(9)
桜井先輩に教えてもらった住所は、自宅からそれほどまで遠くない。けれど、市立体育館までの距離が離れていた。夕凪先輩の自宅まで全速力で自転車を漕ぐ。家にいるという確証はなかったが、家にいるだろうな、という予感があった。
あれだけ毎日外周トレーニングをしておいて、最後に頼るのは自転車なのだから笑えてしまう。
風が強い。
走るときよりもずっと、強く身を切るような風だった。
暖かい日でよかった。冷たい風だったなら、こんなにも早く漕ぐことはできなかっただろう。
夕凪先輩はいま、どんな気持ちで部屋にいるんだろう。届かない雲に手を伸ばして、自らを戒めているのだろうか。
それは、嫌だ。俺は夕凪先輩に雲を掴むことを諦めて欲しくない。
俺みたいに諦めないで欲しい。
乗り捨てるように自転車を駐輪させた俺の視界に映り込んだのは、夕凪家の庭だった。庭に転がる青と黄色のボールがひどく懐かしい。
それを横目に、インターホンを押した。
軽快で間抜けなベルの音が響き、誰かの足音が近づいてくる。
しかし、扉が開かれる気配は無い。
もう一度、インターホンを押した。
しかし、誰も出てきてはくれない。
人はいる。確かに、玄関扉の前に誰かがいる。そして、それが夕凪先輩だという確信を持った俺は、玄関の扉の前に足を進めた。緊張で心臓が痛い。
コンコン
軽い音を立てた扉の向こうに、人の呼吸を感じる気がする。聞こえるわけはないが、確かにそこに先輩がいる。
コンコン
もう一度、扉をノックする。
やはり、誰も出てきてはくれない。
諦めてポケットの中のスマートフォンに触れたとき、閉ざされていた重たい玄関の扉がゆっくりと開いた。
「月見くん、しつこいよ。どうしたの? 驚いて居留守しちゃおうかと思ったよ」
「おはようございます、出てきてくれてよかったっす」
夕凪先輩は、視線を逸らして笑った。寝不足なのか、目の下にはクマがあった。
「先輩、今日行かなくてよかったんすか?」
「うん、仕方ないよ。無理して怪我悪くなっちゃったら困るからね。これから受験も控えてるし。うん、仕方ないの」
諦めるための口実を、必死に自分に言いきかせる。そんな口調だった。笑っているその表情の瞳の奥は泣いている。
俺は、先輩のことを本当に少しだけしか知らない。まだ出会って一か月くらいなんだ。それにもかかわらず、俺は失礼で無遠慮で、どうしようもなく愚かな人間だ。
それでも、先輩の背中を強く押してあげたかった。
「夕凪先輩。今から俺、失礼なことを言ってもいいっすか」
「……どうぞ?」
俺は大きく息を吸い込んで、決意が揺らがないうちにはっきりと告げた。
「腕、もう治ってるんですよね」
その言葉を聞いた先輩は一瞬だけ目を大きく見開き、何事もなかったかのように穏やかな表情に戻った。かすかに下がった眉は困っているようにも見える。
「どうしてそう思うの?」
桜井先輩から聞きました、とは言えずに俺は黙り込む。夕凪先輩はそれを感じ取ったのか、優しさを帯びた溜息を一つ零した。
「治った、とは言い切れない。腱鞘炎ってね、けっこう再発しやすいものなの。でも、確かにもう痛みはない」
「じゃあ」
言いかけた俺の言葉を遮るように、夕凪先輩は言葉を重ねる。
「怖いの。怪我を言い訳にできなくなったのも、自分が勝てない現実に打ちのめされて卓球を嫌いになるのも、全部怖い。それならいっそ」
――卓球を辞めてしまおう。
夕凪先輩はそれを言葉にしなかったけど、痛いほどに伝わってくる。逃げ出したい。好きなものを嫌いになることほど、辛く苦しいことはない。それが自分の人生の全てだったと言えるほどに熱量を注いだものならば尚更に。
思い出す、かつての自分の苦しみ。あの苦しみの最中で、夕凪先輩はもがいている。
掴めない雲。
それでもあきらめきれない夢に思いを馳せることは存外、体力を消耗するものだ。そして、それよりも早くすり減るのは己の精神。
