姿見鏡の前に座り、沢村はウィッグを整え始める。緊張故か病気故か、呼吸は少し乱れており、指先も震えていた。鏡越しに見える青白い肌を心配し、ボクは彼女の肩に手を置いて声を掛けた。

「緊張してるのか?」

「うん、まあね」

 彼女は顔を此方に向け、困ったような顔を見せる。彼女の瞳には嘘の色は見えない。本当に緊張しているだけのようだった。

「ま、最初はそうだろうな。でも大丈夫だよ。何かあったらボクらが支えるし、それに観客も殆どいないからな」

 ボクはそういうと、視線を扉の向こうへ向けた。倉庫の向こうには綺麗に整列された朝日に照らされて、光を反射している。開演十分前にも関わらず、ボクらの劇は空席だらけだった。

 ボクの正体を知った今、殆どの人間がボクの劇に興味を持たなくなった。そんな現実をダイレクトに伝えてくる客席に、心臓がズキズキと痛み始める。人望は大切だと改めて理解した瞬間でもあった。

「ま、噂は足を引っ張るよな」

 衣装を身に纏った学が、体育館から姿を現す。上まで結ばれたネクタイに、皺ひとつない紺色のスーツ、ガタイの良い彼はそこら辺の会社員と見間違えるほど凛々しい雰囲気を醸し出していた。きっちりと整えられた髪を指先で弄りながら、彼は席の方へ視界を向ける。一年の頃から満席を見続けた彼にも、空きだらけの現状は珍しく感じるのだろう。

「まあ、態々日曜日に劇を見る為に登校するのも面倒くさいしな」

 今回は緊急ということで宣伝も足りておらず、日程も日曜日という参加しにくい曜日となってしまった。それもまた、此処までの空席を作り上げた原因となってしまっているのだろう。

 初めて出会ったときと同じ病衣を身に纏った沢村は、声を出して気合を入れると、鏡の前から移動する。電子車椅子の移動音を鳴らしながら扉の外へ出た沢村は、ボクらの方を向き、こっちへ来いと手招きをする。

「数人でも来てくれた人は居ます!」

 鏡で変な所が無いかを確認し、彼女に呼ばれるまま倉庫を後にする。そこにはちらほらと、ボクらの劇を心待ちにする観客が腰を下ろしていた。中には配布したパンフレットを片手に、楽しみだねと語り合う人まで存在していた。

「うん。そうだね。彼らの為にも、最高の劇を見せないと」

 劇を態々見に来てくれた先生や生徒に、つまらない劇を見せるわけにはいかない。

 ボクは学ランの袖を曲げ、深く深呼吸をする。左右を見れば、二人も準備万端といった様子だった。

 ボクたちはステージへの階段を上り、舞台裏で各自の持ち場へと向かい始めた。

「さあ演じよう、ボクらの本当の愛が観客に伝わるように」

 二人の頼りがいのある返事が届く。その瞬間、舞台開始を知らせるチャイムが学校中に鳴り響き、赤い幕は徐々にボクらの姿を現した。拍手がボクらに届けられる。それは全国大会ほどの大きさではないけれど、ボクの心に温もりを与えるには十分の量だった。

 なら、ボクはその礼として、倍の愛を与えるだけだ。

『絶対に恋が成立すると言われる桜の木の下で、今日も女生徒は愛する人に告白する』

 桜の木の下で、沢村は車椅子に乗ったまま、舌足らずな声でセリフを放つ。

「私、ずっと貴方が好きでした。私と、一か月だけ恋人になってください」

『これは余命が一か月しかない女子高生が、死ぬまでにやりたいことをやり尽くし成長する物語。そして』

 その瞬間、彼女は胸を手で押さえ、激しく何度も咳き込み始める。彼女の手の平には本物の血が広がり、ぜえぜえと肩で呼吸を繰り返した。台本にはないイレギュラーな事態。ボクはポケットからハンカチを取り出し、彼女の口を拭い始める。

『血を吐くほどしんどいのに、彼女はボクに告白をしてきたのか。なんて可哀そうな子。この子には優しくしてあげないとね。両親に叱られない為に』

 エコーが入るマイクに口を近づけ、モノローグのようにアドリブを語り始める。ボクは血に濡れた手を両手で包み、彼女に優しく微笑んだ。

「ボクでよければ、喜んで」

『両親の操り人形である学園のプリンスが、自分の夢を持つまでの物語』