日が暮れかけた放課後。
東堂の言う通り、事件も異変も起こらなかった。
二学年の教室が並ぶ北校舎。
一季は何をするわけでもなく机に座っていた。
どうでもいいことだが、扉に一番近い後ろの席にいるよう指示を受ける。
指示した当人は前の席に座って、しきりにスマートフォンを操作していた。窓を背にして優雅に長い足を組んでいる。
室内には他に人はいない。
手持ち無沙汰な一季は身を乗り出す。
「何してるんだ?」
「昨日の報告」
「報告って……誰に?」
「後片付け役だ。俺ひとりじゃ手に余る」
それっぽくないなと思った。
魔術師といったら獣の使い魔を連絡に使うものではなかろうか。
「あのな。眷属を使えば魔力を使う。魔力を使えば相手に特定される。わざわざ目立つことしてどうすんだよ」
考えていたことが顔に出ていたらしい。
漫画や小説とは違ってわりとシビアな展開だ。蛇の道は蛇といったところか。力を使えば、同じ力を使う相手には筒抜けになるのか。確かにデメリットしかない。
慌てて話を変える。
「それじゃ……あんたには仲間がいるってことか?」
「そういうことになるか。どいつもこいつも個人主義で協力・連帯なんて言葉は不釣合いな連中ばかりだが」
東堂の返答は否定より肯定に近い。
ただし共同や連携なんて言葉は似合わない様子だった。
なんとなく意味を込めて相手を見つめてしまう。
視線に気づいた東堂が眉をひそめる。
「なんだ、その目は」
彼を見ていれば自然と想像がつく。自分は例外だと言いたいようだが。
一季にしてみれば同じようなものだ。
眼前の相手に協調性があるとはとても思えなかった。自覚がないあたり、さらに疑いは深まる。
一方で納得もできた。
昨夜の件も仲間がいれば、東堂がいた痕跡を消して警察に通報することもできただろう。現に、そうして警察への通報と救急車の手配をしたらしい。手慣れているとしか思えない鮮やかな事後処理である。
その辺りは聞いても怖いことにしかならない気がしたので別の質問をしてみる。
「じゃあ、あんたはどんな犯罪者を追ってるんだ?」
「おまえも知ってるだろ」
操作の手をとめて東堂がスマートフォンを見せてくる。
画面にはニュース速報が流れていた。言われた通り、知っている事件だ。
「眠り姫事件……まさか、これが魔術師の仕業だっていうのか?」
「不可解な事件ほど、その可能性は高い」
昨日までなら一蹴していたと思われるセリフ。
今の一季には否定できない。
無根拠に信じていた現実は、中途半端な距離にある。
東堂を信じているわけでもない。ただ彼の説明には否定できない『何か』がある。
「魔力を抜かれすぎると睡眠で補おうとする」
端的に吐かれた言葉に、反応が遅れた。
意識を失った少女たちには眠っているとしか思えない状態だと聞く。
東堂の証言はそれを裏付けるような内容だ。
もっと別の仮説があるはずなのに、一季は何も言えなかった。今の状況では、彼の言葉がもっとも近い。
日常と非日常の境目。
自分の立ち位置が曖昧になっていく。
危うく彼の言葉を受け入れそうになる。
いつの間にか口の中は乾いていた。
「誰が何のために?」
「それを探ってる最中なんだよ。目的はおおかた研究か実験だろう」
あっさりと返される。
当事者ではないからだとは思う。
けれども全体像が掴めないことは不安だった。
いや、それ以上に今の状況が不気味に感じる。
得体の知れない恐怖というものは、思考や感覚が麻痺してしまうものなのか。
一季はかろうじて浮かんだ疑問を口に出した。
「何の研究なんだ?」
「さぁ。それは俺の知ったことじゃないな」
東堂は窓枠に背を預けて、天井を見上げる。
同時に「ただし」と告げてきた。
「どんな研究にせよ、大勢の魔力を大量に集めるのは見過ごせない」
