(7)
 俺は適当な空き教室で着替えをしていた。カーテンを閉めて着替えるあたり、俺は気を使える紳士だと思う。
 着替えを終えて、かび臭いカーテンを開ける。そのとき、たまたま夕凪先輩の姿が見えた。動向を見守っていると、どうやら行き先は校門のようだ。
 あれ、今日は外周……? 
 俺が疑問に思っている間に、先輩は校門の柵にタオルを掛けて緩やかに走り始めた。
――先輩が外周ランニングをする
 何故だか、それがとてもよくないことに感じた。
 慌てて着替えを済ませて校門の前に出ると、柵には先輩のタオルが掛けられたままだ。
 走って追いかけてもよかったが、ストレッチをするふりをして待ち伏せをすることにした。その方が、より確実だと思ったからだ。
 夕凪先輩と初めて会話をしてからまだ一か月も経過していない。それでも、もっと長い時間を共有しているような気がしていた。ずっと痛みを分かち合っていたかのような不思議な心地。全く知らない女の先輩の部活動なんて、本当はどうだっていいはずだった。俺は一般的に優しいと称されるけど、さすがにそこまでお人好しではない。
 それでもなぜか、どうしても、夕凪先輩の背中を押していたかった。そうすることで、自分も救われるような。そんな気がしていた。
 軽い足音が近づいてくる。少し切れた息を整えながら、先輩は校門をくぐった。
「あれ、夕凪先輩?」
 まるで、たまたま遭遇したかのように振る舞って見せる。
「こんにちは」
「ちわっす。今日は練習場に行かないんっすね」
 疑問をぶつけると、先輩は苦し気に顔を歪ませた。視線が俺から逸らされて、斜め下に留まる。
「ちょっとね。腕が痛くて、しばらく休もうと思ってる」
 嘘を付いている、そういう確信があった。
 しかし、痛みは他人にはわからないものだ。特に腱鞘炎というものは、腫れを伴わない場合もある。だから、先輩の発言が嘘だと感じても、それが嘘だと証明することはできない。疑いをかけることも失礼に値するだろう。
 だから、それ以上言及することはしなかった。
「お大事にしてくださいっす。あんなに先輩楽しそうだったのに…… 総体までに痛みが引くといいっすね。俺、おすすめの整体あるんで、またチャットで教えますね。無理はしないでくださいっす」
「うん、ありがとう」
 苦しんで、もがき続けた先輩だ。
 卓球が好きで、嫌いになれなかった先輩。
 真っすぐで、強くて、努力し続けて。それでも報われなかった人。
 だからこそ、俺は先輩をこれ以上傷づけられなかった。


 それから数日が経過しても、先輩は外周仲間のままだった。
「調子はどうっすか?」そう尋ねると、先輩は決まって「腕が痛い」と答える。視線は交わらない、ただひたすらに自分に言い聞かせるような口調だった。
 先輩を傷つけることに怯えた俺は、クラスメイトに頼ろうと試みた。
 有井小春と平田美穂。
 二人ならば何か知っているかもしれない、そう思った。特に有田はクラブチームも一緒らしいし。
「なぁ。有井、平田。二人ともちょっといい?」
 休み時間にそう声をかけると、有井は露骨に嫌な顔をした。
「なによ」
「有井ってさ、夕凪先輩と仲良かったりする?」
「なんで、別に仲良くないけど」
 眉間にしわを寄せ、訝し気にこちらを伺う。それは本気で嫌な時にする表情だった。
「いや、先輩さ。せっかく部活行くようになったのに、また行かなくなっちまったから。なんかあったんかなぁーって」
有井は一瞬、傷ついたようにも見えた。しかし、すぐに強気な笑みを浮かべ、真っすぐに俺を見据えた。体の奥底が震えるような、強かな笑顔だった。
「さぁ、試合で勝てないのが嫌だったんじゃない? 仲間も後輩も、何もかも見てこなかったカホ先輩は、一人ぼっちだから。弱者の孤独ほど苦しいことはないでしょう?」
 そう言い放つと、有井は誰も咎めていないのに肩を大きく震わせた。「ごめん、言いすぎたかも」と弱弱しく呟いた彼女は、自らを責めているようだった。
「部活で何かあったのか?」
