雨音が昼下がりの殺風景な部屋に響く。 まつりは窓の外を眺めた。
街は雨の向こうにけぶっていてよく見えない。
ここ数日、ずっと雨が降り続いている。梅雨時期だから仕方が無いとはいえ、ずっとこの部屋に閉じこもっているので気が滅入る。 まつりはノートパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。ティーセットの所まで数歩歩き、ティーバッグを手に取った。
「聞いたこと無い銘柄だなあ」
一抹の不安を覚えながらもまつりは封を切った。白いなんの装飾も付いていないカップの中に入れ、ポットからお湯を注ぐ。
この部屋に来てから紅茶を淹れるのは初めてだった。
まつりは紅茶が好きだ。しかし今までは紅茶の存在に気づいてはいたが、気が滅入っていたので淹れる気持ちにならなかったのだ。 数分蒸らして、ティーバッグをカップから取り上げる。まつりはわずかに笑みを漏らした。いい色だ。
先程より軽い足取りでカップをデスクまで持っていく。
紅茶の香りを堪能してから一口飲む。ふうっと息をついて窓の外を見る。相変わらず雨はしとしとと降り続いていたが、温かな紅茶に心は少し穏やかになるようだった。いや、むしろ雨音がかえって落ち着くと思うのは、そろそろ三十路が見え始めた年のせいだろうか。
知らない銘柄だからと軽く見ていたが。 「この銘柄、けっこう美味しいね」
誰にともなくそう呟き、まつりは再びパソコンを立ち上げた。
カタタ……と小気味よく響いていたキーボードを打つ音が、ぽとん、ぽとんと途絶えがちになる。
「紅茶、また飲もうかな」
まつりは立ち上がる。大好きな紅茶を飲むと、それだけ元気になれる気がした。現に、先ほどは気持ちが少し浮上したのだ。
カップにぽとぽととお湯を注ぐ。湯気が立ち上る。それが少しだけ心を明るくさせた。カップに口をつけて紅茶を飲むと、元気になれる。
と思ったのは、気のせいだったかもしれない。
ーーこころが晴れない。
ふうっとまつりはため息をついた。
窓の外は雨が降り続いている。外には出られない。外の様子さえ、雨粒にかき消されてよく見えない。
いつまでこの部屋に閉じこもっていなければならないのだろう。
まつりはふと不安になった。
いつになったら、外に出られるのだろう。……いつになったら、あの人に会えるのだろう。
雨脚が強くなってきた。外が薄暗い。そろそろ日が暮れ始めるだろう。
まつりはベッドにごろんと横になる。
そのままうとうとしてしまったらしい。 「あれ? 今何時?」
気が付いた時は、窓の外は真っ暗だった。ただ雨音だけが、雨がまだ降り続いていることを教えてくれた。
まつりはカーテンを閉めようと立ち上がる。その時だ。
コンコンとドアを叩く軽やかな音が聞こえた。
まつりはびくんと振り返る。
「もしかして」その思いで、小走りでドアまで向かった。
ドアノブを下ろすのももどかしくドアを開けると、外には一人の男性が立っていた。 「久しぶり」
「……芳成」
まつりは絞り出すようにその名前を呼んだ。
そこには会いたいと思っていた人が、まつりの夫がいた。
芳成は部屋を一瞥してからまつりに笑いかけた。
「どう? 調子は。なかなかいい部屋じゃないか」
まつりは笑顔を作った。
「うん。部屋はきれいだし、雨の音がかえって落ち着くというか……」
そこまで呟いた後、まつりは芳成の胸にぽすんと頭を押しつけた。
「嘘。やっぱり落ち着かない。芳成のところに帰りたい」
芳成は、よしよしとまつりの頭を撫でた後、苦笑した。
「そうはいきませんよ、花山先生」
まつりはぐっとつまり、芳成の背中に腕を回した。
「……鬼編集」
「それを言いますか。ホテルに缶詰にされるまで原稿を遅らせて担当編集を困らせていた花山先生が」
まつりは小説家だ。文芸誌に載せる原稿が書き上がらず、ここ数日この部屋で一人雨音を聞いていた。
「だって、筆が進まなくて」
甘えてごりごりと頭を押しつけると、芳成は左手に持った包みを掲げた。
「そう思って、先生のお好きな茶葉をお持ちしましたよ」
まつりはぱっと顔を上げる。
その顔を見て、芳成は嬉しそうに声を立てて笑った。
「んー、やっぱ美味し-」
ベッドに腰掛け、二人して紅茶を飲む。雨音が弾むように部屋に響く。
「どうです。これで筆が進むんじゃないですかね」
笑いかける芳成に、まつりは眉を寄せた。
「それは、書いてみないとわからないというか……」
カップを両手で押さえ下を向きながらもごもごと言う。芳成は困ったように眉間に皺を寄せた。
「それじゃ困りますよ」
「だって……」
顔を上げたまつりの耳に、芳成は唇を寄せた。
「こっちも限界なんだ。早く帰って来いよ」
雨音が、戦友兼夫婦の二人の寄り添う部屋に優しく響いた。
