咲子が帝の妃となり、桐壺を賜ったことは後宮でも大きな噂となった。妃たちに少しも興味を示すことのなかった帝が、梨壺の女御の下女であった咲子を妃に迎えたばかりか、梨壺の女御を後宮から追い出してしまったというのである。当然咲子への関心は強くなり、自然と風当たりも強くなった。
「きゃぁ!」
 咲子が桐壺を賜った翌朝、桐壺から出ようとした女官が悲鳴を上げた。咲子が近づくと、女官は青い顔をして振り返った。
「どうしたのです」
「桐壺の更衣、廊下がこのように……」 
 見れば雨が降ったわけでもないのに酷く廊下が汚れている。意図的に泥を撒いたかのように、床は土にまみれていた。
 誰がこんなことを……。
「掃除をしましょう。問題ありません、すぐに綺麗になりますから」
 そう言うと咲子は自ら掃除をし始めた。
「いけません、私たちがやりますから、更衣はお部屋の中に」
 女官は慌てて咲子の手から雑巾を取り、廊下の掃除を始める。あっという間に汚れは取れ、もとの綺麗な廊下に戻った。
しかし、翌朝、咲子が桐壺を出ようとしたところ、昨日に続いて今度は生きた虫や死んだ虫が廊下にばら撒かれていた。這いまわる虫たちに、女官たちは青い顔をした。
 酷い嫌がらせ……。慶子様のときにもこのような嫌がらせが何度かあったけれど、ここまでの数とは……。気持ちが悪いけれど、片付けないわけにはいかないわ。
 部屋付きの女官たちが気味悪がる一方で、咲子は淡々と片付けを始める。
「更衣、わ、私たちが片付けますから……」
「大丈夫ですよ。慣れておりますから」
 慶子様に何度も虫取りをさせられたもの、みんなよりは慣れているわ。死んでいるものは埋めて、生きているものは逃がしてあげないと。
 慶子に虐げられていた日々で虫の類にも慣れていた咲子ではあったが、さすがにこうも大量にあると気分が悪くなる。
 これはさすがに誰か一人の仕業ではない。
 女官と一緒に廊下の片づけを終えた咲子はそう思った。
 その後も、部屋を空けているうちに調度品を壊されたり、すれ違いざまに着物をわざと汚されたりするのは日常茶飯事。時には帝からの贈り物を盗まれることもあった。

 帝が何の後ろ盾もない自分を妃に迎えたことで多少の嫌がらせが起こることは咲子にもわかっていた。
 当然帝にも予想できていたことだろう。だからこそ、その寵愛ぶりがこれ以上目立たぬようにと、咲子を表立って閨に呼ぶことはせず、代わりに帝自身が夜中に忍んで桐壺を訪れてくれていたのである。
 私への嫌がらせは仕方がないわ。私を妃に迎えたことで、帝になにかご迷惑が掛かっていなければよいのだけれど……。
「桐壺の更衣、毎日のようにこのような嫌がらせ……。一度帝にご相談してみてはいかがでしょうか?」
 女官はそう進言してきたが、咲子は気丈に首を横に振った。
「この程度、痛くもかゆくもありません。他のお妃たちが私を面白く思わないのも当然のこと。帝に心配をかけるようなことではありません、私が片付ければよいだけの話です」
 咲子は心配する女官に笑顔を向けてから、頭を下げた。
「あなたたちには嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。ですが、今一度辛抱してください」
 私に仕えてくれているばかりに、女官たちには迷惑をかけてしまう。可能な限り自分で対処していかないと。
 咲子は桐壺付きの女官たちに申し訳なく思った。
  夜になると、咲子はそっと部屋を抜け出し庭に出る。深い藍色に染め上げたような空で淡く輝く月を見上げていると、誰かの足音が聞こえてくる。
「今夜もよい月だ」
「帝、ようこそおいでくださいました」
「あぁ、こうやって咲子に会う時間が、私にとって何よりも貴重なのだ。可能な限り毎晩来る」
「とても嬉しいです。私にとっても、帝とお会いできるこのひと時が、何よりも大切なのですから」
 帝の訪れに、咲子は笑顔を見せる。
 毎夜毎夜、咲子は帝と他愛無い話をするこのひと時を大切に思っていた。この時間さえあれば、どんな嫌がらせにも耐えられると思えたのである。
 帝の言葉を聞き、帝も同じ気持ちでいてくれることがわかると、嬉しくてたまらなくなる。
「そういえば、私が飼っている鶯が再び美しい声で鳴くようになったのだ。こちらまで聞こえてくるだろうか?」
「はい、鶯の可愛らしい声がこちらの桐壺まで聞こえてまいります。帝の飼い鳥なのですね」
「あぁ、しばらく怪我をしていたので、治るまで鳴き声を聞くことができなかったのだが、最近また美しい声を聞かせてくれるようになった」
 帝が鶯の話を始めたので、咲子は以前助けた鶯のことが気になった。
「私も、以前傷ついた鶯を預かっていたことがあります。可愛らしい男の子が見つけて連れてきたのです。烏にでも襲われたのか、大きな傷を負っておりましたので手当をして……きちんと治るまで見届けたかったのですが、治りかけたところで逃げてしまったのです」
 心配そうに話すと、帝は驚いたような表情になってから、納得したような表情になる。それから明るい声で咲子に話しかけてきた。
