警察官になりたいと思ったのは、突然だった。
 両親が交通事故で死んで、車通りの多い場所が苦手になった。出来る限り徒歩で、仕方のない場合は自転車で移動して、あの事故のことを思い出さないようにしていた。
 生きていてほしかった、という切望よりも何故両親だったのか、という疑問の方が強かった。あの時悪かったのは飲酒運転をしていた相手の方で、淀野家には何の過失もありはしなかったから。
 何故両親だったのだろう。その問いは、朝ご飯を食べている時も、登校している時も、授業中も、バスケをしている時だって、淀野の周りについてまわった。
 ある日、交通整備をしている警察官を見た。白いバイクに乗って、違反者を追う。それを見て「ああ、あれが自分のやるべきことだ」と思った。
 中学一年の冬の終わり、桜の気配が忍び寄ってくる頃だった。



 それからすぐに病気が発覚し、結局夢は諦めざるを得なかった。暇な時間が多いと、考える時間も多くなる。もうきっぱりと折り合いをつけてしまったので警察になる夢に未練はない。けれど、新たな夢は出来た。
 それが『みんなとの卒業』だ。
 富川が与えてくれた、小さな、けれど大きな夢。これが叶うのに、ふたりはもちろん医師も担任も祖母も協力してくれた。
 今日、やっと夢の舞台に立つ。
 看護師に手伝ってもらいながら車椅子に乗り、祖母に押してもらって、車椅子で乗車出来る車に乗り込む。運転手は祖母だ。まだ運転免許証を返納する前で良かった。
 晴れ晴れとした気持ちだった。今日が、忘れられない一日になる。
 なのに。
「……」
 淀野は、車に乗った瞬間から、どんどん顔から血の気が引いていった。



「佐久! おまえは生きて……っ!」
 ひしゃげた助手席の車体から、頭を真っ赤に染めた母が手を伸ばしてくる。運転席にいた父は、ぴくりとも動いていない。
「ぅ、あああああああっ‼」
 母が叫んで、渾身の力でこの体を突き飛ばした。痛みと怠さで動かなかった体が、歪んだドアの隙間から投げ出される。どすん、と自分の体から鈍い音がした。
 そして、鼓膜を破るような音が頭を揺らして、車が真っ赤に包まれる。むせるような熱気と痛みが肌を撫でる。
 油と、肉と、何かが燃える臭いがした。
 それから、車という乗り物を見る度に背筋が冷える心地がするのだ。



「ぅ、え」
 エンジンがかかって小さく震える車内で、淀野は口元を押さえて嘔吐いた。異変に気付いた祖母が振り返る前に、そのまま喉にせりあがってきたものを吐き出す。
 止められなかった。気持ち悪さが増す。
 手が震える。背筋が冷える。呼吸が出来ない。視界が赤く染まる。鼻に、ないはずの臭いがまとわりつく。
 お母さん。お父さん。
 助けたいのに、何故この体は動かないの。



「……来ねえなあ、淀野」
「連絡ない……何かあったのかな」
 おろおろとする富川の後方で、菅谷もおどおどとこちらを見ている。淀野を迎える準備も手筈も何もかも整っているのに、当の本人が来ないから心配しているのだ。欠席の連絡も届いていないから、なおさら。
 校門には、卒業を心待ちにする保護者であふれていた。彼らもそろそろ体育館に入って、それが済んだら卒業生の入場が始まる。
「……もう時間だ。行かないと、俺たち入場出来なくなるぞ」
「うん……けど、もう少し」
 何で来ないのか。富川と稲戸は、校門から見える道路をきょろきょろと見回す。
 当人が嘔吐と過呼吸で大変なことになっていたことは、卒業式が終わってしまった後に知らされた。