教室から強引に連れ出され、授業中に廊下を巡回している先生たちの目を掻い潜って第八美術室に向かう。部活での作業の関係で公欠扱いとされているとはいえ、非公認の美術部だからという理由で疑う先生は少なくない。
 日中の第八美術室に入ったのは、授業をサボって香椎先輩に連れてこられた時以来だった。
「それに着替えたら校庭のベンチに集合な。少し歩くから、靴も履き替えてこい」
 入ってすぐに香椎先輩がトートバッグを投げて渡すと、開いていたカーテンを閉めて出て行ってしまった。
 今からなにをするかを全く聞いていない。先程の笑みで何となく察しがついているけど、それをする工程が全くわからない。投げ渡されたトートバッグには、三年生が使っている紺色のジャージ――「高嶺」の刺繍入りだ――と軍手が入っている。確実に汚れる作業をすることは確かだ。
 言われた通りに着替え、昇降口にスニーカーに履き替えて校庭へ向かう。
 すでに香椎先輩がベンチに座っており、誰もいない校庭を眺めていた。足音で気付いたのか、近くまで来ると顔をこちらに向けて立ち上がった。品定めするようにじっと見ると眉をひそめた。
「やっぱり一年の時のでも佐知にはデカいな」
「そ、そうですね……え? 一年?」
「アイツ、この三年で十センチは伸びてる。中学の時なんて俺よりも小さかったのにな」
「高嶺先輩が……?」
 香椎先輩よりも小さかったというのは少し気になる。
「にしてもこのベンチ、日差しを吸収しすぎ。あちぃ」
 香椎先輩はそう言って、ベンチを怠そうに見つめる。
 今まで設置されていた木製のベンチは六月の大雨の日に落ちた雷で大破して、軽くて丈夫なアルミ製に交換された。まだ傷一つもついていないベンチは校舎に馴染むよう、座面を焦げ茶色、背もたれのアーチや脚を黒にペンキで塗られていた。
 先程まで座っていたそれを見て、香椎先輩がぼそっと呟く。を見て、ぼそっと聞こえた。
「味がねぇ」
「設置されたばかりですからね」
 これから学校に馴染んでいくところなのに、設置されたばかりのベンチに何を期待したのか。
「まだ新しすぎて馴染まないけど、きっと俺が卒業しても変わらないんだろうな」
「それって、どういう……」
「俺が失明したら、その直前までにある記憶が俺の視界だから」
「…………」
「高嶺から聞いたんだろ。……いや、アイツが勝手に話したんだろうけど、気にすんなよ。今まで通りでいてくれ」
 平然としたその表情は、貼り付けたような仮面にも見える。私はぐっと飲み込んだ。
 自分が失明したら。一生目が見えなくなったら。――考えるだけで不安が襲い掛かる。この先も見えるはずだった世界が、色が、形が何も分からない。自分の想像で作り出すしか見られない。
 私は、自分が無神経に聞いてしまったことを酷く後悔した。
 ……だから、二週間も美術室に行けなかったのかもしれない。実際に勉強もバイトも忙しかったけど、なにより香椎先輩と顔を合わせることを恐れていて、どこかで避けていた自分がいた。
「すみませんでした。私、先輩に失礼なことを」
「だから気にしてねぇよ。第六感は俺の特技みたいなモンだから。それより、さっさと宿題を提出しに来い」
 そろそろクロッキー帳も終わるだろ、と何でもお見通しだと言わんばかりに笑う。
 思わず涙が出そうになって、袖口で慌てて目元を隠す。ずっと美術室に置きっぱなしにしているのか、体操着から絵の具の匂いがした。