「やはり! 私の鳥を手当してくれたのはあなただったか。以前梨壺の女御が自分が手当をしたと言っていたのだが、彼女は鶯に少しも興味を持たなかったので不思議に思っていたのだ。鶯に会わせろというから呼んだというのに。なるほど、咲子の手柄を横取りしていたというわけか」
 咲子が鶯の手当をした本当の相手だとわかると帝は嬉しそうに目を細めた。
「咲子に褒美を取らせなければいけないな、何か欲しい物はないか」
 問われて咲子は首を横に振った。
「私はこうして帝と一緒にいられるだけで幸せなのです。他に望むものなどあるはずがありません」
「だが……」
「どうしてもと仰ってくださるなら、私ではなく鶯を見つけた男の子に何か贈って差し上げてください。六つほどの可愛らしい子供で、千寿丸と名乗られました」
「なるほど、では千寿丸にも褒美を与えてやらねばならないな。あの子が咲子と面識があるとは知らなかった。千寿丸は少々やんちゃではあるが、賢い子なのだ。まだまだ幼いが人を見る目に長けているのだろうな、咲子に鶯を託したのは英断だ」
「私に鶯を託してくれたのはたまたまですが、とても利発そうな男の子でした」
「欲しいものがないというのなら、咲子には私の方で褒美を考えておこう。どうか受け取ってほしい、私が贈りたいのだから」
「いえ、私は本当に何も……! もう十分すぎるほど贈っていただいておりますから」
「そう言うな、私が贈りたいのだと言っただろう」
「……そうですか。では、帝が何を選んでくださるのか、楽しみにしております」
 なによりも帝が私のためにと考えてくれるのが嬉しい。
 咲子は帝の好意を快く受け取ることにした。月がゆっくりと空を渡っていく。しばらく談笑し終えると、帝は名残惜しそうに咲子を見つめてから重たい腰を上げた。
「そろそろ戻らないと怪しまれるな。明日の夜にまた来る」
「お気をつけてお戻りになられてください」
 離れがたいと思ってはいけない。笑顔で見送らなくては……。
 咲子は何度も振り返る帝の姿が見えなくなるまでその背中を見送った。
 その翌日から、咲子のもとに今まで以上に多くの贈り物が届けられるようになった。
「桐壺の更衣、ご覧ください。帝からお着物が届きましたよ」
「先日は珍しい菓子、その前は豪華な香炉でしたね」
「扇や髪に飾る日陰(ひかげ)(かずら)もありましたよ」
 今までは調度品や菓子など、他の妃から目立たぬようにと配慮して届けられていた贈り物であったが、鶯の一件で咲子に贈り物をする口実が出来たと思ったのだろう。最近では豪華な着物や装飾品が届けられるようになった。
「帝の桐壺の更衣への寵愛の深いこと」
「本当に、他のお妃に遠慮なさって閨に呼ばれないのが残念ですね」
 咲子付きの女官たちはそう言って喜んだが、他の妃たちがそれを面白く思うはずはない。廊下を歩いていれば、楽しそうに笑い合っている妃たちの声も聞こえてくる。
「おや、あれは梨壺の女御の下女ではありませんか」
「今は桐壺の更衣になられたようですよ」
「いったいどのように帝に取り入ったのか、お話を伺いたいものですね」
「ですが、大層生まれが卑しいそうではありませんか、私たちとは話が合いませんよ」
 くすくすと、扇の向こうから咲子を馬鹿にするような声が聞こえてくる。妃たちは暇を持て余しては幾人かで集まり、宴を催しては楽しんでいるようであったが、咲子に声がかかることはただの一度もなかった。
「きゃぁ!」
「どうしたのですか」
 あくる日、贈り物の包みを開いた女官が悲鳴を上げ、慌てて包みを包み直した。そのまま包みを床に置くと、怯えたような顔を両手で覆っている。
「な、なんでもございません! 更衣はご覧にならないでください。決して!」
 こんなに怯えて……一体何が届いたというのでしょう。
 咲子が置かれた包みを見ると、端が赤く染まっている。つなぎ目からは紐ような長い物がはみ出ていた。なにかの尻尾のようだ。
「これは、ネズミでしょうか。可哀そうに……」
 私に嫌がらせをするために殺されたのかもしれない……。
「いけません! 穢れがうつります」
「大丈夫ですよ、土に還すだけですから」
 咲子はそっと包みを手に取ると、庭に出る。自らの手で土を掘り返し、ネズミの死骸を埋めた。
 このように帝からの贈り物に混じり、生きた虫や動物の死骸、時には呪いをかけたような形代(かたしろ)なども届くようにもなったのである。
 咲子は気味の悪い形代を手に、ぐっと奥歯を噛みしめた。
 これほどまでに憎悪の込められた品々が届くなんて……。でも、私が怯えてはいけない。
「帝の目に触れたら余計な心配事を増やしてしまうかもしれません。早々に処分してしまいましょう」
 気味悪がる女官たちに代わり、咲子自ら嫌がらせの品々を処分することも多々あった。

 咲子がいつものように虫の死骸を片付けようとしていると、いつかの男の子がひょっこりと顔を見せた。千寿丸だ。
「咲子殿、お久しぶり! 桐壺の更衣になられたと聞いたよ。お庭で何をしているのですか?」
 千寿丸は興味津々に咲子の手元を覗き込む。
「部屋の中で虫が死んでおりましたので、埋めているのですよ」
