「で、ですが。私は、あの部屋から出る事を禁じられておりまするし」
「何度でも言うが、我が人間の言いつけを守る道理はないのだ。これからも我が、お主を勝手に連れ出すだけだ。故に、お主が禁じ事を破る訳でもない」
嫌と言うても、我は無理やり攫うからな?と蠱惑的な笑みを浮かべながら言われ、私はその艶やかさと妖しさに魅入られてしまう。
だからだろうか、すんなりと「はい」と答えてしまったのは。
それからは雷華様が私を腕の中に収め、再び空を駆け、何事もなかった様に大きな屋敷の中に戻って行った。
そしてストンと私の部屋の前に降り立ち、雷華様は「またな」と私に物憂げな表情を見せてから、空に戻って行く。
その後ろ姿に、不思議と離れがたい気持ちが生まれてしまった。
それだけではない。不思議と、いつもより部屋に覆う闇を強く感じ、いつもより虚しさを感じてしまう。
私はそんな気持ちを抱えながら、悠々と濃藍色の空を泳ぐ様に飛んでいる、雷華様の後ろ姿を見つめていた。美しく、神聖さを感じさせる彼の姿を。
また来ると言っていたけれど、きっとこれが最後になるわよね。
久方ぶりに嬉しくて、楽しい夜を過ごしたものだわ。この一夜は、これからの私にとって、きっと大きな支えになるわね。
なんて独りごちていると、彼の姿はもうどこにもなかった。
もしかしたら憐れな私が作り出した幻だったのかもしれない、なんて真剣に思わざるを得なかった。
・・・
そうしてあっという間に、夜を迎えるけれどやっぱり何の音沙汰も無い。来る気配もちっともないから、やっぱり雷華様は、私が現実逃避から作り出してしまった幻なのかも。なんて思った矢先だった。
「すまぬ、待たせたか?」
聞き覚えのある優しい声音が後ろから聞こえ、ハッとして振り返れば。いつの間に入って来たのか、笑顔の雷華様が立っていらした。
本当に来たと言う純粋な驚きと。音も無くどうやって参ったのかと言う、些か恐怖に滲んだ驚きを覚えてしまう。
「ら、雷華様」
私が目を白黒とさせていると、「よし、では参るぞ」と白い歯を見せながら、容赦なく私の方に近づいてくる。
そして私が拒絶する間も無く、俵を持つが如くひょいと持ち上げられ、私はいとも簡単に逞しい腕の中に収められてしまった。腕の中に収められたと一拍遅れて気がつくと、直ぐさま「雷華様!」と批難の声を上げる。
けれど「何も問題はなかろう?」と有無を言わさぬ笑みを見せられながら、ずんずんと先を歩かれ、あっという間にひょいと天高く飛び、ひゅーっと風を切る様に夜空を駆けられた。
キラキラと煌めく星と、太陽よりも控えめで美しい光を放っている月が、大きく視界に広がる。
「りん、笛は持って参ったか?」
「は、はい」
端正な顔が間近にある事にドギマギとしながら答えると、雷華様は「ならば良い」と満足げに頷いた。
そしてストンと半刻ぶりの美しい森に着地し、私を腕の中から解放する。私は飛び退く様にしてバッと距離を取り、風で乱れた左側の髪をしっかりと直した。醜い左側が見られない様に、念入りに髪を左側に持ってくる。
その間に、雷華様はヒラリと舞う様に大岩の上に降り立ち、その場で片膝を立てて座った。そして私が整ったのを見届けると、「では」と楽しそうな声をあげる。
「早速、一曲頼む。数時間ぶりだが、我はりんの笛を楽しみにしておったのだ」
「そ、それはありがたきお言葉にございまするが。何の曲をご披露すればよろしいのですか?」
巾着からおずおずと笛を出しながら尋ねると、「昨夜攫う前に、りんが吹いていた曲を頼めるか」と軽やかに答えられた。
雷華様が、私を攫う前に吹いていた曲・・・?
