カルケルが引きずられた部屋には、一組の男女が待っていた。
「連れて参りました」
「ご苦労様です。あとは、私達に任せて下さい」
女の方が、しっとりとした声で語りかけると、カルケルを手荒に連行してきた兵士達は、ぼーっとした表情になり、一礼して出て行く。
「……フフ、素直で可愛い男達……」
揶揄するような笑い声が耳に届いた途端、ぞわりとカルケルは全身に鳥肌が立った。
(……なんだ? この声の……奇妙な、まとわりつくような感覚は……)
油断なく、カルケルは女の方に視線を向ける。ついで、隣の男――まだ年若い彼の名を、苦い気持ちで口にする。
「……フラム」
「反逆者が、気安く呼ぶな」
「…………」
兄上と無邪気に呼び慕っていた笑みはすでになく、弟の顔には苛立ちだけが広がっていた。
「……俺は、そんなものに成り下がった覚えはない」
「戯れ言を。――貴方は呪われた腹いせに、我が国を滅ぼすつもりなのだろう?」
「……それこそ、戯れ言だな。一体誰がそんな事を、お前に吹き込んだ」
「今更隠し立てしても、無意味だ。……兄上、貴方が十八になるその時に、つもりつもった呪いの力で、我らを灰で生き埋めにするつもりだという事は、すでにこの魔女から聞き及んでいるんだぞ!」
魔女。
その言葉に、カルケルは反応した。
ならば、やはりこの女がと思い、険しい視線を弟の隣にいるフードの女に険しい視線を向けた。
――女は被っていたフードを後ろに押しやると、剣呑な眼差しになど気付いていないかのように、優美なお辞儀をしてみせた。
「こんにちは、哀れな灰かぶり王子」
小首をかしげた挨拶に、薄紅色の髪が揺れる。
「……馬鹿な……」
カルケルは、あらわになった女の顔を見て、驚いた。
(なぜ魔女殿に、似ている……?)
目の前にいたのは、薄紅色の髪をした魔女。
――その面差しは、牢に残してきたカルケルの大事な少女に、よく似ていた……。
目の前の女は、カルケルの呆然とした呟きに答えるように微笑んでみせた。
その笑い方は、あの少女は逆立ちしてもしないだろう、なまめかしいものだ。
「あら、この姿がそんなに気に入った? ……どれだけ驚いてもかまわないわよ、灰かぶり王子。――私がいるこの場所では、灰を降らせる事が出来ないから」
仕草や表情は、何一つ似ていない。なにより、年齢が合わない。
ただ、血のつながりを連想させるほど、二人の顔立ちは似ていたのだ。
並び立てば、大多数の人間が姉妹だと間違えるだろうほどに。
「嫌だわ、あんな無能な面汚しと間違えないでちょうだい。ふふ、あの役立たずな小娘よりも、私の方が素敵でしょう、灰かぶり王子?」
「貴様、なぜ彼女と似た姿をしている」
「嫌だ怖い顔。私が似せたんじゃないわ。あの小娘が、私に似ているの。……ねぇ、私の顔が気に入ったのは分かったけれど、そんなに熱心に見つめていていいの? 大事な話があるんじゃないかしら?」
言って、女はフラムの肩へしな垂れかかる。無礼な行動だ。
しかしフラムは、無作法を咎める所か、視線一つ向けず、表情一つ動かない。
今までのやり取りも目に入っていないようで、カルケルを睨んでいた。
「……フラム、その魔女の言う事に耳を貸すな」
「ハッ! この期に及んで、見苦しい言い訳か! ――兄上、貴方は呪いのせいで変わってしまった、この国を恨んでいるんだ、……王家の一員としての自覚を捨て、貴方は国を滅ぼす気なんだろう! 全部知っているんだ!」
「フラム、馬鹿な事を言うな。俺の話を聞け」
「聞くに値するものか! 貴方だって、オレの言葉を無視し続けた!」
言われて、カルケルは言葉を詰まらせた。
呪われた兄が、弟のそばにいれば外聞が悪い。
だから、弟を遠ざけた……そう言えば聞こえは良いが、本当は立派に王族の務めを果たせる弟に嫉妬しそうだから避けるようになったのだ。
何時だって兄を慕ってくれたフラムが、避けられていると気が付いた時、物言いたげな視線を向けてきた事だって知っていて、当時のカルケルは無視をした。
嫉妬しているだなんて知られたくなかった。
惨めな兄の姿を見せたくなかった。
――傷ついていたカルケルは、そんな自分の行動のせいで誰かが傷つくという単純な事にも気が付かなかったのだ。
結果が、これなのだろうか?
「……フラム、俺のせいなのか? 俺がお前を傷つけたから、お前はこの魔女に傾倒したのか?」
そして全てを鵜呑みにして兄を排除するほど、憎んでいるのか?
問いかけに、フラムは顔をゆがめる。
泣き出す一歩手前のように、顔をくしゃくしゃにして頭を振った。
「オレは、王族の務めを果たす! 父上も、母上も、出来ないというのならば、オレが次代の王として貴方を討つ!」
「……お前は、王になりたいのか」
「――……っ! ……そうさせたのは、貴方だ!」
たたきつけられた激情に、カルケルは目を伏せた。
「……そうだったな……」
フラムの言葉通りだ。
弟が、そうならざるを得ない立場に追い込んだのは、ふがいない自分だったと。
「お前ならば、きっと良き王になるだろう。……だが、フラム。そのために、兄殺しの責を負う必要はない」
「……兄上……?」
「俺は、呪いを解くために、城を離れたんだ」
フラムの二つの目が、真っ直ぐに顔を上げて視線を交える兄を捕らえ……揺れた。
「……ほんとう、に? ……オレは、貴方を殺さなくても、いいんですか……?」
「まぁ、王子様。騙されてはいけませんよ。……可愛い可愛い王子様、ほら、貴方の真実は、私の語る言葉だけでしょう?」
しな垂れかかった魔女が、蠱惑的な声で囁きかける。
不安と、入り交じった期待に揺れていたフラムの双眸から、たちまち光が消え失せた。
「フラム?」
「……そう、兄上は、国を沈める……」
「違う。俺は、この呪いを解きたいんだ!」
「国を滅ぼす、兄はいらない……かわりに、オレが……王に……」
「フラム……! ――貴様っ、弟に何をした……!」
ぶつぶつと虚ろな言葉を繰り返すだけの木偶と化したフラムの頭を抱き寄せ、こめかみに口付けた魔女は、満足そうに唇をつり上げる。
「まぁ、貴方……怒った顔は、あの人に似ているのね」
「……なんだと……」
「貴方の姿形は、あの憎たらしくて汚らしい灰かぶりによく似ているけど、そういう顔は、……ふふ、王子様によく似ているわ。――年寄りはもういらないから、かわりに貴方を私のものにしてあげてもいいわよ? このお人形と一緒に、飽きるまで愛してあげる」
フラムの頬を撫で、空いた手でカルケルを手招きする魔女には、欠片の罪悪感も見当たらない。
「……ふざけるな。俺を呪い、この混乱を作りだした張本人が……!」
「あらあら、ずいぶんな口のきき方ねぇ。まさか、茨の婆に、なにか吹き込まれたのかしら? ほんとう、都合の良いことばかり口にするから、困るわ、あの婆。……口だけ出して、今日は顔を出さないのかしら?」
「…………」
誰かの姿を探すように、魔女は室内に視線を巡らせる。
そして、目当ての物は見つけられなかったのか、不思議そうに小首をかしげた。
「こんな状況になっても手を貸さないなんて、薄情ねあの婆。……それとも、貴方は見捨てられたのかしら? ――あぁ、そうよねぇ、あんな……ちんけな小娘一人しか、味方がいないんだものね! 婆も酷いわねぇ、面汚しの弟子なんていらないからって、貴方に押しつけるなんて!」
「黙れ……! 魔女殿を侮辱するな……!」
カルケルの激高を、魔女は白けた目で受け止めた。
そして、つまらなそうに手をひらひらと振る。
「侮辱じゃないわ、事実よ。それより、はやくおいでなさいな。……この私が、貴方を気に入ってあげたのよ? あの忌々しい灰かぶり娘の息子である貴方を、あの娘から全て奪われてきた可哀想な私が、貴方を許してあげると言っているの」
「許す、だと? どの口が……」
「たがら、口の利き方には気をつけなさい、灰かぶり王子。……貴方には、私の寛大な計らいが理解出来ないのかしら? 許してあげると言う事は、貴方は十八を過ぎても生きていてもいいと言う事よ?」
殺すために弟を焚き付けていた魔女が、何を言うのだろうか。
カルケルの視線に、訝しげな色が加わった。
しかし、魔女は気付かない――気にもとめない。そして、自らの言葉に煽られたかのように、口調に熱がこもっていく。
「私を裏切った母や、王子! 自分だけのうのうと幸せになっていた妹弟子、そして――本当なら私が得るはずだった物を全部横取りした、汚い汚い灰かぶりに! こんなにも傷つけられてきた私が、全てを灰に埋めてしまえば、貴方のことは大事にしてあげると言っているの!」
「――貴様、やはりそれが狙いか……! コントドーフェ王国を滅ぼす事が、貴様の目的なのか!」
「はぁ? 薄汚れた灰かぶりを、喜んで王妃に据えた国にはお似合いよ!」
「……っ、そんな事、許すものか」
唸るようなカルケルの声に、魔女は甲高く笑った。
「それを決められるのは、私だけだわ!」
「俺の呪いは、魔女殿が解いてくれる……! だから、野茨の魔女、貴様の企みは成就しない……!」
