バタンと、何かが倒れたような大きな音と、部員たちの慌ただしい声が扉の向こうで響き始める。ただ事ではない様子に、ボクは持っていた小道具を放り投げ、倉庫を飛び出す。そこでは倒れた沢村に、部員たちが必死に声をかけていた。
「力に自信があるやつは俺と一緒に沢村を保健室へ。手が空いているやつは職員室と保健室の先生に連絡。急げ」
沢村の足を持ち、学は適切に指示を飛ばす。手伝わなければ。そうは思うものの、足は動こうとはしなかった。
ボクが彼女をここまで追い詰めたのか。
過呼吸を繰り返す沢村に、心臓に鋭い痛みが走り始める。お前のせいだと責め立てているように。
空を仰いでいた沢村が、ふとこちらに視線を向ける。よほど苦しいのだろう。彼女の眼には、薄っすらと水の膜が貼られていた。しかし、それでも彼女は無理して笑い、ボクに告げる。
「だいじょうぶ、かえってくる、おしえてね」
単語でしか話せないのに何が大丈夫だ。
そんな怒りが沸々と腹の底から湧き上がる。
胸元をつかみ、少ない酸素を回収しようと、餌を求める魚のように開閉させる口。自分でろくに動くことすら出来ないその様子のどこに、大丈夫な要素があるのだと。
練習は止めにしよう。
ボクは胸にそう誓い、右足を一歩踏み出す。
……練習を、止めにする? ボクは何を考えているんだ。
右足を一歩踏み出した状態で、ボクの身体は再び硬直する。遠くでは、学達に連れられた沢村が、体育館を後にしようとしていた。
練習を止めにする。それが彼女の理想ではないことは、先ほどの言葉で理解出来るはずだ。ならばボクがすることは、彼女の練習を今まで通り支えること。止めるなど言語道断である。
そう脳は、さっきの誓いを糾弾する。
ボクは全員の理想だ。アイされるためにはそうでなければならないのだ。だからこそ、この選択が正しい。間違いない。そう理解しているにも関わらず、心は晴れるどころか霧が増すだけだった。
あんなにも苦しそうな彼女にこれ以上つらいことを強いるつもりか。一刻も早く辞めさせるべきだ。例え彼女の理想でなくても、彼女に嫌われたとしても。人の幸せを願う、それこそがあいと言えるのではないか。
そんな異論がどこからともなく脳裏に流れ始める。意見が割れた脳内では論争が行われ、さまざまな考えが巡り始める。例えるなら、悪魔と天使が言い合いをしているようだった。それに例えるのなら、異論を唱えだしたのはきっと悪魔の方だろう。誰かの理想である。それは、絶対的な正義なのだから。
「ライ、大丈夫か。お前も顔が真っ青だぞ」
こんとんと化した思考は、学の声によって強制的に停止させられる。現実世界に帰って来たボクは現状を理解するために辺りを見渡す。部員はどうやら沢村に付き添っているらしく、体育館に帰ってきたのは学一人だった
「え、あ、あぁ、学か。わ……ごめん」
疲弊しきった脳は、言葉をすいこうすることなく、素のまま口から放とうとする。ボクはそれを唾と同時に流し込み、いつものような口調を取り繕う。
「沢村のことだが、ようたいはあまり良くねぇらしい。先生の車で病院に運ばれたわ。部員にも今日は解散と伝えた。さすがにあの光景を見た後に部活は出来ないからな」
「あ、うん。そうだね」
脳は完全に機能しておらず、ボクはありきたりな答えを返すしかなかった。いつものように気の利いた一言を絞りだすことが出来ないほど、ボクは疲れているらしい。
それもそうだ。さっきまで、ボクの脳はエラーを起こしていたのだから。
「お前も分かっていると思うが、彼奴の状態で劇をするのは無理だ。今回の劇は中止にした方がいい」
「いや、それはダメだ」
否定の言葉が口から零れ落ちる。食い気味の返答に、学は驚いた様子だった。
「……正気かよ」
普段の何倍も低い声が、彼の口から発せられる。地をはうような声、というのはまさにこのような声を指しているのだろう。
しかし、ボクもめげるわけにはいかなかった。
「彼女は戻ってくる。そういっていた。ならボクは、彼女を信じて劇の準備をするしか」
ボクの言葉は、肉をたたく音によって遮られる。右頬には刺すような痛みが走り、そこは徐々に熱を持ち始めた。
「お前、どうにかしているぞ。いったん頭を冷やせ。お前らしくない」
お前らしくない? お前はボクの何を知っているんだ。
「何を言っているんだ。ボクは何もおかしくない。ボクはボクのままだよ」
奥底に捨てた感情が、火山の噴火のように次から次へと湧き上がる。それはそのまま食道を追加し、口から外へと吐き出された。衝動に身を任せるボクには、自分が何を言っているのか理解出来なかった。
「ボクは皆の理想じゃなければならない。そしてさっきの言葉を聞いただろ? 彼女の理想は劇の続行だ。ならボクがするべきは劇の続行を手伝うこと。それ以外の選択肢はない。」
