日曜日の昼、私も伯父と葉月に誕生日祝いをしてもらった。
私の大好物をたくさん伯父が作ってくれて、葉月は私のお気に入りのケーキを買ってきてくれた。
物心つく前からの、私の誕生日の風景だった。両親も兄弟もいないような私だけど、いつでも私の隣には伯父と葉月がいて、今年もそれは変わらなかった。
「あ、そろそろ始まるね」
ただ今年は恒例の夏祭りの日が重なったから、誕生日会は夕方で切り上げた。
葉月と二人、伯父に買ってもらった浴衣を着て出かける。小さくて浴衣に着られてしまう私と違って、葉月は堂々としていてナチュラルメイクでも着物がよく映えた。
「ねえ、葉月」
私は伯父のマンションを出て少し歩いたところで、葉月にそっと言った。
「今年は彼氏と一緒に行ってきたらどう?」
「どうしたの、突然」
葉月は笑って私の手を握り直す。それに、私は神妙に言葉を重ねた。
「私とならいつでも行けるから」
「れいちゃんとなら何度でも行きたいな、私」
「えと……」
私は迷いながら、考えてきた言葉を口にする。
「今年は私……別の友達と行こうかと思って」
葉月は迷うように口をつぐむ。
それから彼女はくすりと笑って、首を傾けた。
「伊吹君?」
「ち、違うよ。なんであいつとなんか」
「ふーん」
葉月は信じていないようで、悪戯っぽく頷いた。
「まあ確かに、男の子と一緒に行くなんて言ったら雅人さんが邪魔したでしょうね。うん、それなら私と一緒に行ったってことにしときましょ」
「うー……」
不本意だけど、他に相手も思いつかないから伊吹ということにしておくしかないのだろう。
私は顔を上げて、じっと葉月をみつめる。
「葉月。彼氏と行ってね」
念をおした私に、葉月は苦笑する。
「私の彼氏にれいちゃんが遠慮することないのに。でも今日は誘われてもいたから、行ってくるわ。せっかく浴衣着たしね」
「うん。きっと喜ぶよ。葉月が一番きれいだもん」
「でも伊吹君にはれいちゃんが一番ね」
憮然とする私に、葉月はくすくすと笑った。
それから私たちは駅で別れた。葉月は彼氏の家に寄っていくと言って、私は大学に向かった。
一人で夏祭りに行っても仕方ないし、サークル部屋に行って絵の続きでも描こうかと思ったのだ。
時計塔の前を通りかかったら、ちょうど五時だった。これから恋人同士で夏祭りに行くためか、待ち合わせをしている人でいっぱいだ。
「じゃあね」
その中で彼女らしき人と別れてサークル棟に足を向けた男の人がいた。どこかで見たことがあるから、たぶん先輩だろう。
これから出かける人たちの中で珍しいな。そんなことをぼんやりと思いながら、私もサークル棟に入っていく。
今日は日曜日だし、いくら何でも誰もいないだろう。そう思ってサークル部屋の扉を開いたら、意外なことに人がいた。
「あ」
その内の一人は伊吹だった。
認めたくないけど伊吹はどこにいても目立つ。背が高いし異質な空気をまとっているからすぐに目がそちらにいく。
伊吹は私をみとめるなり少し驚いたように灰色の目を見開いて、ついで何か言おうと口を開いた。
「わぁ、和泉ちゃん来てくれたの?」
その前に声を上げて私の前に立ったのは、先ほど見かけた先輩だった。茶髪で垂れ目の愛嬌のある顔立ちの男の人だ。
「あ、俺、竜也のお兄ちゃんなんだよ。よろしく、和泉ちゃん」
先輩はにこにこしながら優しく頷く。
「ささ、たっちゃんと夏祭り行っておいでー」
「え?」
「邪魔者は退散するから。じゃあね、たっちゃん。今日はお夕飯に間に合わなくてもいいからねー」
ひらひらと手を振って、先輩は私が止める間もなく去っていった。
伊吹と二人、やたら広いサークル部屋に取り残される。
「言っとくけど、私は絵を描きに来たんだからな」
とりあえず私がそれだけ口にすると、伊吹は椅子に座っても私とほとんど変わらない視線の高さでこちらを見てくる。
「浴衣でか?」
「友達と行くつもりだったんだけど……」
「まあ、いいさ。別に、俺に会いにきたわけじゃないことはわかってるから」
伊吹は立ち上がると、部室の隅にあるロッカーの方に向かって歩いていく。
そこから紙袋を取り出してくると、伊吹は私にそれを差し出してきた。
「何?」
「開けてみろ」
あごをしゃくる態度の大きさが気に入らないが、私は渋々紙袋を開いて中身を取り出す。
「スケッチブック?」
それも、私が長年使っているものとそっくり同じものだった。
「やるよ。俺が一冊駄目にしたからな」
伊吹の言葉に、今更ながらひと月前に伊吹が水たまりにスケッチブックを落としたことを思い出す。
「駄目には、なってない」
笹本が乾かしてくれたから、とはなぜか私は口にできなかった。
「それより、悪いと思ってたのか? お前が?」
「あのな、お前は俺を何だと思ってるんだ」
伊吹は無愛想に、けれどはっきりと言った。
「落としたことは俺が悪い。すまなかった、和泉」
このスケッチブックは、いつから伊吹のロッカーに入っていたのだろう。
昼ごはんを一緒に食べようと言いだした夏休みの始めから、もしかしたら私に話しかけ始めたひと月以上前からだろうか。
