんだろう?」
「そうですけど、それがどうかしたんですか?」
「覚えてないかな? 君がまだ小さかった頃、僕が診察を担当したこともあったんだよ」
驚いた。というか、ここへ来ることになった以上、過去に春希と関わりがあった人と会うかもしれないとは思っていた。けれども、それがまさか天音のお父さんだったとは。
「この前、家で会った時にもしかしてと思ったんだ。でも急いでるみたいだったから、聞こうにも聞けなくて。見違えるほど大きくなってたから、最初はわからなかったよ」
「……その節は、お世話になりました」
予想外のことにどういう反応を見せたらいいのかわからなくて、作り笑いしか浮かべられなかった。天音はこのことを、知っていたんだろうか。
「まさか君が、私の娘の恋人だなんてね。嬉しいよ。あの子は繊(せん)細(さい)なところがあるから、一緒にいると大変だろう」
「いえ、一緒にいて楽しいですよ。いつも笑ってますし」
本心だった。あれを繊細と形容していいのかはわからないけど、家庭と学校では天音の振舞い方が違うんだろう。
おそらくどちらが本物というわけではない。どちらもがその人の一部であって高槻天音なのだ。だけど家庭での一面しか知らないらしいお父さんは、やや驚いた様子を見せた。
「いつも、笑っているのかい?」
「ええ。笑っていない時なんて、珍しいくらいです」
答えると、お父さんはさりげなく廊下の奥へと視線を移した。向こうの休憩所にいる娘のことが気になるんだろう。おそらく、ここでの話し声は彼女の耳には届かない。
お父さんもそれを察して安心したのか、柔和な笑みを浮かべる。それは間違いなく、父親の表情だった。他人の家のことだというのに、俺はどこか安心していた。天音にも、ちゃんと心配してくれるお父さんがいるんだということに。
「よければ、詳しく教えてくれないかな。あの子が、学校でどんな風に過ごしているのか」
「それは本人に聞きましょうよ。家族なんですから」
「知っているかもしれないけど、あの子は学校が終わったらアルバイトを頑張っているんだ。僕の休日にも入れていることが多くて、話す機会があまりないんだよ」
それは言い訳だ。家族なんだから、一緒の家にいればいくらでも時間を作ることができる。いくら仕事が忙しくても、たとえば自分に息子や娘がいたとしたら、睡眠時間を削ってでも会話するだろう。それが、家族というものだから。
「今日は、アルバイトはないみたいですよ。僕、もうすぐ帰るので、やっぱり彼女に直接聞いてみてください」
お節介かもしれない。けれど娘のことをお父さんが大事に思ってくれているのなら、どちらかが歩み寄ることができれば、少しはいい関係が築けるかもしれない。
だから俺は決して、学校での天音のことは話さない。話をして、家庭の外で娘はちゃんと明るく振舞っていることを知ってしまうと、その事実に安心して余計に会話を放棄してしまうかもしれないから。
「……上手く、話ができないんだよ。これも娘から聞いたかもしれないけど、僕と天音くんは……」
「それ以上、言わないでください」
冷静に、お父さんの言葉を中断させる。
「家庭のことは、僕は何も聞いてません。彼女が何も話したがらないからです。だからお父さんから今ここで聞いてしまうのは、間違っていると思います。失礼なのは承知ですが、彼女にとっては恋人にも話すことができないほど、思いつめていることなんですから」
「やっぱり、そうだったか……」
何も知らないとは言ったものの、天音の母親を知っている橋本から、あの人は『毒親』だと聞いてしまったことがある。耳を塞いでおけば良かった。当人が隠していることを話されるのは、どちらにとってもいいことはない。むしろ自分のあずかり知らぬところで隠し事を吹(ふい)聴(ちょう)されていることを天音が知れば、傷付いてしまう。
「いや、本当に申し訳ない。春希くんの言う通りだ。私が勝手に話したと娘が知れば、もう口もきいてもらえなくなるところだった」
「いえ。若(じゃく)輩(はい)者(もの)が、わかったようなことを言ってすみません」
謝罪をすると、大の大人に頭を下げられてしまった。なんとなく居心地が悪くなって「屋上って、行けたりしませんか? 新鮮な空気が吸いたくて」と、さりげなくお願いしてみた。お父さんは、快くこちらのお願いを承諾してくれた。
屋上を見に行ってから、天音のいる場所へと戻る。待ちくたびれたのか、スマホでクロスワードパズルを遊んでいた。
「帰ろう、天音」
「ん」
適当すぎる返事をして、スマホをカバンの中にしまう。それから俺の隣に立っているお父さんのことを、横目でうかがうように見た。
「今日は、遅くなるんでしたっけ」
「いや、早めに帰ることにするよ」
「お母さん、今日はお父さんが遅いから輝(てる)幸(ゆき)と二人でご飯食べに行くってメールで言ってましたよ」
「それはもう間に合いそうにないから、お母さんに言わなくてもいいよ。たぶん天音くんの方が早く帰るだろうから、もし良かったらご飯を作っておいてくれないかな」
その発言が意外だったのか、固まったまま目を丸くした。
「……別にいいけど、珍しいですね。いつも買ってくるか外で食べるのに」
「彼氏には、前にご飯を御馳走したんだろ? お父さんは食べたことがないのに、ずるいじゃないか」
父親が冗談を言うと、天音は薄くだけど笑った。まだ家族の前でも笑えるんだということに、俺はホッとしていた。
「わかったよ。それじゃあ、なるべく早くお仕事終わらせてきてね」
「ああ。春希くんも、今日は本当にどうもありがとう」
案内をしてもらったのはこちらなのに、あらたまってお礼を言われると、なんと返せばいいのかわからなかった。だから「いえ……」と、曖昧に言葉を濁しておいた。
帰り道、天音は恐る恐る「お父さんから、いろいろ聞いたの?」と訊ねてきた。そのいろいろが、病院ではなく家庭のことを言っているのは、容易に想像できた。
「聞かなかったよ」
嘘偽りなく答えると、彼女は安(あん)堵(ど)したのか短く息を吐く。