「あの面汚し? あの泣いているだけのお子様? ふふふ、あははははは! ――笑わせないで、灰かぶり王子。あの能なしが、私のかけた呪いを解けるわけがないじゃない。私の母だって解けない、凄い呪いなんだから」
誇らしげに、魔女は語る。
胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべ、瞳はキラキラ輝いている。
悪意を持った魔法を使っておいて、欠片の罪の意識無く、己の力を誇っている。
――無邪気という言葉で片付けるにしては、あまりにも有害だった。
「ねぇ、わかる、灰かぶりの可哀想な王子。……貴方は私に降参して、この国を沈めるしかないの」
そうすれば、あの婆もようやく私の凄さに気付くのよ。
偉大な母を超えようと目論んでいるのか、喜悦に満ちた声で魔女は言う。
「さぁ、来なさい。この灰に塗れた汚い国を、沈めるの。そしたら、ご褒美に呪いは解いてあげる」
けれど、カルケルは首を振った。
「――あいにくと、俺が手を取るのは魔女殿だけだ」
「あら? その小娘がどれだけ無能なのか、ご存じかしら? 私の母でも、匙を投げた無能でしょうに」
「黙れ。魔女殿は、いずれ知らぬ者はいない、すごい魔法使いになるんだからな」
カルケルは、彼女を信じている。
「俺の呪いを解けるのは、貴様ではない。――俺の、世界一愛らしい魔女殿だけだ」
あんぐりと口を開けた魔女の顔が、じょじょに赤くなっていく。羞恥からではなく、激しい怒りの衝動で染まっていく顔色は、とうとう赤黒くなった。
「愚かなのは母親譲りらしいわね! あれがすごい魔法使いになるですって? そんな事、あるはずがないわ!! どうせあの娘だって、私があげたガラスの靴にとり殺されて死ぬんだから!」
カルケルの顔色が変わる。
それを目にした魔女は、激情をおさめると目を細め、猫なで声を出した。
「そう、死んじゃうのよ。――助けたい? 助けたいなら、ほら、さっさとこのいらない国を、灰の下に埋めてしまいなさい?」
カルケルが答えを出す前に、彼の横を何かがすごい速さで通過した。
――風の動きを伝って、視線を動かせば……得意げだった魔女の顔に、もの凄い勢いでカボチャがぶつかっている。
いや、ただのカボチャではない。
目をこらしたカルケルは、驚嘆の声を上げた。
「ランたん……!?」
姿を消していた、カボチャお化け。
ならばと後ろを振り返れば――真っ直ぐな薄紅色の髪をさらりとゆらし……。
「勝手に、私の生き死にを決めないで貰いたいわね!」
カボチャお化けを常に伴っている可愛らしい魔女が、小生意気そうな表情を作り、立っていた。
時は遡り、少しだけ前のこと――カルケルだけが連れて行かれた後、リュンヌはガラスの靴を脱ぎ捨てて、もう一度杖を振った。
カチャリ……。
鍵の外れる音がして、鉄格子がゆっくりと外側に開いた。
「……出来た……」
開いた鉄格子を凝視し、リュンヌはかすれた声で呟く。
初めて、初歩の初歩以外の魔法が成功したのだ。
けれど、その喜びを分かち合う相手はいない。
カルケルはどこかへ連れ出され、ランたんは姿を消したままだ。
でも、大丈夫だとリュンヌは深呼吸する。
「――今、助けに行くからね……!」
自らを鼓舞するように声に出し、素足で一歩踏み出したリュンヌの後ろで、何かが割れる音がした。
振り返ると、これまでは、何をやっても傷一つ付かなかったガラスの靴が、粉々に砕けた。
「…………」
『呪いを退けましたね』
ガラスの靴だった物の破片は、変色し、黒い砂の塊と化した。
自分を長年縛っていた呪いのなれの果てを、見つめていたリュンヌは、後ろから声をかけられ飛び上がる。
「ひっ……!? ――え、ぁ、……ランたん……!」
『おめでとう』
どこにいたのだと文句を言おうとしたリュンヌだったが、使い魔から放たれた声が予想外にあたたかかったので、勢いを削がれてしまう。
『いつか恋して花開く娘が、愛を抱くならば、花は枯れずに咲き誇るだろう』
「……なに、それ?」
『むかし、悪辣な呪いに対抗するため、上書きした魔法ですよ』
「貴方が?」
『……さぁ、どうだったでしょうか? ――でも、これで安心しました。貴方は、呪いに負けず、そして自らの殻を打ち破った。……自分のためではなく、誰かのために』
くるりと、ランたんが意味もなく回る。
『貴方を誇りに思いますよ』
褒められているのだと分かって、リュンヌは頬を赤くした。ずっと自分のそばにいてくれたランたんに、こうも手放しで褒められると照れくさい。
『これで、私も安心して休むことが出来ます』
「なに、それ。どういうこと?」
『貴方のお守りは、そろそろお役御免だと言う事です。……私の代わりに、貴方のお守りを買って出てくれる方がいますしね』
「お守り? ちょっと、子供扱いしないでよ」
胸をよぎった一抹の不安を誤魔化すように、リュンヌはわざと怒った声を上げた。
『子供ですよ。……私にとっては、いつまでも……』
「……ランたん、なんだか本当に変よ? どうかしたの?」
『どうもしません。さぁ、おしゃべりはお終いです。手のかかるお子様、杖をしっかり握りなさい。――貴方の王子様を、助けに行くんでしょう?』
うん、とリュンヌが頷くと、ランたんは先導するようにふわりと先に躍り出た。
『王子がどこにいるか、私が案内します』
「わかるの!?」
『ええ。私が、ただ臆病風に吹かれて逃げ出したとでも思っていたんですか?』
「臆病風っていうか……。ランたん、いつも気まぐれに消えるじゃない」
『心外です。私は、色々頑張っていたのに。……王子の命を狙ってきた刺客がどうなったか、国王に確かめに行ったり、王妃の様子を見に行ったり……。茨の森の魔女には、くれぐれも頼むと言われていますからね』
そして、あちこち見て回った結果を、ランたんは口にした。
『どうやら、悪い魔法が城全体に蔓延しているようですね』
「それって……! もしかして、私達を捕まえた人達が、カルケルの事を王子様だって分からなかったのも?」
『はい。王と王妃は、茨の森の魔女がかけた善い魔法が残っています。……ですが、王が城内の不自然さに気付かない時点で、影響は皆無とは言えません。王妃は寝込んでいますしね』
「じゃあ、王様達も元に戻さないと」
もしかしたら、カルケルは家族にすら忘れられるかも知れない。
最悪の事態を考え、リュンヌが神妙な顔で呟くと、ランたんはあっけらかんとした口調で言った。
『あ、そっちは大丈夫です。私が対処しておきましたから』
「……ねぇ、ランたん。貴方、絶対ただの使い魔じゃないわよね? ……一体、何者なの?」
『そんな怖い顔はやめなさい。もどらなくなりますよ』
「誤魔化さないで」
『誤魔化していません。……対処といっても、特別な事はなにも。貴方にもおなじみの、頭突きで一発でしたから』
それが誤魔化しでなければ、なんなのだ。
不満に思ったが、ここで問い詰めている場合でもない。
「後で、洗いざらい吐かせてやるわ。正直に答えないと、今度こそカボチャスープにしちゃうからね」
『まぁ、怖い』
定番の憎まれ口を叩けば、……そんな事はあるはずがないのに……リュンヌの目には、カボチャお化けが笑ったように見えた。
『私は、ランたん。貴方の事を大好きな、カボチャお化けですよ』
「またそうやって誤魔化す! カルケルを助けたら、覚えてなさいよ!」
『本当に、大好きですよ。――ほら、急いで急いで』
優しい声から一転、ランたんは裸足で歩くリュンヌを急かし始める。
「わかってるわよ!」
言いながら、リュンヌは階段を駆け上がった。
そして――賑わいとはほど遠い、無人を疑うほどひっそりとした城内に、絶句した。
「……なんか、変じゃない……?」
幼い頃……茨の森の魔女に連れられて、足を運んでいた頃は、もっと人がいて、明るい雰囲気だった気がする。
しかし、記憶とは正反対の光景が、牢から抜け出してきたリュンヌの目に映る。
誰にも見つからないのは、好都合だ。騒ぎを起こさずして、カルケルを探せる。
だが、王城でこの有様は、異常だ。
「……ランたん……」
『言ったはずです、悪い魔法が蔓延していると。目当ての物を手に入れた野茨は、もう取り繕うことすらやめたのでしょう』
「物って……」
『カルケル王子に決まっています』
言われた言葉に、リュンヌは眉をつり上げる。
「カルケルは、物じゃない……!」
『ええ、貴方にとっては。……けれど、野茨にとってはどうでしょうか? 人の価値観では、彼女の考えを推し量る事はできません』
「……。カルケルは、あの人の……野茨の魔女の所にいるのね?」
『はい』
「場所は、わかる?」
『もちろん』
リュンヌは、一度だけ強く唇を噛んだ。
そして、意を決して開く。
「お願い、ランたん。私をそこへ、連れて行って」
『――もちろんです、うちの魔女さん』
人気のない城をランたんと進む。
前を行くランたんには迷いがない。
程なくして、大仰な装飾が施された部屋の前に到着した。耳を澄ませば、中から話し声が聞こえてくる。
カルケルの声と、知らない人の声。
だが、とても和やかな雰囲気とは思えない。
会話の流れから、相手がカルケルの弟だという事が分かったが――。
(今って、さすがに出て行ったらマズイわよね……?)
