「おい!あぶな……」


声のする方に振り返る。そこには私の通う高校の制服を着ている男の子がいた。

どうしてだろう、なんて悠長に思う間も無く、タイヤのスキール音が耳を突き刺す。

咄嗟に音のする方に視線を向けると、真っ黒なワゴン車が私の方に突っ込んでくる。

人は突然危険な状況に遭遇すると景色がスローモーションのように見えるという話をどこかで聞いたことがあったけれど、どうやらそれは本当だった。けれど所詮は見えるというだけで、咄嗟に動けるかどうかは別問題だ。

胸が痛くなるほど心臓が高鳴り、鼓動は全身を息衝(いきづ)かせる。しかし真っ白になった私の頭の中は「逃げなければ」という思考に至らせるまでにはいかなかった。

代わりに出てきたのは「せめてこの子だけは助けなければ」という強い使命感だった。

抱き抱えた子猫を庇うように背中を丸め、恐怖から目を瞑る。

直後、全身に衝撃が走った。


……!


……え?


痛く……ない?

 
私、轢かれた……よね。


たしかに身体は衝撃を受けた。けれど、車のように硬いものに当たったというよりも、誰かに背中を押されたような、そんな感覚だった。
抱えていた子猫が小さくみゃーと鳴いていることにようやく気が付くと、私はゆっくりと目を開く。

子猫は私の腕から脱出しようと、苦しそうな表情で必死にもがいていた。


「いたた……ごめんね」


腕を解くと子猫は再び私にみゃーと文句を言ってから、腕からするりと抜け、仰向けになっているであろう私の胸の上で伸びをする。


「……大丈夫だった?ケガはない?」


なんて言ってみたけれど、当然この子には私の気遣いが届いていないらしく、せっせと身体を舐めながら乱れた毛並みを整える。こんなに小さいのに、なんて図太い性格なのだろう。とにかく。


「よかった……」


この子が無事で何よりだ。
そろそろ自分の置かれた状況を確認しなければと思い、ゆっくりと辺りを見渡してみると、沢山の小枝や葉が私を取り囲んでいた。

小枝が身体の至る所を突ついてちくちくしてきたから慌てて身体を捩(よじ)らせると、パキパキと枝が折れる音する。

いててと捩らせた視線の先には、鮮やかなピンクや紫の花弁が見えて、ようやく自分が道路脇にあるツツジの街路樹に埋もれていることを確信する。

轢かれた拍子に飛ばされたのだろうか。

でも、道路脇にある街路樹に私がいるのはちょっと不自然だ。

おまけに身体はどこも痛くないし、問題なく動く。

ケガひとつしていないということは、ひょっとして私の身に奇跡が起こったのだろうか、なんて単純な思考が頭をよぎったけれど、すぐに私なんかにそんなものが起こるはずがないだろうと、考えを改める。

そういえば、轢かれそうになったこの子を抱きかかえた瞬間、後ろから誰かの声が聞こえたような。

ひょっとして……
慌てて子猫を抱きかかえ直し、じたばたもがきながら枝を掻き分ける。

運動神経が悪い私はやっとのことで脱出すると、目の前にはハザードランプを点滅して止まっているワゴン車と、頭を押さえて座り込んでいる男の子の姿があった。

全身が砂まみれで、カッターシャツやスラックスの肘や膝には穴傷が空いている。白いカッターシャツの所々に赤い染みが付き、頭からは血が滴り落ちていた。


「大丈夫か⁉︎今救急車を呼ぶからな」


作業着姿の男性がワゴン車から出て来ると、慌ててポケットからスマホを取り出した。明らかに動揺しているようで、ボタンをタップしようとする指先が震えていているのがはっきりと見える。


「いてて……別におじさんの車とぶつかったわけじゃないんで大丈夫っす。俺が勝手に転んだだけですから」


痛みを堪えているのか、男の子は顰めっ面を浮かべながら、けれど努めて平静を装うように、一生懸命笑みを作りながら救急車を呼ぶのを拒んでいた。


「だけど君、頭から血が……」

「こんくらい絆創膏貼っとけば治りますよ!」


それでも救急車を呼ぼうとする運転手さんを、男の子は何度も制止する。

たしかに車には傷一つ見当たらない。車は間一髪のところで停止したのだろう。


「そうだ、君のほかにもう一人いなかったか?」


私のことだ。


「あ、の……」


助けた子猫を抱えながら慌てて駆けつけたけれど、言葉が見つからなかった。私が急に飛び出したせいで、こんなことになってしまったんだ。


「大丈夫か?」


声が出ない私はこくりと頷くと、男の子はにこりと目を細め、まるで狼狽えている私を安心させるかのように「無事でよかった」と呟いた。


「君!大丈夫か⁉︎」

「はい……すみませんでした」


私は力無く今できる精一杯の謝罪を口にし、深々と頭を下げる。抱えていた子猫も私につられてみゃあと謝罪をする。

運転手さんは私達の無事を確認すると、少し落ち着いたのか、運転手さんは大きく深呼吸をし、今度は鋭い視線で私を睨みつけた。


「君ね、いくら猫を助けるのに必死だったとしても、いきなり道路に飛び出しちゃ駄目だろ。君達高校生だよね。もう十分状況判断できる歳でしょ。もう少しでーー」

「まあまあ、運転手さん。みんな大事に至らなかったから良しとしましょうよ」


男の子は立ち上がると、砂だらけになった自分の身体を何度も叩(はた)きながら運転手さんをなだめる。


「俺達は大丈夫なんで、ほんと気にしないでください。ほら、お前も突っ立てないで、行くぞ」


男の子は納得いかなそうな顔で何度も心配する運転手さんに「本当に大丈夫ですから!」と何度も言い聞かせると、私の手を強引に引っ張りながらすぐ側にある公園に向かった。
「あの、本当に大丈夫?」