何を吹いていたかと、記憶の糸を手繰ってみると。ハッとその部分が鮮烈に思い起こされ、ピカッと頭の中で雷が迸った。
「長い年月を生きているが、あの様な曲は初めて聞いたのだ。故に、それを目の前で聞きとうてな」
喜色を浮かべながら催促され、私は少し口元を綻ばせながら「それはそうでございます」と答える。
「今から披露致します曲は、私が作った物にございますから」
フフッと笑みを零してから、私は口元に笛を持ってきて、ゆっくりと息を送り込んだ。清らかだが、どこか暗然とした様な音が夜の森に響き、おどろおどろしい何かを装飾させる。更に、息使いと指使いを巧みに使い分け、曲を仕上げていった。
そして悲しげな曲の終わりを迎え、遠くまで広がった余韻に浸ってから、口元からゆっくりと笛を下ろす。するとすぐにパンパンッと軽やかな拍手が送られた。
「目の前で聞くと、こうも違うとは。げに素晴らしきものだ、流石の腕前だな」
感嘆とする雷華様を前に、私は「過分なお言葉にございます」と苦笑を浮かべた。
「その曲はりんが作った物だと申したな、題はあるか?」
「はい。影姫、と言う題にございます」
「影姫、か。道理で随分と物憂げで悲しげな訳だ。この世界で生きてみせると言う、気概が込められている様に感じたが。この影の世界から出たいと言う様な痛切な訴えも感じた気がしたな。綯い交ぜになっている感情が込められ、齟齬が生まれているが、それが癖になるな。うむ、何から何まで良き曲だ」
ふむふむと私の言葉を噛み砕きながら、おおらかに告げる雷華様。そんな雷華様の前で、私は唖然としてしまった。
この曲をそこまで噛み砕いて、聞いていた人が今まで居ただろうか。密かに曲に込めた思いをここまで感じ取ってくれた人が居ただろうか。よく聞いていた善次郎ですら、どこか悲しいけど、癖になると言うだけだった。
嬉しいと言う気持ちもあるが、それ以上に呆気にとられてしまう驚きがやって来る。
すると突然、雷華様は蕩々と語っている言葉を止め「りん?」と怪訝な声で私を呼んだ。私があまりにも無反応というか、ぽかんとしている事に気がついたのだろう。
「どうかしたか?」
「あ、いいえ。何も、何もございませぬ。ただ少し驚いたと言いますか」
縮こまって答えると、雷華様から「驚いた?」ときょとんとした声が発せられた。
「何故驚いたのだ?」
厳かな声音で尋ねられ、すんなりと答えそうになってしまったけれど。私はハッと思い直した。
私の気持ちなんかを話しても、何も意味がないわ。この方にだって、何の得にもならないし、私の言葉なんか耳障りだもの。それに雷華様の言葉だって、上辺なのかもしれないのだから。
キュッと唇を真一文字に結んでから「いいえ」と小さく答えた。
「雷華様が気にする事ではございませぬ」
俯きながら、きっぱりと答えると。予想外にも間が訪れた。爽やかに吹く風に揺れる森林の木々の音が、私達の間に流れている静寂をどこか虚しい様な物に変えていく。
それだから風が止まってしまうと、シンッと言う擬音が聞こえてしまう程の静寂をヒシヒシと感じた。
だが、静寂は破られた。居心地の悪さに身をたじろぎそうになる直前、雷華様がおもむろに口を開いたのだ。
「そうか」
意外にもたった一言、しかつめらしい声でゆっくりと告げられる。
お怒りを買ってしまったかもしれないと、顔から血の気がさーっと失せていった。雷華様の顔色を窺おうと、おずおずと顔を上げようとした刹那。
「りんには、笛の師がいるか?」
雷華様から発せられた言葉は、意外にも朗らかで、先程の気まずい静寂なんてまるでなかったかの様な声音だ。
私はそれに「えっ、あっ」と口ごもらせてから、訥々と「亡くなった母です」と答える。
「亡くなった母君とな?」
「は。はい。母は、私が幼き時に亡くなってしまったのですが。母は昔に出会った女性から笛を少し習った様でした。爾来、母は笛が好きになったのですが。母には全く笛の才がなく、下手の横好きとよく父から言われていたのを朧気ながら記憶しておりまする」
