(6)
 卓球が楽しい。
 ラケットがピン球を捉える打球感。湿らせたシューズの底が、床に摩擦する音。サウナのような蒸し暑さ。
 愛おしかったものすべてが、ここには存在していた。

「夕凪先輩、少し休憩入りましょう。今日は暑いんで、水分補給大切ですよ!」
 声をかけてくれたのは、ちょうどラリーをしていた平田さんだ。有田小春と同い年の彼女と、こうして会話をするのも、実は初めてで少し照れ臭い。
「ありがとう」
「へへへ、手は大丈夫そうですか? 無理しちゃだめですよ。ふふ、もっと早く先輩と一緒に練習したかったなぁ」
 そう言って汗を拭う平田さんは、嘘を付いているようには見えなかった。彼女の発言に、無器用に作った笑顔を浮かべると、満足げに頷いてほほ笑んだ。
 全てはわたしの被害妄想だったのかもしれない。有田小春の発言に踊らされて、部員全員に嫌われている、そう思い込んでいた。それこそ有田小春の思うつぼだったのかもしれない。
 部活動に顔を出すようになって、ちょうど二週間。
 わたしは想定よりもずっと円満で、快適な卓球生活を送っていた。腕の痛みに問題はない。実力は、当たり前のように劣ってしまっているが、ここでプレーするには申し分ない程度だった。ラリーになる。練習戦をすれば、優位に試合を進めることができた。
 それが幸いしたのか、後輩はわたしを尊敬のまなざしで見る。そしてなにより、有田小春がいないことが大きかった。なぜ彼女がここにいないのか、それは知らない。彼女はわたしがいるからといって、遠慮するタイプではないことはよく知っている。肝が据わっているのだ。こちらが怖くなるほど、彼女は気が強くて度胸もある。幼い記憶の中の彼女は臆病な子だったが、今ではもうその影もない。
「あ、そうだ。夕凪先輩にあれ渡さないと」
「わたしに?」
「これ、監督に渡しておいて欲しいって頼まれてて。あ、お金は先生が立て替えてくれているので、あとで渡してくださいね」
 そう言って手渡されたのは、今年度の分のゼッケンだった。
 名前と所属の部分が白紙のゼッケン。
「私たちは、業者にまとめて文字入れしてもらったんですけど、夕凪先輩の分は間に合わなくて…… すみません。もっと早く気が付いてたらよかったんですけど」
 平田さんは何も悪くないのに、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ううん、ありがとう。自分で名前入れするから大丈夫だよ。去年の分をなぞるから、きっと上手く書けると思う」
「受け取りに行くときに、出してもらっても間に合うと思いますよ。私から顧問に言っておきましょうか?」
「ううん、本当に大丈夫だよ。明日、部活の前に自分でレタリングしちゃうからさ。ありがとうね」
 平田さんはようやく安心したように笑った。優しく目を細めて笑う、そんな穏やかな子だった。


 翌日、人気がなくなった教室でゼッケンを広げる。わたしは自分が想像していた3倍は不器用だったみたいだ。紙に文字を書くのと、布に文字を書くのでは訳が違う。七星に書いてもらった去年分のゼッケンをなぞったが出来栄えは数段劣っていた。
その何とも言えない不格好な『夕凪』を見て、思わず苦笑する。情けなくガタガタとした文字だった。何かをなぞったことが、明らかにわかる。
 こういう細かい作業は苦手なのだ。普段の字が特別汚いというわけではない、ただデザイン系の文字が苦手だった。
ただ、たった一枚しかないゼッケンなのでやり直すことも叶わない。その不器用な文字を背に着けて、試合を乗り切らなければならない。少し先の将来を想像して、先走りして恥ずかしくなった。

 ゼッケンに乗せられたインクもが乾燥し、指先に付着しなくなったころを見計らい、教室をあとにする。
 卓球場までの道のりを歩いていると、ふと見慣れた姿が目に入った。
「月見くん」
 呼びかけると、すぐに振り向き笑顔になる。彼は、今日も外周に向かう途中なのだろう。
「あれ? 今日は部活行かないんっすか?」
「うん。今日はねゼッケンに名前書いててさ。さっき書き終わって、今から行くところだよ」
 さっき書いた不器用なゼッケンを、少しだけ見せる。恥ずかしいので、すぐにカバンの中に片づけた。
「へぇ、そういうのって自分でするんっすね」
「どうだろう、印刷してもらう人も多いんじゃないかな。わたしも去年は七星にレタリングしてもらったよ。なんか、手書きの方がちょっと勇気出る気がしない?」
「へー。確かに桜井先輩のやつなんか御利益ありそうっすね。あ、でも。今年の分はしてもらわなくてよかったんすか?」
「ほら、七星も受験勉強あるしね。それに、今まで練習行ってなかったのに頼むのが申し訳なくて。あ、でも大丈夫だよ。去年、七星に書いてもらったやつをなぞったから」
 月見くんは納得したのか、していないのか、よくわからない微妙な笑いを浮かべて「うっす」と頷いた。
「じゃあね、外周頑張って」
 そう励ますと、「先輩も頑張ってくださいっす」と勢いよく駆けて行った。

