コントドーフェ王国にその名を轟かせる、茨の森の魔女。
リュンヌを引き取り、孫同然に育ててくれた彼女には、行方知れずの娘がいた。
血の繋がりはない。娘の生まれは特殊で、精霊と人間との間に生まれた存在だった。
人間とも精霊ともつかなかった娘は、独りぼっちで泣いていたところを茨の森の魔女に拾われたという。
そして茨の森の魔女を実母のように慕い、魔女もまた半人半精の少女を、実の娘のように慈しんだ。
そこまでは、よかった。
誰も不幸にならず、幸せで終われた。
娘が、精霊の気質を引き継いでいなければ、きっと良好な親子関係でいつまでも幸せに暮らせたのだ。
気まぐれ、悪戯好き、愛されたがり――そして、それを抑える理性を持たなかった娘は、次第にあちこちに嫉妬するようになった。
魔女の友人、そして魔女の弟子。
数多くいた弟子は、娘の苛烈な気性に参り、残ったのは一人だけだった。
娘は、その弟子だけは認め、ともに魔女の元で修行する姉妹弟子となった。
「その、唯一残った弟子というのが、私のお母さんなの」
少しだけ誇らしげに、リュンヌは母のことを口にする。
「――でもね、二人が仲良くなって、それで終わりにはならなかったのよ」
娘は自分を姉弟子と名乗った。
そして、妹弟子が自分を差し置いて、母である魔女の関心をひくことを許さなかった。
結果、妹弟子は常に姉弟子の下にいた。
姉弟子は、あの魔女の娘ということでいろんな人にかこまれ、ちやほやされた。
すでに、性格の苛烈さは知れ渡っていて、まともな者は近付こうとはしない。
娘を囲むのは、いいように利用しようとしている者ばかりだったのに、娘は母の忠告も妹弟子の諫める声も聞かなくなった。
自分の心を満たす、耳に優しい甘い言葉を選んだのだ。
「……そのうち、今度は口うるさい母親が嫌いってことで家出したそうよ」
反抗期を迎えた子供の行動だったかもしれない。――娘が、普通の人間だったなら。
けれど、彼女の半分は精霊であったため、本能的に人の理に縛られることへの不満があった。
幼子のような無邪気で残酷な心に、強い力。
人の気を惹くために、あるいは自分を無視した者への報復に、娘は自由気ままに振る舞っていたという。
「でも、とうとう茨の森の魔女に捕まって、連れ戻されたらしいの。しばらくは、家から出るなって閉じ込めたんだけど……また逃げたんだって」
「……それは……、やはり、魔法使いとしてはかなりの腕だったという事か?」
「うん、そうみたい。……でも、ばば様は今度は追いかけなかった。……引退した親友が赤ちゃんを産んでから、体調を崩しがちで、お見舞いに行っていたんだって」
「…………」
「そのお友達は、残念ながら亡くなっちゃったんだけど……。でも、赤ちゃんは元気に大きくなっていったんだよ……それが、カルケルのお母さん」
「――なんだって?」
つまり、カルケルの母の母……実の祖母に当たる人こそ、茨の森の魔女の親友だった事になる。
親友の忘れ形見だからこそ、茨の森の魔女はカルケルの母を見守り続け、真に愛し愛される存在の元へ導いたのだ。
「――自分が一番じゃなきゃ気が済まない野茨の魔女は、それがとっても気に食わなかった。……だから、人とは違う魔法の質を利用して、ある未亡人の体を乗っ取ったのよ。――自分よりも母の関心を惹きつけた、憎たらしい存在に、とっておきの意地悪するために」
「……嘘だろう? たかが、その程度で? そんな、普通のことに腹を立てて、いろんな人の人生をめちゃくちゃにしたって言うのか?」
「私も、初めてばば様に話を聞いたとき、そう思った。……でも、違うの。私達人間にとっては、その程度で片付けられる事でも、精霊の質が混ざっている彼女には、とても理不尽な事なんだって」
理解が出来ないと首を振るカルケルに、リュンヌは言った。
「――カルケルは、理解出来ない。……つまり、そういう事よ。彼女も、私達の考えている事が理解出来ない。到底受け入れがたい。相容れないんだって」
「だったらなぜ、人の世界に固執するんだ?」
隠遁生活を送るでも、色々な方法があっただろうに……と呟いたカルケルだが、ハッとしたようにリュンヌを見た。
「……こういう考え方が、ないのか?」
自分が引く、という概念がないのだ。
「うん。……人間と精霊は違う。愛し方すら違うの。精霊は、恋した人間に思う相手がいれば、その人を呪う。そして、やめて欲しいと懇願する相手に、無理矢理愛を誓わせる。そこまでしておいて、飽きたら簡単に捨ててしまう。……精霊と人が結ばれる事なんて、滅多にないけど、文献に残っている記録を辿ると、そんなのばっかりだったわ」
違う理で生きている存在。
その気質を受け継いでしまった野茨の魔女は、人の世に馴染もうとはしなかった。
もしかしたら、散々迷惑を振りまくことが、彼女の親愛表現だったのかもしれないが……そんな方法では、他者は悪意しか感じない。
「もう一つ、気に入らなかった事があるらしいの」
「なに?」
「ばば様が、貴方の両親を結びつけたことよ」
「は?」
