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「――ゲームも本もお菓子も要らない。俺と高嶺には、紙と鉛筆さえあればよかった」
 香椎先輩はそう言って、また無糖のカフェラテに口をつけた。
「俺がイラストを描くのは、高嶺が勧めたからだ。本当はアイツのように風景画を描いてみたい。自分で何度か書いてみたし、描くチャンスはいくらでもあった。でも諦めたのは、描いてこなかったのは、高嶺のすごさを知っていたから。俺が持っていないものを高嶺が持っている。いつかその域に達するまで、俺はイラストに集中すると決めた」
「……だから、美術室を描いているのも知らなかったんですね」
「アイツは自分のことは喋らないからな。俺の視力が低下しているのを知ったのは、骨折が治った後の検査だった。その頃も高嶺は入退院を繰り返していたっけ。お互い幼いながらも社会に出る前に失明することや心臓が止まることは想定していたから、無茶なことはしなかった。美術部だって、やむを得ず進学コースになった先輩が立ち上げようとしたところに、コミュニケーションお化けの高嶺がどこからか聞きつけて一緒に入った。ただ、高嶺は心臓に爆弾を抱えているのと同じだ。学校からは要注意人物とされていた。だから俺も学校側に失明のことを伝えた。前に問題児みたいなもんだと言ったのは、そういう理由だ」
「そんなの、問題児なんかじゃありません」
「学校はそう思ったんだよ。『見ていないときに倒れたりしたら自分が責任を負わないといけない』ってさ」
 ただの職務怠慢じゃないか。――そう言いかけてぐっと堪える。私が一人怒ったところで、今更変わらない。
「最低だと思うか」
「え?」
「高嶺のこと。こんなギリギリになって病気のことを笑って話したことに。……ちょっと分かるんだ。誰だって事前にあと何日に死にますって言われて動揺しない訳がない。ただでさえ、失明を宣告されたときの俺も物に当たり散らした。それ以上に高嶺は辛いと思う」
 俺の心臓は、冬を迎えられないかもしれない――明確な日時もわからない、曖昧な宣告。それを高嶺先輩はそれを受け止めることしかできなかった。
「佐知に言いたくなかったと漏らしたも、正直分かる。お前はいつも真っ直ぐに高嶺を見てくれている。残りわずかの時間でやろうと決めていたことを、佐知が美術部に来たことで欲が出た。もっとこうしたい、もっとこれがやりたい。……いつも笑うことで隠していたこの先の現実を、佐知が希望に変えてくれた」
 ちがう、と声が出せない代わり私は首を振った。
 美談にされるようなことではない。私はただ自分のことしか考えられなくて、美術部に入ったのも半ば強引だった。希望を与えられるような存在なんかじゃない!
「自己評価が低いお前のことだから、『私なんかが』って思ってるんだろけどさ、お前が俺達に救われたと言うように、俺も高嶺も、お前に救われているんだよ」
「香椎先輩……」
 残っていたカフェラテをぐいっと一気に飲み干すと、香椎先輩は立ち上がった。いつものように平然と、どこか気怠そうにこちらを見る。
「さて、俺は忘れ物したからもう一度高嶺のところに行くけど、佐知はどうする?」
「え……?」
「俺は高嶺が描く風景画が好きだ。正直なところ全部アイツに描かせたいとすら思う。それでもアイツが俺に色を乗せるのを任すというのなら応えたい。……一応部長だし、次いでに通るか分からない意見も言っておこうかと思う。後輩泣かしてんのも気に食わねぇしな」
「最後のは違うような……」
「違わねぇよ。どうする、後輩」
「……行きます。私も、ちゃんと言っておきたいので」
 まだ開けていないミルクティーの缶を鞄に入れて立ち上がると、香椎先輩は満足そうに口元を緩ませた。
 この日二度目の病室に行くと、高嶺先輩がすでにカンバスに下描きを始めていた。全体像にあたりをつけているようで、完成にはほど遠い。木炭が握られた手は煤で汚れている。一応ノックはしたけど集中して気付かなかったようで、香椎先輩が近づいた途端に「うおわっ!?」と変な声を上げた。
「びっくりしたー……お前、帰ったんじゃなかったのかよ」
「忘れ物を取りに来た。……それと」
 ほら、と顎でこちらを指す。振り返った高嶺先輩は私を見て目を疑った。あんな飛び出し方をした手前、戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
「佐知……」
「高嶺先輩、さっきはすみませんでした」
 私が頭を下げると、ベッドから軋む音がして、先輩が私の前に立つ。どうしても顔が上げられなかった。
「いや、あれは俺がずっと黙っていたのが悪くて……」
「それでも先輩が一番辛い時に、私は自分のことでいっぱいでした。嘘であってほしいと言い聞かせて、聞こえないふりをしました……ごめんなさい」
「……それでいいんだよ。人って沢山考える生き物なんだからさ」
 先輩はそう言って、私の顔を覗き込むようにして屈む。視界の端で腕と繋がった点滴の管が揺れた。
「佐知さ、最初に美術室に来たときのこと覚えてる? 『明日へ』の絵に呑まれて泣いてくれたり、感じたことを熱弁したり、部の現状を伝えたら理不尽だって怒ったり。……嬉しかったんだ。学校の中で俺達に向けられた視線や言葉は棘があるものばっかりで、ただでさえ終わりが迫って焦っていたるのにって、やけになりそうだった。――佐知と出会うまでは」
「……え?」
「供養絵画の存在を知らない人にとって、あの絵を除け者にしたがる。それ以前に美術部と名乗っている俺達は、芸術コースじゃないくせに作品を展示するな、引っ込んでろと罵倒されてカンバスを端へ端へと追いやられた。あの絵は、誰の目にも入らないで終わるかもしれないと思った。それを佐知が見つけてくれて、俺は救われた気がしたんだ。俺達がしたことは間違っていなかったって。……本当に、嬉しかったんだ。死にたくないって、心の底から思った」
 そっと顔を上げると、高嶺先輩は涙を浮かべて笑っていた。悔しそうに、歯痒そうに笑ったその表情は、決して死を諦めたようには見えなかった。
「俺は死なない。やりたいことをやり遂げるまで。……だから佐知、手伝ってくれる?」
 その日私は、高嶺先輩の泣き顔を初めて見た。カーテンの隙間から差し込んだ夕日のオレンジが悲しいくらい眩しくて、手を伸ばせば掴めそうな気がするのに届かない。少し離れた場所で見守っている香椎先輩がふいに視線を逸らす。
 私は自分の頬に伝う涙を袖口で拭うと、真っ直ぐ見据えた。
「……もちろんです、私も美術部員ですから」
 神様、お願いです。
 どうかこれ以上、先輩たちの時間を奪わないで。
 この絵が最後になっても、もう二度と会えなくなったとしても。
 彼らが好きで続けてきたものが形になって、誰かに届くその日まで。
 ――二人から、描くことを奪わないで。