母さんは私の小さな手をにぎにぎと包みながら、「りん、泣かないで」と私を優しく見つめる。母さんの潤む瞳には、不安げな顔をした私がしっかりと映っていた。
「母さんね、最後にこれだけは伝えておかなくちゃいけないの。だからりん、泣かないで聞いてくれる?」
 弱々しい笑みを浮かべ、宥める様に包み込んでいる手をトントンと指先で軽く叩く。
 私はその弱々しい笑みに、ぐすっと鼻を啜ってから「聞くよ」と答えた。母さんは、その答えに「良い子」と目を細めてから、ゆっくりと語り出す。
「母さんはね、りんに沢山幸せになってもらいたいの。だからね、素敵な人と結婚して欲しいわ。貴方を大切にしてくれる人、貴方も一生を捧げられて、添い遂げられる。そんな人と結婚してちょうだいね」
「一生を捧げられて、添い遂げられる人?」
 きょとんとして尋ねると、母さんは「そうよぉ」と面白そうに笑った。
「この人となら、一生一緒に居られるって言う事よ。この人しか考えられないって言う人の事、とも言えるかしら。愛してくれるのは勿論の事だけれどね、大切にしてくれて、りんの全てを包み込んでくれる人。長い時を隣で歩き続けられる人、そんな人を見つけなさいね」
「そんな人、りんには見つけられないよぅ。無理だよぅ」
「いいえ、りん。りんは、絶対に見つけられるわよ」
 不安げに零す私に対し、母さんの言葉は自信に満ちていて、私が必ず見つけられると信じている笑みを浮かべていた。
「見つけられないなんて事はないのよ。不思議と引き寄せられて、その人には必ず出会うものだから。不思議な事だけれど、それが運命と言うものなの」
 ニコニコと語る母さんは楽しそうで、「だから私もお父さんと出会えたのよ」と悪戯っ子の様に笑った。けれどそれはすぐに崩れ、物憂げな表情に変わってしまう。
「運命は素敵な事もあるけれど、こういう運命は・・変えたかったわね」
 弱々しく零すと、母様は目に涙を浮かべながら「りん」と私の名前をしっかりと呼んだ。
「なあに、母さん」
「これはね、母さんからの最後のお願いよ。りん。母さんの為に、笛を吹いてくれる?これからもずっと、母さんが居なくなっても。空に居る母さんに向かって吹いてくれる?」
 約束してくれる?と優しく尋ねられると、私の目は限界を迎えた。ぶわっと涙が決壊し、ボロボロと零れ落ちていく。
「りん、泣かないで。約束して?ね、母さんは貴方の笛が大好きだから。吹いてくれるって約束してちょうだい」
「するよ。約束する。でも母さん。お願い、居なくなってもとか言わないで。これからもずっと、りんの側で聞いていて。そう言って、ずっと居るって言って」
 ガバッと勢いよく、母さんの胸元にすがる様にしがみつくと。後頭部に優しく手が乗り、いつもの様に頭を撫でてくれる。けれどその手はいつもと違い、時間をかけて上から下に、上から下にと顫動しながら動いていた。
「母さんはね。貴方の笛の音は、貴方の心であり、貴方の言葉だと思っているの。だから母さんがお空に行っても、りんが笛を吹いていれば会話出来るわ。それ程までに、貴方の笛には力があるのよ。届ける力が、訴える力があるの」
「でも母さん」
 りんには母さんの声が聞こえなくなるんじゃないの、と訴えようとすると。心の内を見透かされたのか、先に「大丈夫よぉ」と朗らかに告げられ、私の口が閉ざされる。
「届かない声なんてないわ。きっと聞こえるわよ」
 自信ありげに告げる母さんの顔をゆっくりと見ると。母さんの顔は優しく綻んでいて、「大丈夫よ」と力強く訴えられる。
 そして母さんは、その笑みのまま「約束してね」と朗らかに付け足した。
 その時。母さんの目の端から、ポロッと一筋。涙が滴り落ちていた。
・・・
 ふうと息を吐き出してから、そっと吹き口に唇を当てる。そして少しだけ開かれた唇の間から息を注ぎ込むと、ピィィと笛の美しい音が響いた。
 そよそよと穏やかな風に乗り、遠くまで響く柔らかな音に耳を澄ませてから、私は笛の上で指を柔らに滑らせる。
 私の指の動き通りに、笛から次々と甲高くも美しい音が発せられていく。そよそよと吹く風によって、笛の音は遠くまで広がる。美しく澄んだ陸奥の空気にピッタリと寄り添う様に。
 この陸奥は、全てが美しいわ。大地は肥え、天は私達を優しく包み込む様に温かい。青々と生い茂る森も、共存する様に豊かに暮らす動物達も。
 平和に身を置き、その穏やかさをしみじみと感じながら、笛の上の指を更に機敏に動かした。指の動きに従い、笛は忙しなく音を発するが。一音一音混じらせずに、美しく鳴り響く。
 曲の山場を迎え、笛の音が滑らかに且つ空気を震撼させる様に広がった刹那。
