【11】
そうして迎えた、三月の始まりの日。
名緒たちが、三年間通った学び舎を──卒業する日だ。
「ふぅ……」
名緒を取り囲んでいた下級生たちからようやく解放され、息をついたところで、いつの間に近くまで寄ってきていたのか、陽菜に肩を叩かれた。
「おつかれ」
まるでひと仕事終えた後のようなねぎらいの言葉に、思わず苦笑を零す。
「いや~、随分と時間かかったね。もうだいぶみんな帰っちゃったよ?」
陽菜の言葉に周囲を見回してみると、確かにあれだけ各々で卒業を祝い、あるいは別れを悲しんでいた同級生や下級生、保護者らの姿は、随分と少なくなっていた。
……だが、それは名緒にとってはむしろ都合の良いことといえた。
「まあ、ちゃんと話したい子とか先生とかには先に挨拶しておいたから。うちの親も、早々に帰ったし」
「そ。私はまだお母さんいるから、このまま車に乗っけてもらって帰るつもりだけど。どうする? 名緒も乗ってく?」
陽菜の厚意に、けれど名緒は首を横に振った。
この後──どうしてもひとりで、向かわなければならない場所があったからだ。
「ううん。鞄、教室に置いてるし。それにあとひとり……話したい子がいるから」
「そっか。じゃあ、私は先に帰るね」
陽菜は名緒の「話したい子」が誰なのか、少しも追及することなく、ひらひらと手を振った。
親友である彼女とも、もうこの場所で過ごすのは最後かと思うと、名残惜しさが心をよぎる。
けれど、これで終わりではない。
これからだって話すことはできるし、会うこともできる。高校で過ごした思い出を、懐かしく振り返ることだってできる。
生きているのだから。
陽菜の言っていた通り、もうほとんどの生徒は帰ってしまっており、残っている生徒たちも校門や昇降口の方で屯しているようで、三年生の教室が集まる棟はひどく静かだった。
教室のドアを開くと、彼が振り向き、出迎えてくれる。
「卒業おめでとう、名緒」
真っ先にかけられた言葉は、祝福だった。
彼は、黒板を見ていたようだ。「卒業おめでとう」と、先程彼が口にしたのと同じ言葉が大きく書かれ、その周りは華やかなイラストで彩られている。下級生が手掛けてくれたのだろう。昨年は、名緒たちが先輩たちのクラスで同じようにメッセージを書いた。
「なんか、大荷物だね」
名緒の手元を見て、慧が吹き出した。視線を落として、苦笑する。
卒業証書のほかに、下級生や同級生からもらったプレゼントを抱えていた。花束などは小さいものでもかさばるので、なかなかに大変な量になってしまったのだ。
自分の席に向かい、それらの荷物を持参したトートバッグに丁寧に入れていく。それから、慧に向き直った。
……彼の体は、あの日からどんどん薄れていった。今はもう、靄のようにうっすらとしている。
「……結局、冬休みを境にクラスのみんなの呪いも解けかかってたのは……それも、私が自力で慧の呪いを解いたせい?」
「多分ね。ほら、ガラスとかって一箇所に穴が空くと他のとこにもそのヒビが広がるじゃん。そんな感じだと思う」
慧のたとえは端的で、けれどイメージとしてはとてもわかりやすかった。
名緒がうなずいていると、不意に慧に名前を呼ばれた。
「名緒」
慧は、穏やかに微笑んでいた。それは、かつての幼なじみを思わせるような、微笑みだった。
「僕は、消える」
慧のその言葉に、名緒は瞬きをすることで首肯した。
──わかっている。
もう、慧はここにとどまっていられない。……いや、とどまらない。
「君に、本当の意味で存在を認識してもらえたことで……そして、僕の未練を正しく理解したことで、もう思い残すことはなくなった。……もう、充分だよ。僕には、たくさんのクラスメイトができた」
晴れやかに、春の青空のように、慧は笑う。
「……そっか」
良かった、と心から思う。
そして。
「ありがとう、慧」
名緒の告げた感謝の言葉に、心当たりがないとでもいうかのように、慧はきょとんとする。
「私も、思い残すことなくこの町を出ていくことができる。咲のことは相変わらず大切で、それは変わらないけれど……だからといって、自分が変わることを恐れたりはしない。はっきりとそう思えたのは……慧のおかげだから」
