【1】

「でもさ、誰も何も聞いてないってのは、やっぱり変だと思うんだよね。だって下津浦くんってみんなと仲良かったじゃん? 家出するにしても、誰かひとりぐらいはそのこと知ってそうじゃない? でもみんな知らないっていうのは、やっぱり何か事件に巻き込まれたのかなーって。どう思う?」
 どう、と言われても。
 ぺらぺらと喋り続けていた親友・陽菜(ひな)から投げかけられた質問に、名緒は答えあぐねる。
 一般選抜で大学受験をする生徒の中にはまだ試験を控えている者もいるが、陽菜は学校推薦型選抜で十二月に合格通知を受けていた。故に、受験に対する憂いもなく、こうして話題のクラスメイト――下津浦慧の行方に興味を引かれて仕方ないのだろう。最近、彼女はよくこうして慧の失踪に関する考察を名緒に聞かせてくる。
 とはいえ、考えを聞かれても名緒に答えられることは何もなかった。なぜなら名緒の頭の中には、「下津浦慧」という人物の情報が存在しないからだ。
 
 ――そう。
 名緒にとって何よりも不可思議なのは、クラスメイトたち、そして教師までもが、当たり前のように「下津浦慧」の存在を認識していることだった。
 しかし名緒の記憶では、そのような男子生徒はこのクラスにいなかったはずだ。
 病気か何かでずっと休学しているのだろうか、とも考えたが、周囲の話を聞くにどうもそういったわけでもないらしい。彼は冬休みに入るまでは、ずっと登校していたと。

(……しかも、みんなと仲が良かった、と)
 陽菜を話を聞いて、名緒は頭の中で慧の情報をアップデートする。
 いつも明るく、人当たりの良い性格。勉強もよくできて、進路について悩んでいる様子もなかった。そして、友人も多い。
 これまでに得た情報をつなぎ合わせると、「下津浦慧」の人物像はそのようなものらしい。
 しかしどんなに人物像が明確になろうと、名緒は彼の顔も声も仕草も、何ひとつ思い描くことはできなかった。
 周囲があまりにも当然のように、慧というクラスメイトが存在するのを前提に会話をしているので、名緒は今まで誰にも「そんな子いたっけ?」と尋ねることができずにいた。
 自分の記憶が間違っているのか。それとも、周りのみんなの認識が間違っているのか。
「ちょっと、聞いてる?」
 考え込んでいた名緒は、下から覗き込むようにして陽菜に声をかけられ、我に返った。
「ああ、うん。ごめん」
「んもう、ぼーっとしちゃって」
 頬を膨らませた陽菜は、しかし次の瞬間には、眉尻を下げて心配そうな表情を浮かべる。
「最近、そういうこと多くない? なんか悩みでもある?」
 そう言われて、慧のことについて考え込むあまり、ぼんやりとして見えることが多くなっていたのかもしれない、と初めて自覚する。
「いや……悩みってわけじゃ」
「ふーん? ま、それならそれでいいんだけど。名緒ならアンニュイな顔してても絵になるし」
「なにそれ」
 苦笑すると、陽菜はにひひ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そのまんまの意味。あーあ、今年のバレンタインは名緒が女子に囲まれてチョコ押し付けられるところ見られないの残念だなぁ」
「自由登校だからね」
 173cmという高身長のためか、名緒は女子生徒からやたらと人気があった。陽菜の「女子に囲まれて」という表現はいささか大げさな気がしなくもないが、昨年や一昨年のバレンタインに話したこともない女子生徒からもチョコレートを渡されていたのは事実である。
「羨ましいよ、あたしももうちょっと身長ほしかったぁ」
「……平均的じゃん」
「平均よりちょっと小さいの! 大学生になったら、思いっきりおしゃれして大人っぽくなってやるんだから」
 そう言って唇を尖らせる陽菜のあどけなさが、眩しく見えた。

『──奈緒ちゃんは』

 脳裏に蘇る声と、胸を小さく突く痛みに、目を細める。

『奈緒ちゃんは、ずっと変わらないでいてね』