(1)
 空を見上げながら走ると、なんだか空中散歩をしているような気分になる。爽やかな快晴が、柔らかな雲と一緒に併走してくれているようだ。
 あの柔らかな雲に触れてみたい。幼い頃に描いた夢。それが叶わないことは重々に承知している。でも、夢を見ることは自由じゃないか。
 高い空はどこまでも遠い。
 どれだけ手を伸ばしても、きっと届くことはないのだろう。それでも、空を飛ぶことはできたんだ。飛行機と言う文明の利器を使用したけれど、飛んだという事実には変わりない。
 それなら、雲にだって触れられるはずなんだ。
 雲はいつか掴める。
 少なくとも、俺はそう信じていた。


 陸上部でも何でもない万年帰宅部を貫こうと決めた俺は、今日も一周ちょうど一キロメートルの校舎の外周をランニングする。週に五日か六日。入学してすぐ始めたこのランニングは、今ではもうすっかり習慣になっていた。
 帰宅部が自主的に外周ランニングをするという異常な光景は、瞬く間に噂となった。そのせいで俺はまだ一年生にもかかわらず、校内では変人という不名誉なレッテルを貼られている。つい先日に行われた校内マラソン大会では見事に一位を獲得し、校内誌に「帰宅部、月見樹快走!」とでかでかと掲載されてしまった。陸上部の顧問から頻繁に勧誘を受けるが、あいにく部活動をするつもりはない。ただ、体を動かすことが好きなだけだ。
 チームに所属したり仲間と練習をしたり、大会に出たり。そういうのはもういらない。
 そう、今の俺は単純に走ることが好きだけだ。特に長い距離がいい。昔から外周ランニングは好きだったが、ある日を境にその思いは一段と強くなった。
 一人で、もくもくと。ただタイムを縮めるためだけに足を前に運ぶ。それがたまらなく爽快で、それだけがあればよかった。

 ちょうどスタート地点の校門の前に戻ってきた。
 今日は五周、五キロメートル。最近オーバーワーク気味だから、今日はここらへんで切り上げよう。ペースを徐々に落とし、ゆっくりとした歩行へと切り替える。ダウンがてらにもう一周歩こう、と思った。
 今日は、とても寒い。昨日が春の陽気だったので、なおさらだ。露出している足首に冷たい風が吹きつける。汗をかいているせいで、体温は急激に下がっていった。
 はるか遠くの後方から、集団で走る足音が近づいてくる。野球部かサッカー部か。団体でプレーする部活のやつらだろう。俺は集団で走ることはあまり得意ではない。足並みを揃えることが苦手なのかもしれない。昔はあまりそう思っていなかったが、最近になって強くそう思うようになった。一人が好きだ。友達は欲しいし、クラスには友達と呼べる存在も多い。でも、スポーツだけは一人で取り組みたいと思う。だから、団体競技を続けることのできるやつらを純粋にすごいと尊敬している。
しばらくして追い越していったのは、予想に反したハンドボール部だった。でも、やっぱり団体競技だ。
 ふと、何かを踏んだような気がして下を向く。ランニングシューズのひもがほどけかけていた。すぐにかがんで、解けないように二重にして結んだ。
「あれ、樹?」
 懐かしく優しい声。高く通った鼻に切れ長の一重瞼。はにかむ笑顔が爽やかで素敵な人を、俺はよく知っていた。
「克己先輩!」
「久しぶり、外周トレーニングか?」
「まぁ、そんなところっす」
「部活?」
「自主トレっすね。帰宅部っすから」
 克己先輩は少し気まずそうに視線を下げた。長い睫毛が頬に影を作っている。それすらも、素敵だと思わせる要素に感じた。
「もうバレーはしないのか?」
「中学生活でバレーは満喫したんで。それに、バレーばっかりしてたら高校生活を謳歌できないじゃないっすか。俺、彼女も欲しいし、バイトもしたいっす」
 なるべく嘘はつきたくなかった。
 でも、本心を伝えてしまえば、克己先輩は傷つくかもしれない。そんな葛藤だった。どちらも良心。それが故に、曖昧な嘘を付くしかなかった。それがどれだけ無駄なことだと分かっていても、だ。
「なぁ、樹……」
「先輩はどうしてここに? 高校遠いでしょう?」
 まだ何かを続けようとする先輩の言葉を無理やりに遮る。続く言葉が俺にとって不都合なものだと分かっていたから。
 できることならば、バレーボール部のことは忘れていたい。俺にとってそれは、もう過去のことだ。
「あ、あぁ。妹がこの高校に通っててな。今日は練習試合でこっちの方に来てたから、帰りにクレープでも食べて帰ろうって。まだちょっと早いんだけど」
「仲いいんすね。俺、克己先輩に妹さんがいるなんて知らなかったっす。それじゃあ、楽しんできてくださいね」
「じゃ!」と手を振り、歩いた道を引き返すように走り出す。ダウンのつもりだったのだが、もう一周追加でランニングをすることになった。

 一周ちょうど一キロメートル。何も考えずに走るには少し長すぎる。普段はあまり意識しないがこんな日は特に、だ。それに一度冷えた体は、なかなか温まらずにスピードが上がらない。走ることが苦しいと感じるのは久しぶりの感覚だった。
 息が上がって呼吸が乱れる。顎が少し上がったせいで、視界に映る空が嫌になるほど眩しい。
 あぁ、困った。こんな日には、ひどく苦しい思い出が白く輪郭づいて浮かび上がる。
 忘れられるものならば、もういっそすべて忘れてしまいたい。