天才演者は仮面を外す

理想の人間になれば、誰か一人ぐらいはボクを愛してくれるのでは。その名案は絶望しかなかった小学時代のボクに降りてきた一筋の希望だった。

 一人ボッチで愛に飢えていたボクは、その考えにすぐさま飛びつき、理想の友人を演じ始める。しかし現実はそううまくはいかず、当時の未熟な精神では誰かの理想を演じ切ることが出来なかった。

 だからボクは、理想を演じられるように自分らしさを消すことにした。愛されるために必死だったのだ。

 大好きな熊のぬいぐるみも捨てたし、弱音も吐かないようにした。泣き虫な性格も 、感情も、笑顔以外の表情だってボクはゴミ捨て場へと投げ捨てた。その結果完成したのが、何色にも染まれる真っ白な綾瀬ライ。今のボクである。



「ライ、そろそろ俺らの番が始まるぞ」

 ボクは目を開け、声の主の方へ視線を向ける。そこには、ボクとともに演劇部を支える副部長、瑠璃川学(るりかわまなぶ)が仁王立ちしていた。学は困ったようにため息をつきながら、右手で顔を覆う。舞台前にも関わらず一人で精神統一をするボクにあきれているのだ。

「いつもごめんね学。行こうか」

 ボクは舞台裏に設置された鉄製の階段から腰を上げ、学に笑顔を向ける。学は肩をすくめると、ボクに背を向け仲間の元へ足を進めた。辺りにはせわしなく動き回る裏方の掛け声と、学校指定のパンプスが地面とぶつかる音が響き渡る。ボクは置いていかれぬようにと、学の背を追った。

 努力のかいあって、ボクは今たくさんの友人や部員にアイされ、幸せな日々を送っていた。しかし、人間というのは欲深い生き物で、夢を叶えたボクはより多くのアイを求めるようになっていた。観客のアイや部員からのアイでは足りない、ボクの知る人物全員からのアイを、と。

「さあ、これがボクたち新三年生の最初の大会だ。最高の劇を披露して、例年通りに最優秀賞を学校へ持って帰ろうじゃないか」

 部員の前に付いたボクは手を前に大きく広げ、緊張する部員たちに鼓舞を与える。しかし皆は本番直前で緊張が取れないらしく、中には顔が青白くなっているものまで存在していた。ボクはそんな部員にそっと寄り添い、衣装が乱れぬように気を付けながら、背中をそっとなでてあげる。すると、部員の緊張も少しは取れたのだろう。顔色は少しずつ通常通りに戻っていた。

「何も心配はいらないさ。ボクらならいける。普段通り、演じるだけだ」

 ボクの声に応えるように、部員たちは右手を上げてオー! と声を高らかに上げた。その瞬間、劇の終わりを告げるブザーが辺りに響き始める。どうやら前の学校も演目を終えたようだった。

「演じよう、ボクらのアイが観客に伝わるように」

 部員たちはその声に反応し、自分たちの持ち場へつき始める。わらわらと散らばる部員の間を通り抜け、ボクが立つのは最前線。観客の歓声を最も浴びることができる主人公ポジションだった。

 開演ブザーが鳴り響き、真っ赤な舞台幕が上がり始める。幕の向こうには、ボクへの歓声と応援の声が響き渡っていた。アイに満ちた素晴らしい時間だ。

 ボクの劇を心待ちにしている声援を肺に吸い込み、ゆっくりと息を吐きだす。虐められて一人ボッチだったあの頃には考えもしなかった至福な時間は、何度堪能しても幸せなものだった。でもボクは欲深いから、これっぽちのアイじゃ心は満たされない。だからこそ、舞台上でも日常でも、ボクは理想を演じ続ける。

 より多くのアイを手に入れるために。
「一週間の間、私を演劇部に入れてください!」

 放課後の教室、日直の仕事を終えて部活へ向かおうとするボクを呼び止めたのは、髪の毛がない車いすの少女だった。小枝のような腕を持つ少女は、目を大きく開き、真っすぐとこちらを見つめている。少女の黒い瞳は、星を飼っていると思うほどキラキラと輝いていた。

「えっと、君はこの高校の生徒かな?」

 彼女の理想になるためには、その申し出を受け入れなければならないだろう。しかし、ボクは彼女の願いをいや応なしに受け入れることが出来なかった。

「あ、そうですよね。制服じゃないから分からないですよね」

 青い病衣を着る少女は腰に巻き付けたバッグに手を差し込み、中から一枚のカードを取り出す。彼女は小さな両手にカードを乗せると、ボクの方へと差し出した。カードの正体は、学生証だった。

 ボクは学生証を受け取り、書かれた文字を視線でなぞる。この病弱少女の名前は、沢村美雪というようだった。内容いわく、彼女はこの高校の一年生らしい。

「私、白血病で、余命が一カ月しかないんです。」

 突然の告白に、小指がピクリと跳ねる。学生証に向けていた視線を沢村に移し、寄り添うような言葉をかけてあげなければと口を開く。しかし、ボクはねぎらいの言葉をかけずに口をつつしんだ。悲しいはずの少女が、満面の笑みのままキラキラと瞳を輝かせていたからである。

「ずっと病院で生活していて、特にしたいこともなくて、私はぼうぜんと残りの余生を過ごしていたんです。でも、昨日先輩の劇を見て、私も劇をしたいって思ったんです!」

 昨日の劇、それはボクたちが最優秀賞を獲得した地区大会のことだった。

「昨日の大会、見てくれたんだ」

「はい!」

 沢村は身体を前のめりにし、膝の上で軽く拳を握る。しかし、筋力が落ちているのか、彼女の作った拳は指がわずかに曲がった程度のものだった。

「舞台で演じる先輩は他の誰よりもキラキラ輝いていて、まるでお星さまのようでした。私、劇って初めて見たんですけど本当に綺麗で、私も一度でいいからあんな風に輝きたいって思ったんです」

