【2】

 人間、本当に驚いたときは声が出ないものなのだな、と。
 その日の帰り際、名緒は思い知った。

「あ、目が合った」
 
 目を丸くして硬直した名緒を見て、その男子生徒は得心がいったかのような声を上げた。
 色素の薄い瞳をぱちぱちと瞬いた彼は、名緒が今まさに通ろうとしていた教室の出入り口の真ん前に……浮かんでいた。
 しかも、逆さまの状態で。
 まるで天井が地面であるかのように、重力を無視した状態で、ぷかぷかと浮遊していたのだ。
「見えてるよね? 僕のこと」
 出入り口前で突然立ち止まった名緒に、まだ教室内に残っていたクラスメイトたちが怪訝そうな目を向けながら横を通り過ぎていく。どうやら名緒以外には、彼が見えていないらしい。
 数秒ののち、ぎぎぎ、と潤滑油の切れた機械のような動きで、名緒はUターンした。落ち着こう。一旦、自分の席に戻ろう。
 しかし。
「ねぇねぇ。無視しないでよ~」
 自分の席に座り直した名緒を追って、例の男子生徒も浮かんだままついてくる。
 さっと周囲に視線を走らせ、自分の近くには誰もいないことを確認すると、机を見つめて視線を落としたまま、名緒は小声で彼に話しかけた。
「……君、下津浦慧?」
「あ、うん! そうそう! 理解が早くて助かる~」
 突然「いなくなった」とされる男子生徒。そして今、突然「現れた」男子生徒。
 ここ最近、ずっと頭の中にあったその名前と、目の前の彼を結びつけることは容易だった。
 尋ねたいことは山ほどあった。どうして自分以外のみんなは慧がクラスメイトであると認識しているのか。どうして自分には慧の記憶がないのか。どうして突然、名緒の前に現れたのか。
 しかしその山ほどある質問よりも先に、真っ先に名緒の口から出たのは、

「幽霊って……ほんとにいるんだ」
 
 という独り言だった。