(……そうですね。弟君が、王子の言葉で正気に返る可能性があるのならば……)
扉に張り付いて、ひそひそ話を交わす魔女とカボチャお化けというのは、傍から見れば不審だろう。
人がいないこの場でしか出来ない事だ。
とりあえず、状況を見守ろう――そう決めたのに、新たな声がまとまりかけていた兄弟の場を乱した。
女の声。
(この声……!)
忘れもしない。
野茨の魔女の声だ。
彼女が会話の主導権を握りだした時点で、リュンヌはとうとう我慢できなくなり、飛び出した。
「勝手に、私の生き死にを決めないで貰いたいわね!」
自分だけではなく、ランたんまでもが、もの凄い勢いで飛び出し、野茨の魔女の顔めがけて頭突きした事には驚いたが……。
「魔女殿……!」
「カルケル、助けに来たわよ! もう安心だから!」
「――あぁ」
本当に安堵したように笑ったカルケルは、リュンヌに手を差し伸べる。
「魔女殿、こっちへ」
「うん!」
当然のように伸ばされる手。
そして、当然のように握り返すリュンヌ。カボチャお化けのランたんは、くるくるとまわりながら、やはり定位置であるようにリュンヌのそばに落ち着く。
そのやり取りを見ていた魔女は、気に入らないとばかりに顔をしかめた。
「――なんなの? 無能な小娘がしゃしゃり出てきて、私に張り合おうとでもいうの?」
「……私は、ばば様の弟子として、貴方を止める義務があるの」
薄紅色の――自分と同じ髪色をした女を、リュンヌは静かに見据えた。
いや、違う。自分が、彼女に似たのだ。
(……お母さん……)
あの日、自分の目の前で奪われた母がいる。手が届く範囲にいるのに、会いたかったと抱きつける距離なのに、違う。
そこにいるのは姿形を奪っただけの、他人だ。体は間違いなく母でも、中身が違う。
自分を優しく呼ぶ声は、この声ではなかった。
皮肉なことに、大好きな両親の声はもう記憶から薄れているのに、両親を奪ったあの声だけは、今でもはっきり覚えていた。
(……お母さんは……)
むかしむかし……取り戻そうと、茨の森の魔女は幼いリュンヌに言ったが――あれは、支えをなくした幼子のためについた、嘘だったのだろう。
そんな事だろうとは、もう随分前に理解していたが、実際目にすると、やはり苦しかった。
「ふん! 茨の森に住まう魔女は、最高峰の魔法使いよ! お前のような輩が、弟子を名乗らないでちょうだい!」
母の姿で、好き勝手する魔女。
リュンヌが大好きな母の顔で歪んだ表情を浮かべる魔女。
(お母さんは、もうどこにもいない)
あくまで理解していただけだった事実が、現実味を持ち始める。
リュンヌの母は、もうこの世にいない。
目の前にいるのは、母の体を奪い、母を貶める悪い魔女。
ならばリュンヌは、茨の森の魔女との約束に従い、止めなければいけない。
これ以上、母の体で悪事を重ねられる前に。
「ばば様の教えに背いた貴方にだけは、言われたくないわ」
ことのほか、リュンヌの声は冷たいものになった。
魔女の眉が、ぴくりと跳ねる。
痛いところを突かれた動揺ではなく、憎たらしい言葉を聞いたという不快感で。
「私ほど、あの婆に相応しい弟子はいないわ。私ほど、あの人に相応しい家族はいないわ。……それを、お前みたいな無能が家族面なんて、反吐が出る……!」
「反吐が出るのはこっちの方よ。……魔法は、人を幸せするためのものっていうのが、ばば様の教えだったのに……貴方は、何をしてきたの? 悪い魔法は、代償に負う傷も大きいのよ。――もうやめなさい、ばば様は何時だってそう言っていたはず」
「お説教はけっこうよ! ――なんの力も無い小娘は、黙って引き下がりなさい! 身の程知らずにくっついてきた、愛しの王子様の目の前で息絶えろ! 恋で身を滅ぼせばいい!」
魔女は叫んだ。
ガラスの靴に自らがかけた呪いを、強制的に発動させるために。
しかし、リュンヌは首を横に振ると――長いローブをまくって見せた。
精巧なガラスの靴はなく、白く小さな素足がちょこんと見えている。
「ガラスの靴は、もうないわ」
「……え? そんな、馬鹿な事……! 私の呪いが、お前のような非力な小娘に解けるはず……、そうか! 茨の婆か! あの人が入れ知恵したんだね! そうやって、いつもいつも、私以外を優先して……!」
「違うわ」
リュンヌは、杖を構える。
裸足の彼女は、長く秘されていた真実を口にした。
「ばば様は……茨の森の魔女は、もうこの世にいないから」
「――…………?」
一瞬、全ての時が止まったように、魔女が動きを止めた。
それから、徐々に強張った笑みを顔に広げる。
「なに、それ? そんな嘘を言って、お前みたいな小娘を遣わせるほど、あの人は私に会いたくないっていうの? ――ふざけないで! あの婆が死ぬわけないでしょう! どこに行ったの! どこに逃げたのよ! 私をこんなに不幸にしておいて! こんなに惨めで悲しい気持ちにさせておいて! ――許せない!」
がなりたて、魔女は棒立ちのフラムの首に手をかける。
「フラム……!」
カルケルが叫ぶと負けないほど大きな、けれど焦ったような声で野茨の魔女が叫ぶ。
「動かないでちょうだい! ――そうよ、そうやってあの婆が……母さんが私から逃げ回るなら、もっともっと目立ってやるわ。私を無視できないくらいに……。このお人形は、貰っていってあげるわ! そうすれば、母さんだって目の色変えて追いかけてくるでしょうからね!」
「もう、おいかけっこはお終いよ!」
フラムを人質にすると宣言し、逃走しようとする魔女に向かって、リュンヌは杖を振るう。
ぼこん!
魔女の頭に、こぶりなカボチャが落下した。
「っっ!」
ぼこ、ぼこん、ぼここん!