「そのことはもういい」
「許すか?」
「うん」
何にせよ、伊吹はちゃんと謝ることのできる人間だとわかったから、私はいつものように伊吹を睨むことができなかった。
「それと念のため言っておくが、俺が食事に誘ってたのはこのスケッチブックのためじゃない」
「え、違うのか?」
心が読まれたかと思ってぎくっとすると、伊吹は呆れたような目をした。
「お前、わざとか? それとも本当にわからないのか?」
ため息まじりにぼやいて、伊吹は一瞬黙る。
「……和泉、花が好きらしいな」
唐突な言葉に私が目を瞬かせると、伊吹は静かに言ってくる。
「一緒に花を見に行かないか? たぶん、今日が一番綺麗だ」
昨日までの私なら伊吹の言葉になど耳を貸さなかっただろう。
「話がしたい。お前と」
だけど伊吹がただの嫌な奴じゃないとわかってしまったから、私は顔をしかめながらもすぐに切って捨てることができなかった。
「伊吹は私のこと、馬鹿にするじゃないか。そんな奴と話をしてどうする」
今まで私が会った男の子たちは、笹本以外みんなそうだった。そう思って言うと、伊吹は頷く。
「ひと月前はそうだった。今もそう見えるか?」
私は咄嗟に言い返せず、口の端を下げる。
「今は……そうでもない」
確かに初対面の時は伊吹に馬鹿にされたのを感じた。でも少なくとも食事に誘い始めた頃からは、態度は横柄ではあるが私を見下してはいなかった。
「私は話が下手だ。絵や花のことしか興味がない」
「知ってる。別にいい」
伊吹は灰色の目で私を見下ろして、僅かに口の端を上げる。
「なんならお前が最近興味津々な、笹本の話にでも付き合ってやるよ」
私はぐっと黙って、顔をしかめる。
「一言余計だ」
けれど結局押し切られる形で、私は伊吹と外に出かけることになった。
大学の表にある大通りに出ると、今日は歩行者天国になっていた。
夜が訪れようとする空の元、煌々と灯りをともした屋台が立ち並んで、無数の人が行きかう。
「まだ一時間くらいある。夕飯でも探しながら歩くぞ」
伊吹はそう言って歩き始める。
「和泉、何が食べたい?」
私は答えに困った。お腹が空いていなかったからじゃない。
「いや、私は食べない」
「何か食ってきたのか?」
「そういうわけじゃなくて」
迷ったけど、私は仕方なく答える。
「一人じゃ食べきれない。だから、こういうところじゃ買うのはもったいない」
いつも夏祭りに来た時は葉月と半分ずつ食べる。葉月はモデルとして食事制限をしているから、私と二人でちょうど一人前なのだ。
「残ったら俺が食ってやるよ。気にせず何か食え」
「そんなに食べられるのか、お前。二人前近くなるぞ」
私が驚いて伊吹を見返すと、彼はちらっと私を見る。
「前から思ってたんだが、お前女子校出身か?」
「そうだが、それが何か関係あるのか」
「幼稚園からエスカレーター?」
「それもそうだが、だからそれに何の関係が」
「で、他校の男と付き合った経験もなし、と」
「帰っていいか? 伊吹」
私がちょっと睨むと、伊吹はようやく私の質問に答える。
「男のいない環境で育ったんだろうと思ってな。別に男なら二人前食べる奴なんてざらにいる」
「いないわけじゃない。伯父がいる」
「和泉雅人か」
「なんで知ってる」
「会ったことがある。業界じゃ有名だ。洗練された大人だな」
どこで会ったのかとかいろいろ問い詰めたい気はしたけど、伯父を褒められたことに私は気を良くする。
「うん。伯父は私の自慢だ」
「でもあの人は一般的な男じゃないな。かすみでも食って生きてそうだ」
「ふふ。さすがにそこまでじゃない。伯父も人間だからな」
私が苦笑を返すと、伊吹はふいに言葉を収める。
「どうした?」
「いや、今珍しいものを見た」
伊吹は目を逸らして歩みを進める。
沈黙が流れた。何か言った方がいいのかとも思ったけど、私は不思議と声が出ないでいた。
「あ! 俳優の伊吹君ですよね!」
でもそれは長くは続かず、五分もしない内に女の子たちが寄ってきた。
よくあることで、伊吹は大学内でも隙があれば人に囲まれている。
「プライベートだから声をかけないでくれ」
「やっぱり本物だ」
「お願いです。写真とかサインとか」
「あ、よかったら一緒に」
長くなりそうだと判断して、私はその辺の露店に何気なく足を向けようとした。
「プライベートだと言っている」
だけどその場から動けなくて、片足を上げたまま私は止まる。振り返ると、伊吹が私の腕を掴んでいた。
「連れがいるのに一緒とか言うな。彼女に失礼だろうが」
行くぞと引っ張られて私は半ば無理に歩き出すことになった。
背後にきつい視線を感じながら、私は少し離れたところで伊吹に言う。
「伊吹、本当に愛想ないな。これじゃファンがいなくならないか」
「お前に愛想のことを言われたくはないが」
灰色がかった目で私を見下ろしながら、伊吹はそっけなく答える。
「俺が業界に入った目的は演劇をやるためだ。人気者になるためじゃない」
「だが人付き合いという意味でお前は致命的だぞ」
「笹本なら少なくとも、立ち止まって優しい言葉の一つくらいはかける、か?」