その言葉は、はっきりと聞き取れた。
彼の言う通りなら、少女たちの健康を脅かす行為だ。不安に思う家族もいる。
それらを無視してでも成し遂げたい研究や実験とは何だろう。
どんなに崇高な目的だとしても、一季にはきれいごとや詭弁としか思えない。
内心で安堵もする。
東堂は、むやみに他人を傷つけるタイプではないと判明した。それだけでも大きな安心材料である。他人の犠牲をやむなしと考える人間の側にいたら精神的に危ない。
けれども、今度は別の考えが頭に浮かぶ。
「……犯人を見つけたらどうするんだ」
ふと湧いた疑念。
東堂が横目で見つめてくる。
真意をはかりかねている。そんな表情だった。
まっすぐに見つめてくる視線に、多少気後れを感じる。
「その、殺すのか?」
声が少し上擦った。
犯人が本当に少女たちの魔力を集めているのだとしたら。
東堂は自らの手を汚すこともいとわないとしたら。
急に落ち着かなくなった。
心臓の動悸を感じ、背筋に寒気が走る。
おそるおそる相手の反応を窺うと、東堂は強気に笑うだけだ。
「必要ならな」
返ってきた言葉には、やっぱり気負いがなくて。
けれど、彼の場合はそっちの方が真実味を増している。
すでに他人の生命を背負っている者の反応に思えてきた。
教室内が一瞬だけ暗くなる。
数秒後、蛍光灯が点滅して消えた。薄暗い闇が降りてくる。
「東堂」
「静かに」
名を呼ばれて東堂は椅子から立ちあがった。
「おいでなすったようだな」
軽い口調で眼鏡をはずす。流れるような動きでポケットにしまう。
強い光を灯す瞳は、横顔からでわかった。
「どうするん……ぐぇッ!」
ひそめた声が遮られる。
突然、首が圧迫された。強く引かれたあとの浮遊感。
襟首を捕まえられ、引きずられていると知った時には乱暴に扉を開ける音がした。
ガンッと強い衝撃とともに尻餅をつく。
今度は放り投げられた。文句を言おうと顔を上げる。
ひゅっと声が詰まった。
視線の先、目の前に立つ東堂よりも向こう。
薄暗い廊下には一匹の豹がいた。その背後は黒い影が炎のように揺らめいている。
豹は、そこから現れたのだろうか。別の空間に繋がっている扉のような。
「昨日と今日で、挟み撃ちとは芸がない」
軽く笑う東堂のセリフで背後を見る。
反対側の廊下も黒い影を背後に狼が立っていた。
肌が粟立つ。
昨夜の光景が頭をかすめた。寒気とともに心臓が縮むような息苦しさを感じる。
豹がわずかに首を下げた。
〈それはどうかしら?〉
〈我らが策もなしに再び現れたと思ったか〉
再び頭の中で声がする。
昨夜、耳にした男女の声音だ。
獣が話しているとしか思えない現状でも、東堂の顔色は変わらない。
むしろ、瞳の輝きが強くなった気さえする。
「そいつは面白そうだな」
自信にあふれたセリフと一緒に靴底を擦るようにして床を蹴る。
わずかに姿勢を低くして続ける。
「来いよ。暇つぶしに遊んでやる」
〈減らず口を!〉
〈その喉、噛みちぎってやる!〉
素早く跳躍して東堂に襲いかかる。
狼の気配を感じて少し後ろに下がった。反射的に壁に背を向ける。
東堂は拳を強く握って、距離を測っている。一季が焦って苛立ちを感じるまで、長く。
豹の牙が届く直前、腕を払った。
〈!〉
廊下一帯が氷漬けになる。
天井と床、虹色の氷柱が無数の牙のようにそそり立つ。
周囲には雪のように七色の粒子が舞い落ちる。
「最初からおまえらと腕比べするつもりはない」
幻想的な光景とは裏腹に東堂の声は、冷たく響いた。
一季が周囲を見渡す。
五つの教室を巻き込んだ氷は、豹と狼を巻き込んでいた。
胴体や足が氷漬けにされて動けない。
もがいて咆哮をあげる。
東堂はその氷柱に降り立つ。
いつでも豹の首を落せる位置だった。
整った顔立ちは不敵に片笑む。