今まで我慢していたものが、止めどなく口からあふれ出す。感情をせき止めていたダムが決壊した証拠である。
「ボクは皆の理想なんだ。理想じゃなくちゃダメなんだ。じゃないと、ボクはアイされない。アイされるためにはそうするしかないんだ。もう、一人ボッチは嫌なんだ」
喉が痛い。心が痛い。全てが痛い。痛みに耐えるように、ボクはその場にうずくまった。
やってしまった。やってしまった。
全てを吐き出した結果、後悔が波のように押し寄せ、ボクの行いを攻め立てる。なぜ感情を吐き出した。なぜ暴走した。今まで全てうまく演じられていたのにと。
足音がボクから遠ざかり始める。顔を上げなくても分かる。学がボクから離れようとしているのだ。
ボクは顔を上げ、学の名を呼んだ。ボクに背を向けていた学は足を止め、ボクの方に視線を向ける。彼の眼は、酷く冷たい色をしていた。小学時代、皆がボクに向けていた軽蔑のまなざしだった。
「俺はお前のこと、底なしの博愛主義者だと思っていたが違ったんだな。お前は自分の欲求を満たすために、俺らや病人すらも利用したくず野郎だ。もうお前にはついていけねえ。見損なったよ」
こうしてボクは、アイを失った。
ボクは顔を上げ、学の名を呼んだ。ボクに背を向けていた学は足を止め、ボクの方に視線を向ける。彼の眼は、酷く冷たい色をしていた。小学時代、皆がボクに向けていた軽蔑の眼差しだった。
「俺はお前のこと、底なしの博愛主義者だと思っていたが違ったんだな。お前は自分の欲求を満たすために、俺らや病人すらも利用した屑野郎だ。もうお前にはついていけねえ。見損なったよ」
こうしてボクは、アイを失った。
この世には、弱い者虐めを行うことで成立する友情が存在する。その標的として、気弱で怖がりなボクは最適だった。
教室に一歩踏み込めば、押し寄せて来る軽蔑のまなざし。カースト上位に君臨するクラスリーダーは、ボクを見るなり卑しい笑みを浮かべ始める。ホラー映画のピエロをほうふつとさせる顔に、ボクの背はいつも冷たい汗を流していた。
仲間の輪から離れたリーダーは、わざとらしく足音を立てながら、ボクの方へと歩き出す。恐怖で足がすくんだボクは、リュックサックを顔の前に置き、彼から隠れるのでやっとだった。
リーダーはそんなボクを嘲笑い、身体を突き飛ばす。貧弱な壁にボクを守る力があるわけがなく、ボクは衝撃のまま教室の外へと押し出された。痛みを覚悟して、ボクは強く目をつむる。しかし背中に触れたのは、固い壁ではなく、マットのような柔らかな感触だった。
「ちょ、やめてよ。菌がついちゃったじゃない」
偶々ボクの後ろを歩いていた女子は、ボクを払いのけ、触れた部分をハンカチで拭い始める。その心無い行動は、ボクの心に精神的な痛みを与える。これなら壁にぶつかって、肩を痛める方がマシだった。
「このハンカチもう使えないじゃない。あげる」
「は? おま、ふざけんなよ。パス」
「やめろ、投げるな。菌が飛び散るだろ」
床に倒れこむボクを置き去りにし、クラスメイトはハンカチを押し付け合う。ボクという菌に汚染されたウサギが刺繍されたハンカチは、多くの人間の悲鳴を巻き起こしていた。
痛む心臓に右手を当て、おぼつかない足取りで自分の席へと向かう。
これが、ボクの日常だった。
家に帰っても慰めてくれる親は居らず、唯一寄り添ってくれるのは、三歳の頃両親が買ってくれた熊のぬいぐるみだけ。思えば、家族そろってどこかへ行ったのは、ぬいぐるみを買った遊園地が最後だった。
親が帰ってきていない部屋で一人、暗闇に包まれながらボクは毎日泣いていた。寂しい、痛い、愛されたいと。
そうして幾度の夜をこえたとき、ボクはようやくボクが一人ボッチな理由を理解した。
ボクがボクである限り、愛されることはないのだと。
だからボクは誰かの理想を演じた。ボクじゃない誰かになれば、皆ボクを愛してくれると思ったから。そして実際、ボクであることを止めてから、ボクはいろいろな人にアイされるようになった。念願が叶ったのだ。
「だからボクは理想でいなくてはならないのだ」
それは本当に、ボクが望んだ【あい】なのかな。
普段なら部員の掛け声でにぎわっている体育館で、ボクは一人ステージに腰かけていた。窓からはきれいな夕焼けが差し込んでおり、外では次の大会に燃える運動部の掛け声が響いている。
部活の時間は既に始まっている。しかしここには学どころか、部員は一人も現れなかった。
「ま、それもそうだよな」
ボクは首をかきむしりながら、両足をバタつかせる。
学が周りの人間に言いふらしたのだろう。この学校では、今ボクが偽善者のうそ吐きだといううわさが流れていた。今まで向けられていた好意的なまなざしは、たった一晩で軽蔑に変わったのだ。
これでは、小学校のときのままである。
「ボクは一体何を間違えた」