逃げることは自分を守る為の最大の手段。それは決して否定しない。夕凪先輩の決断は英断だ。でも、逃げるタイミングは絶対に今じゃない。それが俺のエゴだとしても、夕凪先輩はまだ逃げるべきじゃない。
「夕凪先輩は、卓球が好きでしたか?」
そう問いかけた時、夕凪先輩の瞳が大きく揺れ動いた。
「それは、もちろん。わたしにとって一番大切なもので、これまでの人生の全てだよ」
「じゃあ、やっぱり総体には出場すべきです。辞めるのはそのあとがいいっす、絶対に」
「何それ、意味分かんないよ」
震える声はまるで、許しを乞うているようだった。逃げ出すことを許してほしい、先輩の声がそう訴えかけてくる。
「今辞めたら、夕凪先輩は絶対に一生思い出すと思うんっすよ。あのとき、大会に出ていたらって。あのとき、どうして逃げ出したのかって。諦めるには区切りがいるんっす。これでおしまいっていう明確な区切り」
「総体を区切りにしろ、って言うの? それが例え、不本意で無様な試合になったとしても?」
「うっす」
夕凪先輩は黙って天を仰ぐ。どこまでも青く高い空。夕凪先輩はそれを見つめて、何を思っているのだろう。
しばらく空を見上げていた先輩は、唐突に声をあげて笑い始めた。何かを諦めたような、乾いた笑い声。こちらを向いた夕凪先輩の瞳には、涙の膜が張っている。
「月見くんはさ、エゴイストだね」
震える声に合わせて、夕凪先輩の瞳から一筋の涙が伝った。その線を道しるべにして、次々と涙がしたたり落ちる。
「乗っけてよ、自転車。じゃないと大会に間に合わない」
先輩は俺が乗ってきた自転車を指差して、そう言った。拭いきれなかった涙が、地面に落ちて黒い跡をつける。
「先輩、これ着て」
着ていたジャケットを脱いで手渡す。
夕凪先輩はきょとん、と不思議そうに俺のことを見つめた。
「先輩、学校ジャージっすから。バレたらヤバいでしょ。出場停止になったら笑えないっすよ」
「ありがとう」と言って、ジャケットに袖を通す。大きなリュックサックを背負い直して、深くフードを被らせた。
二人で乗る自転車は、不安定に揺れながら走行する。スピードは徐々に加速して、景色は滑らかに流れ去っていく。
電柱。学校。民家。行きかう人々は、次々に移り変わっていく。差し掛かった商店街で、二人乗りをする俺らを咎める声がした。それを無視して、スピードをあげていく。アーケードを抜けると駅前の道につながる。賑わいをみせる駅前の通りは、カラフルに視界を彩った。
その中で空の青色だけが、いつまでも視界の端を流れ続けていた。
澄み切ったスカイブルーは高く遠い。
そこに浮かぶ白く柔らかな入道雲が、まるで併走しているようだった。
「夕凪先輩。手伸ばして、今日こそ近いっすよ」
少しだけ速度を落として、夕凪先輩に声をかける。
腰に回っていた右腕が緩められて、そのまま高く空に伸ばした。
綺麗な指先が、スカイブルーの空を泳ぐ。
夕凪先輩は、それを黙って見つめていた。
俺は懸命に自転車のペダルに体重を乗せる。白く柔らかな熱を背に、届かない雲に追いつこうと必死に前に進んだ。
遠く青い空。
そこに浮かぶ白い雲を、夕凪先輩はいつか必ず手にかける。
それだけを信じて、ただ必死に前へ進んだ。
大通りに面した正面玄関。そこに俺は停車させる。夕凪先輩は静かに自転車から降り、羽織っていたジャケットを脱いだ。
「ねぇ、月見くん」
「はい」
小さな深呼吸を数回繰り返し、俺の目をまっすぐに見つめる。
「わたし、負けるよ。たぶん、今までの試合で一番ひどいプレーになる。でもね、月見くん。ちゃんと見てて。わたしの卓球人生、本当にこれが最後だから。逃げ出さないように、見張ってて」
「一球たりとも見逃しません。最後まで、見守ります」
真っすぐ見つめる視線はそのままに、夕凪先輩は一度だけ大きく深く頷いた。
駆けて行く背中に、俺は静かに手を伸ばした。
届くことのない先輩の背中は、雲のように軽かった。