私は考えていた比較対象をぴたりと言いあてられて、少し口の端を下げる。
「わかってるなら何とかすればいいのに」
「少しも悪いと思ってないのに変える必要なんてないだろう」
伊吹は口元に冷たい笑みを刻む。
「笹本は馬鹿な奴だな」
「なに?」
私が剣呑な声を出すと、伊吹はわかっていたように振り向く。
「誰にでも愛想振りまいてたら、これっていう相手には本気で思われないだろうよ」
「笹本は彼女には特別だ。彼女といる時は他の子とそんなに話さないと聞いた」
「彼女って奴がよほど馬鹿じゃない限り気づくだろ」
伊吹はちらと私を見て言う。
「お前だって本当は疑ってるんじゃないか? 笹本に遊ばれてるんじゃないかって」
「違う」
私はすぐに否定しながら、冷たい汗が体のどこかを流れたような気がした。
笹本はなぜ葉月というかわいい彼女がいながら私などに声をかけてきたのか。友達などいくらでもいそうなのに友達がほしいと言ってきたのか。
「笹本は優しいからだ。私みたいなのでも、放っておけないだけだ」
つと伊吹は笑みを消す。
「私みたいなのって何だ。卑屈な奴だな」
「卑屈なんじゃない。お前の口癖を借りるなら、事実だからだ」
私は前を向いて呟く。
「綺麗で愛想がいい女の子の方が、男の人は好きだ」
笹本だってそう思ってるだろう。私も葉月に敵うなんて、元より思っていない。
「だったらお前は何で笹本がいいんだ。どう見たって俺の方がかっこいいのに」
全くためらいなく言ってきた伊吹に、私はむっとする。
「お前はナルシストか。自分で言うな」
黙っていれば顔がいいことくらい認めてやってもいいのに、こいつも懲りない奴だと口の端を下げる。
「俺は笹本に劣るところなんか一つもないと思ってる」
「ああ、はいはい。それがお前の事実なんだろ」
「ただ百歩譲って、笹本の顔の方がお前の好みだとしても」
珍しく伊吹は一歩引いて、言葉を重ねる。
「だがあいつが本当に優しいか? あいつの「優しさ」に疑いを持ってるのは、何もお前だけじゃないぞ」
私の心の隙間に冷たい風が入り込むような心地がした。
「うちのサークルの中でも笹本に好意を持ってる女子は多いが、同じくらいあいつがうさんくさいと思ってる奴がいる」
「何のことだ。私が笹本をうさんくさいと考えてるとでも?」
「お前は自分の恋愛感情だけで突っ走るようには見えない。周りの評価も多少は聞いてるだろう」
伊吹はつくづく嫌な奴だと思うのはこんな瞬間だ。こいつは自分勝手なようで、けっこう人の観察をしているのだ。
――いろんな女の子に気のある素振りをするのよね、彼。
私が笹本についてあまりよくない噂を聞いていることも、どこで知っているのか不思議なくらいだ。
「笹本を馬鹿にするな」
私は優しい笹本を知っている。そんな噂なんて本気にしていない。
そう胸を張って言えるほど、私は強くない。
「帰る」
私にできることといえば、晴れない疑いから目を背けることくらいだ。
「待てよ、和泉」
「嫌だ」
顔を背けて伊吹と逆方向に行こうとした私を、伊吹は難なく肩を掴んで止める。
私より遥かに高い身長が視界の隅に映る。広い肩幅、大きな手、ごつごつした骨格が見える。
どうしてこいつは私と違って、こんなに大きいのだろう。
そしてなぜわかってしまうのだろう。その長身でもって、まるで鳥が空から虫を見るように見通せてしまうのだろうか。
「そういうことを言うから、私はお前が……」
大嫌いなんだと言おうとして、私は胸の辺りに衝撃を受けた。
突然人波の中で立ち止まったのがよくなかったのだろう。走ってきた男の子がぶつかったらしく、小さい私は簡単に弾かれる。
「和泉!」
けれど私は倒れることがなかった。
伊吹が私の背中に腕を回して抱きかかえるように引き寄せていた。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
すとん、と地面に下ろされて、私は目を回しながらも答える。
「わぁぁん!」
だけどぶつかった男の子はまだ小学校に上がりたてくらいの幼さだったから、はずみで転んでしまったらしい。わっと泣き始めた。
「あ!」
その声を聞き付けたのか、男の子よりもう少し年上の男の子が駆け寄って来る。私たちとその子を見比べながら頭を下げた。
「弟がごめんなさい。お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
何のことだろうと思って私が首を傾げると、伊吹が自分と私の胸元に指を向ける。
見ると、私の浴衣と伊吹のシャツにアイスクリームの染みができていた。それと、ぶつかった男の子の側にいびつに崩れたアイスクリームが落ちている。
どうやら男の子が持っていたアイスクリームが私について、その私を抱えた伊吹にもついた。そういうことらしい。
「ほら、お前も謝りな」
「だって、アイス、アイス……」
「そんなの後だって。ごめんなさい!」
泣きやまない弟の頭を無理やり下げさせながら、お兄さんらしい男の子が一生懸命言ってくる。
