終礼後、僕はクラスメイトと一緒に急いで家庭科室に向かっていた。部活の準備をする担当になっていたのだ。
ちょうど先週バレンタインだったということで、今日はチョコレートを使ったお菓子を作ることになっていた。
他の部員が来る前に家庭科室に行き、準備室にあるホワイトボードに書かれている通りに材料を揃える。
冷蔵庫からバターと生クリーム、卵を取り出す。あと――
「新川くん、この上にあるココアパウダー取ってくれない?」
身長の低い柏井は、棚の上まで手が届かない。
「ああ、ごめん気づかなかった」
僕は手を伸ばしてココアパウダーの袋を取る。彼女は少し顔を赤らめて「ありがとう」と笑う。
「全然」
そのための二人担当制だ。
「いいよ、棚から取るのは僕がやるから。柏井はチョコレートの枚数確認して出してくれる?」
そう言うと、彼女は頷いて、冷蔵庫から板チョコを取り出して枚数を数え始める。僕は棚の奥にあるチョコチップとホットケーキミックス、オレンジコンフィの袋を取り出した。
全ての材料が揃ったので、準備室から出てテーブルに分けて置いていく。食器類はみんなで準備するため、僕たちのこれで終わりだ。
準備を終え、正面から見て右側の席に座る。
彼女は僕の正面に座ってきた。
他の部員が来るまでにはまだ時間がある。僕はこの時間が得意じゃなかった。クラスメイトと二人だけで同じ教室にいて、何を話せばいいのかわからない。
だから、柏井が話題を振ってくれるのはありがたかった。柏井も、大概コミュニケーション能力が高い。
「うちの部活バレンタインとかイベントの時豪華になるよね」
彼女の言葉通り、イベントごとに何かしら手の凝ったスイーツを作る。今日はグループで一つのチョコレートケーキと、各自クッキーかオランジェットのどちらか好きな方を作ることになっている。
「そうだよね」
「あ、でも新川くんバイトでもっとすごいケーキ作ってるかー、綾先輩と同じところなんだよね」
綾さんが謝っていたことを思い出す。
「いや、バイト先のケーキは店長が作ってるから」
「そうなんだ」
「そう」
「そっかぁ……。ね、今度バイト先行っていい?」
彼女が目を爛々と輝かせながら訊いてくる。
「……まあ、いいよ」
その訊き方をされて断ることはできない。
「ほんと!」
「今度ね」
「うん、ありがとう! よかったぁ」
しばらく話していると、他の部員がちらほらと現れる。挨拶を交わしていると、綾さんが入ってくるのが見えた。
彼女は笑顔を作り、みんなに話しかけながら近づいてきた。今日は僕たちのグループに入るらしい。今日はこの三人だ。
ふと柏井に目をやると、彼女が少しだけ困ったような表情をしていた。
「二人ともお疲れー、ありがとう」
綾さんは僕たちが準備の担当になっていたことを知っていたのか、彼女が笑いながらそう言ってくれる。
ちらりと前を見ると、柏井の表情はもう元に戻っている。
先輩相手だと気を使わなければならないからだろうか、と思ったけど、少人数で活動している家庭科部では先輩と一緒のグループになることの方が多い。気のせいだろうか。
僕は隣に座ってきた綾さんに聞きそびれていたことを訊く。
「バイト減らしたんですか?」
今まで幽霊部員だった理由は、バイト優先だから、と言っていたはずだ。
「うん、部活は出たいなと思って樺さんにシフト減らしてもらえるように頼んだの」
「お菓子作りしたいって言ってましたもんね」
「そうそう、料理は家でしてるからいいんだけど、お菓子はね。家で作れないこともないけど器具とか持ってないし、せっかく所属してるんだから参加したいなって」
急にそんなことになった理由の方が問題だけど、訊いても仕方ないとわかっていたから訊かなかった。
開始時間になると、みんな少し急ぎ気味でお菓子作りを始める。作るものがいつもより多いので早めにしないといけないのだ。
「芳樹くん、なにそれ上手!」
メレンゲを作っている時、綾さんが大きな声を上げる。自宅でホットケーキを作る時は、フワフワにするために卵白を泡立てる。隔週でやっているので慣れていた。
「私にもやらせて」
僕が彼女にボウルを渡し説明すると、彼女が動かしにくそうに手を回す。
結局、一人では疲れるのでみんなで順番に回してメレンゲを作ることになった。順番に泡立てている間、僕は他の作業を同時進行で進めていた。単純に時間がないのもあるけど、個人的に、部活が長引くことは避けたかった。
「おお、なんか手慣れてるね」
そんな僕の行動を見て、綾さんが感心した声を上げる。
「そんなことないですよ」
一瞬ヒヤリとする。自分のために急いでいると気づかれるのは良くくない。
「なんかいつもやってる感あるよ」
「さすがカフェ店員だね」
柏井が隣からそんなことを呟く。
「いや、関係ないよ、私できないし。芳樹くんがすごいだけ」