「ふーん、こんなにたくさんですか? この前はネズミを埋めていたんじゃない? 猫が掘り起こしていたのを見ましたよ。部屋の中でネズミが死んでいたの?」
「あらあら、見つかってしまいましたか」
 千寿丸様を怖がらせるわけにはいかないわ。
 まさか他の妃たちからの嫌がらせの品だとは言えるはずもない。咲子は曖昧な笑顔を浮かべると、千寿丸に部屋へと上がるよう促した。
「よろしかったら少し遊んでいきませんか? 水菓子(みずがし)もお出ししましょう」
「本当? 今日は咲子殿にお礼を言いに来たのだけど、ご馳走になっちゃおうかな」
「お礼ですか?」
「はい、帝に私のことを話してくれたんでしょう? 帝が鶯を助けてくれてありがとうと、私のことを褒めてくださいました。私はまた勝手に後宮で遊んでいたのがばれるのが嫌で黙っていたのです」
「あら、それは大変。私が帝に千寿丸様のお名前を伝えてしまいました、叱られませんでしたか?」
「全然、言ったでしょう? 褒められましたと。おまえのやんちゃもたまには役に立つものだと笑っておられました。これで私は堂々と後宮を遊び回われるし、咲子殿にも堂々と会いに来られる。ありがとう咲子殿」
「いいえとんでもない」
 千寿丸は桐壺に入ると咲子と向かい合って行儀よく座った。
「咲子殿、貝覆いはできますか? 一緒に遊ぼう、新しい貝を帝にいただいたのです」
「はい、では勝負いたしましょう」
 千寿丸は持っていた包みの中から美しい絵の描かれた貝を取り出して外側を上に並べていく。咲子も手伝い、全ての貝が並べられると、千寿丸はポンと手を叩いた。
「さあ、咲子殿、勝負ですよ!」
 千寿丸に勝たせてやろうと手を抜くつもりであった咲子だが、千寿丸は器用に二枚の貝を当てていくものだから、手を抜く必要など少しもなかった。
 とてもお上手だわ。帝が仰っていた通り千寿様はとても賢いのね。
 真剣にやっても負けてしまいそうである。咲子は純粋に貝覆いを楽しんだ。
「本当にお強いのですね、敵う気がしません」
「そんなことありませんよ。咲子殿は私が一緒に遊んだどの大人よりも上手だ」
「褒めてくださり光栄です。さぁ少し疲れましたよ、休憩にしましょう」
 女官が運んできてくれた水菓子を千寿丸に勧めると、千寿丸は嬉しそうに櫛状に切られた桃を口へ運ぶ。すっかり桃を食べ終わると、千寿丸は貝を片付けながら咲子を見た。
「ねぇ咲子殿、ときどき遊びに来てもいいですか?」
「もちろんです、ぜひいらしてください。私も千寿丸様がいらっしゃると楽しいですから」
 答えると千寿丸は年相応の笑顔になる。
「ありがとう咲子殿! また来ます!」
「千寿丸様、あぁ、そちらはお庭ですよ!」
 咲子が手伝って貝を片付け終えると、千寿丸は廊下ではなく庭の方へと駆けて行った。咲子が止めるのも聞かずにあっという間に茂みの中に消えてしまう。
「帝が仰る通り、やんちゃですね。とてもお可愛らしい」 
 咲子は千寿丸が走り去った茂みを見て楽しそうにつぶやいた。歳の離れた弟が出来たようで咲子は嬉しい気持ちになっていた。ただ、自分のところに遊びに来ることで千寿丸が母親に怒られないだろうかと心配になる。
「千寿丸様のお母様はどなた様かしら? 帝にはまだお子はいらっしゃらないと聞いているのだけど」
 咲子がそばに侍っていた女官に尋ねると、女官は俄かに驚いたような表情になった。知らなかったのかとでも問いたそうな表情だ。
「千寿丸様は先帝のお子、現東宮(とうぐう)様でございますよ」
「まぁ! 東宮様でしたか。そうとは知らず、何か粗相があったかもしれません」
 不安そうにつぶやく咲子を安心させるように女官はほほ笑む。
「大丈夫でございますよ。とても楽しそうなご様子でしたから。東宮様はあのようにやんちゃで時々他のお妃様のもとにも顔を出すのですが、皆様扱いに困っておられて、東宮様もそれを察しているようであまり長居はされないのだそうです。今日のように水菓子までしっかりと召し上がることはないと思います」
「貝覆いなども叔父であられる帝、もしくは龍の中将様が付き合っておられるのではないかと」
「そう、なにがお好きか聞いておけばよかった」
「あのご様子ですと日を置かずにすぐにいらっしゃると思いますよ。帝と東宮様で桐壺の更衣の取り合いになりそうですね」
 女官が予想していた通り、千寿丸は翌日も翌々日も、毎日のように桐壺を訪れるようになった。すっかり咲子に懐いてしまったようである。
「咲子殿、今度面白い絵巻物を持ってくるから一緒に読みましょう。私はまだまだ読めない文字が多いのです」
「では一緒に勉強いたしましょう。私もきちんとした教育は受けておりませんから、千寿丸様が私に教えてくださると助かります」
「本当ですか! じゃあ私も一生懸命学んでおくよ。私が咲子殿の先生になってあげます」
 なんて可愛らしいのだろう。
 咲子は千寿丸と会話をするたびに心の中が温かくなるのを感じた。仲良く過ごす二人を見て、女官たちも本当の姉弟のようだと目を細める。
