先程から黙ったままの香椎先輩に声をかけても反応がない。クロッキー帳を見つめたままで、ドリンクやタルトに手をつけた様子はない。
見ていたのはベンチの絵だった。宮地さんからの依頼で描くことになったものであり、すでに下描きはカンバスの布に描き写されているはずだ。
高嶺先輩はもう一口コーヒーを飲んでから、香椎先輩に問う。
「何か引っかかってるのか?」
「なんかこう……足りないなと思って」
描かれていたのは、校庭が見えるように設置されたベンチに生徒が一人座っている構図だ。この時の生徒はまだ輪郭がぼやけているため、男女の区別はついていない。ベンチは手すりに巻き付くように蔦が巻かれ、名も知らぬ花が咲いている。
「でも着色したら見方が変わったりしませんか?」
「着色した後はな。デッサンみたいに消せるようなモンじゃねぇから、今のうちにこの違和感を払拭させたい」
「どうやって……」
「何かが足りないような気がしてる。ただ、それがなんなのか分からねぇ」
香椎先輩はそう言って、クロッキー帳を見つめながらまた黙り込んでしまう。隣で高嶺先輩はあーだこーだといろんな可能性を話しかけてくるが、相手にされていない。
「ダメだ、話を聞いちゃいねぇってことは、全部不正解ってことか」
「どこで判断してるんですか……」
「反応したら閃いたと解釈している……けど、そんな話をしている場合じゃないな。もし描き直すことになるとして、間に合うのか?」
今回のベンチの絵は宮地さんからの依頼であり、供養絵画と同じ扱いだ。そう長く引き伸ばすわけにはいかない。
話を聞いていると外部発注のように見えるが、金銭のやり取りは一切行われていない。『明日へ』の時は外部の関係者である宮地さんの工房利用費に上乗せする形で学校から支払われたが、今回は宮地さん本人が依頼人だ。ベンチを灰にし、粒子を調整する作業はすべて宮地さんが行うため、かかる費用はほぼないに等しい。これは美術部の顧問の先生にも共有済みだ。
ちなみに美術部への報酬は、校内での活動を許可することだった。だから公欠扱いが可能なのだと教えてもらったのは、つい最近の話。
高嶺先輩の問いに、ずっと見つめていたクロッキー帳を脇に置いて、ホイップが溶け始めたキャラメルラテに手を伸ばす。
「多分間に合う。……この違和感が分かったら」
「もしかして解決への道が――」
「阿呆か」
見えてるわけがないだろ、と呆れながら、香椎先輩はストローでひと混ぜすると、からんと氷がぶつかる音が響いた。
「早めに見つける。それに文化祭に出す絵も決めねぇと」
「……文化祭?」
「顧問から文化祭の展示会に美術部として一点だけ出していいって許可が降りたんだよ」
言ってなかったっけ? と首を傾げながら高嶺先輩が言う。以前、交渉して逆に怒られたと聞いて以来、文化祭の話は一切聞いていない。
「聞いてません……」
「高嶺、部員増えたんだからちゃんと共有しとけよ。しっかりしてくれ、部長」
香椎先輩が促すと、高嶺先輩はしまった、と頭を抱えた。
「あまり時間もかけたくねぇな。できれば下描きもできてるやつがいい」
「というと?」
「俺たちで最後の代だから、壊れて使えなくなった画材の灰を混ぜられたらいいなって。第八美術室には古くて使われなくなった物が押し込まれてるだろ? 顧問と芸術コースの先生に確認して許可貰ったから、いくら使っても良いってさ」
「そっか、種類が多ければ灰の調整に時間がかかりますね」
「今のところ、イーゼルと絵筆の灰を入れようと思ってる。……宮地さんにもいつ頃作業できるか、確認しないと」
宮地さんに灰を調整してもらうには、長くても二週間はかかる。それを複数の灰を作って貰う前提だから、描くものだけでも決めなければならない。それにしても大胆なことを考えるものだ。こんな簡単に灰を使う前提で完成形を目指しているなんて。
「佐知、なんか描きたい絵とかない?」
「私ですか?」
なんでもいいよー、と高嶺先輩がノートに顔を埋めながら言う。二人ともやることが多すぎて浮かばないらしい。と言われても、私も何を提案していいか考えるもすぐには出てこない。ふと、目に入ったクロッキー帳を見て思い出した。
「美術室はどうですか?」
「美術室?」
「第八美術室です。高嶺先輩、スケッチしてましたよね?」
いつも美術部が集まる思い出が詰まった場所――私が思いつく場所がここしかない。校舎となると大きすぎるし、芸術コースの誰かが描いていそうな気がした。
その提案にいち早く反応したのは香椎先輩だった。眉をひそめると、ゆっくり高嶺先輩の方を見て、「へぇ」とニヤついた笑みを浮かべながらどこか不服そうな声で言う。
「高嶺、美術室のスケッチしてたのかぁ」
「……えーっと」
話を聞けば、高嶺先輩は照れ臭いという理由だけで美術室のスケッチを見せていなかったらしい。もちろん見せたり報告する義務はないけど、立ち上げた当初に香椎先輩がスケッチしていたのを見て「エモいことすんじゃん」と茶化したことがあったらしく、それを今自分がしているとなれば絶対いじられると思い、言い出しずらかったという。
香椎先輩は呆れた様子で「決まったな」と呟いた。
「高嶺、お前の美術室が見たい。描いてくれ」
「やっぱり言うと思った……」
「いいじゃん。最後を飾るにはぴったりだろ? 頼むぜ、部長」