「杉浦くんのそういうところ、私好きだよ」
「やめろよ、勘違いするだろ」
冗談めかして言うと、天音は吹き出して楽し気に笑った。
「別に勘違いしてくれてもいいのに」
「元の体に戻ったら、春希と泥沼になるから嫌だね。三角関係なんて、ろくなことがない」
「三角関係にならなければ大丈夫なんだ」
彼女はまた、お得意の揚げ足を取ってくる。元気になったようだから、仕方なくしばらくの間は付き合ってやることにした。
今日、杉浦病院に行ってみて、わかったことがあった。それは夢の中で見たB棟六階病棟も、宇佐美と初めて出会った休憩所も、確かにあの場所に存在しているということ。そして屋上から見た景色は、年月の変化によってところどころ細部は変わっていたけれど、間違いなく春希がナルミと出会った時に見た杉浦市の光景だった。
自宅まで付き添ってくれた天音は、そのまま真っすぐ帰るのかと思いきや「ちょっとお邪魔してもいい?」と訊ねてきた。理由を訊ねると「お母さんに、手を合わせたいから」と言った。
あまり迷わず、家の中へと上げた。父親は帰っていないようで、真っ暗だったリビングに明かりを灯す。いつも男だけの空間にクラスメイトの女の子がいるというのは、なんだか変な感じがした。
「男の人の二人暮らしなのに、案外片付いてるね」
「一応言っておくけど、それ普通に失礼だからな」
第一声を注意すると「ごめんごめん」と笑った。本当に、失礼だという自覚があるんだろうか。
普段はリビングに母親の写真が置いてあり、そこに向かって手を合わせていたけど、今日はそれを奥の仏壇が置いてある和室へと持って行った。いつも父親が綺麗にしているから、問題はないだろう。
作法なんてものはわからないが、とりあえず仏壇のわきに春希の母親の写真を置く。天音は手前に置いてあった座布団の上に正座した。俺は足を負傷しているため、胡坐(あぐら)をかかせてもらう。
「俺、春希の母親とも会ったことがあった」
「そうだったんだ」
「春希の病室で、リンゴを剥いてもらったんだ。たぶんそこら辺のスーパーで売ってるリンゴだったんだろうけど、夢の中の俺が美味しい美味しいって言いながら食べてた」
思い出すと、悲しくなってくる。目の前の写真の中にいる女性とは、もう一生会うことができないんだから。
天音は置かれていた短い棒を手に取り、お椀の形をした鈴を優しく叩いた。心安らぐ高い音が、室内にこだまする。ろうそくも、お線香もなかったけれど、手を合わせて目を閉じた彼女の姿は、とても様になっていた。
俺も、徐々に消えていく鈴の音を聞きながら、目を閉じて手を合わせる。この世界で、二人だけになってしまったかのような静けさに、それも案外悪くないなと思った。
「私、春希くんのことが羨ましいの」
音が止んで完全な静寂が訪れた頃、話を切り出してくる。
「お母さんを素直に愛せているのが、羨ましい」
「どうして?」
たぶん、今なんだと思った。茶化したりすれば、もう一生こんな風に身の上話を切り出してはくれない。そんな予感がしたから、珍しく自分の話をする気になった天音のために、今日は聞き役に回ることにした。
「なんとなく、もうわかってると思うんだけど、うちは両親が離婚してるの」
「それは、空気でわかったよ」
「本当は、それも悟らせないつもりだったんだけどね。あんなにも早く、お父さんが帰ってくるなんて思わなかったの」
そして、あんなに長く俺があの場に留まることを、想定していなかったんだろう。どうしてあの時間まで部屋にいたのか、振り返ってみてもよくわからなかった。
「それで昔さ、家庭内でいろいろなことがあって、二人のストレスが溜まっていって、お父さんの方が先に我慢の限界がきて、出て行く決断をしたの。私はその時、まだ小学生だった。どちらについていくかお母さんに聞かれて、言っている意味がよくわからなかった。答えが出ずに迷っていたら、お父さんが言ったの。しばらくしたらお前を迎えに行くから。その時になれば、また三人で一緒に暮らせる。だから今は、お母さんの元で暮らしなさいって」
思い出したくもない過去だろうに、声は酷く平坦だった。少しは声を詰まらせたり、悲しみで涙を流してもいいものなのに。
だからこれはもう、彼女の中では完結している話なのかもしれない。
「お母さんは?」
「お母さんと暮らすって言ったら、その時は泣いて抱きしめてくれたよ。お父さんが言ったことは、絶対にお母さんには話すなって言われてたから、話さなかったけど。でもそれからしばらくして、私の心の整理がつかないままお母さんは今の人と再婚して、結局お父さんは帰ってこなかった。子どもだから、わかってなかったんだよね。あの時言ってくれた言葉はただの方便で、私を置いていくためについた嘘だったってことに。それに気付いたのは、中学生の時だった。さすがに悲しくなって、思わず泣いちゃった」
言葉とは裏腹に、薄く笑みを浮かべる。その瞬間から、口だけの人と嘘が彼女は嫌いになったのかもしれない。想像していたよりも、ずっと悲しい経緯に心を痛めた。
一度身の上話を打ち明けると、せき止めていた心のダムが決壊したのか、矢継ぎ早に話を続ける。必要以上に重苦しい雰囲気にしないためか、無理に笑顔を見せようとする姿が、とても痛々しかった。
「……家族仲が上手くいかないのはね、半分以上は私のせいでもあると思うの」
「どうして?」
「いつまでも、私があの人に心を開かないからだよ。いきなり他人同然の人が家の中に入ってきたら、誰だって戸惑うでしょ?」
「まあ、そうなのかも」
「ごめんね、こんなこと聞いて。とにかくさ、私はスタート地点から友好関係を築くのに失敗して、あの人とは今までずっと、なんとなく距離があるのよ。それもあって、お母さんとも上手くやれてない。なんというか、ただの反抗期が周りの子より随分早くにやってきて、今もずっと続いてる、みたいな。笑っちゃうよね、こんな話」
「笑えないよ」