「あ、いや。私は全然気にしない……」
アイスくらい洗えば落ちるからと、私が慌てて言おうとした時だった。
伊吹が一歩進み出て弟の方に近付く。
私は咄嗟に、伊吹が男の子に怒ると思ってその腕を掴む。
「……怪我はしてないみたいだな」
だけど伊吹は少し屈んで、男の子を覗き込んだだけだった。
「え?」
「ちょっと待ってろ」
無愛想にそう言って、伊吹は近くの屋台に足を向ける。
「ほら、泣くな」
伊吹はすぐに戻ってくるなり兄弟に一つずつアイスを持たせて、二人の頭をぽんと軽く叩く。
「前向いて歩けよ。あと、兄ちゃんをあんまり困らせるようなことするな」
それから私を連れて伊吹は歩き出す。
少し歩いたところで、私は伊吹に言った。
「お前、子どもには優しいんだな」
服装にも抜群にこだわっている伊吹なら、てっきりアイスをつけられたことを怒るかと思っていた。
「別に。必死に弟を庇ってる兄貴が不憫になっただけだ」
伊吹はそっけなく返したけど、私は少し笑っていた。
優しさというものは言葉だけで表わされるものではないのだと、伊吹を見ていて思ったから。
「替えの服はどうする?」
「いい。洗って少しすれば乾く」
「ならジャージでも貸してやるよ。ちょうど時間だから何か買って大学に戻るぞ」
やきそばでいいかと伊吹は問いかけてくる。それに、ああいいよと私も答える。
帰ると言い放った時の激しい憤りは収まっていた。
今日くらいこのわかりにくい優しさを持つ奴に付き合ってみてもいい。私はそう思っていた。
数刻後、私は伊吹と大学の三階にある連結通路で空を仰いでいた。
「そういえば、葉月はお前の親友なんだってな」
伊吹の貸してくれたジャージは、笹本のものより大きかった。袖など三回折らなければいけなかったほどだ。
「もしかして、それが笹本の彼女か」
「……ああ」
「なるほど。ようやくわかった」
どうして伊吹にこんなことを話しているのだろうと思いながらも、私はぽつぽつと言葉を返す。
「親友に遠慮してるってか。別に俺なら気にしないがね」
「私にとって、葉月は特別なんだ」
ここは隠れた花火の鑑賞スポットらしい。ちょうど木々が分かれていて、空が開けて見える。
「一番大切な子なんだ。葉月を傷つけるようなことは、絶対にしたくない」
頬を撫でていく風に私は目を閉じる。
「確かに……好きだけど」
私が認めないだけで、もう伊吹にだってとうに知られてることを、まだためらいながら言う。
「……でも、あきらめてるよ」
笹本に会ったその日、葉月の彼氏だと知った瞬間に、あきらめようと思ったはずだ。どうしてかそれに踏み切れないまま、ずるずると時を過ごしてしまったけれど。
夏祭りのざわめきが、風に乗ってここまで聞こえてくる。
沈黙の後、伊吹が口を開いた。
「和泉。この間、俺がお前のことを好きなのかって訊いたよな」
「それはもう忘れてくれ。からかっただけだから。お前だって絶句してただろう」
私が苦笑を洩らすと、伊吹は小さく息をついた。
「そうだな。呆れて何も言えなかった」
それはそうだなと言おうとして、伊吹の次の言葉に遮られる。
「そんな当たり前のこと、こいつはまだわかってなかったのかと。なんで俺がしつこく食事だの何だの誘ってたかだって? 理由は一つしかないだろう」
伊吹は低く言い放つ。
「わからないならはっきり言う。こっち向け」
「……違う。お前は何か誤解してる。そんなわけない」
「怖がるな、和泉。事実はちゃんと受け入れろ」
伊吹は私の肩に手を置いて、咄嗟に目を逸らした私を覗き込む。
「俺はお前のことが好きだ」
灰色の目で私を捉えて言った。真剣すぎて怖かった。
「お、おかしいじゃないか。なんでお前が、私を」
茶化すことも許されなくて、私はただうろたえることしかできない。
「和泉はまっすぐだよ。きれいだ。静かに見えて情熱的だ」
そんな伊吹の灰色の目こそが、今は激しい光を帯びていた。まるで氷が燃えているようだと思った。
「お前に笹本程度の男なんて合わない。だから、俺にしろとずっと言っている」
きっぱりと告げて、伊吹はようやく私の肩から手を離す。
私はのろのろと俯いた。何が何だかまだよくわからなかった。
「和泉。笹本をあきらめたいんだろう」
頭のねじが数本抜けたような状態だったけれど、私はこくんと頷く。
「なら、俺と付き合え。なんなら、最初は噂を流すだけでもいい」
「……なんで」
「笹本は俺のことも、俺の取り巻きも嫌いだ。俺と仲がいいとわかれば、笹本は自分からお前に近付くことをやめるかもしれない」
確かに笹本は嫌いな人間には愛想程度も振りまかない。
「それでもお前にちょっかいを出すようなら俺が追い払う。俺にしてもあいつからお前を引きはがせるならちょうどいい」
言葉を返すことができない私に、伊吹は告げる。
「今答えろとは言わないから、考えておくといい」
ほらと伊吹は空を指さす。
「見てみろ。植物以外の花もいいもんだろ」
紺色の夜空に火の花が咲く。
それは私がいつも見つめている花とは違った。
けれど一度目にすれば忘れられないほど鮮烈で、目も眩むほど綺麗な花だった。