続けて何個も何個も。
「なに、このふざけた魔法は……あっ!」
魔女はハッとしてリュンヌをにらみつけた。
「小賢しい手を!」
魔女の足下に転がったカボチャ。それが蔓を伸ばし足に絡みついていた。
己の魔法に自信があり、リュンヌの魔法は取るに足らない。そう思っていた相手だからこそ、油断したのだ。
リュンヌの必死の魔法は、うまく作用し魔女の動きを封じてくれた。
そして、仕上げとばかりに伸びた蔓が大きくしなり、野茨の魔女の杖を飛ばす。
「なによ! なんなのよ!こんな下手な魔法! なんで、解けないの! なんで母さんが相手してくれないのよ!」
心が揺らげば魔法も揺らぐ。
見下していたリュンヌの魔法からうまく逃げられないと気付いた魔女は、癇癪を起こした。杖を拾うそぶりも見せずわめき散らす。
「なんで! どうして来てくれないの、母さん! もう嫌い! 大嫌いよ、許さない!」
「いい加減にして」
まるで幼子だ。だからといって同情心がわくはずもない。
リュンヌは自分をなかの気持ちを抑えるように一度息を吐く。それから、声を荒らげる事なく、静かに告げた。
「貴方、結局何もみてないのね」
声音に込められた哀れみを感じ取った魔女は、きっとリュンヌを睨む。
しかし、リュンヌもまた、魔女をにらみ返した。
「逃げるなら、どこへでも逃げればいいわ。そのかわり、カルケルの弟と、その体は返しなさい。私のお母さんなんだから。それから、どこへでも行けばいい。……どうせ、もう誰も追いかけたりしないんだから」
「――何ですって……!?」
「だって、そうでしょう? ……貴方を止めようと一生懸命だったばば様も、わたしのお母さんも、貴方が殺したんじゃない……!」
意外な事を言われたかのように、魔女は目を見開いた。
「殺し、た?」
「そうよ。だから、貴方を大事に思ってた人はもう、この世に誰もいないのよ」
そして、リュンヌは今度は大きく息を吸った。
「私は、貴方なんて大嫌い! ばば様の頼みじゃなければ、止めようなんて思わなかった! 貴方が、お母さんの体を使って好き勝手してなければ、直接会う気も起きなかった……! 私はね、貴方なんて大嫌いで、顔を見るのも声を聞くのも嫌なの! だって貴方は、私のお父さんとお母さんを殺した、この世で一番許せない悪人だもの!」
「そんなの……! あの子が悪いんじゃない! 私を裏切って婆の味方して、一人だけ幸せになって! 私は不幸なのに!」
リュンヌが感じたのは、悔しさだ。
この人は、この期に及んで自分だけなのだ。
「不幸なのは、私達家族や……――理不尽に呪われて、人生をめちゃくちゃにされた、カルケルよ!!」
――それでも、善き魔法使いと言われた魔女は“娘”を諦めることができなかった。
「不幸だったのは……貴方に何度裏切られても信じたかった、茨の魔女の方よ」
「母さんが……不幸?」
誰が、彼の魔女を殺したのか。
これだけ言っても、まだ理解出来ないのか。
どうして、力ある魔法使いだった育ての親が急激に老いたのか、分からないのか。
怒りはもちろん大きかったが、悲しみも同じくらい大きかった。
――かみ合わない考えが、これほど虚しいとは知らなかった。
ばば様と呼び慕ったあの魔女が、心の中で抱えていた痛みや虚しさは、もっともっと酷かったのだろうと思うと、余計にリュンヌは泣きたくなる。
「貴方は散々悪い魔法をつかったわ。それなのに、どうしてなんの報いも受けずにいられたと思うの」
「それは……」
戸惑ったのは一瞬。すぐに魔女は誇らしげな顔になる。
「私が、とびきり優れていたからに決まっているでしょう? あの婆すらかなわないほどにね!」
「っ……馬鹿!」
思い切り、リュンヌは怒鳴った。
「ばば様が、肩代わりしてたからに決まってるでしょう! なんでばば様が、しわくちゃになったと思ってるの! 貴方に向かう報いを、全部背負い込んだせいじゃない! ――そんな事しなければよかったのに! ダメだ、いけないってわかってるのに、何度も言い聞かせれば分かってくれる……自分の年老いた姿を見れば、きっと反省してくれるって……!」
もしも茨の森の魔女が、肩代わりなどと言う事を考えなければ、事態はもっとはやく収束しただろう。
目の前に居る、悪い魔女の死によって。
善なる魔法使いだった、茨の森の魔女。
彼女が働いた、唯一の悪事。それは娘を失いたくないがために、きちんと罰を受けさせなかった事だ。
結果、茨の森の魔女は急激に老いて、娘の姿を見ることも出来ず、あの館で息を引き取った。
最後の最後まで、娘の身を案じ、名前を呼びながら。最期まで、己の手で娘を罰する覚悟が出来ず、すまないと泣きながら――リュンヌに頼んだ。
「どうか、あの子を止めてちょうだい。……そうやって、私にまで頼まなければいけなかった、ばば様の気持ちを、貴方は全然分かってない」
「……嘘よ。嘘よ、嘘よ、嘘よ! そうやって私を騙して、今度はどこに閉じ込める気! 出てきなさい、婆! 出てこないと、今度はこの王子様を呪ってやるわよ!」
狂ったように叫び、茫洋としているフラムに手を伸ばした魔女だったが――。
「もう終わりよ。野茨の魔女……いいえ、プリムラ」
瞬間、魔女は目を見開いた。
リュンヌが彼女の名前を口にしたからだ。
魔法使いは名を明かさない、そして精霊も。受けるべき報いをすり抜けてきた魔女も、己の名を唱えられれば逃げられない。
力ある魔法使いが真名を唱えれば、それすなわち魔法になる。
(――ばば様が、どうしても出来なかったこと。私がやるよ)
憎いからではなく、魔法使いのひとりとして魔法界の理を守るため。茨の森の魔女、最後の弟子として、師が果たせなかったけじめをつけるため。
リュンヌは、師から最期に託された名前を唱えた。
『――可愛いプリムラ、あの子をどうか』
それが、不肖の弟子がやるべき最初で最後の大仕事。
「悪い魔法を撒き散らしてきた、その罰を受けなさい《プリムラ》!」
「黙れ!……っ」
怒鳴りかけた魔女は自分の異変に気付いた。フラムに伸ばした手が、指先からどんどん干からびていく。
「な、なによ、これ……」
「……言ったでしょう。貴方が今までばば様に押しつけてきた、代償よ」
さんざんツケにしてきた報いは、若々しかった女の体をたちまちのうち干からびさせた。
「頼んでない! 私、頼んでないわ! 何で教えてくれないの! こんなのひどい、ひどいわよ! 助けて、ねぇ、助けてちょうだい……助けて母さん!」
子供のように泣き叫ぶ声は若い女のものなのに、その体は枯れ木のようだった。
そして、今度は指先からさらさらと崩れていく。
『本当に、仕方のない姉弟子』
ため息交じりの、落ち着いた声がカボチャお化けから発された。
とたん、魔女の体の崩壊がぴたりと止まる。
「……ランたん……?」
『この手のかかる人は、口で言っても理解出来ないでしょうから……向こうの方で、今度こそ、しっかりとお師匠様に指導させるわ』
ふわり、とカボチャお化けはリュンヌの傍を離れ、座り込み泣きじゃくっている魔女の元へ寄り添う。
『いつまで泣いているの? 大好きな魔女様の元へ、私が連れて行ってあげるから、しっかりしてちょうだい』
「……っ、あ、あんた……」
顔を上げた魔女が、ランたんをみて目を丸くする。
けれど、ランたんはそれ以上言葉をかけず、リュンヌとカルケルの方を向いた。
『この人が道に迷わないよう、私が付き添うわ。……だから、私達二人を死者の国まで導いてくださいな、魔女さん?』
「え……でも……」
『今の貴方なら、出来るでしょう? ――恋を知って花開き……自分にかけた呪いを打ち破った貴方なら……』
どういう事だと首をかしげるカルケルに、ランたんは何時ものように、人間くさい仕草で肩をすくめた。
『うちに魔女さん、幼少期の体験のせいで、魔法を怖がっていたんですよ。……とどめが、貴方に生き埋めにされた事。だから……本当は魔法が使えるのに、恐怖心で自分を縛っていた。呪いは、彼女の都合の良い逃げ場だった……それが心配で心配で仕方が無かったんですけど……もう、大丈夫みたい』
語る声音は優しい。
染み入るように、どこまでも。
「ランたん……行っちゃうの?」
『はい。そろそろ魔法も尽きそうだし……。最後に、貴方の王子様も見る事が出来ましたし、ね』
「…………」
『さぁ、魔女さん。貴方の魔法を、最期にもう一度、私に見せて下さいな』
リュンヌは、手にした杖を大きく振った。光が杖の先に灯る。
今度は、円を描くようにくるくる回すと、光はリボンがほどけるようにするすると伸びていき――やがて一本の道を空へとつなげた。