天音は反抗期だと言って片付けたけれど、それはこれまでの数年間、ずっと片時も手離すことなく抱えてきた大きな悩みだ。本来、一番心の休まるべき場所であるはずの空間が、ある日を境に一変したんだから。笑えるわけが、なかった。
「……これでもさ、環境を変えるためにいろいろ頑張ったんだよ。高校生になってからアルバイトを始めたのも、それが理由。たくさん遊びに行くのは、一分一秒でもあの家から遠ざかりたいから……それでも、嫌いなわけじゃないの。ただ、再婚相手の子どもが生まれた時からずっと、私の居場所はあそこじゃないって強く感じるの……本当に、みんなのことが嫌いなわけじゃないのに、弟だって幼稚園に通うようになって、宝石みたいにかわいいのに、心がずっとモヤモヤしてて、上手く振舞えなくて。あの家は、高槻の人の家なんだって思うと、とっても辛くて……」
「もういいよ」
優しく、肩に手のひらを乗せた。壊れた機械のように次々と言葉を発していく彼女の姿を、これ以上見ていることができなかった。半分乱れていた息を、彼女は整える。もう、とっくに壊れかけているんだろう。彼女の世界も、心も。それに気付いてあげられなかったのが、悔しかった。
「……ごめん。お母さんの前なのに」
「きっと、春希に彼女ができたって喜んでるよ。たぶん、そういう人だから」
心配はしているかもしれないけど。
「たぶん、正解なんてないんだよ。世の中にはいろんな家庭があるから。だから隣の家をうらやんで、無理に自己否定しなくていいと思う。過干渉気味で、放っておいて欲しいと思う子どもだって、それこそどこにでもいると思うんだ。このままじゃダメだと思って、ずっと家族のことを考えている天音は、そういう意味では立派だと思うよ」
「……立派、なのかな。全然、そうは思えないけど……だって、一刻も早く家を出て、一人立ちしたいって考えてるから。すごく、親不孝な娘だよ……」
「考え方を変えてみなよ。別に、親孝行なんていつでもできるんだから。それこそ、天音がいろいろなことを許せるようになって、もっと大人になった時とかさ。その頃になれば、きっとあのお父さんは、二十を超えた娘とお酒を飲みたいなと思ってるよ。弟は学生になってスポーツを始めてるかもしれないから、もしそうならたまの長期休みに帰った時は、天音がわかりやすく教えてあげればいいんだ。お母さんだって、久しぶりに娘の顔を見れたら、きっと嬉しいと思う。上手く言えないけどさ、家族ってそういうものなんだよ。きっと」
なんでいつもポジティブなのに、自分のことになると途端に自信をなくすんだよ。天音にそう言ってやりたかった。
あれだけ一緒にいたのに、彼女の本質に気付いてあげられなかった自分を、殴りたかった。
「……君は、私のお母さんのことを悪く言わないんだね。康平から、あんな説明をされてたのに」
「なんだ、聞いてたのか。地獄耳だな。知らないふりして隠してたのが、馬鹿みたいじゃん」
「……康平は、人の悪口を話す時は声が大きくなるから」
必要のない言葉なんて、人の耳に届かなければいいのに。
「親なんだから、いい大学へ行って、いい会社に就職して欲しいと思うなんて、当然のことだろ。別にあれだけ聞いて、そりゃあちょっとは大丈夫かなって気にしちゃうけど、見たこともない人の判断なんてできないよ。家族ですら、長年一緒にいてもわかんないことがあるんだから」
だから自分の目で見て判断しないと、とんでもない勘違いを起こしてしまうこともある。それでも、わからないことだってある。大好きな人の救いになりたいがために、錯覚で悪を作ってしまったりだとか。信用していたのに、裏切られたりだとか。
決して、目で見えることや聞こえることだけがすべてというわけじゃない。誰の心の中にも、その人なりの正義という名前の大切なものが存在するんだから。
「とりあえず、今日はもう帰りなよ。お父さんの夕食、作るんだろ?」
「あ、そうだった」
「忘れてたのかよ、しょうがない奴だな。言っとくけど、作り終わったら一緒に食べるんだぞ。自分の分だけ持って自室に引きこもるとかなしだからな」
「え、なんで……? 一緒にいても私、あの人とは上手く話せないし」
「そっちこそ、なんでだよ。何も酷いことされてないのに。クラスのみんな、友達なんだろ? それなら、いつも通り振舞ってれば、何も問題ないじゃん」
「だってあの人は、友達じゃなくて家族だから」
「そんな風に、心の中で決めつけるのが良くないんだって。まずは友達からって、よく言うだろ? みんなのお父さんとお母さんだって、最初はそういう関係だったんだからさ。自分なりのペースで、自分なりのやり方でゆっくり距離を縮めていければそれでいいんだよ。それこそ、正解なんてないんだから」
このアドバイスが正しいかなんて、無責任だけど俺にはわからない。けれど病院でお父さんと話をした限りでは、天音に害をもたらすような人には見えなかった。だから本当に、どちらかが歩み寄れば解決する程度のことで。ここで俺があれこれ彼女に吹き込まなくても、お父さんの方から今日は動き出すんだろう。
けれど機が訪れるのを待っているんじゃなくて、天音には自分から動く意思を持って欲しい。待てば相手が変わってくれることを覚えてしまったら、一番大事な時に動くことのできない人になってしまいそうだから。そんな情けない奴には、なって欲しくない。
「……正解なんてない、か。確かに、君の言う通りだね」
いつの間にか天音の瞳には、決意の色が芽生えていた。
それから比較的落ち着いた彼女を見送るために玄関へ行くと、ちょうどスーツを着た春希の父親が帰ってきた。俺たちを見て、案の定目を丸くする。
「言ってくれれば、天音さんの分もご飯用意したのに」
「いえ、お言葉だけありがたく受け取っておきます。今日は、家に帰って親孝行をしたいので」
「親孝行か。それなら、無理に引き止めるわけにはいかないね。今日はお母さんに手を合わせてくれたの?」
「はい。来られて良かったです」
「ありがとね。今度はご飯を御馳走するよ」
「その時はまた、お言葉に甘えさせていただきます。もしよろしければ、お墓にも手を合わせさせてください」