綾さんが柏井のその言葉に、手をひらひらさせながら笑う。僕はそんな二人の話を聞きながら、ひたすらチョコレートを溶かしていた。
無事にケーキの準備を終える。型に流してオーブンに入れれば、あとは各自で好きなものを作る時間だ。
「私オレンジの代わりに栗入れようかな」
準備していたら、彼女が僕だけに聞こえる声でそんなことを言う。
「合うんですか栗とチョコって」
「合うでしょ、甘栗なんだから」
「どういう理論ですか」
「何の話ですか?」
僕が笑っていたら、柏井が人の良さそうな顔で話に入ってくる。
「何で甘いものに酸味を混ぜるのかなって」
彼女は準備されたオレンジを指差す。
「けどクッキーじゃなくてそっち選んでるじゃないですか」
「美味しいから不思議なの」
その彼女の言葉に柏井も笑顔を作る。
「吉水先輩面白いね。ね、新川くん」
ただ面白いの一言で片付けていいのかわからなかったから、僕は微笑むだけにとどめておいた。
調理と試食を終えると、片付けの時間になる。
ここ何回かの部活でわかったことだけど、綾さんは率先して片付けをする。
多分、そういうところも、周りの部員の中にスッと溶け込める理由の一つなんだろう。僕たちも、彼女につられて掃除や使った器具の洗い物を始めた。
帰り、駐輪場に行くと、柏井も自転車を取るところだったらしい、自転車のまえでしゃがみこみ、鍵をいじっていた。
駐輪場に設置されたライトが壊れていて、辺りが暗い。だから僕はいつもするようにスマホのライトをつける。とりあえず、彼女がてこずってそうなので、彼女の手元に。
「ありがとう」
彼女のお礼に相槌で返し、今度は自分の自転車にライトを向け、鍵を外す。
荷物を自転車のカゴに詰め、ケーキが傾かないように調整していたら、彼女はまだ自転車に乗らずその場に立っていた。
「新川くん!」
突然、彼女が力を込めた声で僕の名前を呼ぶ。
「うん?」
彼女は持っていたクッキーを目の前に差し出してきた。
「……これ、あげる。バレンタイン、ちょっと遅めだけど」
僕はオランジェットを作っていたので、クッキーをもらえるのはありがたかった。そんなことを思っている僕はまだ、何もわかっていなかった。
「え、いいの?」
「うん」
「ありがとう」
「じゃ、また」
彼女はそう言うと、すぐに自転車にまたがって校門のほうに走り去って行った。
「悪いな、土曜日なのに来てもらって」
樺さんが、キッチンで慌ただしく作業しながら入ってきた僕を迎えてくれる。
普段土曜日は『Ete Prune』は開店していない。でも、今週は金曜日が臨時の休業日だったので、その代わりに土曜日に店を開けていた。
僕たちはその手伝いで出勤していた。
「なんか人多いですね」
扉から見えるテーブルは全て埋まっている。
これだけの人が来るのであれば毎週土曜日も開ければいのに、とはバイトの仕事が増えるので思わなかった。
「そうなんだよ――ちょっと今手離せないから注文行ってきてくれるか」
戦場のように慌ただしく調理をし続ける体格の良い店長が、すがるような目を僕に送ってくる。
「わかりました」
綾さんは一足早くバイトに入ったらしく、すでにレジでお客さんの対応に忙しそうだった。彼女に会釈をして、注文を待っている他のお客さんにオーダーを聞きにいく。
しばらく動きっぱなしの仕事が続き、それでも客足は途絶えなかった。
ちょうどオーダーをとり終えてキッチンに戻ると、鈍い衝撃音と、樺さんの低い呻き声が聞こえた。
彼は、右手をおさえている。
「樺さん!」
駆け寄る。
「大丈夫ですか」
足元にちょうど焦げ目をつけていたフレンチトーストが二枚落ちている。フライパンを落としかけて、鉄板の部分を掴んでしまったらしい。いつもだったらそんなミスありえないのに、この忙しさのせいだ。
「ああ、すまん。大丈夫だ」
彼はしかめっ面のまま僕を制する。
そして、火傷をしていない方の手で落としたトーストをつかみゴミ袋へと押し込む。
その荒々しさが火傷の痛みの表れのように感じられ、僕はとっさに調理を再開しようとした樺さんに言う。
「僕、作りますよ。樺さんは手、冷やしててください」
彼は僕の発言に、驚きと心配両方を混ぜたような顔をする。
「作れる……のか?」
一年程前、母が亡くなった姉と父のために初めてケーキを作ろうとして手に火傷をしたときのことを思い出していた。
あの時も、大変だった。あれ以来、僕は母が料理をする時いつも心配になる。
「大丈夫です。フレンチトーストなら」
家でも作っている。家族が二人になってから何回も。
彼は少しの間逡巡し、僕の目を見た。
「じゃあ任せていいか。作り方は説明する」
「お願いします」
コンロ前から離脱した彼は、蛇口をひねり手を冷やし始める。
僕たちのやりとりを聞いていたのだろう、レジ作業をしていた綾さんが顔を出し「オーダーはこっちでやるので気にしないでください」と気の利いた言葉をくれる。
