「……おなか、すいた……。」
わたしが覚えている最も辛い記憶は、色の無い薄暗い世界。
わたしは独りぼっちで、寒くてひもじくて、小さく丸くなることしか出来なくて。
黒い雪が降る中、眠くてたまらなくなった。
このまま眠ったら、何もかも楽になるのかしら。
そう願いながら目を閉じるわたしに、あの声は問いかけた。
「ーーーおまえ、行く宛てが無いのか?」
その時だ。白黒の世界に色彩があふれたのは。
明るい金髪に、青い瞳。この国ではごくありふれた容姿。
でもわたしには特別で、その真っ直ぐな眼差しから、目が離せなくなった。
「宛てが無いなら、私の城へ来てくれないか?」
「………おしろ……?」
「そう。私の城を守ってほしいんだ。」
あの人が、あの方が、わたしを人間らしい姿へ戻してくれた。
だから、あの日からわたしは、あの方が与えてくれたこの仕事に命を捧げようと誓ったの。
「人竜大戦」という、世界中を巻き込む大規模な戦争が、4年もの間続いた。
読んで字の如く、人間族と竜族の、種の存続をかけた殺し合いだ。
遥か昔から地上に君臨していた高潔な竜族は、力の劣る人間達がこの地に我が物顔で繁栄することを許さなかった。
小さく弱い人間達は、竜に虐げられることを恐れ、銃器や刀剣など、竜に対抗し得るあらゆる武器を開発。それを用いて、竜達の爪や牙や、竜を守る炎に立ち向かった。
4年もの間、人間も竜も急激に個体数を減らし続け、やがて竜族の一頭が「この大戦は不毛だ」と気付く。両種族を護るため、人と竜は和平を誓い、互いを二度と侵さないことを誓った。……表面的には。
2つの種族が共存する所に、必ず意見の衝突は起こる。
そのため、人と竜の直接交渉は固く禁じられ、その代わりとして、両種族の交渉を取り持つ「仲介者」が配されることとなった。
終戦から10年が経った今も、「仲介者」は密やかに、人と竜の間を取り成す重要な役割として在り続けている。
***
山岳地帯に位置する、人気の無い古びた城にて。
黒いロングドレスに、皺ひとつない純白のエプロン姿。明るい金髪をきちんと結い上げたメイド…ティエルナは、塔の最上に位置する部屋の前に立っている。
息を整え、重厚な扉に備え付けられている鉄製の叩き金を3回鳴らした。
中から返事は聞こえない。念のため再度ノックを試みるが、結果は同じだった。
「ーーー旦那様?
旦那様、失礼いたしますね。」
中にいるはずの主人に声をかけながら、重い扉を押し開ける。
室内を覗くと、思った通りの光景があった。
高い天井を有する、広い応接間だ。
この部屋は主人の「仕事」のためだけの特別な部屋。
前面の窓のカーテンは開け放たれ、爽やかな朝日が差し込む。床は数多の客人からの贈り物の箱で溢れ返っている。家具といえば、中央に設置された白い長テーブルと、対面になるよう配置された、2脚の白い椅子のみ。椅子はどちらも空席だ。
ティエルナの目当ての人物は床にいた。
街で流行っているという焼き菓子の箱が山と積まれたその陰に、その人物は丸く収まっていた。
「またそんな所で寝て……。」
ティエルナはなるべく音を立てないように近づき、荷物に埋もれてすやすや寝息を立てる少年の顔を覗き込んだ。
10歳ほどの、天使のように可愛いらしい顔立ちの少年だ。豊かな金髪をくしゃっとさせ、上等な仕立ての衣服に皺を刻んでしまっている。
これが、ティエルナが仕える主人である。
「……はぁぁ…。やっぱり可愛らしい…。」
使用人の立場を弁えず、思ったことを素直に口にしてしまう。
自分より一回り以上も幼い子どもの寝顔は、仕事に追われる日々の貴重なご褒美タイム。
起こさなければいけないことも忘れ、ティエルナはしばし魅入っていた。
彼の普段冷たい瞳も今は、長い睫毛に隠されている。小さな唇も、いつもなら子どもらしからぬちょっと生意気な発言をする。黙っていればこんなにも可愛らしいのに。
「……はぁ、癒されるなぁ…。起きてる時は変に緊張してしまうのよね。旦那様、おっかないのだもの。」
「聞こえているよ、ティー。」
声が聞こえると同時に、閉じられていた瞼がパチッと開かれ、主人の青い瞳と目が合ってしまった。
ティエルナ…ティーは驚きのあまり息を止める。さっきまでの独り言もすべて聞かれてしまっていたというわけだ。