そうぼやくボクの頭には、間違いなく元凶と思われる人間の顔が浮かんでいた。沢村美雪。彼女と関り出してから、ボクは壊れ始めたのだ。
彼女さえ目の前に現れなければ、ボクは理想を演じ続けることが出来た。感情が爆発することも、脳が誤作動を起こすこともなかった。そうだ、彼女さえ居なければ、ボクはずっとたくさんの人にアイされることが出来ていたのだ。
「すみません。遅れました」
聞きたくない声が耳に届く。口角は自然とつり上がり、笑顔を作り上げた。
「うんうん。全然大丈夫だよ。昨日は無理をさせてごめんね。大丈夫だったかな?」
ボクは視線を上げ、沢村の方を見つめる。彼女の顔は、酷くわびしそうだった。
「あなたのうわさ、聞きました」
心臓が締め付けられる。急に酸欠状態に陥った身体は酸素を求め、何度も呼吸を繰り返す。しかしこの辺りには二酸化炭素しか存在しないのか、何度呼吸を繰り返しても体内に酸素が回ることはなかった。
頭が痛み、心が痛む。脳は嫌われたくないというワードだけを参列する。脳はまた不具合を起こしていた。本当に、ボクは彼女が関わると壊れてしまうらしい。
理解出来ないエラーを繰り返す自分の身体には、恐怖すら感じるほどだった。
ボクはそれを極力表に出さないように、笑顔を浮かべ続ける。しかし口は乾ききってしまい、言葉を出すことが出来なかった。
「何故あなたは、無理をして笑うんですか?」
「無理なんてしてないよ。」
否定の言葉が脊髄反射で発射される。しかし沢村はその回答を良しとはしないようだった。
「あなたが人を嘲笑うためにうそをついている悪い人だとは思えません。こんなにも親身に私に寄り添ってくれたのですから。何か理由があるはずです」
彼女はきれいな言葉を投げ続ける。
「あなたに支えてもらったように、私もあなたを支えたいんです。お願いです。どうか、本当の言葉を教えてください」
お前にボクの何が分かる。彼女が紡いだのはそんなド定番の言葉を吐きたくなるほどのきれいごとだった。
「君の気持ちはありがたいよ。でも本当に大丈夫だから。気にしないで」
でもボクは壊れたラジオのように大丈夫を繰り返す。心の内はえんま大王も二度見するほどおぞましい感情でごった返しているが、それを彼女に見せることはない。だってもう、誰にも嫌われたくはない。独りぼっちは嫌なんだ。
彼女は悲しそうに眼を細め、顔をうつむかせた。
「無理をして、良い子になろうとしなくていいんですよ」
「は?」
彼女の口から飛び出たのは、鈍感な彼女らしからぬ鋭い一言だった。
「私も今のあなたの状況に覚えがあるんです。白血病になって、余命宣告されて、あの時の私も強がって大丈夫だよとしか言わなかったんです」
彼女は胸に手を当てて、思い出を語り始める。その表情はじゅうたんに乗って街を見守る姫をほうふつとさせるような、幸せそうなものだった。
「家族に心配も迷惑もかけたくなかったんです。でも、あの時お母さんは私に、つらいときは泣いていい。死にたくないって叫んでもいい。お母さんは、無理して笑う姿を見る方がよっぽど苦しくてしんどいって」
「……いい家族に恵まれたんだね」
「はい、自慢の家族です」
ボクが喉から手が出るほど欲する光景に、口からは思わずいやみが零れる。しかし彼女はそんなボクの心情に気付かずに、笑顔で首を縦に振った。
「あなたは今、あらぬうわさを流されて苦しんでいるんですよね。そして優しいあなただから、私に心配をかけないように笑っているのでしょう。でも、無理に笑わなくて大丈夫ですよ。私も、無理して笑うあなたを見る方がよっぽど苦しいですから」
彼女は車椅子から立ち上がり、ボクの頬に手を伸ばす。しかし、少し立つだけで彼女はバランスを崩し、車椅子へと逆戻りした。体調が悪化して、立つことも出来なくなっているのだろう。
「全てを吐き出してください。私は、どんな苦しみでも一緒に抱えてあげます。頼りない、おんぼろな身体ですけど、あなたの苦しみを分かち合うことぐらいはできます。だって私はあなたを愛していますから」
前言撤回だ。彼女はやはり、何にも気付いてなどいなかった。今までのボクが本物だと信じ切っているのだ。そしてこんな分かったような言葉をかけているのだ。
馬鹿らしい。本当に馬鹿らしい。何がアイしているだ。結局、理想のボクだけを見て、本当のボクなど、あいしていないではないか。
「……は? 何を言っているんだ。それでいいじゃないか。アイされるために、ボクがそうしたんじゃないか。ボクは何に怒っているんだ」
理解不能な思考が脳をかきまわし、本当のボクが分からなくなる。ボクはアイされるためならなんだってした。自分らしさを捨て、理想であるようにした。その結果、彼女はボクをアイしてくれた。一人ボッチじゃないんだ。ボクの作戦はうまく行っていたんだ。なのに、なのにどうして。
ボクは、こんなにも寂しがっているんだ?