余(よ)所(そ)行きの大人びた笑顔を見せた天音は「それじゃあ、また明日学校で」と言って、いつものように手のひらを開いて閉じるという独特の挨拶をした。こちらも同じように返して見送った後、お父さんが「あの子は、どこかお母さんに似ているね」と言った。
「どこが?」
「仕草がお母さんと一緒だっただろう? それに、どことなく雰囲気も」
そういえば夢の中で、お母さんは春希に同じ仕草を見せていた。雰囲気が似ているのかまでは、俺にはわからないけど。
「病院、行くの?」
カバンを背負い直していると、天音が足元を見ながら訊ねてくる。それは足の負傷で行くという意味ではなさそうだ。
「渋ってたら修学旅行が始まりそうだから。大丈夫だよ、ちょっと見に行くだけだし」
「悪化したら、どうするの?」
「早めに退散する」
「行ってみて、徒労だったら足の痛みが悪化するだけだよ」
「でも、行ってみないと何も始まらないだろ?」
どうしても行かせたくないのか、今日はしつこく引き止めてくる。それでも曲げない意思を示していると、仕方ないというように肩を落とした。
「私の方で、話を通しといてあげるから。そうすれば無駄にならないし。それと、心配だから私もついてくよ」
「いいの?」
知人が働いてるからと言って、あまり協力的じゃなかったのに。
「仕方ないじゃん。どうしても行きたいって言うんだから。それに足引きずって歩いてる人が病院内を徘徊してる方が、よっぽど迷惑掛かりそうだし」
「……ごめん。ありがと」
素直にお礼を言った。天音には、本当に頭が上がらない。
二人で教室を出る時、宇佐美と目が合った。帰りの挨拶をしようか迷っていると、先に彼女の方から話し掛けてくれた。
「病院行くの?」
こっちは、足のことを言っている。
「天音が付き添ってくれるって言うから」
「どこの病院?」
なんでそんなことが気になるんだろうと思ったが、正直に答えた。
「杉浦病院だよ」
すると宇佐美は、珍しく急に顔をほころばせてきた。
「そこ、子どもの頃に目の検査してもらった病院だ」
知っている。だって俺は、春希と一緒に宇佐美と会っているんだから。
「そういえば、その病院で知らない男の子が話し掛けてきたのよ。元気にしてるかな」
「名前とか覚えてないの?」
「確か、ハルキくんとナルミくんだったかな。ていうか、あんたと名前同じじゃん、ウケる」
そこまで覚えているのに、どうして宇佐美は目の前に立っている人物がその春希だと気付かないんだろう。人の記憶というものは、酷く曖昧だ。
「もっと顔を見とけば良かったなぁ。遠視が酷くて、あんまりわかんなかったんだよね。眼鏡掛けるのも、その時は恥ずかしかったし」
「今掛けてないけど、大丈夫なの?」
「いつもはコンタクトしてるから」
そういえば春希がおすすめしたのは黒いふち眼鏡で、宇佐美がこの前掛けていたのも同じものだった。もしかするとあの時のことを覚えていて、ずっとその形を使い続けていたのだろうか。もしそうだとしたら、こう見えてかわいいところもあるらしい。
「ナルミくんとも、もうちょっと話したかったなぁ。実は私のメッセージの名前って、彼が付けてくれたんだよ。かわいくて気に入ってるの」
「へぇ、そうなんだ……」
それって俺が付けたんだよとは言えなかった。話してしまえば、いろいろ込み入ったことも説明しなければいけなくなるから。
「春希くん」
黙って俺たちの話を聞いていた天音が間に入ってくる。目で『早く行こうよ』と訴えてきた。その彼女の頬は、どうしてかちょっとだけ赤くなっている。
「あ、ごめん。彼女いるのに、時間取っちゃって」
「……別に、いいけど」
なぜかそっぽを向かれる。どこか、意味ありげな反応だった。
「もしかして、嫉(しっ)妬(と)してたの?」
ほんのり赤くなっていた理由が知りたくて訊ねてみると、珍しく顔を真っ赤にして「そんなんじゃない!」と、抗議の言葉を叫んだ。それは認めてるのと同じだと思ったが、これ以上からかって不機嫌になられると病院に行けなくなるかもしれないから、流すことにした。
「別に、工藤のことなんて取って食べたりしないわよ」
「だから、本当に嫉妬じゃないんだってば……」
「はいはい、わかったわかった」
適当にあしらわれたのが腑に落ちなかったのか、唇を尖らせる。
「……早く行こ」
これ以上何か言われるのを避けたいのか、わざわざ手を握って俺を教室から連れ出す。
昇降口で外履きに替えていると「本当に、嫉妬じゃないからね」と、聞いてもいないのに話を蒸し返してきた。いい加減鬱陶しく思い「わかったから」と適当に返したら、今度は不服そうに頬を膨らませてくる。
「……行く前に、先にアポ取ってくるね」
もう気が済んだのか、それだけ言ってそそくさと離れていった。電話を掛けに行くんだろう。
そういえば病院で働いている人を彼女は知人と言ったが、具体的にはどういう関係なんだろう。想像していると、髪を揺らしながら足早にこちらへと戻ってくる。
ショートの髪形は、未だになんとなく見慣れなかった。
「五時半過ぎたら大丈夫だって」
「そっか、ありがと。ところで、その天音の知り合いってどんな人なの?」
「会えばわかるよ」
なんとなく、この場で話したくないんだろうなという意思が垣間(かいま)見(み)えた。だから深くは訊ねずに、時間が来るのを待つことにする。
五時半まで時間があったから、病院近くの公園のベンチに座って時間を潰すことにした。ちょうどいいから、二人になったら話そうと思っていたことを打ち明ける。
「昨日、また夢を見たんだ。驚かないで聞いて欲しいんだけど、俺と春希は子どもの頃に宇佐美と会ったことがあるらしい」
「そっか」
何かしらの反応を期待していたけど、思いのほか素っ気なかった。天音は黒く磨かれたローファーの先っぽで、転がっている小石をつまんなそうに蹴飛ばしている。
「もしかして、怒ってるの?」
「別に」
「病院に行くの、そんなに嫌だった?」
「嫌と言えば嫌だけど、放ってはおけないから」
