(3)
「果歩はさ、後輩が卓球辞めるって言ったら、引き止める?」
双子の兄がそう言ったのは、とても暑い夏の日だった。
冷房は夏バテに繋がるから。そう言って、扇風機で熱さを凌ぐ兄の部屋でのことだった。
「引き留めないよ。わたしなら引き留めない」
たぶん、わたしはそう言った。でも、それは兄の求めていた回答ではなかった。それに気が付いたのは、もう随分とあとになってからだ。
床に転がるバレーボール。部屋に干されたボロボロに使い込まれたシューズとサポーター。机の片隅に置かれているのは、種類豊富なテーピングと湿布だった。枕元には過去のチームメイトたちとの写真が飾られていて、その列の中には有名なプロ選手のサインも置かれている。
いつだって兄の部屋にはバレーボールが溢れていた。小学二年生でバレーボールを始めてから、今に至るまで彼の部屋からバレーボールが消えた日は一度もない。妹の欲目をなしにしても、兄に勝る努力家はいないと思う。
センスがある、努力するだけの忍耐力がある。それから誰よりも、何よりもバレーボールが好きだ。でも、それ以上に大きかったのは、メンタルの強さだった。怒らない、苛立たない、諦めない。言葉で表すより、それはずっと難しいことだ。
「樹、推薦蹴るかもしれないんだって」
「誰、それ?」
兄は部屋に飾られた写真を指さした。中学三年の時の総合体育大会の時の写真だった。中心に囲まれる兄には、痛々しい包帯が巻かれていた。
そういえば、この日も兄は極めて冷静だった。中学生活において最後の大会で怪我をしたのに、兄の感情の起伏は海のように穏やかだった。仕方のないこと、無理はしない。そう割り切っているようにも見えた。
「リベロ、リベロの月見樹。あいつ辞めるんだ」
「ふうん、なんで? その子、お兄ちゃんの学校に推薦で来るんじゃなかったけ?」
「チームメイトとさ。今のセッターのやつなんだけど、ちょっと仲違いしたみたいで、責任感が強くて優しいやつだったから」
写真に写るリベロの月見くんは、確かに優しそうな表情をしていた。二年でリベロの座を射止めていたということは、なかなかの実力者でもあるのだろう。なにより、兄が認めている。それが確固たる証拠だった。
「果歩なら、引き止める?」
兄はもう一度、そう聞いた。その声は、少しだけ震えているようにも聞こえた。
二度目の問いに、わたしはなんて答えたか。それはもう思い出すことができない。あの質問に対する正しい答えがどんなものか、それは今でもわからない。でも、わたしが出した答えが間違っていたことだけは、どうしようもない事実だ。それだけは確かなことだった。
兄の部屋に飾られた総合体育大会の写真が消えたのは、学年が上がるほんの少し前のことだ。推薦で入部が決まった後輩が部活動にいち早く参加を始める、そんな時期だった。
「あいつ。やっぱり、来なかったよ」
唐突に、何の脈略もなく兄は呟いた。
兄は部屋で筋膜リリースの器具を使いながらストレッチをしていて、わたしは兄にテーピングを借りに来ていた。日々、繰り返される日常の光景で、彼の声だけが異質なものだった。声からは感情を読み取ることができない。双子なのに、だ。
「あいつって?」
「俺が引き留めなかった後輩」
「あぁ、リベロの子」
「バレーボール、辞めたんだって」
兄の声は怒っていた。でも、その怒りの矛先はどこにも向いていなかった。
「でもさ、それはお兄ちゃんのせいじゃないでしょう」
「そうだけど、俺が引き留めて置けば。あいつらは、ずっと仲間でいられたかもしれない」
「じゃあ、引き止めればよかったのに」
何の気なしに言った一言だった。わたしも怪我が再発した直後だったから、すこし気が立っていたのかもしれない。言葉にして、「しまった」と自らの発言を後悔した。兄がなかなか返答を返さないのが、更にわたしを焦らせた。