 卓球場の引き戸に手をかける。
 室内からはピン球が撥ねる軽くて心地の良い音が漏れ出ていた。時折聞こえる、強くて重たい足音は数少ない男子部員のものだろうか。
「おはようございます、よろしくお願いします」
 義務付けられている挨拶を口にすると、室内の視線が一瞬だけすべて寄せられて「おはようございます」と返ってきた。
 球を拾うためにドア付近にいた一人の後輩は、気まずそうに視線を逸らした。その視線を追っていくと、一際目立つ有田小春がラケットを振っている。
 機械的に出されるピン球は、一点をめがけて吸い込まれていく。コースを絞った練習であることは一目瞭然だった。一定のリズムを刻みながら出されるピン球は、一点をめがけて緩急付けてはじき出される。
 簡単そうにやっているが、あれはけっこう難しいことだ。
 かご一杯に積まれていたピン球をすべて打ち切ると、有井小春はようやくこちらに視線を向けた。
 意味あり気に口角をあげて、ゆっくりとこちらに歩みよる。
「あれ、カホ先輩じゃないですかぁ。球拾い、しに来てくれたんですかぁ?」
 そう言う有田小春はどこか嬉しそうだ。わかりやすい嫌味、それに気が付かないほどわたしは鈍くはなれなかった。
 そして、それを黙って堪えるほど、か弱い人間でもない。
 じっとこちらに向けて笑いかける有田小春に向かって、精一杯の愛想笑いを浮かべてやった。
「ううん。練習しに来たの。わたしも総体に出るから」
「えー、そうなんですねぇ。『最後の大会』頑張ってくださいねぇ」
 なんてムカつく子なのだろう。わざわざ「最後」を強調しなくてもいいのに。普通に考えて、総体は最後の大会になることが多い。しかし、彼女が言いたいことは「これが最後の大会になりますね、先輩は負けるから」だ。
 流石に勝ち上がれるとは思っていない。しかし、それでも他人からそう告げられるのは腹立たしい。
「あ、そうだ。今日の練習戦、私としませんか? もう二度と対戦することないかもしれないですし、練習でも、ね?」

 試合開始前のラリーから勝負は始まっている。トップ選手は分からないけど、学生レベルの試合ならそこで大体の勝負の行方ははっきりしてしまう。
 シンプルで一定のリズムを刻むラリーだからこそ、力量が顕著に表れてしまうのだ。こちらの実力が上ならば、相手の一球軽さを実感するだろう。その逆で、相手が格上の選手ならその一球の重みに慄くのだ。
 コートを挟んで有井小春と対峙した時、体が委縮した。
 軽くはじき出されたはずのなんてことない一球が、目いっぱい押し返さないとネットを超えてくれなかった。重たい。あの空気のように軽いピン球が、鉛玉のように重たい。
「上手い選手は、回転の量と質が違うんだ」
 齋藤コーチからずっとそう言い聞かせられてきた。わたしはずっと、コートでそれを体感してきた。
 卓球はスピードよりも回転が重要な競技である。回転を制すことができなければ、その試合に勝ち目はない。どれだけ素早く打球地点にたどり着けたとしても、ラケットの角度を合わせるか、相手以上の回転をかけることができなければ、その打球は決して意味のあるものにはならない。球技の中で、最も回転が重要になるのは卓球だ。

 スポーツマンらしく、「お願いします」から始まった試合。
 その内容は実に散々だった。
 卓球界のレジェンド、荻村伊智郎さんは「卓球は百メートル競走をしながらチェスをするみたいなものです」と言い表した。でも、それは嘘だ。実力が互角の相手にのみ言える例えだ。圧倒的な実力差の前に、思考は何の意味も持たない。ただただ、無心で百メートルを走るようなものだった。
 有井小春の一球が重たい。返すことで精一杯になり、回り込まれて強打される。
 それだけならよかった。
 こちらがかけたドライブを、いとも簡単に真逆のコースに返球されてしまう。結局、左右に振り回されて、こちらからの攻撃は一辺倒になってしまう。その攻撃すらも、有井小春の手のひらの上だったのかもしれない。
 それほどまでに、圧倒的な差だった。