ありがとう、ともう一度告げて。
それから、と続けた。
「慧も、卒業おめでとう」
そう告げると、彼は大きく目を見開いた。それから、ゆっくりと息を吐き出すようにして、微笑んだ。とても、嬉しそうに。
「……ありがとう」
照れたように視線を逸らすその表情は、初めて見るものだった。その瞳が、わずかに潤んで見えたのは。差し込む春の日差しが見せた、幻だろうか。
「これまでずっと見送る側だったから……なんか、変な気分だ」
「ふふっ」
思わず笑いを零すと、慧が驚いたようにぱっと顔を向ける。
「名緒が笑ったところ、初めて見たかも」
「え、そうだっけ」
「うん。少なくとも、僕に対しては」
思わず、自分の頬を触ってしまう。これからは、社会人としてやっていくのだ。もっと、愛想というものを身に着けなければいけないかもしれない。
「やっぱり、少し名残惜しいや。消えちゃうの」
へへ、とごまかすように慧が笑う。
「名緒と離れると思うとね、ちょっと寂しい」
「慧は、私の中にいるよ。ずっと」
咲と同じ。ずっとずっと大切な存在として、名緒の胸の中に、とどまり続ける。
名緒の言葉に、慧は柔らかな声で、「ありがとう」と返した。
「君の幸せを、心から祈ってる。……じゃあね、名緒」
そう言って、慧はすっとまぶたを伏せた。
ゆらりと、彼の姿かたちが揺らめく。
そうして、慧の姿は霧散し……。
次の瞬間。
まるで名緒の体に吸い込まれるようにして、消えていった。
「……」
自分の胸元に、手を当てる。
温かい。
体温だけではない、胸のうちに、確かな温もりを感じた。
自分の机にかけていた鞄と、もらったプレゼントを入れたトートバッグを手に取ると、名緒は身を翻した。
最後に一度、ドアの手前で足を止める。黒板の「卒業おめでとう」の文字を目に焼き付け、それから教室をゆっくりと見渡した。
自分が過ごした場所。慧が、たしかに存在していた場所。
「……一緒に行こう」
静かにつぶやくと、教室の外へと足を踏み出した。
そうして迎えた、三月の始まりの日。
名緒たちが、三年間通った学び舎を──卒業する日だ。
「ふぅ……」
名緒を取り囲んでいた下級生たちからようやく解放され、息をついたところで、いつの間に近くまで寄ってきていたのか、陽菜に肩を叩かれた。
「おつかれ」
まるでひと仕事終えた後のようなねぎらいの言葉に、思わず苦笑を零す。
「いや~、随分と時間かかったね。もうだいぶみんな帰っちゃったよ?」
陽菜の言葉に周囲を見回してみると、確かにあれだけ各々で卒業を祝い、あるいは別れを悲しんでいた同級生や下級生、保護者らの姿は、随分と少なくなっていた。
……だが、それは名緒にとってはむしろ都合の良いことといえた。
「まあ、ちゃんと話したい子とか先生とかには先に挨拶しておいたから。うちの親も、早々に帰ったし」
「そ。私はまだお母さんいるから、このまま車に乗っけてもらって帰るつもりだけど。どうする? 名緒も乗ってく?」
陽菜の厚意に、けれど名緒は首を横に振った。
この後──どうしてもひとりで、向かわなければならない場所があったからだ。
「ううん。鞄、教室に置いてるし。それにあとひとり……話したい子がいるから」
「そっか。じゃあ、私は先に帰るね」
陽菜は名緒の「話したい子」が誰なのか、少しも追及することなく、ひらひらと手を振った。
親友である彼女とも、もうこの場所で過ごすのは最後かと思うと、名残惜しさが心をよぎる。
けれど、これで終わりではない。
これからだって話すことはできるし、会うこともできる。高校で過ごした思い出を、懐かしく振り返ることだってできる。
生きているのだから。
陽菜の言っていた通り、もうほとんどの生徒は帰ってしまっており、残っている生徒たちも校門や昇降口の方で屯しているようで、三年生の教室が集まる棟はひどく静かだった。
教室のドアを開くと、彼が振り向き、出迎えてくれる。
「卒業おめでとう、名緒」
真っ先にかけられた言葉は、祝福だった。