 沢村は鼻息を荒げ、劇の感想を語りだす。内容はかっこよかった、綺麗だったなどのありきたりな感想だったが、アイに満ちた言葉の数々は、ボクのアイされ欲求を満たすには十分だった。

 彼女の願いは舞台の上で、われわれと同じく輝くことらしい。しかし、それはあまりにも厳しい願いだった。

 まともに動くことすら出来なさそうな細い足に、力が入らない指先。声も会話が成立する程度には出ているが、ろれつが回り切っていない喋り方では、会場の奥までしっかりと声を届けることは不可能だろう。はっきり言って、彼女が舞台で輝くことは無理だ。

 しかし、そんな残酷な事実を投げつけられるのは彼女の理想ではない。だからボクはこう告げる。

「大歓迎だよ。仲間が増えるのはいいことだからね」

「いいんですか!?」

 沢村は目を大きく見開き、両足をバタつかせる。よほど嬉しかったのか、興奮状態の彼女の目は、さっきまでと比べ物にならないほどキラキラと輝いていた。言うなれば、太陽を目に閉じ込めたような輝きだった。

「もちろん、ただこれから大変なことが多くなると思うけどね。でも大丈夫、ボクが一生懸命教えてあげるから」

「はい! 全力で頑張ります! 本当に、ありがとうございます!」

 模範解答に帰ってくる元気な返事に、口角が勝手に上へ向かい始める。にやけ顔を隠すため、ボクは彼女の後ろへ移動すると、練習場である第一体育館に続く廊下を進み始めた。

 こっちの方がお礼を言いたいぐらいだよ

 彼女の願いを叶えた途端、ボクは余命わずかな少女の夢を叶えた英雄という称号を手に入れることが出来る。そうすればボクは学校内でも凄い人間だともてはやされ、たくさんのアイを得ることができるだろう。願いを叶えることが出来た少女も、死ぬ間際まで感謝し、恩人であるボクをアイするだろう。

 ボクは今、念願だった大勢のアイを勝ち取る権利を、このけなげな少女に与えられたのだ。

「灰被り姫の元に現れた魔法使いのように、君の夢はボクが叶えてあげる。だから君も、一緒に頑張ろうね」

 全てはボクのアイのために
「ところで、君はどんな劇を演じたいか決めているのかな」

 道中、ボクはふと思いついた疑問を沢村に投げかける。

「シチュエーションとか、設定とかなら考えてあるんですけど、演目って言われると考えてないですね」

「いいね。聞かせてよ」

 沢村は恥ずかしそうに頬をかく。これは好都合だと詳細を聞き出せば、沢村は目を細め、楽しそうに語り始めた。その様子は初めて持った夢を語る幼稚園児のようだった。

「私、舞台上だけでいいから、元気で活発な女の子になりたいんです。そして皆と同じように学校へ行って、好きな子を作って。友達と恋バナをしたり、恋に四苦八苦したり、そんな充実した学校生活を送りたいなって」

 沢村が夢として語ったのは、ボクらが送るありふれた日常だった。多くの人間が面倒だと感じる学校こそが、彼女の持つ理想郷らしい。しかし、その気持ちは理解できるものだった。

 深夜まで親が帰ってこない家は、寂しくて心が凍りそうになる。だからこそ、多くのアイを浴びられる学校は、ボクにとっても理想郷なのだ。

「じゃあボクが君の好きな人を演じるよ。とは言っても君みたいなすてきな子に、ボクじゃ釣り合わないかもしれないけどね」

「いえ、そんな! むしろ部長さんみたいな優しくてキラキラした人を好きになれるなんて光栄です!」

 沢村は慌てて首をこちらへ向け、あわあわとした様子でボクの言葉を否定する。お世辞を本音だと受け取ったのか、彼女の頬はほんのりと赤くなっていた。

 彼女は多くの人にアイされて生きてきたのだろう。

 悪意に疎く、素直で明るい様子に、ボクはそう結論付けた。あぁ、全く、羨ましい限りである。

 心に小さな痛みが走る。アイされ欲求以外は全て捨てたはずだったが、やはり人間である以上、完璧に全てを捨て去ることは不可能のようだった。

「部長さんって、そう言えば自己紹介がまだだったね。ボクは綾瀬ライ。気軽にライって呼んでね」

 そんな醜い感情をおくびにも出さず、ボクは気さくな笑みを向ける。ヘドロのように荒んだボクの心情に彼女が気付くわけもなく、沢村ははい! と立派な返事をし、嬉しそうに首を縦に振ったのだった。

「じゃあ内容は、青春恋愛ものでいいかな。君は元気で活発な女の子、ボクは、そうだな。どんな男の子が好きとかあるかな」

 沢村は右手を顎に当て、うめき声をあげ始める。

「絵本に出てくる王子様ですかね。優しくてかっこよくて、白馬に乗っているような」

「それだとファンタジーになっちゃうね。じゃあ、学校一の人気者で、誰もが憧れる学園の王子様にしようか」

「いいですね!」

 どんな恋をしたいのか、シチュエーションや理想の容姿。彼女の願望通りの内容を相談し合いながら、真っ赤に染まる廊下を進む。物語の大枠が完成した頃には、ボクらは目的地の目前にまで近づいていた。