小さな手が目の前に現れる。ボクはそれを思わず払いのけ、その場に立ち上がった。すると車椅子に座っていた沢村は、なぜか地面に倒れ込んでいた。
ボクは慌ててステージから跳び降り、沢村を抱きかかえて車椅子へと座らせる。彼女は、とても軽かった。まるで感触のある幽霊を抱えている気分だった。
彼女は車椅子に座るなり、ボクの頭をなでまわす。頭をなでられるのは産まれて初めてだった。
「ボクは、そんな良い子なんかじゃない」
口が脳を通さずに、勝手に思いを打ち明け始める。ボクは辞めろ、止めろと念じるが、口は止まってくれはしなかった。
「ボクはアイされるために君を利用していただけだ。君の思う通りにボクが動けば、君はボクをアイしてくれるだろうって。そして余命少女の願いを叶えたとなれば、この学校でヒーローとして扱われて、皆がボクをアイしてくれるだろうって」
ぽつぽつとボクの本音を語り始める。彼女からすれば聞きたくない、最悪な告白だろう。しかし、彼女はボクの頭をなでることを止めようとはしなかった。
「昔、小学校で虐められていて、居場所がなかったんだ。両親は共働きで全然家に帰ってこなくて、家でも常に一人ボッチだった。そのせいで一人が凄く嫌いでね。誰にでも良いからアイされたかったんだ」
一度吐き出してしまえば諦めもつくわけで、ボクは過去を語り始める。それは今まで必死に隠していた、理想とは程遠い、本当の自分の姿だった。
「だからボクは、誰にでもアイされる理想の人間になろうとした。そうすれば、一人ボッチじゃなくなるから。それは正しくて、実際多くの人のアイを感じることが出来た。君だってボクをアイしてくれた。なのにおかしいよね、寂しくて寂しくて仕方ないんだ」
こんなボクがアイされるわけがないのだと、言葉にするたびにボクは自覚する。
ボクは弱虫で醜くて頼りない、そんな良い所なんて欠片もない、惨めすぎる存在だった。こんなボクを誰がアイしてくれるというのだろう。だからボクは演じるしかなかった。それ以外、一人ボッチを回避する方法なんて存在しないから。
「あなたは舞台の上だけじゃなくて、日常的にライを演じていたのですね。お疲れさまです」
しかしそんな醜いボクに、沢村は優しく声を掛ける。触れた場所をハンカチで拭って逃げることもなく、何度もボクの頭をなで続けた。打ち明ける前と、何ひとつ変わらない様子で。
「でも、もう演じなくて大丈夫ですよ。本当のあなたを愛してくれる人は居ます。全員に愛されることは無理かもしれないですけど、ちゃんとあなた自身を愛してくれる人に出会えます。でも、偽っていたらそんな人に会えても気付けないでしょう? だからもう、演じるのは辞めましょう。」
「だが、そうしたらボクはまた虐められる。また細菌のように扱われて、一人ボッチになってしまう」
「少なくとも私は、今のあなたを見て軽蔑したりはしていません。確かに少しショックでしたけど、理由も聞いて納得しました。そして今、ありのままのあなたを愛しました。怖がりで、寂しがり屋で、王子様じゃない普通の男の子。そんなライが、私は大好きですよ」
その瞬間、ボクの中の何かが砕け散った音がした。目からは止めどなく涙があふれ出し、拭って止めようにも、腕がびしょびしょになるだけだった。
止まれ、止まれ
ボクはめげずに口角を上げようとする。しかし、ボクの意思に反するように、ボクは永遠と涙を流し続ける。
そんな中、沢村はボクの顔を自分の胸元に押し付ける。
「大丈夫、大丈夫だよ」
まるで赤子の相手をする母親のような、優しく温かい声でボクを慰める。後頭部をなでる彼女の手は、とても心地が良い。
「もう理想になろうとしなくて良いんですよ。あなたはあなたなんですから」
あぁ、そうか。これがボクが欲していた、本当の愛だったのか。
孤独を怖がるあまりに、ボクは本当に欲しかったものを遠い昔に失くしていたらしい。
ボクはただ愛されたかったのだ。理想じゃない。泣き虫で、怖がりで、気弱な、醜い、本当のボクを愛してほしかったのだ。
ボクは彼女の胸に顔を埋め、赤子のように泣き叫ぶ。誰かに甘えて涙を流すのは、凄く久しぶりだった。
「じゃあ本音を言わせてもらう。君は舞台に立てない。劇は中止しよう」
安定した精神を取り戻したボクは、彼女が最も言われたくないであろう言葉をぶつける。しかし、彼女も言われると勘づいていたのか、傷ついたそぶりは見せなかった。
彼女は視線を横にずらし、頬をかく。
「そうだよね。やっぱり言われるよね」
その瞬間、沢城は手で口を覆い、前のめりになりながら、大きくせき込み始める。一分ほど続けて落ち着いた彼女は、ポケットからティッシュを取り出し、手のひらを拭い始めた。唇には赤いものがこびりついていた。
ボクはまさかと思い、彼女の腕をつかみ、ティッシュを奪い取る。それは彼女の血によって、赤く染められていた。