私の大好物をたくさん伯父が作ってくれて、葉月は私のお気に入りのケーキを買ってきてくれた。
物心つく前からの、私の誕生日の風景だった。両親も兄弟もいないような私だけど、いつでも私の隣には伯父と葉月がいて、今年もそれは変わらなかった。
「あ、そろそろ始まるね」
ただ今年は恒例の夏祭りの日が重なったから、誕生日会は夕方で切り上げた。
葉月と二人、伯父に買ってもらった浴衣を着て出かける。小さくて浴衣に着られてしまう私と違って、葉月は堂々としていてナチュラルメイクでも着物がよく映えた。
「ねえ、葉月」
私は伯父のマンションを出て少し歩いたところで、葉月にそっと言った。
「今年は彼氏と一緒に行ってきたらどう?」
「どうしたの、突然」
葉月は笑って私の手を握り直す。それに、私は神妙に言葉を重ねた。
「私とならいつでも行けるから」
「れいちゃんとなら何度でも行きたいな、私」
「えと……」
私は迷いながら、考えてきた言葉を口にする。
「今年は私……別の友達と行こうかと思って」
葉月は迷うように口をつぐむ。
それから彼女はくすりと笑って、首を傾けた。
「伊吹君?」
「ち、違うよ。なんであいつとなんか」
「ふーん」
葉月は信じていないようで、悪戯っぽく頷いた。
「まあ確かに、男の子と一緒に行くなんて言ったら雅人さんが邪魔したでしょうね。うん、それなら私と一緒に行ったってことにしときましょ」
「うー……」
不本意だけど、他に相手も思いつかないから伊吹ということにしておくしかないのだろう。
私は顔を上げて、じっと葉月をみつめる。
「葉月。彼氏と行ってね」
念をおした私に、葉月は苦笑する。
「私の彼氏にれいちゃんが遠慮することないのに。でも今日は誘われてもいたから、行ってくるわ。せっかく浴衣着たしね」
「うん。きっと喜ぶよ。葉月が一番きれいだもん」
「でも伊吹君にはれいちゃんが一番ね」
憮然とする私に、葉月はくすくすと笑った。
それから私たちは駅で別れた。葉月は彼氏の家に寄っていくと言って、私は大学に向かった。
一人で夏祭りに行っても仕方ないし、サークル部屋に行って絵の続きでも描こうかと思ったのだ。
時計塔の前を通りかかったら、ちょうど五時だった。これから恋人同士で夏祭りに行くためか、待ち合わせをしている人でいっぱいだ。
「じゃあね」
その中で彼女らしき人と別れてサークル棟に足を向けた男の人がいた。どこかで見たことがあるから、たぶん先輩だろう。
これから出かける人たちの中で珍しいな。そんなことをぼんやりと思いながら、私もサークル棟に入っていく。
今日は日曜日だし、いくら何でも誰もいないだろう。そう思ってサークル部屋の扉を開いたら、意外なことに人がいた。
「あ」
その内の一人は伊吹だった。
認めたくないけど伊吹はどこにいても目立つ。背が高いし異質な空気をまとっているからすぐに目がそちらにいく。
伊吹は私をみとめるなり少し驚いたように灰色の目を見開いて、ついで何か言おうと口を開いた。
「わぁ、和泉ちゃん来てくれたの?」
その前に声を上げて私の前に立ったのは、先ほど見かけた先輩だった。茶髪で垂れ目の愛嬌のある顔立ちの男の人だ。
「あ、俺、竜也のお兄ちゃんなんだよ。よろしく、和泉ちゃん」
先輩はにこにこしながら優しく頷く。
「ささ、たっちゃんと夏祭り行っておいでー」
「え?」
「邪魔者は退散するから。じゃあね、たっちゃん。今日はお夕飯に間に合わなくてもいいからねー」
ひらひらと手を振って、先輩は私が止める間もなく去っていった。
伊吹と二人、やたら広いサークル部屋に取り残される。
「言っとくけど、私は絵を描きに来たんだからな」
とりあえず私がそれだけ口にすると、伊吹は椅子に座っても私とほとんど変わらない視線の高さでこちらを見てくる。
「浴衣でか?」
「友達と行くつもりだったんだけど……」
「まあ、いいさ。別に、俺に会いにきたわけじゃないことはわかってるから」
伊吹は立ち上がると、部室の隅にあるロッカーの方に向かって歩いていく。
そこから紙袋を取り出してくると、伊吹は私にそれを差し出してきた。
「何?」
「開けてみろ」
あごをしゃくる態度の大きさが気に入らないが、私は渋々紙袋を開いて中身を取り出す。
「スケッチブック?」
それも、私が長年使っているものとそっくり同じものだった。
「やるよ。俺が一冊駄目にしたからな」
伊吹の言葉に、今更ながらひと月前に伊吹が水たまりにスケッチブックを落としたことを思い出す。
「駄目には、なってない」
笹本が乾かしてくれたから、とはなぜか私は口にできなかった。
「それより、悪いと思ってたのか? お前が?」
「あのな、お前は俺を何だと思ってるんだ」
伊吹は無愛想に、けれどはっきりと言った。
「落としたことは俺が悪い。すまなかった、和泉」
このスケッチブックは、いつから伊吹のロッカーに入っていたのだろう。
昼ごはんを一緒に食べようと言いだした夏休みの始めから、もしかしたら私に話しかけ始めたひと月以上前からだろうか。
「そのことはもういい」