桜井先輩に教えてもらった住所は、自宅からそれほどまで遠くない。けれど、市立体育館までの距離が離れていた。夕凪先輩の自宅まで全速力で自転車を漕ぐ。家にいるという確証はなかったが、家にいるだろうな、という予感があった。
あれだけ毎日外周トレーニングをしておいて、最後に頼るのは自転車なのだから笑えてしまう。
風が強い。
走るときよりもずっと、強く身を切るような風だった。
暖かい日でよかった。冷たい風だったなら、こんなにも早く漕ぐことはできなかっただろう。
夕凪先輩はいま、どんな気持ちで部屋にいるんだろう。届かない雲に手を伸ばして、自らを戒めているのだろうか。
それは、嫌だ。俺は夕凪先輩に雲を掴むことを諦めて欲しくない。
俺みたいに諦めないで欲しい。
乗り捨てるように自転車を駐輪させた俺の視界に映り込んだのは、夕凪家の庭だった。庭に転がる青と黄色のボールがひどく懐かしい。
それを横目に、インターホンを押した。
軽快で間抜けなベルの音が響き、誰かの足音が近づいてくる。
しかし、扉が開かれる気配は無い。
もう一度、インターホンを押した。
しかし、誰も出てきてはくれない。
人はいる。確かに、玄関扉の前に誰かがいる。そして、それが夕凪先輩だという確信を持った俺は、玄関の扉の前に足を進めた。緊張で心臓が痛い。
コンコン
軽い音を立てた扉の向こうに、人の呼吸を感じる気がする。聞こえるわけはないが、確かにそこに先輩がいる。
コンコン
もう一度、扉をノックする。
やはり、誰も出てきてはくれない。
諦めてポケットの中のスマートフォンに触れたとき、閉ざされていた重たい玄関の扉がゆっくりと開いた。
「月見くん、しつこいよ。どうしたの? 驚いて居留守しちゃおうかと思ったよ」
「おはようございます、出てきてくれてよかったっす」
夕凪先輩は、視線を逸らして笑った。寝不足なのか、目の下にはクマがあった。
「先輩、今日行かなくてよかったんすか?」
「うん、仕方ないよ。無理して怪我悪くなっちゃったら困るからね。これから受験も控えてるし。うん、仕方ないの」
諦めるための口実を、必死に自分に言いきかせる。そんな口調だった。笑っているその表情の瞳の奥は泣いている。
俺は、先輩のことを本当に少しだけしか知らない。まだ出会って一か月くらいなんだ。それにもかかわらず、俺は失礼で無遠慮で、どうしようもなく愚かな人間だ。
それでも、先輩の背中を強く押してあげたかった。
「夕凪先輩。今から俺、失礼なことを言ってもいいっすか」
「……どうぞ?」
俺は大きく息を吸い込んで、決意が揺らがないうちにはっきりと告げた。
「腕、もう治ってるんですよね」
その言葉を聞いた先輩は一瞬だけ目を大きく見開き、何事もなかったかのように穏やかな表情に戻った。かすかに下がった眉は困っているようにも見える。
「どうしてそう思うの?」
桜井先輩から聞きました、とは言えずに俺は黙り込む。夕凪先輩はそれを感じ取ったのか、優しさを帯びた溜息を一つ零した。
「治った、とは言い切れない。腱鞘炎ってね、けっこう再発しやすいものなの。でも、確かにもう痛みはない」
「じゃあ」
言いかけた俺の言葉を遮るように、夕凪先輩は言葉を重ねる。
「怖いの。怪我を言い訳にできなくなったのも、自分が勝てない現実に打ちのめされて卓球を嫌いになるのも、全部怖い。それならいっそ」
――卓球を辞めてしまおう。
夕凪先輩はそれを言葉にしなかったけど、痛いほどに伝わってくる。逃げ出したい。好きなものを嫌いになることほど、辛く苦しいことはない。それが自分の人生の全てだったと言えるほどに熱量を注いだものならば尚更に。
思い出す、かつての自分の苦しみ。あの苦しみの最中で、夕凪先輩はもがいている。
掴めない雲。
それでもあきらめきれない夢に思いを馳せることは存外、体力を消耗するものだ。そして、それよりも早くすり減るのは己の精神。