「……イエ、あの、旦那様。よ、よくお休みになられたようで、何よりですわ!」
「“おっかない主人”の目覚めだ。もっと喜ぶといい。」
「うぅぅ…。」
小さな旦那様は無表情で、寝起きとは思えないくらい淡々と、澱みなく話した。
ひとつ伸びをしてから、その場に立ち上がる。背丈もやはり10歳の少年らしく、小柄で可愛らしい。ティーは自分との身長差にうっとりしてから、
「朝食の準備が整いましたが、お疲れですよね。軽いものになさいますか?」
主人の皺くちゃになった上着を脱がせながら訊ねた。
「…いや、貰う。昨晩は交渉が長引いて何も食べてないんだ。」
ティーが彼の顔を覗き込めば、可愛いらしい目元にうっすらと浮かんだ隈が確認出来た。
自分が介助をしていないため、当然入浴もまだだ。
「…旦那様。お仕事熱心なのは大変よろしいんですが、健康第一。ご自身のお体第一ですよ。何かあれば、わたしを呼んでくださればいいのに。」
「君は使用人だろう。主人の仕事に口を出さないでくれ。」
「………はい。」
そうピシャリと言われてしまっては返す言葉もない。
この小さな主人は、仕事の話をするのを何より嫌がるのだ。
ティーがメイドとしてこの古城に住み込みで働くようになったのは、先の大戦が終戦して間も無くだった。
人口の多い町や主要都市は、竜による破壊の爪痕が現在も残っているという。
対してこの古城は山岳地帯の国境付近に位置していて、険しい山々に囲まれて人間の住める環境ではない。そのため竜による被害も少なかったのだ。
終戦当時は職を失い路頭に迷う者が多かった中、まだ13歳ほどの少女だったティーが働き口を見つけられたのは、不幸中の幸いだった。
当時のティーを雇い入れたのは、あの幼い旦那様ではない。同じ金髪に青い瞳ではあったが、もっと穏やかな雰囲気を醸し出す、壮年の紳士だ。
それがつい2年前、近しい続柄であるという今の幼い旦那様が、この古城と、そしてティーの新しい所有者となったのだ。
ティーとしては、
「こんな小さな子一人に仕事とやらを任せて大丈夫なのか?」
「以前の旦那様はどこへ行ってしまったのか?」
「なぜわたし以外に使用人を雇わないのか?」
など疑問は尽きなかった。
しかし、自分はあくまで雇われの身。
今の主人とはきちんと意思疎通が取れて、衣食住も整っており(なお自分で整える必要あり)、賃金もきちんと支払われている。主人の身の回りの世話をし、古城を管理する以外に、自分がしゃしゃり出ることは許されないだろう。
だからせめて、今の雇い主であるこの可愛いらしい主人の健康はわたしが守らねば。そう心に誓うのだった。
***
ティーの用意した温かい朝食を済ませ、次に旦那様が向かったのは浴場。少し熱めの湯が張られたバスタブのそばで、ティーがにこやかに迎え入れた。
「さあさ、旦那様。今朝は薬湯にしてみました!お体の疲れが取れますよ!」
対する旦那様は、いかにも嫌そうに眉をひそめる。
「……いつも言ってるが、僕は湯浴みくらい一人で出来る。介助は要らない。」
そう反抗し、頑として衣服を脱ごうとしないのだ。
「いいえ!旦那様は万年寝不足ですから、どこで寝落ちするか分かりません!目を離したせいでバスタブで溺れたら大変でしょう!」
今朝は贈り物の山の中。これはまだ可愛い事例だ。
ある時は窓の縁。ある時は中庭の低木の中。またある時はベッドの天蓋の上。
頑なにベッドに入らず、代わりに思いもよらない場所で眠りに落ちる主人を見つけるたび、どれだけ寿命が縮むことか。
溺死だけは洒落にならないと、せめて湯浴み中は必ず介助するのがティーの信条だった。
「…そんなに僕が信用ならない?」
「旦那様を危険からお守りするのがわたしの仕事ですから!」
「…………。」
自信たっぷりに言い切ったティー。
こうなっては言いくるめるのも面倒に思え、旦那様はいつもの通り、諦めて自身のシャツのボタンに指をかけるのだった。
淡い緑色の湯に浸かれば、さっきまでのつれない態度はどこへやら。旦那様は目を閉じ、体に染み込むお湯の温かさを堪能する。
ティーは湯差しに入った温めの湯を、優しく主人の肩へ注ぐ。
「旦那様、いつもお仕事お疲れ様でございます。塔の応接間への入室を許してくださらないから、どんなお話し合いをされてるかは、わたしちっとも知りませんが…。」