自分の都合より、相手の都合を優先してしまうのが彼女らしい。そんな優しさに、甘えてばかりではいられないけど。
ここで俺が行かない選択を取れば、天音はこんなことでいちいち気を揉んだりしないんだろうが、好奇心には抗えなかった。
「杉浦くんはさ、元の体に戻ることが怖かったりしない?」
脈絡もなく、訊ねてくる。隣を見やると、つま先で小石を蹴る行為を続けていた。
「なんで怖いの? 元の体があるなら、戻りたいでしょ」
「もし、犯罪者とかだったらどうするの?」
「それはないって。犯罪者だったら、名前を調べたら事件がヒットするだろ」
「春希くんが、なんだかんだ向こうの体で楽しくやってたら?」
「俺の体だ。春希には我慢してもらうしかないね」
この問答に、何の意味があるかはわからない。けれど彼女はなぜか、しきりに『元の体に戻った後のこと』を気にしている。もしかすると、何か不安があるのだろうか。
「どちらにせよ戻る以外の選択肢はないよ。そのために、今日は病院へ行くんだから」
「……そうだよね。ただ、もしもの話だけど、元の体に戻った時に杉浦くんが春希くんみたいにいじめられてたり、良くない事情があったりしたら、それはなんだかかわいそうだな。みたいなことをちょっと考えてたの……」
「なんとかして受け入れるよ。俺の人生なんだから」
本心を伝えると、「そっか……」とだけ呟いて不器用に笑いかけてくる。いろいろなものを背負っているかのようなその表情を見ていると、胸が詰まった。
「ごめん。今日は変なことばかり言って」
「いつものことだろ」
冗談めかして言うと、かわいらしく頬を膨らませてくる。少しは元気が戻ったようで、勝手に安心した。
それからしばらくの間、他愛もない雑談をして杉浦病院へと向かった。目的地に近付くにつれて隣を歩く天音の表情はけわしいものになっていくから、何度か「やっぱりやめとこうか」と言ってしまいそうになる。彼女の心労を気にしつつも、それでも退かずに進み続ける俺は、おそらく酷い奴だ。
だからすべて物事が解決した暁には、その時はいくらでも天音の愚痴を聞いてやろうと、勝手に決めた。
エントランスをくぐると、消毒液の臭いが鼻をついた。なんとなく、この臭いは嫌いだ。病気をしていないのに、どこか体が悪いんじゃないかと錯覚してしまう。
「やっぱり、対面した時に驚かれると困るから先に言っておくけどさ、今日ここで会う人って、私のお父さんなの」
「えっ」
「お医者様なんだよね。だから、あんまり来たくなかったというか」
あそこまで渋っていた理由は、それか。彼女の家へお邪魔した時のことを思い返す。親子仲が上手くいっていないのは火を見るよりも明らかで、やっぱりよしておくべきだったかもしれないと、今さらながらに後悔した。
打ち明けたことによって覚悟が決まったのか、それから彼女はきびきびと歩くようになった。ナースステーションへ行き用件を伝えると、何の問題もなく通された。俺が行きたい場所はB棟の六階で、偶然にも今から向かう場所もそこらしい。ということは、その場所でお父さんは勤務しているのだろうか。
天音はこの場所に慣れているのか、俺の足を気にしながらも迷いなく進んでいく。渡り廊下を通り、エレベーターに乗り込む。そして、最上階である六階のボタンを押した。
「今日行くのは、屋上でいいんだっけ」
「それと、子ども用の休憩室も見てみたい。宇佐美と会った場所だから、本当にあるのか気になって」
「わかったよ」
そんな会話をしていると、エレベーターは六階で停止した。扉が開くと、そこにはあの日見た天音のお父さんが、今日は白衣姿で立っていた。にこやかな表情を浮かべている。
それでもやっぱり彼女は、隣で複雑な顔をして俯(うつむ)いていた。
「将来は医者を目指しているんだって?」
どうやらここへ忍び込む口実として、天音はそんな作り話をでっちあげたらしい。嘘を吐かせたのが、なんだか申し訳なかった。
「先輩として、若者がそう考えてくれているのはとても嬉しいよ。今日はいろいろ説明してあげるからね」
とりあえず、感じがいい好青年に見えるように「あはは」と作り笑いを浮かべておいた。彼女のお父さんはこの仕事に誇りを持って取り組んでいるのか、ハキハキと、とても嬉しそうにB棟六階病棟の説明をしてくれる。
夢で見た通り、ここは小児科や眼科、消化器内科や消化器外科など、複数の診療科の混合病棟になっているらしい。その事実を知れただけでも、ここへやってきた甲斐があった。何も収穫がなかったら、天音に申し訳が立たないところだった。
子ども用の休憩室も見せてもらう。年月が経って全体的に色(いろ)褪(あ)せてはいたけれど、そこは間違いなく記憶通りの場所だった。医者になるつもりなんてないけど、夢で見た場所と同じ光景に興奮を覚える。
「僕はね、ここの小児科で働いているんだ。といっても、天音くんからもう聞いてるかもしれないけど」
「知らなかったです」
入院時に使用する子ども用の個室を見学している時に、お父さんが話してくれた。そもそも、病院に勤務していることすら今日教えてもらったんだから、知っているわけがない。天音はあまり家庭のことを話したがらないから。
ここへ連れてきてくれた当の天音は「疲れたから休んでる」と言って、先ほどの休憩室の椅子に腰を下ろしていた。長時間運動しても疲れを見せない彼女が、ここに来るだけで疲労するわけもないから、おそらくお父さんと距離を取ったんだろう。
「君は、工藤春希くんだろう?」
「そうですけど、それがどうかしたんですか?」
「覚えてないかな? 君がまだ小さかった頃、僕が診察を担当したこともあったんだよ」
驚いた。というか、ここへ来ることになった以上、過去に春希と関わりがあった人と会うかもしれないとは思っていた。けれども、それがまさか天音のお父さんだったとは。
「この前、家で会った時にもしかしてと思ったんだ。でも急いでるみたいだったから、聞こうにも聞けなくて。見違えるほど大きくなってたから、最初はわからなかったよ」