「許すか?」
「うん」
何にせよ、伊吹はちゃんと謝ることのできる人間だとわかったから、私はいつものように伊吹を睨むことができなかった。
「それと念のため言っておくが、俺が食事に誘ってたのはこのスケッチブックのためじゃない」
「え、違うのか?」
心が読まれたかと思ってぎくっとすると、伊吹は呆れたような目をした。
「お前、わざとか? それとも本当にわからないのか?」
ため息まじりにぼやいて、伊吹は一瞬黙る。
「……和泉、花が好きらしいな」
唐突な言葉に私が目を瞬かせると、伊吹は静かに言ってくる。
「一緒に花を見に行かないか? たぶん、今日が一番綺麗だ」
昨日までの私なら伊吹の言葉になど耳を貸さなかっただろう。
「話がしたい。お前と」
だけど伊吹がただの嫌な奴じゃないとわかってしまったから、私は顔をしかめながらもすぐに切って捨てることができなかった。
「伊吹は私のこと、馬鹿にするじゃないか。そんな奴と話をしてどうする」
今まで私が会った男の子たちは、笹本以外みんなそうだった。そう思って言うと、伊吹は頷く。
「ひと月前はそうだった。今もそう見えるか?」
私は咄嗟に言い返せず、口の端を下げる。
「今は……そうでもない」
確かに初対面の時は伊吹に馬鹿にされたのを感じた。でも少なくとも食事に誘い始めた頃からは、態度は横柄ではあるが私を見下してはいなかった。
「私は話が下手だ。絵や花のことしか興味がない」
「知ってる。別にいい」
伊吹は灰色の目で私を見下ろして、僅かに口の端を上げる。
「なんならお前が最近興味津々な、笹本の話にでも付き合ってやるよ」
私はぐっと黙って、顔をしかめる。
「一言余計だ」
けれど結局押し切られる形で、私は伊吹と外に出かけることになった。
大学の表にある大通りに出ると、今日は歩行者天国になっていた。
夜が訪れようとする空の元、煌々と灯りをともした屋台が立ち並んで、無数の人が行きかう。
「まだ一時間くらいある。夕飯でも探しながら歩くぞ」
伊吹はそう言って歩き始める。
「和泉、何が食べたい?」
私は答えに困った。お腹が空いていなかったからじゃない。
「いや、私は食べない」
「何か食ってきたのか?」
「そういうわけじゃなくて」
迷ったけど、私は仕方なく答える。
「一人じゃ食べきれない。だから、こういうところじゃ買うのはもったいない」
いつも夏祭りに来た時は葉月と半分ずつ食べる。葉月はモデルとして食事制限をしているから、私と二人でちょうど一人前なのだ。
「残ったら俺が食ってやるよ。気にせず何か食え」
「そんなに食べられるのか、お前。二人前近くなるぞ」
私が驚いて伊吹を見返すと、彼はちらっと私を見る。
「前から思ってたんだが、お前女子校出身か?」
「そうだが、それが何か関係あるのか」
「幼稚園からエスカレーター?」
「それもそうだが、だからそれに何の関係が」
「で、他校の男と付き合った経験もなし、と」
「帰っていいか? 伊吹」
私がちょっと睨むと、伊吹はようやく私の質問に答える。
「男のいない環境で育ったんだろうと思ってな。別に男なら二人前食べる奴なんてざらにいる」
「いないわけじゃない。伯父がいる」
「和泉雅人か」
「なんで知ってる」
「会ったことがある。業界じゃ有名だ。洗練された大人だな」
どこで会ったのかとかいろいろ問い詰めたい気はしたけど、伯父を褒められたことに私は気を良くする。
「うん。伯父は私の自慢だ」
「でもあの人は一般的な男じゃないな。かすみでも食って生きてそうだ」
「ふふ。さすがにそこまでじゃない。伯父も人間だからな」
私が苦笑を返すと、伊吹はふいに言葉を収める。
「どうした?」
「いや、今珍しいものを見た」
伊吹は目を逸らして歩みを進める。
沈黙が流れた。何か言った方がいいのかとも思ったけど、私は不思議と声が出ないでいた。
「あ! 俳優の伊吹君ですよね!」
でもそれは長くは続かず、五分もしない内に女の子たちが寄ってきた。
よくあることで、伊吹は大学内でも隙があれば人に囲まれている。
「プライベートだから声をかけないでくれ」
「やっぱり本物だ」
「お願いです。写真とかサインとか」
「あ、よかったら一緒に」
長くなりそうだと判断して、私はその辺の露店に何気なく足を向けようとした。
「プライベートだと言っている」
だけどその場から動けなくて、片足を上げたまま私は止まる。振り返ると、伊吹が私の腕を掴んでいた。
「連れがいるのに一緒とか言うな。彼女に失礼だろうが」
行くぞと引っ張られて私は半ば無理に歩き出すことになった。
背後にきつい視線を感じながら、私は少し離れたところで伊吹に言う。
「伊吹、本当に愛想ないな。これじゃファンがいなくならないか」
「お前に愛想のことを言われたくはないが」
灰色がかった目で私を見下ろしながら、伊吹はそっけなく答える。
「俺が業界に入った目的は演劇をやるためだ。人気者になるためじゃない」
「だが人付き合いという意味でお前は致命的だぞ」
「笹本なら少なくとも、立ち止まって優しい言葉の一つくらいはかける、か?」
