普段なら部員の掛け声でにぎわっている体育館で、ボクは一人ステージに腰かけていた。窓からはきれいな夕焼けが差し込んでおり、外では次の大会に燃える運動部の掛け声が響いている。

 部活の時間は既に始まっている。しかしここには学どころか、部員は一人も現れなかった。

「ま、それもそうだよな」

 ボクは首をかきむしりながら、両足をバタつかせる。

 学が周りの人間に言いふらしたのだろう。この学校では、今ボクが偽善者のうそ吐きだといううわさが流れていた。今まで向けられていた好意的なまなざしは、たった一晩で軽蔑に変わったのだ。

 これでは、小学校のときのままである。

「ボクは一体何を間違えた」

 そうぼやくボクの頭には、間違いなく元凶と思われる人間の顔が浮かんでいた。沢村美雪。彼女と関り出してから、ボクは壊れ始めたのだ。

 彼女さえ目の前に現れなければ、ボクは理想を演じ続けることが出来た。感情が爆発することも、脳が誤作動を起こすこともなかった。そうだ、彼女さえ居なければ、ボクはずっとたくさんの人にアイされることが出来ていたのだ。

「すみません。遅れました」

 聞きたくない声が耳に届く。口角は自然とつり上がり、笑顔を作り上げた。

「うんうん。全然大丈夫だよ。昨日は無理をさせてごめんね。大丈夫だったかな?」

 ボクは視線を上げ、沢村の方を見つめる。彼女の顔は、酷くわびしそうだった。

「あなたのうわさ、聞きました」

 心臓が締め付けられる。急に酸欠状態に陥った身体は酸素を求め、何度も呼吸を繰り返す。しかしこの辺りには二酸化炭素しか存在しないのか、何度呼吸を繰り返しても体内に酸素が回ることはなかった。

 頭が痛み、心が痛む。脳は嫌われたくないというワードだけを参列する。脳はまた不具合を起こしていた。本当に、ボクは彼女が関わると壊れてしまうらしい。

 理解出来ないエラーを繰り返す自分の身体には、恐怖すら感じるほどだった。

 ボクはそれを極力表に出さないように、笑顔を浮かべ続ける。しかし口は乾ききってしまい、言葉を出すことが出来なかった。

「何故あなたは、無理をして笑うんですか?」

「無理なんてしてないよ。」

 否定の言葉が脊髄反射で発射される。しかし沢村はその回答を良しとはしないようだった。

「あなたが人を嘲笑うためにうそをついている悪い人だとは思えません。こんなにも親身に私に寄り添ってくれたのですから。何か理由があるはずです」

 彼女はきれいな言葉を投げ続ける。

「あなたに支えてもらったように、私もあなたを支えたいんです。お願いです。どうか、本当の言葉を教えてください」

 お前にボクの何が分かる。彼女が紡いだのはそんなド定番の言葉を吐きたくなるほどのきれいごとだった。

「君の気持ちはありがたいよ。でも本当に大丈夫だから。気にしないで」

 でもボクは壊れたラジオのように大丈夫を繰り返す。心の内はえんま大王も二度見するほどおぞましい感情でごった返しているが、それを彼女に見せることはない。だってもう、誰にも嫌われたくはない。独りぼっちは嫌なんだ。

 彼女は悲しそうに眼を細め、顔をうつむかせた。

「無理をして、良い子になろうとしなくていいんですよ」

「は?」

 彼女の口から飛び出たのは、鈍感な彼女らしからぬ鋭い一言だった。

「私も今のあなたの状況に覚えがあるんです。白血病になって、余命宣告されて、あの時の私も強がって大丈夫だよとしか言わなかったんです」

 彼女は胸に手を当てて、思い出を語り始める。その表情はじゅうたんに乗って街を見守る姫をほうふつとさせるような、幸せそうなものだった。

「家族に心配も迷惑もかけたくなかったんです。でも、あの時お母さんは私に、つらいときは泣いていい。死にたくないって叫んでもいい。お母さんは、無理して笑う姿を見る方がよっぽど苦しくてしんどいって」

「……いい家族に恵まれたんだね」

「はい、自慢の家族です」

 ボクが喉から手が出るほど欲する光景に、口からは思わずいやみが零れる。しかし彼女はそんなボクの心情に気付かずに、笑顔で首を縦に振った。

「あなたは今、あらぬうわさを流されて苦しんでいるんですよね。そして優しいあなただから、私に心配をかけないように笑っているのでしょう。でも、無理に笑わなくて大丈夫ですよ。私も、無理して笑うあなたを見る方がよっぽど苦しいですから」

 彼女は車椅子から立ち上がり、ボクの頬に手を伸ばす。しかし、少し立つだけで彼女はバランスを崩し、車椅子へと逆戻りした。体調が悪化して、立つことも出来なくなっているのだろう。

「全てを吐き出してください。私は、どんな苦しみでも一緒に抱えてあげます。頼りない、おんぼろな身体ですけど、あなたの苦しみを分かち合うことぐらいはできます。だって私はあなたを愛していますから」

 前言撤回だ。彼女はやはり、何にも気付いてなどいなかった。今までのボクが本物だと信じ切っているのだ。そしてこんな分かったような言葉をかけているのだ。

 馬鹿らしい。本当に馬鹿らしい。何がアイしているだ。結局、理想のボクだけを見て、本当のボクなど、あいしていないではないか。

「……は? 何を言っているんだ。それでいいじゃないか。アイされるために、ボクがそうしたんじゃないか。ボクは何に怒っているんだ」

 理解不能な思考が脳をかきまわし、本当のボクが分からなくなる。ボクはアイされるためならなんだってした。自分らしさを捨て、理想であるようにした。その結果、彼女はボクをアイしてくれた。一人ボッチじゃないんだ。ボクの作戦はうまく行っていたんだ。なのに、なのにどうして。

 ボクは、こんなにも寂しがっているんだ?

