(10)
 見上げた空には飛行機雲が浮かんでいた。つい数時間前にも見かけたような雲だが、異なるものなのかもしれない。
 それくらい、空には無数に雲が漂っている。
「おつかれ、周大」
 俺は観客席の片隅で荷物をまとめる周大に声をかけた。コートに立っているときよりも、幾分小さく見える。
「おつかれじゃねぇよ。お前、あとで怒られたたろ」
「まぁ。やっぱり、そりゃ」
 部外者が体育館のフロアに乗り込んで怒声をあげるだなんて、怒られて当然だ。俺もちゃんと分かっててやった。反省はしてるけど、後悔はしていない。
「だって、周大が何にも言わねぇから。レシーブ低いのに、文句付けねぇし。トスが乱れても、誰もおまえに言わねぇから」
 だから、俺が言ってしまった。つい、衝動的に。
「言いたくても言えないよ。だって、先輩だし。僕は最近レギュラーになったばっかで、控えに他の先輩もいる。変に輪を乱したら、外されるかもしれない」
「そんなこと気にするタマじゃねぇだろ。昔はめっちゃ怒ってたじゃねぇか」
「それは、樹だから」
「どういうことだよ、それ」
「樹は僕が何を言っても、絶対に僕を捨てたりしない。そういう確信があった」
 俺はその事実が嬉しかった。
 周大は俺に絶大な信頼を置いていた、今の仲間よりもずっと。
「やっぱり、克己先輩は強かった。まだ僕じゃ勝てない」
「そりゃそうだろ、俺でも勝てねぇよ」
「……僕たち二人だったら勝てたのかな。いや、お前はあっちコートか。僕一人が、おいて行かれるのか」
 周大は寂しそうに呟いた。
 視界に映る右こぶしが固く握られている。綺麗に整えられた爪先は彼のマメさを物語り、彼のバレーボールへの愛情を現していた。
「もう俺は辞めたから、そこんところは何とも言えねぇけど。俺はお前のことを置いて行こうなんて思ったことはないよ」
「そっか」
「俺はずっと仲間でいたかった。チームメイトじゃなくていいから、バレーボールの仲間でいたかった」
 それが本心で、逃げて行った雲だった。
「僕も、ずっとそう思ってた」
 逃げて行った雲は、もう二度と戻っては来ない。俺たちはちゃんと理解している。許しても、咎めても、もう同じ関係に戻ることは二度とない。
 だけど、
「でも、さ。友達には戻れるんじゃねぇ?」
 周大は目を見開き、それから深く頷いた。それを肯定と受け取った俺は、その肩を熱く抱擁した。
 最初から、俺らには二つの関係性があった。
 ひとつはチームメイト。
 そしてもう一つは、クラスメイト。
 そう、単純に親友だったのだ。それよりもバレーボールを介していた時間が長すぎて忘れがちになってしまっていた。
 バレーボールが無くなってしまっても、親友だったことには変わりない。
 最初から、手の中に納まったままだったのだ。
 抱きしめた彼から僅かな嗚咽が漏れる。俺は片手でそっと頭を撫でた。
「僕たちは、まだ親友のままでいられてる?」
「あぁ、ずっと。学校が離れても、チームメイトじゃなくなっても、バレーボールを辞めても、ずっと。ずっと親友だろ」
 腕の中にいた周大がその腕に力を込めた。
 視界の片隅に果歩先輩と克己先輩がいる。こちらに向かって、ゆっくりと近寄って来る。あぁ、ほんとうに双子だったんだな。
 笑う顔は瓜二つとはいかないが、本当によく似ている。笑顔が素敵で、優しく強い。
「あの女の子、樹の彼女?」
 腕の中で周大はそんなことを聞いた。
「いや、まだちげぇ。今はただの後輩一号。雲を掴み隊」
「わけわかんねぇ」
 二人分の声は嬉しそうだった。

 向こうに映る空は青く、高い。
 柔らかく穏やかな雲は、いつだって手の隙間をすり抜けていった。
 それでも、高く手を伸ばす。
 指先が宙を泳いだが、雲が掴めることはなかった。
 でも、それでよかった。

 あれは気体だけど。諦めなければ、いつか必ず手が届く。
 だって、そういうものだから。