 第一体育館の扉を潜り、沢村をステージ横の倉庫へと案内する。部活動の様子を見るのが初めてだったのだろう、彼女は必死に首を回しながら、アップをする部員たちを眺めていた。

 倉庫の前に付いた後、ボクは鉄製の扉を開く。重低音を響かせながら開かれた扉の向こうには、さまざまな衣装とウィッグが並べられていた。演劇部の強豪校である我が校には、演劇部の道具が収納できる専用倉庫が置かれているのだ。

 この容姿じゃ、学たちに練習を止められかねないからな。見た目だけでも健康そうにしてないと。

 ボクは彼女に背を向け、衣装スペースから目的の服とウィッグを回収する。ほこりがかぶっていないのを確認し、再び彼女の方へ身体を向ける。いつの間に入ってきていたのか、沢村は小道具が散乱した倉庫内を、物珍し気に眺めていた。

「それじゃあ、これからボクが君に魔法をかけてあげよう」

 セーラー服を彼女の膝の上に置き、アンダーキャップを彼女の頭に被せる。その上から黒髪のウィッグをかぶせ、自然な形になるように調整する。仕上げに前髪と背中まである長髪をくしで整えれば完成だ。

「どうかな?」

 足元に置かれた小道具から手鏡を取りだし、見えるように顔の前に差し出す。すると彼女の口からは、感嘆の声が零れ出した。

「凄い、髪の毛があるなんて久しぶり」

「これで終わりではないさ。君、自分で服は着られるかな?」

「あ、はい。一応、リハビリはしていましたので」

「それは良かった。じゃあボクは背を向けているから、この制服を着てみてくれないかな」

「はい!」

 膝の上に置いた制服を手渡し、奥の方へと足を動かす。そこに設置された化粧台から、ボクは彼女にあった化粧品を探し始めた。

 彼女の青白い顔を隠すには、ピンク系のコントロールカラーがだな。

「着られました」

 リップやチークなどの化粧品を探していると、背後から張り上げられた沢村の声が届く。やはり大声を出すことになれていないのか、彼女の声はわずかにかすれているように聞こえた。

 選んだ化粧品を手に、ボクは再び彼女の方へと戻る。沢村は車椅子に手を着いた状態で、小鹿のように足を震わせながら、自分の制服姿を堪能していた。

「うん。凄く似合ってるよ。じゃあ、いったん車椅子に乗ってくれるかな」

 沢村は照れたように頬をかき、車椅子に腰を下ろす。念願の制服姿に興奮が収まらないのか、沢村の視線は忙しなく動き続けていた。

「じゃあ化粧をするから、顎を上げて目を閉じてね」

 沢村は言葉の通り、あごを上げたまままぶたを閉じる。素直な彼女に、顔色が明るく見える化粧を施せば、はい完成。

「さ、これで君も元気な学生だよ」

 彼女の後ろに回り、車椅子を姿見鏡の前に移動させる。目を開けた彼女は、驚いたように目を大きく見開いた。

「これが、私?」

 沢村は車椅子から降り、鏡の前で一回転する。そしてようやく鏡に映る少女が自分だと理解出来たのか、彼女は嬉しそうに声を漏らした。

「凄い、まるで魔法みたい」

「言ったでしょ? 灰被り姫の前に現れた魔法使いのように、君の願いを叶えてあげるって」

 まあ、学校の制服は持ってこられなかったから、完璧ではないかもしれないけど。

 そんな言葉を返せば、食い気味に帰ってくる否定の言葉。想像以上に喜ぶ彼女の姿に、思わず笑みが零れる。

「演劇部の沢村美雪は健康な少女だ。だから、誰にも病気のことは言ってはいけないよ。じゃないと魔法が解けてしまうからね」

 ボクは人差し指を唇の前に立て、ウィンクを飛ばす。そのまま魔法に驚くお姫様に跪き、右手を差し出した。

「さ、練習を始めようか」

 ぼくの手のひらに、彼女の右手が重ねられる。ボクはそれを握りしめ、演技の世界へと彼女を導いたのだった。
しかし、現実はそう甘くはない。

 沢村の成長は、お世辞にも芳しいものとは言えなかった。原因は単純で、圧倒的な体力不足のせいである。彼女は三十分練習するだけで、一人で立つことも出来なくなってしまうのだ。

「いったん休憩しようか」

 舞台に手をつき、やっとの思いで立つ沢村に声を掛ける。身体全体を使って息をする様子からして、これが彼女の限界活動時間だろう。

 経過時間を確認しようと、体育館に設置された針時計に視線を向ける。現在時刻は四時三十三分。部活動開始時間は四時なため、やはり三十分が限界らしい。

 視線を下げ、ボクは体育館端に置かれた車椅子を沢村の元へ運ぶ。顔をうつむかせる彼女の首には、滝のような汗が流れていた。

 汗を拭いやすいようにと、車椅子に置かれたピンクのタオルを手元に置く。沢村はそのタオルで顔を乱暴に拭うと、突然右手で自分の頬をたたき始めた。

「まだやれます」

 沢村は声を張り上げると、舞台から手を離す。しかし震える両足に全体重を支える力は残っていなかったらしく、彼女の身体は舞台の方へと倒れていった。ボクは舞台と彼女の間に手を差し込み、衝突する寸前の身体を支えることに成功する。満足に動かない体が憎いのだろう。横髪の向こうでは、沢村が悔しそうに唇をかみしめていた。