「――二人はきっと結ばれるって、ばば様は一目見た時思ったんだって。二人の波長はぴったりだから、時が来れば必ず出会って結ばれる、運命の相手だって」
――母の関心、他者の関心、運命の相手という特別な響き。
それは全て自分のものだという肥大した考えは、咎める者のいない場所で手が付けられないほど大きくなった。
「ばば様は、親友を亡くしてから少しの間、貴方のお母さんの成長を見守って、……それから、逃げ出した自分の娘を探す旅に出たんだって。……入れ違いで、野茨の魔女は国に戻って来た。たぶん、隙を狙っていたんだと思う」
そして、後は誰もが知っての通り。
意地悪な継母が、継子いじめに走るのだ。少なくとも、対外的にはそう見えただろう。
けれど、咎め立てするよな良識のある人々をも、野茨の魔女は自らの力で操った。
――結果として、近隣住民総出で、あの家の暗部を隠蔽するような形になったのだ。
「人の意思を、ねじ曲げるなんて……」
「凄い魔法でしょう? でもね、悪い魔法は強力だけど、その分負担が大きくて、報いが返ってくることがあるの」
「……報い?」
「……野茨の魔女は、いろんな人の心を操った。人の体を奪い取った。やってはいけない事ばかりなのに、罰を受けていない」
リュンヌは、視線を落とす。
ぎゅっと握った自分の拳を、ただ睨んでいた。
「……肩代わりさせたのよ」
「え?」
「……知ってる、カルケル? 魔法使いはね、年を取らない……っていうと大げさだけど、力の強い魔法使いほど、ゆるやかに年を取るの」
「……だが……」
カルケルの物言いたげな視線を受け、リュンヌは続けた。
「――ばば様は……茨の森の魔女は、この国一番の魔法使いなのに、頭が真っ白のおばあちゃんだったでしょう?」
「……ああ」
「それが報いよ、カルケル」
「――は? 待ってくれ……。悪事を働いているのは、娘の方だろう? なぜ……」
「……ばば様が――茨の森の魔女が、そう願ったから」
リュンヌが覚えているのは、かさかさにひび割れた唇で、愛しげに誰かを呼ぶ魔女の姿だ。
「私のお母さんが、茨の森の魔女の弟子だって、さっき言ったでしょう? ……だからもう、気付いていると思うけど……、私とばば様には、血のつながりがないの」
周りは、私の事を“あの人”が生み捨てた子供だと思っているみたいだけれど、と呟く。
「――茨の森の魔女の娘は、あの……嫉妬に狂って不幸をまき散らしているあの人だけ。私は孫同然に扱われても、孫じゃない。ばば様が大事だったのは、あの迷惑な人だけ」
自分を象徴する文字を一つあげた、野茨の魔女だけなのだ。
リュンヌの言葉を、悲観と受け止めたのか、カルケルが憂い顔になる。
「……魔女殿……」
痛ましげに呼びかけられたため、慌てて首を横に振って、明るい声で否定した。
「勘違いしないでね。別に、悲しいわけじゃないから。いじけているわけでもないし!」
「……だが」
「本当に、本当よ。私は、あの人にとって仮初めの家族だったけど……だけど、ばば様にはよくして貰っていたもの……だから、約束したの」
思い出すのは、老いた魔女の姿と声だ。
『お嬢ちゃん、どうかあの子を止めておくれ』
ひび割れたカサカサの声は、いつも決まって、最後に同じ懇願をした。
過去を忘れたリュンヌには、老いた魔女がどうして自分にそんな大事なことを話すのか分からなかった。
ツギハギだらけの記憶しか持たなかったリュンヌには、才能のない自分を孫のように育ててくれる魔女がなぜ申し訳なさそうに、苦しそうに、そんなことを願うのか分からなかった。
でも、今ならすべてが繋がる。
分からないまま、それでも育ての親の必死の願いを無下にしたくなくて答えていた言葉を、今ならば決意を込めて口にできた。
――いちばん最初に交わした魔法使い同士の約束。
「もしなにかあれば……私が、ばば様に変わって、あの魔女を止めるって」
「…………」
「独りぼっちになった子供を引き取り、実の孫同然に育て、魔法の心得を教える。かわりに子供は、恩人の身になにかあれば、代わりに……両親を奪い自分を呪った魔女を捕まえる。……それが、私と茨の森の魔女が交わした、約束なの」
「……そうか……」
カルケルが、目を伏せた。
「……やはり、茨の森の魔女は……――もう、この世にいないんだな」
察していたのだろう。
カルケルは、落ち着いた様子で受け止めた。
だから、リュンヌも静かに頷く。
祖母と呼んだあの人は、この館にいない。留守にしている。不在だ。
並べた言葉は、どれも事実だ。
ただ……もう二度と、帰ってくる事はない。
「――……もしも自分が死んだら、あの子を捕まえるまで、絶対に死んだことを明かしてはいけないって……」
自身の死が明るみに出て、どこぞへいる娘の耳に入れば……――完全に箍が外れ、今まで以上に暴走するだろう。
それを、茨の森の魔女は恐れていた。それくらい、茨の森の魔女は道を踏み外した娘を愛していた。
皮肉なことに、それを一番伝えたかった存在には、届くことがなく終わったのだけれど。