いつもと少しだけやり方が違い、電子レンジは使わなかったけど、大方スムーズに作れた。樺さんに味を確認してもらって、そのまま僕が客のところまで運んでいく。
「お待たせして申し訳ございません」
頼んでくれたのは、佐々木さんだったらしい。僕が行くと彼女はわかりやすく表情を明るくしてくれる。
「そんなに待ってないわよ、ありがとうねえ。美味しそうだわ」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、少し不安があった。言われた通りに作ったし、ちゃんと味見もしてもらっていたはずなのに、目の前で食べられるとなるとやけに心配になった。切り分けたトーストを口に放り込み、表情を柔らかくしながら咀嚼している佐々木さんの姿を見て、安堵のため息が漏れる。
そして、僕は彼女に小声でお礼を言う。貰ったチケットのことだ。
言うと、彼女も口に手を当て、小声で答えてくれた。
「いいのよ」
「美味しかったです」
「よかったわぁ。ふうん……あなたが一緒に行ったのね」
佐々木さんは何か含みのある笑みを作り、僕の腰をたたいた。
「やるわね」
その笑顔にから逃げるように、僕は再度頭を下げて仕事に戻った。
「すまん、お疲れ」
樺さんが、営業後のキッチンで疲れ切って伸びている僕と綾さんにねぎらいの言葉ととケーキを渡してくれる。
あの後、十分ほど流水で冷やして、それ以降はまた樺さんに任せることになった。
「いや、ほんと助かった。ありがとうな二人とも。火傷なんて数年ぶりで驚いた。というか、芳樹料理できたのか。知らなかったわ」
「そうですよ、芳樹くん料理できる系男子ですよ」
「ああ、部活も家庭科部って言ってたなそういや。にしても相当慣れてるだろ」
「ですよね、手際いいですよね!」
僕は何も言えないまま、樺さんと綾さん二人の会話が展開されていく。
「いや……」
「面接の時部活は聞いたけど、ちゃんと料理できますって言ってくれていたらキッチンも任せたのになあ」
「無理ですよ流石に」
話を切りたくて、僕は気になっていたことを訊いてみる。
「それより、たまに土曜日でも営業ってするんですか?」
「ああ、それなぁ。言ってなかったんだけど、昨日命日だったんだ、俺の奥さんの」
店長が、テンションを変えることなく言う。
「あ、嘘。奥さんになる予定だった人の、だな。」
彼は少し笑みを漏らし「嘘ついたら怒られるんだよ」と舌を出す。滑稽に見えるその表情から、生前の彼女に尻に敷かれている様子が見えた気がした。
「で、この店二人の夢だったんだよ。結婚したら始めようって言って資金集めて。大方準備が整って結婚するって時だった。バイクの事故でよ。十五年前だ。十五年前の昨日、居眠り運転してたトラックと正面衝突して亡くなっちまった」
続けて「まあ、これに関してはもうどうしようもない」と淡々と言葉を付け加える。その言い方には、トラックの運転者に怒りが沸かないように自分を制御する、そんな意思が含まれているように見えた。
「この店の雰囲気、俺の趣味とは全然違うだろ。俺と違ってセンスいいからさ、あいつ。あいつの言った通りに内装とか揃えたんだけど、評判良くてな。みんなに褒めてもらって、今でもちゃんと成り立って生活できてる。あいつのおかげだ。だから、平日だとしても毎年あいつの命日だけは絶対に休むようにしてるんだ。ただ、その週だけ一日営業日少なくしたらあいつにめちゃくちゃ怒られそうで命日が平日の年は土曜日も営業してるんだ」
樺さんはずっと「あいつ」と言ったけど、優しさを全身から滲ませていた。
微笑ましそうに彼女の話をし続ける樺さんを見て、僕は、ずっと黙っていた。
多分樺さんのその考えが羨ましかったんだと思う。なんか良いなと、そう思っていた。
亡くなった人への一番の恩返しは、追悼し続けるんじゃなくて、こうやってその人の死を受けてなお幸せそうに、たまに思い出しながらも、以降の日々を楽しんで生きていくことなんだろうな、と。
それが一番理想の形なんだと感じ、そうなり切れてない自分の家の状況を自覚した。
「本当に好きだったんですね」
自然と声が出ると、樺さんは確信を持った表情で頷く。
「ああ。けど、ちょっと違うな」
その空気の質感は、ずっと大切にしたい人を思っているんだと僕に感じさせるには十分で。
「好きだったんじゃなくて、今もずっと好きなんだ――この店の名前あるだろ」
「ええっと。『Ete Prune』ですか?」
「ああ、そうだ。それ、あいつの名前なんだよ。夏梅。夏と梅。それぞれフランス語にしたんだ。あいつに反対されてたけどそれだは譲らなかった。俺の一番大切な店の名前だよ」
綾さんが控え室に戻った後、樺さんが僕を呼び止めた。
「な、芳樹、大丈夫か?」
樺さんの質問の意図はわからない。
大丈夫って、何が? 僕が人の死をを知ってしまうことが?