果てなく続いている道へ、ランたんは魔女を導く。
おずおずと足を乗せた魔女の姿は、とたん霧散し――薄い、蝶のような羽を生やした娘の姿に変わり……光の道の先へ、溶けてゆく。
その口元がほころんで、小さく動いた。
――母さん、と。
最期を見届けたカボチャお化けは、自身もぴょんと光の道へ乗った。
『では、私も……』
「……ランたん」
『――なんて顔ですか。笑いなさい』
「――だって……」
ぐすっと涙ぐんだリュンヌを見て、ランたんは首を横に振った。
『貴方を慰めるのは、私の役目ではありませんからね。……カルケル王子、後は任せましたよ』
「もちろんだ」
『それを聞いて安心しました。――それでは。……さようなら、ね。“小さな魔女さん”』
あ、と小さく声を上げたのはリュンヌだった。
けれど、何か言う間もなくランたんの姿は溶けていき、描いた光の道も消えてしまう。
残っていたのは、古ぼけたカボチャお化けのぬいぐるみだった。
「……これは……たしか、君が昔持っていた……」
拾い上げたカルケルの言葉を肯定するように、リュンヌは頷く。
何か言おうと思ったが、上手く言葉に出来なかった。
「……っ……」
かわりに涙が、ぽたりと目からこぼれるおちる。
カルケルが、指先でそれを拭うが、止まらない。
子供の頃、大切に持っていたぬいぐるみ。
両親からの、贈り物。
そして――。
「魔女殿、おいで」
優しい声に促され、リュンヌはカルケルの胸に飛び込んだ。彼は泣きじゃくるリュンヌを、黙って抱きしめてくれる。
「――い、いま、私の事……小さな、魔女さんって……」
「うん」
「あ、あれ……あの呼び方、私の――」
最後の最後。
ありったけの愛情を込めた別れの挨拶を聞いたカルケルは、リュンヌの言葉を最後まで聞かずとも分かっているというように、薄紅色の髪を撫でた。
「……ぁ――? ……ここ、は――」
不意に、フラムが声を漏らした。
二、三度まばたきをしたフラムは、まわりを見渡し……兄であるカルケルの姿を認めると、眉を寄せる。
その瞳の焦点はしっかりとしていたが、浮かべた表情は険しかった。
魔法が解け、正気に戻ったフラムだったが、眉間に皺を寄せ、目を眇めている様は、状況を喜んでいるようには見えない。
魔法の介入なしで対峙した兄弟は、互いに呼びかけあう。
「……フラム」
「……兄上……」
ぐっと拳を握り、カルケルを射貫くように見据えた弟王子。
そらす事無く視線を受け止めた兄に対し、フラムは素早く膝を折った。
「お許し下さい、兄上!」
「――フラム?」
「オレは……オレは、兄上に対し、なんという事を……!!」
自分がした事の記憶は、しっかりと残っているらしい。
これもまた、王妃の義姉達と同じ症状だ。
しかし、国を憂う気持ち、兄に遠ざけられた傷心、のし掛かる重圧。様々な要因で追い詰められていた弟を、責められるはずがない。
同じように膝をつき、項垂れる弟の肩を叩いたカルケルは、兄の顔で言った。
「お前は、悪い夢を見ていたんだ。……気にするな」
「……っ!」
「悪夢は、もう終わりだ。そうだろう?」
ぱっと顔を上げたフラムは、間近で兄の顔を見つめると、何度も何度も頷いた。
立ち上がったカルケルは、リュンヌを見る。
「これで、いいんだ。そうだろう、魔女殿?」
「うん。悪夢は、もうお終い。……カルケル、貴方もね」
「――俺?」
「だって、貴方に呪いをかけた張本人が、この世を去ったんだもの……灰かぶりの呪いも消えたわ」
そんなに簡単にいくのだろうかと疑問の声を上げたカルケルは、いい事を思いついたと笑みを浮かべた。
「魔女殿、呪いが解けたかどうか、確認してみたいんだが……協力してくれないか?」
「いいけど、何をすればいいの?」
「なに、君はそのまま、動かないでいてくれれば良い」
「?」
リュンヌは、大人しくそこに立った。
フラムは、リュンヌに近付く兄を黙って見守っている。
――リュンヌをすっぽり抱きしめられるくらいまで近付いたカルケルは、そっとリュンヌの頬に手を添えた。
そして。
「……俺に、諦めないという事を教えてくれてありがとう、魔女殿」
感謝の言葉を口にする。
けれど、リュンヌは返事をする事ができなかった。
そのあと降ってきた唇のせいで、言葉を発する事が出来なかったから。
「……あぁ本当だ、灰が降らない」
リュンヌの唇を不意打ちで奪った王子様は、晴れやかな笑みを浮かべてそんな事を言う。
そして、ひょいっとリュンヌを抱き上げた。
「ありがとう! 全部、君のおかげだ! 俺の魔女殿……!」
「貴方って、貴方って……!!」
真っ赤になったリュンヌは、カルケルの首に手を回し、真っ赤な顔でお決まりの言葉を叫んだ。
「もう、本当に王子様なんだから……!」
――明るいカルケルの笑い声が響く。
「兄上……髪が……!」
弟であるフラムの、歓喜と驚きに満ちた声も。
「髪……? ……っ」
「うわぁ、キラッキラ……!」
呪いが解けたことにより、灰のようにくすんでいた髪色が、本来の色を取り戻す。
「父上と、母上を呼んでまいります!」
転がるように飛び出していくフラムを見送った二人は、顔を見合わせた。
「魔女殿」
「なに」
「……不安なので、もう一度確かめてみてもいいだろうか」
「……キスして?」
「もちろん、キスして」
もう充分でしょうと、赤い顔で反論したリュンヌに、カルケルは内緒話を打ち明けるように耳打ちした。
「……というのは口実で、本当はただ君にキスしたいだけなんだが、……どうだろう?」
彼の顔も、リュンヌと同じくらい真っ赤だった。
答えの代わり、リュンヌは自らカルケルを引き寄せて、キスをした。
――キラキラと、今日の世界は一段と輝いて見えた。
全てが片付いてから、事態はめまぐるしく動いた。
「本当にありがとう、貴方は私達家族の恩人だわ」
まず、心労で倒れていた王妃が回復した。
病床から起き上がる事が出来た王妃は、リュンヌと顔を合わせる度に手を握り、絶えず感謝の言葉を口にした。
その目には光るものがあった。――リュンヌの向こうに、大恩ある茨の森の魔女を見ていたのだろう……――もう、彼の魔女がいないことを、王妃もすでに知っていたのだから。
ともかく、礼を言われる度にリュンヌは、「カルケル自身の力だ」と答えていた。
だが、当のカルケルが「魔女殿のおかげ」といってはばからないので、王家にはやたらと恩義を感じられる始末。
――王妃も、王も、そして弟王子も、カルケルの呪いが解けたことをたいそう喜んだ。もちろん、城仕えの者達や民も。
誕生日も間近だから、盛大なお祝いをしようと、城は準備に追われている。
めでたいことは、みんなで分かち合おう。そんな考えで沸く人々。
灰を降らせないカルケルは、優しく真面目で素敵な王子様だから、たくさんの人がそばを囲む。
あの一件から数日。
経過を観察するため滞在していたリュンヌの目にも、彼がどれだけ慕われているかが分かった。
――呪いで人を避けていたカルケルは、多分思い込みが過ぎたのだ。
たしかに立場や肩書きだけで寄りつく者もいただろうが、彼自身を心配する人もいた。カルケルに、そこまで思い至るだけの余裕がなかっただけだ。
(でも、もう大丈夫)
安堵と共に、一抹の寂しさがリュンヌの胸にこみ上げる。
――カルケルの呪いは解けた。
そして、リュンヌが出した交換条件も、彼はきちんとこなしてくれた。
(私、恋をしたわ)
生真面目で優しい王子様に。
散々憧れていた恋をした。
(でも、残念。……私は、お姫さまじゃないものね)
物語の結末は、王子様とお姫様が結ばれて終わる。
魔女は王子様と結ばれない。
――住む世界が、違うから。
それでも、これはやっぱり一生の宝物だと胸に秘め、リュンヌはカルケルに別れを告げた。人々に囲まれている彼に直接伝える事は出来なかったから、心の中で。
――そして、カルケル王子、十八歳の誕生祝いの夜。
盛大なお祝いが開かれているお城を、ひっそりと出ることにした。
(今頃、舞踏会が始まってる頃よね)
リュンヌも、出てはどうだと進められたが、断った。
魔女は踊らないと言えば、カルケルはそれ以上食い下がっては来なかった。
リュンヌの王子様は、変な所で物わかりが良いのだ。――相手の立場を尊重できる人間なのだ。
そんな彼は、きっとこれから先いろんな人に会う。そして、いろんな人に好かれるだろう。
呪いから解放された王子様は、魔法に頼る必要がなくなった。だから魔女は、もういらない。
物思いにふけりながら、長い階段を下りる。
途中、これが王妃と王が別れたあの階段だと気付き、なんとも言えない気持ちになった。
