私の返事を聞いて、黒田君は良かったと笑った。
「でも、すみません先輩。今日、僕そっちに行けなくて」
「え?」
私は話が見えなかった。何のことかと思った。
「大学の講義が急に入っちゃって、どうしても! ごめんなさい」
黒田君は、私の不思議そうな声を、何故来れないのかという意味で受け取ったらしく、申し訳なさそうに話す。
「同じ大学の橘が、千夏――早峰さんと一緒に行くと言っていたので、その二人はもうそっちに居るんじゃないでしょうか」
私が黙っているのを聞いて、黒田君も黙った。
「センパイ?」
少し片言に、そう呼ばれた。
「えっと……」
どう尋ねたものかと思っていたら、黒田君に先を越された。
「先輩、もしかして覚えてないですか? 約束のこと」
瞬間、数年前になる高校二年の三月が蘇る。
丁度今日と同じように、膨らんだ蕾が枝に色を付けていた。
桜の木の下、五人の生徒と一人の部顧問が同じ箱を見つめている。
鳴上先生の、後で、の意味が今やっとわかった。
「――忘れてた」
「過去形――ってことは、思い出したんですね? センパイ」
おかしそうに、イタズラっぽい声をにじませて、彼は言った。
私の一言一言を的確に読み取ってくれるこの後輩は、やっぱり部長の器だ。
「急がなきゃ」
私は呟いた。腕時計を見ると約束の時間まであと五分。
黒田君は、思い出してくれて良かったですと、最後にそう言って通話を切った。
私は走り出した。
最後にもう一度窓から中庭を見ようと思ったけれど、頭に浮かんだ文字で止めた。
――振り返るな!
卒業アルバムに、黒田君が一番好きな言葉ですと笑って書いてくれたメッセージ。
今は、振り返っている時じゃない。
まるで、当時の自分に戻ったようにそんな些細なことまで思い出す。
なんで気付けなかったんだろう。私は階段を駆け下りながら思った。