そんな訳ない。
「……」
樺さんは優しい目を僕に向ける。それは、バイトから帰る時に「気を付けろよ」と言ってくれる時の表情にそっくりで。
中学の時、担任の先生に職員室に呼び出された時のことを思い出す。もし、もっと早く樺さんに会えていたら。
改めて気付く。
やはり僕たちは、何か重大なことを話すときにはお互いに同じような立場に立って話そうとするのだろう。
その人の大きな秘密を知った後だと、ハードルが下がったような感覚になって、自分の奥にしまっていることをその人に話しやすくなる感覚。
こんなこと、あった気がする。ああ、そうか。
中学の時の委員長の気遣いを、今さらのように正しく理解する。
だとしても、もう終わったことだ。
すでに自分の中で割り切ってしまっているのだから掘り返して話すことではない。だからしっかりと首を振った後、そんな表情を向けてくれる店長ならば綾さんのことも、なにかしら心配しているのではないかと思い、質問を返した。
「綾さん、バイト減らしたんですよね?」
「……ああ、そうだな」
「部活に急に顔出し始めたんですけど、何かあった……っていうか、綾さん大丈夫ですかね?」
樺さんが僕のために使ってくれた「大丈夫?」を転用する。
訊くと、彼はなにかしら感じているものがあるのだろう、話すか話すまいか決めあぐねたような間を取ってから、優しそうに微笑んだ。
「最近仲良いだろ、できれば本人に直接聞いてやってくれ」
「わかりました」
「綾もお前も、今日は手伝ってもらってありがたいけど、週末くらいは思う存分遊んどけよ。怪我しない程度に」
「言っておきます」
結局綾さんと一緒に駅まで歩いている途中。僕は自転車を押していて、カゴに自分と彼女の鞄を入れていた。
「樺さん、幸せそうだったね」
彼女が店長の話の余韻が抜けきらない様子で呟く。
「ああいう風に、楽しそうに亡くなった人のこと話せるの良いよね」
さっき僕が思ったのと同じことを話す彼女。
「思いました」
今小さな声で「すごいなあ」と彼女が呟いた気がする。
「え?」
「いや、何も」
何もないならその返答はおかしい。彼女は何を思ったのだろう。けど、訊くより先に彼女に先を越される。
「ね、芳樹くんなんか本持ってたよね?」
「あ、はい」
もしかして前喫茶店で彼女を待っていたときに見られたんだろうか。
「あれってなんの本?」
彼女に見せていいのかどうかわからなかったけど、わからないのだから、仕方ない。どうせ、僕の思惑はわからないだろうし、素直に見せることにした。
カゴに入れた鞄を開け、彼女に本を渡す。
「ああ、やっぱり。これ、私も持ってるよ」
そう言われたときに思い出す。何か見覚えがあったのは、最近見ていたからだったのか。
前、バイト帰りに彼女の鞄の中から覗いていた本。多分同じ本だった。
彼女はしばらく表紙を眺めた後、不意に、
「何か悩みごとあったりしたらお姉さん聞くよ?」
なんておどけた調子で言う。
ああ、そうか。
彼女がこの本を持っている理由というのが、彼女自身が死を考えるほどの悩みを抱えているからで、なるほどだから、僕もそうであると綾さんは思ったわけだ。
それで心配して。先週末話したことを気にしているのかもしれない。まさか僕が死ぬかもしれないなんて心配してたりするんだろうか。いや、そんなわけない、僕じゃないんだから。
わかる。
彼女自身は死のうとしていても、そんなことは別としてただ単純に悩みがあるなら相談に乗ろうと思ってくれただけ。綾さんはそういう人だ。さすがにこれだけ関わっていればもうわかる。
それを理解した上で僕は、やっぱりそんな彼女のことを、知りたいと思った。
ちょうど先週バレンタインだったということで、今日はチョコレートを使ったお菓子を作ることになっていた。
他の部員が来る前に家庭科室に行き、準備室にあるホワイトボードに書かれている通りに材料を揃える。
冷蔵庫からバターと生クリーム、卵を取り出す。あと――
「新川くん、この上にあるココアパウダー取ってくれない?」
身長の低い柏井は、棚の上まで手が届かない。
「ああ、ごめん気づかなかった」
僕は手を伸ばしてココアパウダーの袋を取る。彼女は少し顔を赤らめて「ありがとう」と笑う。
「全然」
そのための二人担当制だ。
「いいよ、棚から取るのは僕がやるから。柏井はチョコレートの枚数確認して出してくれる?」
そう言うと、彼女は頷いて、冷蔵庫から板チョコを取り出して枚数を数え始める。僕は棚の奥にあるチョコチップとホットケーキミックス、オレンジコンフィの袋を取り出した。