おわり
街は雨の向こうにけぶっていてよく見えない。
ここ数日、ずっと雨が降り続いている。梅雨時期だから仕方が無いとはいえ、ずっとこの部屋に閉じこもっているので気が滅入る。 まつりはノートパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。ティーセットの所まで数歩歩き、ティーバッグを手に取った。
「聞いたこと無い銘柄だなあ」
一抹の不安を覚えながらもまつりは封を切った。白いなんの装飾も付いていないカップの中に入れ、ポットからお湯を注ぐ。
この部屋に来てから紅茶を淹れるのは初めてだった。
まつりは紅茶が好きだ。しかし今までは紅茶の存在に気づいてはいたが、気が滅入っていたので淹れる気持ちにならなかったのだ。 数分蒸らして、ティーバッグをカップから取り上げる。まつりはわずかに笑みを漏らした。いい色だ。
先程より軽い足取りでカップをデスクまで持っていく。
紅茶の香りを堪能してから一口飲む。ふうっと息をついて窓の外を見る。相変わらず雨はしとしとと降り続いていたが、温かな紅茶に心は少し穏やかになるようだった。いや、むしろ雨音がかえって落ち着くと思うのは、そろそろ三十路が見え始めた年のせいだろうか。
知らない銘柄だからと軽く見ていたが。 「この銘柄、けっこう美味しいね」
誰にともなくそう呟き、まつりは再びパソコンを立ち上げた。
カタタ……と小気味よく響いていたキーボードを打つ音が、ぽとん、ぽとんと途絶えがちになる。
「紅茶、また飲もうかな」
まつりは立ち上がる。大好きな紅茶を飲むと、それだけ元気になれる気がした。現に、先ほどは気持ちが少し浮上したのだ。
カップにぽとぽととお湯を注ぐ。湯気が立ち上る。それが少しだけ心を明るくさせた。カップに口をつけて紅茶を飲むと、元気になれる。
と思ったのは、気のせいだったかもしれない。
ーーこころが晴れない。
ふうっとまつりはため息をついた。
窓の外は雨が降り続いている。外には出られない。外の様子さえ、雨粒にかき消されてよく見えない。
いつまでこの部屋に閉じこもっていなければならないのだろう。
まつりはふと不安になった。
いつになったら、外に出られるのだろう。……いつになったら、あの人に会えるのだろう。
雨脚が強くなってきた。外が薄暗い。そろそろ日が暮れ始めるだろう。
まつりはベッドにごろんと横になる。
そのままうとうとしてしまったらしい。 「あれ? 今何時?」
気が付いた時は、窓の外は真っ暗だった。ただ雨音だけが、雨がまだ降り続いていることを教えてくれた。
まつりはカーテンを閉めようと立ち上がる。その時だ。
コンコンとドアを叩く軽やかな音が聞こえた。
まつりはびくんと振り返る。
「もしかして」その思いで、小走りでドアまで向かった。
ドアノブを下ろすのももどかしくドアを開けると、外には一人の男性が立っていた。 「久しぶり」
「……芳成」
まつりは絞り出すようにその名前を呼んだ。
そこには会いたいと思っていた人が、まつりの夫がいた。
芳成は部屋を一瞥してからまつりに笑いかけた。
「どう? 調子は。なかなかいい部屋じゃないか」
まつりは笑顔を作った。
「うん。部屋はきれいだし、雨の音がかえって落ち着くというか……」
そこまで呟いた後、まつりは芳成の胸にぽすんと頭を押しつけた。
「嘘。やっぱり落ち着かない。芳成のところに帰りたい」
芳成は、よしよしとまつりの頭を撫でた後、苦笑した。
「そうはいきませんよ、花山先生」
まつりはぐっとつまり、芳成の背中に腕を回した。
「……鬼編集」
「それを言いますか。ホテルに缶詰にされるまで原稿を遅らせて担当編集を困らせていた花山先生が」
まつりは小説家だ。文芸誌に載せる原稿が書き上がらず、ここ数日この部屋で一人雨音を聞いていた。
「だって、筆が進まなくて」
甘えてごりごりと頭を押しつけると、芳成は左手に持った包みを掲げた。
「そう思って、先生のお好きな茶葉をお持ちしましたよ」
まつりはぱっと顔を上げる。
その顔を見て、芳成は嬉しそうに声を立てて笑った。
「んー、やっぱ美味し-」
ベッドに腰掛け、二人して紅茶を飲む。雨音が弾むように部屋に響く。
「どうです。これで筆が進むんじゃないですかね」
笑いかける芳成に、まつりは眉を寄せた。
「それは、書いてみないとわからないというか……」
カップを両手で押さえ下を向きながらもごもごと言う。芳成は困ったように眉間に皺を寄せた。
「それじゃ困りますよ」
「だって……」
顔を上げたまつりの耳に、芳成は唇を寄せた。
「こっちも限界なんだ。早く帰って来いよ」
雨音が、戦友兼夫婦の二人の寄り添う部屋に優しく響いた。
おわり