懐かしい記憶を瞼裏に映しながら語っていると、フフッと笑みが自然と零れた。
「そうであったか。だがそう聞くと、笛の師が母君とは少し不思議な気もするが」
「それは母の笑顔見たさに上達しようと気概を見せたとでも申しますか。幸いにも、私には才がありましたし。母から少し教わると、めきめきと上達したのでございまする」
苦笑を小さく浮かべながら告げると、瞼裏に母様が私に笛を初めて教え、私が吹けてとても喜んでいる映像が浮かんだ。
懐かしいわ。私が初めて笛を手にして、吹いた時。母様はとても喜んでいたし、誇らしげだったわね。私の血を受け継いでいるわ、と鼻高々で。それが幼い私にとっては、げに嬉しき事で。病弱な母さんを笑顔にさせられると、笛を上達しようと誓ったのよね。
「成程。それならばその腕前に納得するものだ。誰かの為という心意気は、人間を一番成長させるからな」
にこやかな声音で告げられ、私はなんだかこそばゆくなってしまい「左様にございますね」と照れながら答えた。
「では、影姫は母君を喜ばせる為に作られたのだな?」
「はい。ですが、母が喜んでくれたかは分かりませぬ。影姫は、母が亡くなった後に出来た曲なので。笑顔を見る事も叶いませぬでしたが」
笛を握りしめ、足下の砂利を見つめながら告げると。「そうであったか」と沈痛な声で言われるが、すぐに「母君は喜んでいるであろう」と答えられた。
その声は、何の根拠もないはずなのに、あまりにも自信に満ちていて朗らかだった。
何故、そんな風に言えるのだろうかと怪訝に思い、ちらと雷華様を窺うと。雷華様は優しく私を見つめながら、温柔な笑みを浮かべていた。
私の右目とばちりと目が合うと、その笑みに確かな自信が現れ始める。
そして「母君は喜んでおるよ」と言い切った。
「何故、その様に言い切られるのですか?」
ふいと雷華様から目を逸らして尋ねると、「我には分かるのだ」と鼻高に答えられる。答えになっていない答えを言われ、私は少しムッと不機嫌を滲ませてしまうけれど。
「話を聞くに、母君はりんが笛を吹き、上達する事を至上の喜びとしておる。その様な者が、自分の為にと作った曲を聴いて喜ばぬ訳がなかろうて」
雷華様から告げられた、温柔な言葉に、その不機嫌はあっという間に取り払われた。
直ぐさま「確かに、そうかもしれない」と言う神妙な思いに駆られる。
「で、ですが。この曲はあまりにも暗いし、とても喜ぶ様な曲では」
「曲調なぞ関係ないぞ、それは些末な事と言うもの。現に我はこの曲を聴いて、素晴らしいと褒め称え、喜んだであろう?知り合って間も無い我がこうなのだぞ、母君ともなれば我以上。りんの心や言葉を感じ取り、嬉しく、そして誉れに思うのではないか」
「母様が、そんな風に・・?」
呆然としながら呟くと、上から「そうだ」と重々しく答えられる。
「親の心子知らずとは、よう言うが。りんよ、母君のこの心は知っておかねばなるまい」
窘める様な口調ながらも優しさに溢れた言葉は、私の心にズドンと突き刺さり、深く浸透して行く。
確かに、母様は私が笛を吹けば、些か大仰にも感じる程喜んでくれた。それがどれほど短い曲でも、拙い曲でも。喜ばぬ時なんてなかった。
いつの間にか私は、母様の想いを忘れていたわ。記憶は残っていても、その時の母様の心は薄れていってしまっていたのだわ・・。
忸怩たる思いに駆られるけれど、その中に喜びや哀しさも感じて。胸の内で湧き上がった感情が、次々と綯い交ぜになり複雑になっていく。
私は胸元の衣をギュッと握りしめながら「そう、ですね」と独りごちる様に答えた。
「そこまで肩を落とす必要はないぞ、りん。今気がつく事が出来たのだからな、上々だ」
満足げな言葉が聞こえると、目の前でストンと小さな音がした。俯いている私の視界に、黒い明服の一部が映る。
突然映った明服に驚き、ハッと顔を上げると、一歩ほどの間が空いた所で、雷華様が笑顔で立っていらした。
また唐突に、眼前に立っていらっしゃるなんて!