全ての材料が揃ったので、準備室から出てテーブルに分けて置いていく。食器類はみんなで準備するため、僕たちのこれで終わりだ。
準備を終え、正面から見て右側の席に座る。
彼女は僕の正面に座ってきた。
他の部員が来るまでにはまだ時間がある。僕はこの時間が得意じゃなかった。クラスメイトと二人だけで同じ教室にいて、何を話せばいいのかわからない。
だから、柏井が話題を振ってくれるのはありがたかった。柏井も、大概コミュニケーション能力が高い。
「うちの部活バレンタインとかイベントの時豪華になるよね」
彼女の言葉通り、イベントごとに何かしら手の凝ったスイーツを作る。今日はグループで一つのチョコレートケーキと、各自クッキーかオランジェットのどちらか好きな方を作ることになっている。
「そうだよね」
「あ、でも新川くんバイトでもっとすごいケーキ作ってるかー、綾先輩と同じところなんだよね」
綾さんが謝っていたことを思い出す。
「いや、バイト先のケーキは店長が作ってるから」
「そうなんだ」
「そう」
「そっかぁ……。ね、今度バイト先行っていい?」
彼女が目を爛々と輝かせながら訊いてくる。
「……まあ、いいよ」
その訊き方をされて断ることはできない。
「ほんと!」
「今度ね」
「うん、ありがとう! よかったぁ」
しばらく話していると、他の部員がちらほらと現れる。挨拶を交わしていると、綾さんが入ってくるのが見えた。
彼女は笑顔を作り、みんなに話しかけながら近づいてきた。今日は僕たちのグループに入るらしい。今日はこの三人だ。
ふと柏井に目をやると、彼女が少しだけ困ったような表情をしていた。
「二人ともお疲れー、ありがとう」
綾さんは僕たちが準備の担当になっていたことを知っていたのか、彼女が笑いながらそう言ってくれる。
ちらりと前を見ると、柏井の表情はもう元に戻っている。
先輩相手だと気を使わなければならないからだろうか、と思ったけど、少人数で活動している家庭科部では先輩と一緒のグループになることの方が多い。気のせいだろうか。
僕は隣に座ってきた綾さんに聞きそびれていたことを訊く。
「バイト減らしたんですか?」
今まで幽霊部員だった理由は、バイト優先だから、と言っていたはずだ。
「うん、部活は出たいなと思って樺さんにシフト減らしてもらえるように頼んだの」
「お菓子作りしたいって言ってましたもんね」
「そうそう、料理は家でしてるからいいんだけど、お菓子はね。家で作れないこともないけど器具とか持ってないし、せっかく所属してるんだから参加したいなって」
急にそんなことになった理由の方が問題だけど、訊いても仕方ないとわかっていたから訊かなかった。
開始時間になると、みんな少し急ぎ気味でお菓子作りを始める。作るものがいつもより多いので早めにしないといけないのだ。
「芳樹くん、なにそれ上手!」
メレンゲを作っている時、綾さんが大きな声を上げる。自宅でホットケーキを作る時は、フワフワにするために卵白を泡立てる。隔週でやっているので慣れていた。
「私にもやらせて」
僕が彼女にボウルを渡し説明すると、彼女が動かしにくそうに手を回す。
結局、一人では疲れるのでみんなで順番に回してメレンゲを作ることになった。順番に泡立てている間、僕は他の作業を同時進行で進めていた。単純に時間がないのもあるけど、個人的に、部活が長引くことは避けたかった。
「おお、なんか手慣れてるね」
そんな僕の行動を見て、綾さんが感心した声を上げる。
「そんなことないですよ」
一瞬ヒヤリとする。自分のために急いでいると気づかれるのは良くくない。
「なんかいつもやってる感あるよ」
「さすがカフェ店員だね」
柏井が隣からそんなことを呟く。
「いや、関係ないよ、私できないし。芳樹くんがすごいだけ」
綾さんが柏井のその言葉に、手をひらひらさせながら笑う。僕はそんな二人の話を聞きながら、ひたすらチョコレートを溶かしていた。
無事にケーキの準備を終える。型に流してオーブンに入れれば、あとは各自で好きなものを作る時間だ。
「私オレンジの代わりに栗入れようかな」
準備していたら、彼女が僕だけに聞こえる声でそんなことを言う。
「合うんですか栗とチョコって」
「合うでしょ、甘栗なんだから」
「どういう理論ですか」
「何の話ですか?」
僕が笑っていたら、柏井が人の良さそうな顔で話に入ってくる。
「何で甘いものに酸味を混ぜるのかなって」
彼女は準備されたオレンジを指差す。