彼女の身体はとうの前に限界を超えていたのだ。きっと今も、身体を痛みがむしばみ苦しい思いをしているのだろう。
「でも嫌だ」
しかし、彼女はボクの願いを拒否する。荘園に咲くバラのような美しい笑顔で。
「どうして、この四日間で君はますます弱っているじゃないか。このままでは一カ月ももたないかもしれない。そこまでして、君はどうして舞台に固執するんだ」
声を荒げても仕方がないと考え、ボクは諭すような口調で彼女に問いかける。
「ライと演じるのが幸せだったからです」
沢村は両手を胸の前で重ね合わせ、慈愛に満ちたまなざしで、ボクの眼を見つめ返す。強い意志が込められた、刃のように鋭い視線。それは、彼女の覚悟の現れだった。
「そのせいで、私にはライと舞台に立つという未練が出来てしまいました。そんな未練を残して長い間生きるくらいなら、未練なく死にたい。どうせ死ぬことは確定しているんです。それならいっそ、産まれて良かったって思って死にたいんです」
「あれが、偽りの時間だったとしてもか?」
「ライからしたら偽りの時間だったかもしれません。でも私にとって人生で一番幸せな時間でした。それが全てです」
彼女は本当に、ひどい人だ。
「そこまで真っすぐな目で言われたら、拒絶することは出来ないじゃないか」
ボクは首を左右に振り、困ったとためいきを零す。そして考えるは、彼女でも演じられる物語。
「でも今までの内容じゃ百パーセント無理だ。立てないではお話にならないし、そもそも口もうまく回らないんだろ。その活舌じゃ、遠くの人間まで声が届かない」
ボクの推測は当たっていたらしく、彼女はウッと言葉を詰まらせる。どれだけ無理をしたのだと、再び大きなため息を零しながら立ち上がった。
「でもセリフは覚えられるし、マイクさえあれば声も届く。余命少女という役ならできるだろう。まあ、役とは言えないかもしれないけど」
「そ、それでもいいです! やりたいです! お願いします!」
彼女は立ち上がる勢いで、せっかくのチャンスを逃すまいとボクの意見に食いつく。彼女の瞳には、出会ったときといつもの輝きが復活していた。相変わらず、ボクには眩しすぎて目がくらみそうだ。
「でも一つだけ問題がある。人が足りない。この劇をするなら、少なくてもあと一人は欲しい」
彼女の口からは間抜けな声が零れる。
普段ならなんの問題もなくこの問題を解決することができるだろう。しかし、今はほとんどの人がボクを憎んでいる状態。このたった一人すら、集めるのは至難の業だった。
「こんな時、学が居てくれればな」
ボクの口から無意識に零れ落ちる。どうやらボクは学をかなり頼りにしていたらしい。あきれながらもボクに賛同し、助けてくれる。ボクが悪いときは、一切のそんたくなしに叱ってくれる。厳しく真面目で優しい彼は、いつの間にかボクの中でかけがえのない存在に昇格していたようだった。
失ってから知る大切さ。というのは、どうやら本当のことらしい。そう痛感した瞬間だった。
「お前、まだ沢村に劇をさせようって言うんだな」
体育館に走る沈黙を破ったのは、大切さを理解した学の声だった。昨日の気まずさから、ボクはとっさに視線を下げる。けんかをしたことがないボクは、どんな表情で彼と向かい合えばいいのか分からなかったのだ。
学はあからさまに音を立てながら、ボクとの距離を詰め始める。その足音は数メートル先ぐらいで止まり、ボクらの間に冷たい沈黙が走る。彼は、ボクの反応を待っているようだった。
ボクは覚悟を決め、彼の方へと視線を向ける。険しいオーラを身にまとう学は、硬い表情で腕を組んで立っていた。
「どうして、ここに」
閉じた声帯をこじ開けて、なんとか言葉を発する。舞台上でも感じたことのない緊張感に、ボクの手は項をかきむしり始めた。
「副部長の俺が無断欠席すると思うか? お前と仲たがいしたとしても、それぐらいの筋は通す。まあ、一人のお前を見て、入るのをためらったのは事実だが」
真面目な彼らしい。
ボクは車椅子の前から離れ、彼の前へと移動する。そして彼の瞳を見つめるや否や、ボクは地面につける勢いで頭を下げた。
「お前は本気でボクを慕ってくれていたのに、裏切ってごめん。確かに、ボクは自分が愛されることばかり考えていて、他の人の心なんて考えてなかった。謝っても許してもらえないと思うけど、本当にごめんなさい」
沈黙が再びボクらの間に流れ始める。ボクは頭を下げながら、彼の言葉を待ち続けた。しばらくの静寂の後、ため息が頭上から聞こえる。
「お前の過去は聞いた。だが、俺は沢村みたいに優しくないからな。こいつを利用した行為は絶対に許さねえ」
心臓に鋭いナイフが突き刺さる。別に許されたくて謝ったわけではなかったが、だとしても面と向かって許さないと言われるのは、しんどいものだった。