泡を食い、バッと距離を取ろうとするが。その前に、パシッと軽やかに手を掴まれ、キュッと柔らかく大きな手に包み込まれた。
美しく、温かな手に包み込まれた瞬間。ドキドキッと心臓が痛む様に跳ね、体を巡る血が一気に加速する。
「あ、あ、あの、手を!」
口ごもりながら、素っ頓狂な声を張り上げた。それと同時に、急いで自分の汚らしい手を引っこ抜こうとするが。「落ち着け」と、目の前で優しく宥められた。
「少し移動するぞ、我の手を取れ」
その言葉で、「あ」と自分が慌てている事が間違っていると理解する。
移動をする為に手を取られたのに、なんて恥ずかしい間違いを・・。
変に慌てて恥ずかしいと身悶えながらも、私は大人しく雷華様の言葉に従う。
そして雷華様は私が大人しくなるのを見ると、私の手を引っ張りあげる様にしながらひょいと飛び上がった。華奢な手から伝わる力は想像以上に強く、ぐいと引っ張りあげられ、あっという間に地面から足が離れた。ふわんと軽やかに体が空に浮き上がり「きゃあっ?!」と口から悲鳴が飛び出す。
雷華様よりも少しだけ高い位置に上がり、恐ろしさで全身から血の気が失せていくが。「案ずるな」と私を落ち着かせる様に軽やかに笑い、雷華様はストンと大岩の上に降り立った。
先に雷華様がストンと降り立つと、自分の元に引き寄せる様に握られている手からぐいっと強さを感じ、浮き上がっていた体がゆっくりと雷華様の元に降りて行く。
そして私もストンと大岩の上に降り立つと、雷華様が「すまぬ、怖かったか?」とクスリと笑みを零した。それがまるで子供が悪戯をした後の様な笑みで、どこかハッとすると言うか、ドキリと胸が高鳴る様な感覚に陥ってしまう。
けれど、すぐにその気持ちを押さえる様に「それはもう」と少し怒った声音で、俯きながら答えた。
「そうか、それはすまない事をした」
顔を上げてくれ?と、いつもより近くで聞こえる、惚けてしまう程の優しい声に、封じていた高鳴りが容易に弾け、またもドキンッと強く鼓動を打った。
私は「そ、そんなに気を遣って、頂かなくとも」としどろもどろに訴え、少し雷華様から距離を取る。
ドギマギと変に早鐘を打つ心臓に耐えられなかったせいか、いつもより近くに感じる雷華様に耐えられなかったせいか。
前者か、後者か。どちらかは分からないけれど、いつも以上に慌てて距離を取ってしまった。大岩の上であると言う、単純な事も忘れて。
あっと思うが、すでに時遅く、つるんと大岩から足を踏み外していた。
「きゃっ!」
口から小さな悲鳴が飛び出し、体が後ろ向きに倒れていく。
その時ばかりは、不思議と時の流れが変に遅く感じた。緩やかに流れる時の中、後ろ向きに体がゆっくりと倒れていく。文字通り、時間に身を任せていた。
だが突然、ぐいと体が前のめりに戻される。腰辺りに力強くも、華奢な手を感じて。そしてドンッと精悍で厚い何かに受け止められる。
ハッとすると、少しだけ早くも雄弁に語る心音を耳にしていた。すぐ上からは「間一髪だな」と面白げに言う声が降ってくる。
時の流れが、いつも通りの速さになると。自分の置かれている状況に、真っ青になって来てしまう。
これは夢だと思いたいが。耳にしている心音と、視界いっぱいに広がる黒の生地、そして腰を支える様にして添えられている力強い手が、残酷にも現実だと教え込む。
も、もしかして私・・・雷華様に。
羞恥心が、ぶわっと一気に押し寄せ「も、申し訳ありませぬ!」と慌てて飛び退こうとするが。腰に添えられた手がそれを許さず「落ち着け」と宥められた。
お、お、お。落ち着けって、言われても。こ、こ、この状態は、ちっとも落ち着けないわ!落ち着くなんて、無理よ!絶対に無理!
ドコドコと大音量且つ尋常じゃない速さで、心臓が鼓動を打ち始めた。その心臓に痛みを覚えるはずなのに、気持ちは羞恥でいっぱい。そのせいで、自分がどうすれば良いのか分からず、目の前がぐるぐるとし始める。
でも、幸いな事は期せずして起こるものだ。
雷華様は混乱しているだけの私を見て、大人しくなってくれたと勘違いしてくれたのだ。「うむ、落ち着いたな」と満足げに頷きながら、ゆっくりと私を離していく。
離れて行く厚い胸板にホッと胸をなで下ろしながらも、未だに心臓はバクバクと跳ねていた。
私は乱れた呼吸や髪を整えてから「か、かたじけのうございました」と消え入る様な声で、礼を述べる。
「気にするな、我にも一因はあるからな」
肩を竦めながら言うと、雷華様は「ここに座れ、ここならば危なくない」と私を中央に引き寄せて、座らせようとした。