「けどクッキーじゃなくてそっち選んでるじゃないですか」
「美味しいから不思議なの」
その彼女の言葉に柏井も笑顔を作る。
「吉水先輩面白いね。ね、新川くん」
ただ面白いの一言で片付けていいのかわからなかったから、僕は微笑むだけにとどめておいた。
調理と試食を終えると、片付けの時間になる。
ここ何回かの部活でわかったことだけど、綾さんは率先して片付けをする。
多分、そういうところも、周りの部員の中にスッと溶け込める理由の一つなんだろう。僕たちも、彼女につられて掃除や使った器具の洗い物を始めた。
帰り、駐輪場に行くと、柏井も自転車を取るところだったらしい、自転車のまえでしゃがみこみ、鍵をいじっていた。
駐輪場に設置されたライトが壊れていて、辺りが暗い。だから僕はいつもするようにスマホのライトをつける。とりあえず、彼女がてこずってそうなので、彼女の手元に。
「ありがとう」
彼女のお礼に相槌で返し、今度は自分の自転車にライトを向け、鍵を外す。
荷物を自転車のカゴに詰め、ケーキが傾かないように調整していたら、彼女はまだ自転車に乗らずその場に立っていた。
「新川くん!」
突然、彼女が力を込めた声で僕の名前を呼ぶ。
「うん?」
彼女は持っていたクッキーを目の前に差し出してきた。
「……これ、あげる。バレンタイン、ちょっと遅めだけど」
僕はオランジェットを作っていたので、クッキーをもらえるのはありがたかった。そんなことを思っている僕はまだ、何もわかっていなかった。
「え、いいの?」
「うん」
「ありがとう」
「じゃ、また」
彼女はそう言うと、すぐに自転車にまたがって校門のほうに走り去って行った。
「悪いな、土曜日なのに来てもらって」
樺さんが、キッチンで慌ただしく作業しながら入ってきた僕を迎えてくれる。
普段土曜日は『Ete Prune』は開店していない。でも、今週は金曜日が臨時の休業日だったので、その代わりに土曜日に店を開けていた。
僕たちはその手伝いで出勤していた。
「なんか人多いですね」
扉から見えるテーブルは全て埋まっている。
これだけの人が来るのであれば毎週土曜日も開ければいのに、とはバイトの仕事が増えるので思わなかった。
「そうなんだよ――ちょっと今手離せないから注文行ってきてくれるか」
戦場のように慌ただしく調理をし続ける体格の良い店長が、すがるような目を僕に送ってくる。
「わかりました」
綾さんは一足早くバイトに入ったらしく、すでにレジでお客さんの対応に忙しそうだった。彼女に会釈をして、注文を待っている他のお客さんにオーダーを聞きにいく。
しばらく動きっぱなしの仕事が続き、それでも客足は途絶えなかった。
ちょうどオーダーをとり終えてキッチンに戻ると、鈍い衝撃音と、樺さんの低い呻き声が聞こえた。
彼は、右手をおさえている。
「樺さん!」
駆け寄る。
「大丈夫ですか」
足元にちょうど焦げ目をつけていたフレンチトーストが二枚落ちている。フライパンを落としかけて、鉄板の部分を掴んでしまったらしい。いつもだったらそんなミスありえないのに、この忙しさのせいだ。
「ああ、すまん。大丈夫だ」
彼はしかめっ面のまま僕を制する。
そして、火傷をしていない方の手で落としたトーストをつかみゴミ袋へと押し込む。
その荒々しさが火傷の痛みの表れのように感じられ、僕はとっさに調理を再開しようとした樺さんに言う。
「僕、作りますよ。樺さんは手、冷やしててください」
彼は僕の発言に、驚きと心配両方を混ぜたような顔をする。
「作れる……のか?」
一年程前、母が亡くなった姉と父のために初めてケーキを作ろうとして手に火傷をしたときのことを思い出していた。
あの時も、大変だった。あれ以来、僕は母が料理をする時いつも心配になる。
「大丈夫です。フレンチトーストなら」
家でも作っている。家族が二人になってから何回も。
彼は少しの間逡巡し、僕の目を見た。
「じゃあ任せていいか。作り方は説明する」
「お願いします」
コンロ前から離脱した彼は、蛇口をひねり手を冷やし始める。
僕たちのやりとりを聞いていたのだろう、レジ作業をしていた綾さんが顔を出し「オーダーはこっちでやるので気にしないでください」と気の利いた言葉をくれる。
いつもと少しだけやり方が違い、電子レンジは使わなかったけど、大方スムーズに作れた。樺さんに味を確認してもらって、そのまま僕が客のところまで運んでいく。
「お待たせして申し訳ございません」
頼んでくれたのは、佐々木さんだったらしい。僕が行くと彼女はわかりやすく表情を明るくしてくれる。
