(2)
「夕凪先輩いますか?」
 二年生、全十一クラス。俺が五クラス目を訪問したとき、ようやく夕凪先輩のクラスを発見した。
 実を言うと、会えることは期待していなかった。今は春休みに実施されている自主参加型講習で、出席が義務付けられているわけではない。休む生徒のほうが多いくらいだ。
 対応してくれた桜井と名札を付ける綺麗な先輩は「ちょっと待っててね」と残して、教室の奥へと進んでいく。廊下で待つ間、いろいろな先輩が声を掛けてくるので落ち着かかった。ここまで目立っておいてなんだが、俺はあまり目立ちたくはない。ひっそりと、日陰で生きていきたいのだ。
 信憑性に欠けるかもしれないけど。
「月見くんごめんよ。果歩まだ来てないや。多分もう少しで来ると思うけど、どうする?」
「じゃあ、もう少しここで待つっす。なんか目立っちゃって恥ずかしいんっすけど」
「君、有名人だからねー。マラソンも、うちの部のやつらが頭を抱えてたよ。『なんで俺らが負けるんだー』って。なんかスポーツ経験者?」
「あ、はい。中学までは少しだけ」
「そっか、どうりで速いわけだよ。走るフォームも綺麗で、無駄が少ない。それで無所属なんでしょ? もったいないなー。今からでもさ、どっか入るつもりはないの? うちなんて大歓迎だけど」
「いや、高校は帰宅部って決めてたんで、いいっす」
 いつも通り笑ってごまかす。部活動の勧誘はそう珍しいことではない。陸上部をはじめとして、いろいろな部活のやつが俺を訪ねてきた。もちろん、その中にはバレーボール部も含まれていた。でも、もう部活動はしない。
「ふーん、残念。それはそうとさ。君、果歩とは一体どういう関係なの? 果歩の交友関係としては珍しいタイプなんだけど」
 なめるように俺の顔を見つめる。それは何かの疑いをかけるような視線だった。
「外周で知り合って……」
「あーね。果歩も君も、いっつも外周ばっかりしてるもんね」
 桜井先輩は納得したように頷き、また周囲を見渡した。目を大きく見開き、優しく細める。手を頭の位置まで持ち上げて、左右に大きく揺らした。
「あ、やっと来た。月見くーん、果歩来たよ!」
 桜井先輩の視線の先にいる夕凪先輩は顔をしかめ、明らかに嫌そうな表情をする。まっすぐ足早にこちらへと歩みより、桜井先輩の口を手で覆った。
「おはよ、七星。でもね、うるさい。目立つ」
 七星、と呼ばれた桜井先輩はぱちん片目を閉じて俺に合図を送ると、教室の中へと逃げ込んだ。
 穴が開いてしまいそうだと思うほど向けられていた視線の半分以上が、桜井先輩と共に消え去る。視線の半分は彼女に向けられたものだったようだ。確かに、とても綺麗で可愛らしい先輩だった。俺とは違い、良い意味で有名人なのだろう。
「どうしたの、わたしに何か用事?」
「あの、お昼ご飯、一緒に食べませんか」
「は?」
 先輩の眉間に深いしわが刻まれた。
「そうっす。先輩の話をもっと聞かせて欲しいなぁって。ダメっすか?」
「わけわかんない。知り合ったばかりでしょう?」
「だからっす。俺は、夕凪先輩についてもっともっと知りたいんす」
「残念だけど。今日は友達と食べる約束してるの。さっきの子わかるでしょう? だから無理。」
 少しずつ語気が強くなる。
 それでも引かない俺と押し問答を繰り返していると、桜井先輩がひょっこりと教室から顔を出した。俺の方を見て、にっこりとした笑顔を浮かべる。
「あーっ。ナナね、伝え忘れてたんだけど、今日はお昼にミーティングがある日だったんだー。てことは、果歩と一緒にご飯食べられないなぁ。あれれ? 果歩のお昼の予定なくなっっちゃったね。いいじゃん、せっかくなんだから一緒に食べてあげなよ」