 この場合、本来なら練習の中断を告げるのが彼女のためなのだろう。しかし、きっと彼女はそれを求めていない。彼女の理想はきっと、練習の継続だ。

 とはいえ、このまま無理をされて倒れられては、ボクの部員からの支持も下がる。どう言葉をかけるか。ボクはこれまでの経験を元に良いあんばいを考え始めた。

「良し。じゃあ今からは立ちながらセリフをいう練習をしようか。ずっと車椅子に座りながらだったしね」

「良いんですか! ありがとうございます!」

 沢村は顔を上げ、満面の笑みをこちらに向ける。心から喜ぶ姿からして、ボクの判断は正解だったようだ。

「もしもまた危険だったら、こうやってボクが支えてあげる。だから君は、心配せずに無茶をするといいよ。あ、でも本当にしんどくなったら言ってね」

「勿論です!」

「そういうお前は全く練習してないけど大丈夫なのかよ。本番は日曜日だろ? 今までと違って、今日入れても後六日しかないんだぞ」

 士気を高めるボクらのもとに、背後から心配そうな声がかけられる。沢村が舞台に手をついたことを確認したボクは、声の主の方へ身体を向ける。アップ終わりの学が、タオルで顔を拭いながら此方へ歩いてきていた。

 ボクも学の方へ向かい、お疲れさまと肩をたたく。

「今回は劇の時間も短いし、簡単なものだから大丈夫だよ。ボクが舞台上で失敗したことはないでしょ?」

 沢村に罪悪感を与えないように、ボクはわざとおどけたような口調で学に返す。普段のボクらしくない答えに何かを思ったのか、学は口を微かに開けた。

「いや、なんでもねえ。お前がそういうなら大丈夫なんだろうな」

 しかし、彼の口からとがめる言葉は出てこず、ただ肩をすくめるだけだった。

「部員のこと、学にまかせっきりでごめんね」

「本当にな。博愛主義の部長を持つと大変だよ」

 学はいつもの軽口をたたくと、ボクに背中を向けて、急ぎ足で部員たちの方へと向かいだす。彼の背中をしばらく見守り、ボクは沢村の方へと戻る。休憩を挟んで足も元気を取り戻したのか、沢村はボクらの方に身体を向けて一人で立っていた。

「私のせいで練習時間をおろそかにさせちゃってすみません。ライも主役なのに」

 沢村は申し訳なさそうに顔をうつむかせる。結局、ボクは彼女に罪悪感を与えてしまったようだ。自分の判断ミスを反省しながら、ボクは彼女の右手を両手で包み込んだ。

 沢村は、勢いよく顔を上げる。突然の行動に驚く彼女は、目をぱちくりさせながらボクを見上げた。

「大丈夫だよ。ボクは何があっても君のすてきな夢を叶えたいんだ。そのためならなんだってする。それに、家でも練習は欠かさずしているしね。気にしないで」

 ボクは彼女の目を真っすぐ見つめ、笑顔で彼女に語り掛ける。すると彼女は目を細め、口角を緩ませる。赤みを増した頬は、嬉しそうにほころんでいた。

「ライは、優しくてかっこよくて、まるでおとぎ話に出てくる王子様みたいですね。」

 彼女がお世辞をいうような子ではないということを、ボクはこの二日間で嫌というほど理解している。つまり、彼女は本当にこのボクを王子様だと思っているのだろう。

 彼女の素直な感想に、胸がドクドクと騒ぎ始める。彼女が与えてくれるアイはとても綺麗で、とても心地が良いものだった。

「じゃあ君はお姫様だね」

 そんなお世辞の言葉にも、彼女は屈託のない笑顔を浮かべる。おおげさなほど喜ぶ姿は、まさに彼女の幸せな環境を体現していた。そんな彼女を見るたびに、ボクの中で羨ましい、憎いと言った醜い感情が暴れ始める。しかし、そんな彼女の隣に心地よさを感じ始めるボクも存在していた。

 なんだこれ。

 さまざまな感情がごった返す現状に、形容しがたい気色悪さがボクを襲う。ボクは、壊れてしまったのかもしれない。
 バタンと、何かが倒れたような大きな音と、部員たちの慌ただしい声が扉の向こうで響き始める。ただ事ではない様子に、ボクは持っていた小道具を放り投げ、倉庫を飛び出す。そこでは倒れた沢村に、部員たちが必死に声をかけていた。

「力に自信があるやつは俺と一緒に沢村を保健室へ。手が空いているやつは職員室と保健室の先生に連絡。急げ」

 沢村の足を持ち、学は適切に指示を飛ばす。手伝わなければ。そうは思うものの、足は動こうとはしなかった。

 ボクが彼女をここまで追い詰めたのか。

 過呼吸を繰り返す沢村に、心臓に鋭い痛みが走り始める。お前のせいだと責め立てているように。

 空を仰いでいた沢村が、ふとこちらに視線を向ける。よほど苦しいのだろう。彼女の眼には、薄っすらと水の膜が貼られていた。しかし、それでも彼女は無理して笑い、ボクに告げる。

「だいじょうぶ、かえってくる、おしえてね」

 単語でしか話せないのに何が大丈夫だ。

 そんな怒りが沸々と腹の底から湧き上がる。

胸元をつかみ、少ない酸素を回収しようと、餌を求める魚のように開閉させる口。自分でろくに動くことすら出来ないその様子のどこに、大丈夫な要素があるのだと。

 練習は止めにしよう。

 ボクは胸にそう誓い、右足を一歩踏み出す。

 ……練習を、止めにする? ボクは何を考えているんだ。

 右足を一歩踏み出した状態で、ボクの身体は再び硬直する。遠くでは、学達に連れられた沢村が、体育館を後にしようとしていた。

 練習を止めにする。それが彼女の理想ではないことは、先ほどの言葉で理解出来るはずだ。ならばボクがすることは、彼女の練習を今まで通り支えること。止めるなど言語道断である。