もう一度謝罪をして、せめて彼女のために手伝ってくれないかとお願いをしよう。身勝手だとは思うが、ボクが頼れる人間は学しか存在しないのだ。
それらを伝えようと、ボクは口を開く。しかしそれを阻止するように、彼は言葉を続けた。
「でも、こいつの夢を叶える手伝いぐらいは出来る。……その役が、男でも大丈夫ならな」
「学……!」
ボクは顔を勢いよく上げ、彼の方へと視線を向ける。学の顔は相変わらず険しいものだったが、身にまとうオーラが少しだけ柔らかくなったような気がした。
「俺も勝手にお前のこと知った気になって、勝手に失望したのは悪いと思っている。お前は自分を博愛主義だって言っていたわけじゃねえし、こうやって腹割って話したこともなかったしな」
ボクが百悪いにも関わらず、学は自分の落ち度を探し出し、勢いよく頭を下げた。部長のボクよりも立派な姿に、目がくらみそうになる。彼もまた、沢村と同じく眩しい本当の善人だった。
こんなにも素晴らしい人間が近くに居るにも関わらず、一切気付いていなかったボクは救いようのない馬鹿だったらしい。
「んで、どんな劇にすんだよ部長。これから忙しくなるぞ」
学は顔を上げると、にっかりとした笑みをボクに向ける。彼の挑戦的な笑みからは、どんな難題でもこなしてやるという、彼の心情がひしひしと伝わってくるようだった。
頼りがいのある表情に背中を押されながら、ボクは即興で考えた内容を三人に相談し始める。演者たった三人の、異端な舞台の開幕だ。
姿見鏡の前に座り、沢村はウィッグを整え始める。緊張故か病気故か、呼吸は少し乱れており、指先も震えていた。鏡越しに見える青白い肌を心配し、ボクは彼女の肩に手を置いて声を掛けた。
「緊張してるのか?」
「うん、まあね」
彼女は顔を此方に向け、困ったような顔を見せる。彼女の瞳には嘘の色は見えない。本当に緊張しているだけのようだった。
「ま、最初はそうだろうな。でも大丈夫だよ。何かあったらボクらが支えるし、それに観客も殆どいないからな」
ボクはそういうと、視線を扉の向こうへ向けた。倉庫の向こうには綺麗に整列された朝日に照らされて、光を反射している。開演十分前にも関わらず、ボクらの劇は空席だらけだった。
ボクの正体を知った今、殆どの人間がボクの劇に興味を持たなくなった。そんな現実をダイレクトに伝えてくる客席に、心臓がズキズキと痛み始める。人望は大切だと改めて理解した瞬間でもあった。
「ま、噂は足を引っ張るよな」
衣装を身に纏った学が、体育館から姿を現す。上まで結ばれたネクタイに、皺ひとつない紺色のスーツ、ガタイの良い彼はそこら辺の会社員と見間違えるほど凛々しい雰囲気を醸し出していた。きっちりと整えられた髪を指先で弄りながら、彼は席の方へ視界を向ける。一年の頃から満席を見続けた彼にも、空きだらけの現状は珍しく感じるのだろう。
「まあ、態々日曜日に劇を見る為に登校するのも面倒くさいしな」
今回は緊急ということで宣伝も足りておらず、日程も日曜日という参加しにくい曜日となってしまった。それもまた、此処までの空席を作り上げた原因となってしまっているのだろう。
初めて出会ったときと同じ病衣を身に纏った沢村は、声を出して気合を入れると、鏡の前から移動する。電子車椅子の移動音を鳴らしながら扉の外へ出た沢村は、ボクらの方を向き、こっちへ来いと手招きをする。
「数人でも来てくれた人は居ます!」
鏡で変な所が無いかを確認し、彼女に呼ばれるまま倉庫を後にする。そこにはちらほらと、ボクらの劇を心待ちにする観客が腰を下ろしていた。中には配布したパンフレットを片手に、楽しみだねと語り合う人まで存在していた。
「うん。そうだね。彼らの為にも、最高の劇を見せないと」
劇を態々見に来てくれた先生や生徒に、つまらない劇を見せるわけにはいかない。
ボクは学ランの袖を曲げ、深く深呼吸をする。左右を見れば、二人も準備万端といった様子だった。
ボクたちはステージへの階段を上り、舞台裏で各自の持ち場へと向かい始めた。
「さあ演じよう、ボクらの本当の愛が観客に伝わるように」
二人の頼りがいのある返事が届く。その瞬間、舞台開始を知らせるチャイムが学校中に鳴り響き、赤い幕は徐々にボクらの姿を現した。拍手がボクらに届けられる。それは全国大会ほどの大きさではないけれど、ボクの心に温もりを与えるには十分の量だった。
なら、ボクはその礼として、倍の愛を与えるだけだ。
『絶対に恋が成立すると言われる桜の木の下で、今日も女生徒は愛する人に告白する』
桜の木の下で、沢村は車椅子に乗ったまま、舌足らずな声でセリフを放つ。
「私、ずっと貴方が好きでした。私と、一か月だけ恋人になってください」
『これは余命が一か月しかない女子高生が、死ぬまでにやりたいことをやり尽くし成長する物語。そして』
