【7】
「ね、ねえ、上城さん!」
その日は登校日だった。
名緒の学校では、自由登校期間に入ってからも、週に一度は登校日が定められている。まだ受験が終わっていない生徒もいるため、必ず出てこなければならないというわけでもないのだが、その日は学校にやってくる生徒が多い。
そして、クラスメイトのひとりが興奮したように話しかけてきたのは、そんな登校日のうちの一日だった。
ホームルームを終え、陽菜と雑談を交わしていた名緒は、突然呼ばれた名前に振り向いた。
「何?」
同じクラスなので当然名前は知っているし、話したこともあるが、あまり親しいというわけでもない相手だった。
なんの用だろうか、と首をかしげる名緒に対し、彼女はそこそこ大きな声で、質問をぶつけてきた。
「上城さん、卒業したら芸能事務所に入るって本当!?」
その声を耳に入れたのであろう周囲が、にわかにざわめくのがわかった。隣から、「あちゃ~」という陽菜の小さな声が聞こえてきた。
教室内の空気が色めき立つのを感じながら、名緒は大きくため息を吐きたいのを、なんとか堪える。
「……本当だよ。この春、東京に行くことになってる」
名緒の返答に、目の前の彼女が黄色い声を上げた。周りからも、「マジかよ」「すご~い」といった声が漏れ聞こえてくる。
見かねたように、傍らに立つ陽菜が割って入った。
「一応、あんまり他の人には言わないであげてくれる? ほら、名緒のファンの子とかがまた騒ぎそうだしさ~」
「あ、そ、そうだよね! ごめんね!」
茶目っ気を交えた陽菜の忠告に、彼女は慌てた様子で頭を下げた。
いそいそと踵を返し、自分のグループの輪へと戻っていく背中を見送った後、名緒は額に手を当てて今度こそため息を吐いた。
「……そういえば、あの子のお母さんとうちのお母さん、同じ料理教室に通ってた気がする」
「あー、じゃあそこで情報漏れちゃったのかもね」
──高校卒業を機に上京し、芸能事務所に入るというのは、事実だった。
名緒はそのことを、身内以外だと親友の陽菜にしか打ち明けていなかった。まだなんの活動もしていないうちから騒がれるのが嫌で、秘密にしていたのだ。
(お母さん……口止めしといたのに)
帰ったら一言文句を言おう、と心に決めたところで、名緒はふと視界に映り込んだ人影に気付いた。
慧だ。慧が、教室の片隅に浮かび上がり、こちらをじっと見つめていた。
おそらく彼も、今の会話を聞いていたのだろう。物言いたげな、興味深げな……それでいて、どことなく寂しそうな色を浮かべるその瞳が、名緒のことを見下ろしていた。
「芸能界に興味があったなんて、意外だった」
クラスメイトを全員見送った後、いつものようにふたりだけが残った教室で、慧はそう話しかけてきた。
「……特別、興味があったってわけでもないんだけど」
「へえ、それならどうして?」
「……去年、東京で一人暮らししてる姉のところに遊びに行ったんだけど……その時に、スカウトされて」
二年から三年に進級する間の、春休みのことだった。
当時、名緒の将来の選択肢に「芸能界」というものは一切なかったので、正直に言うと、非常に戸惑った。
しかし姉や母はやたらと乗り気で、その頃から「こんなチャンス誰にでも与えられるものじゃないんだから!」などと言ってやたらと背中を押してきた。
それでもどうするべきなのかを悩み続け……けれど年末に、ようやく決心を固めた。
事務所にはすでに連絡を入れ、春から上京して本格的に活動を始めることになっている。
「そっかぁ……でも、うん。確かに」
ひらりと浮いた慧は、名緒の真正面に来ると、まじまじと見つめてきた。その真っ直ぐな視線にたじろいでいると、慧は納得したようにうなずいてから、柔らかく笑む。
「名緒は、綺麗だから。芸能界、向いてると思う」
恥じらいもなくそのようなことを告げながら、慧はさらに目を細める。
「応援してる」
そう言って微笑む慧の瞳に、既視感を覚えた。
先程、名緒たちの会話を聞きながらこちらを見下ろしていた時も……彼は、同じような色を瞳に宿していた。
──寂しげな、色を。
「……慧」
名前を呼ぶと、彼はくるりと名緒に背を向ける。
そうして、振り返らないままぽつりとつぶやいた。
「……遠くへ、行ってしまうんだね」
表情の見えない、後ろ姿。
落とすようにつぶやかれた、言葉。
それが。
『奈緒ちゃんは、ずっと変わらないでいてね』
記憶の中の咲と重なり、名緒の中に小さな引っかかりを残した。