 そう脳は、さっきの誓いを糾弾する。

 ボクは全員の理想だ。アイされるためにはそうでなければならないのだ。だからこそ、この選択が正しい。間違いない。そう理解しているにも関わらず、心は晴れるどころか霧が増すだけだった。

 あんなにも苦しそうな彼女にこれ以上つらいことを強いるつもりか。一刻も早く辞めさせるべきだ。例え彼女の理想でなくても、彼女に嫌われたとしても。人の幸せを願う、それこそがあいと言えるのではないか。

 そんな異論がどこからともなく脳裏に流れ始める。意見が割れた脳内では論争が行われ、さまざまな考えが巡り始める。例えるなら、悪魔と天使が言い合いをしているようだった。それに例えるのなら、異論を唱えだしたのはきっと悪魔の方だろう。誰かの理想である。それは、絶対的な正義なのだから。
「ライ、大丈夫か。お前も顔が真っ青だぞ」

 こんとんと化した思考は、学の声によって強制的に停止させられる。現実世界に帰って来たボクは現状を理解するために辺りを見渡す。部員はどうやら沢村に付き添っているらしく、体育館に帰ってきたのは学一人だった

「え、あ、あぁ、学か。わ……ごめん」

 疲弊しきった脳は、言葉をすいこうすることなく、素のまま口から放とうとする。ボクはそれを唾と同時に流し込み、いつものような口調を取り繕う。

「沢村のことだが、ようたいはあまり良くねぇらしい。先生の車で病院に運ばれたわ。部員にも今日は解散と伝えた。さすがにあの光景を見た後に部活は出来ないからな」

「あ、うん。そうだね」

 脳は完全に機能しておらず、ボクはありきたりな答えを返すしかなかった。いつものように気の利いた一言を絞りだすことが出来ないほど、ボクは疲れているらしい。

 それもそうだ。さっきまで、ボクの脳はエラーを起こしていたのだから。

「お前も分かっていると思うが、彼奴の状態で劇をするのは無理だ。今回の劇は中止にした方がいい」

「いや、それはダメだ」

 否定の言葉が口から零れ落ちる。食い気味の返答に、学は驚いた様子だった。

「……正気かよ」

 普段の何倍も低い声が、彼の口から発せられる。地をはうような声、というのはまさにこのような声を指しているのだろう。

 しかし、ボクもめげるわけにはいかなかった。

「彼女は戻ってくる。そういっていた。ならボクは、彼女を信じて劇の準備をするしか」

 ボクの言葉は、肉をたたく音によって遮られる。右頬には刺すような痛みが走り、そこは徐々に熱を持ち始めた。

「お前、どうにかしているぞ。いったん頭を冷やせ。お前らしくない」

 お前らしくない? お前はボクの何を知っているんだ。

「何を言っているんだ。ボクは何もおかしくない。ボクはボクのままだよ」

 奥底に捨てた感情が、火山の噴火のように次から次へと湧き上がる。それはそのまま食道を追加し、口から外へと吐き出された。衝動に身を任せるボクには、自分が何を言っているのか理解出来なかった。

「ボクは皆の理想じゃなければならない。そしてさっきの言葉を聞いただろ? 彼女の理想は劇の続行だ。ならボクがするべきは劇の続行を手伝うこと。それ以外の選択肢はない。」

 今まで我慢していたものが、止めどなく口からあふれ出す。感情をせき止めていたダムが決壊した証拠である。

「ボクは皆の理想なんだ。理想じゃなくちゃダメなんだ。じゃないと、ボクはアイされない。アイされるためにはそうするしかないんだ。もう、一人ボッチは嫌なんだ」

 喉が痛い。心が痛い。全てが痛い。痛みに耐えるように、ボクはその場にうずくまった。

 やってしまった。やってしまった。

 全てを吐き出した結果、後悔が波のように押し寄せ、ボクの行いを攻め立てる。なぜ感情を吐き出した。なぜ暴走した。今まで全てうまく演じられていたのにと。

 足音がボクから遠ざかり始める。顔を上げなくても分かる。学がボクから離れようとしているのだ。

 ボクは顔を上げ、学の名を呼んだ。ボクに背を向けていた学は足を止め、ボクの方に視線を向ける。彼の眼は、酷く冷たい色をしていた。小学時代、皆がボクに向けていた軽蔑のまなざしだった。

「俺はお前のこと、底なしの博愛主義者だと思っていたが違ったんだな。お前は自分の欲求を満たすために、俺らや病人すらも利用したくず野郎だ。もうお前にはついていけねえ。見損なったよ」

 こうしてボクは、アイを失った。


 ボクは顔を上げ、学の名を呼んだ。ボクに背を向けていた学は足を止め、ボクの方に視線を向ける。彼の眼は、酷く冷たい色をしていた。小学時代、皆がボクに向けていた軽蔑の眼差しだった。

「俺はお前のこと、底なしの博愛主義者だと思っていたが違ったんだな。お前は自分の欲求を満たすために、俺らや病人すらも利用した屑野郎だ。もうお前にはついていけねえ。見損なったよ」

