人が集まり始めている体育館は熱気が溜まって蒸し暑い。
たくさんの人の話し声が重なり合って、ざわざわという大きな音になる。
「おっそいよー。ほれ、海幻の分」
香代ちゃんは出店で買ってきた焼きそばのパックを私の頭の上に乗せる。
「ごめんね」
「山野が時間ぎりぎりにくるなんて、さては、緊張してるな」
ライブ用の衣装に着替えてそわそわしている香代ちゃんの隣で、秋元くんはプロジェクターに繋げたパソコンを立ち上げていた。
機材の接続は私の役割だったので慌てて役を引き受ける。秋元くんは「任せた」と肩を叩いて私に譲る。
「それじゃ、海幻、よろしくね!」
「終わったら部室で打ち上げするから、山野も来いよ」
「あ、うん。すぐに行けるかわからないけど」
二人の後ろ姿を格好良いなと思いながら舞台裏に見送り、プロジェクターの隣に置いてあった椅子に座って待機する。
喧騒とし始めたこの場所では、すっかり薄くなった成瀬くんの姿を確認するのが難しかった。
「成瀬くん、いる?」
「おー。いるよ」
声を聞いて、私は少しだけ心を落ち着かせる。
「いよいよだな」
「うん。成瀬くん、ありがとう」
「なんだよ、急に」
自然と出て来た言葉に、私は少し恥ずかしくなる。
「いや、なんか今こうしてここにいられるのは、成瀬くんのおかげでもあるなと……」
「そんなに重く考えんなよ。もっと気楽に行こうぜ」
成瀬くんの方を向くと、彼は私の方にまっすぐと双眸を向けていた。
また少し恥ずかしくなって、視線をパソコンの画面に向けながら小さくもう一度ありがとうと言っておく。
会場の照明が徐々に暗くなると、放送部人が舞台の方から私に合図を送る。プロジェクターのスイッチを入れ、動画の再生ボタンを押す。
体育館の壁にかけられた時計は午後一時を差している。ぴったり定刻時間通りでほっとした。
上映が無事に終わると、体育館内に拍手と歓声が沸き起こった。
もちろんこれはこれから始まる本命のバンドへの期待も含まれていとは思うけど、その歓声の中には「すごかったね」という言葉も入っていた。
息つく暇もなくパソコンを片付け、今度は秋元くんに貸してもらったビデオカメラを構える。次は香代ちゃん達のライブをビデオにおさめないと。
大丈夫、上手くできる。
「最後まで聞いてくれてありがとうございましたー!」
アンコールまでしっかり応えた香代ちゃんは、深々と頭を下げる。
舞台の幕が降りきる直前、香代ちゃんは私の方に小さく手を振ってくれたから、私も振り返した。
館内の照明が明るくなったところで録画停止ボタンを押し、ようやく自分の緊張の糸も緩める。
誰にも聞こえないように大きく息を吐く。
こんなにも清々しい気持ちになるのは初めてかもしれない。
「終わったよ。成瀬く……」
振り向いたその先で、成瀬くんの気配を感じ取ることはできなかった。
ある程度の覚悟はしていたんだ。だからそんなに大きなショックを受けることはなかった。
それに、もしかすると私が見えなくなっただけで、目の前にいるのかもしれない。
だから私は、はっきりと周りに聞こえるくらい大きな声で言った。
「成瀬くん、ありがとう」
クラスの片付けも無事終わらせ、軽音楽部の部室のドアをノックする。
「失礼します」
「あ!海幻、もう始まってるよ!」
部室には、香代ちゃんと秋元くん、それに放送部の子達が既に集まっていた。
机の上には出店で売れ残ったであろうフライドポテトやチョコバナナ、りんご飴、そして景品のお菓子などが所狭しと並んでいる。
そして、ちゃっかり生徒に混じってお菓子を食べている安達先生の姿もあった。
「え、ちょちょちょ……海幻、一旦退場しよう」
打ち上げモードのテンションにたじろいで入り口で立ち尽くしていると、香代ちゃんが私の顔を覆うように部屋から押し出す。