 二人が向かい合って笑っていると、突然廊下から足音が聞こえた。足音は桐壺の前で止まる。乱暴に扉が開かれると、見かけない壮年の男が姿を覗かせた。白いひげの生えた赤い顔には、ギラギラと獲物を睨みつけるような双眼がついている。
 男は現朝廷を牛耳る左大臣であった。突然の左大臣の来訪に、女官たちは慌てて咲子を御簾の向こうへと連れて入った。一緒に千寿丸も隠れる。
 慌てふためく咲子たちの様子に、左大臣は白々しく大きな声で独り言のようにつぶやいた。
「そうか、最近いたく身分の低い女が帝に取り入って妃になったのだったな。桐壺は長く空いていたから忘れていた」
 それから取り繕うかのように丁寧な口調になって、咲子がいる御簾へ向かって声をかける。
「桐壺の更衣、こちらに東宮様はおられませんか。これから私と会う約束をしていたというのに、どこにも見当たらないのです」
 咲子は千寿丸へと視線を向けると、千寿丸は助けを求めるような目で咲子を見ていた。咲子はしがみついてくる千寿丸の体を優しく抱きしめる。
 左大臣に会いたくないんだわ。こんなに震えてお可哀そうに……。
「東宮様はこちらにいらっしゃいます。ですが、体調が優れぬ様子です。どうか今日はご容赦ください」
 咲子が答えると、左大臣は桐壺の中をぐるりと見回す。
「なるほどなるほど、話に聞けば、東宮様は毎日のようにこのような場所に出入りをしているようだ。教養もなく、卑しい身分の者と長い時間をお過ごしになって体に障りが出ているのでしょう。どうぞ、今度は私の娘の居る藤壺へお越しください。藤壺は東宮がお住いの梅壺の隣りに位置しますし、桐壺では味わえないような珍しい菓子を用意させて待っております」
 左大臣は御簾越しに咲子のことを凝視した。咲子のことを見下しているのだ。帝が自分の娘のことを見向きもせず、新しく咲子を妃として迎え入れたのが面白くないのだろう。
「今は帝も物珍しさから構っておいでのようだが、それもいつまで持つことか。後宮に居られる短い日々をせいぜいお楽しみください、桐壺の更衣」
 咲子に向かってそう言うと、左大臣は含み笑いを浮かべる。
「咲子殿の悪口を言わないでください」
「私はよいのです」
 千寿丸が怒りを露わにすると、咲子が慌ててなだめた。左大臣は東宮の怒りなどさほど気にした様子もなく、ふんと鼻を鳴らす。
「東宮様、桐壺がお懐かしいのはわかります。ですがお母様はもうこの世におりません。あなたもいつまでも幼い子供のように甘えておらず、勉学に励むのですよ。今日のところは帰ります。また日を改めて参ります」
 左大臣が帰ってしまうと、千寿丸は思いっきり舌を出して見せた。その目に大粒の涙が溜まっているのを見て、咲子は千寿丸を抱きしめる。
 こんなに幼いのにお母様もお父様もお亡くなりになって、千寿丸様はお寂しかったに違いない。桐壺に強い思い入れがおありなのも当然のことだわ。
「桐壺は、お母様がいらっしゃった場所なのですね」
 尋ねると、千寿丸は小さく頷いて咲子にしがみついた。
「お母様は、ご病気で……私がもっと小さいころに……」
 父と母を早くに亡くし、さぞ不安だったことだろう。咲子には千寿丸の悲しみがよくわかった。
「お一人でよく頑張られました。健やかにこんなに大きくおなりになって、お母様もお父様も大変お喜びのことと思います」
 咲子の言葉に千寿丸は大きな瞳に涙を浮かべながらも笑顔になる。
「そうかな? だってもう死んでしまっていますよ」
「お父様とお母様は、いつも千寿丸様のお傍にいらっしゃいます」
 咲子は幼い日の帝のことを思い出した。千寿丸の小さな手を取ると、その胸に当ててやる。
 あの頃の帝も、お寂しかったに違いない。計り知れない寂しさに、お一人で耐えていらっしゃったのだ。
「お母様もお父様もここにいらっしゃって、いつも千寿丸様を見守っておいでですよ」
 千寿丸様の寂しさが、少しでも薄れますように……。
 ドクドク鳴る自分の心臓の音を聞いて、千寿丸は涙を飲み込んだ。そして目に強い光を宿す。
「ありがとう咲子殿、元気が出ました。さっきは嫌な思いをさせてごめんなさい。今日は単に遊びに来たのではなくて、左大臣が嫌で逃げて来たのです」
「私でよければいつでも守って差し上げますから、なにかありましたらこちらに逃げていらっしゃいませ」
「ありがとう。今日は戻ります。これから勉強して、咲子殿に色々教えてあげますから」
 元気を取り戻した千寿丸は涙を拭くと桐壺を後にした。千寿丸が去ると、左大臣の言葉が脳裏によみがえる。
『今は帝も物珍しさから構っておいでのようだが、それもいつまで持つことか。後宮に居られる短い日々をせいぜいお楽しみください』
 大丈夫、私は帝を信じている。帝が心変わりされることなどあるはずがない。
 そうは思っていても、咲子の存在は後宮に置いてかなり危ういものだ。他の妃たちからはよく思われず、後ろ盾はなにもない。ただただ、帝の寵愛だけが咲子を妃にしているのある。
 帝の愛を疑うわけではない。だが、自分が後宮にいることで、帝が不利な立場になるのではないかということを懸念していた。咲子への愛が深ければ深いほど、左大臣は帝のことを面白く思わないかもしれない。
 どうか、帝にご迷惑が掛かりませんように……