 小さな手が目の前に現れる。ボクはそれを思わず払いのけ、その場に立ち上がった。すると車椅子に座っていた沢村は、なぜか地面に倒れ込んでいた。

 ボクは慌ててステージから跳び降り、沢村を抱きかかえて車椅子へと座らせる。彼女は、とても軽かった。まるで感触のある幽霊を抱えている気分だった。

 彼女は車椅子に座るなり、ボクの頭をなでまわす。頭をなでられるのは産まれて初めてだった。

「ボクは、そんな良い子なんかじゃない」

 口が脳を通さずに、勝手に思いを打ち明け始める。ボクは辞めろ、止めろと念じるが、口は止まってくれはしなかった。

「ボクはアイされるために君を利用していただけだ。君の思う通りにボクが動けば、君はボクをアイしてくれるだろうって。そして余命少女の願いを叶えたとなれば、この学校でヒーローとして扱われて、皆がボクをアイしてくれるだろうって」

 ぽつぽつとボクの本音を語り始める。彼女からすれば聞きたくない、最悪な告白だろう。しかし、彼女はボクの頭をなでることを止めようとはしなかった。

「昔、小学校で虐められていて、居場所がなかったんだ。両親は共働きで全然家に帰ってこなくて、家でも常に一人ボッチだった。そのせいで一人が凄く嫌いでね。誰にでも良いからアイされたかったんだ」

 一度吐き出してしまえば諦めもつくわけで、ボクは過去を語り始める。それは今まで必死に隠していた、理想とは程遠い、本当の自分の姿だった。

「だからボクは、誰にでもアイされる理想の人間になろうとした。そうすれば、一人ボッチじゃなくなるから。それは正しくて、実際多くの人のアイを感じることが出来た。君だってボクをアイしてくれた。なのにおかしいよね、寂しくて寂しくて仕方ないんだ」

 こんなボクがアイされるわけがないのだと、言葉にするたびにボクは自覚する。

 ボクは弱虫で醜くて頼りない、そんな良い所なんて欠片もない、惨めすぎる存在だった。こんなボクを誰がアイしてくれるというのだろう。だからボクは演じるしかなかった。それ以外、一人ボッチを回避する方法なんて存在しないから。

「あなたは舞台の上だけじゃなくて、日常的にライを演じていたのですね。お疲れさまです」

 しかしそんな醜いボクに、沢村は優しく声を掛ける。触れた場所をハンカチで拭って逃げることもなく、何度もボクの頭をなで続けた。打ち明ける前と、何ひとつ変わらない様子で。

「でも、もう演じなくて大丈夫ですよ。本当のあなたを愛してくれる人は居ます。全員に愛されることは無理かもしれないですけど、ちゃんとあなた自身を愛してくれる人に出会えます。でも、偽っていたらそんな人に会えても気付けないでしょう? だからもう、演じるのは辞めましょう。」

「だが、そうしたらボクはまた虐められる。また細菌のように扱われて、一人ボッチになってしまう」

「少なくとも私は、今のあなたを見て軽蔑したりはしていません。確かに少しショックでしたけど、理由も聞いて納得しました。そして今、ありのままのあなたを愛しました。怖がりで、寂しがり屋で、王子様じゃない普通の男の子。そんなライが、私は大好きですよ」

 その瞬間、ボクの中の何かが砕け散った音がした。目からは止めどなく涙があふれ出し、拭って止めようにも、腕がびしょびしょになるだけだった。

 止まれ、止まれ

 ボクはめげずに口角を上げようとする。しかし、ボクの意思に反するように、ボクは永遠と涙を流し続ける。

 そんな中、沢村はボクの顔を自分の胸元に押し付ける。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 まるで赤子の相手をする母親のような、優しく温かい声でボクを慰める。後頭部をなでる彼女の手は、とても心地が良い。

「もう理想になろうとしなくて良いんですよ。あなたはあなたなんですから」

 あぁ、そうか。これがボクが欲していた、本当の愛だったのか。

 孤独を怖がるあまりに、ボクは本当に欲しかったものを遠い昔に失くしていたらしい。

 ボクはただ愛されたかったのだ。理想じゃない。泣き虫で、怖がりで、気弱な、醜い、本当のボクを愛してほしかったのだ。

 ボクは彼女の胸に顔を埋め、赤子のように泣き叫ぶ。誰かに甘えて涙を流すのは、凄く久しぶりだった。