「わ、私がそこに座ってしまうと。雷華様がお座りになられないですから」
ここで大丈夫ですと告げようとするが、「構わん」とにこやかに言葉を遮られる。
「我は浮く事も出来るのでな、案ずるな」
口元を綻ばせながら言うと、雷華様は私をストンと中央の安全な部分に座らせた。横並びに腰を下ろすけれど。ご自分は中央から外れ、湾曲が一番ある部分に座る。座ると言うか、若干浮いている様な形だ。
こういう所をサラリと見せられると、やはり雷華様は人間ではないのねと痛感する。
「りん、今宵の締めじゃ。もう一度、影姫を吹いてくれるか?ここなれば母君との距離が近づき、母君にもよう聞こえるであろう」
ニッと白い歯を見せながら頼まれ、私はハッとした。
そうだったのね。だから私をここに座らせたのね、この方は。母様との距離を縮めて、笛の音がよく届く様に、と。
雷華様の心遣いをしかと感じ取り、私の胸にじんわりと温かな感情が広がっていく。
私はキュッと唇を真一文字に結び、自分を律してから「はい」と答え、握っていた笛を口元に添えた。
ゆっくり息を吐き出してから笛を構え、息を吸い込み、そのままゆっくりと笛に吹き込んでいく。
笛から出た美しい音色は、濃藍色の空に向かって、母様に向かって飛んでいく。天ノ川の様に天に伸び、柔らかくも悲しげな音を響かせながら。
その時、柔らかく光っていた月が輝きを強め、私を温かな光で包み込む。それがまるで母様からの答えみたいで、右目の端からツウと一筋が流れた。
そして吹き終わると、雷華様は拍手を送りながら「素晴らしい」と一言、言葉をかけてくれた。
たった一言、けれど喜びが全身に駆けていく様な一言。
私は「ありがたきお言葉でする」と雷華様に向かって、弱々しい笑みを称えながら言った。
雷華様は私の笑みに答える様に破顔すると「帰るか」と弱々しく告げる。私がそれに小さく頷くと、来た時の様に私を連れ、悍ましい屋敷に戻って行った。
ストンと自室の障子の前に降り立つと、私は「では」と急いで部屋に戻ろうとするが。「りん」と呼び止められ、障子を開けた所でピタッと止まり、急いで振り返る。
「如何致しましたか?万が一誰かに見られたら、貴方様にも迷惑がかかります」
口早に警告すると、雷華様は喜色を浮かべながら袖から美しい衣を引っ張り出した。紅色の生地だが薄く透き通り、月光に照らされるとキラキラと反射する。まるで紅玉の衣の様で、私は唖然としてしまう。
それは?と尋ねようとしたが。雷華様が先に口を開き「これは明国の霞ひ(かひ)と言う物でな」と口ごもりながら答えた。
「りんに受け取って欲しいのだ」
「え。で、ですが・・こんな高価そうな物を頂く訳には」
「良いのだ。それに、りんによく似合うと思うのだ。りんは、かような美しさを持っている女子だしな。ま、まぁこんな物よりも、主の方が美しいと言うものだが」
あまりにも歯切れ悪い言葉。そんな風に言葉を紡ぐ雷華様は初めてで、私はちらと顔を見上げて、雷華様を窺ってみた。
すると月光に晒される雷華様のお顔には、ほんのりと赤みがささっていた。恥ずかしさを堪える様に奥歯を噛みしめながら、目を右往左往に泳がせている。
私はそのお顔を見て、呆気にとられてしまった。唖然としたまま、ジイッと雷華様を見つめる。
すると雷華様は、私の視線にすぐに気がついてしまった。マジマジと見過ぎたかもしれないと、慌てて目を逸らそうとした刹那だ。
驚くべき事に、雷華様のお顔に更に濃い赤がぶわっと広がる。
私が「ら、雷華様」とポツリと呟くと、雷華様は「では、またな!」と口早に告げてから、逃げる様に飛び去ってしまった。
天高く飛び去っていく、美しき人型の妖怪。三つ編みにされ、一本に結われた長い後ろ髪が尾を引くようにたなびいていた。
私はその姿を見送ってからすぐに部屋の中に飛び込み、パタンと障子を閉める。
そして障子の前で、へなへなと崩れ落ちる様に座り込み、キラキラと紅色を反射させている美しい霞ひに目を落とした。
まるで絵巻物に出てくる、美しき天女の羽衣の様だわ。
そっと柔らかな衣を撫でると、頭の中で先刻の雷華様が思い出される。
「ま、まぁこんな物よりも、主の方が美しいと言うものだが」
なんて歯切れ悪く言い、恥ずかしそうに真っ赤になっていた雷華様。
雷華様は、あんな風な表情をするお方でもあったのね。それに、きっと本心ではないと言うのに、あんなに真っ赤になりながら「美しい」と言って下さるなんて。変わったお方だわ、明の尊き妖怪だと言うお方のはずなのに。
その時。なぜだか分からないが、フフッと柔らかな笑みが零れてしまった。