 尋ねると、有井は小さく首を振った。
「知らない。私は何も知らない。私はカホ先輩とは昔から仲良くないし。カホ先輩だって、私のことなんて興味ないから。だから、先輩が卓球を辞めるのは私のせいじゃない」
 有井は苦し気にそう言った。否定を示しながら、「知っている、私が悪い。でも責めないで欲しい」と全身で訴えかけていた。
 俺は夕凪先輩の味方だけど、有井を責めるつもりはない。だけど、今は何を言っても彼女を責める言葉になってしまうような気がした。どれだけ優しい言葉を用いても、受け取る側が自分を責めている。
 しばらく流れた無言の時間に耐え切れなかったのか、有井は教室から逃げ出すように出て行ってしまった。
 引き留めることも、追いかけることもできず、ただ彼女が出て行った扉を見つめる。
 彼女もまた、何かを諦められない人間なのかもしれない。諦められないもどかしさを、怒りや憎しみでしか発散できない。
「あ、あのぅ」
「あ。平田さん、ごめん」
 取り残された平田さんとは、いつも視線が合わない。有井と仲が良く小学生からの友人だと聞いている。「男の子と話すのは緊張する」と以前に有井と話しているのを聞いた。
 その彼女が俺の目を見て、緊張で頬を赤らめて何かを伝えようとしている。
「ゆっくりでいいよ、どうした?」
「こはるちゃんはあんな風に言うけど、ほんとは夕凪先輩のこと好きだったんだと思うんだ。こはるちゃんはね、『カホ先輩』って言うとき、すごく楽しそうだったの。小学生の頃からカホ先輩の話はずっと聞いてきた。でもね、中学に入学したあたりからどんどん嫌うようになって…… 特に、高校に入学してからはひどかった」
「どうして、有井は夕凪先輩のこと嫌うんだ?」
 素朴な疑問だった。
 有井は気が強いし口も悪いが、意外と根はやさしい奴だと思っている。平田さんと一緒にいる時なんて、特に優しい顔をする。そんな彼女が、一体どうして……
「夕凪先輩がこはるちゃんに興味が無かったから、だと思ってるよ。少し前までの夕凪先輩は常に上を見てる人だったから。こはるちゃん、それが悔しかったんだよ、きっと」
 平田さんは「だからね、こはるちゃんを責めないで」と前置きして続けた。
 試合をしたこと、暴言を吐き続けていること。平田さんは、夕凪先輩が卓球場から逃げ出した理由を考えうる限り教えてくれた。
 それでも、俺は「腕が痛い」と訴える夕凪先輩に無理は言えなかったし、もちろん、有井を責める事もできなかった。
 それをする権利を持っていなかった。

 四月も中旬を過ぎて、いよいよ総合体育大会が始まろうとしている。各部活の生徒たちはより熱を帯びた活動になり、目まぐるしく駆け回っていた。
 そんなグラウンドを眺めながら走る一周一キロメートルの外周。校庭を挟んだはるか遠い向こう側を走るのは、夕凪先輩だ。先輩は今日もまた、何の変哲もない外周道路をランニングする。
 俺は追いつかないようにペースを落として走った。いつもとは違うペースで走ると、呼吸が乱れる。無理にゆっくり走ろうとするせいで、変に息が上がっていた。
 苦しい。体の悲鳴を受け入れて、走る足を止めた。息を整えながら歩行に切り替える。足元を見ながら歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「大丈夫? 君、しんどいの?」
 陸上部のジャージが視界に入り顔をあげると、見知った明るく美しい女性がいた。
「あ、桜井先輩ちわっす」
「あれ、月見くんじゃんかー! こんにちは」
「あ、あの、夕凪先輩……」
 桜井先輩は言葉を被せるように遮った。
「果歩、残念だったよね。怪我だもん。仕方ないよ」
 逸らした視線は、宙を彷徨って固く瞑られた。
「ごめんね、仕方ないよ。ナナたちには怪我を直してあげられないもんね」
 桜井先輩は何かにひどく怯えたように身を縮こまらせて、困ったように笑った。
 この人もまた、何に固執して諦めた人間だ。
 俺は、そう思った。