 こうしてボクは、アイを失った。
この世には、弱い者虐めを行うことで成立する友情が存在する。その標的として、気弱で怖がりなボクは最適だった。

 教室に一歩踏み込めば、押し寄せて来る軽蔑のまなざし。カースト上位に君臨するクラスリーダーは、ボクを見るなり卑しい笑みを浮かべ始める。ホラー映画のピエロをほうふつとさせる顔に、ボクの背はいつも冷たい汗を流していた。

 仲間の輪から離れたリーダーは、わざとらしく足音を立てながら、ボクの方へと歩き出す。恐怖で足がすくんだボクは、リュックサックを顔の前に置き、彼から隠れるのでやっとだった。

 リーダーはそんなボクを嘲笑い、身体を突き飛ばす。貧弱な壁にボクを守る力があるわけがなく、ボクは衝撃のまま教室の外へと押し出された。痛みを覚悟して、ボクは強く目をつむる。しかし背中に触れたのは、固い壁ではなく、マットのような柔らかな感触だった。

「ちょ、やめてよ。菌がついちゃったじゃない」

 偶々ボクの後ろを歩いていた女子は、ボクを払いのけ、触れた部分をハンカチで拭い始める。その心無い行動は、ボクの心に精神的な痛みを与える。これなら壁にぶつかって、肩を痛める方がマシだった。

「このハンカチもう使えないじゃない。あげる」

「は? おま、ふざけんなよ。パス」

「やめろ、投げるな。菌が飛び散るだろ」

 床に倒れこむボクを置き去りにし、クラスメイトはハンカチを押し付け合う。ボクという菌に汚染されたウサギが刺繍されたハンカチは、多くの人間の悲鳴を巻き起こしていた。

 痛む心臓に右手を当て、おぼつかない足取りで自分の席へと向かう。

 これが、ボクの日常だった。

 家に帰っても慰めてくれる親は居らず、唯一寄り添ってくれるのは、三歳の頃両親が買ってくれた熊のぬいぐるみだけ。思えば、家族そろってどこかへ行ったのは、ぬいぐるみを買った遊園地が最後だった。

 親が帰ってきていない部屋で一人、暗闇に包まれながらボクは毎日泣いていた。寂しい、痛い、愛されたいと。

 そうして幾度の夜をこえたとき、ボクはようやくボクが一人ボッチな理由を理解した。

 ボクがボクである限り、愛されることはないのだと。

 だからボクは誰かの理想を演じた。ボクじゃない誰かになれば、皆ボクを愛してくれると思ったから。そして実際、ボクであることを止めてから、ボクはいろいろな人にアイされるようになった。念願が叶ったのだ。

「だからボクは理想でいなくてはならないのだ」





 それは本当に、ボクが望んだ【あい】なのかな。
 普段なら部員の掛け声でにぎわっている体育館で、ボクは一人ステージに腰かけていた。窓からはきれいな夕焼けが差し込んでおり、外では次の大会に燃える運動部の掛け声が響いている。

 部活の時間は既に始まっている。しかしここには学どころか、部員は一人も現れなかった。

「ま、それもそうだよな」

 ボクは首をかきむしりながら、両足をバタつかせる。

 学が周りの人間に言いふらしたのだろう。この学校では、今ボクが偽善者のうそ吐きだといううわさが流れていた。今まで向けられていた好意的なまなざしは、たった一晩で軽蔑に変わったのだ。

 これでは、小学校のときのままである。

「ボクは一体何を間違えた」

 そうぼやくボクの頭には、間違いなく元凶と思われる人間の顔が浮かんでいた。沢村美雪。彼女と関り出してから、ボクは壊れ始めたのだ。

 彼女さえ目の前に現れなければ、ボクは理想を演じ続けることが出来た。感情が爆発することも、脳が誤作動を起こすこともなかった。そうだ、彼女さえ居なければ、ボクはずっとたくさんの人にアイされることが出来ていたのだ。

「すみません。遅れました」

 聞きたくない声が耳に届く。口角は自然とつり上がり、笑顔を作り上げた。

「うんうん。全然大丈夫だよ。昨日は無理をさせてごめんね。大丈夫だったかな?」

 ボクは視線を上げ、沢村の方を見つめる。彼女の顔は、酷くわびしそうだった。

「あなたのうわさ、聞きました」

 心臓が締め付けられる。急に酸欠状態に陥った身体は酸素を求め、何度も呼吸を繰り返す。しかしこの辺りには二酸化炭素しか存在しないのか、何度呼吸を繰り返しても体内に酸素が回ることはなかった。

 頭が痛み、心が痛む。脳は嫌われたくないというワードだけを参列する。脳はまた不具合を起こしていた。本当に、ボクは彼女が関わると壊れてしまうらしい。

 理解出来ないエラーを繰り返す自分の身体には、恐怖すら感じるほどだった。

 ボクはそれを極力表に出さないように、笑顔を浮かべ続ける。しかし口は乾ききってしまい、言葉を出すことが出来なかった。

「何故あなたは、無理をして笑うんですか?」

「無理なんてしてないよ。」

 否定の言葉が脊髄反射で発射される。しかし沢村はその回答を良しとはしないようだった。

「あなたが人を嘲笑うためにうそをついている悪い人だとは思えません。こんなにも親身に私に寄り添ってくれたのですから。何か理由があるはずです」

 彼女はきれいな言葉を投げ続ける。

「あなたに支えてもらったように、私もあなたを支えたいんです。お願いです。どうか、本当の言葉を教えてください」

 お前にボクの何が分かる。彼女が紡いだのはそんなド定番の言葉を吐きたくなるほどのきれいごとだった。

「君の気持ちはありがたいよ。でも本当に大丈夫だから。気にしないで」

 でもボクは壊れたラジオのように大丈夫を繰り返す。心の内はえんま大王も二度見するほどおぞましい感情でごった返しているが、それを彼女に見せることはない。だってもう、誰にも嫌われたくはない。独りぼっちは嫌なんだ。