 咲子は強くそう願った。
「どうした、浮かない顔をして」
 今夜も、辺りが寝静まってから帝が桐壺を訪れていた。帝に声をかけられた咲子は、はっとして顔を上げる。
「すみません、少し考え事をしていました。その、帝のことを……」
「私がそばにいるというのに?」
「すみません、おかしいですよね。少し、心配なことがあるのです」
「私のことを考えてくれるのは嬉しいのだが、心配なことというのが気になる。昼間に何かあったのか? そういえば、最近千寿丸があなたのもとを訪れているようだ。私のもとに来ればあなたのことばかりを話していく。私が仕事をしている間に千寿丸がここを訪れていると思うと少し妬けてしまうな」
「千寿丸様は六つの子供ですよ。本当の弟のように可愛いです」
 帝が不服そうな顔をするので咲子は言葉をつづけた。
「そんな顔をなさらないでください。私の身も心もあなたのものではありませんか」
「それは私も同じこと。帝という身分のせいであなたに不安な思いをさせるかもしれない、けれど信じて欲しい、私の目には、あなたしか映っていない」
 そっと肩を寄せ合って月を眺めているだけで、咲子は満たされた気持ちになる。空にはもうすぐ満ちる月が白く輝いていた。
 なんて、幸せなんだろう……。
「私は幸せです」
 咲子はそう思い言葉にした。だが、いつか、この満ち足りた気持ちも月のように欠けてしまうのだろうかと不安にもなる。
 どうか、この幸せが消えませんように……。
 俄かに過る不安を隠すように、咲子は帝に向かってほほ笑んだ。

 翌朝、帝が清涼殿で寛いでいると、龍の中将を伴った千寿丸が姿を見せた。どうやら中将は蹴鞠に付き合っていたらしい。
 汗だらけの千寿丸に手拭いを渡すと、汗をぬぐった千寿丸は「帝に申し上げたいことがあります」と畏まった。珍しく居住まいを正す千寿丸を、帝は興味深そうに見つめる。
「どうした、いつになく行儀がいい」
「はい、ぜひ叶えていただきたいお願いですので」
「どれ、話してみろ」
 帝に促されると、千寿丸は声をひそめた。
「咲子殿についてでございます」
 咲子と聞いて、帝御の心中は穏やかではなくなった。今やこの幼い甥は見ようによっては恋敵とも言えるのである。こんなにも幼い子供に対抗心を燃やさなければならないなど愚かしいと、普段の自分なら気にもかけないところだが、咲子のこととなると話は別である。
「咲子殿は他のお妃から嫌がらせをされているようです。どうか咲子殿を助けてください」
「咲子が、嫌がらせを?」
 帝は眉をひそめた。咲子への寵愛ぶりが顕著にならぬよう気を付けていたつもりである。当の咲子も幸せそうに見えた。毎晩話しているが、嫌がらせのことなど聞いたこともない。だが、咲子のことだから自分に心配をかけまいとしているのかもしれないと考えが及ぶ。帝は千寿丸の言葉に耳を傾けた。
「はい、宴などにも仲間外れにされているようですし、部屋に虫の死骸やネズミの死骸が届くこともあるようです。他にも先日は左大臣までもが咲子殿を馬鹿にするようなことを! 私は大変腹が立ちました」
 怒りで顔を真っ赤にする千寿丸を見ながら、帝は眉をひそめる。
 自分が無理に妃に迎え入れた経緯は他の妃たちはもとより、当然娘を皇后にしようと考えている左大臣にとっても面白くないだろう。咲子への嫉妬を少しでも軽減しようと、表向きは気に掛ける素振りを見せず、忍んで会いに行っていたというのに、あまり効果はなかったのかもしれないと、帝は悔やんだ。
 咲子が嫌な思いをしていることに気づきもせず、ただ会えることを喜んでいた自分に腹が立った。
 千寿丸から話を聞いた帝は、その夜も咲子のもとを訪れた。
「ようこそおいでくださいました!」
 自分の顔を見ると咲子は嬉しそうな顔を見せてくれる。千寿丸の話を聞く限り、他の妃や左大臣までもが咲子に辛く当たっているのだろう。だが、それを自分に愚痴ることなく、嬉しそうに迎えてくれる咲子があまりに健気に思えた。
 私に心配をかけまいと一人で耐えてくれているのだろう。
「咲子、辛いことはないか?」
 思わずこちらから尋ねてしまう。もしも咲子が辛いと言ってくれたら、どんな手を尽してでも妃たちを罰し、咲子を救いたいと思ってしまう。
 だが、帝の問いかけに咲子は笑顔を見せた。
「辛くなどありませんよ。それよりも、先日は見事なお着物をいただきまして、本当にありがとうございました。あのような上等な物には触れたことすらありませんでしたから、いつ着たらよいのか悩んでしまいました」
「それならば明日にでも着てくれ、私が見たい」
「そういうことでしたら、明日の夜に着なくてはいけませんね」
「では次はその着物に合う扇を贈らなければならないな」
「とんでもございません、もう十分すぎるほどいただいております」
「私が贈りたいのだ、私の楽しみを奪おうとするな」
 贈り物一つ、咲子に贈るなら何がよいかと考えるのも楽しいと感じる。自分がこんな風に贈り物を選びたいと思うようになるとは夢にも思わなかった。ただ、贈り方を気を付けねばならない。自分からの贈り物だとわからないよう贈るにはどうしたらよいのかと考えを巡らせる。