最大級の信頼と嫌味を込めて言うと、香椎先輩はフォークでタルトの先を突き刺した。
見ていたのはベンチの絵だった。宮地さんからの依頼で描くことになったものであり、すでに下描きはカンバスの布に描き写されているはずだ。
高嶺先輩はもう一口コーヒーを飲んでから、香椎先輩に問う。
「何か引っかかってるのか?」
「なんかこう……足りないなと思って」
描かれていたのは、校庭が見えるように設置されたベンチに生徒が一人座っている構図だ。この時の生徒はまだ輪郭がぼやけているため、男女の区別はついていない。ベンチは手すりに巻き付くように蔦が巻かれ、名も知らぬ花が咲いている。
「でも着色したら見方が変わったりしませんか?」
「着色した後はな。デッサンみたいに消せるようなモンじゃねぇから、今のうちにこの違和感を払拭させたい」
「どうやって……」
「何かが足りないような気がしてる。ただ、それがなんなのか分からねぇ」
香椎先輩はそう言って、クロッキー帳を見つめながらまた黙り込んでしまう。隣で高嶺先輩はあーだこーだといろんな可能性を話しかけてくるが、相手にされていない。
「ダメだ、話を聞いちゃいねぇってことは、全部不正解ってことか」
「どこで判断してるんですか……」
「反応したら閃いたと解釈している……けど、そんな話をしている場合じゃないな。もし描き直すことになるとして、間に合うのか?」
今回のベンチの絵は宮地さんからの依頼であり、供養絵画と同じ扱いだ。そう長く引き伸ばすわけにはいかない。
話を聞いていると外部発注のように見えるが、金銭のやり取りは一切行われていない。『明日へ』の時は外部の関係者である宮地さんの工房利用費に上乗せする形で学校から支払われたが、今回は宮地さん本人が依頼人だ。ベンチを灰にし、粒子を調整する作業はすべて宮地さんが行うため、かかる費用はほぼないに等しい。これは美術部の顧問の先生にも共有済みだ。
ちなみに美術部への報酬は、校内での活動を許可することだった。だから公欠扱いが可能なのだと教えてもらったのは、つい最近の話。
高嶺先輩の問いに、ずっと見つめていたクロッキー帳を脇に置いて、ホイップが溶け始めたキャラメルラテに手を伸ばす。
「多分間に合う。……この違和感が分かったら」
「もしかして解決への道が――」
「阿呆か」
見えてるわけがないだろ、と呆れながら、香椎先輩はストローでひと混ぜすると、からんと氷がぶつかる音が響いた。
「早めに見つける。それに文化祭に出す絵も決めねぇと」
「……文化祭?」
「顧問から文化祭の展示会に美術部として一点だけ出していいって許可が降りたんだよ」
言ってなかったっけ? と首を傾げながら高嶺先輩が言う。以前、交渉して逆に怒られたと聞いて以来、文化祭の話は一切聞いていない。
「聞いてません……」
「高嶺、部員増えたんだからちゃんと共有しとけよ。しっかりしてくれ、部長」
香椎先輩が促すと、高嶺先輩はしまった、と頭を抱えた。
「あまり時間もかけたくねぇな。できれば下描きもできてるやつがいい」
「というと?」
「俺たちで最後の代だから、壊れて使えなくなった画材の灰を混ぜられたらいいなって。第八美術室には古くて使われなくなった物が押し込まれてるだろ? 顧問と芸術コースの先生に確認して許可貰ったから、いくら使っても良いってさ」
「そっか、種類が多ければ灰の調整に時間がかかりますね」
「今のところ、イーゼルと絵筆の灰を入れようと思ってる。……宮地さんにもいつ頃作業できるか、確認しないと」
宮地さんに灰を調整してもらうには、長くても二週間はかかる。それを複数の灰を作って貰う前提だから、描くものだけでも決めなければならない。それにしても大胆なことを考えるものだ。こんな簡単に灰を使う前提で完成形を目指しているなんて。
「佐知、なんか描きたい絵とかない?」
「私ですか?」
なんでもいいよー、と高嶺先輩がノートに顔を埋めながら言う。二人ともやることが多すぎて浮かばないらしい。と言われても、私も何を提案していいか考えるもすぐには出てこない。ふと、目に入ったクロッキー帳を見て思い出した。
「美術室はどうですか?」
「美術室?」
「第八美術室です。高嶺先輩、スケッチしてましたよね?」
いつも美術部が集まる思い出が詰まった場所――私が思いつく場所がここしかない。校舎となると大きすぎるし、芸術コースの誰かが描いていそうな気がした。
その提案にいち早く反応したのは香椎先輩だった。眉をひそめると、ゆっくり高嶺先輩の方を見て、「へぇ」とニヤついた笑みを浮かべながらどこか不服そうな声で言う。
「高嶺、美術室のスケッチしてたのかぁ」
「……えーっと」
話を聞けば、高嶺先輩は照れ臭いという理由だけで美術室のスケッチを見せていなかったらしい。もちろん見せたり報告する義務はないけど、立ち上げた当初に香椎先輩がスケッチしていたのを見て「エモいことすんじゃん」と茶化したことがあったらしく、それを今自分がしているとなれば絶対いじられると思い、言い出しずらかったという。
香椎先輩は呆れた様子で「決まったな」と呟いた。
「高嶺、お前の美術室が見たい。描いてくれ」
「やっぱり言うと思った……」
「いいじゃん。最後を飾るにはぴったりだろ? 頼むぜ、部長」
最大級の信頼と嫌味を込めて言うと、香椎先輩はフォークでタルトの先を突き刺した。