こっそり聞き耳を立てようとも、あの重厚な扉は、中の音を少しも外に漏らさない。
旦那様も教えようとはしない。いつしか、ティーにはそれが自然なこととして受け入れられた。
「……何度も言ってるだろう、ティー。
仕事の話は……、」
「ええ、承知しておりますとも。わたしは旦那様の身の回りのお世話をするだけ。お仕事の内容は気になりますが、詮索はいたしません。」
ティーが小さく「ただ…」と続ける。
「…わたしが心配なのは、旦那様のお体に障らないか。それだけなんですよ、ほんとに。」
肩に注がれる湯の温かさを感じながら、旦那様は薬湯に顔を少し沈める。
「……ティー。玄関ロビーの床が泥の足跡だらけだった。掃除しておいて。」
「えっ!野生のキツネかアナグマかしら……あっ!!食料庫の鍵開けっぱなし!!」
ティーは食料庫の大惨事を想像し真っ青になる。そして、主人を一人残すことも構わずに、大慌てで浴場から飛び出してしまった。
「…………………。」
水面から顔を上げた旦那様は、ばつの悪そうな顔を真っ赤に染め上げて、ティーの走り去った方向をしばらくの間見つめていた。
ある風雨吹き荒ぶ嵐の夜のことだった。
古城を訪問する一人の客がいた。
「………あら?」
玄関扉の前に付けられた、装飾の施された2頭立ての箱型馬車を確認したティーは、掃除の手を止めて出迎えに向かった。
「ーーー嵐の中、よくお越しくださいました。主人に御用でございましょうか?」
馬車の窓にはカーテンが引かれている。その中から、客人の返事があった。
「北東領主のマスカラ・バルトールです。
交渉の件で参りました。“無情王”に目通り願えますか?」
貴族のようだが、落ち着いた丁寧な口調だ。
その客人の名を、ティーは予め主人から聞いていた。
「仕事の件で訪問がある」「北東領を治める領主だ」と。
「バルトール様、お待ちしておりました。」
ティーは旦那様の仕事の詳細を知らない。
時折身分の高い貴族達が訪問しては、何やら重要な「交渉」をする。
そして、皆一様にして旦那様のことをこう呼ぶのだ。「無情王」と。
その呼び名を聞くたびにティーは言いようのないモヤモヤを抱く。
ーーー旦那様はちっとも無情なんかではないのに…。そりゃあ、いつもツンツンしてらっしゃるけど。
馬車から降り立ったマスカラ・バルトールは、貴族の証である、金の刺繍のサーコートを身に纏っている。彼はどこか浮世離れした、温和な顔付きの青年であった。
この国ではありふれた金髪に、主人のものとは少し深みの違う青い瞳。その容姿を見た時ティーは、自身の中で印象深い「先代のご主人様」と、バルトールを重ねた。
「ーーーお嬢さん?どうしました?」
「……あっ、も、申し訳ありません!どうぞこちらへ。」
ティーは慌ててバルトールを先導し、いつも客人を案内する、塔の応接間へと向かう。
人気の無い、薄暗い古城の中を案内されながら、バルトールは当然の疑問を口にする。
「……時に、この城に他の使用人は?」
「わたくし一人ですわ。主の意向なので。」
「そう、ですか……。
それは大変ではありませんか?若い女性がお一人だけなんて。」
その優しい気遣いに、ティーは感激を抑えられなかった。
普段あの幼い主人は、彼女の身の心配なんてこれっぽっちもしてくれないのだ。「広い広い古城の管理」と「主人の世話」を、年頃の女性一人に任せる無茶ぶり。
使用人生活を10年も続けているティーにとっては慣れた日々だが、こうして改めて「一人の女性」として扱われるのはなんとも言えない感覚だ。
「…お、恐れ入ります。」
マスカラ・バルトールという男は不思議だ。
これまで目にしてきた貴族とは違う。横柄な態度を取らず、物腰柔らかで紳士的。
ーーー旦那様には黙ってるけど、わたしこういう紳士的な方もタイプなのよね…。レディファーストというか、身を呈して守ってくれそうな…。
「そういえば、まだ貴女のお名前を聞いていませんでしたね。」
自分の世界に浸かり始めていたティーは、バルトールの言葉にハッと意識を呼び戻す。
応接間へ向かう足を少しだけ遅めながら、会釈とともに名を名乗った。
「ティエルナ、と申します。この城にいらっしゃる間は、何なりとお申し付けくださいませ。」
「………。」
ティーは気づかなかったが、この時バルトールは小さな声で「ティエルナ…」と呟いていた。その響きをしっかり記憶するかのように。