「海幻、あんたどうしたの?目元が真っ赤だし、腫れてるよ」
「え、うそ……」
「どうしたのよ」
香代ちゃんは心配そうに私の手を握ってくれる。
「ううん。なんでもない。大丈夫だよ」
もしかして思って、あの後すぐに第二校舎の階段の方に戻ってみたけれど、私の淡い期待はすぐに落胆へと変わってしまった。
それに、階段の片隅に置いておいたスケッチブックは、なぜか成瀬くんを描いていたページだけがなくなっていた。今まで成瀬くんがいた事自体が幻だったんじゃないか。
そう思ったら、涙が止まらなくなった。
「何かあったら言ってよね。私たち、友達じゃん」
私をぎゅっと抱きしめながら言ってくれたから、また堰き止めていた涙が流れてきそうになった。
「もう大丈夫。ありがとう」
あらためて私が席に座ったところで、秋元くんはわざわざ乾杯をして、放送部員のみんなに紹介をしてくれた。
秋元くんは「山野がいなかったらあのMVは完成しなかった。本当に凄い奴だよ」なんて大袈裟に紹介をしてくれたせいで、なぜか私は何人かの放送部員の子に尊敬の眼差しを向けられてしまった。
「ねえ。山野さんって、第二校舎の階段で絵を描いてたりする?」
放送部員の関本さんが、オレンジジュースを注ぎながら私に訪ねる。思い切り見られてたんだ。
「あ、いや、えっと、別に、そんなこと……」
「でもさ、頻繁に出入りしてなかった?」
うわあ、どうやって誤魔化そう。しかも目の前に安達先生がいるんですけど。
「なんだ、山野、屋上に興味があるのか」
「へ?いや、あの」
あたふたしていると、安達先生が予想外なことを口にする。
「行ってみるか?」
「学校の屋上ちょっと憧れてたんだー!海幻、行こうよ!」
私の代わりに香代ちゃんが喰い気味に返事をする。そんなノリで行って良いのだろうか。
「あそこな、今は立ち入り禁止だけど、定期的に俺達教師が持ち回りで綺麗にしてるんだ。献花台もあるしな。この前事故に遭った生徒のことも訊いてきたし。行きたかったら鍵を借りて来てやるぞ」
「お、お願いします」
もしかして成瀬くんはそこにいるのでは、という期待をしないと言えば嘘になる。でもそれ以上に、献花台に花を添えておきたいと思った。
「じゃあ今から鍵を借りてくるから、川瀬、山野を連れて行ってきなさい。ただし、あまり他言はするなよ。お前らも」
いつも成瀬くんと一緒にいたところに、香代ちゃんといるのはちょっと不思議な気分がする。
朝、ここで成瀬くんをスケッチしていたことは、やっぱり幻だったんじゃないかな。
「海幻、任せた!」
「うん。開けるね」
埃っぽいドアノブを捻り、動きの悪い扉を何度かうんっと力を入れて押す。
ふわりと風が扉から校内へと通り抜け、傾きかけた西陽の光が目に入る。
ぎゅっと瞑った目をゆっくりと開くと、すぐ目の前のフェンスの下に、小さな献花台が備えられていて、そこに一本の百合の花と、綺麗に折り畳まれた紙が添えられていた。
私は香代ちゃんに見つからないように周りを見渡してから、小さなため息をつく。
きっと彼はもうここにはいない。ようやくこの学校を卒業できたんだ。
献花台で両手を合わせていると、フェンス越しに下を眺める香代ちゃんが、しんみりと言った。
「こんなに高いところから落ちちゃったんだ……一体どんな子だったんだろう」
「……明るくて、困っている人を放っておけない優しい人」
そんな成瀬くんに影響を受けた人は、きっと私だけではなかったはず。
「え、海幻の知ってる人だったの?」
「ううん。そう思っただけ」
フェンスの向こうには、夕映えに包まれた私達の街が広がっている。
この美しい景色を背景に、私はあなたを描ききりたい。
だから私は、今もこれからも、精一杯生き抜いていく。