 彼女は悲しそうに眼を細め、顔をうつむかせた。

「無理をして、良い子になろうとしなくていいんですよ」

「は?」

 彼女の口から飛び出たのは、鈍感な彼女らしからぬ鋭い一言だった。

「私も今のあなたの状況に覚えがあるんです。白血病になって、余命宣告されて、あの時の私も強がって大丈夫だよとしか言わなかったんです」

 彼女は胸に手を当てて、思い出を語り始める。その表情はじゅうたんに乗って街を見守る姫をほうふつとさせるような、幸せそうなものだった。

「家族に心配も迷惑もかけたくなかったんです。でも、あの時お母さんは私に、つらいときは泣いていい。死にたくないって叫んでもいい。お母さんは、無理して笑う姿を見る方がよっぽど苦しくてしんどいって」

「……いい家族に恵まれたんだね」

「はい、自慢の家族です」

 ボクが喉から手が出るほど欲する光景に、口からは思わずいやみが零れる。しかし彼女はそんなボクの心情に気付かずに、笑顔で首を縦に振った。

「あなたは今、あらぬうわさを流されて苦しんでいるんですよね。そして優しいあなただから、私に心配をかけないように笑っているのでしょう。でも、無理に笑わなくて大丈夫ですよ。私も、無理して笑うあなたを見る方がよっぽど苦しいですから」

 彼女は車椅子から立ち上がり、ボクの頬に手を伸ばす。しかし、少し立つだけで彼女はバランスを崩し、車椅子へと逆戻りした。体調が悪化して、立つことも出来なくなっているのだろう。

「全てを吐き出してください。私は、どんな苦しみでも一緒に抱えてあげます。頼りない、おんぼろな身体ですけど、あなたの苦しみを分かち合うことぐらいはできます。だって私はあなたを愛していますから」

 前言撤回だ。彼女はやはり、何にも気付いてなどいなかった。今までのボクが本物だと信じ切っているのだ。そしてこんな分かったような言葉をかけているのだ。

 馬鹿らしい。本当に馬鹿らしい。何がアイしているだ。結局、理想のボクだけを見て、本当のボクなど、あいしていないではないか。

「……は? 何を言っているんだ。それでいいじゃないか。アイされるために、ボクがそうしたんじゃないか。ボクは何に怒っているんだ」

 理解不能な思考が脳をかきまわし、本当のボクが分からなくなる。ボクはアイされるためならなんだってした。自分らしさを捨て、理想であるようにした。その結果、彼女はボクをアイしてくれた。一人ボッチじゃないんだ。ボクの作戦はうまく行っていたんだ。なのに、なのにどうして。

 ボクは、こんなにも寂しがっているんだ?

 小さな手が目の前に現れる。ボクはそれを思わず払いのけ、その場に立ち上がった。すると車椅子に座っていた沢村は、なぜか地面に倒れ込んでいた。

 ボクは慌ててステージから跳び降り、沢村を抱きかかえて車椅子へと座らせる。彼女は、とても軽かった。まるで感触のある幽霊を抱えている気分だった。

 彼女は車椅子に座るなり、ボクの頭をなでまわす。頭をなでられるのは産まれて初めてだった。

「ボクは、そんな良い子なんかじゃない」

 口が脳を通さずに、勝手に思いを打ち明け始める。ボクは辞めろ、止めろと念じるが、口は止まってくれはしなかった。

「ボクはアイされるために君を利用していただけだ。君の思う通りにボクが動けば、君はボクをアイしてくれるだろうって。そして余命少女の願いを叶えたとなれば、この学校でヒーローとして扱われて、皆がボクをアイしてくれるだろうって」

 ぽつぽつとボクの本音を語り始める。彼女からすれば聞きたくない、最悪な告白だろう。しかし、彼女はボクの頭をなでることを止めようとはしなかった。

「昔、小学校で虐められていて、居場所がなかったんだ。両親は共働きで全然家に帰ってこなくて、家でも常に一人ボッチだった。そのせいで一人が凄く嫌いでね。誰にでも良いからアイされたかったんだ」

 一度吐き出してしまえば諦めもつくわけで、ボクは過去を語り始める。それは今まで必死に隠していた、理想とは程遠い、本当の自分の姿だった。

「だからボクは、誰にでもアイされる理想の人間になろうとした。そうすれば、一人ボッチじゃなくなるから。それは正しくて、実際多くの人のアイを感じることが出来た。君だってボクをアイしてくれた。なのにおかしいよね、寂しくて寂しくて仕方ないんだ」

 こんなボクがアイされるわけがないのだと、言葉にするたびにボクは自覚する。

 ボクは弱虫で醜くて頼りない、そんな良い所なんて欠片もない、惨めすぎる存在だった。こんなボクを誰がアイしてくれるというのだろう。だからボクは演じるしかなかった。それ以外、一人ボッチを回避する方法なんて存在しないから。

「あなたは舞台の上だけじゃなくて、日常的にライを演じていたのですね。お疲れさまです」

 しかしそんな醜いボクに、沢村は優しく声を掛ける。触れた場所をハンカチで拭って逃げることもなく、何度もボクの頭をなで続けた。打ち明ける前と、何ひとつ変わらない様子で。