その瞬間、彼女は胸を手で押さえ、激しく何度も咳き込み始める。彼女の手の平には本物の血が広がり、ぜえぜえと肩で呼吸を繰り返した。台本にはないイレギュラーな事態。ボクはポケットからハンカチを取り出し、彼女の口を拭い始める。
『血を吐くほどしんどいのに、彼女はボクに告白をしてきたのか。なんて可哀そうな子。この子には優しくしてあげないとね。両親に叱られない為に』
エコーが入るマイクに口を近づけ、モノローグのようにアドリブを語り始める。ボクは血に濡れた手を両手で包み、彼女に優しく微笑んだ。
「ボクでよければ、喜んで」
『両親の操り人形である学園のプリンスが、自分の夢を持つまでの物語』
姿見鏡の前に座り、沢村はウィッグを整え始める。緊張故か病気故か、呼吸は少し乱れており、指先も震えていた。鏡越しに見える青白い肌を心配し、ボクは彼女の肩に手を置いて声を掛けた。
「緊張しているのか?」
「うん、まあね」
彼女は顔をこちらに向け、困ったような顔を見せる。彼女の瞳にはうその色は見えない。本当に緊張しているだけのようだった。
「ま、最初はそうだろうな。でも大丈夫だよ。何かあったらボクらが支えるし、それに観客もほとんどいないからな」
ボクはそういうと、視線を扉の向こうへ向けた。倉庫の向こうには綺麗に整列された朝日に照らされて、光を反射している。開演十分前にも関わらず、ボクらの劇は空席だらけだった。
ボクの正体を知った今、殆どの人間がボクの劇に興味を持たなくなった。そんな現実をダイレクトに伝えてくる客席に、心臓がズキズキと痛み始める。人望は大切だと改めて理解した瞬間でもあった。
「ま、噂は足を引っ張るよな」
衣装を身に纏った学が、体育館から姿を現す。上まで結ばれたネクタイに、しわひとつない紺色のスーツ、ガタイの良い彼はそこら辺の会社員と見間違えるほどりりしい雰囲気を醸し出していた。きっちりと整えられた髪を指先で弄りながら、彼は席の方へ視界を向ける。一年の頃から満席を見続けた彼にも、空きだらけの現状は珍しく感じるのだろう。
「まあ、わざわざ日曜日に劇を見るために登校するのも面倒くさいしな」
今回は緊急ということで宣伝も足りておらず、日程も日曜日という参加しにくい曜日となってしまった。それもまた、この空席を作り上げた原因となってしまっているのだろう。
初めて出会ったときと同じ病衣を身にまとった沢村は、声を出して気合を入れると、鏡の前から移動する。電子車椅子の移動音を鳴らしながら扉の外へ出た沢村は、ボクらの方を向き、こっちへ来いと手招きをする。
「数人でも来てくれた人は居ます!」
鏡で変な所がないかを確認し、彼女に呼ばれるまま倉庫を後にする。そこにはちらほらと、ボクらの劇を心待ちにする観客が腰を下ろしていた。中には配布したパンフレットを片手に、楽しみだねと語り合う人まで存在していた。
「うん。そうだね。皆のためにも、最高の劇を見せないと」
劇を態々見に来てくれた先生や生徒に、つまらない劇を見せるわけにはいかない。
ボクは学ランの袖を曲げ、深く深呼吸をする。左右を見れば、二人も準備万端といった様子だった。
ボクたちはステージへの階段を上り、舞台裏で各自の持ち場へと向かい始めた。
「さあ演じよう、ボクらの本当の愛が観客に伝わるように」
二人の頼りがいのある返事が届く。その瞬間、舞台開始を知らせるチャイムが学校中に鳴り響き、赤い幕は徐々にボクらの姿を現した。拍手がボクらに届けられる。それは全国大会ほどの大きさではないけれど、ボクの心に温もりを与えるには十分の量だった。
なら、ボクはその礼として、倍の愛を与えるだけだ。
『絶対に恋が成立すると言われる桜の木の下で、今日も女生徒は愛する人に告白する』
桜の木の下で、沢村は車椅子に乗ったまま、舌足らずな声でセリフを放つ。
「私、ずっとあなたが好きでした。私と、一か月だけ恋人になってください」
『これは余命が一カ月しかない女子高生が、死ぬまでにやりたいことをやり尽くし成長する物語。そして』
その瞬間、彼女は胸を手で押さえ、激しく何度もせき込み始める。彼女の手のひらには本物の血が広がり、ぜえぜえと肩で呼吸を繰り返した。台本にはないイレギュラーな事態。ボクはポケットからハンカチを取り出し、彼女の口を拭い始める。
『血をはくほどしんどいのに、彼女はボクに告白をしてきたのか。なんて可哀そうな子。この子には優しくしてあげないとね。両親に叱られないために』
エコーが入るマイクに口を近づけ、モノローグのようにアドリブを語り始める。ボクは血にぬれた手を両手で包み、彼女に優しくほほえんだ。
「ボクでよければ、喜んで」
『両親の操り人形である学園のプリンスが、自分の夢を持つまでの物語』
