上着を返さなくては。
そう思うものの、なんとなく声をかけづらい。
眼前には東堂の背中がある。
日も落ちて、あちこちから夕飯のにおいが漂う帰途。
道行く人がすれ違いざまに東堂を見る。
血がにじむ額に、ぼろぼろの制服。注目を集めるのは当然だった。
状況としては、いじめられた一季を助けようとして乱闘した後だろうか。それはあながち間違っていない。
周囲の目もあってますます声がかけづらい。どうしようか改めて一季が考え始めた時だった。
「あ。そうだ」
突然、東堂が思いついたように振り返った。
「ほら」
視線が合うと同時に何かを放り投げてきた。
慌てて受け取る。
握っていた左手を開くと天然石のついたネックレスだった。
「これは?」
「【お守り】だ。ちょっとした魔力拡散の効果がある。身につけているかぎり魔術師に目をつけられることはない」
持ってろと告げられ、再び前を向く。
一季の胸に不安がよぎった。
東堂が行ってしまうと思った。
このまま見送ったら、二度と会えなくなるのではないか。そんな直感が頭に浮かぶ。
不安とも焦燥ともつかない。衝動に近い。明確に意識できたわけではなかった。
『俺は決めたんだ。自分の生まれを知った時、この力を手にした時、自分に誓った。何もかも承知で選んだ』
どんな気持ちで、あんな言葉を口にしたのだろう。
『おまえたち【黄道十二宮】の天使全員を見つけ出し、【永久機関】を必ずこの手で破壊すると』
ずっと、これからもそれだけのために戦うことを選ぶのだとしたら。
やるせない。
何かないか。
東堂を引き留めるもの。戦いだけではなくて。
それらを忘れさせるもの。たった一瞬でも。
ふと頭によぎったものは。
「腹、減ったらうちに来い!」
思った以上の声を出してしまい、一季の方が驚いた。
いきなり何を言い出すのか。
この状況では空気の読めない、まぬけな言葉にも思える。
東堂も、わずかに目を瞠って真意をはかりかねている。
思うよりも早く口をついて出た。
「その……飯くらいなら食わせてやれるから」
ついでに持っていた制服をぐいと押しつける。
沈黙に耐えきれない。
自分は何を言っているのか。
こいつの図々しさには呆れていたはずなのに。
そっちの東堂の方が彼らしい気がしたのだ。
「そうだな」
長い沈黙のあとの短い答え。
拒絶ではない。
あっさりした同意。
顔をあげると東堂が制服を肩に持つ。
「腹が減ったら遊びに行こうかな」
そう告げて嬉しそうに笑う。
年相応の、無邪気に笑う少年の顔だった。
散々な夜明け。
眠れなくても、孤独でも。
どんなにひどい夜で朝は必ずくる。
「起立、礼!」
委員長の声でクラスの生徒が重たそうに腰をあげる。
教室に入ってきた中年男性の担任は、特に変わったこともなさそうに出欠を取り始めた。
「東堂はまた欠席か」
誰も彼の空席を疑問に思わない。
担任の口ぶりから常習犯なのは明白だった。それでも関心は薄い。東堂の目論見通りだった。
「みんなも知っていると思うが、北校舎の件だ。警察の捜査が終わるまで近づかないように」
あれから。
賢木と東堂の激闘の跡は、魔術で修復。なんてことはなく瓦礫と化した元・教室そのままだった。東堂の仲間は最低限の証拠隠滅しかしないらしい。
翌朝、教師が警察に通報。
現場検証のため立入りは厳禁。警察は悪質な学校荒らしと見て捜査をするようだ。
遅くまで残っていたと認識されたらしい一季も事情聴取されてものの、形式的なやりとりで終わってしまった。
一季と両隣のクラスは、教室を移動して授業を再開。
何故、休校にしないのか。そんな生徒の不満が空気に出ている。
それを意に介さない担任。生徒の無言の圧力もさらりと受け流している。
単に教育とか教師といった職務に無関心なタイプかと思っていたが、何があっても動じない人種なのかもしれない。
一季は苦笑する。
今まで、そんなことに関心など払わなかったのに。
きっかけはもちろん。
続けて担任が「それと」と事務的に話を続けた。
「賢木が行方不明だそうだ。何か知っている人がいたら先生に報告するように」
そのひと言には教室中がざわついた。
担任は、いつものようにさっさと教室を出ていってしまう。