「……その節は、お世話になりました」
予想外のことにどういう反応を見せたらいいのかわからなくて、作り笑いしか浮かべられなかった。天音はこのことを、知っていたんだろうか。
「まさか君が、私の娘の恋人だなんてね。嬉しいよ。あの子は繊(せん)細(さい)なところがあるから、一緒にいると大変だろう」
「いえ、一緒にいて楽しいですよ。いつも笑ってますし」
本心だった。あれを繊細と形容していいのかはわからないけど、家庭と学校では天音の振舞い方が違うんだろう。
おそらくどちらが本物というわけではない。どちらもがその人の一部であって高槻天音なのだ。だけど家庭での一面しか知らないらしいお父さんは、やや驚いた様子を見せた。
「いつも、笑っているのかい?」
「ええ。笑っていない時なんて、珍しいくらいです」
答えると、お父さんはさりげなく廊下の奥へと視線を移した。向こうの休憩所にいる娘のことが気になるんだろう。おそらく、ここでの話し声は彼女の耳には届かない。
お父さんもそれを察して安心したのか、柔和な笑みを浮かべる。それは間違いなく、父親の表情だった。他人の家のことだというのに、俺はどこか安心していた。天音にも、ちゃんと心配してくれるお父さんがいるんだということに。
「よければ、詳しく教えてくれないかな。あの子が、学校でどんな風に過ごしているのか」
「それは本人に聞きましょうよ。家族なんですから」
「知っているかもしれないけど、あの子は学校が終わったらアルバイトを頑張っているんだ。僕の休日にも入れていることが多くて、話す機会があまりないんだよ」
それは言い訳だ。家族なんだから、一緒の家にいればいくらでも時間を作ることができる。いくら仕事が忙しくても、たとえば自分に息子や娘がいたとしたら、睡眠時間を削ってでも会話するだろう。それが、家族というものだから。
「今日は、アルバイトはないみたいですよ。僕、もうすぐ帰るので、やっぱり彼女に直接聞いてみてください」
お節介かもしれない。けれど娘のことをお父さんが大事に思ってくれているのなら、どちらかが歩み寄ることができれば、少しはいい関係が築けるかもしれない。
だから俺は決して、学校での天音のことは話さない。話をして、家庭の外で娘はちゃんと明るく振舞っていることを知ってしまうと、その事実に安心して余計に会話を放棄してしまうかもしれないから。
「……上手く、話ができないんだよ。これも娘から聞いたかもしれないけど、僕と天音くんは……」
「それ以上、言わないでください」
冷静に、お父さんの言葉を中断させる。
「家庭のことは、僕は何も聞いてません。彼女が何も話したがらないからです。だからお父さんから今ここで聞いてしまうのは、間違っていると思います。失礼なのは承知ですが、彼女にとっては恋人にも話すことができないほど、思いつめていることなんですから」
「やっぱり、そうだったか……」
何も知らないとは言ったものの、天音の母親を知っている橋本から、あの人は『毒親』だと聞いてしまったことがある。耳を塞いでおけば良かった。当人が隠していることを話されるのは、どちらにとってもいいことはない。むしろ自分のあずかり知らぬところで隠し事を吹(ふい)聴(ちょう)されていることを天音が知れば、傷付いてしまう。
「いや、本当に申し訳ない。春希くんの言う通りだ。私が勝手に話したと娘が知れば、もう口もきいてもらえなくなるところだった」
「いえ。若(じゃく)輩(はい)者(もの)が、わかったようなことを言ってすみません」
謝罪をすると、大の大人に頭を下げられてしまった。なんとなく居心地が悪くなって「屋上って、行けたりしませんか? 新鮮な空気が吸いたくて」と、さりげなくお願いしてみた。お父さんは、快くこちらのお願いを承諾してくれた。
屋上を見に行ってから、天音のいる場所へと戻る。待ちくたびれたのか、スマホでクロスワードパズルを遊んでいた。
「帰ろう、天音」
「ん」
適当すぎる返事をして、スマホをカバンの中にしまう。それから俺の隣に立っているお父さんのことを、横目でうかがうように見た。
「今日は、遅くなるんでしたっけ」
「いや、早めに帰ることにするよ」
「お母さん、今日はお父さんが遅いから輝(てる)幸(ゆき)と二人でご飯食べに行くってメールで言ってましたよ」
「それはもう間に合いそうにないから、お母さんに言わなくてもいいよ。たぶん天音くんの方が早く帰るだろうから、もし良かったらご飯を作っておいてくれないかな」
その発言が意外だったのか、固まったまま目を丸くした。
「……別にいいけど、珍しいですね。いつも買ってくるか外で食べるのに」
「彼氏には、前にご飯を御馳走したんだろ? お父さんは食べたことがないのに、ずるいじゃないか」
父親が冗談を言うと、天音は薄くだけど笑った。まだ家族の前でも笑えるんだということに、俺はホッとしていた。
「わかったよ。それじゃあ、なるべく早くお仕事終わらせてきてね」
「ああ。春希くんも、今日は本当にどうもありがとう」
案内をしてもらったのはこちらなのに、あらたまってお礼を言われると、なんと返せばいいのかわからなかった。だから「いえ……」と、曖昧に言葉を濁しておいた。
帰り道、天音は恐る恐る「お父さんから、いろいろ聞いたの?」と訊ねてきた。そのいろいろが、病院ではなく家庭のことを言っているのは、容易に想像できた。
「聞かなかったよ」
嘘偽りなく答えると、彼女は安(あん)堵(ど)したのか短く息を吐く。
「杉浦くんのそういうところ、私好きだよ」
「やめろよ、勘違いするだろ」
冗談めかして言うと、天音は吹き出して楽し気に笑った。
「別に勘違いしてくれてもいいのに」
「元の体に戻ったら、春希と泥沼になるから嫌だね。三角関係なんて、ろくなことがない」
「三角関係にならなければ大丈夫なんだ」
彼女はまた、お得意の揚げ足を取ってくる。元気になったようだから、仕方なくしばらくの間は付き合ってやることにした。
