此処は『世界の果ての入口』だ。
忘却の雪に覆われた、すべてを無に還す終わりの場所。
降りしきる白は禊となり、過去の過ちも罪もすべてを消してくれるという。
この真っ白の世界を進み続けると、いずれ『世界の果て』へと抜けて、白に溶かすようにすべてを捨てて、生まれ変われるらしい。
その話は、何処で聞いたのだったか。車で流れていたラジオか、はたまた子供の読んでいた絵本だったか。今となってはそれすらも曖昧だ。
けれど迷信に近いその話も、あながち間違いではなかったようだ。何しろこの地に足を踏み入れるまで、外の世界は雪なんかではなく、八月の陽射しが降り注いでいたのである。
今はただ、降り積もる雪が周囲の音を飲み込む、ひたすらに白く、先の見えない無音の世界が広がっていた。
「……、さむ……」
ぽつりと唇から溢れた声も、音として響く前に雪へと吸収される。周りには自分以外の影も見えず、改めてこの静かな世界に一人であることを自覚した。
世界の果てを目指す旅。もうどれだけ歩いただろう。どれだけの時間が経っただろう。
始まりはもうあまり覚えていない。それどころか、自分が何者なのかさえもう思い出せない。
そしてどうして、こんなにも不安と焦燥に駆られるのか。
雪を踏みしめる音だけが微かに耳に届き、真っ白の世界で自分がきちんと歩けていることを認識する。けれど振り向いた先から、足跡は新たに降る雪に掻き消されるのである。
もうどちらが前で、何処から来たのかさえ分からない。吐き出す息も、目の前を覆う雪の粒も、視界に広がるすべてが白かった。
*****
何時間、何日、何ヵ月歩いたのか、時間の感覚が全くない。
音もなく、ただ白だけがちらついて積もる。何処まで進んでも果てなんて見えず、最早踏み出す一歩が真っ直ぐ歩けているのかさえ分からない。
けれど立ち止まってしまうと、もう二度と歩けなくなる気がして、ただひたすら足を動かした。
次第に、雪が嵩を増して足取りが重くなる。一歩踏み締める度に耳に届いていた筈の足音も、車のブレーキのような、不快な甲高い音で掻き消される。静か過ぎる故の耳鳴りだろうか。
世界の果てに近付いたのか、それとも単に時間の経過で積もっただけなのか。考えても答えは出る筈もなく、時折雪に足を取られて、転びそうになる。
それでも、進み続けるより他になかった。
「……ねえ」
不意に、女の声が聞こえた気がした。誰の声だ。此処には、自分一人しか居なかった筈だ。
「……ちょっと冷たいわね」
ちょっとどころではない。
既に指先や鼻先、耳は冷たさよりも痛みで千切れてしまいそうだ。手足の感覚もほとんどない。寒いなんて感覚は、とうに通り過ぎてしまった。
「身体、重たいでしょう」
女の声は変わらず響く。
確かに重い。けれど休んだら最後、もう動けない。気力もそうだが、身体を動かしていないと凍えて死んでしまいそうになる。
まだ、世界の果てを見付けていない。此処で死ぬ訳にはいかなかった。
「ねえ、早く、帰ってきて」
これは幻聴だろうか。
静か過ぎる空間に、とうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか。……否、こんな所に足を踏み入れている以上、もう既におかしくなっているのかも知れない。
女の声は、無視をし続けていても時折耳に届いた。
周りには誰の気配もないのに、耳は既に感覚がないのに、声だけが頭の中に直接響くようだった。
*****
「ねえ、あなた」
この声の主は、誰なのだろう。
熱心に語り掛ける声を、何も、思い出せない。これも忘却の雪の効果なのだろうか。
永遠にも感じられる時間、歩けども歩けども終わりは見えず、体力も限界が近かった。
思考能力は鈍り、残されたエネルギーを足を動かすことにのみ集中させる。
「……聞こえる?」
この幻聴に返事をしてしまうと、頭がおかしくなったのを認めてしまう気がした。そして何より、この静寂の世界が終わってしまう気がしたのだ。
それはいけない。此処まで来たのだ、何としても、世界の果てに辿り着かなくては。
「雪……」
言われなくても分かっている。辺りには雪しかない。けれど段々、あまり寒さを感じなくなって来たようだ。身体が慣れたのか、気温が上がったのか、分からない。
「ゆき……雪、雪、雪雪雪雪雪雪」
不意に壊れたラジオのように、女の声が繰り返される。
ぞくりと背筋の粟立つような感覚。今までいっそ心の支えにもなり掛けていたその声から逃れるように、最後の力を振り絞って漕ぐように進んだ。
きっと、もうすぐだ。
何故だか分からないが、そう感じた。
そして不意に、視界が更に白くなった。眩いばかりの光に、目が焼かれそうになる。
「うわ……!?」
あまりの眩しさに声を上げるが、それすらも響くことなく吸い込まれてしまう。
何事かも分からぬまま、暫くその光に耐えると、やがて眩しさの反動か、あれほど白かった世界は一転、闇のように暗く感じた。
「此処が、世界の果てなのか……?」
先程までとは異なる感覚。未だ目が慣れないが、凍えそうに冷たかった筈の全身がじんわりと温かく、心地好い。
その感覚に身を任せ、ようやく歩みを止めた。
きっと、辿り着いたのだ。
もう歩かなくていい。身体は軽く、痛みも寒さも感じない。けれど女の声は、啜り泣くように震え、今までにない程、強く頭の中に響いてくる。
「いかないで、帰ってきてよ……ねえ!」
その声に思わず振り返るが、やはりその姿を見付けることは出来ない。
申し訳なさを感じながらも、その声を振り払うように、最後の一歩を踏み出す。
遠くの方で、ピーーー……と長く響く機械の音が聞こえた気がした。
*****