「生徒会長が……行方不明?」
「家出かな」
「やっぱりストレス抱え込んでたのかな」
「やーん。ショック~」
事実を知らないということは、とても楽で残酷だ。
賢木の何を知っていて、何を知らないのか。
そんなことはどうでもよくて。
憶測と薄っぺらな興味で、根も葉もない噂話に埋もれていく。
一季は複雑な気持ちで、それらを眺める。
他のことが気になっていた。
病室で眠り続けていた女子高生たちの意識が回復したらしい。
新聞やテレビの情報では昨夜というから、タイミング的には賢木が意識を失った頃と重なっている。
意識を回復した少女たちは、記憶が曖昧で事件性を疑われる証言は出ていないようだ。
つまりは犯人など出てくるはずもない。
一季は生徒会長の今後について知ることはできない。
きっと彼の過去も、知る機会はないだろう。
賢木のしたことはいまだに理解できない。
生命を狙われかけたのに、怒りを表すこともできない。
それは自分がお人好しなんかではなく、事情を理解できていないからだと思う。
実感できない。それが一番しっくりくる。
悪い夢を見ていたような。
守られていた。
振り返らない背中を思い出す。
実感がないのは、たぶん東堂のおかげなのだろう。
彼が常に前に立って、一季を守っていてくれたから最低限の恐怖だけですんだのかもしれない。
今度は東堂のことが気になった。
あいつはこれからも人知れず戦い続けるのだろうか。
たった三日の出来事。
他人が見たら、わけもわからず振り回された滑稽な話かもしれない。
でも、失いたくないかけがえのないものは確かにあって。
当たり前だと思っていたこと。
彼にとっては失われた日常なのかもしれない。
そう思ったら、今までの自分は惰性で生きるような気がした。
何を成すかはまだ決めていない。
ただ漠然とした『何か』に流されるのはやめようと思う。
最初の一歩は決めている。
東堂に会えたら。
ふっと自然に息がもれた。
(腹いっぱい食わせてやるかな)
いつ来ても満腹のご飯がたべられるように。
メニューを考えなければ。
一季は、ひとり胸中でごちた。
そう思うものの、なんとなく声をかけづらい。
眼前には東堂の背中がある。
日も落ちて、あちこちから夕飯のにおいが漂う帰途。
道行く人がすれ違いざまに東堂を見る。
血がにじむ額に、ぼろぼろの制服。注目を集めるのは当然だった。
状況としては、いじめられた一季を助けようとして乱闘した後だろうか。それはあながち間違っていない。
周囲の目もあってますます声がかけづらい。どうしようか改めて一季が考え始めた時だった。
「あ。そうだ」
突然、東堂が思いついたように振り返った。
「ほら」
視線が合うと同時に何かを放り投げてきた。
慌てて受け取る。
握っていた左手を開くと天然石のついたネックレスだった。
「これは?」
「【お守り】だ。ちょっとした魔力拡散の効果がある。身につけているかぎり魔術師に目をつけられることはない」
持ってろと告げられ、再び前を向く。
一季の胸に不安がよぎった。
東堂が行ってしまうと思った。
このまま見送ったら、二度と会えなくなるのではないか。そんな直感が頭に浮かぶ。
不安とも焦燥ともつかない。衝動に近い。明確に意識できたわけではなかった。
『俺は決めたんだ。自分の生まれを知った時、この力を手にした時、自分に誓った。何もかも承知で選んだ』
どんな気持ちで、あんな言葉を口にしたのだろう。
『おまえたち【黄道十二宮】の天使全員を見つけ出し、【永久機関】を必ずこの手で破壊すると』
ずっと、これからもそれだけのために戦うことを選ぶのだとしたら。
やるせない。
何かないか。
東堂を引き留めるもの。戦いだけではなくて。
それらを忘れさせるもの。たった一瞬でも。
ふと頭によぎったものは。
「腹、減ったらうちに来い!」
思った以上の声を出してしまい、一季の方が驚いた。
いきなり何を言い出すのか。
この状況では空気の読めない、まぬけな言葉にも思える。
東堂も、わずかに目を瞠って真意をはかりかねている。
思うよりも早く口をついて出た。
「その……飯くらいなら食わせてやれるから」
ついでに持っていた制服をぐいと押しつける。