逃げることは自分を守る為の最大の手段。それは決して否定しない。夕凪先輩の決断は英断だ。でも、逃げるタイミングは絶対に今じゃない。それが俺のエゴだとしても、夕凪先輩はまだ逃げるべきじゃない。
「夕凪先輩は、卓球が好きでしたか?」
そう問いかけた時、夕凪先輩の瞳が大きく揺れ動いた。
「それは、もちろん。わたしにとって一番大切なもので、これまでの人生の全てだよ」
「じゃあ、やっぱり総体には出場すべきです。辞めるのはそのあとがいいっす、絶対に」
「何それ、意味分かんないよ」
震える声はまるで、許しを乞うているようだった。逃げ出すことを許してほしい、先輩の声がそう訴えかけてくる。
「今辞めたら、夕凪先輩は絶対に一生思い出すと思うんっすよ。あのとき、大会に出ていたらって。あのとき、どうして逃げ出したのかって。諦めるには区切りがいるんっす。これでおしまいっていう明確な区切り」
「総体を区切りにしろ、って言うの? それが例え、不本意で無様な試合になったとしても?」
「うっす」
夕凪先輩は黙って天を仰ぐ。どこまでも青く高い空。夕凪先輩はそれを見つめて、何を思っているのだろう。
しばらく空を見上げていた先輩は、唐突に声をあげて笑い始めた。何かを諦めたような、乾いた笑い声。こちらを向いた夕凪先輩の瞳には、涙の膜が張っている。
「月見くんはさ、エゴイストだね」
震える声に合わせて、夕凪先輩の瞳から一筋の涙が伝った。その線を道しるべにして、次々と涙がしたたり落ちる。
「乗っけてよ、自転車。じゃないと大会に間に合わない」
先輩は俺が乗ってきた自転車を指差して、そう言った。拭いきれなかった涙が、地面に落ちて黒い跡をつける。
「先輩、これ着て」
着ていたジャケットを脱いで手渡す。
夕凪先輩はきょとん、と不思議そうに俺のことを見つめた。
「先輩、学校ジャージっすから。バレたらヤバいでしょ。出場停止になったら笑えないっすよ」
「ありがとう」と言って、ジャケットに袖を通す。大きなリュックサックを背負い直して、深くフードを被らせた。
二人で乗る自転車は、不安定に揺れながら走行する。スピードは徐々に加速して、景色は滑らかに流れ去っていく。
電柱。学校。民家。行きかう人々は、次々に移り変わっていく。差し掛かった商店街で、二人乗りをする俺らを咎める声がした。それを無視して、スピードをあげていく。アーケードを抜けると駅前の道につながる。賑わいをみせる駅前の通りは、カラフルに視界を彩った。
その中で空の青色だけが、いつまでも視界の端を流れ続けていた。
澄み切ったスカイブルーは高く遠い。
そこに浮かぶ白く柔らかな入道雲が、まるで併走しているようだった。
「夕凪先輩。手伸ばして、今日こそ近いっすよ」
少しだけ速度を落として、夕凪先輩に声をかける。
腰に回っていた右腕が緩められて、そのまま高く空に伸ばした。
綺麗な指先が、スカイブルーの空を泳ぐ。
夕凪先輩は、それを黙って見つめていた。
俺は懸命に自転車のペダルに体重を乗せる。白く柔らかな熱を背に、届かない雲に追いつこうと必死に前に進んだ。
遠く青い空。
そこに浮かぶ白い雲を、夕凪先輩はいつか必ず手にかける。
それだけを信じて、ただ必死に前へ進んだ。
大通りに面した正面玄関。そこに俺は停車させる。夕凪先輩は静かに自転車から降り、羽織っていたジャケットを脱いだ。
「ねぇ、月見くん」
「はい」
小さな深呼吸を数回繰り返し、俺の目をまっすぐに見つめる。
「わたし、負けるよ。たぶん、今までの試合で一番ひどいプレーになる。でもね、月見くん。ちゃんと見てて。わたしの卓球人生、本当にこれが最後だから。逃げ出さないように、見張ってて」
「一球たりとも見逃しません。最後まで、見守ります」
真っすぐ見つめる視線はそのままに、夕凪先輩は一度だけ大きく深く頷いた。
駆けて行く背中に、俺は静かに手を伸ばした。
届くことのない先輩の背中は、雲のように軽かった。