応接間の前へ到着し、ティーはいつものように重い扉をノックしてから、厳かに扉を開いた。
「旦那様。北東領主のマスカラ・バルトール様がいらっしゃいました。」
室内は相変わらずの贈り物の山。
そして長テーブルの向こう…窓側の椅子に、幼い主人が座って待っていた。
「遠路遥々ご足労だった。バルトール殿。
そちらの椅子へ掛けなさい。」
旦那様は無表情で、淡々とした口調で命じる。10歳の子どもであることを疑うほど、その様子は堂々としていた。
穏やかなバルトールでさえ、顔に緊張の色が浮かぶ。
「……は、はい……。」
客人が椅子に座ったのを確認すると、旦那様は今度はティーに命じる。
「…ティー。部屋から出て行って。
何があっても中へ入るな。」
冷たい口調。だがいつものことだ。
ティーはひとつお辞儀をすると、速やかに部屋を出て扉をしっかりと閉めてしまった。
後に残された旦那様とバルトール。
緊張しながらも笑顔を浮かべようとするバルトールに対し、旦那様は冷たい表情を変えようとしない。
「北東領は、竜と人が和平を結んでここ10年、争いも無く暮らしているそうじゃないか。
僕を訪ねるということは、その和平関係に何か不満があるということか?」
平静を保っていたバルトールから、急に笑顔が消えた。
「…ええ。その通りです、無情王。」
バルトールは苦しげに目を伏せる。それはどうやら、自分の中に湧き立つ怒りを必死に抑えているよう。
「…10年ですよ。
これほどの長い間、我々がどれだけ肩身の狭い思いをしてきたかご存知無いでしょうね。
表向きには不戦を誓ってはいますが、“彼ら”が我々を憎む気持ちが消えることはない。心ない言葉を掛けられることもあります。…さらに彼らは、大戦時に私の多くの仲間を葬った武器を今も所持している。
和平を望んでいないのは彼らのほうです。我々は常に、“奴ら”の奇襲に怯えているのですよ。」
バルトールの言葉が、「彼ら」から「奴ら」に変わった。和平を望んでいないのはこの男も同じなようだ。
「無情王。貴方にお願いしたいのは、奴らを北東領から追放することです。
奴らの殺意が、我々に向けられない内に…。」
竜と人は、種をこれ以上減らさないために、表面的な和平関係を結んだ。
しかしそれは所詮建前。心の奥底では現在も相手の脅威に怯え、そして排除したいと考えるもの。
無情王は言う。
「僕の役目は、仲介者として竜と人の仲を取り成すこと。両種族の存続を守ることだ。
竜と人、どちらの立ち場にも情を傾けない。」
彼が無情王と呼ばれる所以だ。どちらかの種族に肩入れすることは出来ない。
「もし彼らを北東領から追放したら、彼らはどこへ行くんだ?
“君の仲間を大勢葬った武器”を持つ彼らが別の領地へ逃げ延び、同志を募って組織化したら?
数で優位に立った途端に、君達に対して争いを起こしかねない。」
「…それは……。」
「それに、彼らに武器を捨てろと言うなら、君もまた武器を捨てなくては駄目だ。まだ持っているだろう?」
無情王の青い瞳が、バルトールの深い色の瞳を見据える。
その視線から逃れるように、バルトールは目を逸らした。
これ以上は話の進展はない。そう判断し、無情王は椅子から降り立った。
「残念だが僕には何も出来ない。お引き取りを。」
「……………。」
バルトールも席を立つ。
もうその顔に笑みは微塵もない。行き場のない怒りが彼の中で湧き立ち、どす黒く渦巻いているのは目に見えた。
「……噂通りだ。変わってしまわれましたね、無情王。」
バルトールの低く唸るような呟きに、無情王は耳を澄ませる。
「……貴方の近年のお噂は予々耳にしていました。
大戦時は最前線で活躍され、敵の圧倒的な武力に屈することなく進撃なさった。それが今では…平和な世界のため、竜と人の存続のため、人の身に堕ちてしまったと。」
バルトールの肩に一瞬、赤い揺らめきが見えた気がした。
「…なぜですか?私は貴方に憧れていたのに。
貴方に似た人間の姿を模し、和平関係を甘んじて受け入れれば、貴方の考えを理解出来ると思ったのに…。
…真意はいつも、私と同じだと信じていたのに……。」
バルトールの顔がみるみる歪み、形を変貌させていく。その声までも、到底人間のものではなくなっていた。
【……貴方は所詮、奴ら“人間”の味方なのですね。】