彼女を一目見た瞬間、これまでの人生で一番強く、鼓動が跳ねた。

 僕は幼い頃から病気がちで、先週心臓の移植手術を受けたばかりだった。入退院を繰り返し、何とか二十五年続いた僕の人生は、当然恋愛や青春なんてものに縁はなくて。僕の世界は、たまに帰れる家と、病院の中庭、そして消毒の匂いがする白い病室だけだった。

 そんな閉じた世界が、たった一人の女性を前にして、一瞬にして彩られるのを感じた。
 たまたま僕の入院する病院に、ボランティアの慰問演奏に訪れていたピアニストの彼女。ピアノなんてものに欠片も興味はなかった筈なのに、気が付くと僕は音のする方へと向かっていた。

 遠くから聴こえる音色に吸い寄せられるように、迷うことなく懐かしの小児科病棟へと辿り着く。そして初めて間近に聴く生の演奏に、楽器の音というのはこんなにも全身に響くものなのかと驚いた。呆気に取られた僕は、患者の子供達や付き添いの看護師達に混ざって立ち尽くす。

 ピアノの演奏といっても、気取ったものではない。誰もが知っている有名なメロディーで、けれど子供向けの童謡を楽しそうに弾く表情も、白黒の鍵盤の上を踊るように跳ね回る指先も、リズムに合わせて身体を揺らす度さらさらと流れる長い髪も、彼女が生み出す一音一音も、全てが芸術作品のように感じられた。

 呼吸するのも忘れ、けれど鼓動はいつになく速いリズムを刻む。そんな不思議な感覚の中、ただ演奏に見入っていた。そんな夢のような時間の中、不意に近付いてきた白衣の女性に声を掛けられた。

「……あら、もしかして叶くん? 大きくなって!」
木崎(きさき)先生!? お久しぶりです……へへ、先月二十五歳になりました」
「まあまあ! おめでとう! 元気そうで嬉しいわ……ふふ、入院着なのに元気そうなんて言っちゃ悪いかしら」
「いえ、実は、移植手術をしたので来週には退院予定で……」
「そうなの!? あらまぁ……本当に、良かった……」

 朗らかな笑みと、良く通る声でオーバーなリアクション。小児科を出てしばらく経つけれど、昔の印象と全然変わっていない。木崎先生には、僕が物心付く前からお世話になっていた。皆の第二の母と言っても過言ではない、誰からも慕われるお医者さんだった。

 木崎先生の声が聞こえたのか、演奏に区切りが付いたらしいピアニストの彼女が、曲の紹介をしながらこちらを見て微笑む。
 それを見た瞬間、心臓がぎゅうっと締め付けられるような感覚がした。……初めての痛みだ。手術失敗とかではないことを祈ろう。

「ふふ。あの子、実は私の姪っ子なのよ。後で叶くんにも紹介するわね」
「えっ」

 その後も彼女の演奏は続き、終わる頃には僕のような他の病棟からのギャラリーも増えて、大盛況の内に演奏会は幕を閉じた。


*****


「初めまして。姪の木崎音彩(きさきねいろ)です」
「ねいろ……?」
「はい、本名なんですよ。……ふふ、如何にも音楽やります! って感じですよね」

 そう言って屈託なく笑う彼女は、木崎先生に少し似ている。指先にまで魂の宿るような演奏中とは、また違う雰囲気だった。

「まあ、私の場合、利き手を怪我してプロにはなれなかったんですけどね!」
「え……」

 あっけらかんと話す彼女の手首には、良く見ると袖に隠れた位置に大きな切り傷があった。思わずぎょっとするが、彼女は慣れているのか気にした素振りを見せない。
 怪我をした、とは言っているが、手首の切り傷だ。どうしても胸が苦しくなるような、嫌な想像をした。それでも、やはり目が離せない。

 傷とはアンバランスな彼女の明るい笑顔も、少し高めの声も、僕を見上げるのに首を動かすとさらりと肩から流れる長い黒髪も、彼女の全てにときめくのを感じた。鼓動が煩くて、心臓が爆発しないかとドキドキを通り越してひやひやする。

「お兄さんのお名前は?」
「あ、その……叶、です。逢坂叶(おうさかかなえ)
「かなえ……は、どんな漢字なんです?」
「願いを叶えるの叶です」
「わあ、素敵な名前ですね!」
「……ありがとう」