「ね、ねえ、上城さん!」
その日は登校日だった。
名緒の学校では、自由登校期間に入ってからも、週に一度は登校日が定められている。まだ受験が終わっていない生徒もいるため、必ず出てこなければならないというわけでもないのだが、その日は学校にやってくる生徒が多い。
そして、クラスメイトのひとりが興奮したように話しかけてきたのは、そんな登校日のうちの一日だった。
ホームルームを終え、陽菜と雑談を交わしていた名緒は、突然呼ばれた名前に振り向いた。
「何?」
同じクラスなので当然名前は知っているし、話したこともあるが、あまり親しいというわけでもない相手だった。
なんの用だろうか、と首をかしげる名緒に対し、彼女はそこそこ大きな声で、質問をぶつけてきた。
「上城さん、卒業したら芸能事務所に入るって本当!?」
その声を耳に入れたのであろう周囲が、にわかにざわめくのがわかった。隣から、「あちゃ~」という陽菜の小さな声が聞こえてきた。
教室内の空気が色めき立つのを感じながら、名緒は大きくため息を吐きたいのを、なんとか堪える。
「……本当だよ。この春、東京に行くことになってる」
名緒の返答に、目の前の彼女が黄色い声を上げた。周りからも、「マジかよ」「すご~い」といった声が漏れ聞こえてくる。
見かねたように、傍らに立つ陽菜が割って入った。
「一応、あんまり他の人には言わないであげてくれる? ほら、名緒のファンの子とかがまた騒ぎそうだしさ~」
「あ、そ、そうだよね! ごめんね!」
茶目っ気を交えた陽菜の忠告に、彼女は慌てた様子で頭を下げた。
いそいそと踵を返し、自分のグループの輪へと戻っていく背中を見送った後、名緒は額に手を当てて今度こそため息を吐いた。
「……そういえば、あの子のお母さんとうちのお母さん、同じ料理教室に通ってた気がする」
「あー、じゃあそこで情報漏れちゃったのかもね」
──高校卒業を機に上京し、芸能事務所に入るというのは、事実だった。
名緒はそのことを、身内以外だと親友の陽菜にしか打ち明けていなかった。まだなんの活動もしていないうちから騒がれるのが嫌で、秘密にしていたのだ。
(お母さん……口止めしといたのに)
帰ったら一言文句を言おう、と心に決めたところで、名緒はふと視界に映り込んだ人影に気付いた。
慧だ。慧が、教室の片隅に浮かび上がり、こちらをじっと見つめていた。
おそらく彼も、今の会話を聞いていたのだろう。物言いたげな、興味深げな……それでいて、どことなく寂しそうな色を浮かべるその瞳が、名緒のことを見下ろしていた。
「芸能界に興味があったなんて、意外だった」
クラスメイトを全員見送った後、いつものようにふたりだけが残った教室で、慧はそう話しかけてきた。
「……特別、興味があったってわけでもないんだけど」
「へえ、それならどうして?」
「……去年、東京で一人暮らししてる姉のところに遊びに行ったんだけど……その時に、スカウトされて」
二年から三年に進級する間の、春休みのことだった。
当時、名緒の将来の選択肢に「芸能界」というものは一切なかったので、正直に言うと、非常に戸惑った。
しかし姉や母はやたらと乗り気で、その頃から「こんなチャンス誰にでも与えられるものじゃないんだから!」などと言ってやたらと背中を押してきた。
それでもどうするべきなのかを悩み続け……けれど年末に、ようやく決心を固めた。
事務所にはすでに連絡を入れ、春から上京して本格的に活動を始めることになっている。
「そっかぁ……でも、うん。確かに」
ひらりと浮いた慧は、名緒の真正面に来ると、まじまじと見つめてきた。その真っ直ぐな視線にたじろいでいると、慧は納得したようにうなずいてから、柔らかく笑む。
「名緒は、綺麗だから。芸能界、向いてると思う」
恥じらいもなくそのようなことを告げながら、慧はさらに目を細める。
「応援してる」
そう言って微笑む慧の瞳に、既視感を覚えた。
先程、名緒たちの会話を聞きながらこちらを見下ろしていた時も……彼は、同じような色を瞳に宿していた。
──寂しげな、色を。
「……慧」
名前を呼ぶと、彼はくるりと名緒に背を向ける。
そうして、振り返らないままぽつりとつぶやいた。
「……遠くへ、行ってしまうんだね」
表情の見えない、後ろ姿。
落とすようにつぶやかれた、言葉。
それが。
『奈緒ちゃんは、ずっと変わらないでいてね』
記憶の中の咲と重なり、名緒の中に小さな引っかかりを残した。

