私の言葉に、宮地さんは首を傾げる。
 カンバスの前には、いつものように香椎先輩の姿があった。
 近くに落ちていた紙を拾いあげると、人物や花といったものが一枚の紙にぎっしりと詰め込まれている。他にも異なる絵がすべての紙に描かれており、真っ黒に塗り潰されているものもある。これには宮地さんも戸惑いながら、落ちている絵と香椎先輩を皇后に見遣る。
 そんなことなど気にも留める様子もなく、香椎先輩はいつにも増して清々しい表情を浮かべている。そこでふと、高嶺先輩が言っていたことが頭をよぎった。
 絵を描くことで気持ちを落ち着かせて、集中することで頭の中をクリアにする、と、
「描き続けることが、先輩のスランプから抜け出す方法だったんですね」
 私の声に気付いたのか、香椎先輩はこちらを向いた。目を細めて私たちだと気付くと、肩の力が抜けたのか、小さく笑みを浮かべた。
「あれ? 佐知に宮地さん、どうした?」
「え、えっと……」
「お前……いつからそんな顔で笑ってたか?」
「いつから俺はロボット扱いされてんの? つか宮地さんその荷物なに?」
「灰ができたから持ってきたんだ。それと差し入れ」
「重いのにわざわざ持ってきたの? 連絡くれたら工房まで行ったのに……ありがとう」
 慌てて新聞紙を取り出して机に広げる。宮地さんは袋から慎重にタッパーに入ったイーゼルと絵筆の灰を取り出した。袋に詰め込めるだけの数を持って行ったはずなのに、戻ってきた量がこれっぽっちだったことが少し寂しく思う。香椎先輩はタッパーの蓋を開いていつものように確認していく。
「頼んだサイズぴったりじゃん。さすが灰の職人」
「まぁな。……灰の職人、か」
 小さく呟いた宮地さんが視線を落とす。灰の職人と名付けたのは高嶺先輩だ。不意に頭に過ぎったのかもしれない。それを余所に、香椎先輩は着色の準備を進めていく。
「佐知、俺が着色の準備を進めている間に、下描きをもう一度見直して、余分な木炭を払い落しておいてくれ。もし描き加えたかったら入れていい」
「先輩は確認しないんですか?」
「大丈夫だろ。ずっと佐知の絵を見てきたんだ。その分着色に集中したい。……今、いいところだからさ」
 小さく微笑んだ先輩を見て、この状況を楽しんでいるのだと悟った。ベンチの絵を描いている時と同じ、高揚感が隠しきれていない。スランプを脱したことで、先輩の中で吹っ切れたのだろう。
「……わかりました」
 私が言うと、先輩は慣れた手つきで準備を進めていく。突然のことで驚いたが、私も準備に取り掛からねばならない。
 下描きをもう一度見直して、木炭の粉が絵の具と混ざって真っ黒にならないように、ガーゼで消さないように軽く払い落とす。カンバスをイーゼルに戻す頃には、香椎先輩の準備も終わっていた。三枚のパレットに灰を混ぜたものとそうでないものを分けている。
「始めるか。宮地さん、見てく?」
「そうだな、ちょっとばかり見ていこうか。途中で工房に戻らねぇといけないから最初だけな」
「わかった。出ていく時は声かけなくていいから。佐知は?」
「もちろん、完成まで見届けます」
「だな。今度は見れるもんな」
 おそらく前回のシフトを詰め込みすぎ手見逃したのを覚えていたのだろう。同じ轍は二度踏んでなるものか。
 香椎先輩は使いなれた絵筆とパレットを手に持つ。途端に周囲の音が聞こえなくなった。
 すぐに線を引いていくのかと思いきや、先輩は「佐知」と私を呼んだ。何か下描きに問題でもあっただろうか。

「描き続ける理由を取り戻してくれて、ありがとう」