 同世代の女性と話すことなんて、それこそ同じ入院患者か、看護師相手にくらいしか経験がない。何処までも元気で可愛らしい彼女相手に、緊張で気の利いた話なんて出来なかった。……のだが、にやにやと僕達の会話を見守っていた木崎先生の御膳立てもあり、僕達はその場で連絡先を交換することになった。そして、退院までの一週間。暇ではないだろうに、彼女は実に三度もお見舞いに来てくれた。

 音彩に会う度に、スマホにメッセージが届く度に、あの日の彼女の音色を思い出す度に、僕の一部になったばかりの心臓は、僕の気持ち以上に反応した。

 最初の頃は、新しい心臓の元気ぶりを素直に嬉しく感じたし、これも彼女への恋心故の反応なのだと思っていた。初恋だから、このドキドキに慣れないのは仕方無いと。けれど、退院して彼女と会瀬を重ねる内に、健康な心臓に慣れる内に、気付いてしまったのだ。
 嗚呼……きっと、この心臓の元の持ち主が、彼女に恋をしていたのだろう、と。


*****


 心臓移植をしてから、健康になったという他にも、僕の身体は些細な変化を遂げていた。味覚なんかは特に顕著で、見るだけで胸焼けしそうな程苦手だった甘い物を好むようになったし、あの日ピアノの音に惹かれたのと同じように、音楽の趣味も変わっていた。

 他にも細かく挙げるときりがないが、移植する前と後では、明らかに僕という個が揺らいでいるのを感じる。これらは科学的には証明されていないものの、臓器移植をすると稀に起こることがあるという、元の持ち主であるドナーの記憶や嗜好が反映される『記憶転移』というものらしい。

 そして気付いてしまった。彼女への心臓の異常なまでの反応も、ふとした瞬間の仕草や表情にデジャブを感じるのも、きっと心臓の記憶なのだ。

 この恋は、僕のものじゃない。心臓に刻まれた錯覚に過ぎない。
 けれどそう思うと、とても苦しくて、胸が張り裂けそうだった。いっそ裂けてくれれば、再び心臓を取り出して、彼女への恋心を確かめられるのにと感じてしまう。

「音彩……」
「どうかした? 叶くん」
「……ううん、何でもない」

 繋いだ彼女の手から伝う温もりに、やはり意思とは関係なしに、鼓動は大きく跳ねるのだった。


*****


 この恋心が僕のものなのか、心臓の記憶に依存したものなのかわからぬまま、月日は過ぎた。
 相変わらず彼女の奏でる音色を心地好く感じるし、ふとした瞬間に鼓動が跳ねることもしょっちゅうだ。最初こそこれが本当に自分の感情なのか戸惑ったものの、いつしか分けて考えることも減り、気にならなくなっていった。

 それでも一度だけ、彼女に心臓の前の持ち主の心当たりは無いかと尋ねたことがある。
 基本移植された側は、ドナーについて知る権利を持たない。けれど心臓の持ち主が彼女に恋していたのなら、彼女の恋人なり近しい人物だったに違いない。

 僕の命の恩人でもあり、今では僕の一部でもあるのだから、悪い感情は持ちたくない。それでも、ほんの少しの嫉妬と好奇心は拭えなかったのだ。

「うーん、心当たりはないかな……身近にここ数年で亡くなった人も居ないし」
「そっか……」

 彼女の身近に不幸がなかった。それは喜ばしいことなのに、何と無くもやもやは消えなかった。
 彼女が知らないのなら、この心臓は、一体誰のものなのだろう。結局手掛かりは潰えて、いつしか答え探しをすることも諦めた。
 僕は今生きていて、目の前の彼女を、他でもない僕が愛している。その事実だけで良い。そう、思うことにした。

 そして僕達は交際を続け、来月から一緒に住むことになった。


*****


 それは、彼女の家で引っ越しのための荷造りを手伝っている時だった。僕が棚の上段部や押し入れから出して来た物を、彼女が仕分けして段ボール箱に詰める。そんな作業中、不意に彼女が悲鳴を上げたのだ。

「音彩!? どうし……、……これは?」

 虫でも出たのかと慌てて彼女の元に駆け寄ると、床には先程押し入れの奥から出した埃の積もっていた小箱と、その中に入っていたのであろう手紙や写真が散らばっていた。

 いつもの朗らかな表情は一気に血の気が引き、床に広がるそれらを凝視する瞳には涙が滲み、身体は小さく震えていた。ただごとではない雰囲気に、僕は恐る恐る近くの手紙を拾い上げる。