 たった二週間で、何かを取り戻せるはずが無かったのだ。こんなみじめな思いをするくらいなら、さっさと引退すべきだった。負け犬になり下がるくらいなら、最初から勝負しなければよかった。
 敗戦が悔しいのではない。もう、勝とうと思っていないことが悔しかった。

 わたしはまた、卓球場から逃げ出した。
 でも、それは仕方のないことだ。手首が鈍く痛む。これ以上の怪我の悪化は、今後の生活に支障をきたすかもしれない。これから受験を控えた身なのだ。それに、不器用なゼッケンを付けなくてよかったじゃないか。
 仕方がない。どうしようもない。わたしが卓球をもう一度諦めるのは、自分自身の意思によるものじゃない。全て、この怪我のせい。
 そう言い聞かせることしかできなかった。


 終礼のチャイムが、放課後を告げる。
 憂鬱な気持ちで机の中の教科書を取り出した。カバンに片づけるだけの動作が重くて捗らない。一冊ずつ丁寧にカバンの中に収めていった。そうすることで、時間が過ぎて行ってくれることを待ちたかった。
「あれ、果歩? 今日はあっち行かないの?」
 七星はラケットを振るジェスチャーを取る。振り方が初心者丸出しなのが、少し気になった。
「うん、ちょっとだけ腕痛くて。しばらく休むことにしたの。残念だけど、やっぱり受験もあるしね」
「そっかぁ。……そうだね。受験は大切だ」
「うん。だからちょっとだけ走って帰る」
「そっか、うん。頑張ってね」
 七星は残念そうに眼を細めて、手を振って見送ってくれた。
 肩にのしかかるリュックサックが、廊下を歩く足をさらに重たくする。しかしその足取りは、荷物を降ろしても軽減されることはなかった。
 わたしはまた、外周ランニングをする日々を選んだ。まっすぐ家に帰ればよいものを、そうすることも許せなかった。
 一周一キロメートル。何も考えずに走るには、少し長すぎる。雲一つない晴天は恨めしくて、わたしを余計にみじめな気持ちにさせた。
 走る意味は特になく、ただ無駄に時間と体力を消耗させているだけだ。走ることで何か利益が生まれることはない。
ただひたすらに前に進んでいく兄と、落ちぶれていく妹。
 誰もそれを咎めたりはしないが、自分自身がひどく惨めで嫌になった。ランニングだけでもいい。何かを頑張っている、という言い訳が欲しかった。
 前に一度、兄が学校にまで迎えに来たことがある。
 兄はきっと私が学校の練習にさえも参加していないことに気が付いていた。誘われたクレープ屋さんは、決して兄の中にある選択肢ではない。もとからあまり甘いものを好んで食べないのだ。それに筋肉バランスやコンディションを万全にするため、試合後以外に余分な砂糖を摂取しない。甘いものを食べるくらいなら米を選ぶ。兄はそういう人間だった。
 兄がクレープを選択したのは、間違いなくわたしの好物だったからだ。
「たまにはこんな日があってもいいな。甘いもの食ってる時が、俺も幸せ」
 回りくどい励ましだと思った。甘いものなんて対して好きじゃないくせに。
 不器用で優しい、そんな兄なのだ。
 だからこそ、わたしは頑張っているふりをしなければならない。余計なことを気遣わせてはならない。わたしにとっての最後の総体が迫っているということは、兄にとっての最後の総体も迫っているということなのだから。
「あれ、夕凪先輩?」
 ちょうど一周。戻ってきた校門の前には、ストレッチをする月見くんが居た。
「こんにちは」
「ちわっす。今日は練習場行かないんっすね」
 彼は七星と同じように不格好なジェスチャーをした。
「ちょっとね。腕が痛くて、しばらく休もうと思ってる」
 嘘ではない。本当に痛い気がするのだ。だから、わたしは嘘つきではない。
 そう思っているのに、真っすぐな月見くんの目を見ることはできない。
「お大事にしてくださいっす。あんなに先輩楽しそうだったのに…… 総体までに痛みが引くといいっすね。俺、おすすめの整体あるんで、またチャットで教えますね。無理はしないでくださいっす」
「うん、ありがとう」
 純粋で、可愛らしい後輩だ。
 素直で、真っすぐな後輩だ。
 藻掻いて、苦しんで、それでも他人を気遣える優しい人。
 だからこそ、わたしは月見くんの目を見ることができなかった。