高嶺先輩は笑顔のまま、後ろでしかめっ面の香椎先輩に問う。
「どうするも何も、佐知(・・)だけで充分だろ」
 ――え?
 耳を疑った。……いやいやいや、まさか。香椎先輩が私の名前を呼ぶわけがない。空耳だ、きっとそうだ。すると、高嶺先輩が大きな溜息をついた。
「桑田さんだっけ? そういうことだからごめんね」
「えー? どうしてですか?」
「俺達、一応部活での公欠だからさ」
「部活なら、佐知だって入っていないですよ。なんでこの子だけいいんですか?」
「入ってるよ?」
「へ?」
 高嶺先輩の言葉に早紀が首を傾げる。私にも心当たりがない。そもそも入部は断られた身だ。すると先輩はポケットから、端に淡いピンク色のマスキングテープが貼られた四つ折り紙を取り出して開く。
 見覚えのあるそれに、私は思わずあっと声を漏らした。なんせそれは、お守り代わりにクロッキー帳に貼っていた私の入部届だったのだから。
「ほら、部長の俺が受け取ってるんだから、佐知(・・)は正式に部員。公欠扱いできるんだよ」
 清々しい笑顔で早紀の我儘を次々と返していく。話についていけない私は、ただ二人を交互に見ることしかできない。
 というか、いつ入部届出したっけ? 高嶺先輩もなんで名前で呼んでるんだっけ?
「佐知ばっかりずるいです!」
「どうして?」
「ちぃは何もできない子なんです! だから私が――」
「……しょうがないなぁ」
 やれやれ、と肩を落とす。諦めて連れて行ってくれると察した早紀がぱぁっと顔を明るくした瞬間、高嶺先輩は早紀から私を強引に引き剥がした。早紀がずっと掴んでいた腕の圧迫感から解放されると、先輩が「昼飯はお弁当?」と聞いてくる。
「こ、購買で買う予定で……」
「そう、じゃあいっか。香椎と先に行っててくれ。俺は彼女と話してから行く」
 香椎先輩との悪ふざけで怒るのは別として、普段から温厚な高嶺先輩が本気で怒っているところは見たことがない。あっても笑って流すタイプだろうと思っていたが、爽やかな笑顔には似合わない、苛立ちのこもった低い声に思わず恐怖を感じた。後ろで見ていた香椎先輩もビクッと肩を震わせている。
「さっさと行って」
「は、はいぃ! 香椎先輩、行きましょう!」
 ああ、これは無暗に踏み込んではいけない。一刻も早くこの場から立ち去らなければならないような気がして、私は香椎先輩の腕を引っ張って廊下を駆けだした。興味本位で後ろを振り向いた時の、珍しく早紀が恐怖で目に涙を溜めていたのは見間違いだと信じたい。
 廊下を駆け抜けて非常階段に駆け込んだ。息を整えながら、掴んでいた香椎先輩の腕を離す。先輩もふぅ、と大きく息を吐いた。
「お前……桑田とかという奴と中学から一緒なの?」
「はい……まぁ、ちょっと」
 今頃、早紀が高嶺先輩と何の話をしているのか、心配で仕方がない。それを察したのか、香椎先輩は「大丈夫」だと言う。
「高嶺に口で勝てる奴はいねぇから。俺が一番分かってる」
「……それって、大丈夫じゃないですよね。というか、私っていつ入部しましたっけ」
「この間来た時に落としていったんだろーが。さっさと行くぞ、佐知」
「は、はい……ってなんでさっきから名前なんですか?」
「ただのマウント。お前は幸せじゃん」
「え……?」
「『明日へ』を見て入学して、その絵の旅立ちを見届けた。その目でこれからもいろんなものを見てていられる。これ以上の幸せがどこにある?」
 香椎先輩が非常階段を下り始める。これ以上聞いても答えてくれないと察して黙って後を追った。方向はいつもの第八美術室だ。
「あの、何するんですか? 素材がどうとか……」
「俺がこの間下描きしてた絵、覚えてるか?」
「……まさか」
 私が引きつった表情をすると、香椎先輩は悪いことを考えているような、ニヤリと口元を緩めた。