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 灰の調整が終わるまで、香椎先輩が美術室にこもってイメージを固めたいと聞いた私は、しばらくカフェのシフトを増やすことにした。実際に描くのは先輩たちであり、私は外から見ているだけ。作業をしないのなら、邪魔をしてはいけない。
 今日は店長が不在のため、珍しく閉店までのシフトで入っている陽子さんと一緒だ。平日の夜とあって店内はゆったりとした時間が流れており、久々にドリンクを作るポジションの練習をしている。
 基本的に氷を入れて注ぐだけのジュース系はともかく、ペーパードリップで入れるホットコーヒーやエスプレッソマシンを使うカフェラテは、何度も繰り返しやっていくしかない。いくらチェーン店で統一されたレシピがあっても、揃えるレベルまでにスタッフを育てなければならないのが正社員の仕事だ。――と言っても、この店舗にいる正社員は店長だけなので、心労ばかりかけてしまっているのが現状である。
 その代わりに、バリスタとして大会まで出場経験のある陽子さんが、スタッフの指導に一役買ってくれている。店長のお墨付きなので、誰も文句は言えまい。
 今日も店内が落ち着いたのを見計らって、ドリップコーヒーを試飲してもらう。前回は私でも分かるほど酸っぱくて後味が酷いものだった。一口含んだコーヒーを、舌で転がしながら確認していく陽子さんは、飲み込んですぐに私に向かって微笑んだ。
「大分良くなったわね。これなら出してもいいかも」
「ほ、本当ですか!」
「ええ。でもこれから忙しくなるときはドリップじゃなくて機械で一気に作り置きにするし、アイスコーヒーが一番出るから、しばらく出さないかもね」
 そっちの方が簡単よ、と素敵な笑顔で答えられる。せっかく覚えたドリップコーヒーを店で出すことは先のようだ。
 ふと顔をレジの方へ向けると、ちょうど香椎先輩と高嶺先輩がこちらにくるのが見えた。普段なら部活で美術室にいるはずなのに、少しばかり珍しく思う。
「あ、佐知。来ちゃった」
「いらっしゃいませ、今日は美術室で準備するって言っていませんでした?」
「大体終わったから早めに切り上げた……んだけど、明日が授業ノートの提出だって忘れてたから写さないといけなくてさ、ファミレス入るよりも美味しいコーヒーが飲みながらの方がいいなーって思ってこっちに香椎を連れてきた。あ、俺はアイスコーヒーね」
 高嶺先輩が注文する傍らで、香椎先輩はしかめっ面でメニューを食い入るようにして眺めている。書かれている文字が小さいから読みにくいのかもしれない。
「高嶺、この間のどれ?」
「んー? ああ、あれか。佐知、塩入りのキャラメルラテでアイスってできるかな?」
「できますけど……え、あれって香椎先輩の分だったんですか?」
 私が高嶺先輩と話すきっかけはこのカフェで、持ち帰りのメニューに困っていたからだ。「美味しかった」と感想を言われたから、てっきり高嶺先輩が飲んだのだと思っていた。
 すると先輩は思い出したように「ああ、実はさ」と続けた。
「あの日はやけに香椎の集中が切れたから差し入れしたんだよ。俺は甘いのあんまり得意じゃないから、コーヒーか紅茶しか頼まないんだけど『キャラメルラテにトッピングか、甘くてオススメのドリンク』って雑な注文を押し付けられて困ってたんだよね。あ、ちょっとだけ味見させてもらったよ。美味しかったけど、ずっとは飲み続けられないな、悪い」
 話を聞いて、思わずショーケースに入ったケーキに目を輝かせている香椎先輩を見る。
 そういえば初めて第八美術室に入った時、香椎先輩が買ってきてくれた牛乳パックのラインナップが異色だったのを思い出した。ミルクティー、ウーロン茶、いちごミルク。――私がミルクティーを選んだ後、香椎先輩が有無を言わさず自然にウーロン茶を高嶺先輩に渡し、自分はいちごミルクにストローを挿していた。もし私がウーロン茶を選んでいたら、高嶺先輩には何を渡すつもりだったんだろう。
「香椎先輩、甘いの好きなんですか?」
「疲れたときは甘いものって言うだろ?」
 香椎先輩はそう言って、ショーケースに飾られたタルトタタンを指さした。
 注文されたドリンクとケーキを二つずつ――あの後、高嶺先輩も甘さ控えめのチーズケーキを注文してくれた――を先輩たちが座るテーブルに持っていくと、高嶺先輩が授業用ノートを真っ白なノートに書き写している対面で、香椎先輩はクロッキー帳を眺めていた。
 私に気付いて、高嶺先輩がテーブルに広げたものを片付けながら言う。
「悪いな、本当はカウンターで受け取りなのに……」
「いえ、お気になさらず!」
 空いたスペースにトレーごと置くと、アイスコーヒーの水面が軽く揺れる。
 注文をもらってすぐ、アイスコーヒーが半分にも満たないことに気付いた陽子さんが「席で待っててもらって!」と起点を利かせ、他の準備をしている間に私が一杯分のアイスコーヒーをドリップコーヒーの要領で作ることになったのだ。私が提供するドリップコーヒーはこれが初めてになる。いくら見知った相手だからとはいえ、緊張しない訳がない。
 店をよく利用するという高嶺先輩は、アイスコーヒーの入ったグラスを取ると「あれ?」と不思議そうな顔をした。
「なんか今日のコーヒー、いつもと違う?」
「わ、わかるんですか? 浅煎りの豆で淹れたアイスコーヒーなんです。以前、高嶺先輩は陽子さん……じゃなくて、スタッフに『酸味のあるコーヒーが好き』だと話したことはありませんか?」
「えっ! もしかして陽子さんが覚えててくれた!?」
 慌てて「スタッフ」と言い直さなくてもよかったらしい。
「はい、それでちょうど、日替わり用で仕入れたコーヒーがあるから特別にって」
「へぇ、嬉しいなぁ。ちなみに浅煎りって?」
 浅煎りのコーヒーは、苦みの強い深煎りのコーヒーより酸味のあるフルーティーが特徴だと、陽子さんの受け売りをそのまま高嶺先輩に伝えた。ちなみにバイトを始めてから店のコーヒーの味を覚えるため、スタッフは出勤時に必ず味を確かめることになっている。……が、私は一向に区別がつけられない。陽子さんや他のバイトさんの花の香りが漂うとか、チョコレートっぽい後味とか言われてもいまいちパッとしない。こればかりは飲み比べていくしかない。
 高嶺先輩はアイスコーヒーを吟味しながら飲むと、私の方を見て笑った。
「結構好きかも。ありがとな。陽子さんにもお礼言っといて」
「は、はい!」
 ホッと胸を撫で下ろす。初めて作ったドリンクを提供したのが高嶺先輩でよかった。
「香椎も飲んでみる? ……っておーい、香椎?」