「りんは、相変わらず笛が上手いなぁ」
 聞き馴染みのある声が聞こえたので、私はピタッと指を止め、笛に送り続けていた息も止めて、くるりと振り返る。途中でぶつりと止められたせいで、笛からはぴょろっと調子外れの締まらない音が発せられた。
 はにかみながら、私を優しい眼差しで見つめていたのは、同い年で幼馴染みの善次郎(ぜんじろう)だった。農作業から抜け出してきたのか、首に手ぬぐいを巻き、手には鋤が握られていた。
 私はフフッと笑みを零してから「ありがとう」と答える。
「でも感心しないわ、善次郎。畑仕事を抜け出して、こんな所に居るのだから。親父様に怒られるわよ?」
 悪戯っ子の様に笑いながら告げると、善次郎は「うるさいなぁ」とふて腐れた顔をしながらも、私の隣に移動して来て、どっかりと腰を下ろす。
「お前の笛の音が聞こえたら、仕方ないだろ。仕事を抜け出して、りんを探すのはさ」
「フフッ、何それ。善次郎ってば、まるで犬みたいに言うのね」
 クスクスと微笑を零しながら突っ込むと、善次郎は「うるせぇなぁ!」と頬杖を突き、ふんっとそっぽを向いてしまった。
 あらら、からかいすぎちゃったわ。
 ごめんね?と言おうと口を開こうとした矢先に、善次郎の方から言葉が発せられた。
「お前の笛は、綺麗で美しいから。お前が笛を吹いている時は、側で見たい」
 奥歯を噛みしめながら言われ、私は呆気に取られてしまう。そして善次郎の頬から耳にかけて、赤みが差し込まれている事に気がつくと、益々呆気に取られてしまった。
 唖然とすると言うか、嬉しさが零れると言うか。言葉にし辛い感情に飲み込まれ、ただポカンとしてしまう。
 けれどすぐに顔が綻んできて、私は「ありがとう」と伝えた。
「善次郎が褒め言葉を口にする事なんて、あまりないから。貴重で嬉しいわ」
 顔を覗き込む様に言うと、善次郎は口元をもごもごとさせてから「べ、別に」と歯がみする様に言葉を吐き出す。
「そんな大した事言ってねぇよ」
 フンッと荒々しい鼻息を出されてから、またそっぽを向かれてしまった。
 けれど、その顔はすぐに戻って来て「そんな事よりも!」と、居たたまれない空気を壊す様に声を張り上げる。
「早く吹いてくれるか?!こっそり作業から抜け出して来たんだぞ!」
「はいはい、分かったわ。でも善次郎が曲を止めたんじゃなかったかしら?それも良い所で」
 ねぇ?と同意を求める様に顔を覗き込むと、「それはそれ」と真顔でぶっきらぼうに答えられた。私はその答えに苦笑してから「何が良い?」と尋ねる。
「お前が作ったやつ、ほら、何だっけ。何とか姫」
「また影姫?本当に善次郎はこれが好きよねぇ、何が良いって聞くといつもこれじゃない?まぁ、その割には曲名を覚えないけれど」
 クスクスと笑いながら言うと「良いだろ、別に」とつっけんどんに返される。私はその答えに、「分かったわ」と破顔してから、離していた笛を口元に添えた。
 そして笛に息を送り込んで、美しい音を鳴らせる。先程の明るい曲調からは打って変わった、哀切な滑り出し。
 音が流れていく早さも、指の動きも穏やかだけれど。響かせる音は悲しげ。色々な事が、ちぐはぐとした曲。そんな齟齬が続く曲の山場では、その憂いが静かに、けれど必死に訴える音に変わっていく。
 空を悠々と泳ぐ鷹も、この侘しい曲に胸を打たれてくれたのか。ピーヒョロローと柔らかな響きを添え、色を添えてくれた。
 そうして段々と音は静かになっていき、終わりを迎えていく。音を広々と響かせ、その余韻に浸りながら、私は笛を口元から離した。
「いかが?」
 にかっと白い歯を見せながら尋ねると、善次郎は柔和な笑みを見せて「良い」と答えた。端的だけれど、その一言に感情の全てが乗っている気がする。
 私は「良かった」と喜色を浮かべ、優しく笛を撫でた。
「やっぱ、りんの笛は奥州一・・いや、日の本一だな」
「アハハ、それは言い過ぎよ」
 そしてお互い相好を崩しながら、しばらく語らい合っていた。柔らかな風に少し冷たさが込められ、空の色もほんのりと橙色に変わり始めてくるまで。
 その変化で、ようやくお互いにやるべき事を思いだし「帰るか」と重い腰を上げた。笛を袖にしまい、薪が入った重い籠を背負ってから、二人で帰途につく。
 私達は橙色が澄んだ天色に織り交ざり、美しい色合いを見せる空の下を歩いていた。ほんのりと白い三日月も浮かび上がり、仄かにキラリと一番星も煌めきだす。
「りん」
「なあに?」
 隣を歩く善次郎から唐突に名を呼ばれ、私はヨイショと重い籠を背負い直して尋ねた。
「お、お前さぁ。もうじき、十七だろ?」
 同い年で、分かっているはずなのに。何故そんな事を尋ねるのかしら?
