春にたつ

【5】

 どうして最近になって、みんなが「慧が見えない」ことに気が付き、行方不明だと騒ぎ始めたのか。
 そのことについて慧は、呪いが解け始めているのかもしれない、と見解を述べた。
 今は呪いが解ける途中の段階にあり、慧がクラスメイトであるという認識はそのままに、これまでは見えなくても違和感を覚えなかったのが、整合性を保てなくなってきているようだ、と。
「五年も経つからね。呪いの効力が薄れているんじゃないかな」
 相変わらずぷかぷかと空中に浮かびながら、慧はそう言った。

 この日……つまり、慧と初めて会った翌日。名緒は、クラスの誰よりも早く登校した。
 果たして日をまたいでも慧のことが見えるのか、と懐疑的に思う部分もあり、それを一刻も早く確かめたかったというのが理由だ。
 教室に入ってきた名緒を見て、誰かの机の上に腰掛けていた慧は、振り返って「おはよ~」と手を振った。
 奇妙な現実はやはり夢や幻ではなかったのだ、と複雑な気持ちになりつつも、昨日と変わらずに慧がそこにいることを、何故か心のどこかで安堵した。

「……呪いって、効力が薄れるものなんだ」
「そういうものなんじゃない? 知らんけど」
 無責任な言葉を付け加えられ、思わずじとりとした目を向けてしまうが、実際本人にもわからないことは多いのだろう。ここから出られない、というふうにも言っていた。
「そもそも、僕だって『呪いをかけてやろう!』って意図的にやったわけじゃなくて、気付いたらこうなっちゃってたわけだしね」
 呪いをかけた張本人にもよくわかっていない、というのがなかなか厄介だな、と思う。とはいえ、誰かの体や心に悪影響が出るだとか、そういった類の呪いではない分、まだましだともいえるが。
「……そもそも、見えてないし話してないのに認識されてる、ってどういう感じなの?」
「う~ん……例えば、クラスの子がふたりで話してるじゃん。その中で、『慧にも聞いてみよう』とか『慧が言ってたんだけど』とか、そういうふうに話題に出てくるんだよ」
 なるほど、となんとなく理解する。それでも、存在そのものを捉えているわけではないのに、認識だけはできているというのは、やはり奇妙な感じだ。
 そんな話をしているうちに、登校してきた生徒が教室に入ってきた。窓枠にもたれていた体を起こし、名緒は自分の席へと向かう。
 そうして何事もなかったかのように、いつも通りの日常を始めた……つもりだった。

 ところが、授業が始まってわかったことがある。
 下津浦慧という男……何かと、やかましいのである。
「登場人物の心情を読み解こうって問題ほど野暮なものはないと思うんだよね。いや別に問題自体はあってもいいと思うんだけどさ、そこに正解を設けてしまうことがナンセンスって気がしない? そんなの読み手の数だけ答えがあればいいっていうか、正解を作ってしまうことによって作品を読んだ瞬間に感じたものが薄れてしまうっていうか」
 名緒の真横にふよふよと浮遊しながら、他の生徒には聞こえないのをいいことに、慧は現代文の教師の解説に難癖をつけている。正直、気が散って仕方ない。
 しかし、声を上げて文句を言うわけにもいかない。そんなことをすれば、一気に変人扱いだ。
 ノートの隅に、『うるさい』と書くことで、慧に訴えた。
 彼はすぐにそれに気付いたものの、
「だって、嬉しくて」
 と反省の色を見せることなく、にっこり笑ってみせた。
『嬉しい?』
 筆談を続けると、慧は「うん、そう」とうなずいた。
「僕と話してくれる子なんて、誰もいなかったから。名緒が僕の声を聞いてくれてるのが、嬉しくて」
 そんな風に無邪気に喜ばれてしまうと、何も言い返せなくなる。何と返すか考えあぐねて、コツコツとシャーペンの先でノートを突いている間に、慧はふわりと浮遊し、窓辺へと移動した。
 そうして、教室の中を、そこで授業を聞いているクラスメイトたちを、静かに眺めていた。
 その瞳には、柔らかい色が浮かんでいる。愛おしいものを、見つめるような。

 ──ああ、そうか。

 名緒はその時、ようやく理解した。
 彼は……慧は、たしかにこのクラスの一員なのだと。誰にも見えず、誰とも話せず、ただ「認識されているだけ」という、曖昧な存在。
 それでも慧は、間違いなく名緒たちのクラスメイトだった。