王妃は急いで帰り、ガラスの靴を落とした。王は、それを頼りに王妃を探し当てる。
リュンヌのガラスの靴は、もうない。
(そもそもアレ、呪い付だったからね。あんなの、別にいらないし)
とぼとぼと、歩く。
本当は離れたくないくせに、なにかと理由を付ける自分の意気地のなさ……。
魔法は使えるようになったけれど、これはいかんともしがたいと肩を落とすリュンヌ。
――ぐい。
「――!?」
下を向いて歩いていた彼女は、突然後ろから腕を引かれ、危うく階段を踏み外すところだった。
「ちょっと! 危ないじゃないの! どこの誰よ!」
ちょっぴり切ない気分だったのに、一気に吹き飛んで、けんか腰の口調で怒鳴りつける。
すると――負けず劣らずの不機嫌な声がかえってきた。
「あぁ、それはすまない。……靴も残さず逃げようとしている魔女殿を見つけたので、つい、な」
「…………」
よく知っている声だ。
でも、振り向きたくない。
「……どこへ行く気だったんだ?」
咎めるような声に、答えたくもない。
けれど、腕を掴む力の強さから、振り払う事も出来なさそうだ。
「――魔女殿……俺が、嫌になったのか?」
どうしようと悩んでいたリュンヌの耳に届いた声は、不安げに揺れていた。
「俺は……君と俺は、互いに思い合っていると……そう、考えていたのだが……。すまない、俺の独りよがりな考えだったんだろうか……」
「え、ち、ちが……」
「……すまない……、それなら俺は君になんて事を……。調子に乗って、唇まで奪って……俺は、俺は…………」
「違うから! 思ってるのと全然違うから! 恥ずかしい事言いながら落ち込まないで! 私、貴方の事好きなんだから!」
ぐるっと勢いよく振り向いたリュンヌは、満面の笑みをたたえたカルケルに抱き留められた。
「捕まえた」
「……あれ?」
声はもの凄く落ち込んでいて、それこそ再会した時のような暗さを伴っていたのに、リュンヌを腕にとらえたカルケルの顔は、上機嫌そのものだ。
「……ねぇ」
「なんだろうか、魔女殿」
「……騙したの?」
「何のことだろう?」
いけしゃあしゃあと嘘をつく王子に、リュンヌは文句の一つでも言ってやろうと口を開いて――やめた。
かわりに、普段からは想像もつかない、気弱な質問が口をつく。
「……なんで追いかけてくるのよ」
「君が、俺の目の届く範囲にいなかったからだ」
「……主役の貴方がいない方が問題よ」
「些末な事だな。俺にとっては、君がいない事の方が、大問題だ」
真っ直ぐ伝えられる言葉に、リュンヌは何も言えない。熱くなった頬を隠すように、うつむく。
少しの沈黙が流れたあと、カルケルが少しだけ腕に力を込め、口を開いた。
「どうして、黙って去ろうとしたんだ……?」
問われたリュンヌは、俯いたまま答える。
「……だって、お姫様じゃないから」
「なんだ、それは」
「王子様は、お姫様と結ばれるものでしょう」
「……世の大半の女性は、姫君ではないだろう。母上だって、元は姫などという身分ではない」
「そうじゃないの! 女の子は、誰でもお姫様になれるの!」
「その論法ならば、魔女殿だって該当するだろう」
「私は魔女だからダメ!」
意味が分からない、とカルケルが嘆息した。
「――私は、もう魔女っていう存在だから、お姫様にはならないの」
「……なぁ、それはもしかして……俺のことが嫌だと遠回しに断っているんだろうか?」
「違うわよ! どうしてそうなるの! 貴方の事が好きだけど、ま、魔女の私じゃ、釣り合わないでしょう……! 私は魔女をやめる気なんてないし、誇りに思ってるけど……魔女と王子様が結ばれるお話なんて、見たことないもの」
「…………」
カルケルは、真面目な顔でしばし沈黙した。
かとおもえば、リュンヌの頬を両手で挟み込み――深々と嘆息した。
「なんだ、そんな事か……」
「そ、そんな事じゃないわ……!」
「いいや、そんな事だ。……魔女と王子が結ばれたという逸話がないのならば、俺達が作れば良いじゃないか」
「…………え?」
「俺は君を好きで、うぬぼれでなければ……君も俺を思っていてくれているんだろう? ――この先も、一緒にいればいいと言ってくれたじゃないか」
居場所がないと悩んでいたカルケルだから、言ったのだ。
呪いが解けた彼には、もう帰る場所がある。
王子である彼に、相応しい場所が、用意されているのだ。
「王子と魔女は、いつまでも幸せに暮らしました――では、駄目なのか?」
優しい問いかけに、リュンヌは頷きたくなった。
「俺は、それでいいと思っている。……そうであって欲しいと、心から願っている」
あとは、君の答え次第だと促されたリュンヌは、顔を上げた。
「……貴方が自分のお姫様を見つけるより先に、魔女が攫ってもいいの?」
問いかけに、カルケルは破顔した。
リュンヌの頬を唇が掠め、囁き声が降ってくる。
「大歓迎だ、俺の魔女殿」
心から言っていると分かる答えに、リュンヌは堪えきれず涙し、カルケルに自分から抱きついた。
小鳥のさえずりを聞きながら、リュンヌは茨の森を慣れた足取りで歩いていた。
「……うーん……、軟膏用の薬草は、これくらいあれば足りるし……あとは……」
手にした籠を覗き込み、難しい顔でうんうん唸りながら道を行く。
風にたなびいた薄紅色の髪が、つんと木の枝に引っ張られた。
「痛っ……!」
後ろによろめき、リュンヌは不満の声を上げる。
なんとか視線を動かせば、細い髪が木の枝に絡まっていた。
「……うー……とれない……」
絡まった髪をほどこうとするが、上手くいかない。
うめき声を上げたリュンヌは、いっその事、切ってしまおうかと小さな鋏を籠から取り出した。
「お困りですか、可愛い魔女殿」
「あっ……」
リュンヌが鋏を入れるより先に、やんわりと伸びてきた手に押しとどめられる。
大きな手が、器用に枝に絡まった髪をたちまち解いていくのを、リュンヌは魔法みたいだと見つめる。
「君は目を離すと、本当に何をしでかすか分からないな」
これでいい、とリュンヌに自由をもたらした救世主は、苦笑を浮かべる。
ついでとばかりに髪を撫でられたリュンヌは、顔を真っ赤にしてふくれた。
「今のは不可抗力よ……! だいたい、貴方はどうしてこんなところにいるの? 館で書類とにらめっこしてたはずじゃない、ねぇ“茨の森の領主”様?」
「あぁ、気にしていてくれたのか? ――可愛い魔女殿の声がしなくなったから、心配で探し来たんだよ」
また、負けた。
リュンヌはツンと、唇を尖らせる。
そして、気障なことを素面で口にする領主様を見上げた。
「――貴方って、本当に恥ずかしい事を、照れなく言う人よね」
「恥ずかしい事なんて言っていない。俺はただ、思ったことを口にしているだけだ。可愛い魔女殿」
「ほら、また!」
「可愛い君を、可愛いと言って何が悪いんだ。俺は、出会った頃から君を可愛いと思っていたことは知っているだろう? 呪いのせいで自制していた分も、これからは自重せず口に出せる」
カルケルはもう、魔法の外套を着ていない。けれど、王子らしい煌びやかな装いでもない。
長袖のシャツの上に、刺繍が施された袖なしのベストを着けただけの格好だ。
それでも、甘やかに笑う彼はいつだって、一等きらきらして見える。
「……貴方って、本当に王子様だわ」
「ああ。もちろん君限定の、だがな」
お手をどうぞ。
そう言って差し出された手に、リュンヌは自分の手を重ねる。
――カルケルは、結局自ら王太子の位を退いた。
呪いが解けたとしても、自分が長らくその責務を放棄していた事実は、変わらない。
不甲斐ない兄に変わり、立派に責務を勤め上げた弟王子こそ、次の王に相応しい。
自分は今まで支えて貰った分、これからは臣下として国に尽くしたい。
そう王に直訴したカルケルは、望みを聞き届けられた。
そして、主がいなくなり、所有権が王家へと戻った茨の森の、新たな主に任ぜられたのだ。
「……ねぇ、本当によかったの?」
「なにがだ?」
「ここの“領主”になった事よ」
茨の森を含む、ここら一帯が、カルケルの領地になった。
近隣の村人は、そんな彼を茨の森の領主様と呼ぶ。
お城の生活の方が、賑やかで華やかだっただろうに、とリュンヌは思う。
けれど、カルケルは手放したものを惜しくないと笑う。
「ここには、君がいるからな」
「……まぁ、カルケルが来てくれなかったら、私住むところもなくなってたけど」
森はあくまで茨の森の魔女の物。
彼女亡き後は、王家へと返還される。
リュンヌはあくまでも弟子で、正式な引き継ぎもされていなかったから、所有権はなかったのだ。