時計の針が進む音が、巻き戻らない時間をわたしに知らしめる。
ほんのわずかな時間が、永遠のように感じた。
「……引き留めたかったよ。でも、わからないんだ。苦しいのも、心が痛いのも、理解できる。だけどそれが、どれくらいなのか、どんな風になのか、自分に当てはめれねぇんだよ」
――わからない
そう言った兄は確かに怒っていた。
酷いことを言ったわたしに対してでも、辞めた月見くんに対してでも、引き止めなかった自分に対してでもない。
――誰も責めることができない
あれはそういう「やるせなさ」に対する怒りだった。
あれから月日は経過して、わたしたち双子は高校三年生を迎えた。四月で卓球を引退したわたしと違い、兄は春の高校バレーまで部活動に参加し続けるそうだ。大学は私立に推薦を貰っているとのことだから、それは当たり前のことなのかもしれない。
兄は強くなった。わたしと違って、雲を掴む人間だと思う。
ただ、そんな兄――克己を一言で合わらすならば、「鈍感」に尽きる。
兄は優しさをもっていないわけではない。他人の心情に対して、少しだけ疎いのだ。チームスポーツで高みを目指す上で、その鈍感さは彼の強さの一端を担っている。しかし、それは兄の最大の弱点でもあった。チームメイトの気持ちはわかるのに、それを自分の心に落とし込むことができない。わからないのだ、その痛みも苦しみも。
きっとその反動なのだろう。兄は身近な人のわからない心情に思いを馳せ、それを悩む傾向にあった。この気持ちがわからないのは、自分だけだと。あぁ、なんて質が悪いのだろうか。
知らないことは幸せかもしれないが、分からないことは苦痛をもたらすのだ。
今でも、あの暑い夏の日の正解は分からない。
だけど、月見くんと知り合った今ならば、樹くんに救われたわたしなら。
(引き留めて。お兄ちゃんの仲間でしょ)
救ってあげたかった。あの日の樹くんを、あの日のお兄ちゃんを。
「果歩はさ、後輩が卓球辞めるって言ったら、引き止める?」
双子の兄がそう言ったのは、とても暑い夏の日だった。
冷房は夏バテに繋がるから。そう言って、扇風機で熱さを凌ぐ兄の部屋でのことだった。
「引き留めないよ。わたしなら引き留めない」
たぶん、わたしはそう言った。でも、それは兄の求めていた回答ではなかった。それに気が付いたのは、もう随分とあとになってからだ。
床に転がるバレーボール。部屋に干されたボロボロに使い込まれたシューズとサポーター。机の片隅に置かれているのは、種類豊富なテーピングと湿布だった。枕元には過去のチームメイトたちとの写真が飾られていて、その列の中には有名なプロ選手のサインも置かれている。
いつだって兄の部屋にはバレーボールが溢れていた。小学二年生でバレーボールを始めてから、今に至るまで彼の部屋からバレーボールが消えた日は一度もない。妹の欲目をなしにしても、兄に勝る努力家はいないと思う。
センスがある、努力するだけの忍耐力がある。それから誰よりも、何よりもバレーボールが好きだ。でも、それ以上に大きかったのは、メンタルの強さだった。怒らない、苛立たない、諦めない。言葉で表すより、それはずっと難しいことだ。
「樹、推薦蹴るかもしれないんだって」
「誰、それ?」
兄は部屋に飾られた写真を指さした。中学三年の時の総合体育大会の時の写真だった。中心に囲まれる兄には、痛々しい包帯が巻かれていた。
そういえば、この日も兄は極めて冷静だった。中学生活において最後の大会で怪我をしたのに、兄の感情の起伏は海のように穏やかだった。仕方のないこと、無理はしない。そう割り切っているようにも見えた。
「リベロ、リベロの月見樹。あいつ辞めるんだ」
「ふうん、なんで? その子、お兄ちゃんの学校に推薦で来るんじゃなかったけ?」
「チームメイトとさ。今のセッターのやつなんだけど、ちょっと仲違いしたみたいで、責任感が強くて優しいやつだったから」