「七星、うるさい。余計なこと言わないで」
「えー。ナナ、月見くんのこと気に入ったからさ。果歩が首を縦に振ってあげるまで、ここ駄々こね続けちゃうけど、いいの?」
 夕凪先輩は眉間にしわを寄せて、また一つ深いため息を吐いた。指で眉間を抑えて悩む様子は、きっと脳内で天秤にかけているのだろう。
「なんでわたしなの。月見くんなら、もっと可愛らしい女の子の一人や二人くらい簡単で捕まるでしょうに」
「俺、初めて夕凪先輩のことを見たとき、なんかビビビってきたんすよね。なんか、俺に似てるものを感じて」
 夕凪先輩はあり得ないと言いたげな表情をしたあと、もう一度深いため息を吐いた。隣で笑う桜井先輩を疎ましそうに睨む。
その視線を受ける桜井先輩は愉快そうに声をあげて笑っているので、きっと親しい関係なのだろう。それが少し羨ましい。
 先輩は黙ってスマートフォンの画面を差し出した。表示されるキューアールコードをもう一度突き出し「はやく」と催促をする。俺は慌ててそれを読み込んだ。
 アイコンに設定された写真の少女はとびきりの笑顔を浮かべている。小学生くらいだろうか。賞状に記された名前が夕凪果歩でなければ、その少女が先輩であることにすら俺は気が付かなかった。
「ほら、予鈴なるから」
 背を軽く押され、教室に戻るよう促される。
 連絡先を貰ったスマートフォンを握りしめて、「じゃあ、またね。先輩!」と大きく手を振ると、先輩は呆れたように小さく手を振り返してくれた。まさか返してもらえるなんて思っても見なくて、ちょっとだけ嬉しくなってしまった。
 予鈴が鳴り響く二年教室の廊下を、俺は足取り軽く駆け抜けた。


「月見、ぎりぎりアウトなー。せっかく春期講習参加してるんだから、ちゃんと来いよー」
 教室に滑り込むと、担当教員が出欠を取っていた。比較的若い体育会科の教員は、ノリが良く、どちらかと言えば友達のようだった。持ち前の爽やかなルックスと相まって、生徒からの人気が高い。しかし、最も舐められている教員でもあった。
 とにかくよかった、きっとこれは冗談で済むパターンだ。これまでの経験からそう予想して、軽いギャクを披露する。すると、教室からは笑いが起こり、担当教員も呆れながらお咎めなしに終わらせてくれた。適当にそれを躱しつつ、俺は教卓から死角になりそうな席に腰かける。真面目に勉強するクラスメイト達の中にまぎれて、カバンの中でチャットを送信しよう試みた。
『屋上で待ってるっす』
 スマートフォンをタップしながら、自然と上がる口角を反対の手で隠す。
 夕凪先輩を見たとき、胸に電流が走った。一瞬の衝撃にまぎれて、確かに感じたその感情。
 それは決して、恋ではない。
 愛とか恋よりも、もっと深くて重い別の何か。
 あの日、空に手を伸ばす夕凪先輩を見て、俺は不思議と胸が締め付けられた。だけど、やっぱり恋じゃない。言葉にするならば、純粋な善意。救ってあげたいと思った。何から救うべきなのか、そもそも救い求めているのかさえ分からないけれど。
それは、不思議な焦燥にも似た衝動。
 俺は夕凪先輩の姿に、昔の自分の姿を重ね合わせた。
『雲に手を伸ばすのは、夢を見ないための自戒』
 先輩は確かにそう言った。
 でも、俺は思う。
 雲に手を伸ばす人間は、それを掴むことができると信じている人間だ、と。

「おい、月見。なんでもいいけど、それは授業中にいじるなよ」
「痛って」
 持っていた数学の教科書で頭をはたかれる。やっぱりよかった、若くて優しい先生で。他の教員だったら、没収だったに違いない。
 俺は今度こそスマートフォンの電源を落として、勉強机に向かった。