もしかしたら、それを気の毒がったカルケルが、また無理をしているのではないかと案じていたのだが……。
「君は、俺と一緒にいるのが嫌なのか?」
「い、嫌じゃないけど……」
「じゃあ、好きなのか?」
「…………」
「そこで黙らないでくれ。……顔を見ていなければ、嫌なのかと誤解するところだったぞ」
リュンヌの真っ赤な頬をつついたカルケルは、悪戯っぽく笑った。
「……貴方、私をからかって遊んでるでしょう?」
「からかう? まさか。――俺は、誠心誠意、魔女殿に愛を伝えているだけだ」
「っ! そういう所が……!」
臆面も無く言ってのけたカルケルに引き寄せられて、リュンヌは自然と目を閉じる。
そうすると、自分の唇に温もりが重なり、胸の中に幸福感が広がるのだから、不思議だ。
「ずるい」
「? 何がだ?」
「……私ばっかり、貴方を好きになっている気がするわ」
「それは心外だな。……俺の方が、絶対に君に夢中だ」
「私よ」
「いいや、こればかりは譲れない。俺だ」
見つめ合った二人は、こつんと額を合わせて吹き出した。
「……それじゃあ、家に帰ろうか、……リュンヌ」
「うん!」
魔法使いは、名前を明かさない。
魔法使いが、誰かに名前を明かすとき。それは、その人に人生を委ねても構わないと思ったときだ。
――つまり、人生を共にしたいと思った相手にだけ、魔法使いは真名を明かす。
リュンヌの名前を呼んだカルケルは、幸福そうに微笑む。きっと、自分も同じような顔をしているのだろうなと、リュンヌは思った。
繋いだ手は、温かい。
大切な温もりは、二度と手放すまい……そう思ったのはどちらだったのか――絡めた手に力を込め、愛しいものがいるだけで鮮やかに色づく世界の中、二人はもう一度だけキスをした。
「よく来てくれました」
両手を広げて歓迎の意を示すのは、この国の王子。
次の王様になることが決定している、第二王子フラムだ。
コントドーフェ王国のお城に招かれたリュンヌは、なんとも言えない微妙な表情でお辞儀をした。
「どうぞ、椅子にかけて下さい。母は、もうすぐまいりますから」
「……ええと、どうもありがとうございます……」
王妃が伏せっていたのは、城に蔓延していた悪い魔法の影響だった。
だから、魔法が解けた今も、完全に影響は取り除かれたのかどうか定期的に確認する……それがリュンヌの仕事だった。
しかし、この王家。会う度にリュンヌを歓迎し、領主の仕事で森を空けられないカルケルの様子を事細かに聞いてくる。
本人に、いっそ手紙を書いて家族に送ってやれとひと月前に言った。
けれど、実は筆無精だったリュンヌの王子様は、わかったと言いつつ未だに一行も書いていない。
(だから、みんなカルケルの事を知りたがるのよ)
特に、兄を尊敬してやまないフラムは、自身も忙しいであろうに合間をぬって兄上がどうしているか聞きに来る。
本当に短くてもいいから、手紙くらい書いてやったらどうかとリュンヌはいつも思う。なにせ、毎回毎回説明するのが面倒なのだ。
「カルケルは、今日もお仕事で忙しそうだったわ。でも、領民の話にもよく耳を傾けてくれるってみんなは、カルケルの事を慕ってるわ」
「そうですか、そうですか……!」
実はこの話、もう五回はしている。
だが、フラムは飽きもせず、前回も聞いたはずの話に満足そうに相槌を打つ。
そして、今にも飛んでいきそうな軽い足取りで仕事に戻るのが恒例だったのだが、今日のフラムは違った。
「貴方には、本当に感謝しております」
唐突に、お礼を言い始めたのだ。
「貴方がいなければ、オレは取り返しの付かない事をしていました。……父も、母も、そして兄上も、みんな傷ついてバラバラになっていたでしょう」
家族と国を思う気持ちに付け入られたフラムは、神妙な面持ちで言う。
あの時の事を思い出して、リュンヌも少しだけしんみりした気持ちになったのだが、フラムが続けて口にした言葉のせいで、その全てが吹き飛んだ。
「貴方は、この国の恩人です……。本当に、ありがとうございます……義姉上!」
「――はぁっ!?」
「おや、どうしました、義姉上?」
思わず裏返った声を出してしまったリュンヌを、フラムが不思議そうに見つめた。
「あねうえって……」
「はい? 義姉上は、義姉上ですよね? なにせ貴方は、この国の恩人であり我ら王家にとっての救い主であり、そのうえ兄上の最愛の方です。なので、オレは感謝と尊敬と親愛の念を込めて、義姉上とお呼びしたまでですが……いけませんでしたか?」
しゅんとした顔で肩を落とすフラム。
ただ、続く言葉はどこかずれていた。
「ふむ……やはり、“我が国と王家の救い人にして兄上とは相思相愛の絆で結ばれた義姉上”……と、きちんと正式にお呼びするべきでした……申し訳ありません」
「違いますから!」
なんだその仰々しく恥ずかしい名称は。
一体誰だ、そんなヘンテコな正式名称を定めたのは。
そんな長ったらしくも仰々しい響きの名前で毎回自分を呼べと言えるほど、リュンヌは自己顕示欲が強くない。
むしろ、人前で呼ばれたら羞恥心で爆発する気がしてならない。
きっと、その後はもう、一歩も森から出られないくらい酷い心の傷を負うだろう。
「……やめて……その呼び方だけはやめて下さい、お願いします……!」
「そうですか……? オレは、貴方の功績と兄上との深い絆を象徴するようなこの呼び名が嫌いではないのですか……」
「………………(好き嫌い以前の問題だわ)」
恐ろしいことに、フラムは本気かつ本心で言っている。からかう等の意図があればまだしも、なのに。
リュンヌは死んだような目で虚空を見つめ、なんとか声を絞り出した。
「……あねうえでお願いします……!」
「なんと……! 義姉上は大変奥ゆかしい方なのですね! 義弟として、いたく感銘を受けました!」
もう何が何だかわからない。
今のどこに感銘を受ける要素があったのかも、奥ゆかしいのかも、さっぱりだ。
ただ、リュンヌは一つ学んだ。
(さすが兄弟。カルケルにそっくり……!)
兄弟揃って、人を羞恥心でのたうち回らせるのだから。――兄と弟では、方向性が違うが。
「これからも、兄上の事をよろしくお願いいたします、義姉上!」
「…………はい」
純粋な笑顔を向けられているのに、なぜだかどっと疲労したリュンヌだった。
――その日の夜、夕食がてらにこんな事があったのだとカルケルに話すと、彼はごほごほとむせた。
「大丈夫?」
「すまない……。なんというか……弟が、本当にすまない!」
「別に謝る事じゃないわ。ちょっとびっくりしたけど」
「あいつは、出来た弟だが……時々思いもよらない方向に……暴走するようなんだ」
それは、思い悩んで魔女につけ込まれた一件を振り返ればよく分る。
ただ、カルケルはなぜか赤い顔で、ごほんごほんと不自然な咳払いを繰り返した。
「だが、今回は……あいつなりに、俺の味方だと示してくれたんだろうな……」
「味方? 今更? だって、二人はもう仲直りしたじゃない」
「いや、それとは別に…………」
「?」
「……俺と君が、ゆくゆくはその……夫婦になる事を、認めていると……そう言っているんだ」
――カルケルは王位継承権を放棄したとはいえ、王家の血が流れている。
呪いから解放された彼ならば、抱き込みたいと思う貴族は大勢いるはずだ。
隣に立つのは、魔女なんかよりも、令嬢の方が相応しいと大多数は思う。
「フラムが君を、公の場で義姉上と呼べば、俺を取り込もうとする連中への牽制になる。……俺と君の仲は、暗黙の了解とされる」
「…………」
「リュンヌ? 聞いているか……?」
「…………は…………」
「は?」
「恥ずかしい……っ!!」
ばっとリュンヌは椅子から転がるように降りると、しゃがみ込んだ。
その豪快なまでの照れ隠しに、カルケルはやれやれと苦笑して椅子から腰を上げ、同じようにしゃがみ込んだ。
「何が恥ずかしいんだ?」
「だ、だって……! だって、ふ、夫婦なんて……! そんな」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないけど、まだ早いわ!」
真っ赤なリュンヌの両手を掴むと、カルケルは笑った。
「そうか、“まだ”と言う事は……いずれは、俺とそういう仲になってくれるんだな」
「えっ!? それは……だって……こっ……恋人同士……だもの……」
後半はもごもごと口の中で唱えるような形になってしまったのだが、カルケルは正確にリュンヌの言葉を拾い上げたようで、ますます嬉しそうに笑う。
「では、……君の言う時期が来たら、また改めて言うことにしよう」
「何を……?」