「そんなに待ってないわよ、ありがとうねえ。美味しそうだわ」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、少し不安があった。言われた通りに作ったし、ちゃんと味見もしてもらっていたはずなのに、目の前で食べられるとなるとやけに心配になった。切り分けたトーストを口に放り込み、表情を柔らかくしながら咀嚼している佐々木さんの姿を見て、安堵のため息が漏れる。
そして、僕は彼女に小声でお礼を言う。貰ったチケットのことだ。
言うと、彼女も口に手を当て、小声で答えてくれた。
「いいのよ」
「美味しかったです」
「よかったわぁ。ふうん……あなたが一緒に行ったのね」
佐々木さんは何か含みのある笑みを作り、僕の腰をたたいた。
「やるわね」
その笑顔にから逃げるように、僕は再度頭を下げて仕事に戻った。
「すまん、お疲れ」
樺さんが、営業後のキッチンで疲れ切って伸びている僕と綾さんにねぎらいの言葉ととケーキを渡してくれる。
あの後、十分ほど流水で冷やして、それ以降はまた樺さんに任せることになった。
「いや、ほんと助かった。ありがとうな二人とも。火傷なんて数年ぶりで驚いた。というか、芳樹料理できたのか。知らなかったわ」
「そうですよ、芳樹くん料理できる系男子ですよ」
「ああ、部活も家庭科部って言ってたなそういや。にしても相当慣れてるだろ」
「ですよね、手際いいですよね!」
僕は何も言えないまま、樺さんと綾さん二人の会話が展開されていく。
「いや……」
「面接の時部活は聞いたけど、ちゃんと料理できますって言ってくれていたらキッチンも任せたのになあ」
「無理ですよ流石に」
話を切りたくて、僕は気になっていたことを訊いてみる。
「それより、たまに土曜日でも営業ってするんですか?」
「ああ、それなぁ。言ってなかったんだけど、昨日命日だったんだ、俺の奥さんの」
店長が、テンションを変えることなく言う。
「あ、嘘。奥さんになる予定だった人の、だな。」
彼は少し笑みを漏らし「嘘ついたら怒られるんだよ」と舌を出す。滑稽に見えるその表情から、生前の彼女に尻に敷かれている様子が見えた気がした。
「で、この店二人の夢だったんだよ。結婚したら始めようって言って資金集めて。大方準備が整って結婚するって時だった。バイクの事故でよ。十五年前だ。十五年前の昨日、居眠り運転してたトラックと正面衝突して亡くなっちまった」
続けて「まあ、これに関してはもうどうしようもない」と淡々と言葉を付け加える。その言い方には、トラックの運転者に怒りが沸かないように自分を制御する、そんな意思が含まれているように見えた。
「この店の雰囲気、俺の趣味とは全然違うだろ。俺と違ってセンスいいからさ、あいつ。あいつの言った通りに内装とか揃えたんだけど、評判良くてな。みんなに褒めてもらって、今でもちゃんと成り立って生活できてる。あいつのおかげだ。だから、平日だとしても毎年あいつの命日だけは絶対に休むようにしてるんだ。ただ、その週だけ一日営業日少なくしたらあいつにめちゃくちゃ怒られそうで命日が平日の年は土曜日も営業してるんだ」
樺さんはずっと「あいつ」と言ったけど、優しさを全身から滲ませていた。
微笑ましそうに彼女の話をし続ける樺さんを見て、僕は、ずっと黙っていた。
多分樺さんのその考えが羨ましかったんだと思う。なんか良いなと、そう思っていた。
亡くなった人への一番の恩返しは、追悼し続けるんじゃなくて、こうやってその人の死を受けてなお幸せそうに、たまに思い出しながらも、以降の日々を楽しんで生きていくことなんだろうな、と。
それが一番理想の形なんだと感じ、そうなり切れてない自分の家の状況を自覚した。
「本当に好きだったんですね」
自然と声が出ると、樺さんは確信を持った表情で頷く。
「ああ。けど、ちょっと違うな」
その空気の質感は、ずっと大切にしたい人を思っているんだと僕に感じさせるには十分で。
「好きだったんじゃなくて、今もずっと好きなんだ――この店の名前あるだろ」
「ええっと。『Ete Prune』ですか?」
「ああ、そうだ。それ、あいつの名前なんだよ。夏梅。夏と梅。それぞれフランス語にしたんだ。あいつに反対されてたけどそれだは譲らなかった。俺の一番大切な店の名前だよ」
綾さんが控え室に戻った後、樺さんが僕を呼び止めた。
「な、芳樹、大丈夫か?」
樺さんの質問の意図はわからない。
大丈夫って、何が? 僕が人の死をを知ってしまうことが?