私は考えていた比較対象をぴたりと言いあてられて、少し口の端を下げる。
「わかってるなら何とかすればいいのに」
「少しも悪いと思ってないのに変える必要なんてないだろう」
伊吹は口元に冷たい笑みを刻む。
「笹本は馬鹿な奴だな」
「なに?」
私が剣呑な声を出すと、伊吹はわかっていたように振り向く。
「誰にでも愛想振りまいてたら、これっていう相手には本気で思われないだろうよ」
「笹本は彼女には特別だ。彼女といる時は他の子とそんなに話さないと聞いた」
「彼女って奴がよほど馬鹿じゃない限り気づくだろ」
伊吹はちらと私を見て言う。
「お前だって本当は疑ってるんじゃないか? 笹本に遊ばれてるんじゃないかって」
「違う」
私はすぐに否定しながら、冷たい汗が体のどこかを流れたような気がした。
笹本はなぜ葉月というかわいい彼女がいながら私などに声をかけてきたのか。友達などいくらでもいそうなのに友達がほしいと言ってきたのか。
「笹本は優しいからだ。私みたいなのでも、放っておけないだけだ」
つと伊吹は笑みを消す。
「私みたいなのって何だ。卑屈な奴だな」
「卑屈なんじゃない。お前の口癖を借りるなら、事実だからだ」
私は前を向いて呟く。
「綺麗で愛想がいい女の子の方が、男の人は好きだ」
笹本だってそう思ってるだろう。私も葉月に敵うなんて、元より思っていない。
「だったらお前は何で笹本がいいんだ。どう見たって俺の方がかっこいいのに」
全くためらいなく言ってきた伊吹に、私はむっとする。
「お前はナルシストか。自分で言うな」
黙っていれば顔がいいことくらい認めてやってもいいのに、こいつも懲りない奴だと口の端を下げる。
「俺は笹本に劣るところなんか一つもないと思ってる」
「ああ、はいはい。それがお前の事実なんだろ」
「ただ百歩譲って、笹本の顔の方がお前の好みだとしても」
珍しく伊吹は一歩引いて、言葉を重ねる。
「だがあいつが本当に優しいか? あいつの「優しさ」に疑いを持ってるのは、何もお前だけじゃないぞ」
私の心の隙間に冷たい風が入り込むような心地がした。
「うちのサークルの中でも笹本に好意を持ってる女子は多いが、同じくらいあいつがうさんくさいと思ってる奴がいる」
「何のことだ。私が笹本をうさんくさいと考えてるとでも?」
「お前は自分の恋愛感情だけで突っ走るようには見えない。周りの評価も多少は聞いてるだろう」
伊吹はつくづく嫌な奴だと思うのはこんな瞬間だ。こいつは自分勝手なようで、けっこう人の観察をしているのだ。
――いろんな女の子に気のある素振りをするのよね、彼。
私が笹本についてあまりよくない噂を聞いていることも、どこで知っているのか不思議なくらいだ。
「笹本を馬鹿にするな」
私は優しい笹本を知っている。そんな噂なんて本気にしていない。
そう胸を張って言えるほど、私は強くない。
「帰る」
私にできることといえば、晴れない疑いから目を背けることくらいだ。
「待てよ、和泉」
「嫌だ」
顔を背けて伊吹と逆方向に行こうとした私を、伊吹は難なく肩を掴んで止める。
私より遥かに高い身長が視界の隅に映る。広い肩幅、大きな手、ごつごつした骨格が見える。
どうしてこいつは私と違って、こんなに大きいのだろう。
そしてなぜわかってしまうのだろう。その長身でもって、まるで鳥が空から虫を見るように見通せてしまうのだろうか。
「そういうことを言うから、私はお前が……」
大嫌いなんだと言おうとして、私は胸の辺りに衝撃を受けた。
突然人波の中で立ち止まったのがよくなかったのだろう。走ってきた男の子がぶつかったらしく、小さい私は簡単に弾かれる。
「和泉!」
けれど私は倒れることがなかった。
伊吹が私の背中に腕を回して抱きかかえるように引き寄せていた。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
すとん、と地面に下ろされて、私は目を回しながらも答える。
「わぁぁん!」
だけどぶつかった男の子はまだ小学校に上がりたてくらいの幼さだったから、はずみで転んでしまったらしい。わっと泣き始めた。
「あ!」
その声を聞き付けたのか、男の子よりもう少し年上の男の子が駆け寄って来る。私たちとその子を見比べながら頭を下げた。
「弟がごめんなさい。お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
何のことだろうと思って私が首を傾げると、伊吹が自分と私の胸元に指を向ける。
見ると、私の浴衣と伊吹のシャツにアイスクリームの染みができていた。それと、ぶつかった男の子の側にいびつに崩れたアイスクリームが落ちている。
どうやら男の子が持っていたアイスクリームが私について、その私を抱えた伊吹にもついた。そういうことらしい。
「ほら、お前も謝りな」
「だって、アイス、アイス……」
「そんなの後だって。ごめんなさい!」
泣きやまない弟の頭を無理やり下げさせながら、お兄さんらしい男の子が一生懸命言ってくる。
「あ、いや。私は全然気にしない……」