写真に写るリベロの月見くんは、確かに優しそうな表情をしていた。二年でリベロの座を射止めていたということは、なかなかの実力者でもあるのだろう。なにより、兄が認めている。それが確固たる証拠だった。
「果歩なら、引き止める?」
兄はもう一度、そう聞いた。その声は、少しだけ震えているようにも聞こえた。
二度目の問いに、わたしはなんて答えたか。それはもう思い出すことができない。あの質問に対する正しい答えがどんなものか、それは今でもわからない。でも、わたしが出した答えが間違っていたことだけは、どうしようもない事実だ。それだけは確かなことだった。
兄の部屋に飾られた総合体育大会の写真が消えたのは、学年が上がるほんの少し前のことだ。推薦で入部が決まった後輩が部活動にいち早く参加を始める、そんな時期だった。
「あいつ。やっぱり、来なかったよ」
唐突に、何の脈略もなく兄は呟いた。
兄は部屋で筋膜リリースの器具を使いながらストレッチをしていて、わたしは兄にテーピングを借りに来ていた。日々、繰り返される日常の光景で、彼の声だけが異質なものだった。声からは感情を読み取ることができない。双子なのに、だ。
「あいつって?」
「俺が引き留めなかった後輩」
「あぁ、リベロの子」
「バレーボール、辞めたんだって」
兄の声は怒っていた。でも、その怒りの矛先はどこにも向いていなかった。
「でもさ、それはお兄ちゃんのせいじゃないでしょう」
「そうだけど、俺が引き留めて置けば。あいつらは、ずっと仲間でいられたかもしれない」
「じゃあ、引き止めればよかったのに」
何の気なしに言った一言だった。わたしも怪我が再発した直後だったから、すこし気が立っていたのかもしれない。言葉にして、「しまった」と自らの発言を後悔した。兄がなかなか返答を返さないのが、更にわたしを焦らせた。
時計の針が進む音が、巻き戻らない時間をわたしに知らしめる。
ほんのわずかな時間が、永遠のように感じた。
「……引き留めたかったよ。でも、わからないんだ。苦しいのも、心が痛いのも、理解できる。だけどそれが、どれくらいなのか、どんな風になのか、自分に当てはめれねぇんだよ」
――わからない
そう言った兄は確かに怒っていた。
酷いことを言ったわたしに対してでも、辞めた月見くんに対してでも、引き止めなかった自分に対してでもない。
――誰も責めることができない
あれはそういう「やるせなさ」に対する怒りだった。
あれから月日は経過して、わたしたち双子は高校三年生を迎えた。四月で卓球を引退したわたしと違い、兄は春の高校バレーまで部活動に参加し続けるそうだ。大学は私立に推薦を貰っているとのことだから、それは当たり前のことなのかもしれない。
兄は強くなった。わたしと違って、雲を掴む人間だと思う。
ただ、そんな兄――克己を一言で合わらすならば、「鈍感」に尽きる。
兄は優しさをもっていないわけではない。他人の心情に対して、少しだけ疎いのだ。チームスポーツで高みを目指す上で、その鈍感さは彼の強さの一端を担っている。しかし、それは兄の最大の弱点でもあった。チームメイトの気持ちはわかるのに、それを自分の心に落とし込むことができない。わからないのだ、その痛みも苦しみも。
きっとその反動なのだろう。兄は身近な人のわからない心情に思いを馳せ、それを悩む傾向にあった。この気持ちがわからないのは、自分だけだと。あぁ、なんて質が悪いのだろうか。
知らないことは幸せかもしれないが、分からないことは苦痛をもたらすのだ。
今でも、あの暑い夏の日の正解は分からない。
だけど、月見くんと知り合った今ならば、樹くんに救われたわたしなら。
(引き留めて。お兄ちゃんの仲間でしょ)
救ってあげたかった。あの日の樹くんを、あの日のお兄ちゃんを。