受け取った灰を持って第八美術室に戻ると、すでに高嶺先輩が準備を始めていた。事前に聞いていたのか、必要な絵の具と灰を混ぜるためのボードが揃えられている。
「よう、思ったより遅かったな。なんかあったか?」
「佐知に聞いてくれ。あとこれ、宮地さんから」
「おおっ、宮地さんの木炭! ちょうど使い切ったばかりだったんだ、ラッキー」
喜ぶ高嶺先輩を余所に、香椎先輩が灰を新聞紙を敷いた机に置いて眼鏡を外した。
「……さて、着色する前に、二人に下描きを見てほしい」
香椎先輩がそう言ってカンバスを乗せたままイーゼルを動かして見せる。下描きは以前と比べ、背景の自然が減った。その代わりにベンチと人物がぐっと前面に出てきて、クロッキー帳では輪郭だけだった人物が女子生徒として新たに描き直されていた。不自然だったのは、にこやかな顔つきでこちらを見ているにも関わらず、腕から手がないことだ。
「最初はベンチをメインにした風景画にしようと思ったんだけど、やっぱり苦手が勝って人物を追加した。何か持たせたいんだけど、いろんなものが浮かびすぎてパッとしない」
「ははーん。俺たちに持たせるものを決めさせたいってことか。珍しいな」
香椎先輩の強みは主役の絵画ではなく脇役のイラストだ。メッセージ性の強いものを得意とする先輩が、他人に何が良いのか聞くことは滅多にない。高嶺先輩も困った顔でカンバスを見ていく。
私もならってカンバスをじっと見つめた。
まだ着色されていない、モノクロの世界でもわかるのは、香椎先輩がベンチ一つに限っても事細かく木目を入れていることだった。誰も気付かないような部分に細工を施し、脚から手すりに沿って巻き付く蔦は小さな蕾が花開くまでの工程を描いている。
顔を上げた途端、見慣れた美術室や先輩たちの姿はどこにもなく、校庭の端に景色が変わっていた。カンバスを見ていただけなのに、肌にひりつく太陽の日差しや、土臭い校庭の匂いは本物そのものだ。 正面にあるベンチには、女子生徒の姿があった。不思議と初めて会った気がしない。私に気付いて、彼女は抱えている花束で顔を隠した。花が揺れるたびに香りが鼻をかすめる。ふんわりと包まれるような、優しい香り。風になびいた髪とともに揺れた花束の隙間から、涙を浮かべる表情に思わず息を呑んだ。
「――、佐知、佐知!」
すぐ近くで先輩たちの声が聞こえて、途端に我に返る。見渡せばいつもの美術室に戻っていて、焦った様子の先輩たちがそこにいた。
「大丈夫か? 急に黙り込んだと思ったら声かけても反応しないし」
「……呑まれたか」
香椎先輩が呟いたように言ったのに対して、私は肯定も否定もしなかった。確かに今の感覚は、文化祭で初めて『明日へ』を見たときと同じだった。でもまさか、未完成の下描きで呑まれるなんて!
「何が見えた?」
「え?」
「絵に呑まれたお前は、何を見た?」
見たものをすべて説明すれば、拙い言葉を並べるばかりでパッとしない。ただ、声に出すことで頭の中を整理できるのも確かだ。顔を隠した女子生徒が手に持っていた花を思い出すと、頭に過ぎったのは宮地さんの話だった。
「花束で顔を隠していました……多分、カスミソウだと思うんです」
「カスミソウ?」
「はい、理事長先生はカスミソウが好きだったと、宮地さんが教えてくれました」
「ちょっと待て。カスミソウはいいとして、なんで理事長が出てくるんだ?」
香椎先輩がカンバスに描かれた女子生徒を指しながら問う。その人物を描いたのは先輩だけど、誰をモデルに描いたわけでもなく、背景にとけこむようにして描いただけで、特に意識はしていないのだという。しかもその絵には花束はおろか、抱える女子生徒の腕もない。
それを聞いて、私はカンバスを何度も見直した。私は花井先生との面識は一切ないし、顔も見たことがない。先輩たちと宮地さんから聞いた話と、ホームページに書かれていたプロフィールくらいしか知らない。
「……多分、ベンチに関係した女子生徒が、理事長先生以外思い当たらなかったんだと思います」
とすれば、話が変わってくる。
私は絵に呑まれたわけではなく、いろんな情報を元に頭の中で勝手に想像で物語を作り上げていたのだ。『明日へ』の時はたまたま呑まれたと考えれば説明もつく。
私がそう話すと、呆気を取られていた二人は互いを見やった。目線を交えるだけで話しているようで、香椎先輩が鉛筆を取ると同時に、高嶺先輩がスマホで何かを調べ始めた。
「やっぱり思った通りだ。香椎、このデザインのセーラー服は描ける?」
「見本があれば。あと色だな。……その前に、花束を描く範囲が欲しい。一度そのデザインを別で描くから、その間に花束を描けるか?」
「もちろん! ……ああ、でもこれは俺じゃなくて」
二人して目を私に向けると、ニヤリと口元を緩めた。……いやいや。
「わ、私ですか……!?」
「言い出しっぺだろ?」
「そうそう。先輩たちだけにやらせるモンじゃないよー。香椎、こんなのどう?」
「範囲をここまで広げる。カスミソウだと分かるようにこの辺まで……」
「あ、あの! 無茶すぎませんか!」
困惑する私を置き去りに、先輩たちは作業を進めていく。カスミソウはただでさえ一輪の花びらが細かい。限られたスペースにカスミソウだと分かるよう描き込むなんて、素人には到底難しい話だ。たださえ、宮地さんが美術部に依頼した大切な一枚だ。そこに私が割り込んでいいはずがない。それでも香椎先輩はカンバスを手早く修正し、高嶺先輩は見本となるカスミソウの花束が載っている画像を探し出し続ける。
「いつものスケッチ通りに描けばいい。こうしたいっていうのがあれば高嶺がフォローしてやる」
「そうじゃなくて! これは先輩たちの絵です。私が入ったら……」
「それ、本気で言ってる?」
手を止めた香椎先輩が、私の目を見据えて言う。最初に顔をあわせた時と同じ、真っ直ぐで真剣な目だった。
「これは美術部に依頼された絵だ。お前も入ってんだろ」