彼は、黒板を見ていたようだ。「卒業おめでとう」と、先程彼が口にしたのと同じ言葉が大きく書かれ、その周りは華やかなイラストで彩られている。下級生が手掛けてくれたのだろう。昨年は、名緒たちが先輩たちのクラスで同じようにメッセージを書いた。
「なんか、大荷物だね」
名緒の手元を見て、慧が吹き出した。視線を落として、苦笑する。
卒業証書のほかに、下級生や同級生からもらったプレゼントを抱えていた。花束などは小さいものでもかさばるので、なかなかに大変な量になってしまったのだ。
自分の席に向かい、それらの荷物を持参したトートバッグに丁寧に入れていく。それから、慧に向き直った。
……彼の体は、あの日からどんどん薄れていった。今はもう、靄のようにうっすらとしている。
「……結局、冬休みを境にクラスのみんなの呪いも解けかかってたのは……それも、私が自力で慧の呪いを解いたせい?」
「多分ね。ほら、ガラスとかって一箇所に穴が空くと他のとこにもそのヒビが広がるじゃん。そんな感じだと思う」
慧のたとえは端的で、けれどイメージとしてはとてもわかりやすかった。
名緒がうなずいていると、不意に慧に名前を呼ばれた。
「名緒」
慧は、穏やかに微笑んでいた。それは、かつての幼なじみを思わせるような、微笑みだった。
「僕は、消える」
慧のその言葉に、名緒は瞬きをすることで首肯した。
──わかっている。
もう、慧はここにとどまっていられない。……いや、とどまらない。
「君に、本当の意味で存在を認識してもらえたことで……そして、僕の未練を正しく理解したことで、もう思い残すことはなくなった。……もう、充分だよ。僕には、たくさんのクラスメイトができた」
晴れやかに、春の青空のように、慧は笑う。
「……そっか」
良かった、と心から思う。
そして。
「ありがとう、慧」
名緒の告げた感謝の言葉に、心当たりがないとでもいうかのように、慧はきょとんとする。
「私も、思い残すことなくこの町を出ていくことができる。咲のことは相変わらず大切で、それは変わらないけれど……だからといって、自分が変わることを恐れたりはしない。はっきりとそう思えたのは……慧のおかげだから」
ありがとう、ともう一度告げて。
それから、と続けた。
「慧も、卒業おめでとう」
そう告げると、彼は大きく目を見開いた。それから、ゆっくりと息を吐き出すようにして、微笑んだ。とても、嬉しそうに。
「……ありがとう」
照れたように視線を逸らすその表情は、初めて見るものだった。その瞳が、わずかに潤んで見えたのは。差し込む春の日差しが見せた、幻だろうか。
「これまでずっと見送る側だったから……なんか、変な気分だ」
「ふふっ」
思わず笑いを零すと、慧が驚いたようにぱっと顔を向ける。
「名緒が笑ったところ、初めて見たかも」
「え、そうだっけ」
「うん。少なくとも、僕に対しては」
思わず、自分の頬を触ってしまう。これからは、社会人としてやっていくのだ。もっと、愛想というものを身に着けなければいけないかもしれない。
「やっぱり、少し名残惜しいや。消えちゃうの」
へへ、とごまかすように慧が笑う。
「名緒と離れると思うとね、ちょっと寂しい」
「慧は、私の中にいるよ。ずっと」
咲と同じ。ずっとずっと大切な存在として、名緒の胸の中に、とどまり続ける。
名緒の言葉に、慧は柔らかな声で、「ありがとう」と返した。
「君の幸せを、心から祈ってる。……じゃあね、名緒」
そう言って、慧はすっとまぶたを伏せた。
ゆらりと、彼の姿かたちが揺らめく。
そうして、慧の姿は霧散し……。
次の瞬間。
まるで名緒の体に吸い込まれるようにして、消えていった。
「……」
自分の胸元に、手を当てる。
温かい。
体温だけではない、胸のうちに、確かな温もりを感じた。
自分の机にかけていた鞄と、もらったプレゼントを入れたトートバッグを手に取ると、名緒は身を翻した。
最後に一度、ドアの手前で足を止める。黒板の「卒業おめでとう」の文字を目に焼き付け、それから教室をゆっくりと見渡した。
自分が過ごした場所。慧が、たしかに存在していた場所。
「……一緒に行こう」
静かにつぶやくと、教室の外へと足を踏み出した。