 なんて不思議に思ったけれど、そんな言葉はグッと押し込めて「そうよ?」と端的に答える。
「結婚する年齢になってきたな」
「そう言えばそうねぇ。早いわね、もうそんな年齢だなんてね」
「良い相手、とか。想っている相手とか・・・いる?」
 胡乱げに尋ねられ、私は「居ないわよぉ」とケラケラと笑いながら返した。
「そんな殿方、いらっしゃらないわ。私は笛だけの女だもの。教養も無いし、お裁縫も苦手だし、お料理も苦手だし。良妻賢母になれないから」
 自分で言っているくせに軽く傷つき、自嘲気味な笑みを浮かべながら答える。
「いや、そんな事はないぞ。りんは奥州一と言っても過言ではない程綺麗だし、めんこいし。心も清らかで、優しくて。笛を吹けば、浄土が見える程上手いし。良い所ばかりだ」
 急に心がむず痒くなる様な言葉をつらつらと並べられ、私は「えぇっ?!」と素っ頓狂な声を上げてしまい、あわあわとし出す。
「な、なな、な。と、ととと、と、突然何を言うの?!」
 愕然として、訥々と言葉をぶつけるけれど。善次郎は飄々と「嘘は言ってない」と答えた。私はその答えで、余計に泡を食い始めてしまうけれど。善次郎も、耳から頬にかけて赤みがほんのりと差されている事に気がつく。
 きょ、今日は善次郎がおかしい!急に褒めるし、急に真面目になるし!
 私は、大慌ての内心を強く押さえながら「あ、ありがとう?」と、なんとか言葉を吐き出した。
 すると善次郎はガシガシと後頭部を掻きながら「そ、それでな」と弱々しい声音で、私に言葉を投げかける。
 その小さな呟きで、私は話の先をなんとなく感じ取ってしまい「ま、まさか?」とぶわっと全身の血が沸騰し始めた。
「お、俺と・・その、なんだ。夫婦(めおと)に・・・ならないか?」
 夫婦・・・。
 訥々としながらも、力強く告げられた言葉に、全身の血がぶわっと駆け巡るどころか、ドコドコと太鼓の様に心臓が鼓動を打ち始める。
 けれどそんな心臓を慮る暇は、私には無かった。目の前の状況に対する驚きが、感情の全てを占めているから、そこまで手が回らないのだ。
 私は調子外れの心臓と驚きを鎮める様に、ふうううと長く息を吐き出す。
 そして「本気?」と、どこか戦々恐々としながら尋ねた。
「本気だ」
 目がそらせない程キリッとした目つきで、しっかりと見据えられ、私はヒュッと息を飲んでしまう。
「こんな大切な事、冗談では言わないぞ」
 真剣な眼差しに射抜かれながら言われたので、私は直ぐさま「そう、よね」と強張りながら答えた。その反応に、善次郎はクスッと柔らかな笑みを零すけれど。その笑顔はすぐに真剣な表情に戻ってしまい、再び逸らす事が出来ない目で射抜かれる。
「どうかな」
 どうかなって。私、どうしたら良いのかしら。善次郎の事は好きだけど、そう言う好きかと問われたら違う気がする。
 でも、善次郎は本当に良い人だと知っている。夫婦になれば大切にしてくれるだろうし、愛情を沢山注いでくれるだろうと思う。幼馴染みでもあるから、気兼ねする事もない。善次郎のお母様とお父様もよく知っているから、舅と姑となっても上手くやっていけると思う。
 けれど、どうしても善次郎の隣に立つ私が、お嫁さんとして立つ姿が想像出来ない。善次郎がお嫁さんに向ける優しさとかも考えられるのに。幸せだと想像出来るのに。善次郎の相手が、不思議と自分だとは思えない。
 私は真剣な目から逃れる様にパッと軽く俯いてから「少し、考えても良いかしら」と歯切れ悪く答えた。
 色好い返事ではなかったせいか。隣に居る善次郎から「嫌なのか?」と間髪入れずに尋ねられる。ひどく面食らっていて、驚きと戸惑いでいっぱいになっていると、よく分かる声音だった。
 私はその声にぶんぶんと首を横に振って「何と言うか」と上ずらせながら、言葉をおずおずと吐き出していく。
「すぐには決められない。だ、だってそう言う風に、善次郎を見た事がなかったのよ。お、幼馴染みだとばかりに思っていたから」
「だからこそだ、りん」
 言葉を遮られながら強く言われるが、「だとしても」と私も負けじと顔を上げて、食い下がる。
「一生懸命考えて決めさせて欲しいの。夫婦になるって言う事は、人生において大切な決断でしょう?幼馴染みだから結婚するって言うのも違うと思うし、気心知れている仲だからその場で答えを出せるって言うのも違うと思うの」
 私が言葉をぶつける度、目に見えて分かる程善次郎の顔はどんどんと暗くなり、沈んでいった。この世の終わりとばかりに気落ちし、「そうか」と意気消沈してしまう。
「で、でも少しだけ良いかもと思ったわ。少し、少しだけそう思ったわよ」