「僕」はしがない独り者であった。
山奥のせせこましい穴蔵(あなぐら)を棲家として、日の出とともに山を歩き、日の入りとともに穴蔵に身を潜めた。
腹の虫が騒ごうものなら一日中食べ物を求め、多少腹が膨れたならまた穴蔵へと帰って息を潜めていた。

親元を離れたのは丁度一年ほど前のことだった。足もまだころころで右も左も分からぬまま、ある日突然兄弟共々離散した。これが独り立ちというものだと気付いたのは、山を彷徨い歩いた末に自分一人になって(ようや)くであった。幸い僕は、元々大家族を疎ましく思っていた頃であった。斯様な形で独り立ちが叶うとは予想だにせなんだが、これからは誰に気を揉むこともなく、己の気の向くままに生涯を謳歌できるのだ。最早どこにいるとも知れない両親へ、僕は謝意を述べたものである。

そんな親兄弟とは久しく会っていない。小心者で孤独を苦にせぬ性格が災いし、身内どころか僕を好いてくれるような女性すら、これまでひとりとして現れなかった。
ひょっとしてこのまま、何の変化もないまま年を取っていくのだろうか。女房もなく誰からも愛されることなく、胸の高鳴る甘い恋慕などとは無縁の生涯を、呆気なく終えていくのだろうか。それらが現実味を帯びてきて、僕は毎夜ひとり、穴蔵の中で涙を啜った。

ある(うらら)かな小春日和のことだった。
いつも食料を探しに訪れる、森の奥の開けた草原に足を運んだ日のこと。
そこは僕のお気に入りの場所であり、自分以外の者が現れるのをついぞ見たことがなかった。
しかしこの日ばかりは、馴染みの草原に先客の姿があった。
柔らかな菜の花の絨毯に、手足を投げ打って寝そべっている。優美な身体の曲線や、白い豊かな体毛が目を引く。
見慣れぬその姿に始めこそ警戒を示したが、僕はすぐに、それが女であることに気づいた。
女は伏せていた瞼をゆっくりと開く。その奥の茶色の瞳に見据えられたとたん、僕は身体の芯を稲妻が走ったような感覚に襲われた。
女は僕の姿を上から下まで眺めると、表情を綻ばせて見せた。その妖艶な笑みを見るとまた、僕の中心に異変が起こるのだ。

「あら、珍しいこと。黒い毛のかたは初めて見ますわ。」

女は体を起こして、僕のほうへ緩慢な動きで近づいてくる。動くたびに白い髪が揺れ、茶色の瞳が一層大きくなる。その神秘的な美しさに目を奪われる。

「あ、貴女のことも初めて見ます。長らく僕だけの場所でしたので…。」

(あたくし)流浪者ですから。一つ所(ひとつところ)に留まっていませんのよ。風の向くまま歩いていましたらね、こんな素敵な草原を見つけたものですから。」

「彼女」はそう言い、眠たげにひとつ大きな欠伸をして見せた。ピンク色の口腔に白く生え揃った歯を見つけて、僕はなぜか目を背ける。

「貴方はここいらに住んでらっしゃるの?」

「ええ。付近の小さな穴蔵に身を寄せています。」

彼女はふうんと鼻を鳴らし、僕のことを繁々と眺める。さっきから僕の心臓が鼓動を速めている。五月蝿いくらい。だが、不快さはさほど無い。

「あの、腹など空いてやしませんか?」

「いいえ、残念ですけれど丁度済ませたところですの。ここの草原は本当に気持ちの良い所ね。満腹で横になったらすっかり眠ってしまったわ。」

彼女の腹のあちこちに、黄色い花の花弁や葉のくずなどがくっ付いている。その迂闊さもまた愛らしく、僕はもうしばらく彼女と話したい気になった。