舞台に設置されたベッドの上、沢村は一言も発することなく上を見上げ続けていた。ボクはそんな彼女の右手を両手で包み込み、彼女に向って笑い掛ける。しかし、反応は一切帰ってこない。
「さぁ、君のやりたいこともこれで最後だよ。だからほら、もう少しだけ頑張って」
普段と変わらぬように接するが、彼女は瞬き一つしなかった。
彼女の枕元に置かれたやりたいことリストと書かれたメモ帳を開き、最後のページを確認する。そしてメモ帳に書かれた文字に、ボクは大げさに目を開けた。
「ボクが父親と仲直りして、自分のやりたいように生きる」
書かれた言葉を再確認するように読み上げる。彼女の人生最後の願いは、どうやらボクの幸せな日々らしい。
ボクは椅子から飛び降り、彼女を強く抱きしめる。さっきまで微動だにしなかった沢村は、顔をゆっくりとこちらへ向け、弱々しい笑顔をボクに見せた。表情筋を動かす気力もないといったような、弱り切った笑顔に頬に涙が伝い始める。
「かなえ、て、ね」
彼女はかすれた声でボクに告げると、ゆっくりとまぶたを閉じた。舞台上には心肺停止を知らせる電子音が響き続ける。彼女とボクの別れの合図だ。
ボクは沢村をベッドに乗せると、両手を包んで涙を流す。肩を震わせ、しゃくりを上げる。彼女の青い病衣は、より濃い青へと変色していった。
「もちろん、最後まで、約束は守るよ」
聞くに堪えないだみ声で、彼女の言葉に返事を返す。こうして、波乱万丈の劇は幕を下ろしたのだった。
「凄い歓声、成功したんですね」
車椅子へ移動するためにボクの腕に収まる沢村は、頬を高揚させながら、降ろされた幕の方を見つめていた。彼女の言う通り、幕の向こうでは、開始時と比べ物にならないほどの歓声が響き渡っていた。その様子は満席会場顔負けの盛り上がりだった。
あの少人数では上がるはずのない拍手に違和感を覚えながら、袖幕の方へと彼女を運ぶ。すると、先に出番を終えていた学が、スマホを片手に此方へ駆け寄ってきた。
「こっち来てみろよ!」
興奮状態の学にあっけを取られ、ボクは沢村を腕に抱いたまま、学に言われた通り幕越しに客席をのぞき込む。客席は埋まり切っており、中には立ち見する者まで存在していた。いつの間にか、ボクたちの劇は満員になっていたのだ。
「は、なんで?」
舞台が始まったとき、座っていたのは間違いなく数人程度だったはず。それが何倍にも跳ね上がっている現状に、ボクは驚きを隠せなかった。それは沢村も同じらしく、彼女もこの異様な風景をぽかんとした顔で眺めていた。
学はスマホを操作し出し、ボクらの前に出す。
「お前のアドリブのやつ。あれを気迫がやべぇってSNSに投稿したやつがいてさ、それを見たうちの学生が次々と入ってきたんだよ!」
やっぱりお前は劇の天才だなと、学は強い力でボクの背中をたたく。学のいう通り、スマホには沢村の声が出なくなったときの動画と、感想がつづられた投稿が映し出されていた。その投稿は多くのいいねが付けられており、リプも大量に寄せられていた。
今回の劇は、まごうことなき大成功である。
夢を叶えられたあんど感と、観客を楽しませることができた喜びが一気にせり上がり、思わず笑いが零れる。自分の為だけに磨いてきた演技力は、人に笑顔と喜びを与えることが出来る。そんな今更気付いた事実が、嬉しくて仕方がなかった。
「礼をするぞ」
未だに鳴りやまない拍手に背を伸ばし、ボクは沢村を抱えたまま舞台の中心に足を進める。その状態に待ったをかけたのは学だった。
「おい、沢村を車椅子に乗せなくていいのかよ」
舞台の中心に立つと同時に、ボクはしゃがみ込んで沢村をの足を地面に降ろす。地に足がついたのを確認した後、ボクは彼女の上半身を抱えたまま立ち上がった。ボクの急な行動に、沢村は無意味に瞬きを繰り返した。
「最後ぐらい、立って皆の前に出たいだろ?」
彼女は頬を真っ赤にし、嬉しそうな顔でこちらを見上げた。そして首を何度も上下し、ボクの考えに賛同する様子を見せる。学はあきれたようにため息をつくと、ボクらの方へと駆け寄りだす。そして彼女の右腕を自分の首に回した。
「お前らはほんと、仕方ねえな」
「ありがとう、学」
彼女の左手を自分の肩に回し、幕を上げるように指示をする。すると幕は徐々に上り、眩しいほどの観客の笑顔があらわになる。割れんばかりの拍手は、ボクらの登場により一層勢いを増した。
「ありがとうございました!」
ボクらは頭を下ろし、最上級の感謝を込めた言葉を観客に向ける。すると客席からはボクらの名前や、良かったぞといった感想が拍手とともに投げかけられた。ボクらは頭を上げ、世界一愛に満ちた光景を目に焼き付ける。
「舞台って、本当に綺麗」
沢村のつぶやきに心の中で同意しながら、幕が下りる寸前まで、ボクらはこの宝石箱のように輝く風景を満喫する。
こうして沢村にとって最初で最後の舞台は、大成功を収めたのだった。