今日、杉浦病院に行ってみて、わかったことがあった。それは夢の中で見たB棟六階病棟も、宇佐美と初めて出会った休憩所も、確かにあの場所に存在しているということ。そして屋上から見た景色は、年月の変化によってところどころ細部は変わっていたけれど、間違いなく春希がナルミと出会った時に見た杉浦市の光景だった。
自宅まで付き添ってくれた天音は、そのまま真っすぐ帰るのかと思いきや「ちょっとお邪魔してもいい?」と訊ねてきた。理由を訊ねると「お母さんに、手を合わせたいから」と言った。
あまり迷わず、家の中へと上げた。父親は帰っていないようで、真っ暗だったリビングに明かりを灯す。いつも男だけの空間にクラスメイトの女の子がいるというのは、なんだか変な感じがした。
「男の人の二人暮らしなのに、案外片付いてるね」
「一応言っておくけど、それ普通に失礼だからな」
第一声を注意すると「ごめんごめん」と笑った。本当に、失礼だという自覚があるんだろうか。
普段はリビングに母親の写真が置いてあり、そこに向かって手を合わせていたけど、今日はそれを奥の仏壇が置いてある和室へと持って行った。いつも父親が綺麗にしているから、問題はないだろう。
作法なんてものはわからないが、とりあえず仏壇のわきに春希の母親の写真を置く。天音は手前に置いてあった座布団の上に正座した。俺は足を負傷しているため、胡坐(あぐら)をかかせてもらう。
「俺、春希の母親とも会ったことがあった」
「そうだったんだ」
「春希の病室で、リンゴを剥いてもらったんだ。たぶんそこら辺のスーパーで売ってるリンゴだったんだろうけど、夢の中の俺が美味しい美味しいって言いながら食べてた」
思い出すと、悲しくなってくる。目の前の写真の中にいる女性とは、もう一生会うことができないんだから。
天音は置かれていた短い棒を手に取り、お椀の形をした鈴を優しく叩いた。心安らぐ高い音が、室内にこだまする。ろうそくも、お線香もなかったけれど、手を合わせて目を閉じた彼女の姿は、とても様になっていた。
俺も、徐々に消えていく鈴の音を聞きながら、目を閉じて手を合わせる。この世界で、二人だけになってしまったかのような静けさに、それも案外悪くないなと思った。
「私、春希くんのことが羨ましいの」
音が止んで完全な静寂が訪れた頃、話を切り出してくる。
「お母さんを素直に愛せているのが、羨ましい」
「どうして?」
たぶん、今なんだと思った。茶化したりすれば、もう一生こんな風に身の上話を切り出してはくれない。そんな予感がしたから、珍しく自分の話をする気になった天音のために、今日は聞き役に回ることにした。
「なんとなく、もうわかってると思うんだけど、うちは両親が離婚してるの」
「それは、空気でわかったよ」
「本当は、それも悟らせないつもりだったんだけどね。あんなにも早く、お父さんが帰ってくるなんて思わなかったの」
そして、あんなに長く俺があの場に留まることを、想定していなかったんだろう。どうしてあの時間まで部屋にいたのか、振り返ってみてもよくわからなかった。
「それで昔さ、家庭内でいろいろなことがあって、二人のストレスが溜まっていって、お父さんの方が先に我慢の限界がきて、出て行く決断をしたの。私はその時、まだ小学生だった。どちらについていくかお母さんに聞かれて、言っている意味がよくわからなかった。答えが出ずに迷っていたら、お父さんが言ったの。しばらくしたらお前を迎えに行くから。その時になれば、また三人で一緒に暮らせる。だから今は、お母さんの元で暮らしなさいって」
思い出したくもない過去だろうに、声は酷く平坦だった。少しは声を詰まらせたり、悲しみで涙を流してもいいものなのに。
だからこれはもう、彼女の中では完結している話なのかもしれない。
「お母さんは?」
「お母さんと暮らすって言ったら、その時は泣いて抱きしめてくれたよ。お父さんが言ったことは、絶対にお母さんには話すなって言われてたから、話さなかったけど。でもそれからしばらくして、私の心の整理がつかないままお母さんは今の人と再婚して、結局お父さんは帰ってこなかった。子どもだから、わかってなかったんだよね。あの時言ってくれた言葉はただの方便で、私を置いていくためについた嘘だったってことに。それに気付いたのは、中学生の時だった。さすがに悲しくなって、思わず泣いちゃった」
言葉とは裏腹に、薄く笑みを浮かべる。その瞬間から、口だけの人と嘘が彼女は嫌いになったのかもしれない。想像していたよりも、ずっと悲しい経緯に心を痛めた。
一度身の上話を打ち明けると、せき止めていた心のダムが決壊したのか、矢継ぎ早に話を続ける。必要以上に重苦しい雰囲気にしないためか、無理に笑顔を見せようとする姿が、とても痛々しかった。
「……家族仲が上手くいかないのはね、半分以上は私のせいでもあると思うの」
「どうして?」
「いつまでも、私があの人に心を開かないからだよ。いきなり他人同然の人が家の中に入ってきたら、誰だって戸惑うでしょ?」
「まあ、そうなのかも」
「ごめんね、こんなこと聞いて。とにかくさ、私はスタート地点から友好関係を築くのに失敗して、あの人とは今までずっと、なんとなく距離があるのよ。それもあって、お母さんとも上手くやれてない。なんというか、ただの反抗期が周りの子より随分早くにやってきて、今もずっと続いてる、みたいな。笑っちゃうよね、こんな話」
「笑えないよ」
天音は反抗期だと言って片付けたけれど、それはこれまでの数年間、ずっと片時も手離すことなく抱えてきた大きな悩みだ。本来、一番心の休まるべき場所であるはずの空間が、ある日を境に一変したんだから。笑えるわけが、なかった。
「……これでもさ、環境を変えるためにいろいろ頑張ったんだよ。高校生になってからアルバイトを始めたのも、それが理由。たくさん遊びに行くのは、一分一秒でもあの家から遠ざかりたいから……それでも、嫌いなわけじゃないの。ただ、再婚相手の子どもが生まれた時からずっと、私の居場所はあそこじゃないって強く感じるの……本当に、みんなのことが嫌いなわけじゃないのに、弟だって幼稚園に通うようになって、宝石みたいにかわいいのに、心がずっとモヤモヤしてて、上手く振舞えなくて。あの家は、高槻の人の家なんだって思うと、とっても辛くて……」