「王手だ」
東堂の言う通り、事件も異変も起こらなかった。
二学年の教室が並ぶ北校舎。
一季は何をするわけでもなく机に座っていた。
どうでもいいことだが、扉に一番近い後ろの席にいるよう指示を受ける。
指示した当人は前の席に座って、しきりにスマートフォンを操作していた。窓を背にして優雅に長い足を組んでいる。
室内には他に人はいない。
手持ち無沙汰な一季は身を乗り出す。
「何してるんだ?」
「昨日の報告」
「報告って……誰に?」
「後片付け役だ。俺ひとりじゃ手に余る」
それっぽくないなと思った。
魔術師といったら獣の使い魔を連絡に使うものではなかろうか。
「あのな。眷属を使えば魔力を使う。魔力を使えば相手に特定される。わざわざ目立つことしてどうすんだよ」
考えていたことが顔に出ていたらしい。
漫画や小説とは違ってわりとシビアな展開だ。蛇の道は蛇といったところか。力を使えば、同じ力を使う相手には筒抜けになるのか。確かにデメリットしかない。
慌てて話を変える。
「それじゃ……あんたには仲間がいるってことか?」
「そういうことになるか。どいつもこいつも個人主義で協力・連帯なんて言葉は不釣合いな連中ばかりだが」
東堂の返答は否定より肯定に近い。
ただし共同や連携なんて言葉は似合わない様子だった。
なんとなく意味を込めて相手を見つめてしまう。
視線に気づいた東堂が眉をひそめる。
「なんだ、その目は」
彼を見ていれば自然と想像がつく。自分は例外だと言いたいようだが。
一季にしてみれば同じようなものだ。
眼前の相手に協調性があるとはとても思えなかった。自覚がないあたり、さらに疑いは深まる。
一方で納得もできた。
昨夜の件も仲間がいれば、東堂がいた痕跡を消して警察に通報することもできただろう。現に、そうして警察への通報と救急車の手配をしたらしい。手慣れているとしか思えない鮮やかな事後処理である。
その辺りは聞いても怖いことにしかならない気がしたので別の質問をしてみる。
「じゃあ、あんたはどんな犯罪者を追ってるんだ?」
「おまえも知ってるだろ」
操作の手をとめて東堂がスマートフォンを見せてくる。
画面にはニュース速報が流れていた。言われた通り、知っている事件だ。
「眠り姫事件……まさか、これが魔術師の仕業だっていうのか?」
「不可解な事件ほど、その可能性は高い」
昨日までなら一蹴していたと思われるセリフ。
今の一季には否定できない。
無根拠に信じていた現実は、中途半端な距離にある。
東堂を信じているわけでもない。ただ彼の説明には否定できない『何か』がある。
「魔力を抜かれすぎると睡眠で補おうとする」
端的に吐かれた言葉に、反応が遅れた。
意識を失った少女たちには眠っているとしか思えない状態だと聞く。
東堂の証言はそれを裏付けるような内容だ。
もっと別の仮説があるはずなのに、一季は何も言えなかった。今の状況では、彼の言葉がもっとも近い。
日常と非日常の境目。
自分の立ち位置が曖昧になっていく。
危うく彼の言葉を受け入れそうになる。
いつの間にか口の中は乾いていた。
「誰が何のために?」
「それを探ってる最中なんだよ。目的はおおかた研究か実験だろう」
あっさりと返される。
当事者ではないからだとは思う。
けれども全体像が掴めないことは不安だった。
いや、それ以上に今の状況が不気味に感じる。
得体の知れない恐怖というものは、思考や感覚が麻痺してしまうものなのか。
一季はかろうじて浮かんだ疑問を口に出した。
「何の研究なんだ?」
「さぁ。それは俺の知ったことじゃないな」
東堂は窓枠に背を預けて、天井を見上げる。
同時に「ただし」と告げてきた。
「どんな研究にせよ、大勢の魔力を大量に集めるのは見過ごせない」
