春にたつ

【9】

 制服に着替えた名緒が向かったのは、しかし学校ではなかった。
 電車に乗って移動し、初めて訪れる地に降り立つ。同じ市内でも、大きな商業施設もなく住宅街となっているそこには、縁もゆかりもない。駅名だけは知っていたものの、訪れたことは一度もなかった。
 スマートフォンに表示したマップを確認しつつ、しばらく足を進めていく。まだ冬の厳しさを残す空風が、顔の表面を冷やしていった。
 閑静な住宅街に足を踏み入れ、二十分ほど歩いた頃。
 名緒は前方に、目的の建物を発見した。

『下津浦医院』

 住宅と併用しているのだと思われる建物には、そのように書かれた看板が掲げられていた。

 名緒が見つけた最初の記事には、このように綴られていた。
〈市内の雑居ビルの駐車場で「人が倒れている」と通りすがりの住民から119番通報があった。県警によると、発見されたのは市内に住む高校三年生の男子生徒。病院に搬送されたが、頭部外傷のため死亡が確認された〉
〈男子生徒はビルの屋上から転落したと見られ、県警は事故と自殺の両面で慎重に捜査を進めている〉

 ──自殺。
 その単語は、名緒に大きなショックを与えた。慧が自ら命を絶ったとは、思ってもみなかった。
 しかし、まだ断定するのは早いと目を通した次の検索結果。匿名で書き込める、大型掲示板。
 そこにはもっと具体的なことが、伏せられることなく、生々しく書かれていた。

〈ニュースになってる高校生の転落死、あれ同級生の弟だった〉
〈知らん〉
〈全国区じゃ大したニュースになってないだろ〉
〈下津浦慧のやつな。あれって結局、事故なわけ? 自殺なわけ?〉
〈自殺でしょ〉
〈自殺だと思う。あそこ実家が病院経営してて親がめちゃくちゃ厳しいって前に兄貴がぼやいてたことある〉
〈三年だっけ? 受験ストレスってやつ?〉

 勝手な推測が書き連ねられる中、名緒の目は「病院経営」という文字に釘付けになった。
 下津浦。よくある名字ではない。
 案の定、市の名前と「下津浦」「病院」でマップを検索してみたところ、該当した件数はひとつだけだった。

 きっと、名緒の見当は間違っていない。
(ここが……慧の家……)
 知りたかった彼の情報を、ここでなら得ることができる。
 ──しかし、どうやって?
 いきなり訪ねて、亡くなった息子のことを聞きたいなどと不躾に聞くのはいくらなんでも憚られる。名緒は、当時の慧のクラスメイトでもなんでもないのだから。
 勢いでやってきたはいいものの、どうするべきか……と文字通り立ち往生している名緒を怪訝そうな目で見ながら、ひとりの女性が通り過ぎていく。
 名緒の母親と同じくらいの年齢のその人は、買い物にでも行った帰りなのだろう。食品などが入ったエコバッグを提げていた。
 それを見て、ぴんと来る。
「あ、あの……!」
 とっさに、追いかけて声をかけていた。見知らぬ高校生に突然話しかけられ、向こうも目を丸くしている。
「なにか?」
 食品を買って徒歩で帰宅している。ということは、おそらく女性はこの近所に住んでいるのではないかと思ったのだ。
「あの……ここの、下津浦さんのお宅についてなんですけど……」
 そう言って『下津浦医院』の看板を指差すと、女性は「ええ」とうなずいた。その気安さを感じさせる声音と表情に、名緒は確信する。この人は、下津浦家を知っている。
「息子さん……いらっしゃいましたよね?」
「ええ、いましたよ。ふたり」
「その……弟さんって、五年ほど前に……」
 名緒が言いよどむと、女性は眉根を寄せて、気の毒そうな表情を浮かべた。
「そうよ。慧くん……弟の方は、五年前に亡くなったの。……自殺だって、このへんでももっぱらの噂になったけどねぇ……」
 私も、小さい頃から慧くんを知ってるものだから、随分と驚いたわ……女性はそのように話を続けた。
 彼女の話を聞きながら、名緒は大型掲示板で書かれていたことが信憑性を帯びていくのを感じ、密かに唇を噛んだ。