「もういいよ」
優しく、肩に手のひらを乗せた。壊れた機械のように次々と言葉を発していく彼女の姿を、これ以上見ていることができなかった。半分乱れていた息を、彼女は整える。もう、とっくに壊れかけているんだろう。彼女の世界も、心も。それに気付いてあげられなかったのが、悔しかった。
「……ごめん。お母さんの前なのに」
「きっと、春希に彼女ができたって喜んでるよ。たぶん、そういう人だから」
心配はしているかもしれないけど。
「たぶん、正解なんてないんだよ。世の中にはいろんな家庭があるから。だから隣の家をうらやんで、無理に自己否定しなくていいと思う。過干渉気味で、放っておいて欲しいと思う子どもだって、それこそどこにでもいると思うんだ。このままじゃダメだと思って、ずっと家族のことを考えている天音は、そういう意味では立派だと思うよ」
「……立派、なのかな。全然、そうは思えないけど……だって、一刻も早く家を出て、一人立ちしたいって考えてるから。すごく、親不孝な娘だよ……」
「考え方を変えてみなよ。別に、親孝行なんていつでもできるんだから。それこそ、天音がいろいろなことを許せるようになって、もっと大人になった時とかさ。その頃になれば、きっとあのお父さんは、二十を超えた娘とお酒を飲みたいなと思ってるよ。弟は学生になってスポーツを始めてるかもしれないから、もしそうならたまの長期休みに帰った時は、天音がわかりやすく教えてあげればいいんだ。お母さんだって、久しぶりに娘の顔を見れたら、きっと嬉しいと思う。上手く言えないけどさ、家族ってそういうものなんだよ。きっと」
なんでいつもポジティブなのに、自分のことになると途端に自信をなくすんだよ。天音にそう言ってやりたかった。
あれだけ一緒にいたのに、彼女の本質に気付いてあげられなかった自分を、殴りたかった。
「……君は、私のお母さんのことを悪く言わないんだね。康平から、あんな説明をされてたのに」
「なんだ、聞いてたのか。地獄耳だな。知らないふりして隠してたのが、馬鹿みたいじゃん」
「……康平は、人の悪口を話す時は声が大きくなるから」
必要のない言葉なんて、人の耳に届かなければいいのに。
「親なんだから、いい大学へ行って、いい会社に就職して欲しいと思うなんて、当然のことだろ。別にあれだけ聞いて、そりゃあちょっとは大丈夫かなって気にしちゃうけど、見たこともない人の判断なんてできないよ。家族ですら、長年一緒にいてもわかんないことがあるんだから」
だから自分の目で見て判断しないと、とんでもない勘違いを起こしてしまうこともある。それでも、わからないことだってある。大好きな人の救いになりたいがために、錯覚で悪を作ってしまったりだとか。信用していたのに、裏切られたりだとか。
決して、目で見えることや聞こえることだけがすべてというわけじゃない。誰の心の中にも、その人なりの正義という名前の大切なものが存在するんだから。
「とりあえず、今日はもう帰りなよ。お父さんの夕食、作るんだろ?」
「あ、そうだった」
「忘れてたのかよ、しょうがない奴だな。言っとくけど、作り終わったら一緒に食べるんだぞ。自分の分だけ持って自室に引きこもるとかなしだからな」
「え、なんで……? 一緒にいても私、あの人とは上手く話せないし」
「そっちこそ、なんでだよ。何も酷いことされてないのに。クラスのみんな、友達なんだろ? それなら、いつも通り振舞ってれば、何も問題ないじゃん」
「だってあの人は、友達じゃなくて家族だから」
「そんな風に、心の中で決めつけるのが良くないんだって。まずは友達からって、よく言うだろ? みんなのお父さんとお母さんだって、最初はそういう関係だったんだからさ。自分なりのペースで、自分なりのやり方でゆっくり距離を縮めていければそれでいいんだよ。それこそ、正解なんてないんだから」
このアドバイスが正しいかなんて、無責任だけど俺にはわからない。けれど病院でお父さんと話をした限りでは、天音に害をもたらすような人には見えなかった。だから本当に、どちらかが歩み寄れば解決する程度のことで。ここで俺があれこれ彼女に吹き込まなくても、お父さんの方から今日は動き出すんだろう。
けれど機が訪れるのを待っているんじゃなくて、天音には自分から動く意思を持って欲しい。待てば相手が変わってくれることを覚えてしまったら、一番大事な時に動くことのできない人になってしまいそうだから。そんな情けない奴には、なって欲しくない。
「……正解なんてない、か。確かに、君の言う通りだね」
いつの間にか天音の瞳には、決意の色が芽生えていた。
それから比較的落ち着いた彼女を見送るために玄関へ行くと、ちょうどスーツを着た春希の父親が帰ってきた。俺たちを見て、案の定目を丸くする。
「言ってくれれば、天音さんの分もご飯用意したのに」
「いえ、お言葉だけありがたく受け取っておきます。今日は、家に帰って親孝行をしたいので」
「親孝行か。それなら、無理に引き止めるわけにはいかないね。今日はお母さんに手を合わせてくれたの?」
「はい。来られて良かったです」
「ありがとね。今度はご飯を御馳走するよ」
「その時はまた、お言葉に甘えさせていただきます。もしよろしければ、お墓にも手を合わせさせてください」
余(よ)所(そ)行きの大人びた笑顔を見せた天音は「それじゃあ、また明日学校で」と言って、いつものように手のひらを開いて閉じるという独特の挨拶をした。こちらも同じように返して見送った後、お父さんが「あの子は、どこかお母さんに似ているね」と言った。
「どこが?」
「仕草がお母さんと一緒だっただろう? それに、どことなく雰囲気も」
そういえば夢の中で、お母さんは春希に同じ仕草を見せていた。雰囲気が似ているのかまでは、俺にはわからないけど。