「大丈夫だって。気にすんな!」


公園の片隅にある水飲み場に辿り着くと、男の子は蛇口を大きく捻る。

お椀の形にした手にぼたぼたと滴り落ちるくらい水を溜めると、彼はそれを一気に額へとぶつる。水飛沫が私達の方に飛ぼうがそんなことは気にしない。彼は三回くらいそれを繰り返して、ようやくぷはあと息つぎをする。

お風呂上がりのようにびちゃびちゃになった髪を後ろにたくし上げると、彼は肩にかけていた小さめのショルダーバックを漁りながら、いかにもやってしまったという痛恨の表情を作って私の方を見た。


「やべ。タオル忘れた」


車に轢かれそうになるよりも、タオルを忘れたことの方がよっぽど衝撃だったのだろうか。

なんて思ったらなんだかおかしくなってしまって、失礼だとは思いながらも、噴き出してしまった。不思議な雰囲気をしている人だなあ。


「俺、そんなに変な顔してる?」

「ううん。何でもない。ちょっと待って。私、まだ使ってないタオル持ってる」

「血が付くからいいよ」

「いいから、使って」


抱えている子猫をそうっと地面に着地させてから、鞄からタオルを取り出し、彼に手渡す。


「じゃ、ありがたく使わせてもらうよ」


言わなければいけない事があったことにようやく気が付くと、再び申し訳ない気持ちが私を支配する。


「あの、本当にごめんなさい……私のせいで」


無意識に「私のせいで」と付け加えてしまったのは余計だと思う。


「別に謝らなくて良いよ。山野はそいつを助けようとしたんだろ」


彼は私の申し訳なさを受け流すように言って、また豪快に頭を拭く。指を刺された子猫は、なぜか嬉しそうにみゃあと返事をする。

その後、彼はショルダーバックを漁って絆創膏を二つ取り出して、私に差し出す。


「ごめん。貼ってくれる?」

「え、え?」


前髪をたくし上げたままぐいと顔を近づけられ、少しだけ心臓が飛び跳ねる。


「そんなにビビんなよ。もう血、止まりかけてるだろ。ほら」

「あ、はい」


言われるがまま絆創膏を貼ろうとしたら、一枚は台紙から剥がす時に粘着面同士をくっつけてぐちゃぐちゃにしてしまった。

男の子はぶはっと吹き出しながら「意外と不器用なんだな」と言った。意外と、って。


「さんきゅー。助かった。あっちのブランコでちょっと休憩しようぜ」


そう言って、男の子はまた私の手を引きながら強引にブランコまで誘導する。

終始彼のペースに付き合わされているような気がしなくもないけれど、元々積極性の無い指示待ち人間である私にとっては、それが案外しっくりきた。


「そういや名前教えてなかったよな。俺、成瀬現人(なるせ あきと)っていうんだ。よろしく」

「え、と、こちらこそ。私は山野海幻(やまの みかん)です」

「海幻か。良い名前だな」
「本当にごめんね……」

「だから悪いことしてないのに謝んなって。海幻のおかげでこいつは助かったんだろ」


成瀬くんは私達に付いてきていた子猫を再び指差して言った。

子猫は呼ばれたわけではないのに勘違いしたのか、私達の方に駆け寄り、私の膝の上にぴょんと乗ってしまった。


「いざという時に咄嗟に身を投げ出して助けるなんてすげーよ。普通はできねーぞ」


心の中で「そんなことはないのだけれど」と否定をする。

ひょっとして、彼はきっと落ち込んでいる私を励まそうとして言ってくれているのかもしれない。そう思って、一応苦笑いも浮かべておく。


「成瀬くんは本当に大丈夫?」

「大丈夫だって。俺、幼稚園の時によく走り回って転けてたから、意外と受け身は得意なんだ」

「ふふっ。なにそれ」


彼は的外れな根拠を自信満々に言っていたから、また少し笑ってしまった。

どうやら成瀬くんは私と違って表裏が無く、思ったことをすぐに口に出してしまうタイプの人みたいだ。ちょっと羨ましいかも。


「海幻の笑った顔初めて見たかも」

「なっ……」


成瀬くんは途端に真剣な眼差しでじいっと私の顔を見つめる。突拍子も無いことをいきなり言われて、顔が熱くなる。

そ、それに、私達は初対面じゃなかったっけ。しかも、なんの躊躇もせずに名前で呼んでるし。

成瀬くんは距離感をつめるのが上手いのか、それとも強引なのか。


「あれ?怒ってる?」

「お……怒ってない……です」


オロオロしている私をよそに、成瀬くんは矢継ぎ早に質問を飛ばす。


「そういや海幻ってさ、この公園で何してたの?」

「えっと、写真を撮ってた、かな」

「一人で?」

「……はい」

「海幻ってさ、学校でもそうだけど、なんでそんなに一人でいるの?好きなの?」

「そ、それはーー」


成瀬くんは私が学校で一人で過ごしていることをちゃんと知っていた。

クラスでは出来るだけ目立たないようにしていたつもりなのに、一人でいることで逆に目立ってしまっていたのかもしれない。そう思うと、急に冷や汗が噴き出てきた。

でも、もう既に私のことがバレてしまっているんだったらしょうがない。白状するしかない。


「好きじゃないけど、一人の方が楽だし」

「ふーん」


わかっていたけど、この間がちょっときつい。やっぱり言わなきゃ良かった。


「なあ、もうちょっと詳しく聞かせてくれないか?」

「へ?」

「海幻の話が聞きたい」

「え、でも、つまんないよ」

「そう決めつけんなって。俺は海幻の話に興味があるんだ。つまんなくてもいいから聞かせてくれ」

「……わかった」