しかし、現実はそう甘くはない。

 沢村の成長は、お世辞にも芳しいものとは言えなかった。原因は単純で、圧倒的な体力不足のせいである。彼女は三十分練習するだけで、一人で立つことも出来なくなってしまうのだ。

「いったん休憩しようか」

 舞台に手をつき、やっとの思いで立つ沢村に声を掛ける。身体全体を使って息をする様子からして、これが彼女の限界活動時間だろう。

 経過時間を確認しようと、体育館に設置された針時計に視線を向ける。現在時刻は四時三十三分。部活動開始時間は四時なため、やはり三十分が限界らしい。

 視線を下げ、ボクは体育館端に置かれた車椅子を沢村の元へ運ぶ。顔をうつむかせる彼女の首には、滝のような汗が流れていた。

 汗を拭いやすいようにと、車椅子に置かれたピンクのタオルを手元に置く。沢村はそのタオルで顔を乱暴に拭うと、突然右手で自分の頬をたたき始めた。

「まだやれます」

 沢村は声を張り上げると、舞台から手を離す。しかし震える両足に全体重を支える力は残っていなかったらしく、彼女の身体は舞台の方へと倒れていった。ボクは舞台と彼女の間に手を差し込み、衝突する寸前の身体を支えることに成功する。満足に動かない体が憎いのだろう。横髪の向こうでは、沢村が悔しそうに唇をかみしめていた。

 この場合、本来なら練習の中断を告げるのが彼女のためなのだろう。しかし、きっと彼女はそれを求めていない。彼女の理想はきっと、練習の継続だ。

 とはいえ、このまま無理をされて倒れられては、ボクの部員からの支持も下がる。どう言葉をかけるか。ボクはこれまでの経験を元に良いあんばいを考え始めた。

「良し。じゃあ今からは立ちながらセリフをいう練習をしようか。ずっと車椅子に座りながらだったしね」

「良いんですか! ありがとうございます!」

 沢村は顔を上げ、満面の笑みをこちらに向ける。心から喜ぶ姿からして、ボクの判断は正解だったようだ。

「もしもまた危険だったら、こうやってボクが支えてあげる。だから君は、心配せずに無茶をするといいよ。あ、でも本当にしんどくなったら言ってね」

「勿論です!」

「そういうお前は全く練習してないけど大丈夫なのかよ。本番は日曜日だろ? 今までと違って、今日入れても後六日しかないんだぞ」

 士気を高めるボクらのもとに、背後から心配そうな声がかけられる。沢村が舞台に手をついたことを確認したボクは、声の主の方へ身体を向ける。アップ終わりの学が、タオルで顔を拭いながら此方へ歩いてきていた。

 ボクも学の方へ向かい、お疲れさまと肩をたたく。

「今回は劇の時間も短いし、簡単なものだから大丈夫だよ。ボクが舞台上で失敗したことはないでしょ?」

 沢村に罪悪感を与えないように、ボクはわざとおどけたような口調で学に返す。普段のボクらしくない答えに何かを思ったのか、学は口を微かに開けた。

「いや、なんでもねえ。お前がそういうなら大丈夫なんだろうな」

 しかし、彼の口からとがめる言葉は出てこず、ただ肩をすくめるだけだった。

「部員のこと、学にまかせっきりでごめんね」

「本当にな。博愛主義の部長を持つと大変だよ」

 学はいつもの軽口をたたくと、ボクに背中を向けて、急ぎ足で部員たちの方へと向かいだす。彼の背中をしばらく見守り、ボクは沢村の方へと戻る。休憩を挟んで足も元気を取り戻したのか、沢村はボクらの方に身体を向けて一人で立っていた。

「私のせいで練習時間をおろそかにさせちゃってすみません。ライも主役なのに」

 沢村は申し訳なさそうに顔をうつむかせる。結局、ボクは彼女に罪悪感を与えてしまったようだ。自分の判断ミスを反省しながら、ボクは彼女の右手を両手で包み込んだ。

 沢村は、勢いよく顔を上げる。突然の行動に驚く彼女は、目をぱちくりさせながらボクを見上げた。

「大丈夫だよ。ボクは何があっても君のすてきな夢を叶えたいんだ。そのためならなんだってする。それに、家でも練習は欠かさずしているしね。気にしないで」

 ボクは彼女の目を真っすぐ見つめ、笑顔で彼女に語り掛ける。すると彼女は目を細め、口角を緩ませる。赤みを増した頬は、嬉しそうにほころんでいた。

「ライは、優しくてかっこよくて、まるでおとぎ話に出てくる王子様みたいですね。」

 彼女がお世辞をいうような子ではないということを、ボクはこの二日間で嫌というほど理解している。つまり、彼女は本当にこのボクを王子様だと思っているのだろう。

 彼女の素直な感想に、胸がドクドクと騒ぎ始める。彼女が与えてくれるアイはとても綺麗で、とても心地が良いものだった。

「じゃあ君はお姫様だね」

 そんなお世辞の言葉にも、彼女は屈託のない笑顔を浮かべる。おおげさなほど喜ぶ姿は、まさに彼女の幸せな環境を体現していた。そんな彼女を見るたびに、ボクの中で羨ましい、憎いと言った醜い感情が暴れ始める。しかし、そんな彼女の隣に心地よさを感じ始めるボクも存在していた。

 なんだこれ。

 さまざまな感情がごった返す現状に、形容しがたい気色悪さがボクを襲う。ボクは、壊れてしまったのかもしれない。