「なんだ、今聞きたいのか?」
カルケルは、リュンヌに内緒話を打ち明けるように、そっと耳打ちした。
「愛しい魔女殿、どうか俺の妻になって下さい」
「――っ!」
リンゴのように真っ赤になったリュンヌの頬に、カルケルの唇が押し当てられる。
「答えを聞ける日を、楽しみにしている」
「~~! あなたって、あなたって……!」
きっと、本当はもうカルケルだって分かっている。
リュンヌの答えは、もう決まっているから――名実ともに未来の王の義姉上になるのは、そう遠くない未来だと。
だってリュンヌの王子様は、甘くて蕩けそうなほど、幸せそうな笑みを浮かべていたのだから――。
寝台でうなされている幼子の元へ、彼女はそっと近付いた。
苦しげに寄せられた眉に、乱れた呼吸。
目尻からは、幾筋もの涙が伝う。
また、新たに流れた涙を拭ってやろうと手を伸ばし――彼女は、自身の手が幼子をすり抜けたことで、ハッと我に返った。
幼子に……可愛い娘に触れられないのは、彼女がすでに魂だけの存在になって久しいからだった。
肉体を失くした自分では、またも魔法による悪行のせいで恐ろしい目にあった娘の涙を拭うことすら出来ない。
怖がる娘を救い出し、もう安心よと抱きしめてやることも出来ない。
今、出来る事といえば……意味もなく漂う事だけ。
それが、何になるのだろうと彼女は悔しさに唇を噛む。
だけど、痛覚などとうにない。
暑さも寒さも、空腹すらも感じない。
体はすでに“あの魔女”に奪われおり、人としての自分は死んでしまったと理解している。
それなのに、いつまでも天の門へ行けないのは、一人残していく娘が心配だったからだ。
(それでも……ようやく安心して逝けると思ったのに……)
両親を亡くした娘は、全てのモノに恐怖を抱く、ひどく臆病な子供になってしまった。
心を痛め、大丈夫よと手を差し伸べても、彼女の手は我が子を素通りするばかりで触れらず、ただ日々神経をすり減らす娘をそばで見ているしかない。
そんな無力な己に歯がゆさを覚える毎日に、希望が差し込んだのはある日の事だった。
可愛い娘が、一人の王子様と出会ったのだ。
以降、娘の表情はだんだんと明るくなっていった。生気に満ちていく顔を見て、どれほど嬉しかったか……。
(これならもう、大丈夫)
(この王子様との出会いが、この子の救いになった)
(私は、いつ逝っても大丈夫ね……)
――しかし、差し込んだ希望は、またしても“あの魔女”によって粉々に砕かれた。
向かい合う、二人の子供達。
照れたような顔をした、幼いながらも利発な王子。そんな王子を、きらきらした目で見上げる娘……二人の姿は、たちまち灰に埋もれた。
またしても、魔法で恐ろしい目にあった娘は、灰の中から救出された後……今も、まだ目を覚まさない。
恐ろしい夢に囚われているのだろう。
こうしてずっと、魘されては泣いている。
うわごとで「おかあさん」と呼ばれて、彼女は泣きたくなった。
(――ここにいるわ。ずっと、ここにいるから、大丈夫よ……)
呼びかけて、手を握ってやりたかったのに――彼女はもう、娘に触れる事が叶わない。
「……まだ、そこにいたのかい」
ふいに呼びかけられた彼女は、娘から視線を外すと、振り返った。
この館の主にして、かつての師である、茨の森の魔女がいた。
全盛を誇ったあの頃より、だいぶ老け込んでしまった師は、皺の増えた顔でじっと彼女を見ていた。
(見えるのですか、お師匠様?)
そう問いかければ、師は頷く。
「いつまでそうしているつもりだい?」
(――いつまで?)
(――いつまでですって?)
カッと怒りがこみ上げてきた。
「……怒るんじゃないよ。魂だけの存在で、長らくこちらに留まるのは良いことではないと、お前も知っているはずだよ?」
そんな事は分っていた。
分っていたけれど、割り切れないのだ。
「……死んだことを認識できていないと思ったら、そうでもなさそうだ。……そんなに、この子が心配かい?」
(――当たり前です。私とあの人の、宝物ですよ?)
本当は、もっとずっと、一緒にいられるはずだったのだ。
(――冒険が好きなこの子だもの。あの人と二人、もう少し大きくなったら、家族でいろんな所へ行きましょうと話していたのに……!)
なんて意地悪な質問だろうと、彼女はかつて師と仰いだその人を睨み付ける。
すると、茨の森の魔女は薄汚れたぬいぐるみを差し出してきた。
灰のせいで煤けたそれは、悪戯好きの妖精“カボチャお化け”を模したぬいぐるみ。
娘の誕生日祝いに贈ったもの。可愛い娘の、大のお気に入り。
「野茨の魔女は、コントドーフェ王国の王子にまで呪いをかけた。……私は、この子に忘却の魔法をかけるけれど……魔法による二度の恐怖体験を、心の奥底では決して忘れないだろう」
恐怖は後々まで影響すると告げられ、彼女は痛ましげに我が子を振り返る。
「……天の門へたどり着けないまま消えるのを待つよりも、この子のそばで見守ってはくれないかい?」
彼女は、師の申し出を訝かしんだ。
「――このぬいぐるみには、強い思いがこもっている。お前のもの、お前の夫のも、そしてこの娘のもの……だから、このぬいぐるみを魂の容れ物にする」
それは、奇跡に近い魔法だ。
死者の魂を呼び寄せることは出来ても、長時間とどめることは出来ない。とどめようとすれば、多大な力を使う。
……現在の師に、そんな力が残っているとは思えなかった。
「もちろん、私一人の力では無理だ。けれど、お前もまた魔法使い。二人分の魔法を込めれば、多少は持つだろう。――その分、制約も多くなるけれど」
どうする? という問いかけに、彼女は頷いた。
同じ娘を持つ親として、師は答えを予想していたはず。
自分もまた、師の最愛である“あの魔女”のための駒として使う気なのだろうが、乗らない手はなかった。
「では、魔法を使おう。……私がお前達親子に出来る、唯一の贖罪。全てを奪ってしまった小さき魔女に遺せる、唯一の魔法を」
そして、二人の魔女による魔法により、ただのぬいぐるみに魂が宿った。
◆◆◆
一目散に、うなされ泣いている娘の元へ向かうと、自分と同じ色で……けれど髪質は夫譲りのさらさらした手触りの髪を、優しく撫でた。
すると、まつげが震え――ようやく、娘の目が開く。
こぼれた涙を拭いてやると、娘は状況を確認するように、ぱちぱちと瞬きを繰り返して不思議そうに言った。
「あなた、だぁれ?」
夢から覚めたばかりの、けれど夢の内容を忘れてしまったせいで、どこか目覚め切れていない、舌足らずな問いかけ。
それに答える術を――今の彼女は持ち合わせていない。
長く続くようにとかけた制約は、少女の前で喋らない事。正体を悟られないこと。
声を発せば魔力が弱まる。
正体を知られれば魔法が解ける。
たしかに不便だろうが、それがどうした。
これからは、なにを話すことも出来なくても、名乗ることは出来なくても、それでも魔法が長く続けば、それだけ我が子のそばにいる事が出来る。
いつか魔法が切れる、その時までは。
あるいは、この子を託せる、誰かが見つかるその時まで。
――自分が守る。
決意を声に出すかわりに、彼女は胸に手を当てて優雅に一礼してみせる。
「……カボチャおばけ……?」
「そうだよ」
後からやって来た茨の森の魔女は言った。
「これは、お前がいつも抱いていた、あのカボチャお化けさ。晴れて力を得て“使い魔”になれたんだよ。さっき試しに呼んだら、出てきてね。これから先、お前の手助けをしてくれるというから。まず、名前を付けてあげようね」
「名前……? じゃあ……」
この時から、娘が自身の王子様と出会い呪いを断ち切るまで、彼女は母親ではなく“カボチャお化けのランたん”になった。
全てを託せる青年に、娘を任せると決めるその時まで、ランたんは一度も言葉を発さなかった。
そして、今度こそ本当に、彼女の望みが叶う時が来た。
娘は、自らガラスの靴を脱ぎ捨てて、立ち向かう強さを得たのだ。
野茨の魔女を天の門へと送った道へ、彼女自身もランたんのまま飛び乗って、可愛い娘に別れを告げた。
あの子の涙を拭う手はもうないけれど、きっとその役目は隣の王子様が果たしてくれる。
『小さな魔女さん。……お母さんとお父さんの、可愛い可愛い宝物。どうか……幸せに』
最愛の娘が作ってくれた天の門へ続く道。最後の言葉は聞こえなかっただろうけれど、彼女は満足だった。
(――私の愛するあの子とあの子が愛する者、二人がどうかいつまでもいつまでも幸せでありますように)
カボチャお化けのランたんが、母親として最後に遺した魔法。
それは、解けることのない永遠の魔法になった。