アイスくらい洗えば落ちるからと、私が慌てて言おうとした時だった。
伊吹が一歩進み出て弟の方に近付く。
私は咄嗟に、伊吹が男の子に怒ると思ってその腕を掴む。
「……怪我はしてないみたいだな」
だけど伊吹は少し屈んで、男の子を覗き込んだだけだった。
「え?」
「ちょっと待ってろ」
無愛想にそう言って、伊吹は近くの屋台に足を向ける。
「ほら、泣くな」
伊吹はすぐに戻ってくるなり兄弟に一つずつアイスを持たせて、二人の頭をぽんと軽く叩く。
「前向いて歩けよ。あと、兄ちゃんをあんまり困らせるようなことするな」
それから私を連れて伊吹は歩き出す。
少し歩いたところで、私は伊吹に言った。
「お前、子どもには優しいんだな」
服装にも抜群にこだわっている伊吹なら、てっきりアイスをつけられたことを怒るかと思っていた。
「別に。必死に弟を庇ってる兄貴が不憫になっただけだ」
伊吹はそっけなく返したけど、私は少し笑っていた。
優しさというものは言葉だけで表わされるものではないのだと、伊吹を見ていて思ったから。
「替えの服はどうする?」
「いい。洗って少しすれば乾く」
「ならジャージでも貸してやるよ。ちょうど時間だから何か買って大学に戻るぞ」
やきそばでいいかと伊吹は問いかけてくる。それに、ああいいよと私も答える。
帰ると言い放った時の激しい憤りは収まっていた。
今日くらいこのわかりにくい優しさを持つ奴に付き合ってみてもいい。私はそう思っていた。
数刻後、私は伊吹と大学の三階にある連結通路で空を仰いでいた。
「そういえば、葉月はお前の親友なんだってな」
伊吹の貸してくれたジャージは、笹本のものより大きかった。袖など三回折らなければいけなかったほどだ。
「もしかして、それが笹本の彼女か」
「……ああ」
「なるほど。ようやくわかった」
どうして伊吹にこんなことを話しているのだろうと思いながらも、私はぽつぽつと言葉を返す。
「親友に遠慮してるってか。別に俺なら気にしないがね」
「私にとって、葉月は特別なんだ」
ここは隠れた花火の鑑賞スポットらしい。ちょうど木々が分かれていて、空が開けて見える。
「一番大切な子なんだ。葉月を傷つけるようなことは、絶対にしたくない」
頬を撫でていく風に私は目を閉じる。
「確かに……好きだけど」
私が認めないだけで、もう伊吹にだってとうに知られてることを、まだためらいながら言う。
「……でも、あきらめてるよ」
笹本に会ったその日、葉月の彼氏だと知った瞬間に、あきらめようと思ったはずだ。どうしてかそれに踏み切れないまま、ずるずると時を過ごしてしまったけれど。
夏祭りのざわめきが、風に乗ってここまで聞こえてくる。
沈黙の後、伊吹が口を開いた。
「和泉。この間、俺がお前のことを好きなのかって訊いたよな」
「それはもう忘れてくれ。からかっただけだから。お前だって絶句してただろう」
私が苦笑を洩らすと、伊吹は小さく息をついた。
「そうだな。呆れて何も言えなかった」
それはそうだなと言おうとして、伊吹の次の言葉に遮られる。
「そんな当たり前のこと、こいつはまだわかってなかったのかと。なんで俺がしつこく食事だの何だの誘ってたかだって? 理由は一つしかないだろう」
伊吹は低く言い放つ。
「わからないならはっきり言う。こっち向け」
「……違う。お前は何か誤解してる。そんなわけない」
「怖がるな、和泉。事実はちゃんと受け入れろ」
伊吹は私の肩に手を置いて、咄嗟に目を逸らした私を覗き込む。
「俺はお前のことが好きだ」
灰色の目で私を捉えて言った。真剣すぎて怖かった。
「お、おかしいじゃないか。なんでお前が、私を」
茶化すことも許されなくて、私はただうろたえることしかできない。
「和泉はまっすぐだよ。きれいだ。静かに見えて情熱的だ」
そんな伊吹の灰色の目こそが、今は激しい光を帯びていた。まるで氷が燃えているようだと思った。
「お前に笹本程度の男なんて合わない。だから、俺にしろとずっと言っている」
きっぱりと告げて、伊吹はようやく私の肩から手を離す。
私はのろのろと俯いた。何が何だかまだよくわからなかった。
「和泉。笹本をあきらめたいんだろう」
頭のねじが数本抜けたような状態だったけれど、私はこくんと頷く。
「なら、俺と付き合え。なんなら、最初は噂を流すだけでもいい」
「……なんで」
「笹本は俺のことも、俺の取り巻きも嫌いだ。俺と仲がいいとわかれば、笹本は自分からお前に近付くことをやめるかもしれない」
確かに笹本は嫌いな人間には愛想程度も振りまかない。
「それでもお前にちょっかいを出すようなら俺が追い払う。俺にしてもあいつからお前を引きはがせるならちょうどいい」
言葉を返すことができない私に、伊吹は告げる。
「今答えろとは言わないから、考えておくといい」
ほらと伊吹は空を指さす。
「見てみろ。植物以外の花もいいもんだろ」
紺色の夜空に火の花が咲く。
それは私がいつも見つめている花とは違った。
けれど一度目にすれば忘れられないほど鮮烈で、目も眩むほど綺麗な花だった。