そんな訳ない。
「……」
樺さんは優しい目を僕に向ける。それは、バイトから帰る時に「気を付けろよ」と言ってくれる時の表情にそっくりで。
中学の時、担任の先生に職員室に呼び出された時のことを思い出す。もし、もっと早く樺さんに会えていたら。
改めて気付く。
やはり僕たちは、何か重大なことを話すときにはお互いに同じような立場に立って話そうとするのだろう。
その人の大きな秘密を知った後だと、ハードルが下がったような感覚になって、自分の奥にしまっていることをその人に話しやすくなる感覚。
こんなこと、あった気がする。ああ、そうか。
中学の時の委員長の気遣いを、今さらのように正しく理解する。
だとしても、もう終わったことだ。
すでに自分の中で割り切ってしまっているのだから掘り返して話すことではない。だからしっかりと首を振った後、そんな表情を向けてくれる店長ならば綾さんのことも、なにかしら心配しているのではないかと思い、質問を返した。
「綾さん、バイト減らしたんですよね?」
「……ああ、そうだな」
「部活に急に顔出し始めたんですけど、何かあった……っていうか、綾さん大丈夫ですかね?」
樺さんが僕のために使ってくれた「大丈夫?」を転用する。
訊くと、彼はなにかしら感じているものがあるのだろう、話すか話すまいか決めあぐねたような間を取ってから、優しそうに微笑んだ。
「最近仲良いだろ、できれば本人に直接聞いてやってくれ」
「わかりました」
「綾もお前も、今日は手伝ってもらってありがたいけど、週末くらいは思う存分遊んどけよ。怪我しない程度に」
「言っておきます」
結局綾さんと一緒に駅まで歩いている途中。僕は自転車を押していて、カゴに自分と彼女の鞄を入れていた。
「樺さん、幸せそうだったね」
彼女が店長の話の余韻が抜けきらない様子で呟く。
「ああいう風に、楽しそうに亡くなった人のこと話せるの良いよね」
さっき僕が思ったのと同じことを話す彼女。
「思いました」
今小さな声で「すごいなあ」と彼女が呟いた気がする。
「え?」
「いや、何も」
何もないならその返答はおかしい。彼女は何を思ったのだろう。けど、訊くより先に彼女に先を越される。
「ね、芳樹くんなんか本持ってたよね?」
「あ、はい」
もしかして前喫茶店で彼女を待っていたときに見られたんだろうか。
「あれってなんの本?」
彼女に見せていいのかどうかわからなかったけど、わからないのだから、仕方ない。どうせ、僕の思惑はわからないだろうし、素直に見せることにした。
カゴに入れた鞄を開け、彼女に本を渡す。
「ああ、やっぱり。これ、私も持ってるよ」
そう言われたときに思い出す。何か見覚えがあったのは、最近見ていたからだったのか。
前、バイト帰りに彼女の鞄の中から覗いていた本。多分同じ本だった。
彼女はしばらく表紙を眺めた後、不意に、
「何か悩みごとあったりしたらお姉さん聞くよ?」
なんておどけた調子で言う。
ああ、そうか。
彼女がこの本を持っている理由というのが、彼女自身が死を考えるほどの悩みを抱えているからで、なるほどだから、僕もそうであると綾さんは思ったわけだ。
それで心配して。先週末話したことを気にしているのかもしれない。まさか僕が死ぬかもしれないなんて心配してたりするんだろうか。いや、そんなわけない、僕じゃないんだから。
わかる。
彼女自身は死のうとしていても、そんなことは別としてただ単純に悩みがあるなら相談に乗ろうと思ってくれただけ。綾さんはそういう人だ。さすがにこれだけ関わっていればもうわかる。
それを理解した上で僕は、やっぱりそんな彼女のことを、知りたいと思った。