「でも、もう演じなくて大丈夫ですよ。本当のあなたを愛してくれる人は居ます。全員に愛されることは無理かもしれないですけど、ちゃんとあなた自身を愛してくれる人に出会えます。でも、偽っていたらそんな人に会えても気付けないでしょう? だからもう、演じるのは辞めましょう。」

「だが、そうしたらボクはまた虐められる。また細菌のように扱われて、一人ボッチになってしまう」

「少なくとも私は、今のあなたを見て軽蔑したりはしていません。確かに少しショックでしたけど、理由も聞いて納得しました。そして今、ありのままのあなたを愛しました。怖がりで、寂しがり屋で、王子様じゃない普通の男の子。そんなライが、私は大好きですよ」

 その瞬間、ボクの中の何かが砕け散った音がした。目からは止めどなく涙があふれ出し、拭って止めようにも、腕がびしょびしょになるだけだった。

 止まれ、止まれ

 ボクはめげずに口角を上げようとする。しかし、ボクの意思に反するように、ボクは永遠と涙を流し続ける。

 そんな中、沢村はボクの顔を自分の胸元に押し付ける。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 まるで赤子の相手をする母親のような、優しく温かい声でボクを慰める。後頭部をなでる彼女の手は、とても心地が良い。

「もう理想になろうとしなくて良いんですよ。あなたはあなたなんですから」

 あぁ、そうか。これがボクが欲していた、本当の愛だったのか。

 孤独を怖がるあまりに、ボクは本当に欲しかったものを遠い昔に失くしていたらしい。

 ボクはただ愛されたかったのだ。理想じゃない。泣き虫で、怖がりで、気弱な、醜い、本当のボクを愛してほしかったのだ。

 ボクは彼女の胸に顔を埋め、赤子のように泣き叫ぶ。誰かに甘えて涙を流すのは、凄く久しぶりだった。
「じゃあ本音を言わせてもらう。君は舞台に立てない。劇は中止しよう」

 安定した精神を取り戻したボクは、彼女が最も言われたくないであろう言葉をぶつける。しかし、彼女も言われると勘づいていたのか、傷ついたそぶりは見せなかった。

 彼女は視線を横にずらし、頬をかく。

「そうだよね。やっぱり言われるよね」

 その瞬間、沢城は手で口を覆い、前のめりになりながら、大きくせき込み始める。一分ほど続けて落ち着いた彼女は、ポケットからティッシュを取り出し、手のひらを拭い始めた。唇には赤いものがこびりついていた。

 ボクはまさかと思い、彼女の腕をつかみ、ティッシュを奪い取る。それは彼女の血によって、赤く染められていた。

 彼女の身体はとうの前に限界を超えていたのだ。きっと今も、身体を痛みがむしばみ苦しい思いをしているのだろう。

「でも嫌だ」

 しかし、彼女はボクの願いを拒否する。荘園に咲くバラのような美しい笑顔で。

「どうして、この四日間で君はますます弱っているじゃないか。このままでは一カ月ももたないかもしれない。そこまでして、君はどうして舞台に固執するんだ」

 声を荒げても仕方がないと考え、ボクは諭すような口調で彼女に問いかける。

「ライと演じるのが幸せだったからです」

 沢村は両手を胸の前で重ね合わせ、慈愛に満ちたまなざしで、ボクの眼を見つめ返す。強い意志が込められた、刃のように鋭い視線。それは、彼女の覚悟の現れだった。

「そのせいで、私にはライと舞台に立つという未練が出来てしまいました。そんな未練を残して長い間生きるくらいなら、未練なく死にたい。どうせ死ぬことは確定しているんです。それならいっそ、産まれて良かったって思って死にたいんです」

「あれが、偽りの時間だったとしてもか?」

「ライからしたら偽りの時間だったかもしれません。でも私にとって人生で一番幸せな時間でした。それが全てです」

 彼女は本当に、ひどい人だ。

「そこまで真っすぐな目で言われたら、拒絶することは出来ないじゃないか」

 ボクは首を左右に振り、困ったとためいきを零す。そして考えるは、彼女でも演じられる物語。

「でも今までの内容じゃ百パーセント無理だ。立てないではお話にならないし、そもそも口もうまく回らないんだろ。その活舌じゃ、遠くの人間まで声が届かない」

 ボクの推測は当たっていたらしく、彼女はウッと言葉を詰まらせる。どれだけ無理をしたのだと、再び大きなため息を零しながら立ち上がった。

「でもセリフは覚えられるし、マイクさえあれば声も届く。余命少女という役ならできるだろう。まあ、役とは言えないかもしれないけど」

「そ、それでもいいです! やりたいです! お願いします!」

 彼女は立ち上がる勢いで、せっかくのチャンスを逃すまいとボクの意見に食いつく。彼女の瞳には、出会ったときといつもの輝きが復活していた。相変わらず、ボクには眩しすぎて目がくらみそうだ。

「でも一つだけ問題がある。人が足りない。この劇をするなら、少なくてもあと一人は欲しい」

 彼女の口からは間抜けな声が零れる。

 普段ならなんの問題もなくこの問題を解決することができるだろう。しかし、今はほとんどの人がボクを憎んでいる状態。このたった一人すら、集めるのは至難の業だった。

「こんな時、学が居てくれればな」

 ボクの口から無意識に零れ落ちる。どうやらボクは学をかなり頼りにしていたらしい。あきれながらもボクに賛同し、助けてくれる。ボクが悪いときは、一切のそんたくなしに叱ってくれる。厳しく真面目で優しい彼は、いつの間にかボクの中でかけがえのない存在に昇格していたようだった。

 失ってから知る大切さ。というのは、どうやら本当のことらしい。そう痛感した瞬間だった。