その言葉は、はっきりと聞き取れた。
彼の言う通りなら、少女たちの健康を脅かす行為だ。不安に思う家族もいる。
それらを無視してでも成し遂げたい研究や実験とは何だろう。
どんなに崇高な目的だとしても、一季にはきれいごとや詭弁としか思えない。
内心で安堵もする。
東堂は、むやみに他人を傷つけるタイプではないと判明した。それだけでも大きな安心材料である。他人の犠牲をやむなしと考える人間の側にいたら精神的に危ない。
けれども、今度は別の考えが頭に浮かぶ。
「……犯人を見つけたらどうするんだ」
ふと湧いた疑念。
東堂が横目で見つめてくる。
真意をはかりかねている。そんな表情だった。
まっすぐに見つめてくる視線に、多少気後れを感じる。
「その、殺すのか?」
声が少し上擦った。
犯人が本当に少女たちの魔力を集めているのだとしたら。
東堂は自らの手を汚すこともいとわないとしたら。
急に落ち着かなくなった。
心臓の動悸を感じ、背筋に寒気が走る。
おそるおそる相手の反応を窺うと、東堂は強気に笑うだけだ。
「必要ならな」
返ってきた言葉には、やっぱり気負いがなくて。
けれど、彼の場合はそっちの方が真実味を増している。
すでに他人の生命を背負っている者の反応に思えてきた。
教室内が一瞬だけ暗くなる。
数秒後、蛍光灯が点滅して消えた。薄暗い闇が降りてくる。
「東堂」
「静かに」
名を呼ばれて東堂は椅子から立ちあがった。
「おいでなすったようだな」
軽い口調で眼鏡をはずす。流れるような動きでポケットにしまう。
強い光を灯す瞳は、横顔からでわかった。
「どうするん……ぐぇッ!」
ひそめた声が遮られる。
突然、首が圧迫された。強く引かれたあとの浮遊感。
襟首を捕まえられ、引きずられていると知った時には乱暴に扉を開ける音がした。
ガンッと強い衝撃とともに尻餅をつく。
今度は放り投げられた。文句を言おうと顔を上げる。
ひゅっと声が詰まった。
視線の先、目の前に立つ東堂よりも向こう。
薄暗い廊下には一匹の豹がいた。その背後は黒い影が炎のように揺らめいている。
豹は、そこから現れたのだろうか。別の空間に繋がっている扉のような。
「昨日と今日で、挟み撃ちとは芸がない」
軽く笑う東堂のセリフで背後を見る。
反対側の廊下も黒い影を背後に狼が立っていた。
肌が粟立つ。
昨夜の光景が頭をかすめた。寒気とともに心臓が縮むような息苦しさを感じる。
豹がわずかに首を下げた。
〈それはどうかしら?〉
〈我らが策もなしに再び現れたと思ったか〉
再び頭の中で声がする。
昨夜、耳にした男女の声音だ。
獣が話しているとしか思えない現状でも、東堂の顔色は変わらない。
むしろ、瞳の輝きが強くなった気さえする。
「そいつは面白そうだな」
自信にあふれたセリフと一緒に靴底を擦るようにして床を蹴る。
わずかに姿勢を低くして続ける。
「来いよ。暇つぶしに遊んでやる」
〈減らず口を!〉
〈その喉、噛みちぎってやる!〉
素早く跳躍して東堂に襲いかかる。
狼の気配を感じて少し後ろに下がった。反射的に壁に背を向ける。
東堂は拳を強く握って、距離を測っている。一季が焦って苛立ちを感じるまで、長く。
豹の牙が届く直前、腕を払った。
〈!〉
廊下一帯が氷漬けになる。
天井と床、虹色の氷柱が無数の牙のようにそそり立つ。
周囲には雪のように七色の粒子が舞い落ちる。
「最初からおまえらと腕比べするつもりはない」
幻想的な光景とは裏腹に東堂の声は、冷たく響いた。
一季が周囲を見渡す。
五つの教室を巻き込んだ氷は、豹と狼を巻き込んでいた。
胴体や足が氷漬けにされて動けない。
もがいて咆哮をあげる。
東堂はその氷柱に降り立つ。
いつでも豹の首を落せる位置だった。
整った顔立ちは不敵に片笑む。
「王手だ」