「咲子、私はあなたが恐ろしい」
「私がですか!」
「そうだ、あなたがいることで、自分がどんどん変化してしまうのが恐ろしい。この先、私はどうなってしまうのだろうな」
 嬉しい変化だと思いつつ告げると、咲子は目を丸くしてから深々と頭を下げてきた。
「申し訳ありません、私がそのように帝に悪い影響を及ぼしているとは露知らず、一人呑気にお妃になれたことを喜んでおりました……。もしかして、私はお邪魔でしょうか……」
「違う、そうではない! 私の言い方が悪かった。私は嬉しいのだ、自分がこのように変化していくのが嬉しい。嬉しくもあり、知らない自分を知るようで少し怖いのだ」
 自分の中に、こんなにも熱い感情があったのかと驚くばかりだ。思わず心配ごとが口をつく。
「千寿丸があなたのことを心配していた。他の妃から嫌がらせをされているようだと」
 帝の言葉に、咲子は困ったように視線を逸らせた。
 なるほど、千寿丸に感謝せねばならない。咲子が嫌な思いをしていることを見過ごすところだった。咲子は、自分が嫌がらせを受けているなど、私には悟らせないだろうからな――。
 帝は咲子を真っ直ぐに見つめると、揺れる瞳の咲子に告げた。
「嫌なことがあれば話してくれ。私が、必ずあなたを救う」
 帝の言葉に、咲子は首を横に振る。
「私は大丈夫です。慶子様から受けていたような酷い嫌がらせはありませんし、他のお妃様たちの気持ちもわかります。私だって、愛しい人を他の女性に取られたら、嫌がらせの一つでもしてしまうかもしれません。嫌がらせは、私が帝に愛されているという証拠でもあるのです」
 そう言ってにこやかに笑う咲子を、帝は抱き寄せた。
 そんな風に考えてくれるのか……。
「私に力がないばかりに、あなたに辛い思いをさせてしまう――」
「いいえ、なんの後ろ盾もない卑しい身分の私をお妃にしてくださったことは、十分にすごいことです。大変な無理を通してくださったのだと私にでもわかります。ですから、これ以上無理をなさろうとしないでください。私は、十分に満たされているのです」
 私は、なんと無力なのだ。愛しい人一人守ることができないなど……なんと弱い帝だろうか。
 帝は左大臣の影を恐れ、咲子を中宮へと押し上げられない自分を責めた。朝廷に置いて、帝の力は盤石ではない。どうしたって左大臣の顔色を伺わないわけにはいかないことが口惜しい。
「すまない咲子。もう少し、もう少しだけ待っていてくれ」
 なんとかして、左大臣の力をそがなければ……!
「はい、いつまででも。私は気が長いのです」
 今すぐに咲子を中宮にするわけにはいかない。だが、どうにかして咲子への嫌がらせを軽減させることはできないだろうか――。
 帝は考えを巡らせ、一つよい案を思いついた。
「咲子の人となりを知れば、少しは現状を変えられるかもしれない」
 独り言をつぶやくと、咲子が不思議そうな顔をしてこちらを覗き込んでいた。
「いや、一つみなと知り合うために、宴でも開いてやろうと思ったのだ。あなたのことを知れば妃たちは嫌がらせをやめる気になるかもしれない」
「そう簡単にいくとは思えません。私にそのような人徳はありませんし……」
「自覚がないのも困りものだな。そうと決まれば龍に話を付けてこなくては」
「中将様ももう眠りに就いておられますよ、帝も、そろそろお戻りになられてください、お体に障りが出てはいけませんから」
「本音を言えばこのまま桐壺であなたと一緒に朝を迎えたいくらいだ――だが、そんなことをしてはあなたへの風当たりもいっそうひどくなるかもしれない。今は辛抱して戻ることにする」
「お気をつけて、ゆっくりお休みになられてください」
「咲子も、ゆっくり休め」
 後ろ髪を引かれる思いで桐壺を後にする。
 こんな夜を、あと何度迎えたらよいのだろうか――。
 帝は小さくため息をついた。

 帝がすぐに話を付けてくれたのだろう。中将の手配で、瞬く間に後宮で宴が開かれることになった。参加できるのは女性だけと限定されていたのは、左大臣の邪魔が入らぬようにと帝が配慮したからだろう。
 川を模した小さな流れのある庭で催された宴には、以前のように後宮の女性たちが身分を問わず訪れた。
 初めて宴に呼ばれた咲子は、緊張した面持ちで宴の催される庭に姿を現した。目立たぬようにと、帝から賜った豪奢な着物ではなく、出来る限り質素な物を身に着けてきた。すると、咲子の姿を見た妃たちはこそこそと陰口を叩き始める。
「あれが噂の桐壺の更衣ですよ。以前は梨壺の女御に仕えていた下女だというではありませんか。帝に取り入って妃になったという」
「梨壺の女御を追い出してしまったのでしょう? なんて恐ろしい人かしら。いったい帝になんと言って言い寄ったのでしょうね。大人しそうな顔をして、ひどくたちの悪い人ですよ」
「ご覧なさい、あの粗末な着物。扇はきちんとお持ちかしらね。ご実家からの支援がないというのはわびしいものですからね」
「帝の寵愛も一時のことでしょう。すぐに後宮になど居られなくなりますわ」