『音色へ』

 そう書かれた手紙を良く見ると、それはコピーされた物だった。ねいろ、という名前の字を響きだけで間違えていたり、独特な字の歪みは、どう見ても彼女の筆跡ではない。

 便箋何枚分もの分厚いものから、紙の切れ端にメモしたようなものまで。その全てに彼女への愛が綴られていた。一瞬、熱烈なラブレターかと思ったが、隣に落ちていた明らかに盗撮と思われる写真の数々に、心臓が跳ねる。

「これって、まさか、ストーカーとかいう……?」
「……っ」

 彼女は怯えたように肩を震わせ、もうあまり目立たなくなった右手の切り傷に触れる。その仕草を見て、嫌な予感に心臓が更に速くなった。

 出会ってからの音彩は、笑顔の似合う前向きな女性だった。そんな彼女に、手首の傷は似合わない。僕自身、手術の傷はあちこちにあるし、彼女の傷よりもっと深い。だから音彩に一生残る傷痕があったとしても気にならないが、他人につけられたものなら話は別だ。彼女の心の傷の方が心配だった。

 もう二度と自傷なんてしなくて済むように、傍でずっと守っていこうと思っていた。その為に、辛い傷には触れまいと、敢えてその話題は出さずにいた。
 けれど、前提から違ったのだ。自傷するにしても、刃物を持つ以上、敢えて利き手を選んで切ることは早々ないのではないか。

「もしかして、その傷は……ストーカーに……?」
「……っ、これ、叶くんに会う、二年くらい前に……知らない男が、入ってきて……」

 もう何年も前のことを、鮮明に思い出したようだ。泣きながら震える音彩を、宥めるように抱き締める。
 ストーカー被害については、元から警察に相談していたがあまり真剣に取り合ってくれなかったそうだ。手紙や電話、つきまとい。日に日にエスカレートして、ついには彼女の家に押し入り危害を加えた。

 実害が出て初めて警察は動いてくれ、そのストーカーは捕まったらしいが、男は彼女の心と身体を傷付けただけでなく、彼女のピアニストの夢を奪ったのだ。たかが数年の刑期で償いきれるものではない。

「もう、そいつは釈放されてるの……でも、あれから接触もないし、忘れようって……警察に提出した証拠のコピーも、押し入れの奥にしまって……全部、なかったことにしようって、私……」
「大丈夫……大丈夫だよ、音彩。君のことは、僕が守るから」
「叶くん……ありがとう」

 この鼓動の高鳴りは、愛する彼女を害されたことによる怒りだ。そうに決まっている。
 なのに、どうして僕の顔は、こんなにも笑みを浮かべるのだろう。

 腕の中の彼女に見えていなくて良かった。鏡に映った僕の顔は、知らない人みたいに歪な笑みを象っている。

 こんな時に頼られて嬉しいのか、いつも元気な彼女の弱さを知れて安心したのか……それとも、覚えていてくれて嬉しいだとか、思っているのだろうか。


*****


「叶くん、起きて」

 愛しい彼女の声に、目を覚ます。卵やパンの甘い香りに包まれた、幸せな朝の始まり。

「おはよう、叶くん! 今朝はフレンチトーストでいい?」
「おはよう、ねいろ……うん、甘いもの、大好きなんだ。はちみつたっぷりで頼むよ」
「ふふ、まだ眠そう。用意するから、目を覚ましておいてね」

 上機嫌に長い黒髪が揺れる背を見送り、寝転んだまま今でも傷の疼く胸元を押さえる。

 あの日、激しい鼓動の高鳴りに、彼女への恋を自覚した。この心臓が感じるドキドキを恋だと認識し、それを自分の恋心だと同一視したように、いつか僕は、この心臓の持ち主だった男のような行動に出るかもしれない。いつか心臓の記憶が僕を操り、知らぬ間に彼女に危害を加えるのではないか。

 そんなことを考えると、毎日不安で堪らなかった。もしかすると、夜寝ている間に、心の赴くまま彼女にナイフを突き立てているかもしれないのだから。

 だから朝目が覚める度に、元気な彼女を見てひどく安心した。緊張が解け、甘く幸せな現実とは裏腹に、ホラー映画でも見終わったかのように心臓がばくばくする。

「叶くーん、もう出来るから、起きてきてよー?」

 キッチンから聞こえる、フレンチトーストの焼ける音と、フルーツを切る包丁の音。そして彼女の声に導かれるように、心地好い温かなベッドを出る。

「嗚呼、今行くよ……、音色」

 僕は未だに落ち着かない鼓動に合わせて、足早に愛しい彼女の元へと向かった。





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