沈黙に耐えきれない。
自分は何を言っているのか。
こいつの図々しさには呆れていたはずなのに。
そっちの東堂の方が彼らしい気がしたのだ。
「そうだな」
長い沈黙のあとの短い答え。
拒絶ではない。
あっさりした同意。
顔をあげると東堂が制服を肩に持つ。
「腹が減ったら遊びに行こうかな」
そう告げて嬉しそうに笑う。
年相応の、無邪気に笑う少年の顔だった。
散々な夜明け。
眠れなくても、孤独でも。
どんなにひどい夜で朝は必ずくる。
「起立、礼!」
委員長の声でクラスの生徒が重たそうに腰をあげる。
教室に入ってきた中年男性の担任は、特に変わったこともなさそうに出欠を取り始めた。
「東堂はまた欠席か」
誰も彼の空席を疑問に思わない。
担任の口ぶりから常習犯なのは明白だった。それでも関心は薄い。東堂の目論見通りだった。
「みんなも知っていると思うが、北校舎の件だ。警察の捜査が終わるまで近づかないように」
あれから。
賢木と東堂の激闘の跡は、魔術で修復。なんてことはなく瓦礫と化した元・教室そのままだった。東堂の仲間は最低限の証拠隠滅しかしないらしい。
翌朝、教師が警察に通報。
現場検証のため立入りは厳禁。警察は悪質な学校荒らしと見て捜査をするようだ。
遅くまで残っていたと認識されたらしい一季も事情聴取されてものの、形式的なやりとりで終わってしまった。
一季と両隣のクラスは、教室を移動して授業を再開。
何故、休校にしないのか。そんな生徒の不満が空気に出ている。
それを意に介さない担任。生徒の無言の圧力もさらりと受け流している。
単に教育とか教師といった職務に無関心なタイプかと思っていたが、何があっても動じない人種なのかもしれない。
一季は苦笑する。
今まで、そんなことに関心など払わなかったのに。
きっかけはもちろん。
続けて担任が「それと」と事務的に話を続けた。
「賢木が行方不明だそうだ。何か知っている人がいたら先生に報告するように」
そのひと言には教室中がざわついた。
担任は、いつものようにさっさと教室を出ていってしまう。
「生徒会長が……行方不明?」
「家出かな」
「やっぱりストレス抱え込んでたのかな」
「やーん。ショック~」
事実を知らないということは、とても楽で残酷だ。
賢木の何を知っていて、何を知らないのか。
そんなことはどうでもよくて。
憶測と薄っぺらな興味で、根も葉もない噂話に埋もれていく。
一季は複雑な気持ちで、それらを眺める。
他のことが気になっていた。
病室で眠り続けていた女子高生たちの意識が回復したらしい。
新聞やテレビの情報では昨夜というから、タイミング的には賢木が意識を失った頃と重なっている。
意識を回復した少女たちは、記憶が曖昧で事件性を疑われる証言は出ていないようだ。
つまりは犯人など出てくるはずもない。
一季は生徒会長の今後について知ることはできない。
きっと彼の過去も、知る機会はないだろう。
賢木のしたことはいまだに理解できない。
生命を狙われかけたのに、怒りを表すこともできない。
それは自分がお人好しなんかではなく、事情を理解できていないからだと思う。
実感できない。それが一番しっくりくる。
悪い夢を見ていたような。
守られていた。
振り返らない背中を思い出す。
実感がないのは、たぶん東堂のおかげなのだろう。
彼が常に前に立って、一季を守っていてくれたから最低限の恐怖だけですんだのかもしれない。
今度は東堂のことが気になった。
あいつはこれからも人知れず戦い続けるのだろうか。
たった三日の出来事。
他人が見たら、わけもわからず振り回された滑稽な話かもしれない。
でも、失いたくないかけがえのないものは確かにあって。
当たり前だと思っていたこと。
彼にとっては失われた日常なのかもしれない。
そう思ったら、今までの自分は惰性で生きるような気がした。
何を成すかはまだ決めていない。
ただ漠然とした『何か』に流されるのはやめようと思う。
最初の一歩は決めている。
東堂に会えたら。
ふっと自然に息がもれた。
(腹いっぱい食わせてやるかな)
いつ来ても満腹のご飯がたべられるように。
メニューを考えなければ。
一季は、ひとり胸中でごちた。