 くすくすという笑い声とともに扇の影から聞こえてくる言葉などものともせず、咲子は凛とした佇まいで座った。席についた咲子を見て、陰口を叩いていた女御たちは口をつぐみ始める。 
 陶器のように滑らかな肌に、艶やかな黒髪。威張るわけではなく、それでも堂々と座る姿は非の打ちようがなかった。質素な着物に身を包んでいたとしても、咲子には生まれ持った華があった。 
「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。みなさま、どうぞよろしくお願いいたします」
 定刻より遅れて藤壺の女御が姿を見せ席に着くと、咲子は涼やかな声で挨拶をした。咲子の様子に、陰口を叩いていた女御や女官は押し黙り、藤壺の女御はふんと鼻を鳴らした。
 宴が始まり、和歌を読み合うようになったが、一向に咲子が歌を読む番にはならない。ようやく咲子が歌を詠む番になったかと思うと、すぐに(さかずき)を流される。おかげでろくに考える暇もないまま、どうにか形だけの歌を詠むにとどまった。
「桐壺の更衣はお歌が上手だと聞いておりましたが、大したことはありませんね」
「そうですよ、先ほど藤壺の女御が詠まれた歌と比べたら……。あぁ、比べるのも可哀そうになってしまいますね」
「私の歌も大したことはありませんよ、今日は気分が乗らなかったのでよいものが浮かびませんでしたから」
 上座でひと際豪奢な着物を着ているのが藤壺の女御だと咲子にもすぐに分かった。女御の周りには幾人もの女官や妃たちが寄り添い、咲子の方をちらりと見ては楽しそうに笑い合っている。咲子が話しかけようとしても、みんな咲子が見えていないかのように無視をした。
 せっかく帝が開いてくださった宴だというのに、誰一人として打ち解けることができない――。
 咲子は悲しくなってうつむいた。
 結局、他の妃たちと打ち解けることなど一つもできずに宴は終わった。藤壺の女御を筆頭に、妃たちが次々と帰っていく中、身分の低い自分が先に戻るわけにはいかないと、咲子はしばらくその場に留まっていた。 
 誰もが咲子のそばを通る際に嘲るように笑ったり、無視したりしながら帰っていく中で、一人の女御が声をかけてきた。
 実家が堀川にあり、堀川の女御と呼ばれる女だった。 堀川の女御は襲芳舎(しゅうほうしゃ)、通称雷鳴壺(かんなりのつぼ)に住まう女御である。
「お見事でした桐壺の更衣」
「いえ、とんでもございません。みなさまの歌の方がよほど素晴らしくて感動しておりました」
 咲子がそう返すと、堀川の女御は声を小さくしてささやいてくる。
「あのように短い時間では、歌の一つも作れませんよ。それなのに桐壺の更衣はきちんと歌を詠んでいらっしゃった、私は素晴らしいと思いました」
 堀川の女御がそう言って穏やかにほほ笑んだので咲子も笑みを返す。
「そのように仰っていただけるなんて……。堀川の女御はお優しいのですね」
「そんなことはありませんよ。他のお妃も藤壺の女御に遠慮しているだけだと思います」 
 優しく話しかけてくれる堀川の女御に、咲子は初めて友人が出来たかのような喜びを覚えた。
 もしかしたら、堀川の女御は仲良くしていただけるかもしれない――
 そんな咲子の思いに応えるかのように、堀川の女御は咲子に声をかけた。
「桐壺の更衣、もしもよかったら今度、私の住まう雷鳴壺にいらしてください。一度、あなたとはゆっくり話してみたいと思っていたのです。菓子でもつまみながら他愛無い話でもいたしましょう」
 堀川の女御の言葉に、咲子は嬉しい気持ちになる。
「ありがとうございます、ぜひ伺わせてください!」
 初めての誘いに、咲子は緊張しながらも喜んで頷いた。
 数日後、咲子は堀川の女御のもとを訪れていた。雷鳴壺の庭には霹靂(へきれき)の木と呼ばれる大きな木があった。桐壺とは雰囲気が違うが、趣のある庭だと咲子は思った。花が多く植えられているのは堀川の女御の好みかもしれない。いたるところから良い花の香りが漂ってくる。
 咲子が雷鳴壺を訪れると、堀川の女御は明るい声で迎えてくれる。
「ようこそ桐壺の更衣、さあお入りになってください」
「この度は招待してくださってありがとうございます」
「そう畏まらないでください、どうぞお寛ぎになってくださいね」
 雷鳴壺は柔らかな雰囲気のする部屋だった。堀川の女御の人柄だろう。堀川の女御は穏やかな口調で咲子に語りかけてくるので、咲子の緊張も次第にほどけてくる。
「実は、私も以前は他の女御にお仕えしていたのです。あぁ、ですが帝から直々に声がかかったわけではありません。私がお仕えしていたのは先帝のお妃様で、瑛仁帝が即位されたときに父が左大臣に頼み込んで無理矢理私を後宮に入れたのですよ」
 堀川の女御はそう言って朗らかに笑った。
「ですから他のお妃のように桐壺の更衣に対して敵対心も芽生えませんし、跡継ぎにも興味がありません。あぁ、こんなことを言っては父に叱られてしまいますね」
 ころころと笑う堀川の女御に咲子も笑顔を見せる。
「堀川の女御、声をかけてくださって本当にありがとうございました」
「そんなに畏まらないでください。私は桐壺の更衣とお友達になりたいと思っているのです」
