気づけばステージから校長は降りていた。話の終わりを聞き逃したことは、少し、後悔。
代わりに登壇した少女が、マイクの前でお手本さながらの礼をとる。卒業日和の今日はきれいにまとまっているくせっ毛が、ぶわりと逆撫でしたようになびく。
顔を上げた少女は、早くも泣きじゃくっていた。
涙で濡れた空気に、笑いが生まれる。がんばれ、と誰かが言う。声が増えていく。少女も、笑った。
送辞──一度口を開けば、軽やかな春風をまとう美声が、天井まで吹き抜ける。毎週月曜日、朝会で聞いていた、あの声だ。
がんばり屋さんな生徒会長。わたしたちのかわいい後輩。
「ステッキひとつで、あの子の恋を叶えたこともあったなあ」
「ステッキつうか、長傘な? 梅雨入りしたときの話だろ。用意周到に折り畳みも持ってたから、貸してやったってだけ。しかも貸したのは長傘のほう。……ま、そしたらなぜか、あいつは男と相合傘して帰って、そのままできちまったわけだけど」
「学校イチのラブラブカップルよね」
「ああいうのをバカップルっつうんだよ。周りみんなおもしろがって応援してさ」
朝会でいつも前を見据えていた視線は、今は泳ぎに泳ぎまくっている。ここからでもわかるほどなのだからそうとうだ。
一階席の最前列。マッシュ頭の彼に、純粋な心ごと持っていかれている。彼のほうも、箱ティッシュを持参し、さらには全消費している。
本当に、お似合いだと思う。
「わたしだってね、街をゆけば応援されちゃうんだよ」
「幼稚園児にな。課外学習で幼稚園に行ったとき、ガチでヒーローショーやったら、めちゃくちゃ懐かれてたじゃねえか。それ以来、見かけるたび声かけられて、30分は離してくれねえ」
「わたしたちの30分は、こどもにとって1分にも満たないんだろうね」
「無邪気にはしゃいでっからな。なんて言ってっか聞き取れねえことも多いし」
つんととんがった口の先は、ほどなくしてゆるやかにほどけていく。
彼もたいがい無邪気なひと。
「わたしはわかるよ。異世界の言葉だってわかる」
「はいはい、英語とフランス語な。異世界っちゃあ異界だけれども。スピーチコンテストで圧倒的優勝して、テレビにも出たんだっけ。かっこよすぎだろ」
「…………かっこいい?」
「ああ、すごく」
即答だった。本人に向かって恥じらいもなく、何度も同じ言葉を繰り返す。
ふわりと、薄紅の花弁が揺れた。まがいものであろうと、たしかに、やさしい香りがした。
「ふふ」
「ん?」
「知ってる」
「え?」
「わたし、かっこいいでしょ」
あぁ、しまったな。はじめて、声が震えた。
「……でもね。それは全部、夢なんだよ」
温かな声援を受けながら、生徒会長が真っ白な手紙をそっと置く。それに応えなければいけない。
答えを、言わなければ。
「ずっと、かっこいいわたしに変身してた。ずっと、ずっと、夢を見せてただけなの」
社会の縮図のような数の目を、気にしないようにしていても、圧に感じて仕方がなかった。
上手に、上手に、過ごした。
かっこいいって、思われたかった。
隅々までアイロンをかけた制服が、ちっぽけな裸を守ってくれた。
「最初は自分がそれを望んで、かっこよくがんばってたのにね。……だんだん、欲が出てきちゃった」
「欲?」
「魔法少女を好きになってくれたように、本当のわたしのことも、好きになってほしいって」
力任せにプリーツスカートを握りしめた。指先が熱くなる。ちょっと痛い。
「すき、に……って、え、誰に。みんな?」
「あなたに」
1、2、3と数えて、瞳を持ち上げる。
受験の願掛けに張り切って刈り上げたのだと、自慢げに見せてくれた坊主頭。照明の光を反射させて、わたしの視界まできらめかせる。
それは、まるで。
「え……えっ? ……え、と、それって、つまり……告白……? えっ、て、ていうか、なんか、おれが、す、好きって思ってんのは確信してるみてえな言い方、じゃね……!?」
「バレバレだよ」
「え!?」
さすがにやばいと焦ったのか、彼は自分の口を手で覆い隠した。そのまま一時停止。心肺まで停止してしまいそうで、赤らむ手の甲をちょんとつついた。案の定、びくりと跳ねる。
「今までわたしのこと事細かに言い返せてたのは、ずっと、わたしを目で追ってくれていた証拠でしょ?」
「な、な、な……!?」
「バレバレ」
「い、いや、お、おれは、べつに、その、あの、」
「ふふ」
「……っ」
「そんなあなただから、わたしは……」
起立、とマイク越しに指示が飛ぶ。一階席から順に卒業生が立ち上がる。
グランドピアノが音を紡ぐ。3年経ってもなお歌い慣れない校歌が、この場にふさわしいエンディングテーマ。
右隣をゆすり、わたしたちも椅子から起きた。わずかに背伸びをして、指揮者を見つける。
スカートに寄ったしわを、無意識に広げていた。左隣と、肌がぶつかる。触れる小指に、繋がりを求めた。
「……あのね、わたし」
「う、うん」
「魔法が解けても、さよならしたくない」
もうすぐ式がお開きになる。
自分たちの手で桜を散らす。
制服を脱ぐ。
少女じゃなくなる。
それでも。
「するかよバァカ」
「バカって」
「隣で教えてもらわねえと。魔法少女の素顔ってやつ」
小指がきゅっと結ばれる。指の腹を擦り寄せる。歌い終えると、どちらともなく離れていく。
メロディの余韻が消える。静寂に包まれる。
凛と張らせた背中のほうから、力が抜けていく。鼓動がたおやかに落ち着いていく。
ひと粒だけ、涙があふれた。
そうか、これからわたしは、わたしになるんだ。
end