 堀川の女御の言葉に、咲子は心の中が温かくなるのを感じた。
 嬉しい……! 私と友達になりたいと思ってくれる人がいたなんて。
 咲子と堀川の女御は互いに色々な話をした。
「私も、幼いころに実の父を病で亡くしまして、父方の伯父の家に貰われました。伯父は優しい方ですがやはり家族として馴染むまでに時間がかかりまして、桐壺の更衣の境遇には共感する部分が多かったのです」
「苦労されたのですね……」
「いえ、桐壺の更衣の方が計り知れない苦労をされたのだと察します」
 堀川の女御はなんてお優しいのだろう……。
 咲子は自分の境遇に寄り添ってくれる堀川の女御の言葉に感動を覚えた。今まで親しい友人など一人もいなかった咲子にとって、堀川の女御の存在はあまりに嬉しいものだった。
「桐壺の更衣はお歌だけでなく貝覆いもお上手ですし、とても聞き上手でいらっしゃるからついつい私の方も色々と話したくなってしまいます」
「いいえ、堀川の女御のお話が面白いのです。先ほどの大和国(やまとのくに)にいらっしゃった頃のお話や、伊勢国(いせのくに)でのお話も大変興味深かったです」
「そう言っていただけると話し甲斐があります」
 堀川の女御の父である堀川殿は咲子の父亡きあと都戻り、中納言となっている。左大臣派に属し、大臣の右腕のような働きをしているそうだ。
「美しい挿頭花(かざし)ですね」
 堀川の女御は咲子の髪に挿してある桐花を模した髪飾りを褒めた。帝が咲子の贈ってくれた挿頭花である。
「ありがとうございます」
「帝がお選びになったものなのでしょう? よくお似合いです」
「堀川の女御のその組紐(くみひも)もとても綺麗ですね、色も素敵ですし丁寧な作りです」
 咲子が堀川の女御が身に着けている組紐を褒めると、堀川の女御は嬉しそうに頬を染めた。
「ありがとうございます。これはとても大切な紐なのです」
 堀川の女御はそう言って大事そうに組紐を両手で包んだ。
 堀川の女御は穏やかな性格で、咲子と年も近く、咲子のことを身分で差別したりもしなかった。咲子も初めて出来た友達に心を開き始めていた。
 みんなが寝静まり、月が空を駆ける頃、いつものように帝が桐壺を訪れてきた。
「ようこそおいでくださいました」
「会いたかった。昨夜も会いに来たというのに、会えない昼間の時間がもどかしくなる」
「私もです」
 そっと寄り添うと、帝の体温を近くに感じて咲子は幸せな気持ちになる。
「今日は何かよいことがあったのか? 心なしか表情がいつもよりも明るい」
 帝が尋ねると、咲子はほほ笑んで頷いた。
「はい、帝が会いに来てくださいましたし、お昼には堀川の女御に声をかけていただいて一緒にお話をしました」
「堀川の女御か。彼女は咲子と年も近かったような気がするな、気が合うのか?」
「はい、帝が宴を開いてくださったおかげです。初めてお友達が出来ました」
 咲子が楽しそうに答えると、帝は少しだけ拗ねたような声を出す。
「おや、幼い頃の私のことは友と呼んでくれないのか?」 
「意地の悪いことを仰らないでください、幼い帝は私の初恋の相手ですから」
 咲子が頬を赤らめながら不機嫌そうな声を出すと、帝は咲子を抱きしめた。
「どうして、何度も何度も確認したくなるのだろう。あなたのことを思うと、愛しい気持ちと不安な気持ちが綯い交ぜになる」
 私も同じだ。帝も私と同じ気持ちでいてくれるなんて、なんて嬉しいのだろう。
「私も同じです。帝のことを思うと、愛しくもあり、また不安にもなります」
 帝は目を細め、そっと咲子の頬に触れてくる。夜の空気でひんやりと冷えた頬に、温かなぬくもりが伝わってきた。
「時折、あなたを鶯のように寝所の籠に閉じ込めておきたくなる。私だけの目にしか触れられないようにしたくなるのだ。あなたを信じているのに、どうしてこんなにも不安になるのだろうか、自分でもよくわからない」
「私は、鶯ではありませんよ。籠に入れなくても、逃げたりはいたしません。私は、私の意思であなたのそばにいたいのです。その気持ちは、未来永劫変わることはありません」
 咲子はそう言ってほほ笑んだが、咲子も同じように不安を抱えていた。帝の気持ちを信じていても、後宮ではより大きな力によって引き離されてしまうこともあるだろう。それは、咲子の思いだけではどうにもならないもの、帝の力ですら、どうすることもできないかもしれない。
 かつては二度と会えないと思っていた想い人に再会し、あまつさえ妃になることができた。これだけでも夢のようだというのに、人間というものは本当に欲深いものだわ。
 咲子は自分の中から溢れ出てくる願いを感じてそう思った。一度手に入れてしまうと、もう二度と帝と離れ離れになることなど考えられない。
「そろそろ戻らねばならない。明日も来たいと思うところだが、明日からしばらく物忌(ものい)みでこちらに来ることができないのだ。何かあったら女官から中将に伝えてくれ、必ず対応する」
「わかりました」
 今一度強く抱き合うと、帝は清涼殿の方へと戻っていく。空では満月を過ぎた月が、思い合う二人を静かに見守っていた。